2024年6月23日(日)第376回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2024年6月23日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:サム・ジードさん(亀岡市国際交流員)
コーディネーター:亀田博さん(ツアーガイド)
参加者:11名

 今回のタイトル:「歩んで来た亀岡市国際交流員の5年間」

参加者自己紹介

亀田さん(コーディネーター):では、自己紹介をお願いします。

E・Tさん:京北町から来ています。島津製作所で仕事をしています。

Z・Yさん:外国につながる子どもの教育信支援の仕事をしています。亀岡市内の小学校と中学校に行っています。

R・Sさん:外国につながる子どもや保護者の学習支援をしているひまわり教室で指導をしています。

M・Sさん:私もひまわり教室で指導をしています。サムさんとはいろいろな所でいろいろな事をして来ましたが、もう5年も過ぎたのかとびっくりしています。月日の流れが速いですね。今日も楽しみです。

M・Fさん:このGlobal Sessionとの付き合いは長いです。今日は、サムさんのトークが楽しみです。

H・Mさんさん:日本語教師です。

Y・Hさん:退職後も脳に刺激と栄養をもらおうとGSに参加しています。

児嶋: 今日は、1999年に亀岡市交流活動センターで、Global Sessionを始めて、376回目になります。M・Fさんや亀田さん、M・Sさんとは長く、もう20年を過ぎましたね。E・Tさんでも、「ぼくも、もう少しで10年目にあります」と言っておられます。

 私は、最初のJETプログラムを亀岡で始める時の説明会に東京の文部省に行ってほしいと言われ、行った覚えがあります。その次の年からALT(英語指導助手)が亀岡で採用され、CIR(国際交流員)は、その2年後くらいからだったと思います。

 サムさんは、その中でも、大変よくやられた方と思っています。

亀田さん:コーディネートをやっています。最初にサムさんに会った時には、ことばの壁があると言われていたような。京都弁など。それと、日本語は、本音と建て前がわかりにくいとか、言われていたと思います。今は、我々以上に、よく知っておられますよ。交流員としては、ラスト1ヶ月ですが、これからも、別の仕事で、亀岡に住まわれるらしいので、いいですね。

サムさん:あまりまだわかりませんが。

亀田さん:給料は円だし、今は生活も大変だと思いますが、サムさんのラストに期待しています。

サムさん:コロナ禍で、いろいろな事が制約されて大変でした。それで、料理教室ではなく、体育館でクッキーを焼いたり、ワールドフェスタでも、話し合いだけを、それもマスクをしてやったりとかありました。

 私は、ジード サミュエル マークと申します。カナダのトロント市の出身で、23才の時に、この国際交流員の仕事を始め、今は28才で、12代目の亀岡市のCIRです。あと1ヶ月でこの仕事は終わります。

 私は、大学4年の時に、ボストンキャリアフォーラムに参加しましたが、当時は日本語は全くだめでした。英語Nativeは有利かと思っていましたが、そうではないことがわかり、帰り道で、CIRの仕事があることを発見しました。それで、あとの2年間をがんばって日本語を学習しました。日本語能力試験は上から2番目くらいの内容でしたが、それは、実は最低限必要な力で、その後もずっと学習し、2年前にようやく日本語能力試験N1を取得しました。国際交流員の仕事は当時から憧れで、日本語の勉強は8年間ほどしてきましたが、最初は、1年目に関西学院大へ留学し、帰国後、独習し、日本に来てからも日本語教室に通い、次のステップに行けるよう続けていました。最近は就活が忙しかったですが。

グローバル・セッション開始

亀田さん:では、みなさんから質問などはありますか?

S・Oくん:僕は今、大学3年ですが、サムさんとのGlobal Sessionは3回目になります。

Z・Yさん:「まかせます」とか言われたようですが、仕事の内容はわかりましたか?はじめから。

サムさん:細かい内容は緊張もしていてわかりませんでした。

M・Sさん:CIRに合格してもどこに行くかはわからないですね。いつごろ、どんな気持ちで亀岡に決めたのですか?

サムさん:2月に面接があって、3月ころに行き先が決まると言われていたのですが、まだ決まらずに、6月ころに、「京都の亀岡に仕事があるけれど行く?」と聞かれ、「行きます」と5分以内に返事しました。留学したのが関学で、亀岡も関西だから、大丈夫だろうと思いました。ここに決まって今は良かったと思っています。

Z・Yさん:面接の時の言語は?

サムさん:7割が英語でしたが、最後に「小学生向けの英語レッスンをやってください」と言われ、日本人の面接官が子どものふりをして「わかりません」などと言っていました。それで、かなりこわくなって、日本に行っていろいろ聞かれたらどうしようなどとも思いました。

Y・Hさん:他の国にJETプログラムのようなのはありますか?

サムさん:韓国にはあるようですが、日本が一番進んでいると思います。

 仕事の内容としては、英語から日本語への翻訳の仕事が多いです。これには、日本語能力が必要で、最初のころは、ひとつの資料を一日かけてやっていたこともあります。その時に聞いても、誰も答えてくれないし、大変でした。亀岡市の資料の翻訳も多かったです。(日本語から英語に)

 コロナで、通訳の仕事は少なかったです。市役所の窓口やBcomeなどで。

 仕事で学校訪問もあり、日本語から英語ですが、中身が違うことを言ってしかられたこともあります。それからは、楽しんでもらえる内容として、クイズや、ゲーム、工作なども入れました。亀岡国際タイムズも編集してきました。だいたい一人で作っています。コロナ禍で、日本にいる外国人が国に帰れないとか、ワクチン接種の仕方などもありました。

 3番目の仕事としては、多文化共生センターへ行ったり、市役所やガレリアで仕事をしたりといろいろでした。出入国管理センターの方とも毎月、ミーティングをしました。また、イベントの企画もいろいろし、グローバルカフェなども年に5、6回やり、海外の文化の体験もできました。最初は企画が大変で、年に3回でも大変でしたが、今は、もっとやりたいなどと思っています。

M・Fさん:こちらに来て初めて日本人に会った時と、最近とはちがいはありますか?

サムさん:そんなに変わってはいないと思います。ただ、相手の日本人が、外国人と接する機会が少なかったのか、自分が日本人より下に見られていると思って仕舞うことがありました。やさしい英語を話す人もいました。

M・Fさん:接する日本人が変化してきたとしたら、CIRの努力の結果ではないでしょうか?

サムさん:日本語で普通に話してもらえるのが理想でしたが、最近はそうなっています。日本にいるうまく話せない外国人は、いっぱいいますので、気持ちをわかってもらえるとうれしいと思います。

M・Fさん:京都駅の外などに「大きなスーツケースを持って乗らないでください」と書いてあるのですが、そんなの、日本語だけではわからないと思います。大きな荷物をあずける場所の案内なども必要と思います。

 カナダ人が見たらどう思いますか?

