グローバルセッションについて

毎回、外国出身者や外国語指導助手や、国内外の研究者をゲストスピーカーに招き、各国事情にまつわる話題を英語や日本語でセッションしています。
「教える・教えられる」関係ではなく、参加者が共に学び合い、「自分の意見を他人に伝える力」「他人の話に耳を傾ける力」を伸ばし合うことを目的としています。
英会話のレベルに関係なく、幅広い年齢層の方が参加されています。

グローバルセッション開催要項

  • 毎月1回 主にガレリアかめおかで開催 詳しい日程は、おしらせページで確認ください。
  • ガレリアかめおか:〒621-0806 京都府亀岡市余部町宝久保1
  • 地図:(外部サイトへ)
  • 参加費:600円
  • 対象:どなたでもご参加頂けます。

参加についてのお問合せ

お問合せページよりご連絡ください。折り返し返事を差し上げます。開催日程を確認し、直接会場にお越しになっても大丈夫です。

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グローバルセッション・ダイアリー

    グローバルセッションイメージ

    開催日:2023年4月23日(日)10:30~12:30
    場所:ガレリア3階 第2会議室
    ゲストスピーカー:王森平さん(中国出身・キャリアカウンセラー・亀岡市在住)
    コーディネーター:亀田博さん
    参加者:11名

     今回のタイトル:「ムボウパンダ少年、来日12年目の暮らし」

    自己紹介

    亀田さん(コーディネーター:C):では、今から始めます。王森平さんは、中国の四川省の出身なので、観光地についてもお話ししてもらうことができますね。パンダたちも少し前に中国に帰ったところですが。まだ少しはいますね。

    自己紹介から始めます。

    K・Yさん:ひまわり教室で毎回読み聞かせをしています。読み聞かせ時間は最後なので、いつもちょっと遅れて行くのですが、最近は若い青年の先生がおられてびっくりしました。それが、王森平さんでした。

    M・Yさん:ひまわり教室で子どもに教えています。以前は、中学校の教師をしていました。(GS初回参加)

    F・Yさん:中国出身で専門学校の1年生です。遼寧省から来ました。日本語学校の後、専門学校へ入りました。(福祉関係)

    Z・Yさん:1年半ほど前からひまわり教室で指導しています。今年は、千代川小学校と大成中学校で母語(中国語)で支援をしています。Global Sessionもよく参加しています。

    E・Tさん:GSの参加は9年目になります。王さんも学園大学の出身ですね。同窓会もやっていましたが、先月仕事がいそがしくてやめました。

    A・Oさん:息子と親子でこのGlobal Sessionに参加しています。今も、世の中のことをもっと知りたいと思い参加し、交流もしたいと思っています。今日も楽しみです。

    Y・Nさん:ひまわり教室で教えています。保育園や幼稚園の教師をし、小学校も長く教師をして今は優雅に暮らしています。ひまわりでは、生で子どもたちの話しを聞くのが楽しみです。

    M・Fさん:このGSは、多分私は一番古くから来ていると思います。これからも続けていきたいと考えています。

    児嶋:1999年から亀岡市交流活動センターでGlobal Sessionを開始しました。最初は、英語の講座の一つとして、毎週開催していたこともありますが、この頃は日本語での開催が多いですね。今回は、362回目になります。2011年に私が退職後は、GSは、オフィス・コン・ジュントの主宰となっています。

    亀田さん:大津市から参加しています。ゲストはいろいろな国から来ておられる方が多いですね。私も長くGSのために亀岡市通っています。その時々の話題が持たれ、政治的課題も含めて開催されていますね。私は、ツアーガイドですが、コロナで3年間ほどは、中国に行けなかったです。今も、チベットなどは難しいですが。四川省の成都は、パンダだけではなくて、自然がすばらしいところです。中国の古い文化がある地域でもあります。楽しめる所ですね。

    グローバル・セッション開始

    王さん:四川省は、日本の気候と似ていて、母に電話すると、今雨が降り出したと聞くとこの辺も降  り出すとか。

    自己紹介から、始めますが一人で語ることは得意ではないのですが。名前は王森平(ワンセンピン)と言います。四人家族でした。(父母妹と私) 32才です。現在は妻と犬2匹と亀岡の曽我部町に住んでいます。犬の「名前は、ハチとシモです。中国は、土地の広さは日本の25倍あり、人口は14倍です。小数民族も多く56部族あります。その中の漢民族が一番多いです。中国は北方と南方でかなりちがいがあります。衣裳や食事や習慣でもあります。
    北方:小麦が多く穫れ、餃子がおいしい。建物の色は赤が多い。身長が高い。美人も多い。
    南方:米が多く、わんたんや団子がおいしい。建物色は白や青が多い。身長は低い。

    M・Yさん:なぜ、このようにちがいがあるのですか?

    王さん:北は小麦が穫れるので、肉(牛や馬)が合います。そのため、身長が高いのかもしれません。南は米が多く、魚が合います。気候は、北は寒い時は-20度から-30度になり、寒い時用の服が必要です。南は薄い服だけでもいいです。平均20度です。合計すると、50度ものちがいがありますね。買い物の習慣も、南は、暑いから少しずつ買い、北は一度に大量で買います。性格も、南は繊細で、北は豪快です。

    四川省の紹介に移ります。

    中国の四川省と成都の地図

    成都への関空から直行便があり、4時間です。成都の雰囲気は、大阪と京都を合せたような都市です。ユニクロやイトーヨーカ堂などもあります。食べ物は、盆地なので、湿気が多く、辛いものが人気があります。山椒や唐辛子、豆板醤などもたくさんの種類があります。

    M・Yさん:豆板醤のあとに、ウスターソースを入れて食べますよ。

    王さん:二食鍋(おしどりなべ)も有名です。

    世界遺産もたくさんあります。

    九寨溝

    峨眉山

    峨眉山の頂上

    楽山大仏

    都江堰

    道教儒教も生まれています。

    私の小学校時代は、1クラスに50人から60人いました。朝8:00から始まり途中に昼寝の時間がありますが、これも強制です。終わるのは午後6:30です。先生は大変だったと思います。

    M・Fさん:学校の評価はどのような形式だったのですか?

    王さん: 点数制で順位が付きます。私は、10番までにはいらないと親におこられました。

    E・Tさん:部活はありましたか?

    王さん:ないです。体育の授業も週に一回で楽しみでした。今は変化していて、バスケットやバレーボールもあるようです。今は、土日には、親が子どもに「何をしたい?」などと聞くようですが。昔は土曜日も学校でした。高校時代は、大学に行くために高校で勉強するのが当たり前で、朝6:00に起床し、7:30から夜の9:00まで週5日の授業がありました。土曜日も友達と勉強をしに学校へ行き、日曜日は、数学の塾へ行き、午後だけ自分の時間がありました。

    E・Tさん:モチベーションはどうやって持ち続けたのですか?

    王さん:点数で評価されるので、もう競争でした。

    M・Fさん:学校で順位なども公表されるのですか?

    王さん:もちろんです。

    E・Tさん:うそやごまかしが効きませんね。

    児嶋:大学の数が、学生の数に比べて少ないので競争が激しいと聞きましたが。

    王さん:大学もA.B.C.Dとランク付けされ成績の良い順に受けられます。母親は子どものめんどうを見る事が仕事で、やることは勉強をさせることと自覚していました。

    亀田さん:賄賂などはありますか?

    王さん:あるようです。お金を使って良い高校に行き、大学も上のランクの大学に行けば、仕事も良いのが手に入ると言われています。

    M・Fさん:徴兵制はないのですか?

    王さん:ありません。成績が悪いと軍隊へ行かされると言われていました。ヤクザもその中にいるとか。不登校の仲間は学校が退学とか。中国では昔は、子どものためには何でもするという考えがあり、人脈を使って何とかするというような。軍隊もその中に入っていると思います。日本に来て、学校は3:30に終わると知り、部活もありますが、希望の一番多いのは、帰宅部というアンケート結果があり驚きました。

    大学受験も大変で、学校に長く残り、教科書や問題集の山の中で眠っている写真があります。寮生活が多いのですが、学校の近くのアパートを借り、母親とふたりでそこに暮らし、親がしっかり面倒を見るというケースもたくさんありました。

    亀田さん:塾はありましたか?

    王さん:あります。学校の先生も塾の先生もして良いので、両方やっている先生もいました。

    E・Tさん:アルバイトなどは?

    王さん:勉強だけでした。わからない事は歴史なら、年上の人に聞くなどのつながりはありましたが。

    E・Tさん:中国にいたときにバイトはしたことがありますか?

    王さん:ありません。日本に来て日本語学校に入り、バイトでもしようかと始めました。大学入試は大変な事で、終わった時のうれしさは、「五月の吹雪」と言われているくらい、合格してうれしさで持っていた用紙をちぎり、上からみんながぱらぱら撒くので紙吹雪になるのです。

    M・Fさん:恋愛は?

    王さん:当時は本が彼女でした。

    M・Fさん:なぜ日本へ来ようと思ったのですか?

    王さん:大学に入ったら、自由な時間がうれしくて、遊んでばかりいました。大学2年になり、単位は取ったけれども、このまま行ったら、仕事もないかもしれないと思い、海外へ行ってみたいと思いました。大学を途中で休学し、日本へ短期の留学で来ました。来て見るとこれはいいと思い、中国の大学を休学し、日本の大学に正式に入学しました。

    日本の大学在学中は、京都市国際交流会館(kokoka)での交流会や、大学課外イベントなどに積極的に参加しました。でも解放されて楽しみもありました。日本での中国人同窓会も作り、タイからの留学生と交流会をしたりしていました。英国にも短期留学をしたり、タイにも企業留学したりしながら、京都府名誉友好大使に任命(2015年)され、いろいろな交流イベントに要望されて参加しました。

    例えば育親中学校や、同志社高校、宇治田原小学校などに行きました。また、京都クッキングワールドカップでは、京野菜を使って自国の料理を作るとかにも参加しました。

    国際交流イベントでは、中国茶体験もしました。亀岡市は中国の蘇州市との姉妹都市なので、手伝いもしました。地元にも何か手伝いをしたいとほづ藍で藍染め体験やファッションショーなどにも参加し、消防団にも入りました。

    ここで生活していくためにはみんなで助け合っていきたいと思います。

    M・Fさん:中国ではそのような消防団みたいな集まりはないのですか?

    王さん:田舎ではみんなに助けられました。こちらの消防団も朝の6:00から活動が始まり、寒い冬も大変です。

    M・Fさん:消防団には1年に1度はコンペティションがあるでしょう?

    王さん:それは出ていません。でも大切なことと思っていますし、かっこいいですね。

    今は、地域再開発プログラムで、古民家再生の会や登り窯の仲間もいます。現在32才ですが、37才くらいになったらどうしているかとか、老後はどうなるかなど考えています。この地域のプログラムとして移住促進プロジェクトや空き家対策学習会などにも参加して考えています。

    ひまわり教室でも「外国につながる子どもたちの学習」が大切と思い参加しています。

    Y・Nさん:いろいろな活動をされていますが、一番は何ですか?

    王さん:プリントにも書いておきましたが、①観光 ②空き家対策や移住課題 ③農業などが大切でIT系や亀岡に来てもらうプロジェクトもやっていきたいと思います。

    M・Fさん:お聞きしていろいろ質問が浮んできたのですが、

    • 台湾は56民族の中に入っているのか
    • 中国では水不足問題はないのか
    • 農業では日本は、化学肥料をたくさん使っていて、すでに土に沁みこんでいます。自分の国の農作物はどう思うか。
    • 中国人の方がたくさん日本のマンションを買い始めているが、日本の土地を買うのは政策なのか?中国では、その土地の使用期間が90年と限定されていると聞いています。日本はそれはないので、日本での購入の方を選ぶのか。値段もその地域の値段の1.5倍で買うというとか。日本将来台湾のように取られるのだろうかと心配になります。

    王さん:投資家は、日本だけでなく、東南アジアでも買っているが、日本がいいので買うのでしょう。

    M・Fさん:平民は両国で仲良くしたいのに、政治家はぶつかりそうになっています。でも、その争いで被害を被るのは平民ですね。

    王さん:政治については、話しても何も変わらないという印象があります。個人から組織になり、国へと意見は行くべきですが。中国で聞いたニュースは実際とちがうこともあります。人と人同士のつながりを大切にしていきたいと私は、考えています。 

    M・Fさん:日本と中国は政治的にがちゃがちゃしても、人と人とのつながりは大切にしていきましょうね。

    王さん:家庭の状況も昔と今はかなりちがっています。昔は大家族で、父親の発言が一番でしたが、今はかなり変わって来ていますね。

    児嶋:王さんはいろいろやって地域にも貢献していますが、ご自身の生活は大丈夫ですか? 

    王さん:自分に合う生活ができればと思っていますが。キャリアカウンセラーとしては、外国人で日本に住んでいる人のいろいろなサポートをしています。日本の人口減少は当然で外国人と共に生活しなければ人出不足でやっていけませんね。実習生を3年でなく、5年にするとか、移住が安心してできるようにするとか変化が必要ですが、かれらにもサポートが必要です。

    児嶋:日本語能力試験で王さんは、L1を取りましたね。1級ですね。サムさんと二人とも。

    王さん:証明書にはなりますが、能力をそのままというわけでもないですが。私は、企業の就職関係者と話し合ったり、日本の経済を良くするためにと考えています。

    M・Fさん:昔は就職のインタビューで、まず、親の職業を聞き、兄姉の職業を聞き、住所を聞くようなことをしましたが、今は禁止です。あなたはこの会社で何をしたいのかと聞くそうです。AIも使うでしょうが、本人が書いた物か知る必要もありますが。

    王さん:採用は変化してきて、中途採用が増えて来ていますし、終身雇用も減って来ていますね。即戦力が求められているというような。

    Y・Nさん:ひまわり教室などで保護者と話す機会が多いのですが、王さんのような方と就職について聞くこともいいのでしょうか?

    王さん:月に一回のオンラインでの場をつくろうかと考えています。

    児嶋:王さんはひまわりでも教えてもらっていますね。ひまわり教室の日に聞くこともできますね。

    王さん:ひとりで悩まずに聞く方がいいですね。

    児嶋:亀岡市は多文化共生センターができて、とても相談が増えています。

    M・Fさん:奥様は日本人ですか?

