2022年9月24日(土)第355回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2022年9月24日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:玉野井麻利子さん(UCLA名誉教授・京都市在住)
コーディネーター:藤田宗次さん
参加者:13名

今回のタイトル:「戦争孤児:日本、そしてウクライナ」

参加者自己紹介

A・Oさん:曾祖母が孤児の支援をしていたと聞いています。(京都新聞元記者:亀岡にも在住)

R・Sさん:ひまわり教室の指導者です。

S・Oさん:立命館大学国際関係学科1回生です。この学科には外国人留学生が多いです。以前に玉野井先生のGSに参加したことがあり、立命館大学院でも教えておられたということでまた、お会いしたいと思い、参加しました。(児嶋の孫です)

A・Uさん:ひまわり教室の指導者です。

A・Tさん:外国語大学を卒業し、一般企業に勤めていますが、友人の誘いで参加しました。(スペインやアルゼンチンに3年間滞在経験あり)

S・Tさん:亀岡市役所の文化国際課に勤務しています。亀岡国際交流協会の事業部会などで児嶋さんと会っています。京都外国語大学では、フランス語を専攻しました。

H・Kさん:ツアーコンダクターをしています。今はまだ、仕事としては動けない状況が続いています。大連市から来られた戦争孤児を案内したことがあります。なかなか難しい課題がありますね。今はウクライナへ送られた子どももいて。

Z・Yさん:17年前日本に来て、日本人の夫と結婚し、今は、日本語学校で教師をし、亀岡では学校への派遣教師を2校でしています。ひまわり教室の指導者もしています。

Z・Qさん:民際日本語学校で日本語を学んでいます。中国出身です。

M・Pさん:民際日本語学校の学生です。

児嶋:今回は1999年にGlobal Sessionを初めて今回は355回目になります。大体月に一回のペースで続けてきました。ルールは、コーディネーターはいますが、「当てない」です。でも、誰かが話していても、横から入ってきてもいいです。この二つだけです。

藤田(C):私は、早い時期にGSに入って、そのまま続けて来ています。最初は、外国人の参加者も   多くて、英語の勉強になるかなと思っていたのですが、だんだん変化してきました。でも、新   しい事を知ることに魅力を感じてきています。では、玉野井さま、どうぞ。

玉野井さん:UCLAで教鞭を取って居たときには、もちろん英語でしたが、立命館大学から要請があったときには、英語でも日本語ででもと言われ、日本語の方が学生がリラックスするので日本語でやることにしました。

児嶋:玉野井さんとお会いしたのは、私が停年退職して大学院に入学し、修士課程を終わり、博士課程に入ったころの夏休みの特別講座(2013年ころ)であったと思います。それ以来のお付き合いになります。

講座開始

玉野井さん:トピックを「戦争孤児」という難しいものにして「しまったな」と思いました。「孤児」ということばは、実は古い言葉ではなくて、明治時代以後に使用されるようになりました。それまでは、「みなしご・すてご・ててなしご」などが使われていたと思います。そのために、「孤児」(orphan)って何?と考えてしまいます。「親が居ない子」「片親しかいない子」(英語ではhalf orphan)「親が行方不明の子」など、ひっくるめて孤児と呼ばれることがありますが。。。それに、加えて、孤児って「子どもでなければならないの?」といった疑問も湧きます。30才で親を亡くした人を孤児と呼ぶでしょうか、孤児は子どもでないといけないのなら、幾つの子供なら孤児というのでしょうか。このように考えると、「孤児」とは定義がしにくいことばだなと思います。

そこで:

  • 孤児とは何か?
  • 子どもとは?
  • 戦争孤児とは?

などの課題が出てきました。

1.孤児とは?

孤児の「孤」の右のつくりはなぜ「瓜」なのか?

山上憶良の「瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして思はゆ」にも瓜の歌があります。魯迅という20世紀はじめの中華民国の作家で、日本に留学もした人ですが、彼も自らの作品の中で「瓜」と「子供」を関連させて語っています。瓜に「子」をくっつけると「孤児」となるわけですが、「瓜はどんどん繁殖する作物であるのに、一つだけだとさびしく見える」ということでしょうか。

日本では古代から慈善の対象になっていた人たちがいます。

61才以上の男やもめ、61才以上の未亡人、61才以上で子どもがいない老人、66歳以上の老人、病人、精神あるいは身体障害者ですが、それらに加えて14才以下の父親のない子は「孤」と呼ばれ、やはり慈善の対象となっていました。

2.「子ども」観の歴史について

21世紀を生きる私たちは「子ども」をどう定義しますか? 多分 5、6才から14、15才くらいであり、「子ども」は大人とは違って,教育を受けなければならない、ではないでしょうか。しかしこの考えは17世紀ごろに作られた、かなり新しい子供観なのです。

フィリップ・アリエスというフランスの歴史家は、その著書『子どもの誕生』(1960)の中で、私たちが今考える「子ども」というもの、つまり大人とは違う子供、という概念が生まれたのは17世紀以後で、それ以前は、子どもは「小さなおとな」と見なされていたと書いています。

日本でも石川謙が『日本における児童観の変遷』(1949)の中で、中世の終わり頃(17世紀)までは、子どもは「小さな大人」として扱われたと書かれています。確かに親のために自ら自害する子供、あるいは自分の子を殺す親、など武家社会では相当ありましたし、子供は大人並みの労働をしていたのです。

ヨーロッパにおける17、18世紀前の言説は子供を子供として扱っていません。例えばパスカルは「理性のない子供は人ではない」というようなことを言っていますし、かの有名なルソーは、放蕩生活の挙句にできた自分の5人の子どもを自分の手で孤児院に連れて行った、という事実があります。

ここでいくつか「労働力としての子供」を見てみましょう。

  • これは1910年代の長野県で撮られた写真です。どうみても子どもとしか思えない女の子が、群れをなして、子守として働いています。
  • これは20世紀初めにアメリカでとられた写真ですが、とあるボタン工場が「小さな男の子を求める」というポスターをかかげています。アメリカに移民の子供としてきた子どもたちは、10歳ぐらいから働いていたのでしょう。

藤田さん:(長野の写真では)子どもが子どものめんどうを見ているのですね。

玉野井さん:そうです。子守は他人の子供の世話をしています。妹や弟の子守りではないのです。さらに「子ども観」は江戸から明治になると大きく変わりました。「親の子供」という考えから「国の子供」になったのです。親が教える教育から、国が教える教育、となり、教科書も国が配布するようになりました。同時に言葉も変わります。「みなしご」を「孤児」というようになりました。「捨て子」をすることは罪となりました。この変化を沢山美果子さんは次のように記しています(『江戸の捨て子たち』)。江戸時代には親が捨て子をすることは多くあった。ただ子供が捨てられても生きるように、である。捨て子は大体3、4才以上で、乳児ではないこと。捨て子の捨てられたところは、裕福な家の門の前や、お祭りで人がたくさんいるところ、だったそうです。近代に入ると、捨て子はだんだん消えて行きます。ですが、子供の売買に変わって行きます。堕胎は間引きと言われ、これももちろん罪となりました。

3.「戦争孤児」とは?  

さて、ここで「戦争孤児」についてお話しします。

「戦争孤児」ということばは、1894~1895年の日清戦争や日露戦争から使われるようになります。しかしこの場合、戦争孤児は亡くなった親が職業軍人か、徴兵された兵隊です。そして残された家族には国による保護がありました。 ただし階級も考慮されています。職業軍人の家族は、徴兵された兵隊の家族よりより多くの援助を得たのです。

ところが15年戦争(満州事変から太平洋戦争 1931−1945)になると、戦争孤児にかかわる状況は大きく変わります。

連合軍による日本の空爆は1942年から1945年まで日本の各地で繰り広げられました。1945年3月10日の東京空襲では、105,400人の民間人が1日で死亡したと言われています。空爆の犠牲者は終戦時202,975人まで増えたそうですが、最後の空襲、つまり広島と長崎に落とされた原爆で亡くなった方々の数は当時掴めていません。原爆は時間をかけて人を殺すからです。つまり15年戦争では軍人の親を失った戦争孤児も増えますが、急激に増えたのは民間人の親を失った戦争孤児なのです。

民間人の親を失った戦争孤児の数ははっきりとわかっていません。1948年に行われたGHQの実態調査によると、123,511人という数字が出ています。しかし現実はもっと多いでしょう。

その理由は:この中には1948年以前にはすでに孤児として親戚に預けられていた子供が含まれていないこと。原爆孤児が含まれていないこと。戦時中に朝鮮、台湾、中国から日本に移住した子供で戦争孤児となったものは含まれていないこと、などがあります。

軍人、徴兵された兵隊を親にもつ戦争孤児と、民間人を親にもつ戦争孤児との間には大きな差があります、そしてその差は今でも続いています。前者は日本の占領期間のわずかの間を除き、日本政府から年金を与えられています。そうした援助は孫の代まで続いているのです。ところが民間人の親を持つ戦争孤児にはなんの援助もありません。親は戦争のために犠牲になったにもかかわらずです。

民間人の親を持つ戦争孤児は長い間自らの経験を公に話しませんでした。それにはいくつかの理由があるようです。まず戦争孤児としての生活はあまりに苦しく、思い出すことも苦痛であった、ということです。私が長い間お付き合いしている金田茉莉さん(現在88才)は戦後親戚をたらい回しにされ、誰からも厄介者扱いを受けました。 それでも親戚の悪口など、生きている間には話すこともできず、むしろ記憶を話したりすることへの反発を感じ、なかなか話ができなかったと言われています。おまけに戦後の日本は「戦争孤児」のイメージは決して気持ちの良いものではありません:警察に「刈り込み」される「浮浪児」や「不良児」のイメージです。戦後社会は戦争孤児を暖かい目で見たでしょうか。金田さんは1990年代に入ってようやく「戦争孤児の会」を立ち上げられました。

1956年2月25日には、朝日新聞に「この子たちの親を探そう」という記事が掲載されています。戦後10年以上も経ってから戦争孤児の親を探そう、という運動が始まったのです。しかし親に巡り合えた子供たちは多くなかったようです。

グローバルセッション開始

藤田(C)さん:これからセッションを始めますので、どうぞ。

児嶋:今も、ヤングケアラーとして、子どもが兄妹のケアをしている子どももいるなあと思って聞いていました。

R・Sさん:亀岡の児童養護施設として青葉学園がありますが、この学園ができたわけを聞いたことがあります。戦災孤児として浮浪児などの刈り込みをされた子どもたちを何とかしたいと、親がいない子どもさんを収容する施設を作られたと。現在は親がいないから来ている子どもさんは、少ないようですが。

玉野井さん:アメリカに孤児院ができたのは、18世紀のようですが、二親ともいない子どもは預からなかったと聞いています。保証人がいないからです。つまり片親がいないと孤児として扱われなかった、ということです。孤児はストリートチルドレンと呼ばれ、オーファントレインに乗せられ、農村に運ばれたとか。これも、19世紀、20世紀の初めまで続いたようです。

A・Oさん:アメリカの転換は何時だったのでしょうか?今は少なくとも農村に集団で送ってはいないのではないでしょうか?アメリカでは、虐待はニュースにもなっていませんが。「子どもたちをさがす運動」は、それ以前にはなかったのでしょうか?

玉野井さん:満州からの引き揚げ孤児については、「親をさがそう」という運動があったと思います。ですが日本とは1972年まで国交がなかったので、そうした運動はうまく行きませんでした。1980年代になってようやく国が介入、日本での親探し運動が始まり、運よく親戚が見つかった方々は日本へ帰国できるようになったのです。

Z・Yさん:私の父は、日本人の父母といっしょに戦前に中国に渡り、戦後、その父母は、子どもの命を守ろうと中国人に預けられ、そこで大きくなりました。1966年から69年に起こった文化大革命で、日本語ができる反体制分子として投獄され、何年も帰って来ませんでした。その間、母は中国人だったので、その間、離婚を勧められたりしたそうです。母は、着物生地を使った繊維会社のエンジニアで、「離婚したら、給料も上がる」とか、言われたそうですが、「夫は罪があると思わない」として、父が帰って来るのを待っていました。その後、父は、いろいろな物を売ったりする仕事をしながら、72才まで生きました。

R・Sさん:お父さんのルーツは知っているのですか?

Z・Yさん:父には兄妹もいたようですが、今も兄は日本にいるらしいとだけ聞いています。

藤田さん:私は、戦争が始まった年に生まれたのですが、戦後、京都の神社やお寺、町中に足や手のない人たちがたくさん、座っていました。子ども達は、受け皿に置かれたお金を取ってくる役目をしていました。金閣寺の参道などには、特に多くの人がいました。ところが、急にその人達が居なくなりました。どんな政策があったのか、知らないのですが。

後日、中国に旅行に行った時、片足のない子が、手を出してめぐんでくれと言っているみたいだったので、日本円の200円ほどを渡したら、近くの大人が出てきて、「不公平だ」と言うのです。いっしょにいた中国人のガイドさんが、「何をしたのか?」と問うので答えると、「その人だけに渡したらだめで、みんなに公平に分けないと」と言うのです。そこで、日本とのちがいに驚いたことがあります。中国にも戦争孤児は、日本の数倍もいたはずですね。蒋介石の奥さんが、孤児のために学校を建てたのですが、建てても建てても、足りなかったと聞いたことがあります。

日本では、1945年の終戦後、地位が低かった傷痍軍人も年金がもらえるようになったと思いますが、その年金がないと生まれてこなかった子どももたくさんいたはずですね。1949年になってようやく、保護法ができたと思いますが。

A・Oさん:1970年代にも、京都の吉田神社には、傷痍軍人がたくさん並んでおられたのを覚えています。

S・Oさん:今ぼくは、19才ですが、「子どもとは?」という話の中で、「子どもは小さい大人だ」という話があったと思います。その頃は、労働力として安い賃金で使えるという考え方があったのでしょう。現在は、子どもは働かなくてもいいし、教育を受けるように保護されていますが、もし、昔のような状況になったとしたら、同じように子どもは労働力とみなされるのでしょうか?このことが聞きたいなあと思いました。

玉野井さん:どの時代も社会の中に格差はあったと思います。子供を子供として保護する、という考えは上層社会で生まれました。下層社会では労働力としての子供は長い間残りました。今でも多くの国で子供は「働いて」います。

玉野井さん:アメリカのUCLAでは、家族の誰も大学に入ったことがない学生を優先的に通す方策があります。大学に入っても働く必要があれば、大学が働き口を紹介しています。

藤田さん:戦後、日本も貧しかったころ、「子どもは働いて国に貢献しろ」と言われていたと思います。

イタリアに行った時に、切符を買おうとしてとまどっていたら、「何処行くの?」と聞かれ、「ここ」と言ったら、切符を買ってくれて、「教えたのだから、おつりはもらっていいよね」と言って持って行かれたことがあります。他の人を見ていると、そのような人が近づいて来ないように、ふたりがいたら、ひとりをガードしているのが見えました。 

玉野井さん:戦後日本で出版された本に、石川淳の「焼跡のイエス」という短編小説があります。石川自身の経験をもとに書かれた小説です。彼が闇市で出会った戦争孤児は石川の財布を盗むのですが、その姿が石川にはイエスのように見えた、というのです。そのわけは書かれていませんが、おそらく、その子供の生活力に圧倒された、ということでしょうか。

藤田さん:ローマでは小さな女の子がポケットに手を入れてきたことがあります。背中を寄せて来て、どこにあるかを探っているとも聞いたことがあります。

H・Kさん:ガイドをしていると出会うことがあります。バルセロナやローマでは、10才くらいの子どもがグループになり、スリをしていました。ベルサイユで財布をすられたことがあり、警察へ行って調書を書いたら、犯人が捕まったと言って現金が返って来たこともあります。昔は、添乗員が旅行者のパスポートを預かっていたことがありますが、取られたら全部とられるので、このごろは、しませんね。

Z・Yさん:中国人は、日本に来ても、バッグは自分の前に置き、離れません。

H・Kさん:しょうもない物は、返しに来たこともありますよ。

玉野井さん:現代(例えばウクライナ)の戦争孤児は単独で国境を渡り、難民として保護されることもあるようです。そういう子供は(日本の終戦時に見かけた)浮浪児にはなりませんね。

A・Oさん:「刈り込み」というのは、社会の冷たさを感じますね。当時の施設に入っても、脱走していく子どもがあとを絶たなかったようですね。

児嶋:ウクライナでも、今、ロシアが侵攻した地域の子どもたちをシベリアにつれて行ったとかニュースがありました。

玉野井さん:1920年ごろ、シベリアには多くのポーランドの子ども達が(ロシアによって連れてこられて)住んでいたようです。ほとんどが孤児でした。彼らを助けたのは日本赤十字です。その後東京にあった福田会という孤児院が日本に連れてきて、無事ポーランドに送られたそうです。

Z・Sさん:日本語に加え、お茶も研究したいと思っています。中国にもお茶がありますが、作り方が多少ちがうのです。

児嶋:玉野井先生と初めてお会いしたのは、立命館大学院に私が定年後行っていて、修士課程が終わって博士課程に入った夏休みの特別講座だったような気がしますが。

玉野井さん:当時、その講座には、中国からの留学生が半分くらいいて、最初、学校からは、英語でも日本語でも、どちらでもと言われていたのですが、日本語の方が共通語のようだったので、それ以後、ずっと日本語で話していましたね。

藤田さん:戦争はどこも得することがないのに、プーチンとその取り巻きは何を考えているのでしょうか?ウクライナは、戦わずに平和に行こうとしていたのに、プーチンはなぜ、話をしないのでしょうか?

S・Tさん:ウクライナから今来ている人は、女性が多いですね。9月20日現在で支援を必要としているウクライナ人は、1925人と聞いています。京都市は、受け入れを始めましたが、亀岡市はまだだれも来ていません。プーチンは昔からの政治家のような気がします。ウクライナの大統領はパフォーマンスを重視しているように見えますが。

藤田さん:ウクライナが勝つためには、他国の戦争への手助けが必要ですね。

R・Sさん:自分の領土が武力で侵略されたら、降参するなどと言うことはしていいのかと思います。この時期までにクリミア半島は捕られていましたが、最初は、クリミア後に戻そという動きだったのが、今は、クリミア半島が捕られた以前に戻そうという動きが出て来ていますね。大統領がコメディアンであるかどうかは、関係がないと思います。

藤田さん:人命を尊重しないやり方はどちら側でも赦されることではないですね。日本も軍事費を増額するようですが、それを環境政策に使ってほしいです。地球はこれからどうなっていくのでしょう。

セッション終了

2022年9月4日(日)第354回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2022年9月4日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:エニ・レスタリさん(インドネシア出身・インドネシア語講師・京都市在住)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:8名

今回のタイトル:「ひさしぶりにインドネシアへ。25年日本に住んで」

亀田さん(コーディネーター):では、参加者のみなさんの自己紹介をお願いします。エニさんは、このGSは、2年半ぶりのゲストとしての参加ですね。5年ぶりにインドネシアに帰国され、昨日ぎりぎりに日本に帰られ、このGSに間に合いましたね。今日は、息子さんのT・Oくんも参加していただきましたね。

T・Oくんは大学3年生ですが、家ではどの言語がいちばんT・Oくんとエニさんは話しやすい言語ですか?