サムさん:京都は、ほとんどの外国人が来たくなる町だと思います。「~してください」というのは、義務なのか、しなくてもいいのかがわかりにくいと思います。願うだけでなくてもいいのかとも思ってしまうと思います。

M・Fさん:嵯峨嵐山駅からたくさん乗ってきますが、自分は太秦駅で下りる時、体をのけてくれるのは、外国人で、日本人はしらんふりする人が多いです。

サムさん:多分、個人によってちがうと思いますが、その人は性格のいい人だったのでしょう。

M・Fさん:私は、「Excuse me」と言ってコミュニケーションをとりながら動くのですが。自治体の、やり方も問題があると思います。

サムさん:最近は観光客の多さが違いますね。

M・Sさん:国柄もあると思います。ヨーロッパの中でもフランスに行った時にはいろいろな人が荷物を持ってくれたりして助けてくれました。地下鉄でも席を譲ってくれたり。

 でも、オーストリアでは、知らんふりで、こんなに国柄でちがうのかと驚きました。日本では若者も、優先席にどーんと座っていますよ。

Y・Hさん:個人によってちがうのではないでしょうか?日本人でも助ける人もいますよ。

M・Sさん:個人にまかされているのでしょうか?

R・Sさん:嵯峨野線に乗っているとみんなが、入り口に立って動かない人が多くて困りますね。どんどん乗ってくるのに、中の方に動かないので入り口だけぎゅうぎゅうになり、情けないなあと思います。

E・Tさん:その情景はよくわかります。入り口、出口だけ人がいっぱいですよね。

サムさん:カナダも同じで、真ん中に行かないですよ。

Y・Hさん:イギリスでは、「乗れない」と叫んだら少し動いてくれたことがありました。

E・Tさん:中はもっと空いているのにね。

亀田さん:京都市内のバスは、前から下りるのですが、運転手さんの中には、後ろからバッグを下ろしてもいいですよ。」とか言う人もいますね。今は、京都駅前から、「特急バス」が出ています。清水寺などにまず、行くので途中はとまりませんとか。でも値段は、ひとり500円で、矛盾しているような。ヨーロッパからのツアーは、30人や40人とかで多いです。そのツアーガイドのマナーが悪い場合もあります。祇園などでは、人が多いので「注意してください」というガイドさんもいますが。ベネチアなどでは人が多くなり、町への入場料を取り始めましたね。水の問題やトイレが足りないこともあるようです。日本では姫路城が、外国人入場に4倍も取る案があるとか。

サムさん:シンガポールは、地域と外国人の二重価格があります。

亀田さん:住民のためにとコミュニティに使ってもいいですね。ヨーロッパでは、二重価格の場合は、美術館の補修などに使うと言っています。

M・Fさん:サムさんは、たくさんのレストランをテストされたようですが、何が良かったですか?

サムさん:いろいろなひとと話す事ができました。

 今までやったことをもう少し、話します。

グローバルカフェについて

  • 1年目:ユダヤ教の文化の紹介
  • 2年目:ハロウインでカナダやアメリカの文化の紹介 メキシコの死者の日も
  • 3年目以降:オーストリアのクリスマスとか(コロナ禍のなか)

 無料。大人数になると、交流会ができるようになったが、子どもと関わる機会が減ってきた。→子ども向けをはじめに持って来た。

料理教室:餃子教室(Z・Yさんなどがゲスト)

 コロナ禍の時は、年に1.2回しかできなかったが、お金も時間もあり、力を入れてやれた。(メキシコの死者の日の紹介:装飾・おやつ・変装なども)

子どもグローバルカフェ:ブラジルの料理も

 4年目以降:以前、5年間ほど料理を仕事にしていたので、料理をやりたいと思った

 ベトナムコーヒー・テキサスやメキシコの料理・中華ちまき(丹波篠山のちまき屋さんから・カナダのピクニック料理・ウズベキスタンとヨルダンのデザート作りなど。

国際交流協会のイベント

 ワールドフェスタ:カナダの紹介・姉妹都市からの訪日

 姉妹都市訪問:中学生とStillwater市での交流プログラム&報告会

 多文化共生センターの設営

 亀岡訪問:自粛はするが、少しづつ訪問客があった。

      空手選手・オーストリアのクリスマスイベントの紹介・

      イスラエル&パレスチナの人がいっしょに訪問など

      OSU教授グループの亀岡訪問

      アメリカ女性の話(桜の女王):日米交流について

 他国へ通訳として:中学生をアメリカオクラホマに交流プログラム(通訳として)

 最後に:外国人がせっかく日本に来たので、日本語も話せるので、積極的に交流しようとしました。外国人に対する印象が変わるかもと。町をうろうろして、よくいろいろな人と話をしました。おもしろい人が多いなという印象ですが、特に、料理を通じて話すと誰とでも話ができたと思います。亀岡市内の料理店は、だいたい全部行った事があると思います。

 亀岡の食べ物はおいしいですね。他の地域の人が、知らないのはもったいないと思います。バールでも、京都市内でも、スノーボードのつながりの人たちにも、話しています。亀岡の食べ物のおいしさを。

 最初は、仕事にかける時間がほとんどでしたが、だんだん同僚とも仲良しになり、バイクなどのツーリングにも出かけるようになりました。気持ちを込めて人間関係をがんばったと思います。

 ずっといっしょにいても、名前がわからないような状況は避けようと仲良くしてきたと思います。そのため、地域の行事にも参加してきました。亀岡祭では高砂山で笛を吹きました。その笛を持ってStillwater訪問にも持って行き、アメリカで笛を吹いて見せました。光秀祭も参加しています。

亀岡では、誘われたら、とりあえず行ってみようと。

M・Fさん:自分で文章も書いていましたね。

サムさん:そうです。

M・Fさん:日本人と結婚してずっと住みますか?