    王さん:中国人です。京都外大を卒業し、外大で仕事をしています。中国語とビジネス日本語を教えています。

    亀田さん:中国の有名な詩人である杜甫の詩を紹介したいと持って来ました。

    杜甫   「春望」   

    国破山河在   城春草木深  感時花濺涙 恨別鳥驚心  烽火連三月   家書抵萬金 

    白頭掻更短   渾欲不勝簪

    国破れて山河在り     城春にして草木深し  ときに感じては花にも涙を灌ぎ 

    別れを恨んでは鳥にも心を驚かす    烽火三月に連らなり  家書 万金に抵る 

    白頭掻けば更に短く  渾べて簪に勝えざらんと欲す

    国都(の長安は)は破壊されてしまったが、山や川は「昔とほ変わることなく)存在している。(荒れはてたこの)町にも(いつもと同じように)春がやってきて、草や木は深くおい茂なっている。          

    由来 

    中国の詩人 、杜甫の詩「春望」の冒頭。

    755年、安祿山という武将の反乱によって、唐王朝の泰平の夢は破られました 。反乱軍は、翌年には都を攻め落とし、皇帝までもが逃げ出してしまいます。そんな757年のある春の日、反乱軍の制圧下にあった都にいた杜甫が作ったのが、この作品。

    争いを繰り返しては死んでいく人間たちと、悠久の大自然。

    その対比コンパクトに表現したこの一句は、昔から日本人にも愛されてきた杜甫の中でも、松尾芭蕉が「おくのほそ道ー平泉」で引用しているのは、有名です。                       

    松尾芭蕉    「奥の細道」 平泉           

    国破れて山河あり、城春にして草青みたり 夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡        

    Countries  may  fall,  but their rivers and mountains remain, when spring comes to the ruined castle, the grass is green again.                                                                        

    The summer grasses – Of brave solders’dreams  The aftermath                     

     (翻訳:亀田博)

    グローバルセッションイメージ

    開催日:2023年3月26日(日)10:30~12:30
    場所:ガレリア3階 会議室
    ゲストスピーカー:大野友アンドレイアさん(ブラジル出身・箕面市国際交流協会職員)
    コーディネーター:亀田博さん
    参加者:14名

     今回のタイトル:「二つの文化を行き来しながら生きる・・正解はだれのものか」

    自己紹介

    亀田さん(コーディネーター):仕事はツアーコンダクターですが、今は外国に行かれる人も増えていますが、これからですね。今日は箕面市におられる大野友アンドレイアさんをおまねきしています。今日は、1999年から始まったGlobal Sessionの361回目です。自己紹介をお願いします。

    R・Sさん:ひまわり教室で指導しています。アンドレイアさんのお話しは3度目になります。だんだん深化して行くので今日も楽しみに来ました。

    M・Sさん:2002年からGSに参加しています。10年以上になりますね。(10年ではなく、20年ですよ。:声在り) 学びに来ています。アンドレイアさんのお話しも3回目になると思います。

    Iさん(市役所職員):4月9日に中東和平プロジェクトがありますので、みなさまもどうぞ。

    S・Mさん:京都市で外国人支援のプログラムを実践しています。いろいろな相談があり、借金から出廷などの内容もあります。いろいろな場所で支援していますが、GS参加はこれで2回目です。いっしょに来ているAさん(リア)は、ポルトガル語を話したくて。このGSに来られています。

    S・Yさん:多文化共生センターで相談員の仕事をしています。夫がカナダ人で、日本語教室に来ています。7年間カナダに住んでいましたが、向こうもコロナ禍で、日本に帰国することにしました。GSは、3回目か4回目の参加です。昔、子どものころ、箕面市に住んでいました。

    E・Tさん:GSは2014年ころから来ていて9年目になります。今は島津製作所で真空ポンプ作りなどをしています。アンドレイアさんのお話しははじめてです。

    Z・Yさん:中国出身で、1年半前にひまわり教室を紹介されて、今は指導もしています。アンドレイアさんのお話しは2回目です。

    Z・Qさん:京都市に2年間いて学習し、今は会社で仕事をしています。

    Oさん:GSは、2回目です。いろんな方と交流して勉強ができるなあと思っています。

    Y・Nさん:在日スリランカ人で、大野友アンドレイアさんといっしょに仕事をしています。

    児嶋:GSは以前仕事をしていた亀岡市交流活動センター(宮前町)で1999年にはじめました。その後、2011年に私が退職後、オフィス・コン・ジュントの主宰として継続しているので、もう20年以上になりますね。今回は亀田さんが言われたように361回目です。

    グローバルセッション開始

    亀田さん:(ポルトガル語で)「ボンジーア。トードベン?Como esta?」 大津に住んでいます。滋賀県の湖西や湖南にはブラジル人が多く住んでおられます。ペルー人もおられますが。「ムイト プラゼール(はじめまして)」地域は仕事をしている工場も多く、もうブラジルからの3世や4世の方もおられます。なぜ、ブラジルに帰国しないのかと聞くと、「親の世代はポルトガル語だけで話し、自分は、日本語だけでした。それで、今自分が帰国してもポルトガル語が話せないので、帰りません。それと、ブラジルは治安が悪いので、日本の方が生活は大変だけれど安全です。以前はブラジルから移住する人がたくさんいましたが、今は来る人が減っています。」と聞きました。

    児嶋: 亀田さんはポルトガル語で話をされるとは思いませんでした。すごい。

     私も、1985年から夫の赴任でブラジルのミナス・ジェライス州のベロオリゾンテというブラジル第3の都市に3年間住んでいました。子ども達や夫は学校や仕事で忙しかったので、私はひとりでポルトガル語の学習に励みました。1年半くらいで、普通に話せるようになりましたが。

    アンドレイアさん:ポルトガル語で話してもいいですか?

     資料で「わたしのルーツ」をお配りしました。私は、ブラジルからきましたが、ひとりの人間です。という意味です。ブラジル代表ではありません。参考程度に聞いていただければと思います。

     日本から、たくさんの人がブラジルに渡りました。この人たちを1世とすると、現在は、その人達の子どもや孫が、日本に来ていて、日本で生まれた2世や3世もいます。この人達の呼び方は、ブラジル系1世というのでしょうか?それとも、日系3世?

     「日系ブラジル人」と聞くとみなさんは、どんなイメージを持ちますか?私は、「日系ブラジル人」という言葉が自分を表すとは思いません。ブラジルにいると、大勢の人とは顔はちがいます。小さな町だったので、アジア系というのは、日本と台湾から来た2家族だけでした。サンパウロなどの大きな町には、このような顔は多いのですが。

     日本に来て自分を「日系ブラジル人」と呼ばれだしたのはいつだったかなと思いますが。

     日本への出稼ぎで来ているブラジル人のコミュニティにも入っていませんでした。ひまわり教室のように、多文化の中にいるとあまり意識をしないのかもしれません。

     「わたしのルーツ」を見ていただくと、祖父母は日本人だけれど、中国の満州で瓦職人をしていました。母の兄姉の伯父・叔母は、満州生まれです。戦後、満州から家族で逃げるように日本に帰国して、母は日本の山口県で生まれました。生活も大変で、政府が「ブラジル行き」を勧めていました。半年に一度、ブラジル行きの船が出ました。ブラジルに着くとアマゾンへ入植をしました。アマゾンでコロニアが作られ、耕し、家も作ったのですが、雨期になるとすべてが流されてしまうような地域でした。

     現在では、政府も「あのやりかたは、まちがいだった」と認めていますが、当時は、戦後でもあり、移民ではなく、棄民の政策であったと言われています。

     最近、静岡県にブラジルのベレンの料理を出しているひとの新聞記事が掲載されました。それを見た母が、同じ船に乗り、ブラジルのアマゾンへ行った人かもしれないと、電話をしました。その通りだったようです。静岡でブラジルの野菜を作り出しているようです。実際に会いに行きました。二人で新聞記者にもらった入植当初の資料を見ながら真剣に話し合っていました。日本が成長する前のブラジル移民でした。ブラジルで生まれた子どもたちはポルトガル語を話し、親は話せないので、親子間のコミュニケーションが難しい例がたくさんあります。

     母は、学校に通うため、家族から離れ、ブラジル政治家の養女になりましたが、その人達が、ブラジルの政変後、いなくなり、母だけが残されました。大きくなると、サンパウロに移住し、日本人農家で働き始めました。

     父は、日本企業の駐在員でした。父母は結婚すると、サンパウロからガラパリへ移住し、小さな八百屋を始め、ガレージで物を売っていました。このころ、家では日本語を話し、外ではポルトガル語という生活でした。その後、中国料理店を開き、春巻きの皮なども作っていました。

     私は、ガラパリで幼稚園に行っていました。学校へ行き出すと、日本語がだんだんなくなって行き、「あなたは日本語ができない」とも言われました。母は、日本語を教える力はなかったのです。そのころは「日本はとてもちがう」と思っていました。

     当時、ブラジルは、私立学校と公立学校の差が大きく、公立学校は、くらしに困っているひとたちが多かったようです。教科書もなく、黒人も多かったです。そのころ、黒人の男の子から「おれたちと同じだね」と言われ、なかよくなりました。

     中学2年で日本に来たのですが、当時、行きたいという気持ちと行きたくないという気持ちちが同時にありました。日本では、「いじめ」のイメージもあり、日本語の字もわかりませんでしたから。

     日本に来てから、アイデンティティについて考えることが多くなりました。「日本人でないといけない」と母は言っていましたが。ブラジル人って何と考えると、ネットもない時代で、周りから「ブラジル人だから時間を気にしない」とかいろいろありました。

     日本では、勉強がまず、苦しかったです。マンガ研究部に入っていた人たちだけが、話しかけてくれました。中3で高校受験があると知りましたが、その難しさの実感が沸いていなかったと思います。弟二人は、実際の年齢より学年を下げてはいったので、まだだいじょうぶでしたが。

     弟たちは、バレーや野球をやっていました。弟のバレーの先生に相談して、国際コースを受験することになりました。その結果、高知県の明徳高校に入ることができました。この学校は、全寮制の高校で、日本語のみの生活になりました。英語もやろうと思ったので、カナダへ高校時代に留学をしました。この学校にブラジルから、4人のサッカー選手が留学してきて、監督一家も来ました。手伝いを頼まれ、ポルトガル語も復活し、話せるようになりました。日本にいる父方の祖母は、来日当初「大学へ行けないよね。」と言っていて、悔しくて、大学に行きたい気持ちが強まりました。高校の内申書を学校でいろいろ工夫をして書いてくれたと思いますが、奇跡的に大阪外国語大学へ入りました。この学校は大阪にあるので、夜にディスコに行くとブラジル人がいっぱいいました。彼らと話すことで、たくさんのことを知る事ができました。1990年代のころです。このころは、「自分のままでいいのだ。」とようやく思うことができました。大学の友人はいなかったと思います。就職活動もしていなくて、その理由は、「ブラジルへ帰るからいいんだ」と思っていたからです。このころ、通称届で隠していた「アンドレイア」という本名も名前に戻すと、周りの対応が変わりました。大学卒業後、JICA主催の、「中南米日系人向けの研修プログラム」に3ヶ月参加しました。ブラジルの人に会いたくて、工場でアルバイトの仕事をしたとき、すぐに通訳となってしまい、ブラジル人の仲間はできず、上司側の日本人に気に入られてしまいました。そのことを知っていたのか、出稼ぎに来ていた従兄は日本語ができることは隠していました。それは、周りから特をしているように見えるからです。でも、この研修プログラムを受けて、元の国で活躍できればと思い、合格することができました。

     ディスコでブラジル人と親しくなると、犯罪がすぐに近くに感じることもありました。ルーツである日本に夢をいだいた若者は社会になじめず、現実はちがっていました。高い給料をもらっていても悪い会社に騙され、ふてくされる気持ちもあったと思います。大人になりかけの人が多く、自国の制度もよく知らないまま、日本での仕組みも分からず、保険や光熱費などの滞納の督促状が来ても分からず、相談するところもなく、犯罪に手をそめるものもいました。

     大学では、「なんかちがうな」とも思っていました。でも、JICAでの研修では、いっしょに考えて、実現することを学びました。ブラジルに帰るにしてもお金がいるので、バイトをしていました。

     会社の正社員になり(2004年)出向でアメリカに行きました。

     2005年に結婚、2006年に第1子出産

     2007年にアメリカオレゴン州へ

     ここでいろいろな人に出会い、ブラジル人でも日本人でもない自分でいられるアメリカに住む心地よさを感じていました。となりの人でも子どもの学習を見てくれるひとがいました。

     2012年に息子が日本語を話さないことに気付き、自分と同じように学習や言葉の壁に苦しむだろうと考え日本に帰ってきました。

    2013年からMAFGA(箕面国際交流協会)で母語支援者として関わりはじめました。ブラジルに行ったことがないブラジル人の子どものポルトガル語の学習支援です。日本語もポルトガル語もできないような子どももいます。多様な背景を大切にできる社会を目指し、活動したいと思っています。現在は、外国にルーツをもつ子どもや外国人市民の相談事業を担当しています。みんなが背景はちがうのですが、ひとりひとりとていねいに話していきたいと考えています。

     仕事とは他に、「チャチャチャ」というスペイン語とポルトガル語の母語の教室の代表でもあり、ブラジルブックカフェで、ポルトガル語学科の大学生なども支援をしています。100人ほど登録しています。以前は遊び場がなかった子どもたちに、場を提供し、「NO」と言える力をつけるのは、自分で選択できるようにするためです。このように、母語・母文化に出逢う場をつくりつづけようと考えています。

     “Muito Prazer”とか、「オキナワサントス」とか、「ファミリア」という映画などがあり、ステレオタイプの”日系ブラジル人“がキャスティングされることも増えました。

    亀田さん(コーディネーター):質問があればどうぞ。

    児嶋:アンドレイアさんがどれだけ苦労されて今があるかが、多少わかったような気がします。

    アンドレイアさん:年月が経つと介護での問題も出てきます。母語はわかるが、新たに学んだ言語はもう覚えていないというような。

    M・Sさん:波瀾万丈の歴史ですね。いろいろな扉があって、その扉を開けて行かれたことで、今があるのですね。このような歴史を持つ方は、あまり身近では少ないですね。刺激になりました。それと、アンドレイアさんの、決してたやすくはなかったご苦労が感じられます。箕面国際交流協会では、かけはしになっておられますね。今のアンドレイアさんは、ゴールの手前まで来ておられると思いますが、このようになるには、その時の時代背景も関係していると思います。「正解はだれのもの?」と問いかけられていますが。

    アンドレイアさん:ブラジル人と日本人の間に、上とか下とかはないと思います。

    M・Sさん:自信は付きましたか?積み上げて来て。

    アンドレイアさん:「なんとかなる」と思えるようになりました。

     今は、生きにくい時代だと思います。大切にしているものが、それぞれにちがうので、ミスすることもあると思いますが、それに対して、評価が低くなることがあります。

     協会でいろいろな問い合わせがあり、保育所へ提出する物があり、それを提出しないと言われるとか。「だいじょうぶよ」と声掛けをすると、楽になるはずですが。相談を受けているとだんだんその人達と近くなる実感があります。

    S・Yさん:このお話しは日本におられるときだと思いますが、アメリカにおられた時はどうでしたか?

    アンドレイアさん:もともと移民の国なので、わかってもらいやすいと思います。

    児嶋:ひまわり教室の指導者は、子どもさんや保護者の質問に答えるけれども、踏み込みすぎないようにしています。

    M・Sさん:私は、つい入りすぎてしまったと思うこともあります。

    児嶋:私は、多分ないと思います。

    アンドレイアさん:日本では記述する言葉が難しいですね。入管でも、「相談して」と言われますが、

     どう、何を相談していいのかがわからないことが多くあります。入管でも、自分の国の言葉や習慣や制度を知っている支援者がほしいと思います。

    Aさん:日本でポルトガル語を話す機会はありますか?(ポルトガル語で)

    アンドレイアさん:ポルトガル語を忘れてしまっていた期間は私にもあります。言葉が時代により変化しますし、何だったっけと思うこともあります。ポルトガル語を使用するイベントなどを開催すると思い出します。子ども達に自分の母語を教えたいとも思います。在日韓国・朝鮮の人の母語・母文化を継承する活動は私たちにとって先輩のような存在です。

    M・Sさん:ひまわりには、中国ルーツの子ども達がたくさんいますが、宿題を教えているわけですが、中国語で互いに話せるとわかった時のうれしそうな顔がわすれられません。

    アンドレイアさん:堺市で活動をしている田中ルジアさんは以前ブラジルルーツの子どもに日本語を教えていましたが、今はポルトガル語の本がおいてあり、母語を中心に活動しています。

    亀田さん:そろそろ12:30になりましたので、個人的にもっとお話しをしたい方は後にどうぞ。

     今回はこれで終わります。ありがとうございました。

    その後も、いろいろなお話しをしながら、しばらくして帰って行かれました。アンドレイアさんにメールでお願いして、11月にまた、来ていただくことになりました。みなさんもどうぞ。

    グローバルセッションイメージ

    開催日:2023年2月23日(木・祝)10:30~12:00
    場所:ガレリア3階 会議室&オンライン
    ゲストスピーカー:濱田雅子さん(元武庫川女子大学教授、アメリカ服飾社会史研究会 会長)
    コーディネーター:亀田博さん
    参加者:10名(うちオンラインでの参加2名)
    共催:アメリカ服飾社会史研究会

     今回のタイトル:服飾から見た生活文化シリーズ24回目:「写真が語るアメリカ民衆の装い(その4)-1880年代の民衆の生活文化を   垣間見るー」

    セッション終了後のレポート

    開催日:2023年1月29日(日)13:30~15:00
    場所:ガレリア3階 会議室
    ゲストスピーカー:岡本颯さん(大学生)
    コーディネーター:亀田博さん
    参加者:10名

    今回のタイトル:「近くて遠いコミュニケーション~現在のコミュニケーションはこれでいいのか~」

    デバイスの感覚体験、隔たりのあるコミュニケーション(当日用資料)

    私は現在大学一回生で、対面とオンラインの両方の形式で学校生活を送っています。コロナ期間中に増えた画面越しに遠隔で受ける授業にもかなり慣れてきました。気づけばスマホやPCといったデバイスは生活とぴったりとくっついていて、使いながら違和感もほとんど感じません。いつでもどこでも繋がれる環境をとても便利に感じると同時に、隔たりのあるコミュニケーションに依存することに、このままで本当にいいのか、という不安もいつも感じています。

    世代によって、コミュニケーションに用いる媒体の種類は大きく異なります。この違いが私たちの認識や行動にどのような影響を与えているのか、参加者の皆さんの経験と意見を伺いながら考えてみたいと思っています。

    1.背景

    大学生のコミュニケーションの形(+少し前までのコミュニケーションの形)

    • 学校の授業
    • ZOOM・ Manaba+・→ 直接会わなくても講義や課題のやり取りが成立する。
    • 日々のコミュニケーション
    • SNS (LINE, Instagram, twitter, Zenly)

    プライベート、位置情報→ 共有していることの数は多いけれど、共有できている「実感」が少ない。

    議論

    対面とオンラインは何が違っているのか?

