2024/11/28
2024年10月26日(日)第380回グローバル・セッション・レポート
開催後のレポート開催日:2024年10月26日(日)10:30~12:00
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:玉野井麻利子さん(アメリカ大学名誉教授・京都市在住)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:11名
今回のタイトル:「縮小社会の歴史を辿る」
概要:「縮小社会」という言葉が生まれたのは1990年代。それから20年以上経った今も解決の糸口がありません。政府は、女性にはもっと多くの子供を産んでいただきたい、そのためにはお金を差し上げますから、といった単純な言説を繰り返すばかりです。今回は「縮小社会」を全く違った側面からアプローチしようと思います。その方法とは「縮小社会」を明治から歴史的に追ってみること。実はあまり自信がないのですが、頑張ってみます。よろしくお願いします。(玉野井麻利子さんより)
コーディネーター亀田さん:では、みなさんの自己紹介からお願いします。
自己紹介
S・Fさん:昨日は、選挙(事前投票所)の立ち会い人をしていました。11時間半の予定と聞いていたのでつらい仕事だろうなと思っていました。この間、1500人もの人が入室し、この方たちを見ていると、「どんな生活をされているのだろうか?」とか、いろいろ考えながら見ているとおもしろくなってきました。あっという間の1日でした。今日は、玉野井さんと楽しい時間をすごしたいと思っています。
K・Nさん:保津町に住んでいます。今日は児嶋さんのプレゼントがあるということで、来ました。(歌集のこと)
M・Aさん:ブラジル生まれで、大本本部の国際課にいます。9月から、10月にかけて、合気道をする人たちとドイツに行ってきました。楽しかったです。
Z・Yさん:中国国籍です。長く日本にいて、今は「外国にルーツを持つ子どもたちの教育に関わっています。玉野井さんのお話しが楽しみです。
H・Mさん:日本語教師です。ベトナムでも教えていました。今日は、玉野井先生のお話を進められ来ました。
M・Sさん:昨日までの亀岡祭で盛り上がっていましたね。友人が横浜から来てこんなにすてきな祭に来られてうれしいと大喜びでした。この亀岡祭も200年もの歴史があるようですね。今日は、祭のあとのしずけさを味わっています。祭は動く美術館とも言われています。
S・Fさん:羽衣山のちょうちんを画きました。子どもたちを相手に祭も楽しいですね。
M・Fさん:私は、このGlobal Sessionの始め頃から参加していますが、ここでは、いろいろな話が聞けるし、楽しみです。仕事は今も子どもたちに映画作りを教えています。
S・O君:立命館大学国際学部の3年です。玉野井先生とのGlobal Sessionは、2回目で楽しみです。
児嶋:このGlobal Sessionは、いつも言いますが、1999年に亀岡市国際交流会館で始め、今に至っています。今回は、380回目になります。セッションですので、みなさんのお話しも聞きたいと思いますのでよろしくお願いします。
亀田さん:コーディネーターの亀田です。玉野井先生の、お知らせ版に掲載されている『満州 交錯する歴史』も読みました。我々は、この時代のことを学校では習っていないので、知らないことが多いです。私は、ツアーガイドですが、2週間前に、たまたま電話が通じて、2004年にシルクロード(ウイグル)へ行ったときのガイドさんとです。清水寺の駐車場で20年ぶりに会えました。漢民族は優遇されていますが、漢民族以外の人たちが中国から来るのは難しいという情報を聞いていたので、驚きました。裕福なウイグル人は来れましたが、普通の人にはパスポートも発行されないそうです。
今は、オーバーツーリズムで、10月は少なかったそうですが、中国人は以前は、バスを20台から60台くらい連ねて来て、駐車場も予約が必要なのだそうです。でも、ウイグル人やチベット人にはパスポートの発行も難しいようです。
グローバル・セッション開始
玉野井さん:まず縮小社会を考えるにあたって、1940年からの日本の人口の推移を見てみましょう。
1940年日本の出生数は約212万、1947年ごろになると約270万に増えます。ところが1970年代後半になると約200万人、そして2024年はたったの約72万です。
岸田元総理のいう異次元の少子化対策とは:子供を産んだ(あるいは不妊治療をしている)既婚女性の家庭にお金を支給する、という対策です。
支給額:3歳未満のこども 月1万5千円、 3−18歳 月1万 第3子以降 月3万円 (大人と認めた18歳以上は死刑の対象にもなり得ることに注視してください)。
これを2025年から開始するというのですが、 その基金は国から払うのではなく国民が、子供がいるいないに関わらず払う仕組みになっています。
被傭者保険 月額800円 国保加入者 月額 400円(75歳以上は350円)
ですからこれからどうなるのか、まだ未定の対策なのです。
「縮小社会」の歴史