エニさん:日本語ですね。

亀田(C)さん:では、自己紹介をお願いします。

S・Oさん:日本に2010年に始めて来ました。今は12年目です。元学園大学のそばに嫁と二人で住んでいます。仕事は、海外から日本に来た人たちの仕事のサポートをしています。

K・Yさん:ひまわり教室で、読み聞かせを担当しています。いろいろな本を読んできました。

Y・Yさん:2年前に小学校の教員を停年退職し、今は、千代川小学校と大井小学校で非常勤教師をしています。昨年も、今年も千代川小学校にエニさんに来ていただき、話をしていただきましたが、その時は別のことがあり、聞けなかったのが残念です。ひまわり教室の指導者をしながら、日本語教育を日本語学校で学んでいます。

E・Tさん:今は京都の島津製作所で仕事をしています。今回のGSは、5ヶ月ぶりで、今日の資料が2016年に参加したときの物でびっくり。

R・Oさん:日本で団体に勤務しています。中国出身で、小3の男の子がいます。家では日本語で話しています。

T・Oくん:息子(エニさんの)で、今は大阪の大学でひとりくらししていいます。機械工学が専攻です。高校1年の時に母とインドネシアに行きました。インドネシア語が少しは知っていますが、しゃべれません。

児嶋:Global Sessionは、私が亀岡市交流活動センターで仕事をしていた1999年から始めました。2011年に退職後は、Office Com JuntoでGSを引き継ぎ、続けています。今回は、354回目になります。

亀田さん:スラマットシアング(インドネシア語でのこんにちは。)ツアーガイドをしていますが、ここ2、3年外国に出られません。日本へ来る外国人もまだ、ツアーでは来られません。

インドネシア料理も好きで、屋台は、それぞれオリジナルでおいしいです。エニさんとは、2001年か2002年に京都市でインドネシアとの交流会があり、知り合いになりました。途中でこのGlobal Sessionにも来られるようになり、今もずっとお付き合いをしています。

エニさんの京都市内のアパートも知っています。とてもいいところで、京都散歩にはいちばんですね。インドネシアの国旗(赤・白)とモナコの国旗とポーランドの国旗はたて・横の比率がちがうだけで、かなり似ていますね。

Y・Yさん:千代川小学校で、ポーランドのオジュグさんをお呼びしたとき、国旗も見ましたが似ているなと思いました。

亀田さん:インドネシアの首都がジャカルタから移転するのですね。

(インドネシアは、首都をジャワ島のジャカルタからカリマンタン島(ボルネオ島)東部に移転し、新首都名を「ヌサンタラ」。ジャカルタは人口の過密化や大気汚染、地下水の過剰採取による急速な地盤沈下が問題となっている。ジャワ島の湿地帯に位置し、1000万人以上が暮らしている。交通渋滞も深刻で、閣僚らが会議に出席する際には、開始時刻に間に合うよう警察が護送しなければならない。:2022年9月7日取得)

エニさん:「ヌサンタラ」はむかしのインドネシアの名前です。ヌサの意味は島で、アンタラは間と言う意味です。つまりインドネシアはアジアとオーストラリアにある島々の国です。カリマンタン島を首都にした大きな理由は、地震がないことです。

「5世紀頃に中部ジャワを中心にインドの文化・宗教・思想に影響された仏教のシャイレーンドラ王朝やヒンドゥ教のマタラム王朝が誕生し、ラーマーヤナやマハーバーラタなどの叙事詩がジャワの文化として浸透していき、現在までワヤン(影絵芝居)の演目として引き継がれています。

スペインからの独立戦争である80年戦争の真っ最中の1602年にオランダは、ヨーロッパへの香辛料輸出拠点としてインドネシアに東インド会社を設立し、国内の各王朝との条約締結や交戦を繰り返しながら植民地支配地域を拡大していき、行政の中心地をバタビアと命名したものが今の首都ジャカルタに至っています。

1942年に日本がインドネシアに侵攻し1945年に敗戦した直後、初代スカルノ大統領が独立戦争を経てインドネシアの建国イデオロギーを確立し、「開発の父」と称されたスハルト大統領が工業化による経済発展を推進し、1998年のスハルト政権崩壊後に引き継がれた各政権で憲法改正、法律の制定・改正が繰り返され、民主化が着実に浸透していき現在に至ります。」(インドネシアの歴史:2022年9月7日取得)

エニさん:1945年8月17日に独立し、今年は77周年にあたります。ずっとジャカルタが中心でしたが、カリマンタン島に移転すれば、インフラも良くなるはずです。

亀田さん:新首都の名は、ムサンターラですね。

エニさん:13000もの島を持つインドネシアは、赤道を挟み、アジアとオーストラリアとのまん中に位置しています。2024年に大統領選挙がありますが、いろいろな民族がいて、1000以上あります。

言葉も、顔の色も、食べ物も文化もちがいます。でもヌサ(島)アンタラの豊かさを取り入れたらいいと思います。5年ぶりに帰国して、機内のアナウンスもさまざまなことばで話され、驚きました。

亀田さん:4年前にバリ島へ行きましたが、バリ島は経済も発展していましたね。ヨーロッパの客も多くなっていました。

エニさん:自己紹介ですが、先ほど言いましたように、日本に来て25年が過ぎました。通常の活動としては、いくつかの大学でインドネシア語の非常勤講師をしています。日本人と結婚して2001年生まれの息子がひとりいます。その頃は、今とちがっていて、バイリンガルかモノリンガルで育てるか迷いはしましたが、その余裕は無かったと思います。現在は、親の母語の学びも大切という考え方が一般になっていますが、20年前の当時はそうではありませんでした。そのため、会話だけではなく、生活すべてを日本語でやろうとして、日本語の歌を子どもに歌って聞かせ、本も日本語で読みました。5年前に息子とインドネシアに行った時、「ぼく、インドネシア語を勉強しようかな?」と言ったのが驚きでした。

今回は、2022年8月1日にインドネシア向けに飛行機で出発しましたが、コロナ禍で、関西空港から羽田へ羽田から成田へ移動し、成田から夕方6:00にANAに乗り、ジョグジャカルタへ向け出発しました。飛行機の中でインドネシアのアプリを取得し、PCR検査を受け、朝の6:00から数時間ジャカルタ飛行場の中のカプセルホテルで休みました。ジャカルタからジョグジャカルタにある故郷に向かいました。ジョグジャカルタは、西は、スンダ語で、東はジャワ語です。ろうけつ染めのバティックが有名です。私の家はジョグジャカルタにあり、今は姉に住んでもらっています。ここには、ジャワ人(イスラム教徒)とバリ人(ヒンズー教徒)がいて、ジャワ人は、果物が好きで、自分で作り、近所にもよく分けます。バリ人は、花が好きで、庭に花を咲かせ、お供えも花です。

1ヶ月帰国するので、その間何をしようかと考えましたが、自分は写真が趣味なので、展覧会をしようと思いました。ここは、実は京都市と姉妹都市で、博物館の館長も知り合いなので、ここで写真展をすることを予定して日本から60枚ほどの写真を持って行き、額は、インドネシアで調達しました。また、姉と二人だけが家族で残っているので、いっしょに旅行に行きたいとも思いました。それで、写真展の前に、ロンボク島へ旅に出ました。ここは、イスラム教徒の多い島です。この街は織物が盛んで、できなかったら、結婚もできないような感じです。ジャカルタでの案内の言語は、インドネシア語と英語ですが、このロンボク島では、インドネシア語、英語、サラ語、アラビア語がありました。海の観光も多く、シュノーケルや白いビーチに焼き魚や椰子の実もたくさんありました。

展覧会では、写真を展示するだけでなく、日本から浴衣を持って行き、試着もやってみました。着せるのは、私です。私もバティックで織った浴衣を作って持って行き、着ていました。

みなさんにすごい人気でした。私は、大学の時は考古学の専攻でしたが、その時の先生が、ジャワの伝統衣裳も用意してくれました。そこで、竹も用意してもらい、日本から持って行った短冊に願いを書いてもらい、竹に飾ることもみんなでやりました。これも大人気でした。

そして、木で紅い鳥居も作ってもらい、上がり口に立てました。そして、詩を読み、テープカットをして、展覧会は始まりました。展覧会の案内ちらしもカラー版で作ってもらい、知り合いの先生のおかげで新聞記事にもなりました。340名ほどの参加者があり、その人達が竹の短冊に書いて残してくれました。竹は「希望の木」とし、夢を書いてもらいました。

インドネシアは8月に独立記念日があり、8月17日には、出身高校でみんなでヒジャブを着てお祝いをしました。バッティクは何かの礼節に着ます。この高校に展示会に出した写真を5枚プレゼントしてきました。高校には、今は日本語教室があり、インドネシア語で書かれた京都市のちらしもありました。以上です。

亀田さん:これからセッションです。何か質問はありませんか?

Y・Yさん:8月のジャカルタの気候はどうですか?

エニさん:蒸し暑いのですが、気温は日本の方が高いと思います。33度くらいでしょうね。

亀田さん:雨期と乾期がありますね。8月は、まだ乾期ですね。9月から3月は雨期ですね。

エニさん:雨期になると、ゲリラ雨が降ります。

R・Oさん:バティックが式服というような話がありましたが、普段は若者はどんな服を着ているのですか?

エニさん:学校の制服になっているところもあります。今は普段は、着ていないですね。

昔は、小学校は、青色で、中学校は、紺色、高校はグレーとか決まっていましたが。

児嶋:バティックはどこにあるのですか?

エニさん:今は世界遺産のなっているのもあります。いろいろな民族を大切にというジョコダ大統領の考えもあり、民族衣装も大切になって来ています。

Y・Yさん:今はヒジャブを身に付けるように厳しくなって来ているようですが、それはなぜですか?

エニさん:以前のスハルト政権時代は、民主主義で、宗教と国家は別と考え、勤務中のヒジャブなどは禁止でした。それが終了すると、国民の95%がイスラム教徒の国なので、2000年くらいから変化してきたようです。また、アラブ諸国から、インドネシアにきびしいイスラム教を持ち帰った人もたくさんいて、ファッション化して来たようです。2022年には学校でもヒジャブを身に付けるように強制したりしてきました。(イスラム教徒以外にもヒジャブをつけよとか)

E・Tさん:日本人が行くとしたらおすすめのスポットは?

エニさん:山も海もありますが、ロンボク島やスラベシ島などもいいですね。山もいいですね。島がたくさんあるので、きれいですよ。グルメもバリ島などには何でもあるし、織物体験もできます。

亀田さん:ウブドというバリ島スタイルの絵もありますね。

エニさん:バティクという刀を画いた絵もあります。

Y・Yさん:絹のような織物もありますが、あれは、何の織物ですか?

エニさん:1日に7cmくらいしか織れない織物です。絹ではないのですが。

日本のことわざで、「馬の耳に念仏」とありますが、インドネシアでは、「水牛に鈴」というのがあり、同じ意味です。

亀田さん:水牛は食べないのですか?

エニさん:硬いです。ジャワではあまり食べませんね。

お墓参りにも行きました。母のお墓も父のお墓も同じ所にあります。バラを持って行きます。お墓参りは、木曜日の夕方にすることになっていて、その前にならないと市場に花が売っていないこともあります。

亀田さん:感想もいいですよ。順番にどうぞ。

K・Yさん:知らないことばかりで、とてもおもしろかったです。バッティクの模様は決まってはいないのですか?

エニさん:模様の形はばらばらです。昔のともちがって来ています。大体は、上はブラウスで、下は巻きスカートでしたね。フォーマルな服装というのは、今もそうですが、最近はパーティーでは、ヒジャブというスカーフを巻くのが普通になっているようです。

S・Oさん:バッティクの模様は、型染めですか?

エニさん:模様のサンプルはいっぱいありますが、まず、鉛筆で布に描き、色をつかない部分に蝋で描きます。その後染めます。蠟で描いた部分は、色がつかないので、白くなります。繰り返しながら、模様つくります。高いバティックでは、50万円くらいするのもあります。

E・Tさん:たくさんの写真を見せてもらい、日本との考え方がちがうとも思いました。ルールがかなり厳しいですね。例えば、織物ができないと結婚できないとか。それと、いろいろな民族が住んでいたと聞きましたが、価値観なんどのちがいもあり、大変だったのではないですか?

エニさん:大変だけれど、家族としてひとつになることもできます。それと、どの民族にもそれぞれの価値観があり、食文化のちがいもあります。

姉の夫は、スマトラ島出身で、ちがう民族の出身でした。

Y・Yさん:何年も今は、外国に行けないので、行った気分になり、うれしいです。子どもがインドネシア語をやりたいと言っていますが、日本人はインドネシア語を学びやすいですか?

エニさん:インドネシア語は文法もシンプルで、しやすいと思います。順番は、主語・述語・目的語とならべればいいので、簡単ですよ。

亀田さん:日本語のカタカナがインドネシアの文字と似ていますね。

エニさん:そうですね。英語の「a」は、(ア)と読んだり、(エイ)と読んだりいろいろな読み方がありますが、インドネシア語は「a」は、(ア)と読むだけです。

R・Oさん:息子さんは、日本生まれのようですが、子どもさんがインドネシアの事に興味を持つようになったのは、いつからですか?

O・Tさん:母が毎日、お祈りをしていて、インドネシア語を織り交ぜながらずっとやっているのを見ていました。それで、自然と頭に入り、知りたいなと思い始めました。

今日は、母が今回インドネシアで、写真を60点も出展したと聞き、驚きました。すごいなと思います。

Y・Yさん:インドネシアで電車は時間通りに来ますか?

エニさん:バスは、3分くらいおくれるくらいですね。携帯を活用しているので、オンラインタクシーもあり、よく使われています。今、インドネシアでは、日本語を学ぶ人が増えてきました。日本に行ってみたいので、日本語を学ぼうと。

インドネシアの生活習慣のちがいも大きいです。例えば、夜の10時ころになると、たくさん人が街に出てきて真夜中まで騒いでいます。有名な食堂は、10:00開店だったりして。バイクも多いですね。それと、ネットバンキングが盛んで、支払いはほとんど携帯からです。

ここらで終了です。まだ話がしたい方はそれぞれにどうぞ。連絡先も聞いてくださいね。(児嶋)

2022年8月7日(日)第353回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2022年8月7日(土)10:30~12:40
場所:ガレリア3階 会議室&オンライン
ゲストスピーカー:濱田雅子さん(元武庫川女子大学教授、アメリカ服飾社会史研究会 会長)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:8名(うちオンラインでの参加2名)
共催:アメリカ服飾社会史研究会

 今回のタイトル:服飾から見た生活文化シリーズ23回目:「写真が語るアメリカ民衆の装い(その3)—1870年代の民衆の生活を
垣間見るー」

セッション終了後のレポート

2022年6月11日(日)第352回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2022年6月11日(日)10:30~12:45
場所:ガレリア2階大広間
ゲストスピーカー:村田英克さん(JT生命誌研究館スタッフ)
コーディネーター:藤田宗次さん
参加者:28名(大人20名 子ども8名)

 今回のタイトル:映画「食草園が誘う昆虫と植物のかけひきの妙」を見てセッション

映画「食草園が誘う昆虫と植物のかけひきの妙」を見ました(73分)。 終わってから、感想と自己紹介をかねて、セッションをしました。

コーディネーターの藤田宗次さんの司会で始まりました。

自己紹介と感想

村田さん:JT生命誌研究館の村田です。映画の中では皆マスクをしていました。コロナ禍の時期の研究館の記録映画でもあります。研究館の基本は生命科学ですが、映画には能も出て来ましたね。「生きている」とはどういうことかを問う文化活動は科学だけじゃない。能楽には古来日本固有の自然や文化の中で「生きる」を考え続けた知恵がつまっている。そこから私たちが学ぶことがたくさんある。そう思って、GSでも、毎回、小鼓の実演をさせていただいております。映画にGSのシーンは出てきませんが、ここで皆さんと語り合ったことが、この映画を作る際の下支えになっていて、皆さんに感謝しています。

S・Tさん:茨木市にある立命館大学で心理学を専攻しています。下関出身で、この4月からひとりぐらしです。張穎先生に紹介してもらいました。

亀田さん:ヒロと呼んでください。大津市に住んでいます。村田さんの以前のGSもコーディネーターをしたことがあります。村田さんは、映画のディレクターとしてこの映画を作成されましたね。チョウチョが舞い上がる姿を見て感動しました。日本の古典との関係もうれしいです。

村田さん:映画は73分ですが、実を言うと、最後の5分間が、私が一番、皆さんに観ていただきたいと思っているところで、そこが、どうやったら観る人に一番響くだろうかという、その下拵え、試行錯誤の68分に、申し訳ないけれどもお付き合いいただきました。

亀田さん:以前のGSの最後の時に鼓を打っておられましたが、今回もその音で謡がこころに沁みました。以前のGSの参加者は意味がわかったかもね。

Y・Sさん:民際学校で日本語を学習しています。今日の映画もとてもおもしろかったです。

Z・Yさん:中国出身です。民際日本語学校の派遣日本語講師として、亀岡の亀岡小学校、千代川小学校に毎週来ています。夫は日本人で九州出身でした。中学校の修学旅行で京都に来て、それから京都に住みたいと思っていたようです。私の父は中国出身の日本人です。母は、中国人で、子どもの時、私は中国に住んでいました。中国人の母は、当時の日本の織物工場で仕事をしていました。当時はさなぎから繭を作り、それで生地を作り、織物を織っていたので、さなぎの煮物をよく食べました。そのことを映画を見ながら思い出していました。人間は、自然と生きるのだとこの映画を見て思い、感動しました。

R・Sさん:ひまわり教室の指導者をしています。映画にどんどん引き込まれました。質問がひとつあります。食草園が出てきましたが、これは初めから虫と植物との関わりを研究することを意図されていたのでしょうか?