    質問

    • 10代のころの友人とのコミュニケーション手段は?
    • 今の若者のコミュニケーションへの印象
    • 画面越しのメッセージに感情や実体を感じるか

    ①情報量
    ②使う感覚 
    対面:聴覚、視覚、嗅覚、触覚…オンライン:聴覚、視覚
    ③情報の特徴
    対面:様々な要素が複雑に合わせられている → 間、表情、声質、抑揚、強弱、ジェスチャー、場の「空気」

    オンライン:デザインされたコミュニケーション → なるべく綺麗にまとめる、会話が記録として残る(自動的な議事録・履歴)

    〇感じること

    • 人によって得意不得意があるかもしれない
    • オンラインが自分たちの将来に及ぼす影響(感覚的な影響)
    • 対面で伝わる情報量(人間の圧倒的な情報量)はむしろオンラインより多い → 感覚に訴える情報の量はデバイスよりも対人の方が多い。

    デバイス < 人

    • オンラインでは見せる情報を選べる→綺麗でミスのないコミュニケーションが多くなる→ 気を遣う→ 面倒になる

    2.感覚体験と自己形成

    質問

    • 「10代の経験が、残りの人生の感覚を決める」は本当か?
    • 母親と子どもの会話と発育→ 母親と子どもの会話の経験と同じような事?
      赤ちゃんに母親が話しかけることで、赤ちゃんは自己形成をしていく。
      幼少期の感覚体験がその後の人生の自己形成に大きく影響する

    「感覚」というキーワード
    オンラインで、社会と触れ合う→ 情報量は増えたのか、減ったのか

    セッション開始

    亀田さん(コーディネーター):今回は、359回目ですが、今までのGlobal Sessionで一番若いゲストだろうと思います。最年少で。私は、伝達の器具をアナログの世界で使って来ましたが、時代的にちがいがあるようですね。岡本颯君は、現在大学1年生で、立命館大学の学生ですが、少し前までは対面での授業ができない時期がありましたね。リモートやオンラインを使って来たと思います。自己紹介をお願いします。

    E・Lさん:日本語か、英語かどちらで話しますか?私は、インドネシア出身のエニ・レスタリです。京都に住んでいますが、亀岡は第2の故郷のように、20年間くらい通っています。

    今日は、颯さんの話を聞きたいと思って参加しました。自分の息子は颯さんより2才上で、若者の事を知りたいです。私は、大学でインドネシア語を教えていますが、そこの学生たちの気持ちも知りたいと。

    E・Tさん:今年でGSは9年目です。京都府京北町に住んでいます。最近コロナにかかりましたが、何とか治って今日は、来られました。昔通っていた大学の環境ともちがって来たような気がして話をしたいと。

    A・Oさん:初めて親子でGSに参加しました。個人では町内でいろいろな取り組みをしていますが、それに変化もほしいと、グローバルセッションの参加者にもお会いしたいと参加しました。いろいろと勉強して取り入れて行きたいです。

    S・Oさん:Generation GAPをいつも感じています。ぼくのやっていることは。多分母はわからないと思います。レジタルをつかわないことも理由としてありますが。

    僕自身は、できるだけ、PCから離れる時間を取りたいと思っています。やり過ぎるとメンタルをやられると思いますし、感覚のリサーチャーでもありますので。

    N・Kさん:小学校の教員を退職してから、ひまわり教室の指導者をしています。オンラインで指導していて、携帯電話で図やプリントなども見ています。

    最近、ZOOMで参加したのですが、自分が参加しているというよりは、会議を外から見ているような感覚を持ちました。

    M・Tさん:半世紀の間、アメリカで学び、教えていました。今は、京都に住んでいます。

    Z・Yさん:中国から日本に来て2023年で19年目になります。今は民際日本語学校からの派遣教師として、千代川小学校、亀岡小学校、大成中学校で中国人の子どもの母語支援をしています。

    児嶋:1999年に亀岡市交流活動センターでGlobal Sessionを始めて20年以上になります。大体月に1回のペースで続けて来て、今回は359回目になります。

    亀田さん:仕事はツアー・コーディネーターで、大津市に住んでいます。コロナ禍で、ツアーガイドの仕事もなかったのですが、ようやく外国人が入ってこれるようになりました。日本人が海外に行くのは、まだ少し、問題があるようですが。5月のゴールデンウイーク後は、外国人客は増えるかもしれませんが。でも物価が上がり、円高になれば飛行機が出ないかもしれません。

    ゲストの岡本颯さんどうぞ。

    岡本颯君:今、僕は19才で、2003年生まれです。亀岡に生まれ育ちました。高校1年生の時に、カナダに10ヶ月間留学しました。立命館宇治高校出身で、国際関係学部1回生でようやく春休みになったところです。

    Global Sessionでどういうテーマにしようかと考えた時に、いろいろな世代の方が集まる場なので、世代のちがいが自覚できるテーマにしようと「コミュニケーション」についてを選びました。

    現在、僕たちは、スマートフォンで友達とやりとりをするのは、当たり前ですが、それ以前のやり方とどのようなちがいがあるのか。また、そのちがいがこれから、どのような影響があると考えるか、みなさんのご意見を聞きたいと思います。

    自分たちのコミュニケーションの形ですが、今は、教室でほとんどの授業がありますが、中には海外に居る先生とオンラインで授業があり、ある時期は、オンラインとオフラインが合わさっている時期もありました。もっとコロナ禍のあった高校2年のころは、1年生と2年生はZOOMなどのオンラインで、たくさんの経験をしました。

    今は、課題が送られてきて、それを送付するには、〆切りがあり、0.1秒でも遅れたら受け付けができないなどの決まりがあります。教授からは、文字を通してコメントをもらうことが多くなり、コミュニケーションをとる機会は増えたのですが、さびしさも感じます。

    日々のコミュニケーションは、SNSなどですばやくチャットでできますが、写真を送り、コメントをもらう機能もあります。プライベートを友達と交換することもできます。文字だけの方法もあります。登録すると、位置情報を共有できる方法もあります。

    このような方法でのコミュニケーションで感じることは、どこでもつながれるし、どんどん便利になっていますが、直接のコミュニケーションを取ることが減ってきているので、実際に友達と会って話すと難しいと感じることがあります。直接会って、話す意味は何?と思うこともありました。

    以前、コロナ禍で、2ヶ月間直接会わず、画面越しには話していたのですが、目を合わせても遠くに感じることがありました。それに、マスクなしの友達の顔を見ていないので、マスクをはずしても違和感がないか不安にもなりました。

    自分の考えとしては、映像ではマスクを外していますが、伝えるのはdisplay越しに視覚と聴覚だけを使い、チャットでは視覚だけですし。実際に話すと、視覚、聴覚だけでなく、その他の五感も使っているのですが、それを使いなれていないのではないかと不安があります。

    このようになぜ違和感があるのか、みなさんのご意見を聞いてみたいです。

    児嶋:昨日、実は外国につながる子どもの学習支援をしている人たちの研修会を開催したのですが、その前の日に雪が降り、列車が動かず、車も停まる事件があったので、もし、雪でうごけなかったどうしようかと京都在住の大学の教授と話合い、ZOOMもありと思っていたのですが、横浜から来られる予定の中国人のゲストはZOOMはいやなので、開催するか、延期かどちらかにしたいと言われました。そのため、ぎりぎり当日の朝まで、するかしないかを迷っていました。実際に会ってみなさんと話をするという考えがとても強いひとだなあと思いました。

    E・Lさん:息子が大学に入学した時、ちょうどコロナが始まり、入学式もありませんでした。自分の大学近くの自分の部屋にひとりで住んでいて、一日中、オンラインで授業があり、だんだん心が揺れ始め、「大学やめたい」と言うこともありました。2022年になってやっと対面での授業が始まり、友達もできて今は楽しくやっているようです。(3回生)

    コミュケーションに関してですが、いくつかの大学でインドネシア語を教えていますが、オンラインで授業をしていますが、大学からの指示で、先生の顔は出して、学生のネット環境の負担にならないようにと学生にはカメラをオフにしています。ひとりでしゃべるばかりでした。

    オフラインになっても、学生との間にアクリル板はあり、やりにくいです。フェイスブックもやっていますが、セキュリティの問題があります。3人ものアメリカ人から、「口座番号を貸して」などと言われたことがあります。インドネシアもハッカーが多いようです。

    M・Tさん:さっき颯君に聞いたのは、「今は、どうしてラブレターを書かないの?」という事でした。

    アメリカで教えて居たときに、成績がBやCになると、本人が抗議をしに教官のところに来ることがあります。話すと、自然にきついことばになってしまので、「どこが悪いかは書くので、それに自分の意見を書いて」と言っていました。そのあとで、学部長に判断してもらうようにしていました。ツイッターでは、しゃべることに中心がおかれすぎていると思います。コミュニケーションの仕方が難しいですね。でも、書いてあれば残るのですが。私は話すより書く方が好きな方で、今回はいろいろなコミュニケーションの方法があるのだと知りました。

    岡本颯君:今までのこのようなコミュニケーションの方法はPositiveなのか、Negativeなのか、みなさんの印象はどうですか?

    S・Oさん:このような方法をとり、テクノロジー空間の中で表現はできると思いますが、どうバランスを取るのかが、我々に求められているのではないでしょうか?僕はオフラインの方が得意ですが。

    Z・Yさん:自分が10代や20代のころは、携帯もなく、直接会って話をして来ました。五感の動きを十分使って。2016年に1年間フィリピンに射て日本語を教えていました。それに対する感想などを投稿し、編集するシステムでしたが、いっしょに話をするとわかり合えるのに、メッセージだけではわかり合えないという感覚になりました。

    岡本颯君:直接話すとすぐ返せるのですが、ラインだと返すタイミングは任されておいてもおけますが、失礼な場合もあるでしょうね。

    N・Kさん:小学校の教員をしていたときに、1年生から6年生まで教えたことがありますが、先生と子どもが休み時間などで、いっしょに遊んでいるクラスは崩壊しないなと思っていました。子どもと仲良くなる方法として、遊ぶことにつきると思います。いっしょに笑っていっしょに遊び、子どもとの距離が近くなると思います。教育カウンセリングなどでも、子どもを見て、うなずきながら聞くという方法を勧めています。話している側が安心感を持つのですね。わざと横になって知らんふりをすると、聞いている方は、不安になります。

    E・Tさん:コミュニケーションが現在の方法では、ネガティブになっていると思います。社会人は飲み会などで話をすることもあります。この間のような大雪になると、SNSは便利と思いますが。でも頼り過ぎると疎遠になるでしょうね。

    M・Tさん:メタバースはコミュニケーションがないということですか?

    岡本颯君:まだあまり浸透していないと思います。高校時代に、海外の人と交流するために、簡単なメタバースを使ってみましたが、バーチャル上に空間を作り、アクセスしたら、だれでも入って来れるのです。アバタを歩かせて動かすのですが。メタバース空間は、やはり距離が遠いと思います。発達するだろうとは思いますが、まだだれとでも共有しているわけではなく、質が低いと思います。

    児嶋:私は、N・Kさんも含めて、5人の短歌会をしています。毎月3首の歌を作り私が編集してそれぞれに送り、その評をもう一度私に送り返し、最後に、それぞれの歌と5人全員の歌への評をつけて完成するというものです。でも一人はドイツに住んでいて、もう一人はブラジルにいます。この時代だからこそ、メールで送り、送り返しているので、コミュニケーションが可能なのだとその点は感謝していますね。

    N・Kさん:短歌は「書く」だけでなく、そのひとの人となりや考えがわかり合うのですから、コミュニケーションのツールだと思います。

    児嶋:別の場所にいても、そこにいるような感じになります。

    亀田さん:私は、今もクリスマスカードを送り合うことをしています。バースデーカードも。メールではなく、手紙の手段を使って。物もつけて送っています。時間をかけてまた、返事が返ってくるのがいいとずっと続けています。年賀状も1年に一度ですが、いいですね。海外のひとも喜んでいます。スマートフォンは便利だけれど、漢字が書けないようになって来ているようです。脳も充実させる必要がありますね。情報が多すぎるとも言えます。この間大阪でコンサートがあり、帰りの電車で見ていると、90%以上がスマホを見ていますね。ゲームを見たり、テレビの番組を見たり、スマホを見ている時間が多すぎてストレスにもなっていると思います。

    電話で話すと、声で状況がわかることがありますね。できるだけ実際に交流することが、コミュニケーションになると思います。ひとりでいる時間が多いと、鬱になり、生徒も先生もおたがいの顔を見ていない状況は、大変ですね。

    岡本颯君:共有出来る感覚を持つことがいいですね。短歌は、五、七、五、七、七と字は少ないのに内容は充実感がありますね。やりとり出来るといいでしょうね。

    S・Oさん:私は、ラブレターも書きます。いつ返事がくるだろうかと待つのも生きているという実感がありますから。

    岡本颯君:手紙を出すと、自分で想像もできるので、いいですね。

    亀田さん:ペーパーレスについても必要な時がありますね。航空券などもスマホで決済ができます。

    壊れるとか、忘れるとかの情報処理の仕方も大切です。

    Z・Yさん:Wifi環境の中では、何もできないことがないと思い込んでいる場合もありますね。

    岡本颯君:速さだけを見たら、paperでない方がいいかもしれませんね。

    亀田さん:FAXは私は今も使っています。そのまま原稿が来て使えますし、元が残ってもいます。

    海外の三つ星ホテルには、FAXを入れると、口座を知らせるとリターンしてくれます。メールだと途中で盗まれる可能性もありますし。最近は、振り込め詐欺も多くなりましたね。

    岡本颯君:もうひとつ聞きたいことがあります。

    僕の父親が、「10代のころの経験がその後の人生に大きな影響を及ぼす」と言ったことがありますが、どうですか?

    コロナが来て、ZOOMの使用や、マスクなどをずっとしていますが、これは、将来我々に影響があるはずでしょうか?この時期に使っていた感覚は今後はどうなるのでしょう。ちょっと不安です。子育てでも、赤ちゃんにわからなくても話しかけることが大切と言われていますが、ことばを覚えるためだけでなく。

    モニター越しと実際に話しかけることのちがいはあるのか。言語の発達にはその子によってちがいはあるでしょうが。

    児嶋:以前ひまわり教室に来ていた子どもさんで、お母さんが中国出身で、お父さんは日本人ですが、少し発達障害があり、家ではほとんど話さない人でした。お母さんは日本語をまだ学んでいなかったので、「日本にいて、中国語で赤ちゃんに話したらだめだろう」と思い込み、この子は赤ちゃんの頃から、家での会話がほとんどなかったそうです。保育園や小学校に入ってもほとんど話さず、2年生か3年生の時にひまわり教室を紹介されて来た時に、学校の担任の先生が「この子は中国語しかわからないのです」と言われたので、私が中国語で話すと、全く反応がなく、日本語でゆっくり話すと、「うん」とうなずくのです。「この子は日本語だけがわかりますよ」と伝えると、先生はびっくりされました。その後、ひまわり教室に来ると子ども同士で話をするようになり、しばらくして、お母さんから「家で大きな声で笑うようになりました」と電話がかかって来たことがあります。その後は、中学を卒業後、通信制の全日制の高校に通学しています。

    E・Lさん:中国人の人で、ベビーカーの赤ちゃんにも携帯を持たせているのを見たことがあります。インドネシアでも、富裕層の人は、赤ちゃんにも携帯を持たせているようです。赤ちゃんは、小さい頃からいろいろ話したりしないと心の発達は難しいでしょうね。

    別に住んでいる息子とラインで「おはよう」と問いかけて、返って来ないと心配になります。この間、「会いに行ってもいいかな?」と聞くと、「好きにしたら」と言うので、会いに行ったら、   「お母さんの顔を見て良かった。来てくれてありがとう」と言いました。大きくなってもこのような事があります。

    Z・Yさん:小学校で支援しているC君は、保育園の終わりに春節で中国に行き、コロナが始まり、1年半ほど日本に帰って来れなかったのですが、ようやく帰国できたのは、1年生の2学期からでした。最初は、日本生まれでも、ほとんど日本語を忘れていたし、中国語も完全ではなかったです。この子には、できるだけ日本語で話し、わからないと中国語で説明したりしていました。家庭では、お母さん(中国人)と中国語で話し、お父さん(中国人)とは日本語で話すことを心がけていました。今は2年生の3学期です。国語の教科書は目で見て読みますが、内容は中国語で説明するとよく理解できます。

    A・Oさんミュニケーションとは、人とのつながりと思っています。コロナ禍の前は、いろいろ取り組んでいましたが、その後は、引きこもるお年寄りが増えてきて、どうしたらいいかと考えていました。コロナが少し落ちついた2021年ころからは、年齢のちがうひとも集まれるような取り組みをとり入れています。どのようにコミュニケーションをとるかと考えた時に「自分から声掛け」をしようと思い、来てくれるとうれしいし、ありがたいと思いました。

    どうしたら楽しんでもらえるかと考え、児嶋さんにゲストの話をして、いろいろな国のひとが参加するグローバルセッションを教えてもらい、今日参加しました。

    みんなで話をすると元気になれると確認できました。

    E・Lさん:インドネシアのコミュニティでもいろいろな人と話をすると楽しそうです。

    岡本颯君:ありがとうございました。

    グローバルセッションイメージ

    開催日:2022年12月18日(日)10:00~12:30
    場所:ガレリア1階 創作室&クラブ室
    ゲストスピーカー:テオ・ディアスさん(ブラジル出身・日本語学校学生)
    コーディネーター:亀田博さん(ツアーコンダクター)
    参加者:GS&クリスマス会 32名 リユースの会:20名  合計52名

    当日プログラム

    2)開会の挨拶

    司会:亀田さん  10:00
    はじまりのあいさつ:児嶋きよみ 10:00~10:05

    2)Global Sessionの開始 10:05~10:40 (35分)

    テオさんの自己紹介とおはなし

    グローバルセッションのタイトル:「夏のクリスマスって知っていますか?」
    ブラジルの12月は夏なのです。サンタクロースは来るのかな?