「縮小社会」と言う言葉が誕生したのは1989年だと言われています。 出生率が急に150万ほど下がりピラミッド型の人口構成となりました。2022年にもなると、イーロン・マスクが次のようにtwitter でつぶやいています。「(日本は)街にも村にも家の中にも誰もいない、いずれ消滅する社会」だと。ただ私のような歴史家にとっては「縮小社会」という現状が今まで書かれた歴史にはあまり現れなかった子供と女の生活や考えを明るみに出したとも言えると思います。
縮小あるいは縮少の意味とは:小さい(大きい)、少ない(多い)
何が小さいのか、何が大きいのか、何が多いのか、何が少ないのか:小と少の違いははっきりしないのです。 この問題は明治期にもありました。
石井研堂(1865―1943)という方がいます。彼は『十日間世界一周』『明治事物起源』の著者です。日本で初めての月刊児童総合雑誌『小国民』を発行し、この雑誌は売り切れになるほど驚異的は発行部数がありました。内容に含まれているのは:地理学、博物学、理化学の紹介、西洋の子供達の遊戯や切手集めなどの趣味の紹介、世界中の政治家や学者の伝記、自転車のすすめ、などです。
つまり「小国民」とは日本という国に住んでいる小さい子供のことです。
ところが1894年に石井に起こったある出来事により石井は『小国民』を廃刊せざるを得なくなりました。この年、石田は絵入りの手旗信号を小国民に掲載します。ところが日清戦争がすでに始まっていたので、海軍の機密情報を漏洩したとして訴えられます。幸い訴訟の最中に戦争が終結したので石田は不起訴となりますが、この事件は雑誌の存続を根底から揺るがし、そのため石田は小国民を廃刊します。
それから約30年以上たった1931年(日中戦争の始まり)
日中戦争が始まると子供に向けた雑誌は全て小国民ではなく少国民という言葉を使うようになります。雑誌の名前は全て:少国民の友、週刊少国民、少国民文化、少国民雑誌、科学少国民、少国民文化。。。その理由は徳富蘇峰(1863―1957)が1937年の全日本保育大会において行った演説を読むとわかります。
「1000の人を殺すのは1500人の人を助けるためで、小の虫を殺して、大の虫を助けると言うことが我が世々(生まれては死に、死んでは生まれ、生死を繰り返すこと)やまざるところの国家の原則である。今その原則を実行しておるものであるからして。仕事の上ではこちらは産む方、向こうは殺すようでありますけれども、終局の目的においては皆さんが子をお産みになるのも、将兵が敵を殺すのもみな同じわけあひであります。この終局が同一であると言うことがおわかりならないような人間では、とても今日の私のお話はわからないに決まっております。
戦争中になると、こちらは母親、あちらは将兵(子供の将来)、つまり子供が戦争に勝つための人的資源になってしまったのです。確かに国は戦争中に子供を保護すると言いました。しかしそれは全くの名目にすぎません。子供を保護するという集団による、あるいは縁故による租界はようやく1940年になって始められました。しかし東京や大阪、さらにはあらゆる都市で始まった空爆は多くの人々を殺し、そのため疎開していた子供達は皆「戦争孤児」になってしまったのです。そして戦争が終わってからも戦争孤児は誰にも保護されることがなかったのです。
敗戦:人口減への努力
戦争が終わると、政府は全く正反対の対策を取ります。つまりいかに女に子供を生ませないか、という対策です。例えば、日本も先進国へなるために2、3人の子供がいる家族が好ましい、などと言うわけです。。そして、そのためにはバースコントロール(中絶を含む)が必要だ、とも言うのです。さらに1948年に始まった優生保護法は障疾患を有するものを不良と扱い、その子孫が生じることのないように強制的不妊手術を勧めました。最高裁が優生保護法の違憲を認定し、国に対し賠償を命じる判決をしたのはなんと2024年です。
最後に一つのエピソードを
内村鑑三(1861―1930)は無教会主義 非戦論者のクリスチャンです。また『デンマルク国の話』という本の著者でもあります。その内容とは:
1864年、戦争に負けたデンマークは領土の一部をドイツ、オーストリアに割譲。国は小さくなり、民は少なくなり、土地は荒れた。この時期にフランスでは迫害されたユグノー教徒がデンマークに移住し、木を植え、木材を収穫し、荒地に水を引いて農地に変え、穀類と野菜を作り、植林により水害を阻止。小さくても住みよい国にしました。
戦後すぐ、日本政府は内村の本を子供用に書き換え、『デンマークはいいなあ』などの題で国定教科書として小学校で使われるようになりました。小国であろうと平和で貧富の差のない日本を作ろう、ということでしょう。ところが日本は高度経済成長の道をまっしぐらに走り出します。大きくても、人口が多くても、人が豊かな生活を楽しむことができなければ豊かな国ではないのです。そしてそれはお金だけでは成り立つことではないのです。
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亀田さん:セッションを始めましょう。
児嶋:私は、今もなぜ、満州に人を出したのかが、不思議と思っています。開拓と言っても、中国人のいた土地を搾取し、中国人はその村を離れなければならなかったかったと聞いていますし。
玉野井さん:「満人」という呼び方がありましたね。戦争後、帰国できた人にしたインタビューを見ると、戦争後、放り出され、何人も死に、2年も3年もかかって帰国したとか、「いいところだよ」という宣伝をした政府でしたが。