村田さん:食草園が作られたのは、今、名誉館長の中村桂先生が館長だった2003年で、1993年の設立時にはありませんでした。けれども、身近な小さな虫たち、オサムシやナナフシなどを扱いながら現代の生物学として魅力的な研究をやろうというコンセプトは設立以来のものです。映画に出てくる、蝶と食草の関係から進化を探る研究は2000年頃から始まりました。その研究と、来館者にとっての身近な自然とを橋渡しする生態展示として「食草園」があります。当時、世の中に昆虫館や植物園はあるけれど、昆虫と植物の関わりに注目した食草園は生命誌研究館だけよ。というのが中村先生の自慢でもありました。

B・Cさん:中国出身で民際の学生です。今日はとてもおもしろかったです。ありがとうございます。

S・Cさん:留学生です。とてもおもしろかったです。このようなチャンスをいただいてうれしいです。またチャンスがあれば来たいです。

C・Mさん:孫といっしょに参加しました。日本人の心がこの研究の中につまっていると思います。質問ですが、ソマチットとウイルスやバクテリアとの関係はどうなのでしょう?

村田さん:ソマチット?

C・Mさん:赤血球の中にいて、人間に生きる力をつけて、意思を持っているそうです。死んだ人の中にはいないそうです。進化を信じる人にとっては、フリーエネルギーをとって生きていけるのだそうです。

村田さん:ソマチットについて私はわかりませんが、例えば、我々の体内に共生している微生物は、体重の何割か、かなりの重量を占めます。ヒトの体をつくっている細胞は37兆個ほどあるようですが、生きていくには、自分の細胞だけではなく、共生菌の働きも借りているわけです。その詳細は、現代の科学でもわかっているとは言えません。科学で何かがわかると、同時に、その周囲に、こんなにもわからない事があるということに気付かされます。自然界は、現代の科学でもわからないことに満ちていまあす。私たちは、私たちが知り得ない自然の恩恵に浴して生きているのだという謙虚さが必要で、その事実認識は、能楽の生まれた時代も、現代もかわらないものだと思います。

C・Mさん:この映画を国際化して、日本の自然を知ってもらったらどうでしょう。

H・Mさん(小5):小3の時にアゲハ蝶とモンシロチョウのちがいを見つけました。

四方さん:ひまわりの指導者です。教員を長くしていました。学校時代に小学校の理科で「モンシロチョウを育てよう」というのがあり、青虫からチョウチョに羽化して飛んで行ったのを観察しました。今振り返ると夜の間にまどを開けたら、「さようなら」と言えたかもしれないと思います。

D・Sさん:安詳小4年生です。知らなかったこともたくさんあって知れてよかったです。二階でさなぎを飼っていて成虫になるのが楽しみです。

N・Kさん:ひまわりの指導者です。ナナフシを見て永田和宏さんの短歌を思い出していたら、その歌も出て来てびっくりしました。科学もそうですが、歴史も音楽も自分も横のつながりの中にいるのだと実感しました。

S・Tさん:亀岡市の新採用の職員で、文化国際課にいます。群馬県出身で大学は京都外国語大学です。小2の時には、オオムラサキの幼虫を飼っていました。勉強しながら、3、4年生の時には、モンシロチョウを育てました。8割はモンシロチョウにはならなかったのですが。

K・Yさん:ひまわり教室で読み聞かせ担当をしています。村田さんの前の講座も来ています。虫にも生きる意味があり、一生懸命生きていると教わりました。以前は芋虫などの気持ちはわからなかったのですが、映像を音楽を入れて見せていただいたりして、手のひらに乗った蜘蛛を、スマホで見てみると、害虫ではないようなので、そっと家の外に出してやったりしています。

K・Sさん:京都の西京区に住んでいて一期塾という塾を開いています。私は虫好きで、今日はとても興味深い内容でした。子どもは大体虫が好きなので、今度高槻の生命誌研究館に予約をして連れて行きたいと思います。

村田さん:研究館へのご来館は、事前に予約いただければガイドスタッフの案内もありますし、毎月、生きもの研究に触れるイベントも企画しています。事前申し込みが必要な催しもありますが、是非、ご来館ください。

F・Bさん:民際の学生です。環境に関心があります。昆虫についての話でしたが、人間についても考えさせられました。多くの人に見てほしいです。

R・Zさん:台湾出身の民際の学生です。はじめて葉を食べているチョウチョがかわいいなと思いました。

Y・Cさん:感動しました。他にも中国出身です。虫も人間も日常に会えますが、生命でつながっているので、もっと大事にしましょう。

藤田さん:みなさん、それぞれ特徴のある自己紹介をしていただき、ありがとうございます。私はずっと映像制作に関わっていました。蛍は光を発したり、クモもカイコも糸を吐いたりしますね。

村田さん:私たちヒトにはできないけれども、自ら「光る」とか、「糸をはく」ということを、うまくいかして生きている生きものはたくさんありますね、しかも、皆、必ずしも同じやり方であるとは限らず、それぞれの進化の道のりで獲得した自分なりのやり方で、そうした能力を実現しているというのがまた生きものの面白いところですね。

藤田さん:最近、リュウグウが、宇宙の小さな星から持ち帰った星のかけら(物質)にタンパク質の素であるアミノ酸が7種類も含まれていたという記事が話題になりました。NASAでは、そうしたフロンティアの研究も取り組んでいますが、日本はどうなんでしょう。

村田さん:宇宙を漂う隕石からアミノ酸が検出されたということは、これまで、地球でしか確認されていない生命体の存在の可能性が、あるいは、生命体とまでは行かなくとも、有機物の合成が、地球以外でもあり得るということになるわけで…、今日、映画をご覧いただきましたが、なんで私が映画をつくっているかというと、それは、私が、映画に育てられたからであって、いろんな映画体験の影響をうけていますが、やっぱりスティーブン・スピルバーグの『未知との遭遇』”Close encounters of the third kind”という映画は、私がちょうど中学生になった頃の劇場公開で、今でもカット割を覚えているくらい(昔はビデオもなかったので、とにかく劇場へ何回も足を運んで観て、観たものを覚えました)かなり衝撃でした。”We are not alone”という予告編のキャッチコピー、ジョン・ウイリアムスの楽曲(音響)、さらに今年惜しまれつつ逝去されたビルモス・ジグモンドが光の造形で描き出すUFOの特殊撮影、そしてラストに流れる『ピノキオ』から「星に願いを」…”When you wish upon a star  Your dreams came true” これからも、とっても大切なビジョンだと思います。

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時間が来たので、突然ですが、セッション終了

終了後のメールから

(C・Mさん)

「小さなものほど力があり価値がある」日本の古典芸能の素晴らしい音で締めくくり、空間が浄化された様に思いました。よく構成された映画でした。日本文化、見えないものを大切にする見えない力の偉大さを小さな虫たちに教えられました。生きとし生きるもの皆、一生懸命ベストを尽くして生きているのですね。

エゴを無くして、レースになったキャベツの葉を見て、美しい芸術作品だと受け止め歓び、今在ることに感謝して生きる日が、私に来るのでしょうか。夢見ています。蝶になる日を。ありがとうございました。」

児嶋きよみ:このGlobal Sessionは、現在はオフィス・コン・ジュント(Office Com Junto)が企画運営をしていますが、始まりは亀岡市交流活動センターで1999年です。もう20年間を超えましたね。だいたい月に1回の割合で開催し、今回は352回目になります。2011年に退職後は、児嶋とみなさんと共に続けてきました。コーディネーターをしていただいた藤田宗次さんは、1999年の開始時からのメンバーです。民際日本語学校のみなさんといっしょに来ていただいた亀田博さんも大津市から、来ていただいていますが、ツアーガイドなので、いっしょにアメリカの姉妹都市にツアーで訪問したこともあり、このGSも開始数年後からずっと月に一回参加していただいています。藤田さんも亀田博さんも英語の話し手ですが。今日も、村田さん達が作成された映画をどこよりも真っ先に鑑賞させていただきました。みなさんは、いろいろなことを思われたと思いますので、児嶋までお送りください。

2022年5月22日(日)第351回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2022年5月22日(日)10:30~12:00
場所:ガレリア3階研修室
ゲストスピーカー:張穎(ちょうえい)さん(中国出身・宇治市在住・日本語学校教師・亀岡市内の小学校で外国につながる子どもの日本語指導員
コーディネーター:亀田博さん
参加者:25名

 今回のタイトル:「幸せとは?」

参加者の自己紹介

亀田さん:張穎さんはあとでお話しの中で自己紹介もしてもらいましょう。

今日は、張穎さんが。「幸せとは?」というお話しをされますが、世界の160カ国の中で、日本は、幸せの順位では、何位くらいと思いますか?ベストワンはどこと思いますか?

M.・Fさん:ブータンですか?

亀田さん:今は下がって、50位くらいのようです。1位は、現在NATO加盟で話題になっているフィンランドです。しかも5年連続です。ベストテンは、デンマーク・スウェーデン・アイスランド・スイス・オランダ・などです。なぜ、幸せと思うのかですが、人口密度は少ないけれど、社会福祉が整っているからでしょうか?フィンランドは、今サウナがブームで、サンタクロースやオーロラもあり、ムーミンが生まれたところでもありますね。日本は何位でしょう?実は62位です。中国の方も今日は多いですが、今は幸せ度は、72位ですね。日本の中で一番幸せ度の高いのは、実は福井県ですね。アジアやアフリカは低いですが、もっと下がって来ています。 幸せと思う要因はいろいろありますが、依頼感、経済的な面、寛容さ、健康、人間関係、自分に適した生き方をする自由などが挙げられていますね。

 幸せと感じるのは、どんな時でしょうか?おいしいものを食べたときかな?好きなだけ寝られる時?趣味や好きな事に没頭できる時かな?

 今日は張穎さんといっしょに「幸せ」について考えてみましょう。

張穎さん:「幸せはどこにあるか」を考える前に、幸せになりたい人は手を上げて見てください。たくさんいますね。今自分が幸せか気がつかなかった人も、今日は気づけるかもしれませんね。

サムさん(亀岡市国際交流員):幸せは過去にあると思います。その時は気が付かなかったけれども、「あのときは幸せだった」と気づくことが多いので。

ワンシー君:幸せは、自分で見つけるものだと思います。

張穎さん:例えば?

ワンシー君:たとえ、不幸であっても、自分で幸せを見つけていけばいいと思います。

Y・Yさん:私くらいの年齢になると健康が一番幸せかなと思います。

張穎さん:お金があれば幸せかな?ひとによるかもしれませんが。お金があってもさびしいこともありますね。友達がひとりもいないとか。さびしいなんて言えないような状態もありますね。どうしたらいいのでしょう?留学生のみなさんは、勉強していますね。卒業したら何をしたいのでしょうか?

D・Tさん:やりたいことはいっぱいありますが、今のことだけ考えていられることが幸せと思います。

張穎さん:今を生きることが幸せなのですね。チェンさんは?

チェンさん:自分の好きなことをすきなだけやれたら幸せと思います。私はマンガが好きなので、マンガを描いて行きたいです。

張穎さん:チャオさんは?幸せは?

チャオさん:自分が好きな事をできたら幸せです。

マさん:私の幸せは小さいです。家族といっしょにいて、どこかに行ったり、おいしいものを食べたりとか。将来京都大学に行って心理学を学び、医者になりたいです。

張穎さん:サラリーマンとかどうですか?忙しくても家庭に帰ればあたたかいご飯があるとか、子どもと遊べるとか。

亀田さん:大方のサラリーマンは、仕事は大変で残業もあるでしょう。しばられてストレスが溜まることもあるでしょうね。日本の人は真面目なタイプが多いのか、有休制度があっても50%しかとらないという統計があるようですね。回りを気にしすぎるのでしょうか?

張穎さん:どういうふうにがんばれば幸せと思えるのでしょうね。いろいろな職業があります。シェフなどはどうですか?料理が好きな人はいますか?

Y・Yさん:おいしい料理ができて、家族が喜んでくれたときは、幸せと思いますね。このゴールデンウイークには、味噌を手作りしました。

張穎さん:おいしい料理を作ったら家族が満足して幸せと思えるかもしれませんね。

D・Tさん:料理は好きですが、今はひとり暮らしなので、いっしょに食べる機会がないです。それでも幸せと感じることはできます。自分のためでもあるけれど、他人のために何かをして幸せと感じることもできますね。

M.・Fさん:毎日幸せと思っています。ウクライナの問題などを見ていると、何でもなく普通の暮らしができることがしあわせなんだと気がつきました。昔、父親に「普通というのは、普通じゃないんやで」と言われていました。今はわかります。アフリカの子はライオンの来る道にいることもあり、弾のないところで生活できることも、寒さもふせげる家があるし、小さいことでも無事に過ごせることがしあわせと感じます。

 先ほど、過去の事で幸せを感じると言われた方がいますが、子どもは多分、そうは思わないと思います。今しか比べられないので。気持ちの中のことがらなので、家の層や地位は関係がないでしょうね。幸せには。

K・Yさん:自分の心の中でどう感じるかで幸せかどうかが決まるのではないでしょうか?自分の心次第ではないかと。例えば、「自分の庭に花が咲いた」ことで幸せを感じる事もあるでしょう。

ワンリンさん:ひとりの子どもの母親ですが、子どもが幸せなら、自分も幸せと思います。毎日学校の出来事とか、勉強の内容など話してくれますが、それが幸せです。

ハオさん:家族がいっしょにいて、病気でなければ幸せと思います。

R・Sさん:何が幸せかと考えたことがなかったと思います。意識はせずにすごして来て、まわりと関わり、幸せを感じていたと思います。なまけものなので、ゆっくり、ぼおっとしていることも幸せと思います。

N・Kさん:あらためて幸せとはなにかと考える機会になりました。人とのつながりのなかで、自分のしたいことをしたり、それが幸せと思います。学校の教員をしているときは仕事はハードでしたが、子どもたちができるようになった時はうれしいと思いました。人とのつながりが有ることも幸せですね。ウクライナの事例もありますが、日本の今は普通の生活があって幸せと思います。

Y・Hさん:夫が病気になった時には自分も奈落の底におちたような気分でした。夫と過ごせたことだけでも幸せと言えるのではないかと今は思います。今は、ひとりですが、孫と暮らせたりして幸せと思います。

M・Yさん:私は小さい頃から父から、「好きな事をやれ」と言われていました。教師になりたいと思ってなったのですが、60才まで仕事をし、今も好きな事を好きなだけやって、スポーツが好きなので、それもやり、子どもたちと親の中に立ち、喜びを感じています。

Y・Yさん:92才の母がいるのですが、今は老人ホームにいます。2021年までは手術をするとか言っていたのですが、今は元気にすごしているので、それで、幸せです。

A・Uさん:しあわせって何?と考えていました。ささいなことでも幸せを感じると思います。私はポテトチップスを食べ、映画を見るのが好きで、そうしていると幸せを感じます。暖かい布団にはいったり、おなかいっぱい食べたり、そして人の役に立てれば幸せです。

H・Mさん:私は自分の頭で考えるより、親のいうとおりにするように言われて育ちました。母は今はリハビリ施設にいるのですが、以前は遅く帰ると玄関で仁王立ちになって待っていたりしました。今は親の目を気にすることもなく、幸せかもしれません。ただ、最近この地方でも地震が多いので、それが不安でもありますが。

D・Tさん:幸せを語ることはむずかしいなと思います。それぞれ、形もちがうし。今が幸せで、特にみんなと話ができる今が幸せで大切だと思います。

チャンさん(女性):家族が大切ですね。コロナ禍で会いたくても会えなくて、スマホで話せるのでそれで、幸せと思います。

チャオさん(男性):自分を大事にされたら、それで、幸せです。

チェンさん(女性):好きな事がやれれば幸せです。

マさん(女性):家族と電話で話すのが幸せです。

サムさん:幸せは過去のことと言いましたが、今が幸せなら、明日も幸せと思います。計画することではなく、幸せは偶然の産物では無いかと思います。

ヤンさん(男性):今病院にいます。幸せは個人的で、家族を作り、安定した仕事があればいいと思います。お金の多少は関係ないかもしれません。関心があることができて、どれくらい自分の価値を発揮できるかが幸せの自分の基準です。(オンライン参加)

朝陽君:学校の中間休みがしあわせです。友達と遊べるし。

亀田さん:今は自然から幸せを感じます。夜の空、星、満月、桜、みどりのもみじ葉など。自分のこころが出会いを感じています。ルーティンではなく、新しい出会いからも。コロナが収まらないと。普通にできないことができるようになると、何でもないことなのに、幸せを感じると思います。今、中国の上海や北京もそうですが、地方の人ほど2週間ほどは、帰国しても自宅には帰れないでしょう。2年前に帰国して。コロナ禍になり、帰って来れない人もいますね。

張穎さん:日本に来て結婚してから、6年間は夫と共に頼まれて、コンビニ経営をして「いたことがありました。その後やめてから、世界一周の旅に出ました。写真もたくさんあります。私は、幸せというのは、自分さえ良ければではなれないと思います。平和出なければ、世界への旅にも行けないですね。私の父は日本人で、母は中国人です。中国で生まれました。第2次大戦後の中国での父の取り扱われ方はすさまじく、兄が生まれたばかりの時に、遠くの刑務所に送られ、8年間も止め置かれ、ようやく帰ってくると、今度は1966年から1969年の文化大革命が始まり、父はみんなの前で頭に紙で作った帽子をかぶられて、首に重いレンガをかけられ、家族にも「倒せ」と言えと強要されたりしたようです。それでも、母は、そのような試練にも耐え、私も生まれました。ところが、その後も日本人の父の子どもである兄や私は、大学進学を許可されず、二人の兄は、独学して、大人になってから大学に進学ができました。私自身は高卒で、日本で働いていた兄の友人であった夫が中国に遊びに来たときに知り合い、その後、自身も日本に来て結婚をし、今があります。 

私はいろんな国の友達がいます。たくさんのお金がなくても、たくさんのことを学んで、どこに行っても、友達がいる、話ができることは幸せです。なので、世界の平和を願っています。

歌を歌いましょう。1984年に歌われた歌です。

「幸福在哪里」(幸せはどこにあるの?)という歌です。

幸福在哪里、 朋友我告诉你、 他不在月光下、也不在睡梦里。

他在精心的耕耘中 它在知識的宝庫里。

啊!幸福就在你閃光的智慧里。 啊!幸福就在你閃光的智慧里。

張穎さん:質問はありませんか?

児嶋:お父さんは日本人と言うことでしたが、中国ではどのようなことがありましたか?