    ブラジルの絵本の読み聞かせ 10:40~10:55(15分)
    日本語:山添きみ代さん  ポルトガル語:テオさん

    3)ひまわり教室クリスマス会(11:00~11:35)(35分)

    横井照美さんとクリスマスかざりや正月のかざりを作りましょう。

    4)ひまわり教室の保護者の絵本の紹介(YouTubeより)11:35~11:50(15分)

    滑川恵理子さん&田中ひろこさん&品田井サフワンさん(日本語&アラビア語)

    テオさんの友人・民際日本語学校の学生 

    5)リユースの会からクリスマスプレゼント(11:30~12:30)

    案内:日本語教室の先生方といっしょに教室に来場し、プレゼントを選ぶ
    日本語教室の参加者:20数名

    グローバルセッション開始

    テオさん:みなさん、メリークリスマス!今日は、ブラジルのクリスマスについてお話しします。ブラジルでは、メーリークリスマスをポルトガル語で、Feliz Natal(フェリス ナタウ)と言います。ブラジルの総人口の半分は、カソリックです。ブラジルでは、クリスマスは、家族で過ごすと考えられていて、正月はそうでもなく、恋人といっしょにいることもあります。日本では、クリスマスに恋人と過ごすこともあるでしょう?正月は家族と過ごすかもしれませんが。大分ちがいますね。

    ブラジルのクリスマスは、悲しいことに、暖かいので、雪がふりません。クリスマスの時のみんなで言い合う言葉があります。Var Com Dios(バーコン ディオス)と言い、意味は、神のおかげで、神と共に歩いてこられましたというような意味です。クリスマスに集まる家族は、日本とちがって、多人数です。父・母・祖父・祖母・兄・姉・弟・妹・伯父・叔母などつながりのある人はみんな寄り会います。私は、祖父母の家がいちばん大きかったので、そこに毎年集まりました。遠くからでも帰ってきます。もちろんお金もかかります。

    クリスマスの1日か。1日前に集まり、みんなでたくさんの料理を作ります。そこでは、自分たちの家の特徴のある料理を作ります。ブラジルには、いろいろな文化の背景のある人が集まっているので、料理もいろいろあります。例えば、ポルトガルやイタリア系は、魚の鱈を使い、イタリア系は、スパゲティやラザーニャです。

    クリスマスの料理はいつもおいしくてすぐ食べてしまうので、写真があまりないのですが。パステル デ ナタウ(クリスマスのパスタ)などは、100年前から作っているでしょう。ちいさいのを、500個ほどみんなで作るのです。

    クリスマスのプレゼントは、参加者全員に配ると、大変なお金がいるので、みんながもらえるように、考えています。まず、自分の名前を書いた紙をくじびき箱に1枚入れます。その後、それぞれが自分以外のカードを1枚拾い上げます。それを見てだまって、その人用のプレゼントを買い、箱に入れて、クリスマスツリーの下に置きます。それを、あとで、みんなで開けるのです。これをシャレードと言います。

    みなさんにもカードを配るので、自分の名前を書いて箱に入れてください。その後、一枚カードを引いてください。その人のプレゼントを用意するのです。秘密のままにね。 

    テオさん:質問はありますか?

    S・Yさん:今年はブラジルの家族のところに帰りますか?

    テオさん:帰りません。

    H・Tさん:コロナの時も集まっていましたか?

    テオさん:クリスマスだけは集まっていました。ひとつ言い忘れていましたが、小さい子が来たら、どこの子でも、大人は必ず、プレゼントを用意してあげます。

    M・Fさん:クリスマスイヴは、夜通し続くのですか?

    テオさん:24日のイヴは、午後6:00ころに来て、11:00か、12:00ころから、パーティを始めます。そして、いっぱい飲んで、食べて朝の2:00ころ帰ります。

    M・Fさん:50人ものひとが寄り会って、一度に帰るのは、大変でしょう?

    テオさん:父の方の家族と母の方の家族が、仲良しだったら、いっしょにやることもあります。25日は、反対に何もしません。クリスマスツリーの下にあるプレゼントをそれぞれの家族でもらいます。ですから、24日は、パーティーでみんながひとつもらい、25日は自分の家でもらうので、2回もらうことになりますね。

    M・Fさん:キャンドルサービスはありますか?ろうそくをつけて町を歩くような。

    テオさん:しませんね。

    ポルトガル語を話してみましょう。

    おはよう:Bon dia(ボン ジーア)

    こんにちは:Boa tarde(ボア タルジ)

    こんばんは:Boa noite(ボア ノイチ)

    出かける時には、 Ate logo(アテ ロゴ):またね。   Tchau(チャウ):じゃあね。

    元気かな?:Oi tudo bem(オイ、 トウド ベン)?

    元気だよ:Tudo  bem, obrigado(トウド ベン)

    ありがとう: 男性 Obrigado(オブリガード)

           女性 Obrigada(オブリガーダ)

    クリスマス おめでとう:Feliz natal(フェリス ナタウ)

    ぼく・わたし: eu(エウ)   きみ・あなた: voce(ボセ) 

    おとうさん: pai(パイ)   お母さん: mae(マンイ)

    兄・弟: irmao(イルマオン)  姉・妹: irma(イルマ)

    ブラジルの絵本の読み聞かせ

    亀田さん:では、Global Sessionを終わります。次は、ブラジルの絵本を読んでみましょう、

    山添きみ代さんどうぞ。

    山添さん:「ヤチのお人形」というお話しです。

    (センドレラ 文・グロリア C.バイベ 絵 はせのしろう訳)

    ひまわり教室クリスマス会

    亀田さん:次は、ひまわり教室のクリスマス会です。横井さんどうぞ。

    横井さん:クリスマスの飾りを作ります。いろいろ材料がありますから、つくって見てくださいね。   

    好きなかざりをプレゼントしますので、自分のができたひとは、前に取りに来てくださいね。

    ひまわり教室の保護者の絵本の紹介

    亀田さん:次は電子絵本の紹介です。滑川さんどうぞ。

    滑川さん:この絵を描いたのは、先ほどまでいらっしゃた田中ひろこさんです。この本の内容は、シリア出身のお父さんの品田井サフワンさんにインタビューをして作り上げました。

    「アー、ガッ!わらった わらった」アラビア語と日本語で音が出て来て読んでくれます。

    YouTubeの「たげんごオリジルえほん」と探したらあります。今までに作った絵本もあります。

        1.みんなそれぞれはんこうき(アラビア語&日本語)

        2.みんなそれぞれはんこうき(中国語&日本語)

        3.みんなそれぞれはんこうき(スペイン語&日本語)

        4.きっと いつか(品田井サフワンさん:シリア出身)(アラビア語&日本語)

        5.おばあちゃんは おこりんぼ(スセットさん:メキシコ出身)(スペイン語&日本語)

        6.ヤンヤンちゃんとおにいちゃん(Kさん:中国出身)(中国語&日本語)

    これに、7.『アー、ガッ! わらった わらった』が加わりました。

    児嶋:3人目のあかちゃんを家族みんなで迎えた記録が絵本に残りましたね。シリアのおじいさんやおばあさんともタブレットを通じてそのまま伝えられてよかったですね。

    今日はこれでおわりますが、となりにクリスマスプレゼントとして、リユースの洋服がいっぱいあるので、持って帰っていいです。紙のふくろもプレゼントです。

    おみかんが、ひまわり教室の松田真美さんからのプレゼントであるので、みなさんにさしあげます。持って帰って食べてくださいね。

    では、次は1月7日(土)にひまわり教室で会いましょう。

    参加者の感想

    山添きみ代さん

    「ブラジル絵本『「ヤチのおにんぎょう」C・センドレア/文 グロリア・C・バイべ/絵 はせがわ しろう/訳』を児嶋先生から「テオさんと読んで下さい。」と渡して頂きましたが、時間の都合で日本語訳を私だけが読むことになりました。そして絵本をめくる役を山田先生に突然お願いしましたが、心よく引き受けて下さり2人で読み聞かせをしました。 ヤチはブラジルの女の子です。自分がトウモロコシで作ったお人形クルミンといつも遊んでいます。お母さんは、お手伝いをしないヤチに、ききわけの良い子になってほしくて「お人形を捨てますよ!」と怒りました。ヤチはびっくりし、砂浜へ行きました。そして亀が産んだ卵を砂に埋める様に、ヤチも人形を砂の中へ隠しました。それから雨の季節がきて、雨はいつまでも降り続きました。やっと雨が止み、ヤチが砂浜に行くとそこにはトウモロコシのちいさな双葉🌱が芽を出していました。その後そこには、沢山のトウモロコシがなり、そのひとつ取って、ヤチはまたトウモロコシのお人形を作りクルミンに会えたのでした。女の子はどこの国でもお人形が大好きですね!」

    田中ひろこさん:絵本作家

    「用事があったのですが、ブラジルのお話をどうしても聞きたくて、最初だけ参加させていただきました。クリスマスは、親戚が集まるとても大切な日と心に根付いていることが、よく分かりました。でも、「僕はクリスチャンじゃありません」と平然とおっしゃったのには、驚きました。まだまだ、私たちが知らないブラジルの常識がありそうで、もっとお話を聞きたかったです。「アー、ガッ!わらった わらった」を見ていただいてありがとうございました。サム君がお腹にいる時から、サフィーさん・ヌーラさんにインタビューして、話を練っていました。でも、「アー、ガッ!」とあやすことは、大夢君と雑談している時に聞いたのです。今回は動画のみということで、動かしやすさを意識して作画しました。このレポートで、皆様の感想を読めることを楽しみにしています。」

    横井照美さん:クリスマスのかざり交錯担当

    「ブラジルのクリスマスは、夏なので、ホワイトクリスマスではないそうです。お正月は自由に友達と会います。クリスマスには、30人~50人もの家族や親戚が集まり、みんなで宴会のようなことをして集まります。(ハッピークリスマス!)パネトーネという甘いパンも用意して食べます。そのほかにも地中海料理や、クリスマス菓子をみんなで作ります。

     遊びでは、「シャレード」のゲームをして、ひとりひとりにプレゼントをあげるためです。

    『ヤチのお人形』は、とうもろこしの葉の話で楽しい話でした。

     クリスマスの工作は、リースとサンタカードを作りましたが、楽しく作っていました。

     サフィーさんの電子絵本は、サフィーさん一家の愛ある生活がよくわかり、よかったです。」

    滑川恵理子さん:電子絵本制作者

    「みなさまに会うのは久しぶりでした。今回は、デジタル絵本の新作『アーッツ、ガッ!笑った 笑った』をみなさんに紹介するのが主な目的で参加させていただきました。

    みなさんご存じのように、サフィーさんたちに三人目のお子さんが生まれました。それにまつわるエピソードもとに作成しました。物語の詳細はウエブサイトで公開されているデジタル絵本をご覧ください。

    「たげんごオリジナルえほん」と検索するか、以下のQRコードをご利用ください。

    デジタル絵本では、サフィーさん一家全員がアラビア語と日本語で熱演します。エピソードの聞き取りから完成まで、半年以上の時間がかかりました。途中夏休みに一家はシリアに帰国したので、その間は中断しました。でも、帰国したおかげで、普段アラビア語に接することがないRさんとO君がアラビア語を話すことに自信をもてるようになりました。絶好の機会だったかもしれません。

    11月の日曜日、サフィーさんのご自宅に伺い、録音を撮りました。最近「難しいお年頃」となっているRさんが気持ちよく協力してくれるかどうか、サフィーさんが気をもんでいましたが、非常にうまく行きました。まずO君の録音を撮りましたが、その間Rさんは機嫌よく待っていてくれました。サフィーさんは二人に時に少し厳しくアラビア語の発音指導をなさいましたが、二人とも期待に応えてくれました。

    クリスマス会当日、Rさんはバスケの練習のため欠席でしたが、O君は参加、いつものように、担当の山田先生の隣に座っていましたね。始まる前、私はO君に声掛けして「デジタル絵本をみんなに見てもらうけどいい?終わったとき、ちょっとO君に話を聞きたいけど、インタビューみたいにしていい?」と聞いてみました。彼は「いいよ」と言ってくれました。

    後で山田先生に伺ったんですが、O君はデジタル絵本の上演が始まるときに「ぼく、アラビア語で話すんだよ」と山田先生に話したそうです。自ら信頼している人にそう話したということは、二つのことばができることに誇りをもっているからだと思いました。それこそが、私たちのねらいですので、彼のこの自発的な行動を何よりうれしく思いました。

    終わったとき、O君にマイクを差し向けて「アラビア語頑張ったね。どうでしたか。」と尋ねると「夏休み、シリアでおじいちゃんたちとアラビア語で話しから…」と答えてくれました。ことばには人がつながっている、親しい人たちとの掛け替えのない時間が彼の中でアラビア語を育てていると実感しました。

    今回も情感あふれる絵を描いてくださった田中ひろこさん、いつも協力してくださる児嶋さん、そしてみなさんに心から感謝しています。」

    グローバルセッションイメージ

    開催日:2022年11月20日(日)10:30~12:20
    場所:ガレリア3階 会議室
    ゲストスピーカー:サムエル・ジードさん(亀岡市国際交流員・カナダ出身)
    コーディネーター:藤田宗次さん
    参加者:11名

    今回のタイトル:相手の視点から自分のことを思う

    自己紹介

    藤田さん(C):今日のゲストのサムエルさんです。サムさんと活発に話し合いをしてください。3年半前に亀岡に来られ、日本語は堪能です。でも、英語で話したい人は英語でどうぞ。まず、自己紹介からお願いします。

    E・Tさん:京都出身で、島津に勤めています。島津での仕事には、外国人労働者もいて、いっしょに働くことも増えています。フィリピン出身の人が多いので、サムさんのカナダということがどのようにちがうかも知りたいです。

    H・Kさん:大津市から来ています。ツアーガイドをしていますが、この10月からようやく解禁になり、海外の人たちが入国してきました。10月は、50万人くらいの入国があったと聞いていますが、11月の今週などは、電車も満員で乗れないくらいの人出があります。今はヨーロッパ系の人が多いですね。春や夏にツアーガイド付きで申し込んでいた人たちが今になって来ているようです。フランス・スペインからが多い様で、年末まで続くでしょう。東京に住んでいる外国人が、京都へ来たいという話も聞きます。今は、醍醐寺や二尊院がおすすめですが。東福寺は夜も入れるようになったと思います。

    S・Yさん:今は亀岡に住んでいます。実家は能勢町です。2年前までは、カナダのトロントに家族で住んでいました。夫は、カナダ国籍を持っていますが、アルメニア出身です。日本語教室をやっていて、亀岡は、外国人にとっても、京都が近いので、いいかなと思っていたら、多文化共生センターの相談員を依頼され、今はそれもしています。

    N・Y君:9才です。(S・Yさんのお子さん)

    S・Nさん: 外国人に対する支援活動をしていて、出前でマンツーマンで支援もしています。京都市にいます。

    S・O君:立命館大学国際関係学科の1年です。立命館宇治高校の1年生の時にカナダへ留学しました。その直前にサムさんにお会いし、カナダの話をお聞きしました。あれから、3年半くらいたったのですね。留学先は、オタワから南へ1時間ほどの町でした。また、つながる話があるだろうと参加しました。

    H・Mさん:日本語教師をしています。ベトナムで教えたこともあります。

    Z・Yさん:中国出身で17年前に日本に来ました。夫は日本人です。この間、フィリピンで日本語を教えていたこともあります。2016年にそこで、看護士資格を持って居る人たちが日本で介護士となるために日本語を勉強していたのです。今はその教え子が10数人来ています。今は民際日本語学校で、中国人学生の生活指導などもしています。また、亀岡市の支援員として、千代川小と亀岡小に毎日行っています。

    児嶋:今回は、Global Sessionを1999年に亀岡市交流活動センターで開始して357回目になります。大体毎月ゲストを招いてやっていたと思います。20年も過ぎたと思うと、ちょっと怖い感じです。

    このGSの約束ごとは2つあり、一つは、「コーディネーターからも当てない」と、「どこからでもセッションの中に入り込んでいい」ということです。よろしくお願いします。

    藤田さん:1999年の開始から少ししてから、私もずっと参加しています。楽しいセッションですね。住まいは亀岡で、30年ほど住んでいます。

    児嶋:藤田さんは、太秦映画村で仕事をずっとされていて、今も、「子どもが映画を作る会」を主宰されています。

    藤田さん:市長さんにお会いしたときも興味を持たれて、それに関する資料を送ってほしいと言われましたが、まだしていません。このGSは、国際的な人がおおいですね。では、サムさん、思ったことを何でもお話しくださいね。

    グローバルセッション開始

    サムさん:はじめまして。サムエル・ジードと申します。3年半前に国際交流員として亀岡に来ました。

     今日は、ちょっと重い話になるかもしれませんが。ご自分がちがう意見があれば、いつでも、聞いてくださいね。

     私は、カナダのオンタリオ州のトロント市の出身です。父は、イギリス出身で、母は、カナダです。ユダヤ人です。キリスト教徒とはちがう習慣もあります。小学生の時にはあまり気づかなかったのですが、中学生になると、「あなたは、ユダヤ人ですね。」と言われ、「何がちがうのか?」と考え始めました。高校生になると、「あなたはユダヤ人」と言われることがあると、何が問題なのかと思うようになりました。日本人から見ると、何がユダヤ人の問題でそうでないのかは全然わからないと思いますが。

    S・Yさん:ユダヤ教を信じているから、ユダヤ人なのですか?