S・Oくん:5年間亀岡におられて積極的に関わってこられたなあと思います。ぼくも、高校時代のカナダに留学し、交流しようと思っていたのですが、なかなかせまいコミュニティからは、出られませんでした。アルバイトなどをすると、人間関係ができるのかもしれませんね。サムさんのやり方は、僕のあこがれです。

サムさん:自分の私生活だけにいると、何も変わらないですね。1、2年目は、仕事の時間も多く、不安もありました。日本語もそれほどうまくないし、ほめられることもないしと。その後、自分から考え方を変えようとしました。それからは、積極的に話しかけようとか、京都人の考え方を知ろうとか、その後少し、余裕ができてきました。

不安があっても、自分で考えていけば、良い方向が見えてくると。

S・Oくん:いろんな方と接しておられますが、料理を作ることは効果的だったのでは、ないですか?サムさんのベースでできるし。

Y・Hさん:コロナ禍もあり、大変だったでしょうけれど、ものすごい経験でもありましたね。

サムさん:大変な事はいっぱいありました。コロナ禍というのは、今まで誰も体験がなく、自分で考えないといけないということで。でも、その後、何とか自分で乗り切ったという気持ちは持てるようになりました。

M・Sさん:5年間の最初の方は、サムさんは、自信がなさそうに見えました。英語で話すと、「日本語で話してください。」と言われたのですが、緊張感が伝わりました。コロナ禍も越え、通訳の仕事も翻訳も成長されたと思います。そんなに表に出しはしないけれど、努力してくれたと思います。

サムさん:タイムズでは、思い出として、Stillwaterへ生徒死とたちと行き、自分にできるかなと思っていたことができたと思いました。亀岡祭でも笛も吹きましたし。

 亀岡はそんなに大きな町ではないので、また、亀岡で就職できるとは思っていませんでした。でも、「森の京都」に就職できて、まだ亀岡にいます。

R・Sさん:10月にStillwater市から、また訪問がありますね。その時もサムさんは、頼まれるのではないですか?

サムさん:今の仕事は人生の中で一回しかできない仕事だったと思います。5年間ちゃんとやりたいと思っていて、がんばったのですが、後悔はしていません。僕は亀岡市の12番目のCIRでした。「森の京都」は、財団でこの地域の振興や定住者の支援とか、丹波地域の魅力を紹介する仕事のようです。9月から始めます。8月には、一度カナダ゙に帰ります。

Z・Yさん:ずっと日本に住んでいると、中国語でこれを何というのだろうというようにわからなくなることがあります。漢字もちがうし、書けないことも。中国語で話そうと思っても、話せないこともあります。

E・Tさん:ぼくは今日のこのようなセッションについて、もっといろいろな人に知ってほしいなあと思います。ここのメンバーは自分で動く人がほとんどですが、外には、あまりないグループや話し合いの場所だと思うので。今日は本当にそう思いました。

児嶋:このあとで、毎回私はレポートを書き、この会員メンバーの150名ほどにはメールや郵送でお送りしています。今、E・Tさんが、もっと多くの人に知ってほしいと言われたことは、うれしいし、少し考えましょう。ただ、セッションというのは、ゲストの話をただ聞くだけではないので、自分の思いを話して、セッションと思うので、小人数に限定しているのです。ただ、私のホームページ(児嶋きよみ・ホームページ)と

 打ち込んだら出てきます。以前のGSも。ただ、みなさんの発言などは、イニシャルで書き、ゲストとコーディネーターの亀田さんと児嶋だけは、名前を明記しています。

亀田さん:では、今日はこの辺で。

児嶋:次回は、レイチェル・クラークさんという元日本人でアメリカで国際会議で通訳などをされている方がゲストです。英語社会で、日本語という言語はどう受け止められているのかなどについての話し合いです。またどうぞ、おいでください。

2024年5月19日(日)第375回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2024年5月19日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:木村且哉さん(亀岡市在住、亀岡国際交流協会副会長、大本本部国際愛善宣教課長、 NPO法人人類愛善会インターナショナル理事兼事務局長)
コーディネーター:亀田博さん(ツアーガイド)
参加者:9名

 今回のタイトル:「フィリピンでの子ども支援」

参加者自己紹介

亀田さん:今日は、NPO法人人類愛善会インターナショナルの理事で事務局長の木村且哉さんから、お話しを伺い、その後、セッションをしていきます。私は、コーディネーターの亀田博です。まず、参加者のみなさまの、自己紹介から始めていきます。

Z・Yさん:主人(日本人)と結婚し、2013年から、日本語教師の仕事を始めました。2015年からは、日本語学校の派遣教師として、フィリピンで日本語教育を始め、北方のブラッカにいました。その後日本でコンビニの経営などもしていましたが、夫が病気になり、亡くなりました。その後、2021年から、亀岡で日本語学校の紹介で、亀岡で外国につながる子どもの学習支援員を始めました。そのころから、ひまわり教室を知り、ボランティアで教えることも始めました。2023年の9月からは、亀岡市の職員として、毎日どこかの学校の支援員をしています。

H・Mさん:最初は日本語学校の事務員をしていましたが、肩と指の怪我をして、日本語教師になりました。最初は、Z・Yさんのあとに、フィリピンで教えたかったのですが、実際には、ベトナムで日本語教師をしていました。

Z・Yさん:2010年に留学生として、日本に来て京都大学で心理学を学んでいました。中国の江蘇省の蘇州市出身です。(蘇州市は亀岡の友好都市ですよ:R・Sさん)結婚し、子どもができてからは、亀岡で英語教室などをしています。今は、たのまれて、亀岡市内の学校のフィリピンから来た子どもの支援をしています。今日は、そのこともあり、参加して知りたいと思いました。(南つつじケ丘小学校で)

R・Sさん:小学校の教師をしていました。退職して8年目か、9年目になります。ひまわり教室の最初の頃から指導者として、関わっています。

N・Hさん:仕事で長く亀岡から離れていましたが、1.5年前に亀岡に戻ってからは、いろいろな方と話して脳に刺激をもらい、視野を広げたいと参加しています。

R・Aさん:南丹市で、国際交流関係で日本語コーディネーターをしていましたが、今は、京丹波町に変わり、多文化共生マネージャーをしています。個人でも子どもに関わる支援活動をしていますので、高校卒業後の進路や、出産、育児に関わることなどの支援も必要で、ヒントがないかなと思っていたら、児嶋さんに、これに参加したらと誘われ、来ました。外国につながる子どもの支援の中では、バイリンガルに育てるには、どのようなことをしたらいいのかなどが知りたいです。今は、パキスタン出身の子どもはウズグル語を話すのですが、この言語が話せるネパール人に助けてもらっています。京都府国際センターの堀江さんにも相談に乗ってもらいました。

児嶋:1999年から、亀岡市交流活動センターで始めました。2011年に私が退職をしてからは、Office Com Junto(オフィス・コン・ジュント)の主催として継続しています。毎月1回を目処に継続して来ましたが、今回は、375回目になります。いっしょにやって来てくださった亀田さんたちとも、「あっという間に20年も越えてしまいましたね。」と言い合っています。大本さんとは、オクラホマ州立大学(OSU)京都校が1996年に閉鎖したあと、1999年ころから、OSUの造園建築学科の先生と学生達が毎年、亀岡を拠点に海外研修プログラムを始めたのですが、その最初の年の宿泊場所としてお借りしたころから、お世話になっています。