張穎さん:反革命の家庭ということで、二番目の兄は2,3才のころよからよく、地域でいじめられたそうです。でも、近所の人たちはやさしくて、いじめる子達を「そんなことをしてはいけない」と言ってくれたそうです。母は、日本人の工場で織物を織るエンジニアの仕事をしていました。明るくて何があっても気にしないような人でした。父が刑務所から帰ってきた時に、兄は父を覚えていないはずでしたが、「お父さんが帰って来た」と言って走ってきたそうです。刑務所を出てから父は、人力車で荷物を運ぶ仕事をしていましたが、文化大革命が起こり、また、日本人ということで、ひどい仕打ちを受けました。みんなの前で頭に紙で作った帽子をかぶられて、首に重いレンガをかけられ、顔の前に「倒せ」と描いた布を貼られたりしました。家族もそこに参加するようにも言われたそうです。母には、「離婚したら、工場に雇われるし、給料もあがる」と言われたそうですが、母は、「彼には罪がない」と言い、従わなかったそうです。兄も私も日本人の父の子どもということで、大学進学を許可されず、兄は、大人になってから大学に行きました。夫とは日本で働いていた時の友達で、中国に帰った兄を訪ねてきた時に、はじめて会いました。それから、毎日のように「友達になりたい」と電話がかかって来て私は日本語もできなかったのですが、兄から「この人はすばらしいひとだから、まず、付き合ってみたら」と言われ、付き合うことにしました。その後、結婚して日本に来てから、コンビニを頼まれて経営することになりました。もっとはやくやめたかったのですが、6年間はやっていました。このコンビニには、学校に行かず、勉強しない子どもたちもよく来ていて、「たばこくれ」とか、「まるめんくれ」とか言うのです。言われても最初は何にもわからないので、「そんなこともわからんの?」とか言われていました。それで、パソコンで自学自習で夜中の3時ころまで毎日勉強しました。その頃、夫の母は、日新電機の寮母をしていて、料理が好きでよく教えてくれました。材料も作り方も紙に書いて教えてくれました。その頃2週間に一度はカラオケに行って楽しんでいました。近所の人たちとも知り合いになり、「おいしいから食べて」といろいろな食べ物をもらったりもしていました。

中国語を話してみましょう。(張穎さん指導)

  • おはよう。 早啊!
  • おはようございます。早上好!
  • こんにちは。  你好!
  • こんにちは。您好!
  • こんばんは。晩上好!
  • お元気ですか? 你好吗?
  • お元気ですか?您好吗?
  • ありがとう。谢谢(你)。
  • ありがとうございます。谢谢(您)
  • ありがとうございました。谢谢(您)了。

張穎さん:さて、参加者へのプレゼントです。

じゃんけんしてみましょう。「じゃんけんぽん。」、「あいこでしょ」これで、勝った人は前に来てください。今治産のハンカチタオルをもらったのでプレゼントです。 10名の人がタオルはんかちをもらいました。

2022年4月23日(土)第350回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2022年4月23日(土)10:30~12:00
場所:ガレリア3階会議室
ゲストスピーカー:フェルナー真理子さん
コーディネーター:亀田博さん
参加者:名

 今回のタイトル:「異文化体験をしてみませんか?かめおかで」

セッション開始

亀田さん(コーディネーター):それでは自己紹介から始めましょう

Y・Hさん:ドイツ語を学ぶ者としてマックスさんと真理子さんと知り合いになりました。マックスさんの行動力に驚いています。刺激があります。

M・Fさん:Global Sessionの始まった最初から参加していると思います。1ヶ月に1回の この機会を楽しみにしています。仕事は映画関係を60年ほどやっています。定年退職後も子どもたちへの映画つくりなどをやっていて20年間ほどになります。真理子さんには、子どもさんを紹介していただいたりしましたね。最近の子はあまりはずかしがらないので驚きます。

E・Tさん:このGlobal Sessionに参加し始めて8年目になります。この間、真理子さんがテレビの「ヨーイドン」に出ておられてびっくりしました。今の仕事は島津製作所でエンジニアのような仕事をしています。

チャンさん:中国出身で、2007年に来日して今になっています。現在は亀岡の千代川小学校と亀岡 小学校で外国につながる子どもたちのサポーターをしています。2021年には、千代川小学校で英語の発表会があり、真理子さんにもお会いしました。その時、何十年も使わなかった英語を話さなければならず大変でした。でも、いっしょに仕事ができて、とても楽しかったです。その後、真理子さんの家にも行きました。このGlobal Sessionは、初めての参加です。

児嶋さん:このGlobal Sessionは、1999年から、以前の仕事場の亀岡交流活動センター時代から仙台の友人の横瀬さんから聞いて始めました。退職後はオフィス・コン・ジュントの主宰として続けていて、今回は350回目になります。最初はオクラホマ州立大学京都校が1990年に開設され、1996年に本校に移転しましたが、そこには、20年間ほど通ったことになります。

亀田さん:大津市在住で、ガイドの仕事をしていますが、コロナ禍のなか、1ヶ月に1回のGlobal Sessionに参加するのが楽しみで来ています。現在は、ヨーロッパでのロシアとの戦争中ですが、この間、真理子さんは、オーストリアに帰国され、そして「つい最近日本に戻ってこられたと聞き、驚いています。持って来た資料は、オーストリアの国歌のエーデルワイスとウイーン少年合唱団が歌う「ドラエモンの歌」です。コロナ禍でこの2年間は来ていませんが、彼らの歌を聞いてほしいので、あとで、お聞かせします。それとハプスブルグ家の600年間の王家の系統を書いてあります。現在のロシアとちがい、戦争に力を入れるのではなく、「結婚」でいろいろな国とつながりを持って来ました。マクシミリアン一世は、ダイアモンドの結婚指輪をはじめてベルギーのルクセンブルグ出身の結婚相手に送ったことで有名です。

真理子さん:ハプスブルグ家とは関わりはありませんが、勉強はしました。オーストリアに初めて行ってから42年になります。日本人でありながら、日本人でないような性格でわからないことがあるとすぐ口に出してしまいます。この国のやり方として、「自分で決めて自分でやっていく」方法は、自分に合っていたような気がします。夫のマックスは、日本に来て「日本の野菜を作りたい」と言ってやっていますが、なかなか育てるのは難しいようです。夫は今も勝手にいろいろやっているので、私は通訳をしているくらいです。千代川駅に近い所に家があり、いろいろな人が来ていいですよ。オーストリアでは家に招くことが多いです。招いても、「ビールがあるから勝手に取って」とか言ってあまりお世話をしているわけではないですが。亀岡とつながりを持ったのは、姉妹都市のクニッテフェルト市に代表団が来られた時に、私が通訳をしたことに始まりました。

 今日は、「異文化」を体験してもらおうと思っています。毎日ウクライナの話を聞いていますが、どれくらいの大きさの国か知っていますか?日本の1.6倍です。人口は日本の三分の一です。小麦粉の産地で今は小麦粉不足になり、パンの値段もあがっていますね。ウクライナ・ロシア・ベラルーシの3国にルーツをもつ人が95%で、あとは、その他です。日本ではニュースで聴くまで知らなかった人も多いと思いますが、つながっているヨーロッパの人は危機感があります。難民も20万人以上になり、オーストリアにも2万人以上が入っていると思います。駅の構内にベッドを置いたり、体育館のステージなどにもあります。赤十字が管理し、常にボランティアを募っています。個人の家でも宿泊を求めています。この間オーストリアに帰国したとき、自分の子どもたちも「部屋を貸そうよ」と言っていたのですが、言葉もわからないし、病院へいく時にもどうしていいかわからない状況なので、貸すのはやめて、赤十字を手伝い、食料の補給などをしようということに決めました。朝から夕方までだれも居ない家に預かる事よりはいいだろうと。

 日本には20人引き受けたとかいうニュースがありましたね。その後は日本語ができれば引き受けるとか。そんな人は大学生くらいで。それは、難民ではないですね。日本は島国で他の国のことをとらえにくいのでしょうか?画像でも事実かどうかわからないし。実際に外国に行ってみることが必要ですね。学習としても「遺跡から何かが出て来た」という仮定で、何がでたかを絵に描くという課題がありました。「表現力はそれぞれがちがう」ことを学ぶのが目的です。

 以前お話しした。メラビアンの法則では、ことばだけで得られる印象は少ない。35%だけであると。それ以外には、音を聞く。目で視る。経験をしていないから想像する。

ちょっと実験をしてほしいのですが、

*疲れて帰ってきました。その時、みなさんは、どのような声をかけますか?

「おかえりなさい」「おつかれさん」などいろいろありますね。声の調子はちがっても、国を越えたことばはあるはずですね。

*「いただきます」 日本

「お食べください」ドイツ・オーストリア

このように、①文化を超えることばがあることを認識する必要がある。

      ②ことばの使い方がちがっても、伝わることもある。

じゃんけんゲームをしてみましょう。

リーダーの掛け声でじゃんけんを繰り返す。

訪問者が入ってからは、掛け声以外はしゃべってはいけない。

*ただし、ことば以外の方法ならば、訪問者にルールを教えてもいい。訪問者は、このグループがどのようなルールで、じゃんけんをしていたか、当てる。

α(アルファ)国

グー:手を口にあてる

チョキ:手を鼻にあてる

パー:手を頭にあてる

うれしい時:「ぽー」と言う(じゃんけんで勝ったとき)

ざんねんな時:「ピー」と言う(じぇんけんで負けたとき)

β(ベータ)国

グー:足をとじる

チョキ:片方の足を前に出す

パー:足を開く

うれしい時:「ピー」と言う

残念な時:「ぽー」と言う

ゲームのやり方

  • グループ内でじゃんけんをやってみる。グーチョキパーを何度もやって覚える。声は「じゃんけんぽん」と「ぽー」か、「プー」だけ。
  • グループの一人が、別のグループを訪問する。見ながら、約束ごとを「こうかな」と想像する。参加して見る。訪問したグループの約束ごとを学ぶ。
  •  元のグループに戻った訪問者は、他のグループの約束ごとを自分のグループに報告する。

終了後からのセッション再開

E・Tさん:頭を使いました。観察力が必要ですね。どっちが勝ったかさえ、最初は、わからなかったです。

M・Fさん:ぼけ防止にいいですね。

チャンさん:おもしろかったです。表情をみながらやっているのですが、心の中はわからないとか。自分が正しいと思ったことが逆であったり。

児嶋さん:自分のグループのやり方さえ、覚えられないですね。なかなか。

亀田さん:だれにも先入観があり、むずかしいですね。

真理子さん:「他の国の文化にも価値観を持つ」というのが、このゲームの目的ですが、「じゃんけん」という簡単なゲームでもわかりにくいですね。手の動作での「グー」「チョキ」「パー」を見ているからわかるのですね。

 「じゃんけん」をしている人を見ていても、最初は、それが何を意味するのかさえ、わからない。入り口だけで、奥に何があるのかがわからない。

 他の文化の人を受け入れるには、受け入れ側も頭を切り替えなければ難しいようですね。外から来た人(外国人だけではない)を受け入れるには、お互いを知ろうとし、どうやったらコミュニケーションがとれるかを考える必要があると思います。

 この1ヶ月、オーストリアで過ごしていました。今はZOOMでの対話も多いですが、対面になると、ストレスも多くなり、それに耐えるにはエネルギーが必要ですね。

 現在のように、国を出て人が動く場合には、難しさは変わっていないと思います。その力が弱っているならばその部分を強化していかなければいけないですね。気持ちの柔軟性が必要なので。

M・Fさん:昔、オーストリアに行った時にCaféに行くと、入り口で傘やコートをあずかってくれました。女性はハンドバッグだけ持ってはいるのです。気持ちが良かったことを覚えています。日本とちがっていますね。

真理子さん:外国に行くと、日本人の夫が妻にうしろからコートを着せるのですが、日本に着いたら、夫は自分だけさっさと着て出て行くとか。ヨーロッパでは、レディーファーストが徹底していますね。

M・Fさん:外国の女性は強いのですか?

児嶋さん:強い女性をなぜ守るのかと疑問がわきますが。

真理子さん:アジアの女性は、実際には強いですね。オーストリアでは、シングルマザーも補助が出るので、くらしやすいです。

M・Fさん:ウクライナの現在は、若い女性も志願して兵隊になっているようですね。

真理子さん:スウェーデンでは、男の子も編み物を習い、靴下の穴もつぎはぎしますし、女生徒も工作の時間が平等にあります。これは、できる人はやればいいし、見ている人は、労働に対してねぎらうという形をとっています。

児嶋さん:以前は、日本は女子は家庭科で、男子は技術科とか別れていましたね。現在はどうかな。

真理子さん:私は3人の子どもは皆男の子です。一人暮らしになると自分でしなければならないと思い、料理も裁縫もして、必要な力をつけるようにしてきました。日本の場合は、世代によってちがいがあると思います。テレビを見ていたら、「こんな仕事をしたいが・・」と子どもが言ったら、お母さんが反対していました。このようなことは意味がわからないです。子どもであっても、20才を過ぎていたら、自分の人生に責任を持つというのがあって、ちょっと理解に苦しみました。

E・Tさん:大学生の時に、バイトするのは当たり前だったのに、自分の母親は、「してはいけない」というのです。その理由は、「バイトしてると単位を落とすから」と。こんなことを言われた覚えがあります。

チャンさん:中国では歴史的に、男性が大切という考え方があり、男の子は何もしなくていいと言われてきました。家庭を持つと、男性が給料を家に入れるので、家の仕事をさせてはいけないと言われてきました。そして、夫妻の両方の親が買い物や、子育てを手伝うというのが普通でした。現在は、女性も仕事をしに外にでるので、30才台や40才台の夫婦は変わってきていると聞いていますが。

真理子さん:40才台までは仕事を優先してきたと思いますが、コロナ禍で考え方が多少変わり、最近は家庭が大切と思うひとが増えて来たようです。50才以上が初めて、仕事が大切という答えが多くありました。

M・Fさん:外国に行ったときに地下鉄で切符を買っていたら、男性が近づいてきて、「どこまで行くの?」と聞かれ、代わりに買ってくれました。でもその釣りも持って行ってしまいました。その後に女性が来て、切符を買っているのを見ていたら、他の人がこないように友人が番をしているのです。これは常習犯がいるのかと驚きました。

亀田さん:オーストリアの国歌のエーデルワイスを英語ですが歌って見ましょう。携帯から音楽を出します。日本ではこの歌はよく知られていますが、国歌だと知っていましたか?その後、ハプスブルグ家の家系図を見てください。1273年から650年にわたって中欧ヨーロッパを支配してきました。マクシミリアン1世の「戦いは他のものにさせるがよい。汝、幸あるオーストリアよ、結婚せよ」ということば通り、戦争ではなく、結婚政策によって判図を広げていったと書いてあります。参考に。 

2022年3月27日(日)第349回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2022年3月27日(土)10:30~13:20
場所:ガレリア3階 会議室&オンライン
ゲストスピーカー:濱田雅子さん(元武庫川女子大学教授、アメリカ服飾社会史研究会 会長)
コーディネーター:児嶋きよみ
参加者:12名(うちオンラインでの参加4名)
共催:アメリカ服飾社会史研究会、亀岡国際交流協会

 今回のタイトル:服飾から見た生活文化シリーズ22回目「写真が語るアメリカ民衆の装い(その2)―1850~60年代の民衆の生活文化を垣間見るー」

講座開始前

濱田さん:今日の話の内容は、パワーポイントに録画をしてありますので、そちらをオンラインで送信させていただきます。その上で説明が不足している場合は、セッションの場で考えを述べたいと思います。PODと電子版で出版予定の本があります。版下・装丁、表紙のデザインは、自分でいたしました。『写真が語る近代アメリカの民衆の装い―Guidebook of Joan Severa: Dressed for the Photographer, Ordinary Americans and Fashion, 1840-1900」(ネクパブ・オーサーズプレス2022年4月中旬刊)という本です。写真が多いので大変でした。詳しい書誌情報は下記のホームページに掲載しています。

https://www.american-mode.com

さて、現在は、ロシアとウクライナの戦争という人道的に許しがたい戦争が起こっていますが、やがていつかは平和になると確信を持ちながら、私たちの文化活動を続けてゆきたいと心から願っています。今日は濱田講座の22回目で、Global Sessionは、349回目になります。

【濱田さんの講演内容】

今回は、前回に引き続き、「近代アメリカの写真が語る民衆の装い(その2)―1850—1860年代の生活文化を垣間見る―」というテーマでオンライン講座を開催させていただきます。よろしくお願いいたします。

【本講座の研究文献の紹介】

Joan Severa, Dressed for the Photographer, Ordinary Americans and Fashion (1840-1900), Kent State University, Ohio, Kent, 1995. p.592.