M・Fさん:当時、日本経済が良くなってきて、朝鮮半島から、満州へと動くよう呼びかけたのでしょうね。
玉野井さん:そんなに大きな土地を耕せるよという宣伝でしたね。
S・Fさん:日本の貧しい村々に住んでいる人たちには、満州にでも出て狭い日本は住みあきたという考え方が気運を盛り上げたと言われています。徳富蘇峰の文を見ると、この時代の社会を最低の物としてか見ていない気がします。
M・Fさん:内村鑑三さんはどうですか?1930年ころですが。
S・Fさん:激しい時代につかまっていく感じですね。
M・Fさん:昭和に時代に、「明治に続け」という考えだったのでしょうね。中国では、清国は、もう古代と考え、今は戦後という考えですね。日本では、現代の戦前、戦後の時代は社会科教育の中で省かれたといえますね。
S・O君:1970年代は日本の人口が減少していたようですが、1989年代にはピークになったようですね。では、なぜ、このタイミングで、人口が変化しだしたのかと考えると、この年、昭和天皇が崩御したことが理由のひとつかと思います。「産めよ、増やせよ」に変化が出てきました。明治政府は、天皇中心の世を造ろうとしていたのが、「小国民」から、「少国民」へと流れが変わったように。
玉野井さん:私は、日本にいなかったこともあります。
S・O君:僕は、2003年生まれで、平成天皇のイメージは、被災地に行ったりして声をかけている感じです。昭和天皇のイメージはあまりないです。
1960年生まれの大学の先生から聞いたのですが、1989年に昭和天皇が倒れて初めて、天皇の身体情報が、テレビで報道されたそうです。天皇と国にとの関わり方が変化を見せた時期かと思います。同時に子どもが少なくなって行き始め、つばがりを持つのが難しくなっていったのではないでしょうか?
M・Fさん:核家庭ということばも出て来ました。その時期から、家族は祖父母や父母がいて、長男が家を継ぐ考え方が変わり、それぞれの家庭でもっと収入が必要になり、共働きが普通になり、家庭で子どもを育てあげるという意識が薄くなってきたのではないでしょうか?
M・Sさん:昭和天皇が亡くなった時の報道をよく覚えています。魂を安らかにという雰囲気ではなかったでしょうか?以前、私は教師をしていましたが、亀岡小学校から子どもたちが別れて、城西小学校ができました。宅地増成が相次ぎ、転入生も常に紹介され、ひとクラスが48人もいた時期もあります。その後、つつじケ丘小学校は、合計1000人を越えました。人に酔うくらいでした。1989年ころから子どもは減り、1000人規模の学校は、無くなりました。私は、その後、シンガポール日本人学校に赴任し、3年間いましたが、当時、そこも1000人規模でした。そのころは、もう日本にはそのような大規模学校はなかったですが。その後、シンガポールもバブルがはじけて、勢いが衰えてきましたが。
亀田さん:バブルがはじける前とは大きくかわりましたね。企業がリストラを始め、核家族や農業も下火になり、土地価格は上昇し、企業はリストラしてなんとか生き残ろうと。就職氷河期でもありました。今の中国は、同じように、バブルが落ち、大学を出た学生の就職もでいる状況ではないようです。
玉野井さん:昨日の評価を見ると、大学が多すぎる?(都会の大学だけが残る)ではその方法とは?子どもだけでなく、大人も入れるように変えるという方法も検討されていますね。小さい団体でもいいので、うまく機能する方法を考える必要があるのでしょうね。
児嶋: ひまわりの先生にも、大学院生や若い方も興味をもってもらえるように変わってきましたね。
玉野井さん:天皇と戦争をくっつける発想が大きかったですね。『白馬に乗る天皇』とか。
児嶋:天皇制を、第2次大戦後、アメリカは日本の人々の反感をそらすために、残そうとしたと聞いています。天皇をつぶしたら、日本人の反発があると。
S・O君:戦争と天皇制は高校時代までは、関係ないと思っていましたが、大学生になって、天皇の背景には、歴史があると認識するようになりました。
玉野井さん:「天皇はどんな人ですか?」とアメリカ人に聞かれて困ったことがあります。天皇がディズニーランドに行ったとか、ミッキーマウスの横で手をあげている写真とかを見て。
M・Sさん:日本の戦後の教育の中でも教えられてこなかったし、自分でも教えていなかったとか。沖縄についても、新婚旅行のメッカとなってひめゆりの塔の前で写真を撮ったり。ここは、悲しみのひとつの場所なのに。学校でも教材化してこなかったことを繰り返していると思います。シンガポールでも日本との戦跡に「反日本」の石碑があるところで、新婚旅行写真を撮ったり。日本人がいかに戦争について知らないか。教えられていないのか。と思います。
児嶋:沖縄は今もそうですね。
M・Fさん:天皇制については、江戸時代とはちがって明治時代になって急速に政治に巻き込まれてきたのでしょうが、教えるコンセンサスなどとれないままに今があるのpでしょうか?中国は、それに対してコンセンサスは取っているようですね。
亀田さん:今日は、玉野井さんが、以後、しなければならないことがあり、この12:00の時間で延長せずに終わることとします。
児嶋:感想があれば。児嶋までメールでおおくりください。ありがとうございました。