亀田さん(コーディネーター):私は、大津市に住み、OSUの造園建築学科が研修に来たころから、ツアーガイドとして関わり、OSUのあるオクラホマ州のStillwater市にも市民のツアーを組み、旅行ガイドとして行ったことがあります。コロナ禍のあと、日本人が海外へ行くのも無くなり、今は、外国から日本に来る方が増えていますね。日本は実は、外国に比べると物価がまだ安く、外国人は、「安い!」と言って喜んでいますね。でも、日本人が今ハワイへ行くと、すべてを込みで200万円くらいが普通の相場です。前回の福井県の小浜市から来られたゲストの大森和良さんが、小浜で遭難事故がゴールデンウイーク前にあり、それを大森さんが、小型船を出し、救助されたというお手紙をもらい、本当に驚きました。県内では、新聞にも掲載されたそうですが、その他の地域では大きくは取り上げられなかったようですね。でも、戦争前の事故の救助をされたことで、今も交流が続いているというお話しを聞いたばかりだったので、さらに驚きました。では、ゲストの木村さんの自己紹介からお願いします。

グローバル・セッション開始

木村さん:大本本部の職員で、NPO法人人類愛善会インターナショナル理事兼事務局長とNPO大本イスラエル・パレスチナ平和研究所の理事をしている木村且哉と申します。

 フィリピンのマリンドゥーケ島で子どもの教育支援をしています。マニラから南に200kmに位置し、ほぼ円形の島で、面積は日本の淡路島と同程度です。人口は20万人で、農業と漁業が産業の島です。人類愛善会は、フィリピン、香港、タイ、インド、スリランカ、バングラデシュ、モンゴル、ネパールなどに分会があります。

 私は、2008年にフィリピンに初めて行きました。フィリピンは、7109の島々と人口は1億人を越えます。大河ドラマの『黄金の日々』でも出て来ましたが、秀吉時代のルソン島の話がありました。そのころから、実は400年以上のつながりがあります。今、このマリンドゥーケ島に行くには、空港が無くなり、船で行かねばならず、時間がかかります。1986年のバブル全盛期のころ、人類愛善会のマニラ分会ができ、平野さんという人がマリンスカイ開発株式会社を設立し、ホテルやゴルフ場の経営に乗り出しました。マリントゥーケ島は、人口20万人の島ですが、近くのエレファント島という無人島にホテルを建て、ゴルフ場も開設し、客で賑わっていました。当時、この島でも例外ではなく、子どもが学校に行けないような貧しさで、平野さんがフィリピン愛善友の会として支援を始めました。物品を贈るだけでは子どもたちの成長の役にたたないと考え、1993年に養豚による奨学援助活動をスタートしました。子豚を産ませてそれを売り、奨学金にするシステムです。その奨学金は貯金通帳に入れておきます。フィリピンの女性は働き者ですが、男性はそうでもなく、現金があればすぐに使ってしまうので、貯金通帳はお父さんには使わせません。愛善友の会の活動拠点としてフィリピン愛善センターを開設しましたが、その開設式に当時のラモス大統領や、のちのアロヨ大統領(当時は国会議員)も出席しました。

 児嶋さんもよく知っている大本の出口眞人さんは、当時、人類愛善会の事務局長でこの写真に写っていますが、その横にいるのは、マリンドゥーケ州の教育委員長をしている女性です。この方ラブラドールさんは2才の時に父親を日本軍に殺されました。フィリピンは、実は太平洋戦争中の3年8ヶ月、日本の植民地だったのです。その間、フィリピン人捕虜が殺害されたりしたのを見て来ているので、最初は、この活動にいやいやながら、参加をしていたと聞いています。でもこの時からの日本人の温かさややさしさに接し、恨みも変化してきて、祭典に参加し、子どもたちに戦争の悲惨さと平和の大切さを伝えたいと考えるようになられたそうです。

 平野光男さんは、活動の最中に1995年に急逝されました。その後、フィリピンとのつながりはだんだん途絶えてしまっていました。

 私は、2001年に大本の国際部に異動になったのですが、フィリピンの活動の話は、全く聞いていませんでした。

 2008年にマニラで、宗教者の会議があり、私は初めてマニラに行きました。インターネットで、それまでの平野さん達といっしょにいた方たちの情報を調べると、マリンドゥーケ州教育委員長のラブラドールさんはフィリピン教育省の次官になられていることがわかりました。その年は会えなかったのですが、2009年に再度マニラに行くと、ラブラドールさんにお会いでき、小学校の校長先生をしているマリアさんを紹介していただきました。マリアさんは当時、写真に写っていた一番若い女性です。

 養豚活動は、実は、平野さんが亡くなってからも、2003年まで継続していたそうで、1500人もの子ども達を支援し、高校や大学にも行ったそうです。

 子豚は繊細で、ストレスに弱く、1500人の支援を受けた子どもたちの4割が豚の出産に成功し、子豚を売ったお金で学校に行き、高校、大学を卒業しました。

 1995年に支援を受けた子どものひとりである、ライネ・カピートさんという女性に2009年に訪問した時に会い、彼女の自宅につれていってもらいました。ほったて小屋のようなところが家で、電気も、ガスも、水道もありません。彼女は子豚を売ったお金で高校を卒業し、卒業後はサリサリ(現地のコンビニ店)を経営していましたが、20歳で結婚し、子どもが次々とできて(5人)お店の経営が難しくなったそうです。彼女の夫は、平野さんが始めたホテルを平野さんの死後、韓国企業が買収して会員制のリゾートホテルが2008年に開業しました。そこで仕事をしていますが、月収は、15000円程度で生活は苦しいです。彼女は「もういちど愛善会から、支援活動をしてほしい」と希望を述べていました。

 愛善友の会フィリピン愛善センターの建物はまだ残っていて、地域の集会所として使用されていました。現在は、子どもの放課後教育の施設として利用しています。

 子豚は、1才で大人になり、出産もできます。一度に10匹ほど産み、1匹2,000円から3,000円で売れるので、10匹いると、2.3万円の収入になるようです。マリンドゥーケでは、小学生ひとりあたり、年間18,000円ほど教育費がかるので、とても有益だと言っています。

 さきほどのラブラドール教育次官は、教育プログラムを担当していたようですが、残念ながら2012年に死去されました。

 2010年に第2期Pigletプログラムがスタートしました。日本円で10万円程度あれば20人の子どもに子豚が支給できます。第2期が開始して現在200人の子どもたちに子豚を支給しています。

 山岳地域では、子豚よりヤギの方がやりやすく、これも提供しています。

 現在までにマリンドゥーケを襲った台風の被害や2020年からのコロナ禍、また近年では豚疾病の流行と何度か活動は困難に見舞われましたが、皆様の支援をいただき15年間続けてこられました。今後も支援は続けていかなければならないと思います。以上です。お聞きいただき、ありがとうございます。