本書はJ・セヴラ女史(Joan Severa,1925-2014)が30年と言う歳月をかけて取り組まれた大作で、アメリカの服飾研究者から高く評価されています。彼女はウィスコンシン・ミュージアム歴史協会の学芸員を30年にわたって歴任する傍ら、アメリカ服飾学会の理事や多くの博物館のコンサルタントとして活躍してこられました。

本書は、ミドルクラスや下層階級のアメリカ人たちが、ダゲレオタイプの銀板写真技術が導入された1840年から1900年の60年間に、記念写真や日常生活の写真に、どのような装いでおさめられたのか、かれらのバックグランドや服装のディテールの分析も含めて、マテリアル・カルチャー(物質文化)の視点から書かれた大作です。掲載された写真は何と277枚。服飾の専門家の視点で写真のなかの服装が的確に分析されています。ヨーロッパやアメリカの上流階級の装いを扱った書物は、沢山、ありますが、アメリカの庶民、すなわち、アメリカの民衆の装いを扱った書物は、J・セヴラ女史の上記の著作以外には、一冊もありません。

二部構成です。

第一部では、クリミア戦争という歴史的背景、写真技術の発展の歴史を踏まえて、最初に、1850年代の写真が語る民衆の装いをコルセットの変化のあり方に焦点を当てて語らせて頂きます。前回はコルセットが女性の身体に及ぼす影響という視点から、議論が白熱し、レポートでも「このような目まぐるしく、仕事に追われる日々を送っていると貴族の女性のようにコルセットを付けてお洒落をした自分の姿を見てみたい」というご意見もいただきました。

次に、前回、男性の服装について、もっと知りたいとのリクエストがありました。今回は、この方のご要望にお応えして、1850年代の男性服をご紹介しましょう。

  

【第一部】

1.ヨーロッパの背景―第二帝政時代・クリミア戦争

☆1848年 2月革命⇒ルイ・フィリップの治世は終止符⇒王はイギリスへと亡命⇒ ブルジョア共和制の成立⇒ブルジョアジーとプロレタリアートの対立激化

☆1852年12月2日 ナポレオン3世 (ルイ・ボナパルト、ナポレオン1世の甥)が第二帝政を宣言

☆クリミア戦争

1854年~56年のクリミア戦争は、トルコ・フランス・ロシア間の聖地(イエルサレム)管理権問題にその端を発します。ロシア、トルコ両国が開戦。349日間にわたる攻囲戦でセバストポリが陥落しロシアは敗北しました。

戦争はヨーロッパとの貿易に大きな影響を及ぼし、アメリカでは商品が不足し、失業者が続出し、多くの企業が倒産しました。しかし、婦人用の記事から判断すると、貿易の崩壊は単に毛皮製品の不足から立証されたにすぎないと人々は信じることができたとのことです。

クリミア戦争は、この時期の歴史にいくつかの影響を与えた。国際政治の面でロシアの南下政策を一頓挫させたということも、むろんそのひとつでありました。

2.写真技術の発展の歴史

さて、次に1850年代の服飾に関わる時代背景として、アンブロタイプとティンタイプの写真技術の発達について述べましょう。

 ダゲレオタイプの写真技術は、庶民が気軽に写真撮影を出来るようなものではなく、非常に高価なものでした。銀板の準備は複雑で面倒なものであるため、より簡便で、安価で使いやすい感光材の開発が行われました。その結果、1851年に、イギリス人のフレデリック・スコット・アーチャーによって、銀板の代わりにガラス板を使う「コロジオン湿板写真」が開発されました。

(1)ダゲレオタイプDaguerreotype

ダゲレオタイプ(Daguerreotype)とは、ルイ・ダゲール(Louis Jacque Mande Daguerre,1787-1851)により発明され、1839年8月19日にフランス学士院で発表された世界最初の実用的写真技法であり、湿板写真が確立するまでの間、最も普及しました。銀板上に直接左右反転した白黒画像を得るダイレクトプロセスです。

(2)アンブロタイプとティンタイプ(フェロタイプ)

ダゲレオタイプの写真技術は、庶民が気軽に写真撮影を出来るようなものではなく、非常に高価なものでした 湿板写真を利用したティンタイプ、アンブロタイプ写真は、高価なダゲレオタイプ(銀板写真)に代わり直接ポジ画像を見ることができる写真として1850年代以降広く普及しました。

次に、カルト・ド・ヴィジット、グラス・プレイト・ネガティヴ、キャビット・フォトグラフ、スタジオ・ポートレート、およびステレオスコープ・ヴューの写真技術が1850年代以降に普及します。これらの写真技術について解説させていただきます。

(3)カルト・ド・ヴィジット

カルト・ド・ヴィジットは名刺の代用で、フランス人発明家のアンドレ・アドルフ・ウジェーヌ・ディデリ(André-Adolf-Eugè ne Disdéri(1819-1889)が、1859年に発明しました。最盛期は1863-1876年、衰退期は1877-1880年である。素材はアルビュメン・プリントです。

(4)ガラス・プレート・ネガティヴ

ガラス・プレート・ネガティヴは、アンブロタイプのすぐあとに登場したガラス乾板のことです。昔使用していた、35枚撮りのフィルムの前身は一点ずつのガラス板でした。アンブロタイプは薬品をガラスに塗布し、それが乾かないうちに撮影したため、湿板と呼ばれたのですが、ガラス乾板は、薬品がその名の通り、乾いた状態でガラス板についています。ネガポジ法です。この利点は、まず、どこでも写せたと同時に、現像処理をその場で施す必要がなくなったことにあります。また、複数枚数を制作することも可能としました。ガラスネガティブになってあらゆる意味で写真のフィールドが拡大したことになります。

(5)キャビネット・フォトグラフ

キャビネット・フォトグラフはキャビネットに飾られたことに由来する名前をもっています。このカードは、全くの第三者の目にプライベートなポートレイトがさらされるようになった時代の始まりでもあります。

(6)ステレオスコープ・ヴュー

ステレオスコープ・ヴューは、ステレオスコープを使って覗く3-D写真です。同じ写真を左右に一枚のボードに貼り付け、ステレオスコープを用いて、両眼で覗くと、3-Dに見えるのです。

1860年代の写真の大半は、ガラス・プレート・ネガティヴ、キャビネット・カード、ステレオ・カードの技術が開発されたため、1840年代、1850年代のスタジオでダゲレオタイプの写真に収められた写真とはかなり趣が異なっています。

3. コルセットの変化―写真に見る身体に優しいコルセットをつけた女性たち

「今もエリザベートのダイエットをするための木の機械が保存されていると聞いています。」

 このようなご意見もいただきました。ご意見を下さったご本人にもお尋ねし、ネットで調べてみたら、木製の器械の写真が出てきました。左の梯子を登って、木製の鉄棒のような器械にぶら下がったのでしょうか?

https://make-happylife.com/2020/09/21/sisi-sweets/ 参照して下さい。

 さて、1850年代のアメリカではコルセット装用の実態はどうだったのでしょうか。写真を通じて見て参りましょう。

ちなみに、ジョーン・セヴラさんは、次のように述べられています。

「1840年代後半の前身頃が長くて、胸部をおしつぶすコルセットは、1850年代には、妊婦や授乳中の女性や少し太り気味の女性に、実際問題として、どのように受け止められていたのであろうか。「このスタイルは、中年になった女性たちが流行の丈長で窮屈なコルセットを使うのをやめ、快適さを選んだことをあらわしていると推察される。」(Joan Severa,p.8)

4.男性服

 1840年代の細い袖とズボンは、1850年代になってもよく着られていた。 1850年代後半には、流行遅れになったスタイルの服が仕事着に格下げされたことが、写真から見てとれる。 男性は、時には平気で「普段のままの」格好でカメラの前に座ったように見える―つまり、職場からそのままスタジオにやって来たような格好をしていて、女性と比べてわりあい着慣れてしわが寄った、いくらか古く見える服を着ていることがよくあるのである。 特に袖はより幅が広くなり、アームホールが1840年代より高い位置にあった。

 ベストは1850年代にはダブルの打ち合わせが主流になる傾向が見られ、ノッチドカラー[刻み衿]が付くことが多かったが、写真にはショールカラー(shawl collar)のものも写っている。 手の込んだ模様織りのシルクは正装用のベストに用いられ、そのなかには燃えるような色のものもあったが、昼間用ベストは黒のウール地で、コートとお揃いであった。 夏には白または淡褐色のコットンのベストが着用され、一部は涼しさを考慮して打ち合わせがシングルだった。 チェック柄のベストは1850年代終わり頃の特徴的な品で、チェック柄のズボンと一緒に着用されたが、ベストとズボンのチェック柄のサイズは同じではなかった。

1850年代初めのファッション・プレートにはまだ細いスタイルのズボンも見られたが、当時の典型的なズボンは、足を入れる部分が比較的幅広の筒状で、折り目がなく、つま先の上で「しわがよる」よう長めに作られていた。1850年代中頃には格子縞やチェック柄や明るめの色のズボンが「あかぬけた」服装をする男性たちに人気があったが、それでも写真では黒が主流である。ウールは年間を通して使用され、リンネルは夏に着用された。

1850年代の男性用シャツでは、中ぐらいのサイズで首回りがあまり高く立ち上がらない衿を、ネクタイの上に折り返していた。この種のゆるいシャツは裾をズボンの中に入れて着用し、時には上にベストを着たが、スモックのように他の服の上に重ねて着用するものではなかった。当時の写真に見られるスモックは、膝が隠れるくらい長く、時にはシャツとネクタイをその下に着ていることが見てとれる(Joan Severa, p.105を要約)

帽子やネックウェアーやヘアー・スタイルや髭の写真も紹介させていただきました。

第二部】

 第二部では、1860年代の写真が語る民衆の装いを歴史的背景を踏まえて、考察させていただきました。歴史的背景は南北戦争(1861-65年)と戦後の再建期(1865-1877)です。1865年には合衆国憲法修正第15条で、奴隷制の廃止が規定されました。戦後の南部の再建はアメリカ合衆国に課せられた大きな課題でした。中でも解放奴隷の土地や仕事や衣食住の保障は、重大な課題でした。

1.南北戦争の背景と経過

   ☆南部地域における黒人奴隷を労働力とする大農園(プランテーション)の普及

☆奴隷制をめぐる南部と北部の対立

☆南部:イギリス産業革命以降、綿花の需要が増大。イギリスへの綿花の供給と工業

  製品の購入という相互依存関係。自由貿易制度を主張し、奴隷制度の存続望む。

☆北部:40年代以降、産業革命が本格的に進行。イギリスと競合関係。奴隷制に反対。

☆1861-65年―合衆国(United States of America)と脱退した南部11州が結成したアメ

 リカ連合国(南部連合 Confederate States of America)との間で戦われた戦争。奴隷

解放の戦い。

2.年表

 1820年 ミズーリ協定

1850年 カリフォルニアが自由州として連邦加入

1854年 カンザス・ネブラスカ法の成立。共和党の結成(奴隷制反対)

1860年 共和党のリンカーンが大統領に当選(南部は認めない)

1861年 アメリカ南部連合結成

1863年 奴隷解放宣言発布

1865年 南部の首都リッチモンドが陥落 

    合衆国憲法修正第15条で、奴隷制の廃止が規定。

3.写真に見る服装の解説

 本章には家庭裁縫に携わっていた人々、学校の教師、リフォーム・ドレスの運動に携わっていた人々、移民、西部入植者、農業労働者、解放奴隷、自由黒人、ネイティヴ・アメリカンなどミドルクラスや下層階級の様々なカテゴリーに属する庶民の写真が掲載されています。そこで、本講座では1840年代、および1850年代とは異なる視点から、写真の紹介、考察を行いました。階級的視点・ジェンダーの視点から見た服装、人種・民族の視点からみた服装という分類をおこないました。なぜなら、解説に掲載した一覧表に見るように、写真技術の発展に伴い、被写体の範囲が一部の金持ちの中流階級以上の人々から、中流・下層の民衆へと広がり、移民、西部入植者、農業労働者、解放奴隷、自由黒人、ネイティヴ・アメリカンなどミドルクラスや下層階級の様々なカテゴリーに属する庶民の写真が掲載されているからです。

 本講座では、なかなか目にすることのない、珍しい貴重な写真を紹介させていただきました。我が国でも、海外でもとてもマイナーな分野の研究です。

【参加者の自己紹介と感想】

オンライン参加者

K・Yさん:名古屋の大学で教えていて、フランス現代文学が専門です。濱田先生のリッチな発表ですし、書籍も手のこんでいる内容です。フランスの文化でもコルセットには言及されていますが、このように細かい説明は貴重です。この本は「写真が命」と言われましたが、写真の発展と共に出版の発展についても話されていますが、同じ写真でも、実際に服装制作を手がけてこられた濱田先生でなければ気づかないことも多いと思います。

第2部の歴史の流れを立体的文化論としていますね。貴族ではない庶民の服装に目を向けられ、奴隷解放後、自由人となった黒人の服装の写真を見て、限られた時代のその服装に目が行くという切り口は大変オリジナルだと思います。まだ写真という資料の少ない中での貴重な記録ですね。

S・Hさん:今回の講座は2回目になります。内容がとても豊富でよくまとめられていると思います。服飾界の習慣として、今までも貧困の人々の研究はあまりされて来なかったのではないかと思いました。

M・Mさん:鹿児島の大学と大学院で教えています。「観光旅行学」という学科で「観光学」は今まであまり重要視されていませんでした。この大学で4年目になりますが、2022年にゼミ生が京都大学大学院に進学し、これからの希望にもなりうれしいです。祖父は1760年から林業をやっていて、そこの土地や家を受けついでいます。Woodショックのあと、現在のSDGsの最先端を行けないかと考えています。

亀岡会場参加者

H・Kさん:Global Sessionは毎月1回開催されているので、毎回大津市から参加しています。1ヶ月ほど前に、BSテレビ東京の番組「Fashion 通信」で濱田さんがインタビューを受けられた番組がありましたが、私も見ました。その時の濱田さんの洋服は、ピンクでとてもきれいでした。

その時の放送では、日本が戦後になるまでにシルクの生産は、アメリカで使用されているシルクの60%を占めていたと聞きました。日本のシルクは以前の番組の「渋沢栄一」でもありましたが、明治初期から機械化されそこまで成長していたと知りました。

仕事はツアーガイドをしていて、この2年間はコロナ禍でフリーなので、仕事をしていませんでした。以前は、日通と企画もいっしょにしたり、日本ユースホステル協会とも企画から参加していました。2年前までは日本のツーリズムも発展していたと思いますが、コロナ禍のあとの、旅行業界の復興もかなり大変だなと思います。

濱田講座は、これから、第2次大戦後のアメリカの復興まで見られると期待しています。

M・Fさん:最初から参加していますが、今回は、170年ほど前のアメリカのコスチュームの話でした。写真もまだまだその時代のは見たことがなかったです。アメリカのコスチュームに視点を当てたことから、西洋中心の服飾業界であったのが、そのころからのアメリカの女性の服装が変わって来たことがわかります。写真を見て思ったのは、「女性もそのころから、働かなければならなくなったと思うが、パンツはなかったのか」という点です。

濱田さん:美を求めて機能的になるよう改善した服を着ていたと思います。日本の第2次大戦後の女性はモンペ姿でしたが、1850年代~60年代のアメリカ女性の服飾文化を比較するとかなりちがいがありますね。

M・Fさん:カメラマンに静止画像ではあるけれども、写真を撮ってもらった人がこんなに多かったのかと驚いてもいます。

S・Sさん:たくさんの資料を見せていただきありがとうございます。日本に来て21年になります。大学はAPUで、社会学が専攻で、エコツーリズムにも関心がありました。

今日の講座についてですが、写真がたくさんありましたが、写真から、こんなに情報が読み取れるのがすごいと思います。それと、いろいろな方面の写真もみられてすばらしいです。私の故郷のシリアもファッションは以前と比較すると大きく変化しました。歴史的な面もあり、人の大きな移動もありました。これを視ていて生まれた疑問ですが、人の移動は大きくなりましたが、今の時代のオンラインであれば、地球の反対側が今どうなのかが見えるのではないかと。これは、ファッションの研究にも使えるのではないかと思いますが。

E・Tさん:2022年になって開催のGlobal Sessionには初めての参加です。今日の講座を見ていて思ったのは、時代を経るごとにコンセプトが少しづつ変化してきているなと思いました。写真技術も改良され、苦労も苦悩もあったのではないかと。

私は、男性のファッションに興味があって、コートやベストなども昔からいろいろ持っています。どれも似たようなスタイルですが。質問ですが、Pコートとか、マラソンパーカーなど今は普通にありますが、いつごろから登場したのかなと考えていました。服を買うお金のある人は、どのように買っていたのかも知りたいです。(仕立てとか、売り場にあるのはいつごろからとか)

M・Oさん:主催者であるオフィス・コン・ジュントさんが、亀岡市の生涯学習賞の共生賞を受賞されたと聞き、おいわいに参加しています。GSは毎回、お知らせとレポートをメールで送ってもらっていて、今回は349回目ということですね。

今までも、濱田さんのGSは知っていましたが、自分には服飾でもあり、関係ないと思い込んでいましたが、今日は参加してすごくおもしろいと驚きました。よく調べておられて、日本の歴史で言えば、江戸時代の終わりころの話なのに、写真がたくさん出てきます。

実は家に銀版の写真がたくさん残っていて、捨てようかと思っていたのですが、今日の講座を聞いて、これは調べておかないといけないなと思いました。

児嶋さんは、1999年からGSを開始して今まで続けていると言われていましたが、思い起こせば、その前のアメリカ大学日本校ブームで亀岡にもオクラホマ州立大学京都校(1990年~1996年)があり、児嶋さんはそのころから仕事をされていて、今に至っているのですね。現在は、ZOOMもあり、今日のように亀岡だけでなく、いろいろな地域からこのGSに参加されていることを考えれば、大きな変化があったなあと再認識しました。

S・Sさん:さきほど自己紹介の時に、シリアを含む中東のファッションについての情報があれば知りたいと思いました。中東に何があり、また、アメリカなどのどのような背景があり、今があるかと。

濱田さん:中東の服飾については牧畜種族としての古い昔の衣裳の資料は残っていました。銅像などの写真も。狩猟生活を反映した繊細な作品であったと西洋服飾史の書籍にはあります。生活形態と密着していたと思います。初期の織物でカウナケスという動物の皮で造られたという衣服を着た銅像を見たことがあります。残念ながら、戦争で、文化的資料であった銅像なども破壊されました。また、動物から摂取したすばらしいい衣服もありました。丹野郁博士が撮影されたものです。その時、ギリシャ、ローマ、エジプト、西アジアの服飾についても私は、基礎を学びました。アメリカの服飾史はヨーロッパの影響をどのように受けたのかという内容について、濱田は研究してきました。

H・Kさんの言われたテレビの出演の時のピンクの洋服はパリからの輸入品のカシミア製のチュニックです。1920年代のボーイッシュ・スタイルです。

M・Fさんの「ズボンをはいた女性の写真はないのか」というご質問ですが、スカートの下にはいている写真がありますね。アメリカではドレス・リフォーム運動があり、濱田の「パリモードからアメリカンルックへ」という本に、詳しく書かせていただきました。

2022年3月23日に、ネクパブアワード2022のZoomでの授賞式がありました。

私の『パリ・モードからアメリカン・ルックへ アメリカ服飾社会史近現代篇』が審査員特別賞を授賞しました。  

濱田さんの書籍

【授賞式の動画】 

3/29(火)午後アワード2022のサイトに選評、受賞者コメント動画、授賞式の動画などが公開されました。

https://nextpublishing.jp/award2022/

児嶋:今日の講座の中での一番印象深かったのは、「奴隷解放後、人々は皆、失業した」という点です。黒人が解放され、すばらしいという解釈が歴史上も残っているのですが、この点には初めて気がついたような気がします。

濱田さん:アメリカのリンカーン大統領による奴隷解放後の「南北戦争後の再建」として解放民管理局が担当していましたが、奴隷の処遇がどのように行われていたかはわかりますが、服装についての研究はあまりありません。マイノリティは写真の数も少ないです。解放されても生活は抑圧されていたはずで、研究の今後の重要な課題でしょう。

K・Yさん:バックグラウンドがないため、研究もされてこなかったでしょうね。

濱田さん:アメリカの現地民族の服飾の研究に行った時に、ナホバ族の織物も習いました。黒人奴隷の服装というのもバージニア州を訪問したときに探しましたが、一着も見つかりませんでした。

S・Hさん:濱田先生は、なぜアメリカを研究しようと思われたのでしょうか?