    サムさん:実は、ユダヤ人になるのは、大変なのです。母がユダヤ人だと、子どももユダヤ人になります。でも、父親がユダヤ人でも子どもは、ユダヤ人になるとは限らないのです。両親がユダヤ人だと、子どもはユダヤ人になります。

     日本に来ていると、「何人」かは、意識していなくて、「生きている」という実感はあります。

     カナダは、本当に多文化社会なので、見た目はもちろん、バラバラで、見た目だけに限らず、誰が移民なのかもわからないのです。この点は、日本と大きくちがいますね。

     「カナダ人になりたい」と思ったら、どうしたらいいのかですが、「カナダの国籍を取る。」ことでいいのですが、カナダ生まれの自分から見ると、それでいいのかと思ったりして、ちょっとくやしい感じもします。

    藤田さん:カナダへの移民は、今はアジア人が多いのですか?

    サムさん:トロントやバンクーバーは、そうですね。

    H・Kさん:オーストラリアよりカナダの方が移民として、入りやすいようです。

    サムさん:今はインド人が増えています。カナダの人口は少なくて、3800万から3900万人くらいです。カナダの都市に住みたいという希望が多いですね。

    S・Yさん:トロントやバンクーバー以外では、現地の人と移民の人の英語がちがい、わかってもらえないので、都市に住みたいと思うようです。

    サムさん:カナダに移住して20年たっても英語を話せない人もいます。コミュニティがあるとその中にいれば、生活ができるからです。でも、日本ではそれは、難しいですね。日本語がわからないとなかなか暮らしていくことは難しいと思います。

     6年前に、11ヶ月間、日本に留学していたときに、日本のことを日本人の立場から知りたいと思い、文化人類学の視点から理解できないかと思っていました。その時に、日本語能力を付けないと難しいと思いました。それで、カナダに帰り、ちゃんと勉強しないと身に付かないと感じたので、独学で日本語を学び続けました。3年半前に国際交流員として再び日本に来て、現在は、そのころと比べて別人のようと思います。自己中毒かもしれませんが、泣くような気持ちでしっかり学んだと思います。

     以前の国際交流員でマーガレットさんという人がいますが、現在はイギリスの日本ツーリズムの相談員をされていますが、その人のようになりたいなと思っています。

    児嶋:1989年ころだと思いますが、当時私はブラジルから帰国し、教育委員会の非常勤の指導主事を頼まれて仕事をしていました。その時に、当時の文部省で、ALT(英語指導助手)を中学校に入れ、生徒の英語力を上げるという試みをするので、説明会があるので行ってきてと言われ、行きました。その次年度から全国でALT制度が始まり、亀岡はその1年目から取り入れていました。その数年後、CIR(国際交流員)も取り入れられ、現在に至っています。

     サムさんは、そのマーガレットさんと同じくらい頑張っていると思いますよ。

    サムさん:前任者は、ミシェルさんという人でしたが、その人の日本語力もすごかったです。当時自分は、日本語をある程度できると思っていたのですが、今に比べると、ぜんぜんだめでした。鏡を見ると、白人で、今も日本ではめずらしいですね。そのため、どこへ行っても、覚えられます。

     では、自分では亀岡で何ができるのか?と考えました。それで、自分で亀岡のCaféや食事を出すお店の80%くらい訪ねました。

    S・Yさん:十分国際的なことをしていますよ。

    サムさん:仕事を始めて半年で、コロナ禍のため、帰国できなくなりました。それならばと、亀岡にいることを充実させようと考え、「ひと」として話そうと考えいろいろな人たちと声をかけ話をしてきました。でも、新しいところへ行くと、観光客とみられたり、日本語ができないだろうと英語で声をかけられることもたくさんありました。でも、「見た目がちがってもこれでいい」と思うようになりました。人の考え方を変えさせることはできないが、相手が、自分で「変えたい」と思ったらひとは「変わる」と思います。

    藤田さん:「京都人」は、保守的ですね。京都人は、あまり打ち明けないですが、いったん変わるとこころを開いてくると思います。いったん打ち解けると相当かわります。でも、日本人にとってもそうなので、外国人にとっては、大変だろうと思います。外国人を見ると、外国語が話せないと思う人は、外国人が来ると引っ込んでしまうでしょう。

     映画村でも労働者が不足していたときに、フィリピン人3人が仕事に来ていたことがありますが、彼らは時間が来たら引き揚げてしまうのです。このようなこともありましたが、日本人も慣れてくるとこころを開いてきますね。

    S・Yさん:日本人は、日本で長く日本人としてだけいたので、「言わんでもいいやろ」などと思うのでしょう。カナダでは、違う文化のひとばかりなので、「伝えないと伝わらないので、話す」ことが重要だと思えてきます。

    藤田さん:わかっているだろうと判断しても、「あれ、通じてない」とわかると、話をする必要がありますね。

    サムさん:自分のことは隠す必要はないですね。自国の他に住むと、伝えないと誰も助けてくれないということを知るのですが。

    S・Yさん:日本では「聞く」ことが大切と思われているようですが、カナダでは、「自分の思いを持って来て話してほしい。そうでないとわからないから」という考え方のようです。このGSのように能動的な話合いは少なくて、先生の話を「聞く」ことが多いようですね。

    サムさん:カナダの文化の紹介で、学校へ行くこともありますが、急にクイズをやったりして、聞くだけでなく参加してもらう形を取ることもあります。

    S・O君:いろんな国の人たちといっしょに話をすると、欧米の人たちはテンションが上がると何でも話すのですが、日本人は少し遠慮して遅れる印象があります。どこでちがいがあるのか、見て行きたいと思います。

    藤田さん:通常、日本ではdebating(討議する)をあまりやってきませんでしたね。昔の人はそれを拒否することもあったと思います。

    サムさん:カナダでは、社会的に正しい・正しくないという意見がしっかりあって、異なった意見を言うと、悪いという人もいます。

    児嶋:先ほど、外国人の顔をしていると取り扱われ方がちがうという話がありましたが、ブラジルにいたころの話を思い出しました。子どもたちを学校が終わったら、迎えに行って帰らせるのが普通の体制でした。その日もふたりの子ども(小学生と中学生の女子)を歩いて迎えに行って帰り道で、若い青年が真向かいから歩いてきて、「セニョーラ、クイダード」と大きな聞こえる声で言ったのです。「おくさん、あぶないですよ。気をつけて」というポルトガル語です。私はびっくりして、その後ろを見たら、ギャング少年団みたいなグループがぐいぐいやって来るのです。「これはあぶない」と思って子どもといっしょに、車の通っている車道をあわてて横切り、向こう側の舗道に走りました。その後で、ふり返るとギャングのような軍団が、さっきいた道にせまっていました。あの男の子が知らせてくれたから助かったと胸をなで下ろしました。このように、顔がちがっても、言葉が分かりさえすれば、助けてくれることもあると実感しました。そのことを今思い出しました。

    サムさん:みなさんは、日本にいる外国人に何語で話しかけますか?

    S・O君:英語で話しかけようかなと思うかもしれません。でも、自分のレベルで通じるかなと思うと日本語で話かけるかも。

    サムさん:なぜ英語で?

    S・O君:カナダにいたとき、僕に英語で話しかけられて、その人の英語の方が正確だなと思ったことがあります。

    S・Yさん:夫はカナダにいますが、アルメニア人で最初、ドイツ語で話しかけられたようです。外国人というのは、ドイツ人だと思い込んでいる人もいて。

    S・Nさん:最近、「かんたんなにほんご」をやっていて、「日本語を話せますか?」と聞いて日本語で話すと思います。通じなかったらどうしようかと思いますが。外国人だから英語ができるというのは、思い込みだと思います。

    Z・Yさん:このあいだの民際日本語学校のスピーチコンテストで、「私の日本語は英語っぽいですか?」というタイトルで話した学生がいました。彼女は、「どこにいても、日本語で話しても、日本人は英語で返して来るのです」と。それで、「日本語で話してください。私の日本語は英語っぽいですか?」と聞いたと。私は、外国人にも日本語で話しかけた方がいいと思います。

    サムさん:日本にいる時には、日本語で話しかけ、カナダにいるときには英語で話しかけたらいいのでは?

    Z・Yさん:中国人の友人で観光で来ても、日本語で話してくれるとうれしいと言っています。

    藤田さん:話が通じるとうれしいですね。

    H・Kさん:外国にいて観光客に道を聞かれることもあります。フランスではフランス語で聞かれます。日本では、この人は日本語を話すかなと分からないときには、May I help you? と聞くこともあります。少し、自分が知っていることばをいうと、会話に入りやすいと思います。

     スイス人は、4カ国語を話せる人もいます。外国にいて、日本語で話かける人はすくないですね。

    サムさん:留学生の時に、話せなくてくやしかったので、ちゃんと勉強しようと思いました。

    藤田さん:日本でも津軽海峡のある青森のことばだけで話していると、何を言っているのかわからないです。こちらの言うことは通じるのですが、向こうの言うことはわからないのです。

    サムさん:ユダヤ人の社会でも、日本のように成人式があります。男性は13才で、女性は12才です。その時に成人になる人が、ヘブライ語で唱えるのですが、それができなければ、大人になれないと言われています。また、家族の知り合いが参加し、ユダヤ人としての哲学や倫理について学びます。

    H・Kさん:トランプ元大統領の娘のイバンカさんは、ユダヤ人と結婚し、ユダヤ教に改宗したと聞いています。試験や儀式もあるのですね。

    藤田さん:クリスチャンは、洗礼を受けたらクリスチャンになるのですか?

    サムさん:私は、ユダヤ教のヘブライ語の文字を見て音は出せるけれど、中身はわかりません。あいさつしかわかりません。

    H・Kさん:学校でヘブライ語は学ばないのですか?

    サムさん:そういう学校行っていないですね。トロントにはユダヤ教の教会もあります。聖書や食事の内容も大切です。

    藤田さん:十戒のようなのもあるのですか?

    サムさん:旧約聖書に書いてあります。もともと旧約聖書からはじまり、新約聖書やイスラム教も派生したのです。ルーツは同じです。イエスはユダヤ人だったのが、亡くなってからキリスト教はできたのです。

    H・Kさん:イスラエルのエルサレムには嘆きの壁があります。

    藤田さん:日本人は、どこにでもお参りしますね。大木や巨岩にも。

    サムさん:日本の宗教とはかなりちがいますね。宗教行事が、文化行事になっています。神社に参ったり、お寺で葬式をしたり。

    藤田さん:日本には、仏壇もあるし、神棚もあるし。教会のように、毎週行ってみんなで考えたりするわけでもなく。

    サムさん:カナダでは、宗教の中に生活があり、日本は生活の中に宗教があるのですね。

    S・Yさん:仏教を信じているわけでもないのに、仏教文化としての行事はやりますね。

    H・Mさん:欧米の人に聞かれたことがあります。仏教に関わりがなくても、葬式だけは仏教形式にしたり、結婚式はチャペルでしたり、天皇家は神道だし、どうしてと。自分の家も仏教ですが、何宗(曹洞宗など)か知らないです。

    S・Yさん:外国の人に聞かれたことがありますが、「寺と神社のちがいは」とか。

    S・Nさん:質問されることも多いですが、同じ事を何度も聞かれることもあります。どうしたら、おだやかに続けられるかなんて思います。

    サムさん:質問に答えるだけでなく、自分の思いや考えも話したらいいと思います。

    S・Nさん:興味のない人をこちらに向かせるのはどうしたらいいのかなどと考えますね。

    児嶋:あきらめないことです。ひとつでわからなければ、ちがう言い方でアプローチするとか。

    サムさん:いろいろやってみたらいいですね。

     今後は、とりあえず、仕事をしながら日本で家庭を持ち、父親となり、子育てもしていきたいと思っています。日本の社会で、何かの支えとなっていけたらと考えています。

    E・Tさん:今日のような話を日本人ともしてみたいと思います。

    藤田さん:M・Sさんは今、オーストリアのグラーツという町に行っていますね。外国語を学ぶ困難さは知っていましたが、ここに留学している日本人のSさんは、イギリス、ベラルーシ、ロシア、ドイツに留学し、今はオーストリアにいます。そして、「ロシア語を学んでいたので、ドイツ語は簡単だった」と言っているとか。いろいろな人に会ったそうです。

    サムさん:言語をたくさん学ぶだけで、人が変われるわけではないですからね。

    E・Tさん:わたしは、まだ外国に行ったことがないのですが、ここでいろいろな人に会えました。

    藤田さん:そろそろ時間が来ました。また、話したければサムさんに連絡をとってどうぞ。

    グローバルセッションイメージ

    開催日:2022年10月30日(土)10:30~12:30
    場所:ガレリア3階 会議室
    ゲストスピーカー:オジュグ・タデウシュ・アダムさん(ポーランド出身・大学講師・大津市))
    コーディネーター:亀田博さん(ツアーガイド・大津市)
    参加者:12名

    今回のタイトル:「スラブ諸民族の世界。現在を理解するために」

    参加者自己紹介

    亀田博さん(コーディネーター):自己紹介をどうぞ

    S・Oさん:(英語で)多文化共生センターともいっしょに仕事をしています。バックグラウンドが多様な人たちと仕事をしています。ロシアとウクライナとの戦争が起こって入る中で、また、いろいろな世界にまたがる課題がある中で、普通の生活をどうやっていくかという課題があります。今日は、ヨーロッパの上の国々に近いポーランド出身のオジュグさんに話を聞きたいと参加しました。

    W・Sさん:2010年に日本に来て元学園大の卒業生です。外国人のためのキャリアカウンセラーの仕事をしていますが、ひまわり教室(外国につながる子どもや保護者の学習支援教室)の指導もしています。今後ウクライナから移住して来る人たちの支援もしたいと考えています。

    M・Fさん:オジュグさんとは、お久しぶりです。私は、このGSは始めから参加しています。(1999年開始)いつもこのGSでは、新しい事に取り組み、それに魅力を感じてきています。今日は、ウクライナの人々が最初に移住したポーランドのお話を聞きたいと参加しました。

    Y・Iさん:亀岡に生を受けて65年。井の中の蛙ですが、今日はお話を聞きたいと参加しました。(みんなのネットワークのメンバー)

    Z・Yさん:中国出身で、日本に住んで17年になります。日本語教師として、フィリピンで1年間過ごしたこともあります。このGS」は、2021年の9月から参加しています。オジュグさんの昨年12月の「ポーランドのクリスマス」にも参加しました。今日もいろいろ話を聞きたいと思っています。