亀田さん:では今から質問などをどうぞ。

R・Aさん:先ほど、小学生の必要な金額として、18,000円と言われましたが、国か、自治体の支援などはないのでしょうか?私は南丹市でも仕事をしていましたが、南丹市の寺院の住職さんもフィリピンに行かれたことがあるようです。

木村さん:国や自治体には子供達を支援する余力はありません。

R・Aさん:現地にいて、自分で生活を維持できない場合は大変ですね。フィリピンから日本に来て日本人と結婚し、もう永住されている方達もいますね。

木村さん:ネパールでも、優秀な子は海外に行き、職につきたいという人がいます。チャンスがあれば、外に出たいと。国内では、目の前に居る子達の支援で手がいっぱいでしょう。マニラの支援団体でも、日本からフィリピンに来た駐在員がフィリピン女性との間に子どもができ、男性はそのまま帰国してしまい、大きくなった子どもは、日本にいる父親を見つけて認可させることがあります。支援団体は、あとしまつもあります。

R・Aさん:女性が子どもといっしょに日本に帰国した夫を追いかけてきて、苦労して見つけ、日本に住み着いた家族もいます。

木村さん:そのような状況でも、フィリピンの人は明るいですね。お金がなくてもあまり気にしないとか。日本は太平洋戦争中3年間も植民地として占領していたのですが。

N・Hさん:大本さんの播いた種で育って大きくなった子どもたちもいるのでしょうね。現地の人がこの支援活動をもっと育てていこうという動きはあるのでしょうか?

木村さん:経済的な部分に頼らないためには、スポンサー探しが必要ですね。ボランティアや指導者になるという志はあると思います。

N・Hさん:このような動きが拡がっていくのが理想ですね。

木村さん:1993年に始まり、一旦2003年に止まりましたが、2010年に再開され、現在まで続いています。このような支援は続けていかなければならないと思います。

Z・Yさん:現在はスマホもフィリピンでも使われていると思いますが、そのように変わってきましたか?情報は入って居るのでしょうか?

木村さん:そうですね。実はZOOMでエスペラント語を教えていますが、電波が悪い場所もありますね。

Z・Yさん:豚を育てて10頭も産むのはすごいですね。

木村さん:子豚は一匹2000円から3000円の値段で、マーケットなどで売れます。豚は毎年出産しますし。

Z・Yさん:売れるとしたら、大人もやっているのでしょう?

木村さん:農業と漁業が主な産業なので、養豚は島では貴重な産業です。

児嶋:ひまわり教室も2014年から始め、もう10年目になりますが、最初に子どもさんの勉強を見てほしいと言われたお母さんは、フィリピン出身のお母さんとメキシコ出身のお母さんの二人でした。そこから始めて今までやって来ましたが、フィリピン出身のお母さんもその後もいろいろな方がいました。日本人と結婚し、しばらくして離婚し、子どもさんを認知はしているので、日本国籍を持っていますが、母と子だけなので、宿題も教えられないので見てほしいと来られたのです。その後、アメリカ人とネットで知り合い、アメリカに行く前にフィリピンに戻り、キリスト教では、離婚を認めないので、フィリピン人とした結婚は無かったことにして、書類を書き、アメリカに渡り、今は昔別れたフィリピン人の子ども達も呼び寄せ、アメリカで仲良く暮らしているファミリーもいます。亀岡にも。いろいろなケースのファミリーがいますよ。

Z・Yさん:フィリピンで日本語を教えていましたが、日本の日本語学校でも教えていました。その中に、フィリピン出身でダンスが上手で、日本人との間に子どもができて、フィリピンに帰国して出産した人もいます。日本人の父親は生活費を出していましたが、結婚はしないままです。いつか、日本語を勉強して日本に来て、日本人の夫さんと結婚したいと言っている人がいました。

木村さん:夫とは別居しているケースも多いですね。

児嶋:Z・Yさんは、今は亀岡市の職員として、支援員をされています。

Z・Yさん:以前は、頼まれてアルバイトとして、支援の仕事をしていましたが、夏休みなどは学校に行かないので、仕事がなくなります。それで、都ホテルにいる友人から、「その仕事は止めて、ホテルで仕事をしたら?」と勧められました。面接も通り、この支援員の仕事をやめようかなと思って居たときに、児嶋さんから、「市長さんに紹介するので」と言われ、いっしょにお会いして、市役所の職員としての支援員をすることになりました。ひまわり教室もその時に紹介されて、指導者は、自費で参加をしていますが、いろいろな子どもたちがいて、楽しいです。マレーシアから来た日本人の父親と中華系マレーシア人の母親の間に生まれ、英語、中国語、マレー語はできます。でも、日本語は話せるけれども、全く書けないというような子もいます。

Z・Yさん:私も頼まれて、支援員をしていますが、南つつじ小ですが、全く支援がなかった子もいます。

亀田さん:亀岡は、他の地域より進んでいますが、何か支援ができるかもしれないが、知らない人が多いですね。沖縄の返還時に食料として、ハワイからアメリカ軍が豚を送ったことがあるそうです。気候が合って繁殖したそうですが、その後政府がピンハネをしたとか。

児嶋:フィリピンの子どもの支援も、10万円でできることがあるなら、支援者を通して寄付を募ると言う方法もありますね。このようなことを知ったら、できることはしなくてはと思いますね。

亀田さん:時間が来ましたので、また個別に話を聞きたい方は、木村さんのメールのアドレスも在りますので、よろしくお願いします。

児嶋:次回の6月のGlobal Sessionは、国際交流員のサムさんで、7月で5年目の最終月になります。ぜひ、話を聞きにいらしてください。

2024年4月21日(日)第374回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2024年4月21日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:大森和良さん(小浜市在住・漁師・地域創造クリエーター・シンガーソングライター・元教員)
コーディネーター:亀田博さん(ツアーガイド)
参加者:15名
共催:オフィス・コン・ジュント・亀岡国際交流協会

 今回のタイトル:「海は人をつなぐ」

参加者自己紹介

亀田さん:今日は小浜から大森さんに来ていただき、プレゼンテーションと歌を歌っていただけるようです。まず、みなさんの簡単な自己紹介を順番にお願いします。

M・Aさん:ブラジル出身で大本教の職員です。9月にゲストでお目にかかります。

S・Fさん:この1月にGSに参加させてもらいました。その時に「リトル・レジスタンス」というちょっと印象に残る言葉がありました。市役所とちょっと行き違いがあり、その決まった理由は何かと問いかけても、決まったことは実行するやり方について語り合いました。サークルとしては、理解が深まったと思うので、それは校歌があったと思います。「リトル・レジスタンス」というのもこういう効果が合ったかなと思っています。今日もいろいろ学びます。