濱田さん:私は東京に10年間住んでいたのですが、その時に丹野先生のセミナーに参加し、西洋服飾史を学びました。その時に、「西洋の上流階級の研究は多いが、その他は少ない。あなたはだれもやっていないアメリカの服飾の研究をやったらいいですよ」と丹野先生に言われたのです。これが動機になったと思います。先ほど、「貧しい人たちはどうやって衣服を入手していたのか」という話がありましたが、ゼブラさんは「アメリカの人たちは、上昇志向があった」と言われています。S・Hさんも言われていますが、貧しい人たちの写真はあまり残っていません。セブラさんも博物館の学芸員として長く研究されてきましたが、19世紀奴隷の服装などの、実態のないのをどう研究して行ったのかについては、とても難しい今後の課題です。今年は、7月と11月のこのGlobal Sessionで続きをやらせていただきます。衣服の現代化の問題などとてもおもしろいですよ。よろしくお願いします。

セッション以後の感想集

M・Fさん:「「近代アメリカにおける写真に見る風俗研究」しかも女史の風俗はと考え興味を持って拝聴いたしました。19世紀の上流社会の女性は、エレガントな衣装(コルセットによる)を身に着けて魅力的に振舞っていたのは、凄いことと感じ入りました。同時代の日本は帯刀した侍が町を闊歩する社会の中で改革の足音が静かに聞こえ始めたころです。

そんなことを考えながら、浮かんできましたのは、「GONE WITH THE WIND」の映画です。1861年に始まった南北戦争を舞台にした内容で、ヴィヴィアン.リーの着ていた衣装が素晴らしいと感じていた当時の意味が解ったようです。西部劇が好きでよく見ましたが、何時の時も主役の相手役の女性は、エレガントなドレス着用の女優で、西部開拓時代にこのようなdressyな衣装があるのかと不思議に思っていました。当時の優れた写真技術によりアメリカンハイクラス女性の発展性には感じ入りました。濱田先生有難うございました。」   

S・Hさん:「今回の講義で特に印象に残ったことや感じたことを挙げたいと思います。

前回の講義ではダゲレオタイプについて学んだが、今回はその他の19世紀の写真技術や種類について学び、その中で、安価で撮れるティンタイプよりも高価なダゲレオタイプで撮る方がステータスであったことが、まず印象に残りました。

そしてJoan Severaさんのある時代の服装習慣について論じるのであれば、服を買うお金がない人々はどのような格好をしていたかも扱うべきである。という言葉が特に印象に残りました。

19世紀に写真の技術が発展し、残された貴重な写真たちを読み解くためには、服装だけではなく写真のバックグラウンドに意識を向けることが大事だとわかりました。

その一方で、残っている写真がその時代の全ての人々の服装を表しているわけではないことにも注意したいと思います。ただ服装のみに焦点を当ててしまいがちですが、様々な角度から服飾史について学ぶことの重要性を改めて感じました。」

K・Yさん:「1850年代-1860年代のアメリカを中心にした服飾」

コルセットを中心にした発表においては、カルナバレ美術館の貴重な資料を示しながら、コルセットの種類を提示され、刺激的な内容だった。

研究の基礎となる写真資料の技術革新について、まずきちんと整理された点が、資料の精緻さを示し、発表を説得的なものにしている。

写真の読み取りに関しては、発表者が服飾に精通しておられるため、実作者の視点からの分析も功を奏している。

プランテーション時代の発表は、歴史の流れに沿ってなされたので、客観的な時代への位置づけがスムーズであった。

庶民の服装というのは経済的な制約もあり限られたものとなりがちだが、庶民の服装という切り口はとても重要なものだ。「リフォーム」がキーワードになると思うが、資料が少ないだけに研究の困難さが想像できる。

M・Mさん:濱田 雅子博士より、アメリカの服飾史の発表がオンラインで開催された。資料として写真も提示された。この資料は一般人のものであり、当時のアメリカの文化の根源となすもので、たいへん貴重な資料であった。ポイントは当時写真は高価なもので、有名人や超富裕層ではなく、一般の人々であることである。
特に奴隷解放後のアフロアメリカンの資料も多数あり、社会学的にも貴重な資料であった。この研究が服飾というものを通じて、アメリカ史の発展に寄与するものであることを、改めて認識した、非常に貴重な視座にたってのものであった。

2022年1月23日(土)第348回グローバル・セッション・レポート

コンテント

2022年1月23日(日)第348回グローバル・セッション・レポート
開催日:2022年1月23日(土)10:30~12:00
場所:ガレリア3階研修室
ゲストスピーカー:品田井サフワン(サフィ)さん(シリア出身・亀岡市在住)
コーディネーター:四方美智子さん
参加者:14名

 今回のタイトル:「僕の言論の自由」

自己紹介

四方(C)さん:前回(2021年4月)にも参加しましたが、その時に立命館アジア・太平洋大学(APU)に留学したときには、日本語をほとんど話せなかったと言われたのを覚えています。

サフィさん:そうです。日本語を何も知らないので、バスの運転手さんに手で教えてもらってやっとAPUにたどり着いたことを覚えています。

四方(C)さん:シリアの母語はアラビア語ですね。英語は話していたのですか?

サフィ:はい。その後、スペイン語も、大分弁も話せるようになりました。M・Mさんも大分弁ができるでしょう?

四方(C)さん:その時にお聞きした「チャレンジすることが大切です。」と言われ、You can do it.とも言われたのをしっかり覚えています。(自己紹介が始まる)

M・Mさん:では、私から自己紹介をさせていただきます。サフィさんは、APUの私の先輩です。私も 立命館APUに行っていました。

児嶋:今回は1999年にGlobal Sessionを前の勤務先である亀岡交流活動センターで始めて348回目になります。大体月に1回ゲストをお呼びし、セッションをするという形で続けてきました。2011年に退職してからは、Office Com Juntoとして継続し、現在に至っています。

H・Kさん:私は、大津市から毎月1回は亀岡に来て、GSに参加しています。(大体最初からの参加者ですね。児嶋) 仕事はツアーガイドですが、ここ数年は、外国にツアーで行くこともなく、外国からも来ないので、自由時間があり、充電中とも言えます。

H・Tさん:ひまわり教室の中で、サフィさんにもインタビューをして絵本を作りました。(YouTube配信で見られます:「たげんごオリジナルえほん」と入れると音声付きで見られます。)

Y・Nさん:ひまわり教室の指導をしています。以前は小学校教員で、中矢田教室で、山田先生といっしょに読み聞かせをしています。最近はコロナ禍で回数が少なくなっていますが、外国につながる子どもさんといってもいろいろな家庭があり、これからも続けていきたいと思います。

K・Yさん:児嶋さんとは、20数年前からつながりがありましたが、ひまわり教室をされるようになってからまた、いっしょにやっています。(読み聞かせのプロですよ。Tさんの絵本の読み聞かせもされ  ています。児嶋)

ヌーラさん(サフィさんの奥さん):20才で結婚してシリアから日本に来ました。今は3人の子どもがいます。

四方(C)さん:ひまわり教室の指導者と亀岡のもうひとつの組織の多文化共生センターの相談員もしています。

Y・Yさん:ひまわり教室の指導者であり、現在千代川小学校でも指導をしています。この間の1月18日には、サフィさんに千代川小学校に来てもらって、シリアの話を子どもたちにしてもらいました。今日は、子どもたちからのメッセージを持ってきています。あとでお渡ししたいです。

K・Yさん:ひまわり教室の指導者です。前は二つに分かれていて、子どもが少なかったのですが、今は合同でやり、たくさんいるので楽しいです。70才以上の私もT君から元気をもらっています。元は中学校の教員で、小さい子どものことはわからなかったのですが、子どもたちの成長を見ると元気になることがわかってきました。

Y・Zさん:2021年9月1日から、千代川小学校で(外国につながる子どもの)児童教育支援をしています。ひまわり教室については、山根先生から紹介してもらいました。中国出身の子どもたちの日本語教育の力になれればと思います。(京都市内の日本語学校の教員です。児嶋)

T君(サフィさんの息子さん):パパのむすこのタイムです。安詳小学校3年生です。弟が生まれました。

グローバル・セッション開始

サフィさん:品田井サフワンといいますが、サフィと呼ばれています。シリアのアレッポの出身です。2011年と2012年には、内戦がありました。僕の名前はサフワンですと言っても、いつもサフランと呼ばれたので、やめて、「サフィ」と呼んでもらうことにしました。

M・Mさんもいらっしゃるので、APUの話ももっとしたいのですが、今日は別の話にします。2005年に卒業し、富士通に10年間勤めました。仕事はおもしろかったのですが、コンピューターからもう少し人間に近い仕事がしたいと思うようになり、亀岡の(株)ニッシンという会社に移り、営業職で仕事をしています。今は、海外へ行く機会もありませんが、英語、アラビア語、スペイン語と日本語を使う仕事をしています。

「僕の言論の自由」について」

自分の子ども時代から振り返ってみて考えていることを話してみます。「言論の自由」と「表現の自由」は、どうちがうのか。言論の自由とは、「Freedom of Speech」 であり、校閲を受けることなく表現する自由という意味です。

表現の自由は、「Freedom of Expression」で、表現する権利を含みます。そのため、表現の自由の中に、言論の自由は含まれると思います。「自由に人に意見を言う」という言葉がありますが、自由の種類にはどのようなものが有るでしょうか? 

「表現の自由:人からのプレッシャーも受けずに言う」

「報道の自由:ニュースなどが抑制されない」

「出版の自由:本を抑制を受けず出版できる」(シリアでは、どこかの機関を通らないと無理)

「集会の自由:シリアでは、グループで集まる場合は、許可が必要。内容の説明や資料の提出も必要である。

「結社の自由:誰でも団体を結成できるとする権利です。また、団体に加入や脱退する権利、団体を解散する権利も含まれます。シリアでは、政治的組織結社は無理」

「信教の自由:特定の宗教を信じる自由または一般に宗教を信じない自由をいう。

日本では保証されていますね。

このようなシリアでの自由のちがいはありますが、幼いころは、組織として洗脳されていたので、なんとも思わなかったです。シリアで生まれて、大学まで行っても、それがいけないと誰も思っていません。外へ出て見ると、今は不思議に思えますが。

シリアでは、小学校に入ると組織の一員になると見なされています。バース党という組織が支配しています。大統領の写真も学校に飾られ、小学生用の組織が作られます。例としてあげれば、5年生になるとキャンプに行きますが、朝の集会で大統領の表現をマネをして繰り返します。

Y・Zさん:中国でもよく似たことがあります。

H・Tさん:私の母が子どもの時は、日本も戦争中で、「天皇陛下、万歳」といつも学校で叫んでいたと聞いています。

サフィさん:子ども時代の考える力がないときに教え込まれるので。今もシリアにいて、「そんなことない」と思って居る人がいます。昔の日本でもそうは思わずにしてしまっているはずで、でも他の人の考え方が置き換わっているのでしょう。

子どもが小学校に入学します。「座りなさい。」と言われ、目を閉じて、「神様に欲しいものを願って  ください。」目を開けると、何もありません。もう一回目を閉じて、「この将軍様にお願いしてみなさ  い。」その間に、先生が机の上に並べます。「目を開けて」(うわー)欲しいものが全部そろってい  ます。神様よりすごいでしょう。

これは、ある国の話で、絵に描かれた物です。

シリアの話:中学校に入ります。小学校とは別の生徒の組織に入ります。毎日ラジオで大統領の話が流れます。高校に入ると、ちょっとした自由はあります。良い大学に入るのは高い点数を取る必要があります。あと2、3点あれば入れるという場合、組織の一員だったら、賄賂か何かを使ってでも入り、高い層に行きます。もし、組織に入っていなかったら、その流れには乗れず、低い層にしか行けません。組織の敵ともみなされたりします。大学に入り、そこを卒業して、公務員になる人もいます。(一党制なので、命令に従う必要がある)

ボランティアといっても、「みんな出なさい。ボランティアに。」と言われ、出かけるが、手をしばられている絵があります。(大統領のために何でもします)と言う意味。

私もシリアでの大学生時代は、デモもでないといけないので、出ましたが、「万歳」と言って帰り元の生活に戻ります。(好きでやっているわけではないが、洗脳されているので、不思議とは思わなかったです。

仕事に行く日に、「病気でデモには行かない」と言うと、「気をつけろよ。」とか、「見られている  よ。」とか、「壁に耳があるよ。」とか、「不都合があるよ。」とか言われました。普通の人が密告することもあるようです。

「何を見るか」「何を聞くか」ですが、1+1=2ですが、政治家が1+1=5というと、「そうです。正しいです。」と言わなければなりません。 

日本に来て会社に入った時も、同じようなことを感じたことがあります。

以前ですが。会社のトップが言うと、「その通り」と言わなければならないような雰囲気がありますね。

「ストックホルムシンドローム」というのを知っていますか?

ある銀行強盗が、中にいた人を人質にして籠もり、中の人質の分も含めさまざまな要求を出しました。食べ物や飲み物、ふとんなども。その人質にされた被害者は犯人に親しみを感じるようになり、犯人に過度の連帯感や好意的な感情を抱くようになる現象です。その中にいると、「安全」で、自分にしてくれる犯人に対して支援もするというような現象です。外の方が危険だと思うとか。うちの家の猫もそうかな?(1973年にストックホルムでおきた人質立てこもり事件で、人質が犯人に協力する行動を取ったことからついた名称)

四方(C)さん:日本の若者の中に、外国に行こうとしない人が多いようですが、それに似ていませんか?

サフィさん:日本の若者はチャレンジ精神がないだけで、恐怖感を持っているわけではないですね。ストックホルムシンドロームというのは、ハチミツの中に毒を入れてそれを気づかずに食べて悪い結果につながるという意味です。独裁政権の中にいると、居心地がいいと思う人もたくさんいます。

例えば、電機や石油が一日に4時間しか使えない状況でも、政府に文句は言わないのです。(サフィさんの説明)

The Monkeys and the bananas

Googleより:「5匹のサルの実験が行われたかどうかについては論争がありますが、ビジネスオーナーおよびCEOとして、たとえそれが類推としてのみ見られたとしても、これから学ぶことはたくさんあります。

5匹のサルの実験は、組織内の伝統の普及について多くを語っています。

伝統はすべての組織の一部であり、特に労働力の大部分がしばらくの間存在していた場合はそうです。しかし、これらの伝統は、特に新入社員が新しいアイデアを追求することを止められた場合、職場内での進歩に悪影響を与える可能性があります。いつものやり方で何かをすることに集中することで、組織は「バナナ」(彼らが求めている賞品)を手に入れることができる新しい方法を知らないことがよくあります。したがって、5匹のサルの実験では、新しい光から物事を見る、常に正しいとは限らない物事に疑問を投げかける、「私たちはいつもやってきた」という言い訳を使わないようにするために、常に挑戦する必要があることを教えてくれます。新しいことを試みたり、新しい方向に分岐したりすることを避けるために。言い換えれば、その「バナナ」が必要な場合は、創造性を発揮したり、新入社員に新しいことを試してもらう必要がある場合があります。」

サフィさん:今は世代間の紛争が起こっていると思います。親は、「こんなことをしたらあかん。何が起こるかわからないよ。」と言っても、若い世代には伝わっていません。また、私のように国の外にいても心配するとことがあります。外にいるから、言いたいことが言えると思うかもしれませんが、親や友人は国内にいます。

「こんなことを言ってはだめ」ということを言うと、「国内にいるぼくらは大丈夫ではない」のです。

有名な漫画家が政治的な要素のあることを書いて外国に逃げたのですが、その人の親が連れていかれてぼこぼこにされた事がありました。「自分さえ良ければいい」ではなく、やはりバランスを考えなくてはいけないと思います。自分はつかまえられたり、殺されたりはしないけれども、親や友人のことも考えなければならないと思います。

では、自分の中の自由とはどのようなものなのかと考えると、やはり限度があると思います。他の人に害を与えてはいけないからです。

日本もこれからは別の意味で監視社会になっていくかもしれません。

SNSでは、監視社会では、出したことは記録されるかもしれないという心配があります。SNSでの犯罪はケイタイやカメラからもおきます。

四方(C)さん:自分の身の回りには、「自由」はあるものだと思っていましたが、最近は、SNSなどを使って「無視される」など日本でも監視社会というものになって来ているのかと思うようになって来ました。

サフィさん:外国に送ろうとしてもインターネットがつながらない場合もあります。それと、ネットは見られてもいいけれども、過度に反応をしないことですね。

四方(C)さん:昨日のニュースに、アフガニスタンで、キリスト教徒が調査と言われ、連行されたと。信教 の他、女性の働く自由も、アートもない現状ですね。

サフィさん:自由の制限をする側は、その判断をするときに理由付けをします。例えば、「イスラム教でないと地獄へ落ちます。その事象からあなたを守るために、イスラム教徒になってください」とか。

また、日本でもシリアへの渡航は禁止されていて、2013年に日本人のフリーカメラマンが現地のISをテレビ取材したいとして言ったら、出発前にパスポートが没収されることがありました。その理由は、「あなたを政府が守るため」と言われたそうです。

民主主義と言っても、少数派の意見を聞かないのはおかしいと思います。私は、「日本に来てよかった」と思いますが、シリアにいたら、このような自由はないですから。

M・Mさん:サフィさんが、現在のような考え方になったのは、いつからですか?

サフィさん:2001年に立命館APUに来た時には、シリアの状況は、おかしいと思っていたけれども、政府のせいとは思っていませんでした。子ども時代から、政府主催のグループに入団していて、インターネットでも1980年代に起こったことは、話させなかったです。それは、中国で起こった天安門事件があり、政府に対して反対運動を起こし、制圧された事件ですが、ネットで調べると、シリアのハマという町が24時間以内に空爆された事件があったようですが、どこにも報道されていませんでした。このように、外国で見ていることと現実に見ていることは、全くちがっていました。

四方さん:日本に長く暮らしておられて、日本に対するご意見はありますか?

サフィさん:戦争に対する考え方ですが、第2次世界大戦で負けているからかもしれませんが、「戦争は繰り返したくない」という考え方を感じます。「みんなと友達になる」という日本の考え方はとてもいいと思います。それと、「人助け」という考え方は、昔はもっとあったはずで、となりの人を助け合うような方法を、昔に戻ってでもとる方がいいと思います。

M・Mさん:私は、フランスやアメリカのロサンジェルスなどいろいろ回って日本に帰国すると、日本の「あれっ?」と思う点がたくさん見えて来ました。権力のある人が、1+1=5というと、何も言えないような現状が日本でもそこらじゅうにあって、これからは、ちょっと変えていかなければならないというアングルがあると思います。若者も含めて、1歩、日本の外へ出れば、日本がかなり閉鎖的だと見えるのではないでしょうか?