    M・Kさん:みんなのネットワークのメンバーです。児嶋さんとは、30年以上の付き合いです。今年は、仕事も少なくなり、土日の時間があり、参加しました。テレビや新聞では毎日報道されていますが、知らない世界について勉強できればと参加しました。

    E・Tさん:GSに参加し始めて8年目になります。ウクライナやポーランドに関しては中学校や高校で習ったぐらいの知識しかないので、新しい発見をしたいと参加しました。児嶋さんの生涯学習共生賞の受賞おめでとうございます。

    R・Sさん:昨年のオジュグさんの「ポーランドのクリスマス」にお会いして2回目です。ひまわり教室で学習支援をしています。ポーランドに関しては、中学生の時に、『祖国へのマズルカ』という本の感想文で賞をもらい、親近感がありました。内容は、苦難の歴史の中で自らの文化を守り続けたというものです。今日も楽しみにしています。

    Y・Hさん:昨年の「ポーランドのクリスマス」に私も参加しました。はじめて外国へ行った旅はハンガリーでした。ウラル・アルタイ民族の国であったと思います。こんどは、ショパンの母国でフランスへ逃れた歴史のあるスラブ文化の国について学びたいと思います。攻める方も、攻められる方も、人々の暮らしは大変ですね。

    児嶋きよみ:オジュグさんが、日本語でお話をされているのを聞きながら、母語ではないのにうまいなあと思っていました。同時に、何カ国語が話せるのだろうかと考えていました。

    亀田博さん(C):オジュグさんと同じく、大津市に住んでいます。オジュグさんは、湖西の方の坂本区(オジュグさんは、坂本に15、6年在住)で私は、湖東です。オジュグさんは、同志社大学や産大で教えておられます。私は、ツアーガイドですが、ここ数年間は大変でした。今は出国できますが、円安で、出かけるためには、飛行機代が高いです。外国から日本に来る人はいいですが。でも、今、日本からヨーロッパに行くと、倍かかります。中国とは今は鎖国状態で、行くとしたら100万円くらいするようです。11月からは、台湾や、ベトナムへは行けて安いようですが。でもアメリカなどでも物価が高く、カップヌードルなど日本では150円ほどですが、アメリカでは700円だそうです。それに比べると日本はまだ、物価は安いでしょう。10月11日から日本入国の制限がなくなりましたが、中国から来なくては関西エリアは営業になりませんね。今は沖縄や北海道行きがおすすめですね。

    オジュグさん:自己紹介からということですが、どうしましょうか?ポーランドに生まれ、人生の半分以上を日本で過ごしています。でも、日本人にはなれないし、もうポーランド人でもないのです。ちょっと微妙ですね。好みとしては、楽しい話が好きです。でも今日は、ちょっと難しい話になりそうで。

    グローバルセッションスタート

    オジュグさん:世界のいろいろな出来事が続いていますが、そのたびに無力感に襲われますが、それに負けないで、「なぜ、起こるのか?」「何ができるのか?」を問い続けて行きたいと思います。

     歴史については、客観的な議論はできそうにないので、ポーランドから見た歴史、スラブ民族の歴史を見て行き、現状を知り、理解してほしいと思っています。

     「ロシアのウクライナ侵攻」についての話は一個人の見解として聞いていただければと。「この世の中は、どうなっているのか」「なぜ、21世紀にこのような事がおこるのか?」と一緒に考えてみましょう。

     突然にロシア侵攻が始まり、ウクライナ人もびっくりして逃げ始めました。第2次世界大戦以降このような事が起こるとは誰も思っていませんでした。もちろん、ヨーロッパ以外からの移民はたくさん来ていましたし、ヨーロッパとして受け入れていたと思います。

     ウクライナに対しては、身内の感覚ですが、実際には、ウクライナとポーランドは歴史的には常に友好関係であったとは限りませんでしたが、民族的にはポーランドに近いはずなのに。

     私は、以前は、ウクライナ語にあまり興味はなかったのですが、最近ニュースなどを見ますと、とてもポーランド語に近いです。キリル文字は、遠い感じですが、ことば自体は近いです。地域紛争もあり、ソ連の一部となっていた時期もあり、特に親しい関係でもなかったとは言え、今回、ウクライナ人がまず、ポーランドへ逃げ込みました。現政権は、自国ファーストで、どうなるかと思っていたら、今回は、快く、ウクライナ人の入国を認めました。

     ところが、ポーランドの国境は、EUの国境でもあり、実はロシア侵攻が始まる前この国境を越えるのは大変でした。今回は、さまざまな手続きを簡略化して、しばらくいられるように許可を出す対応をしました。安全な場所に逃げられるようにと。

     1ヶ月の間に、250万人から300万人が入国しました。モルドバ、スロバキアなど他の国へも、またポーランドを経由して西ヨーロッパ諸国へ行く人もいました。ポーランドの人口は、3700万人から、3800万人です。1ヶ月の間に、総人口の約10%が入国したことになり、不思議な現象が起こったわけです。

     最初は、受け入れを良くは思っていなかったポーランド人もいましたが、実際にはウクライナ人を受け入れ、ポーランド全国に、支援センターができるシステムを作りました。

     ただ、長くなって来ると「助けたい」と思っても様々な問題が出てきます。「お金がない。」「暇がない。」というように。最初は、一ヶ月くらいで解決し、帰国できるだろうと多くの難民が思っていたようですが、それが叶わなかった。

     ウクライナからの移民は、お母さんと子どもがほとんどで、男は残って戦うことになっていますね。普通の暮らしがしたくても家族がばらばらで、元の生活に戻れる可能性はあるのだろうかと言う不安が出てくるはずですね。少し落ち着いたら、精神的ケアも必要なはずです。

     また、逃げた人たちも、いつまでも人の情けを受けるだけでいいのかと仕事をしたいでしょうが、言葉も分からないとなかなか難しいです。

     長期化してくると、支援をしてきた人たちの気持ちも落ちてくるはずで、物資の不足もあり、ボランティアもへるでしょう。普通の人たちの気持ちも限界が見えてきます。

     一日でも早く、戦争が終わってほしいというのが選択肢として上がって来ないのかと思います。

     なぜ、この戦争が起こったのか?その理由を考えると、一つは歴史に対するあやまった解釈から起こったのではないかと思います。また、この戦争の余韻が強ければ、将来もどこかで起こると考えます。

     どうしてこのようなことが起こったと思いますか?

    Z・Yさん:本当のところ、わかりません。このような事が起こっても、そう簡単に逃げられるものでもないと思いますし。自分のアイデンティという基盤がありますし。

    Y・Iさん:ロシアがなぜ、ウクライナに手を出したのか?また、さらに侵攻していくのはなぜか?プーチンでなくても、そうしたのかと考えるとわからないことが多いです。

    オジュグさん:かつての自国の土地を取り戻したいと思うのはなぜか?

    Y・Iさん:このこともあり、台湾も心配になって来ていると思います。日本が手助けをしてインフラ整備をしても、中国が取り上げるだろうかと。

    オジュグさん:何かをしたり、貢献したという事実があると、権利が発生すると簡単に思ってしまいます。

     ここでまず、みなさんに司馬遼太郎さんの歴史に対する考え方を知っていただきたいです。みなさんは、本などで、「日本の歴史」とか、「中国の歴史」などを読むと、なるほどそれが、事実だったのかと思うでしょう。

    S・Oさん:歴史は、勝った者が書いたはずで、うそが塗り替えられることもあると思います。時代によってちがう取り方をしていると思います。

    オジュグさん:司馬遼太郎は、歴史とは、なんとなくあるという錯覚をし、史実というと、実在していると思ってしまう。でも、語られて初めて存在すると言えると言っています。

     履歴書に書くような、どこそこの小学校卒業~大学卒業と言う紙を見ても実際はその人のことを何もわかりません。その人に語ってもらわなければ、その人の歴史はわかりません。

     インドのネール首相は、獄中で娘さんのために、世界史を書いたそうですが、『ネールの世界史』(ネールが語った歴史)として存在しています。

     このように、「語られて初めて歴史はある」のです。納得しますか?

    R・Sさん:納得します。歴史と言っても時の人が正当化すたり、後に矛盾することがありまね。

    オジュグさん:司馬遼太郎はもうひとつの例を言っています。

     「知っている人を見かけて、きびしい顔をしていたので、失恋したのかなと思ったが、実際には、悪い物を食べてトイレを探していたということだった。」 語られた事と事実はちがう場合もあると。

     「ウクライナの歴史」とか、「ロシアの歴史」という本は沢山あるでしょう。でも、まずその国の現代像を伝えるウクライナファンブック』などを図書館で借りて読んで見てください。歴史の本を読むときには、司馬さんの話を頭におきながら、読んでみてください。

     ヨーロッパの歴史は学校で学びましたか?

    Y・Iさん:芸術に関する歴史でしか学んだ覚えがないです。

    オジュグさん:実は、今のヨーロッパは、若い国ばかりです。日本と比べれば。

    BC300年ころは、中欧や東ヨーロッパには人は住んでいたでしょうが、国家はなかったです。

    BC150年ころには、ギリシャやローマ帝国が動き出します。スラブの国はまだ、よくわからない状況でした。

    AD560年ころになると、ビザンツ帝国ができ、スラブ民族が歴史に登場します。  

    AD700年ころになると、ブルガリア・セルビアなどのスラブ国家も出てきます。ハンガリーは、ちょっとちがいますが。

    AD853年ころになると、フランク帝国ができ、ドイツの元が出てきます。ハンガリー以外の中欧や東ヨーロッパでのスラブ民族の特徴が出てきました。

    AD885年には、スラブ民族の国家としてのキエフができました。ロシアはまだ国としてはできていません。スラブ系としては、モルビアや、セルビアやブルガリアが成長してきました。

    AD966年には、ポーランドが出てきます。ボヘミアも。

    AD977年10世紀以降になるとスラブ諸民族同士の戦いも激しくなっていきます。

    AD1023年には、ポーランドが土地の拡大を始め、スラブ民族としては、仲良くくらしていた時代が長く続きませんでした。

    AD1073年になるとキエフ大公国の衰退が始まります。

    AD1249年になると、モンゴル帝国のヨーロッパ攻めが始まり、キエフ大公国が力を失い、国家として消えていきます。

    AD1300年には、ウクライナもロシアもなく、リトアニア(大国家)が力を増していきます。この時ポーランド王朝は終焉を迎え、リトアニアとポーランドを合せたヨーロッパ最大の国家ができ、リトアニア王が統治しました。(今のウクライナの半分も)

    AD1476年になると、Muscovy(モスクワ)公国が強くなっていきます。

    15世紀にはオットマン帝国(オスマン帝国)ビザンツ帝国を滅ぼします。

    AD1552年には、ビザンツ帝国の跡継ぎとして、ロシアが出てきました。

    AD1569年 ポーランド=リトアニア共和国となり、議会制民主主義をとる欧州の広大な国として君臨しました。その後は、対外戦争の時代になっていきます。

    18世紀後半には、ポーランド=リトアニア共和国の国土が分割されました。(第1次ポーランド分割)

    AD1793年 ポーランド・ロシア戦争 第2次ポーラン分割

    AD1795年 第3次ポーランド分割 ポーランド国家は消滅し、広大な領地はロシア帝国に組み込まれました。

    ロシアへの独立運動の時代が続きます。

    AD1918年 第1次世界大戦が終結すると、ベルサイユ条約の民族自決の原則により、共和制のポーランド国家が再生しました。

    AD1945年 第2次世界大戦終了後、ポーランドはソ連の占領下におかれ、ポーランド人民共和国と定められました。(1989年までの44年間は社会主義体制時代)

    AD1989年9月7日から第3共和制となり、ワレサ大統領が誕生した。

    AD1993年 ロシア軍がポーランドから全面撤退した。

    AD1999年 ポーランドがNATOに加盟

    AD2004年 EU(欧州連合)に加盟

    AD2015年 EUと対立続く

    AD2022年 ロシアへのウクライナ侵攻が始まる。

    オジュグさん:これまで歴史を見てきていかがでしたか?

     ポーランドは分割され、国のない時代もありました。その他にも国を失った民族はたくさんありました。「これから、どうしていくか」「協力しながら、自分たちの道を歩む」方法しかないのではないかと思います。またどの民族にも自分のことを決める権利、自分の独自性を保つ権利があると思います。それによって多様性のある異文化はおもしろさが生まれると思いますね。

     インドのモディ首相は、最近このようなことを言いました。「今は、戦争をする時代ではない」と。ウクライナに対しても「麦を買う」のであって「奪う」理由は成り立たないと思います。私は、明言だと思います。見てきましたように、スラブの歴史は複雑です。

     ただし、「大変な時代は助け合う・助け合いたい」

     このように、「将来に向けて協力しながら、築き上げて行く」必要があるのではないでしょうか?

    Z・Yさん:勉強になりました。ロシアだけでなく、戦争はもうやめてほしいです。

    オジュグさん:ウクライナへの武器の支援をやめたら、戦争はなくなるだろうと言う人もいますが、そうでしょうか?争いを無くすために殺された方がいいという議論は成り立たないと思います。

    S・Oさん:ウクライナからの人々が入ってきた時のポーランドの人はすごかったと思います。政治が動くより先に支援団の人は動きましたね。

    M・Fさん:経済的に豊かでない状体で受け入れるのは大変だったでしょう。

    オジュグさん:実際に、ポーランドはそれほどは経済状況は悪くはなかったのです。

    M・Fさん:それでも何百万人も受け入れるのは大変だったと思います。 

    オジュグさん:ロシアに対しては、ポーランド国民は楽観的ではなかったので、「やっぱり」と思った人が多かったでしょう。第二次大戦中、ロシアとドイツの密約もあり、ポーランド人もたくさん殺されていましたので。今でもそのことが人の記憶に残っているのです。 

    GS後の感想・質問

    S・Oさん:今日は本当にありがとうございました、久々に目から鱗のお話し、感情が高ぶることもあり充実した時間でした。個人的に、オジュグさんと歴史や民族、未来についてお話をもっとしてみたいと思いました。ご紹介ください。歴史という史実、これが当たり前だと思わされる僕たちの危うさ、語られて初めて、歴史が在る、そのことに、ついて改めて考えさせられました。また、日本人として司馬遼太郎という偉大なる知の巨人がいたことを知らされました。帰りに、図書館で『翔ぶが如く』を借り、読みたいと思います。時間が限られた中だったが、僕は物凄い充実した時間を持てました。改めまして、感謝の言葉をオジュグさんにお伝えください。どこの大学で教授されているのでしょうか?