E・Tさん:京北町から来ています。ふだんは島津製作所でターボ分子ポンプ作りしています。

H・Mさん:日本語教師です。久しぶりに参加しました。

Z・Yさん:中国出身で、日本語学校の派遣教師として、外国で日本語を教えたり、中国人向けの留学生に日本語を教えたりしていました。3年半ほど前から、亀岡市で外国につながる児童の教育支援員をしています。2月から亀岡市民です。

K・Nさん:保津町で、村おこし的なことをやっています。児嶋俊見先生にはむかしからお世話になっています。

M・Fさん:おはようございます。このGlobal Sessionにはかなり以前から参加していましたが、ここ2回ほどは、欠席していました。実は病気をして入院していました。仕事は映画関係の仕事をしていて、いまも子どもたちが映画の作り方を学ぶNPO法人で活動しています。

Y・Hさん:総合商社に務めていまして、50年ぶりに故郷に帰ってきました。今年もぼけてはいけないということで、脳の活性化と刺激を与えるために、このGlobal Sessionに参加させていただいています。

M・Tさん:アメリカのカリフォルニア大学で文化人類学を教えておりました。一応区切りをつけて2019年に引退しましたが、アメリカには「引退」という概念がはっきりせず、いまだに日本とアメリカを行ったり来たりしております。

F・Tさん:京都大学に高等研究院というのがあり、私はそこで、癌治療の研究をしています。なぜここでやっているかというと、日本はある特別な癌治療に世界一というか、世界的にリードしているからです。これは、中性子をもちいた放射線治療なのですが、中性子源として実験用の原子炉を使うのでその中に入って私も研究しています。

K・Kさん:大本本部の職員をしています。児嶋さんとは亀岡国際交流協会とのつながりで、今は副会長をしています。この副会長になったのが、2020年でコロナ禍で、今はようやく亀岡市としても国際交流ができないかなとそういう所に目を向けて活動できればと思っています。次回の5月19日には、こちらでゲストとしてお話しをさせていただきます。よろしくお願いします。

T・Kさん:このGSにはめったに参加せず、家で留守番をしていました。大森さんとは、学生時代からの知り合いで、たびたび小浜に行き、いろいろ教えてもらっていました。小浜にはお水送りという歴史があり、奈良や、京都とのつながりというのも知りました。日本には、むかしから海も含み、深い交流があるのだなあといろいろ勉強させておもらいました。今は木版画を中心に木版画家としてやっていますが、ようやく10年以上経ちました。これが、「お水送り」の木版画です。今日も朝鮮半島とのつながりの一部をお話しいただくのを楽しみにしています。

児嶋きよみ:1999年に亀岡交流活動センターでGlobal Sessionを開始し、今回は374回目になります。大体月に一回を継続してきましたので、もう20年を過ぎていますね。最初から参加されていたのは、M・Fさんで、そのすぐ後くらいから亀田さんが来られています。E・Tさんは、先ほどそろそろ10年目になると言われていましたね。何が面白くて続けてこられているのかと聞いたことはないのですが、他と少しちがうのは、人数を制限し、参加者とのセッションの時間を取っているということだろうと思っています。コーディネーターは必ずお願いをしていますので、皆さんのご意見をお聞きすることも目的にしています。それと、必ず、レポートを作成し、参加者とその他の会員(150名ほどがいろいろな国にもおられます)にメールで送っています。毎月ですが。そのレポートを見て、感想をメールで返していただく方もおられます。

亀田さん:私はコーディネートをさせていただいている亀田と申します。私は、亀岡市民ではなくて、滋賀の大津に住んでいます。琵琶湖も近く、大体家から10分くらいで湖に行けます。また、東側から比叡山も見えてとてもきれいです。ワシントンポスト紙から、世界に旅をすべき所として、12都市が選出されていますが、そのうちの1都市が福井が選ばれていますね。大森さんも福井県から来られていますが。最もスピリチュアルな都市として選ばれているのですが、多分、永平寺もあることがかなり影響を持っているのでしょう。もう一つ、福井県は都道府県幸福度ランキングとして、2014年、2016年、2018年、2020年、2022年の5回選出されています。勝山市は、福井県の中での住み心地が良い都市として選ばれていますね。恐竜博物館などもありますからね。今年は北陸新幹線が敦賀まで来ていますね。でも関西の人は敦賀で乗り換えなければならないので、やはり利用者が減っているようですね。今日はよろしくお願いします。

「海は人をつなぐ」大森和良(福井県小浜市)

自己紹介

 皆さまおはようございます。小浜から参りました大森です。写真をご覧いただきながらお話しさせていただきたいと思いますのでよろしくお願いします。皆さまからのお話を楽しみにしております。今ご紹介ありましたが、ご覧頂いている地図で赤い丸印のところが小浜です。紫の丸印のところが亀岡です。小浜から亀岡まで、京都縦貫道を通って車で1時間30分です。小浜はちょうど亀岡の真北ですね。磁石の針のように皆さんやっぱり北へ北へ向かわれる。北には何かあるんでしょうかね。

 この海岸は私の住んでいる近くの海岸です。目の前に広がるのは小浜湾の風景です。ここに少年の像が立っています。少年の像が何を見ているかというのは、これからお話しさせていただきます。

 この海岸にこうした石に絵を描いたり、写真を貼っています。これは私のいたずら遊びです。ここの海岸は綺麗なところなのに、過去にはゴミを捨てられたり、産業廃棄物を捨てられたりしてとても悲しい気持ちでした。石に絵を描いたりして置いておくと、子どもたちがやってきて、石に絵を描いて置いていってくれるんです。すると不思議とゴミが少なくなりました。一隅を照らせば本当に世界が美しくなるという体験をしました。 ここにはハマヒルガオが咲き誇ります。波打ち際に咲いている花なんです。淡いピンク色がなんともいい、大好きなハマヒルガオです。波のしぶきをかぶってもしっかりと花をつけて大きくなる力強い花です。かたまってこんな感じに咲いています。下は砂利で、ほとんど土のないところでもしっかり根を張って咲いています。

若狭湾の漁師

 さて、私はこの船に乗って漁師をしております。1トン足らずの小さい船です。この写真の向こうに見えるのが若狭湾です。遠くに見えるのが丹後半島です。冠島も見えます。半島の先端は経ヶ岬です。ここまで70キロあるのですが、晴れた日にはこうして若狭湾が一望できます。

 私が漁をしている海岸が「蘇洞門」という景勝地です。福井県には東尋坊とかいろいろ有名な観光地がありますが、蘇洞門も国定公園になっていて素敵なところです。私はこの海域で漁をしています。

 さてこれは最近の漁の様子です。箱眼鏡で海の底を覗いて、この竹の先に鎌がついています。磯見漁という伝統漁法でワカメを採っています。今最盛期です。ちょっと見てみましょうね。作業の様子はこういう感じです。この時期の天然のワカメはとても美味しいです。船が揺れるので、波があるときは落ちないように気をつけています。家に持って帰ると、こうして天日干しにして、最後は乾燥機にかけて仕上げて出荷します。