サフィさん:「バランス」というキーワードが大切と思います。APUに居たとき、空手クラブに入っていて、アメリカ人の講師でした。その人から、「いろいろな事にバランスを考えないとくずれてしまいので、バランスが大切だよと教わりました。日本の社会では、「だれかに変な目で見られる」ことが大切なようですが、そうではなくて、自分で考える必要があると思います。家族でも、夫と妻が全く違った意見を持っていると、子育てでもバランスがくずれるはずで、少しずつでも、1歩ずつでも歩み寄らないと、と思います。

夢を持っていて失敗してもいいけれども、やらなかったら、後悔すると思いますので、これもバランスですね。

Y・Zさん:今は、中国の家族ともネットがうまくつながらない状況がありますね。

H・Kさん:2年前に上海にツアーで行った時に、中国に入ると、今までのネットはシャットアウトされました。日本のテレビも以前は映っていたのですが、今はだめなようです。オリンピックがあるので、例のテニス選手の話のころから、監視されていると思います。今は、日本と中国は、鎖国のような状態ですね。

M・Mさん:実際には、子どもなどには全く関係がないし、政治の話なのですが。政治抜きでディスカッションできないかと思います。

サフィさん:中国製のワクチンだけを中国で飲んでオリンピックをやろうとしているようですね。

H・Kさん:今中国は漢民族を増やしたいといろいろなことをやっているようですね。監視カメラを つけてチェックをしたり、異民族の住む地域で、その言葉を教えさせないなど。

四方さん:もう12:30を過ぎてしまいました。あとは、次回でお話ししていただくことにして、今日は、ここまでとしましょう。

Session後の感想集

(H・Tさん)

「現在の日本は「自由」が保証されているように見えます。でも、サフィさんのお話を聞いて、母から聞く戦争中の日本と変わらないと感じました。国が、個人の心や行動を管理できるということは、心得ておくべきだと思いました。自分の自由な発想が認められる、同時に他人の自由な発想を認める、そんな社会になればいいなと思います。子ども達に、いろんな国・いろんな社会・いろんな考え方があることを知ってもらいたいです。」

(Y・Nさん)

「1月グローバルセッション(22.01.23.)品田井サフワンさんに「僕の言論の自由」というタイトルでお話していただきました。『自由』の種類を提示されました。自分の成長期から組織化された社会に洗脳され、正しいことが言えなくて、表現・思想の自由はなかったということでした。自分にとっての『自由』は自分の中にあり、線を超えないでバランスよくほどほどに生きてきることが親から引き継いだことだったということでした。これからの心配は、言いたいことが言えない監視社会になっていく中で、【夢を持つ】生き方がしたい。ということでした。自分自身の考えを表現していく言論の自由を奪うことは、日本が歴史的に歩んできた暗い道であり、いま世界中で起こっている様々なことが戦争前夜であると思いました。言論の自由・表現の自由を守ることで「命を守ること」そして、それがみんなが夢を持って、よりよく生きようとする力のなることをお話を聞いて思いました。サフワンさん、ありがとうございました。」

(K・Yさん)

「お話を聞きとても感銘を受けました。サフィさんの経験からの言葉の重さと、飾らず真っ直ぐな人柄がストレートに心に響きました。サフィさんが好きな言葉だと言われた“Balance for my life“は、全ての事柄において、とても大切な事だと私も思います。縁あって日本に住み、縁あって亀岡に住んでおられる事を嬉しく思いました。そしてヌーラさんと赤ちゃんも参加してくださりサフィさんご一家の温かさを垣間見る事ができました。良いひと時を本当に有難うございました。」

2021年12月19日(日)第347回グローバル・セッション&クリスマス会レポート

コンテント

開催日:2021年12月19日(土)10:00~12:00
場所:ガレリア1階 工作室
ゲストスピーカー:タデウス・オジュグ・アダムさん(ポーランド出身・大学講師)
コーディネーター:亀田博さん(ツアーコンダクター)
参加者:子ども4名 おとな18名 合計22名
共催:亀岡国際交流協会

 今回のタイトル:「 ポーランドのクリスマスについて

今回は、ポーランド出身のオジュグさんをお招きしてポーランドのクリスマスのお話を伺いました。

ひまわり教室の子どもたちや保護者の方がたもたくさん参加していただきました。

ひまわり教室とは、外国につながる子どもさんや保護者の学習支援を主な目的にした学校外の教室です。亀岡で2014年から開講しています。現在は、10名くらいの指導者の方々と、月に2回開催しています。 

オジュグさんのお話

「ポーランドでは、クリスマスの伝統を大事にしていますので、たくさんの方に楽しんでいきたいです。クリスマスプレゼントもおとなになったら、減るかもしれませんが、子どもの時には、サンタさんがもっと持ってきてくれたら、楽しくなるのにと思っていました。クリスマスのこの時にしか食べられないごちそうがあり、1年中、この日の食べ物を食べたいと心待ちにしていました。

ピエルニキというクリスマスのお菓子を昨年みなさんと作りましたが、これは、ポーランドとドイツが発祥のようで、その後、イギリスやアメリカに伝わったようです。ジンジャープレートと思われているようですが、ポーランドでは、もともとジンジャーは入っていなくて、ライ麦とハチミツが主原料で、最初は胡椒だけが入っていて、後はクローブやナツメグやシナモンなども入れるようになりました。

最近はコロナでオンラインでの話が多いですが、クリスマスというお祝いの体験はやはり直接会い、情報だけではなく、五感と通して、クリスマスの音、味や香りも楽しむことが大切と思います。クリスマス前のピエルニキを焼く匂いが家中にこもり、もうすぐクリスマスと心待ちにしていました。もうひとつのクリスマスの匂いは樅の木の香りです。

今は、クリスマスツリーも買いますが、昔は24日の朝に樅の木を切ってきて部屋に立てていました。その樅の木の香りがクリスマスのもうひとつの大事な匂いなのです。ポーランドのクリスマスは24日に始まり、それから1ヶ月続くのです。

この日の前夜祭ディナーは普通は肉を食べないアドベント断食期間になります。酢キャベツをメインにしたビゴスという料理は少し肉が入りますのでクリスマスの2日目に食べる家が多いです。ビゴスに入れるザワークラフトは、今は缶詰もありますが、昔は冷蔵庫もなかったので、自分でキャベツを細かく切って塩に漬けました。酢は入っていなくて自然な味です。ビゴスはそれぞれの家庭の味があるのですが、トマトと肉とサワークラフトが材料で、それぞれの家で好きな味を楽しんでいます。

Bigosの作り方

材料:サワークラフト缶または瓶 500グラムくらい

   豚もも肉 60g・ウインナーソーセージ 8本・タマネギ 小1個

   干ししいたけ 4~5枚・赤ワイン 大さじ2杯(オプション)・

   トマトピューレ 50g・ケチャップ 少少・月桂樹の葉 3~^4枚

   コンソメ 3~4個・塩 こしょう 少少・水 400cc

1.サワークラフトを洗ってから鍋に移し、水とコンソメを加え、30分煮込む。

2.豚肉とソーセージを切ってフライパンで炒める。炒めた肉とソーセージを鍋に入れる。

3.タマネギを切って炒めて鍋に入れる。

4.もどしておいた干ししいたけは、1cmの幅に切って、鍋に入れる。

5.ピューレとケチャップを加え、サワークラフトが柔らかくなるまで煮込む。赤ワインと塩とこしょうで

味付けする。

クリスマスについて

ポーランド語では、クリスマスは、Boże Narodzenieといいます。Bożeのzの上には点がつきますが、これは、中国語のピンイン(発音記号)の「r」の音に似ているので中国語を話す方は正確に発音できます。他の言語にはあまりありません。

イブのディナーの品数は家庭や時代によって異なり、3品、7品、9品、15品などになりましたが、最近は12品(12ヶ月・12人のキリストの弟子)が一番多いです。ビゴスやピエルニキの他には甘いスイーツとしてけしの実のケーキがあります。薄力粉を使い、けしの実、はちみつ、アーモンド油などを使います。それ以外に麦、けしの実やはちみつを使ったクティアという一品がありますがこれは、リトアニアが発祥と言われています。じゃが芋をすりおろし、パンケーキのように油で焼くプラツキ・ジェムニャチャネという料理を食べる人もいます。

クラクフという町にはおもしろい習慣があります。イエスが生まれる時に人形をかざる習慣があります。お城のような建物を作り広場に飾るコンクールがあります。

また、クリスマス期間中にイエスが生まれる場面を形作り、保育園や幼稚園で親の前で演技するイベントがあります。「舞台に立ってみたい」という願望を表現することができます。

クリスマスイブには、「きよしこのよる」を歌い、ディナーを食べて教会の夜中のミサ(12:00)に行き、クリスマスのスタートです。

参考:ポーランドのクリスマス(wikipedia)

参加者のレポートです。

E・Nさん

「久しぶりに亀岡でみなさんに会えてうれしく思いました。特に中学3年生になったWくんがすっかりお兄さんというか、若者?に成長していて、驚きました。またひまわり教室に来るようになって、うれしいですね。みんなで声掛けすることが大切じゃないかと思います。

 夏休み明けに編入したCくんがまずまず日本語を伸ばしている(あるいは思い出している)という様子も伺いました。みなさんの努力の成果ですね。

 Tさんと私はHSさんと話したいと思っていました。サムくんの誕生をテーマに新作絵本を考えています。生後2か月で6キロ越えたそうですが、Tくんが生まれたときはもっと大きかったそうです。Tくんはお兄ちゃんになって、危なっかしいくらいサムくんのお世話(ちょっかい?)をしてくれるそうです。Lさん(姉:小5)は妹が欲しいと強く思っていただけに、相変わらずビミョーな(冷淡な?)反応をしているそうです。でも、サムくんが、Lちゃん以外の人があやしたり、何かの音にきゃっきゃっと笑って反応したりするのを見て、関心を示すなど、変化もあったそうです。Tくんが生まれたときLさんは2歳半くらいだったそうですが、盛んにお世話したそうです。でも今回は思春期に達していることもあって、かなり違う反応を示しているようです。これも成長でしょう。

 ポーランドのお話はとても楽しく拝聴しました。寒い地方のお料理は今の季節にぴったりですね。機会があったら訪ねてみたいと思いました。1時間半以上子どもたちはとても大人しく聴いていたと思います。子どもたちも楽しめるように、ちょっと子ども向けのクイズとかを、他の人も手伝って準備しておいたらよかったんじゃないかと思いました。」

H・Tさん

「久しぶりにひまわり教室の先生方や参加者の皆さんにお会いできて、嬉しい時間を過ごさせていただきました。ポーランド、こんな機会が無ければほとんど何も知らない国のままでした。

少し話を聞くと、急に身近に感じ、もっと知りたくなります。コロナ禍が終ったら、行きたい国がまた一つ増えました。ステキな時間をご準備いただいた皆様に感謝いたします。」

R・Sさん

「Global Session&ひまわり教室クリスマス会、ありがとうございました。

T君はお休みだったので、他の子たちの様子を見ながらゆっくりさせてもらいました。K・Yさんの用意されたカタカナや漢字学習の教材がよくできていて、感心しました。何度でも繰り返し使える優れモノで、子どもたちは遊びながら楽しく学んでいました。

W君はいい表情で参加していて、K・Iさんと楽しそうに勉強していました。

オジュグさんのお話は、とても興味深かったです。

その日だけでなく、その日までにするお料理や飾りつけなどを含めてのクリスマスなんですね。

日本のお正月もそういうところがありますが、それこそが文化だと思いました。いつかポーランドのクリスマスを見てみたいと思いました。(苦難の歴史を歩んでこられたことも胸に留めつつ。)

T・Yさんの用意して下さった子どもたちへのプレゼント(クリスマスのオーナメント?)がすてきでした。」

K・Yさん

「とても楽しい時間でした。オジュグさんのポーランド愛を強く感じました。‘’ピェルニキ‘’ ‘’ビゴス‘’の作り方を楽しそうに話され、作ってみたくなりましたが、材料の種類の多さにとまどってしまいました。 2015年の12月にポーランドを訪れました。でもツアーですので、ワルシャワで2泊した中の1日だけだったのが残念でしたが、オジュグさんのお話を聞きながら、ワルシャワの静かな街のクリスマスツリーを思い出していました。広場をカラフルな上着を着て並んで歩く幼い子供達!!   ショパン博物館でのワルシャワ大学の先生のピアノコンサート!!  が忘れられない素敵な思い出です。」

K・Iさん

「ひまわり教室は前半30分で、あと12時まではグローバルセッションでオジュクさんの「ポーランドのクリスマス」でした。W君は、席に着くや否や「先生これ教えて」。見ると京都の府立高校の入試過去問題集の数学2ページ八問!ワオー!早速取り掛かりますが本人は涼しい顔!(おーい 誰の勉強なんよー) けど「解からんかったから教えて?」そのとーり あんたは正しい。おかげで私は四苦八苦。そのうちにGSの自己紹介とクリスマスのお話が始まりました。こちらは入試問題と格闘中なのに「今年も僕、サンタの服着るの?」「知るかーい 今年は勉強だ」 けれど彼はさっさと一番前の席で小学生の生徒とポーランドのクリスマスやごちそうの話を楽しそうに聞いてます。まあいいか!

けれど そろそろ 集中して勉強しろよ 家で 。今でしょ ラストコーナーもう回って直線ですよ!!」 

T・Yさん

「ポーランドのクリスマスについての楽しいおはなしでした。24日のイヴのディナーなどの過ごし方がよくわかりました。肉無しの料理でキャベツをいろいろに使うとか。料理の数は12種類と決まっていて、家族で過ごす大きな行事であるが、だれが来てもいいように、皿の数を一皿ふやしておくとか。ケーキにはくるみやハチミツ、けしの実のクリームを入れるとか。

ポーランドの町並みの風景がとてもきれいでしたね。子ども達も白い衣裳を着てかわいかったですね。

 こちらでも「きよしこのよる」を歌い、亀田さんからのポーランドのチョコレートのプレゼントもいただきました。ポーランドのことばでの歌は、むずかしかったですが、ゆっくり練習しました。このような機会を持って、自分たちの五感を通して、いつかは形に残していきたいですね。」

O・Rさん

「クリスマスのお話しを聞くのは大学以来です。オジュグさんは、ポーランドのクリスマスの過ごし方について紹介していただきました。一番印象に残ったのは、クリスマスイブに家族でお食事する際に、人数分より1セット多く食器を用意するということです。お話しを聞くだけで、温かさを感じました。子どもたちにとっては。ちょっとお話しが長かったかと思います。ピエルニキ作り体験を楽しみにしています。」

K・Yさん

「『サンタさんからクリスマスプレゼント(ほしいもの)がもらえる日』となってしまっている日本の商業クリスマス。オジュグさんのお話を聞いて、クリスマスの宗教的な意味を知ることができました。ピェルニキの香、もみの木の香がするポーランドに行って、キリストが生まれたところを再現したクリスマスの飾りを見てみたいです。日本では、もうすぐお正月です。お正月は本来、家を綺麗にして、ご馳走を作って年神さんを迎える宗教的な行事ですね。文化、伝統を大切にするためにも、お節料理をがんばって作ります!ピェルニキも作ってみたいです。オジュグさんの次回のglobal sessionを楽しみにしています。」

M・Sさん

「オジュグさんにお会いできて嬉しかったです。ポーランドの落ち着いたクリスマス飾り、家庭の味のクリスマスのお菓子や料理。国によっての違いを感じることができました。食卓に誰が来てもいいように常に1人分は余分に準備している、って素敵ですね。その席が埋まったら、また次に一人分の席を用意する。迎える人々の暖かさを感じます。クリスマスはみんながhappyで過ごせるように、というポーランドの人達のおもてなしなんでしょうね。

こういうポーランドのクリスマスは大切に受け継がれてきて、伝統となっているけど、伝統だから守っていかなくてはいけない、と考える必要はない。というオジュグさんの言葉が印象的でした。楽しいから楽しむ、国や家族の伝統のよさを大切にしたいから守る、そういう考え方なんですね。伝統は守り継いでいかなければならない、廃れさせてはいけない、と思うと義務や責任にとらわれてしまう。そうなると楽しくないし、しんどくなる。確かに、その通りだと思いました。私の身の回りにある日常的な伝統や文化に、この考え方で接してみようかな、と思いました。」

Y・Cさん

「2021年12月17日、グローバルセッションに参加させて、ポーランドのクリスマスについてのお話を聞かせて頂き、ポーランド文化に触れることができました。

料理が大好きな私は、材料を用意して、作って、写真も載せようと思っていましたが、残念ながら、仕事でバタバタして、できませんでした。お正月休みに作る予定です。楽しみにしています。

本当に素敵な時間を過ごさせて頂きました。感謝しております。また、参加できることを楽しみにしています。」

2021年11月28日(日)第346回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2021年11月28日(土)10:30~13:20
場所:ガレリア3階 会議室&オンライン
ゲストスピーカー:濱田雅子さん(元武庫川女子大学教授、アメリカ服飾社会史研究会 会長)
コーディネーター:児嶋きよみ
参加者:13名(うちオンラインでの参加7名)
共催:亀岡国際交流協会

 今回のタイトル:「写真に見るアメリカの民衆の装い(その1)-1840年代の生活文化を階間見る」

自己紹介

濱田さん:今日は、学生さんでホームページを見て参加した方もいらっしゃいます。Joan Severaさんという方の紹介と分析を通じて近代アメリカにおける写真に見る風俗研究を論じていきたいと思います。率直なご意見をいただき、自分の再出発の機会にしたいと思います。

R.Y.さん:せせらぎ出版から濱田さんのご本を2冊出版しています。

M.M.さん:鹿児島の大学で指導していますが、大阪に住んでいます。飛行機で通っています。

A.N.さん:武庫川女子大で教育社会学が専門です。ジェンダーの研究をしていて、今も濱田先生にお世話になっています。

R.O.さん:神戸大の1年生です。ホームページから興味があり、応募して入っています。

S.H.さん:法政大の通信教育で史学科に属しています。服飾史に興味があります。

H.K.さん:大津市から来ていて、琵琶湖の近くに住んでいます。コロナ禍では、休みが多いですが、ツアーガイドをしています。Global Sessionははじめのころから参加しています。

K.O.さん:宇治市で小学校の非常勤講師をして7年目です。それ以前は、正規の教員をしていました。

S.T.(S.K.)さん:立命館守山高校の教員です。国際理解教育の分野でブラジル人学校なども訪問し、先日は漢字の勉強をしました。

R.S.さん:濱田さんのGlobal Sessionも何度目かです。ファッションの歴史ですが、いろいろな要素を含んでいて楽しみです。ひまわり教室(外国につながる子どもや保護者の学習支援教室)で指導をしています。