    M・Fさん:有難うございました。難しいことですが、どのようにこの戦争が治まるとお考えかオジュグさんのご意見をお聞きしたかったです。

    亀田博さん:昨日は、お疲れ様でした。グローバルセッション時間が足りなくて申し訳ございませんでした。歴史の解説は、大変勉強になりました。 今回、グローバルセッションで、オジュクさんと、平和ぼけのテーマをとりあげて、参加者の皆さんに意見をディスカッションする予定だったのですが、時間がなかったので、オジュクさんが、皆様に意見を聞きたいと言うことでした。 

    (平和ボケ: 戦争や安全保障に関する自国を取り巻く現状や世界情勢を正確に把握しようとせず、争いごとなく平和な日常が続くという幻想を抱くこと。 あるいは自分を取り巻く環境は平和だと思い込み、周りの実情に目を向けようとしないことなどを意味する表現、主に安全保障などに無関心である日本国民に向け、皮肉を込めて用いられることか多い。)

    グローバルセッションイメージ

    開催日:2022年9月24日(日)10:30~12:30
    場所:ガレリア3階 会議室
    ゲストスピーカー:玉野井麻利子さん(UCLA名誉教授・京都市在住)
    コーディネーター:藤田宗次さん
    参加者:13名

    今回のタイトル:「戦争孤児:日本、そしてウクライナ」

    参加者自己紹介

    A・Oさん:曾祖母が孤児の支援をしていたと聞いています。(京都新聞元記者:亀岡にも在住)

    R・Sさん:ひまわり教室の指導者です。

    S・Oさん:立命館大学国際関係学科1回生です。この学科には外国人留学生が多いです。以前に玉野井先生のGSに参加したことがあり、立命館大学院でも教えておられたということでまた、お会いしたいと思い、参加しました。(児嶋の孫です)

    A・Uさん:ひまわり教室の指導者です。

    A・Tさん:外国語大学を卒業し、一般企業に勤めていますが、友人の誘いで参加しました。(スペインやアルゼンチンに3年間滞在経験あり)

    S・Tさん:亀岡市役所の文化国際課に勤務しています。亀岡国際交流協会の事業部会などで児嶋さんと会っています。京都外国語大学では、フランス語を専攻しました。

    H・Kさん:ツアーコンダクターをしています。今はまだ、仕事としては動けない状況が続いています。大連市から来られた戦争孤児を案内したことがあります。なかなか難しい課題がありますね。今はウクライナへ送られた子どももいて。

    Z・Yさん:17年前日本に来て、日本人の夫と結婚し、今は、日本語学校で教師をし、亀岡では学校への派遣教師を2校でしています。ひまわり教室の指導者もしています。

    Z・Qさん:民際日本語学校で日本語を学んでいます。中国出身です。

    M・Pさん:民際日本語学校の学生です。

    児嶋:今回は1999年にGlobal Sessionを初めて今回は355回目になります。大体月に一回のペースで続けてきました。ルールは、コーディネーターはいますが、「当てない」です。でも、誰かが話していても、横から入ってきてもいいです。この二つだけです。

    藤田(C):私は、早い時期にGSに入って、そのまま続けて来ています。最初は、外国人の参加者も   多くて、英語の勉強になるかなと思っていたのですが、だんだん変化してきました。でも、新   しい事を知ることに魅力を感じてきています。では、玉野井さま、どうぞ。

    玉野井さん:UCLAで教鞭を取って居たときには、もちろん英語でしたが、立命館大学から要請があったときには、英語でも日本語ででもと言われ、日本語の方が学生がリラックスするので日本語でやることにしました。

    児嶋:玉野井さんとお会いしたのは、私が停年退職して大学院に入学し、修士課程を終わり、博士課程に入ったころの夏休みの特別講座(2013年ころ)であったと思います。それ以来のお付き合いになります。

    講座開始

    玉野井さん:トピックを「戦争孤児」という難しいものにして「しまったな」と思いました。「孤児」ということばは、実は古い言葉ではなくて、明治時代以後に使用されるようになりました。それまでは、「みなしご・すてご・ててなしご」などが使われていたと思います。そのために、「孤児」(orphan)って何?と考えてしまいます。「親が居ない子」「片親しかいない子」(英語ではhalf orphan)「親が行方不明の子」など、ひっくるめて孤児と呼ばれることがありますが。。。それに、加えて、孤児って「子どもでなければならないの?」といった疑問も湧きます。30才で親を亡くした人を孤児と呼ぶでしょうか、孤児は子どもでないといけないのなら、幾つの子供なら孤児というのでしょうか。このように考えると、「孤児」とは定義がしにくいことばだなと思います。

    そこで:

    • 孤児とは何か?
    • 子どもとは?
    • 戦争孤児とは?

    などの課題が出てきました。

    1.孤児とは?

    孤児の「孤」の右のつくりはなぜ「瓜」なのか?

    山上憶良の「瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして思はゆ」にも瓜の歌があります。魯迅という20世紀はじめの中華民国の作家で、日本に留学もした人ですが、彼も自らの作品の中で「瓜」と「子供」を関連させて語っています。瓜に「子」をくっつけると「孤児」となるわけですが、「瓜はどんどん繁殖する作物であるのに、一つだけだとさびしく見える」ということでしょうか。

    日本では古代から慈善の対象になっていた人たちがいます。

    61才以上の男やもめ、61才以上の未亡人、61才以上で子どもがいない老人、66歳以上の老人、病人、精神あるいは身体障害者ですが、それらに加えて14才以下の父親のない子は「孤」と呼ばれ、やはり慈善の対象となっていました。

    2.「子ども」観の歴史について

    21世紀を生きる私たちは「子ども」をどう定義しますか? 多分 5、6才から14、15才くらいであり、「子ども」は大人とは違って,教育を受けなければならない、ではないでしょうか。しかしこの考えは17世紀ごろに作られた、かなり新しい子供観なのです。

    フィリップ・アリエスというフランスの歴史家は、その著書『子どもの誕生』(1960)の中で、私たちが今考える「子ども」というもの、つまり大人とは違う子供、という概念が生まれたのは17世紀以後で、それ以前は、子どもは「小さなおとな」と見なされていたと書いています。

    日本でも石川謙が『日本における児童観の変遷』(1949)の中で、中世の終わり頃(17世紀)までは、子どもは「小さな大人」として扱われたと書かれています。確かに親のために自ら自害する子供、あるいは自分の子を殺す親、など武家社会では相当ありましたし、子供は大人並みの労働をしていたのです。

    ヨーロッパにおける17、18世紀前の言説は子供を子供として扱っていません。例えばパスカルは「理性のない子供は人ではない」というようなことを言っていますし、かの有名なルソーは、放蕩生活の挙句にできた自分の5人の子どもを自分の手で孤児院に連れて行った、という事実があります。

    ここでいくつか「労働力としての子供」を見てみましょう。

    • これは1910年代の長野県で撮られた写真です。どうみても子どもとしか思えない女の子が、群れをなして、子守として働いています。
    • これは20世紀初めにアメリカでとられた写真ですが、とあるボタン工場が「小さな男の子を求める」というポスターをかかげています。アメリカに移民の子供としてきた子どもたちは、10歳ぐらいから働いていたのでしょう。

    藤田さん:(長野の写真では)子どもが子どものめんどうを見ているのですね。

    玉野井さん:そうです。子守は他人の子供の世話をしています。妹や弟の子守りではないのです。さらに「子ども観」は江戸から明治になると大きく変わりました。「親の子供」という考えから「国の子供」になったのです。親が教える教育から、国が教える教育、となり、教科書も国が配布するようになりました。同時に言葉も変わります。「みなしご」を「孤児」というようになりました。「捨て子」をすることは罪となりました。この変化を沢山美果子さんは次のように記しています(『江戸の捨て子たち』)。江戸時代には親が捨て子をすることは多くあった。ただ子供が捨てられても生きるように、である。捨て子は大体3、4才以上で、乳児ではないこと。捨て子の捨てられたところは、裕福な家の門の前や、お祭りで人がたくさんいるところ、だったそうです。近代に入ると、捨て子はだんだん消えて行きます。ですが、子供の売買に変わって行きます。堕胎は間引きと言われ、これももちろん罪となりました。

    3.「戦争孤児」とは?  

    さて、ここで「戦争孤児」についてお話しします。

    「戦争孤児」ということばは、1894~1895年の日清戦争や日露戦争から使われるようになります。しかしこの場合、戦争孤児は亡くなった親が職業軍人か、徴兵された兵隊です。そして残された家族には国による保護がありました。 ただし階級も考慮されています。職業軍人の家族は、徴兵された兵隊の家族よりより多くの援助を得たのです。

    ところが15年戦争(満州事変から太平洋戦争 1931−1945)になると、戦争孤児にかかわる状況は大きく変わります。

    連合軍による日本の空爆は1942年から1945年まで日本の各地で繰り広げられました。1945年3月10日の東京空襲では、105,400人の民間人が1日で死亡したと言われています。空爆の犠牲者は終戦時202,975人まで増えたそうですが、最後の空襲、つまり広島と長崎に落とされた原爆で亡くなった方々の数は当時掴めていません。原爆は時間をかけて人を殺すからです。つまり15年戦争では軍人の親を失った戦争孤児も増えますが、急激に増えたのは民間人の親を失った戦争孤児なのです。

    民間人の親を失った戦争孤児の数ははっきりとわかっていません。1948年に行われたGHQの実態調査によると、123,511人という数字が出ています。しかし現実はもっと多いでしょう。

    その理由は:この中には1948年以前にはすでに孤児として親戚に預けられていた子供が含まれていないこと。原爆孤児が含まれていないこと。戦時中に朝鮮、台湾、中国から日本に移住した子供で戦争孤児となったものは含まれていないこと、などがあります。

    軍人、徴兵された兵隊を親にもつ戦争孤児と、民間人を親にもつ戦争孤児との間には大きな差があります、そしてその差は今でも続いています。前者は日本の占領期間のわずかの間を除き、日本政府から年金を与えられています。そうした援助は孫の代まで続いているのです。ところが民間人の親を持つ戦争孤児にはなんの援助もありません。親は戦争のために犠牲になったにもかかわらずです。

    民間人の親を持つ戦争孤児は長い間自らの経験を公に話しませんでした。それにはいくつかの理由があるようです。まず戦争孤児としての生活はあまりに苦しく、思い出すことも苦痛であった、ということです。私が長い間お付き合いしている金田茉莉さん(現在88才)は戦後親戚をたらい回しにされ、誰からも厄介者扱いを受けました。 それでも親戚の悪口など、生きている間には話すこともできず、むしろ記憶を話したりすることへの反発を感じ、なかなか話ができなかったと言われています。おまけに戦後の日本は「戦争孤児」のイメージは決して気持ちの良いものではありません:警察に「刈り込み」される「浮浪児」や「不良児」のイメージです。戦後社会は戦争孤児を暖かい目で見たでしょうか。金田さんは1990年代に入ってようやく「戦争孤児の会」を立ち上げられました。

    1956年2月25日には、朝日新聞に「この子たちの親を探そう」という記事が掲載されています。戦後10年以上も経ってから戦争孤児の親を探そう、という運動が始まったのです。しかし親に巡り合えた子供たちは多くなかったようです。

    グローバルセッション開始

    藤田(C)さん:これからセッションを始めますので、どうぞ。

    児嶋:今も、ヤングケアラーとして、子どもが兄妹のケアをしている子どももいるなあと思って聞いていました。

    R・Sさん:亀岡の児童養護施設として青葉学園がありますが、この学園ができたわけを聞いたことがあります。戦災孤児として浮浪児などの刈り込みをされた子どもたちを何とかしたいと、親がいない子どもさんを収容する施設を作られたと。現在は親がいないから来ている子どもさんは、少ないようですが。

    玉野井さん:アメリカに孤児院ができたのは、18世紀のようですが、二親ともいない子どもは預からなかったと聞いています。保証人がいないからです。つまり片親がいないと孤児として扱われなかった、ということです。孤児はストリートチルドレンと呼ばれ、オーファントレインに乗せられ、農村に運ばれたとか。これも、19世紀、20世紀の初めまで続いたようです。

    A・Oさん:アメリカの転換は何時だったのでしょうか?今は少なくとも農村に集団で送ってはいないのではないでしょうか?アメリカでは、虐待はニュースにもなっていませんが。「子どもたちをさがす運動」は、それ以前にはなかったのでしょうか?

    玉野井さん:満州からの引き揚げ孤児については、「親をさがそう」という運動があったと思います。ですが日本とは1972年まで国交がなかったので、そうした運動はうまく行きませんでした。1980年代になってようやく国が介入、日本での親探し運動が始まり、運よく親戚が見つかった方々は日本へ帰国できるようになったのです。

    Z・Yさん:私の父は、日本人の父母といっしょに戦前に中国に渡り、戦後、その父母は、子どもの命を守ろうと中国人に預けられ、そこで大きくなりました。1966年から69年に起こった文化大革命で、日本語ができる反体制分子として投獄され、何年も帰って来ませんでした。その間、母は中国人だったので、その間、離婚を勧められたりしたそうです。母は、着物生地を使った繊維会社のエンジニアで、「離婚したら、給料も上がる」とか、言われたそうですが、「夫は罪があると思わない」として、父が帰って来るのを待っていました。その後、父は、いろいろな物を売ったりする仕事をしながら、72才まで生きました。

    R・Sさん:お父さんのルーツは知っているのですか?

    Z・Yさん:父には兄妹もいたようですが、今も兄は日本にいるらしいとだけ聞いています。

    藤田さん:私は、戦争が始まった年に生まれたのですが、戦後、京都の神社やお寺、町中に足や手のない人たちがたくさん、座っていました。子ども達は、受け皿に置かれたお金を取ってくる役目をしていました。金閣寺の参道などには、特に多くの人がいました。ところが、急にその人達が居なくなりました。どんな政策があったのか、知らないのですが。

    後日、中国に旅行に行った時、片足のない子が、手を出してめぐんでくれと言っているみたいだったので、日本円の200円ほどを渡したら、近くの大人が出てきて、「不公平だ」と言うのです。いっしょにいた中国人のガイドさんが、「何をしたのか?」と問うので答えると、「その人だけに渡したらだめで、みんなに公平に分けないと」と言うのです。そこで、日本とのちがいに驚いたことがあります。中国にも戦争孤児は、日本の数倍もいたはずですね。蒋介石の奥さんが、孤児のために学校を建てたのですが、建てても建てても、足りなかったと聞いたことがあります。

    日本では、1945年の終戦後、地位が低かった傷痍軍人も年金がもらえるようになったと思いますが、その年金がないと生まれてこなかった子どももたくさんいたはずですね。1949年になってようやく、保護法ができたと思いますが。

    A・Oさん:1970年代にも、京都の吉田神社には、傷痍軍人がたくさん並んでおられたのを覚えています。

    S・Oさん:今ぼくは、19才ですが、「子どもとは?」という話の中で、「子どもは小さい大人だ」という話があったと思います。その頃は、労働力として安い賃金で使えるという考え方があったのでしょう。現在は、子どもは働かなくてもいいし、教育を受けるように保護されていますが、もし、昔のような状況になったとしたら、同じように子どもは労働力とみなされるのでしょうか?このことが聞きたいなあと思いました。

    玉野井さん:どの時代も社会の中に格差はあったと思います。子供を子供として保護する、という考えは上層社会で生まれました。下層社会では労働力としての子供は長い間残りました。今でも多くの国で子供は「働いて」います。

    玉野井さん:アメリカのUCLAでは、家族の誰も大学に入ったことがない学生を優先的に通す方策があります。大学に入っても働く必要があれば、大学が働き口を紹介しています。

    藤田さん:戦後、日本も貧しかったころ、「子どもは働いて国に貢献しろ」と言われていたと思います。

    イタリアに行った時に、切符を買おうとしてとまどっていたら、「何処行くの?」と聞かれ、「ここ」と言ったら、切符を買ってくれて、「教えたのだから、おつりはもらっていいよね」と言って持って行かれたことがあります。他の人を見ていると、そのような人が近づいて来ないように、ふたりがいたら、ひとりをガードしているのが見えました。 

    玉野井さん:戦後日本で出版された本に、石川淳の「焼跡のイエス」という短編小説があります。石川自身の経験をもとに書かれた小説です。彼が闇市で出会った戦争孤児は石川の財布を盗むのですが、その姿が石川にはイエスのように見えた、というのです。そのわけは書かれていませんが、おそらく、その子供の生活力に圧倒された、ということでしょうか。

    藤田さん:ローマでは小さな女の子がポケットに手を入れてきたことがあります。背中を寄せて来て、どこにあるかを探っているとも聞いたことがあります。

    H・Kさん:ガイドをしていると出会うことがあります。バルセロナやローマでは、10才くらいの子どもがグループになり、スリをしていました。ベルサイユで財布をすられたことがあり、警察へ行って調書を書いたら、犯人が捕まったと言って現金が返って来たこともあります。昔は、添乗員が旅行者のパスポートを預かっていたことがありますが、取られたら全部とられるので、このごろは、しませんね。

    Z・Yさん:中国人は、日本に来ても、バッグは自分の前に置き、離れません。

    H・Kさん:しょうもない物は、返しに来たこともありますよ。

    玉野井さん:現代(例えばウクライナ)の戦争孤児は単独で国境を渡り、難民として保護されることもあるようです。そういう子供は(日本の終戦時に見かけた)浮浪児にはなりませんね。

    A・Oさん:「刈り込み」というのは、社会の冷たさを感じますね。当時の施設に入っても、脱走していく子どもがあとを絶たなかったようですね。

    児嶋:ウクライナでも、今、ロシアが侵攻した地域の子どもたちをシベリアにつれて行ったとかニュースがありました。

    玉野井さん:1920年ごろ、シベリアには多くのポーランドの子ども達が(ロシアによって連れてこられて)住んでいたようです。ほとんどが孤児でした。彼らを助けたのは日本赤十字です。その後東京にあった福田会という孤児院が日本に連れてきて、無事ポーランドに送られたそうです。

    Z・Sさん:日本語に加え、お茶も研究したいと思っています。中国にもお茶がありますが、作り方が多少ちがうのです。

    児嶋:玉野井先生と初めてお会いしたのは、立命館大学院に私が定年後行っていて、修士課程が終わって博士課程に入った夏休みの特別講座だったような気がしますが。

    玉野井さん:当時、その講座には、中国からの留学生が半分くらいいて、最初、学校からは、英語でも日本語でも、どちらでもと言われていたのですが、日本語の方が共通語のようだったので、それ以後、ずっと日本語で話していましたね。

    藤田さん:戦争はどこも得することがないのに、プーチンとその取り巻きは何を考えているのでしょうか?ウクライナは、戦わずに平和に行こうとしていたのに、プーチンはなぜ、話をしないのでしょうか?