 夏になると、サザエもとっています。サザエは磯見漁で採るのと、サザエ網を仕掛けてとる方法と2通りです。サザエの習性で網に登るんです。サザエが網に絡まってとるという方法です。タコ、海のドリーマー、タコちゃんです。夢見るタコ。タコツボで獲っています。タコは暗いところ、狭いところが大好きで、タコツボを沈めておくとその中に入ります。また、カゴに餌を入れてとる方法もあります。タコが動くとこんな感じです。マダコは美味しいですよ。

サシ網には、ヒラメ、カサゴ、アコウ、イサキ、イカ、マゴチなど掛かります。ここに「勘治郎」って書いてあるのはうちの屋号です。この名前で早朝市場に出荷をしています。

若狭湾という位置

 さて、これは若狭湾の沿岸の風景です。本当にきれいですね。これは棚田。この狭い田で稲を作っています。美しい風景になっています。沖の石の方まできれいに見えます。

 今日の私の話は、若狭湾沿岸の原住民としての話でございます。とてもローカルな話です。私はローカルなことばかりやっているのですが、ローカルなことをやっていると、どんどんグローバルにつながって、世界につながっていくというのを体験しました。今日は、それを皆様にご報告、お聞きいただいて、いろいろアドバイスをいただきたいなと思っています。私が体験したことばかりのシンプルな話ばかりですがお聞きください。

 これは皆さんが普段から見ている地図ですね。こちらにアジアの大陸がありまして、朝鮮半島、そして日本です。私はこの地図をいつもこうして見ます。こうして逆さに見ると、大陸、朝鮮半島から、日本がこうして島国で目の前にあって、ちょっと行ってみたいな、ちょっと行こうかなみたいな感じの場所にあります。

 この海が「日本海」です。韓国では「東海」と言っています。大陸と日本が抱き合うこの海、私は母のように見えます。母の羊水のようにみえます。子どもたちが育まれて生まれてくる羊水です。

 さて、若狭湾でおきた歴史の一つをご紹介したいと思います。これは簡単にした地図です。ここは朝鮮半島で、ここにロシア、この辺りにウラジオストクあります。ここ(現在の)ウラジオストクを出港した船が、遭難し、2週間流され流されて着いたところが小浜市泊、私の村の海岸です。この話を子どもたちにも分かるように絵本にしました。史実に忠実に「風の吹いてきた村」として作った絵本です。挿絵を知り合いの画家上原徳治氏に描いてもらいました。この絵本を使って事件のあらましをご紹介します。

遭難・漂着・救護

 1900年1月12日のことです。泊の沖合に一隻の船が漂着しました。帆は破れて、帆柱も折れて無残な姿でした。この難破船の第一発見者が私の曾祖父なんです。だからそんなに昔の話じゃないのです。さあ、村の人はびっくりして、小舟を出してこの難破船に向かいました。近づくと船の上から手を振って何かを叫んでいます。しかし、何を言っているか分かりません。すぐに外国の船だということが分かりました。

 「この船はどこから来ましたか?」と聞くと「朝鮮です」。「船に病人や死人はいませんか?」「いません」。と筆談でやりとりをします。朝鮮人全員を小舟に乗せて上陸させました。真冬のことですから、まず藁の火を焚いて体を温めさせ、お湯を沸かして少しずつ飲ませ、村中の飯を集めて、おにぎりを作って食べてもらいました。

 救助した人は全部で93人。わずか25戸の村です。村の人口は100人少しです。村の人口と変わらない人が上陸したわけであります。相談して5軒の家に泊めて保護することにしました。それから村人は8日間、誠心誠意、懸命に保護、世話をし、93人の人は全員元気になっていったのです。死の境をさまよった人たちが命を吹き返すわけです。

 この船の名前は「サインパンゼ号」という8百石ほど積める木造船でありました。船主は鄭在官(チョン・ジェカン)。乗っていた人は、商人、運搬人、乗組員など93人です。ロシアのウラジオストクを出航して、大韓帝国へ帰る予定でした。当時は、朝鮮半島は李氏朝鮮の時代から大韓帝国になっていました。大韓帝国の時代が10年あったわけですが、その時期でした。大韓帝国咸鏡北道の明洲にある沙浦(サッポ)という港に向かっていた船でした。この場所は、現在は北朝鮮です。

 話を聞くとその漂流の様子は大変悲惨さを極めました。出航したその日の夕方、嵐になり、船は帆が破れて帆柱も折れて船内に海水が入ってきました。積んでいた荷物を全部海に投げ捨てました。食料も水も暖をとる槇もなくなりました。そして、しまいには船に積んであった少しの干し米を分け合って食べました。水がなくなったので、自分の尿を飲みながら生きる望みをつないだのであります。人間は海水を飲むと死ぬんです。

 さあ、もうこれで終わりだなと死を覚悟した人たち。それが幸運にも難破船は若狭湾から小浜湾に入ってきたのです。小浜湾の間口はこんな狭いのです。ここへ幸運にも入ってきたのです。

異文化の理解〜生活・習慣の違い

 さて、村での8日間の滞在の様子が、当時の文書に詳しく書いてあります。滞在の中で困ったこともありました。文化や生活の違いによって起こることであります。彼らは習慣から草履のまま家に上がったり、火を燃やす暖炉に唾を吐いたりしたんです。それはもう嫌で大変困り果てたそうです。しかし、言葉が分からないから、お互いの意思疎通がなかなかできません。身振り手振りでお互いを理解しようと努力して、とうとうお互いのことを理解しました。

 最初に白米のご飯をたっぷり食べさせていたのです。朝鮮人たちは満足していました。ところが5日目に役所からの命令が来るわけです。

 「朝鮮人に食べさせる米は半分にせよ」これひどいと思うでしょう。でもこれは水難救護法に従った措置でした。この事件の1年前に日本に初めて「水難救護法」ができたのです。     

 食料のことから、手続きまで全部書いてある。それに従って役場は言ってきたんですね。ところが米を半分にすると、朝鮮人たちはひもじい思いで腹が減っている様子、その顔を見ると村の人は気の毒がって、役所に内緒で芋や豆、朝鮮人の大好きな大根や生かぶらを差し入れたそうです。そうしたら、大変喜んで感謝して食べたそうです。その姿を見て村の人も涙を流したと文書に記録されています。

いのちあるもの〜人情は国境を越える

 さて、この8日間の滞在で朝鮮人たちはすっかり元気になりました。そして国に帰る手続きができたのです。

 出発の日です。浜には村の人たちも老若男女、子どもに至るまで集まりました。朝鮮の人たちが別れの挨拶を泣きながらするのですね。村の人たちも「袖を絞るほどに泣き、その様子は、親子兄弟のようであった」と文書に書かれています。