E.T.さん:以前、濱田さんの講座の時にはちょうど、仕事を代わったころでしたが、8月からは島津製作所で仕事をしています。

鶴山さんには、亀岡国際交流協会との共催で、オンライン講座も含む準備をしていただいています。

講座開始

濱田雅子の服飾講座「服飾からみた生活文化」シリーズ21

「アメリカの写真が語る民衆の装い(その1)ー1840年代の民衆の生活文化を垣間見るー」

概要 Joan Severa, Dressed for the Photographer, Ordinary Americans and Fashion (1840-1900), Kent State University, Ohio, Kent, 1995. p.592. 本書はJ・セヴラ女史(Joan Severa,1925-2014)が30年と言う歳月をかけて取り組まれた 大作で、アメリカの服飾研究者から高く評価されています。彼女はウィスコンシン・ミュ ージアム歴史協会の学芸員を30年にわたって歴任する傍ら、アメリカ服飾学会の理事や多 くの博物館のコンサルタントとして活躍してこられました。 本書は、ミドルクラスや下層階級のアメリカ人たちが、ダゲレオタイプの銀板写真技術 が導入された1840年から1900年の60年間に、記念写真や日常生活の写真に、どのような装いでおさめられたのか、かれらのバックグランドや服装のディテールの分析も含めて、マテリアル・カルチャー(物質文化)の視点から書かれた大作です。掲載された写真は何と 277枚。服飾の専門家の視点で写真のなかの服装が的確に分析されています。ヨーロッパや アメリカの上流階級の装いを扱った書物は、沢山、ありますが、アメリカの庶民、すなわ ち、アメリカの民衆の装いを扱った書物は、J・セヴラ女史の上記の著作以外には、一冊も ありません。 ダゲレオタイプ(Daguerreotype)とは、ルイ・ダゲール(Louis Jacque Mande Daguerre,1787-1851)により発明され、1839年8月19日にフランス学士院で発表された世界最初の実用的写真技法であり、湿板写真が確立するまでの間、最も普及した写真技法です。 銀メッキをした銅板などを感光材料として使うため、日本語では銀板写真と呼ばれていま す。銀板上に直接左右反転した白黒画像を得るダイレクトプロセスです。 この技術のアメリカへの導入と普及について、セヴラ女史はこう述べています。「1839 年の晩秋、ルイ・ダゲール(Louis Jacque Mande Daguerre, 1787-1851)が開発した独自の手法による写真撮影[ダゲレオタイプ]の権利と装置を販売する公認代理人が、ブリティッ シュ・クイーン号でニューヨークに到着した。ダゲールの業績はすでにアメリカでとても よく知られており、多くの者がその権利の購入を申し込んだ。文字通り数週間のうちに、 あらゆる都市や町で何百人もの駆け出し写真屋が店開きした。それは絶対確実な成功への 道であった(1)」ということです。 また、銀板写真の普及は、西漸運動に伴い、急速に進みました。 「実際、西漸運動によって肖像写真を撮ってもらう人は何千人も増えた。というのも、 西へ向かう人びとは自分の写真を後に残し、家族や友人が写った貴重な写真をたずさえて 行ったからである。アメリカでは1850年代までに、毎年およそ300万枚のダゲレオタイプが 作られ(Taft 76)、それとともに価格は下がっていった(2)」ということです。セヴラ女史は、現存する銀板写真を全米から収集し、こう述べています。「これらの古くなった写真はほんのわずかしか残っていない。とはいえ、これらの残存している映像は広範な社会 的な基礎を包括しており、当時のマテリアルカルチャーの写真が非常に確かなまとまった 情報を残してくれている(3)」 本講演では本書において、10年単位で扱われている60年間(1840年~1900年)のうち、 1840年代の10年間にわたる写真に見るミドルクラスや下層階級のアメリカ人、すなわち、 アメリカの民衆の装いの紹介・分析を試みたいと思います。分析の視点は、アメリカ人がいかにヨーロッピアン・フレンチ・ファッションに憧れていたか、ヨーロッピアン・フレ ンチ・ファッションとアメリカンファッションの類似点と違いは何であるか、という点に 据えられます。1850年代から1900年についても本講演と同じ手法で5回に分けて、講演させていただく予定です。19世紀アメリカの民衆の生活文化を、装いを通して、ビジュアルに 学ぶ、またとない機会です。知らないことを知る「知の楽しみを」エンジョイなさって下 さい。

 全体構成

  1. ジョーン・セヴラ女史の写真資料を用いた研究方法
  2. 写真技術史の概要
  3. 19世紀ヨーロッパの服飾
  4. 1840年代アメリカの歴史的背景
  5. 1840年年代アメリカの写真が語る民衆の装い
  6. 19世紀アメリカの庶民服の実物調査からの報告―ミネソタ大学Goldstein Museum of Designのコレクションから―
  7. まとめ

【注】
(1) Joan Severa, Dressed for the Photographer, Ordinary Americans and Fashion (1840-1900), Kent State University, Ohio, Kent, 1995, p.1.

(2)  Ibid., p.1, cited from Robert Taft, Photography and the American Scene,  New York: McMillan Co., 1938, p.76.

(3)  Ibid., p.1.

Joan Severaさんの著作に掲載された写真解説は下記からアクセスしてください。

A Look at Old Photoraph by Joan Severa  https://www.american-mode.com

代表のプロフィールの動画ギヤラリーから見て下さい。

または、下記から直接、Youtubeへ “A Look at Old Photographs” by Joan Severa – YouTube

当日の感想発表から

(S.Tさん)

「すごく興味深く見せていただきました。『風と共に去りぬ』や『大草原の小さな家』などを思い出しました。服装の自由は、人が初めて出会う「自由」というものかとも思いました。もっと知りたいなと思います。」

(M.M.さん)

「アメリカは、東から西のカリフォルニアを目指していた時代で、アメリカの激動の時代とも言えますね。1840年代というのは、南北戦争の前で、落ち着いた時代ではないです。」

(濱田さん)

「アメリカ特有の人種構造の時代であり、次回は1850年から60年代の写真が語るアメリカ民衆の衣生活を階級・ジェンダー・人種・民族の視点から見ていきます。丸山先生は世界を股にかけて来られたお立場から、グローバルな視点で、いつもおっしゃられているように、日本語の文献だけでは狭い範囲にしか情報が届きません。そこで、濱田は、グローバルな普及を目指して、『19世紀アメリカの庶民服』に関する本の日本語版だけではなく、英語版も出版する予定です。」

(A.N.さん)

「興味深い内容でした。1点質問があるのですが、ジェンダー研究をしていますが、フランスのレヴィストロースは、18世紀のヨーロッパの服装に触れ、女性の服装で細いウエストをコルセットで締め上げてもっと細くしたいとやっていたら、肋骨が折れて死亡したという記述がありますが、アメリカではどうですか?」

(濱田さん)

「以前に書いた私の著書『パリ・モードからアメリカン・ルックへーアメリカ服飾社会史 近現代編―』に詳しく書いてありますので、ご一読いただければ幸いです。」

(A.N.さん)

「ウエストが細いのが魅力だったのでしょうか?」

(濱田さん)

「誰が言ったかはわからなくて謎です。鋼鉄製のコルセットもあり、最初は浮気ができないようにするためにとか言われていたようですが、なぜ、細胴・太腰が美しいとされたのかについては、根拠は、いまのところ、服飾史上には見当たりません。」

(R.O.さん)

「西洋のファッションに目を向けていましたが、アメリカの服飾史もおもしろいですね。最初は、フランスや、イギリスの影響を受けていたはずですが、アメリカらしいファッションを生み出す拠点となる時代だったのでしょうか?

(濱田さん)

「19世紀アメリカの服飾にその萌芽がありますね。『西洋服飾史』という上流階級の服飾を中心とした大学の授業は沢山あります。18世紀のヨーロッパのロココ調のファッションは、上流階級が中心で、衣裳の遺品が博物館などにもあります。でも、中産・下層階級の衣服については、全く実物がないのです。私はJohn D. Rockefeller Jr. Library(https://research.colonialwilliamsburg.org/library
)に招聘されて、在外研修員として、下層階級の衣服の遺品調査に携わった経験があります。18世紀のプランテーションで発掘されて、奴隷が使っていた針や鋏などが出てきていますが、テキスタイルは一枚も残っていないので、困難な分野ですが、敢えて踏み込んでいる状態です。

 19世紀は、ゼヴラさんの本があり、埋めていくことができる穴場とも言えます。歴史学と服飾史をドッキングさせてみてください。美術から服飾研究に入るとか、若いみなさんも継承してください。

それと、濱田は、実際に服を作る人が研究することも薦めたいと思います。絵やイラストだけでなく、実際に縫っている人が研究すると、また、ちがうと思います。服作りという実学を軽視し、ファッション文化・表象文化を言説研究の方法で研究・教育されている大学の先生もおられますが、私は理論と実践は、車の両輪であると確信しています。両者の分離は、日本における学問研究のあり方の弱点であると確信しています。また、私が長年、師事させていただいてきた丹野郁先生から、海外に行って、三脚を立てて、写真を撮っていると人が集まってきたというお話を伺ったことがあります。衣服の実物はさることがら、写真は実証資料として、とても大切ですね。」

(K.O.さん)

「アメリカのファッションは元はヨーロッパであったと思いますが、変わるのですね。アメリカの生活、風土、自然に寄り添いながらアメリカ風になっていくのがおもしろいですね。

「キャラコ」という言葉を久しぶりに聞きました。どのように残しながら、自分たち用に変えて行ったのかを知るのもおもしろいですね。ネイティブアメリカンの方の写真もあり、シルクを着ていましたね。

(濱田さん)

「今日お見せした写真は、どれも似てはいるけれどヨーロッパとはちがいます。よく見ると美しいのですが、レースも高価なので、リネンの襟もあります。手に入る物でそれなりにおしゃれをしているのですね。Native Americanの方がシルクのドレスを着ていますが、写真家がそれらしく見せるために装飾品を付けさせたようです。事実関係をよく調べてみます。」

(S.H.さん)

「初めてジョン・セヴラさんを知って、また本を読んでみたくなりました。1840年代に服飾の雑誌が出ていることも知りました。上流階級と民衆の服装のちがいなど服飾史を学んでいきたいと思います。」

(濱田さん)

「 Godey’s Lady’s Book。この雑誌を大学でもっているところがありますが、あまり厚くて、写真を綺麗にとれません。海外から雑誌を購読して、お金を払ってファッションプレートのデータをダウンロードできます。」

(H.K.さん)

「ありがとうございました。ヨーロッパの服飾は以前から興味がありました。晴れやかだったのが、カジュアルに変わってきましたが。

先ほど西尾さんから質問がありましたが、ウエストをしぼり、コルセットを着けるのは、究極の美と言われていましたね。オーストリアのハプスブルグ家のエリザベートは、腰の周りが50cmなかったと言われています。ダイエット器具を使い、かくれた努力もしていたようです。そして、何よりもウエストが細いというプライドを持っていたようです。

食事を何回かに分けて食べたりして。アメリカでは、コルセットは質素で鯨の骨とかだんだんカジュアルになっていったのでしょうね。階級のちがいもありでしょうが。」

(濱田さん)

「エリザベートは究極の食事制限をしていたようですね。武庫川女子大の卒業生で宝塚に入り、演劇のエリザベートの服を作ったひともいます。」

(H.K.さん)

「今もダイエットをするための木の機械が保存されていると聞いています。」

(濱田さん)

「その情報をお聞かせ下さい。1850年代になるとアメリカでは身体にやさしいコルセットに変わっていきます。隠れてコルセットをしない女性も出て来たし、授乳中の女性は締め付けられないですね。このようにコルセットから女性が解放されて行くようです。」

(H.K.さん)

「日本の明治維新後の鹿鳴館の絵がありますね。コルセットを着けて。」

(E.T.さん)

「写真を見るだけでも楽しかったです。いろいろ知ることができてよかったです。一見華やかな服装に見えていても身体を締め付けて痛めていたというのを知り、衝撃でした。これからも服装について見ていきたいと思います。男性のファッションの歴史も見てみたいですね。」

(濱田さん)

「今回は、時間の関係で男性の服装は扱いませんでしたが、次回、ご紹介しましょう。一見、きれいだけれど拷問であった女性の服は、今後も服飾が女性に及ぼす影響という点で、目が離せないと思います。」

後日に送られてきた感想集

(R.O.さん)

「今日は研究会を開いていただきありがとうございました。今まで私の中で服飾と言えば日本や西洋の王族・貴族、上流階級の人々が着る服を思い浮かべておりましたので、とても新鮮でした。

 今、アメリカはNYファッションウィークが開かれるなど、ファッションの中心地のひとつでもありますが、最初の方は(というと言い過ぎかもしれませんが)フランスの影響を強く受けていたことが、中国の影響を強く受けていた日本と少し重なる部分があったように感じ、興味深かったです。

 また、たくさんの写真を使いまさに美術史的・様式論的な方法で服飾の変遷を分析していくのも、勉強になりました。本日は本当にありがとうございました。

(M.M.さん)

先日は誠にありがとうございました。
私はアメリカにおける写真資料という観点からKodakの栄枯衰退も大きな影響があったと思います。
大きな乾式写真というイノベーションを起こし、デジタルカメラの発明をしたのに倒産した、まれにみる社史です。クリステンセンのまさにイノベーションジレンマです。
世界ではAgfa、フジフィルム、コニカミノルタでしたがフジフィルムは医療分野で大きく羽ばたいています。コニカミノルタは写真分野は撤退するものの規模は保っています。
https://www.youtube.com/watch?v=ZUQXLPNV-kU
https://www.youtube.com/watch?v=6uPY-EiFYgE
Youtubeでは研究者用ではありませんが、ご紹介させていただきます。

(S.H.さん) 
大学では服飾史を学ぶ機会がなく、この度はアメリカの服飾史について学ぶことができ、貴重な時間となりました。ありがとうございました。今回の講演によって、Joan Severaさんという方を初めて知り、今回紹介されていたYoutubeをもう一度拝見しようと思います。

20世紀のアメリカの服装に比べて、19世紀のアメリカの服装についてはあまり知識やイメージがなく、今回1840年代のダゲレオタイプの写真を見ながら、当時の服装を知ることはとても印象的でした。また、1840年代にすでに雑誌が発行されていることも印象に残りました。今回のテーマであった写真が語る19世紀のアメリカの生活文化を、雑誌のファッションプレートと実際のダゲレオタイプの写真を比較して、当時の上流階級と民衆の服装の差や実態を考察することも、当時の生活文化、服装を理解するために重要だと分かりました。そして、階級別に焦点を当てることの重要性も知ることができました。

(R.Y.さん)

○濱田先生が、たくさんの写真を使って説明していただいたので、とてもわかりやすく、興味深かったです。

○濱田先生の立ち位置が、上流階級・特権階級ではなく、働く人々、庶民にしっかり目を向けられていることに、いつも共感し、他の研究者には例をみないと感心しています。

○写真技術の発展史にも触れられていて、個人的には興味深かったし、とても勉強になりました

(A.N.さん)

本報告では、まずアメリカ人の衣生活について西洋近代服から初期近代服へのシルエッ トの変遷について概略が示され、次いで、アメリカ服飾史研究において大きな功績を残したJ.セヴラ女史によるアメリカのミドルクラスおよび下層階級の女性服(ドレス)について、袖、胴部など部位別の特徴が考察された。

個人的に大変興味深かったのは、シュミーズ・ローブといわれる非常にシンプルで、スカートの広がりも少なく、動きやすかったと思われる女性服が主流であった 1790 年代~1810 年代から、ロマンティック・スタイルといわれる、シュミーズ・ローブとはまるで対照的な袖もふんわりと幅広く、スカートもクリノリンを着用することによって膨らませた、どう見ても動きづらそうな女性服に一気に変わったことである。「王政復古調」ともいわれるこのロマンティック・スタイルには、優雅な女性とそれをまとう女性への回帰が感じられる。

同時に、クリノリンの他、細い腰を作るためのコルセット、ハイヒールなど、ミドルクラスの女性が自らを美しく見せるための工夫を惜しまなかった精神的、時間的余裕をうらや ましく思う反面、それらをまとうことによって自らを「正統な女性」として見せることが当たり前とされていたその時代に生きづらさを感じる。おそらくその時代の多くの女性はそ のように装うことが当たり前すぎて、他の選択肢があることをほとんど想像しなかっただ ろうが。そして、その感覚は、中国で纏足をしていた女性に通じるものがある。さらに、今日の日本でいえば、ハイヒールとパンティストッキングを履いて働く、今では数少ない(?) 女性にも共通する。

以上は、本報告の内容をジェンダーの観点から考察した典型的な意見であり、そう捉える自分もいる。うそではない。一方で、正直なところ、「人生で一度くらい、あんなに優雅な女性服をまとってみたい」というアンビバレントな感覚もある。その場合、その衣装をまとった自分を見てみたいという気持ちもなくはない。しかし、それよりはむしろ装うことに時間をかけるその贅沢さを楽しみたい、装ってみることで気分をアップさせたいという気持ちの方が強い。時間的にも精神的にも余裕がなく、日々の仕事に追われているだけの私だからこそ、本報告で扱われた時代とその時代を生きた女性に憧れを抱くのだろう。

【写真解説】

写真15 この美しいポートレートは、ノーサンプトンで婦人帽製造業を営んでいたR・B・ディッキンソン夫人(Mrs. R. B. Dickinson)のものである。

『ノーサンプトン・クーリエ』紙(Northampton Courier)に載せた1858年の広告の中で、ディッキンソン夫人は『ボンネットが欲しいすべての女性は、ぜひ私のボンネットルームにいらっしゃい』と述べている。ボンネットルームは、ノーサンプトンのメイン通りとキング通りの交差点の角にある建物の2階にあった。……ボンネットは、1840年代初めには鍔が顔の横に接近した形だった。1846年頃になると鍔の開きがいくぶん広がってこの写真のような形になり、鍔の内側に左右非対称の飾りを付けられる空間が生まれた。真のボンネットはかなり顔から離れており、シルクの花や草の繊細な装飾を付けるだけのゆとりがある。(Joan Severa p.49から引用)

写真24 セヴラ女史に拠ると、この写真の時代考証はアフリカン・アメリカンの歴史上、非常に貴重である。少々、長くなるが、他の服飾史の文献には、決して見られない解説であるので、全文紹介させていただく。

「この珍しい写真は、貴重な1840 年代のダゲレオタイプを1870年代に撮ったもので、ジョージア州サバンナのふたりの奴隷女性が写っている。年長の女性はジュディ・テルフェア・ジャクソン(Judy Telfair Jackson)で、テルフェア家で料理をしていた。若い女性はジュディの孫娘のラビニア(Lavinia)で、南北戦争後、テルフェア家に住み込んでメアリー・テルフェア(Mary Telfair)のメイドをしていた。ふたりの女性は、服こそシンプルだが、とてもきちんと身だしなみを整えている(当時の家内奴隷や使用人は一般的にそうであった)。」右側の年配奴隷の女性は、ターバンによって頭をくるんでいる。左側の若い女性の髪は下に引かれ、顔にぴったりとつけ、後ろで冠のように上げ、ファッショナブルなパフを耳の上につけている。当時流行のヘアースタイルに近い。」(Joan Severa p.60から引用)

写真22 この写真に写った身なりのよいノーサンプトンの3人の紳士(氏名は不詳)は、みな同じように、1840年代の窮屈なフィットのコートを着用している。彼らの服で最も目立つ特徴は、高いアームホールと細い筒状の袖によるぴったりしたフィットで、それが細身の黒っぽいシルエトを生み出している。(Joan Severa p.57から引用)