    S・Tさん:ウクライナから今来ている人は、女性が多いですね。9月20日現在で支援を必要としているウクライナ人は、1925人と聞いています。京都市は、受け入れを始めましたが、亀岡市はまだだれも来ていません。プーチンは昔からの政治家のような気がします。ウクライナの大統領はパフォーマンスを重視しているように見えますが。

    藤田さん:ウクライナが勝つためには、他国の戦争への手助けが必要ですね。

    R・Sさん:自分の領土が武力で侵略されたら、降参するなどと言うことはしていいのかと思います。この時期までにクリミア半島は捕られていましたが、最初は、クリミア後に戻そという動きだったのが、今は、クリミア半島が捕られた以前に戻そうという動きが出て来ていますね。大統領がコメディアンであるかどうかは、関係がないと思います。

    藤田さん:人命を尊重しないやり方はどちら側でも赦されることではないですね。日本も軍事費を増額するようですが、それを環境政策に使ってほしいです。地球はこれからどうなっていくのでしょう。

    セッション終了

    開催日:2022年9月4日(日)10:30~12:30
    場所:ガレリア3階 会議室
    ゲストスピーカー:エニ・レスタリさん(インドネシア出身・インドネシア語講師・京都市在住)
    コーディネーター:亀田博さん
    参加者:8名

    今回のタイトル:「ひさしぶりにインドネシアへ。25年日本に住んで」

    亀田さん(コーディネーター):では、参加者のみなさんの自己紹介をお願いします。エニさんは、このGSは、2年半ぶりのゲストとしての参加ですね。5年ぶりにインドネシアに帰国され、昨日ぎりぎりに日本に帰られ、このGSに間に合いましたね。今日は、息子さんのT・Oくんも参加していただきましたね。

    T・Oくんは大学3年生ですが、家ではどの言語がいちばんT・Oくんとエニさんは話しやすい言語ですか?

    エニさん:日本語ですね。

    亀田(C)さん:では、自己紹介をお願いします。

    S・Oさん:日本に2010年に始めて来ました。今は12年目です。元学園大学のそばに嫁と二人で住んでいます。仕事は、海外から日本に来た人たちの仕事のサポートをしています。

    K・Yさん:ひまわり教室で、読み聞かせを担当しています。いろいろな本を読んできました。

    Y・Yさん:2年前に小学校の教員を停年退職し、今は、千代川小学校と大井小学校で非常勤教師をしています。昨年も、今年も千代川小学校にエニさんに来ていただき、話をしていただきましたが、その時は別のことがあり、聞けなかったのが残念です。ひまわり教室の指導者をしながら、日本語教育を日本語学校で学んでいます。

    E・Tさん:今は京都の島津製作所で仕事をしています。今回のGSは、5ヶ月ぶりで、今日の資料が2016年に参加したときの物でびっくり。

    R・Oさん:日本で団体に勤務しています。中国出身で、小3の男の子がいます。家では日本語で話しています。

    T・Oくん:息子(エニさんの)で、今は大阪の大学でひとりくらししていいます。機械工学が専攻です。高校1年の時に母とインドネシアに行きました。インドネシア語が少しは知っていますが、しゃべれません。

    児嶋:Global Sessionは、私が亀岡市交流活動センターで仕事をしていた1999年から始めました。2011年に退職後は、Office Com JuntoでGSを引き継ぎ、続けています。今回は、354回目になります。

    亀田さん:スラマットシアング(インドネシア語でのこんにちは。)ツアーガイドをしていますが、ここ2、3年外国に出られません。日本へ来る外国人もまだ、ツアーでは来られません。

    インドネシア料理も好きで、屋台は、それぞれオリジナルでおいしいです。エニさんとは、2001年か2002年に京都市でインドネシアとの交流会があり、知り合いになりました。途中でこのGlobal Sessionにも来られるようになり、今もずっとお付き合いをしています。

    エニさんの京都市内のアパートも知っています。とてもいいところで、京都散歩にはいちばんですね。インドネシアの国旗(赤・白)とモナコの国旗とポーランドの国旗はたて・横の比率がちがうだけで、かなり似ていますね。

    Y・Yさん:千代川小学校で、ポーランドのオジュグさんをお呼びしたとき、国旗も見ましたが似ているなと思いました。

    亀田さん:インドネシアの首都がジャカルタから移転するのですね。

    (インドネシアは、首都をジャワ島のジャカルタからカリマンタン島(ボルネオ島)東部に移転し、新首都名を「ヌサンタラ」。ジャカルタは人口の過密化や大気汚染、地下水の過剰採取による急速な地盤沈下が問題となっている。ジャワ島の湿地帯に位置し、1000万人以上が暮らしている。交通渋滞も深刻で、閣僚らが会議に出席する際には、開始時刻に間に合うよう警察が護送しなければならない。:2022年9月7日取得)

    エニさん:「ヌサンタラ」はむかしのインドネシアの名前です。ヌサの意味は島で、アンタラは間と言う意味です。つまりインドネシアはアジアとオーストラリアにある島々の国です。カリマンタン島を首都にした大きな理由は、地震がないことです。

    「5世紀頃に中部ジャワを中心にインドの文化・宗教・思想に影響された仏教のシャイレーンドラ王朝やヒンドゥ教のマタラム王朝が誕生し、ラーマーヤナやマハーバーラタなどの叙事詩がジャワの文化として浸透していき、現在までワヤン(影絵芝居)の演目として引き継がれています。

    スペインからの独立戦争である80年戦争の真っ最中の1602年にオランダは、ヨーロッパへの香辛料輸出拠点としてインドネシアに東インド会社を設立し、国内の各王朝との条約締結や交戦を繰り返しながら植民地支配地域を拡大していき、行政の中心地をバタビアと命名したものが今の首都ジャカルタに至っています。

    1942年に日本がインドネシアに侵攻し1945年に敗戦した直後、初代スカルノ大統領が独立戦争を経てインドネシアの建国イデオロギーを確立し、「開発の父」と称されたスハルト大統領が工業化による経済発展を推進し、1998年のスハルト政権崩壊後に引き継がれた各政権で憲法改正、法律の制定・改正が繰り返され、民主化が着実に浸透していき現在に至ります。」(インドネシアの歴史:2022年9月7日取得)

    エニさん:1945年8月17日に独立し、今年は77周年にあたります。ずっとジャカルタが中心でしたが、カリマンタン島に移転すれば、インフラも良くなるはずです。

    亀田さん:新首都の名は、ムサンターラですね。

    エニさん:13000もの島を持つインドネシアは、赤道を挟み、アジアとオーストラリアとのまん中に位置しています。2024年に大統領選挙がありますが、いろいろな民族がいて、1000以上あります。

    言葉も、顔の色も、食べ物も文化もちがいます。でもヌサ(島)アンタラの豊かさを取り入れたらいいと思います。5年ぶりに帰国して、機内のアナウンスもさまざまなことばで話され、驚きました。

    亀田さん:4年前にバリ島へ行きましたが、バリ島は経済も発展していましたね。ヨーロッパの客も多くなっていました。

    エニさん:自己紹介ですが、先ほど言いましたように、日本に来て25年が過ぎました。通常の活動としては、いくつかの大学でインドネシア語の非常勤講師をしています。日本人と結婚して2001年生まれの息子がひとりいます。その頃は、今とちがっていて、バイリンガルかモノリンガルで育てるか迷いはしましたが、その余裕は無かったと思います。現在は、親の母語の学びも大切という考え方が一般になっていますが、20年前の当時はそうではありませんでした。そのため、会話だけではなく、生活すべてを日本語でやろうとして、日本語の歌を子どもに歌って聞かせ、本も日本語で読みました。5年前に息子とインドネシアに行った時、「ぼく、インドネシア語を勉強しようかな?」と言ったのが驚きでした。

    今回は、2022年8月1日にインドネシア向けに飛行機で出発しましたが、コロナ禍で、関西空港から羽田へ羽田から成田へ移動し、成田から夕方6:00にANAに乗り、ジョグジャカルタへ向け出発しました。飛行機の中でインドネシアのアプリを取得し、PCR検査を受け、朝の6:00から数時間ジャカルタ飛行場の中のカプセルホテルで休みました。ジャカルタからジョグジャカルタにある故郷に向かいました。ジョグジャカルタは、西は、スンダ語で、東はジャワ語です。ろうけつ染めのバティックが有名です。私の家はジョグジャカルタにあり、今は姉に住んでもらっています。ここには、ジャワ人(イスラム教徒)とバリ人(ヒンズー教徒)がいて、ジャワ人は、果物が好きで、自分で作り、近所にもよく分けます。バリ人は、花が好きで、庭に花を咲かせ、お供えも花です。

    1ヶ月帰国するので、その間何をしようかと考えましたが、自分は写真が趣味なので、展覧会をしようと思いました。ここは、実は京都市と姉妹都市で、博物館の館長も知り合いなので、ここで写真展をすることを予定して日本から60枚ほどの写真を持って行き、額は、インドネシアで調達しました。また、姉と二人だけが家族で残っているので、いっしょに旅行に行きたいとも思いました。それで、写真展の前に、ロンボク島へ旅に出ました。ここは、イスラム教徒の多い島です。この街は織物が盛んで、できなかったら、結婚もできないような感じです。ジャカルタでの案内の言語は、インドネシア語と英語ですが、このロンボク島では、インドネシア語、英語、サラ語、アラビア語がありました。海の観光も多く、シュノーケルや白いビーチに焼き魚や椰子の実もたくさんありました。

    展覧会では、写真を展示するだけでなく、日本から浴衣を持って行き、試着もやってみました。着せるのは、私です。私もバティックで織った浴衣を作って持って行き、着ていました。

    みなさんにすごい人気でした。私は、大学の時は考古学の専攻でしたが、その時の先生が、ジャワの伝統衣裳も用意してくれました。そこで、竹も用意してもらい、日本から持って行った短冊に願いを書いてもらい、竹に飾ることもみんなでやりました。これも大人気でした。

    そして、木で紅い鳥居も作ってもらい、上がり口に立てました。そして、詩を読み、テープカットをして、展覧会は始まりました。展覧会の案内ちらしもカラー版で作ってもらい、知り合いの先生のおかげで新聞記事にもなりました。340名ほどの参加者があり、その人達が竹の短冊に書いて残してくれました。竹は「希望の木」とし、夢を書いてもらいました。

    インドネシアは8月に独立記念日があり、8月17日には、出身高校でみんなでヒジャブを着てお祝いをしました。バッティクは何かの礼節に着ます。この高校に展示会に出した写真を5枚プレゼントしてきました。高校には、今は日本語教室があり、インドネシア語で書かれた京都市のちらしもありました。以上です。

    亀田さん:これからセッションです。何か質問はありませんか?

    Y・Yさん:8月のジャカルタの気候はどうですか?

    エニさん:蒸し暑いのですが、気温は日本の方が高いと思います。33度くらいでしょうね。

    亀田さん:雨期と乾期がありますね。8月は、まだ乾期ですね。9月から3月は雨期ですね。

    エニさん:雨期になると、ゲリラ雨が降ります。

    R・Oさん:バティックが式服というような話がありましたが、普段は若者はどんな服を着ているのですか?

    エニさん:学校の制服になっているところもあります。今は普段は、着ていないですね。

    昔は、小学校は、青色で、中学校は、紺色、高校はグレーとか決まっていましたが。

    児嶋:バティックはどこにあるのですか?

    エニさん:今は世界遺産のなっているのもあります。いろいろな民族を大切にというジョコダ大統領の考えもあり、民族衣装も大切になって来ています。

    Y・Yさん:今はヒジャブを身に付けるように厳しくなって来ているようですが、それはなぜですか?

    エニさん:以前のスハルト政権時代は、民主主義で、宗教と国家は別と考え、勤務中のヒジャブなどは禁止でした。それが終了すると、国民の95%がイスラム教徒の国なので、2000年くらいから変化してきたようです。また、アラブ諸国から、インドネシアにきびしいイスラム教を持ち帰った人もたくさんいて、ファッション化して来たようです。2022年には学校でもヒジャブを身に付けるように強制したりしてきました。(イスラム教徒以外にもヒジャブをつけよとか)

    E・Tさん:日本人が行くとしたらおすすめのスポットは?

    エニさん:山も海もありますが、ロンボク島やスラベシ島などもいいですね。山もいいですね。島がたくさんあるので、きれいですよ。グルメもバリ島などには何でもあるし、織物体験もできます。

    亀田さん:ウブドというバリ島スタイルの絵もありますね。

    エニさん:バティクという刀を画いた絵もあります。

    Y・Yさん:絹のような織物もありますが、あれは、何の織物ですか?

    エニさん:1日に7cmくらいしか織れない織物です。絹ではないのですが。

    日本のことわざで、「馬の耳に念仏」とありますが、インドネシアでは、「水牛に鈴」というのがあり、同じ意味です。

    亀田さん:水牛は食べないのですか?

    エニさん:硬いです。ジャワではあまり食べませんね。

    お墓参りにも行きました。母のお墓も父のお墓も同じ所にあります。バラを持って行きます。お墓参りは、木曜日の夕方にすることになっていて、その前にならないと市場に花が売っていないこともあります。

    亀田さん:感想もいいですよ。順番にどうぞ。

    K・Yさん:知らないことばかりで、とてもおもしろかったです。バッティクの模様は決まってはいないのですか?

    エニさん:模様の形はばらばらです。昔のともちがって来ています。大体は、上はブラウスで、下は巻きスカートでしたね。フォーマルな服装というのは、今もそうですが、最近はパーティーでは、ヒジャブというスカーフを巻くのが普通になっているようです。

    S・Oさん:バッティクの模様は、型染めですか?

    エニさん:模様のサンプルはいっぱいありますが、まず、鉛筆で布に描き、色をつかない部分に蝋で描きます。その後染めます。蠟で描いた部分は、色がつかないので、白くなります。繰り返しながら、模様つくります。高いバティックでは、50万円くらいするのもあります。

    E・Tさん:たくさんの写真を見せてもらい、日本との考え方がちがうとも思いました。ルールがかなり厳しいですね。例えば、織物ができないと結婚できないとか。それと、いろいろな民族が住んでいたと聞きましたが、価値観なんどのちがいもあり、大変だったのではないですか?

    エニさん:大変だけれど、家族としてひとつになることもできます。それと、どの民族にもそれぞれの価値観があり、食文化のちがいもあります。

    姉の夫は、スマトラ島出身で、ちがう民族の出身でした。

    Y・Yさん:何年も今は、外国に行けないので、行った気分になり、うれしいです。子どもがインドネシア語をやりたいと言っていますが、日本人はインドネシア語を学びやすいですか?

    エニさん:インドネシア語は文法もシンプルで、しやすいと思います。順番は、主語・述語・目的語とならべればいいので、簡単ですよ。

    亀田さん:日本語のカタカナがインドネシアの文字と似ていますね。

    エニさん:そうですね。英語の「a」は、(ア)と読んだり、(エイ)と読んだりいろいろな読み方がありますが、インドネシア語は「a」は、(ア)と読むだけです。

    R・Oさん:息子さんは、日本生まれのようですが、子どもさんがインドネシアの事に興味を持つようになったのは、いつからですか?

    O・Tさん:母が毎日、お祈りをしていて、インドネシア語を織り交ぜながらずっとやっているのを見ていました。それで、自然と頭に入り、知りたいなと思い始めました。

    今日は、母が今回インドネシアで、写真を60点も出展したと聞き、驚きました。すごいなと思います。

    Y・Yさん:インドネシアで電車は時間通りに来ますか?

    エニさん:バスは、3分くらいおくれるくらいですね。携帯を活用しているので、オンラインタクシーもあり、よく使われています。今、インドネシアでは、日本語を学ぶ人が増えてきました。日本に行ってみたいので、日本語を学ぼうと。

    インドネシアの生活習慣のちがいも大きいです。例えば、夜の10時ころになると、たくさん人が街に出てきて真夜中まで騒いでいます。有名な食堂は、10:00開店だったりして。バイクも多いですね。それと、ネットバンキングが盛んで、支払いはほとんど携帯からです。

    ここらで終了です。まだ話がしたい方はそれぞれにどうぞ。連絡先も聞いてくださいね。(児嶋)

    グローバルセッションイメージ

    開催日:2022年8月7日(土)10:30~12:40
    場所:ガレリア3階 会議室&オンライン
    ゲストスピーカー:濱田雅子さん(元武庫川女子大学教授、アメリカ服飾社会史研究会 会長)
    コーディネーター:亀田博さん
    参加者:8名(うちオンラインでの参加2名)
    共催:アメリカ服飾社会史研究会

     今回のタイトル:服飾から見た生活文化シリーズ23回目:「写真が語るアメリカ民衆の装い(その3)—1870年代の民衆の生活を
    垣間見るー」

    セッション終了後のレポート