 村長が送別の言葉を述べました。朝鮮の人たちは何通か礼状を書いて村長に渡したのです。この礼状も残っています。その礼状の中に「このご恩は山のごとく、海のごとくであります。万世に世まで語り伝えていくつもりです。」と書いてあります。

 それから、手漕ぎの船で小浜の港まで村の人が送りました。小浜の港からは敦賀まで蒸気船で送りました。敦賀からは汽車で大阪まで送りました。大阪から釜山港までは、蒸気船で送ったと記録されています。

 その後の記録はまだ見つかっていません。ここまでが、実際に文書をもとにして確認していることであります。

戦争の渦中での不条理 

 さて、1900年という時代、日清戦争と日露戦争の狭間で国同士は非常に断絶した厳しい関係にありました。村長は水難救護法をもとに、誠実に事務処理をしました。漂着したそこの該当地の役所が報告とか手続きをすると書いてあるのです。また救護にかかった費用は、県を通して国に提出処理をしなさいと書いてあるのです。村長は忠実に事務処理をしました。  

 県を通して国へ。ところが国からも県からも一切回答と、返事はなかったのです。何と村長は50通も請求書を出しました。全部文書に残っています。しかし一切回答がなかったのです。

 1910年日韓併合の10年前の事件です。国同士の関係は非常に厳しい状況だったと思います。それでその費用はどうしたかと言いますと、村の役場と泊住民が負担したと記録が残っています。

 私の祖父は88歳まで生きたのですが、私が幼少の時にこの話をする時、いつも話の最後には、「費用は村で出した。国は何もしてくれんかった」と話していました。

 これは朝鮮人たちが残していた礼状であります。出航したその日の夕方、嵐にあって東へ西へ流されて行く様子、飢えと寒さが絶えがたい状況が書いてあります。この礼状が村の土蔵から見つかり、今も大事に保存をしています。

 村長の家の蔵にサインパンゼ号をつないだ係留ロープが残っています。今も大事に保管してあります。

 いろんな文書が見つかったので、これを記録にして残したいと、村の仲間と本を作りました。「韓国船遭難救護の記録」(1997年)

 その後、いろんなことが展開します。私はこの本を持って初めて韓国へ行きました。1996年頃というのは、まだまだ反日感情が強くて日韓関係も厳しい空気でした。2002年のワールドカップ以前です。韓流ブーム、ヨン様の前です。反日色の強い韓国の新聞社東亜日報がこの話を取り上げて記事にしました。東亜日報が記事にするのは大変なことだったみたいですね。その記事を書いた記者が辞めたという噂もあって、まだまだ厳しい時代でありました。

反日の壁を越えて

 この方は、鄭在吉(チョン・ジェキル)さんという全北大学の教授であります。この方から私の家に電話がかかってきたのです。「大森さん、私はこの本を読んで大変感動しました。私は反日教育で育ちました。私の父親も、徹底した反日でした。だから私は日本を憎んでいました。しかし、このような話が日韓の間にあったのかと思うと、私はとても感動しました。私はこの話を韓国の道徳の教科書に載せて日韓の子どもたちの未来をつなぎたい。」と熱く語られたわけですね。

 その後も鄭先生は私の家の電話が火を吹くぐらい、電話とファックスをやりとりしました。スピード感のある方で1ヶ月後、私の村にやってきました。そして村のメンバーとノミュニケーション(飲み語り合う)しながらこう言ったのです。

 「1900年からちょうど100年後の2000年は来年ですね。だから、100周年記念事業をして、この話を風化させないようにしましょう。」こう提案されたんです。そして、鄭先生が実行委員長をしてくださって、記念事業をすることになりました。

 鄭先生の熱意に打たれ、私たちは「韓国船遭難救護百周年記念事業」という事業に取り掛かりました。予算はゼロです。お金はありません。でも何とかなるという勢いでやりました。歴史の現場にささやかな記念碑を建立しました。応援してくださる方がたくさん集まりました。韓国からもたくさん来てくれました。

 絵本も発行しました。日韓・日朝の子どもたちが肩を並べて読めるように、日本語とハングルで表記しました。救護事務所になった海照院という村のお寺で記念式典を行いました。  

 この話を韓国の新聞で知ったという北出身で現在はソウルで実業家をしている方も参加してくださってスピーチをしてくれました。「この村は私のふるさとのような気がする」感動的なスピーチしてくれました。

 韓国から子どもたちもやってきました。ホームステイをして村の子どもたちと交流しました。韓国の文化放送(MBC)がやってきて、ドキュメンタリー「百年目の再会」という60分番組を制作して全韓国で放映しました。翻訳版を日本でも放映しました。

 こうして、この百周年記念事業は終わったのであります。私は事務局として関わったので、ほとんど寝ていなかったというか、電話がもう火吹いていましたし、やれやれとホッとしたのですが、なんとこれは終わりでなく、いろんな展開の始まりだということに気がつきました。

新しい風

 記念事業のニュースがマスコミで報道されると、多くの人がこの小さな記念碑を訪問するようになりました。国内、韓国から、アジアの留学生の方、たくさんの人が来てくれています。この24年間で、直接ご案内した人だけでも、記録してあるだけでも現在3200人になっています。

 韓国から船で来てくれる団体もありました。これは韓国の船です。ポハン水産高等学校の実習船です。韓国の若者たちが来てくれたのです。小浜には水産高校がありまして、水産高校の実習船で韓国へ行くというプログラムを私は提案したのです。(水産高校の職員じゃなかったのですが、フリーで)そしたら、校長先生が「よし行こう!」って言われて「大森さん、あなたも乗って来て」言われました。

 船に乗って海道を韓国へ。台風の中の航海でした。水産高校ですからやんちゃな若者もいました。ところが船酔いでみんなゲロゲロ、飯食っていたのは乗組員以外に私と生徒3人ぐらいでした。

 韓国へ入港しポハン水産高等学校と交流をしました。そのとき、私はこの学校の図書館に絵本「風の吹いてきた村」を10冊ほど謹呈しました。校長先生が読んでくださり大変感激してくださって「よし、今度はポハンから小浜へ船で行く。そしてこの記念碑を訪問したい」っておっしゃったのです。

 翌年、ポハン水産高校の実習船が小浜に入港し、ポハン水産高校の校長先生は、おっしゃっていた通り、記念碑を訪問してくださいました。日韓の国旗を上げ、泊区民も出て歓迎しました。こうして、小浜と韓国を若者たちが海を越えて船で行ったり来たりするという交流が始まったわけです。

 ハングルで「ワッタカッタ」という言葉があるのですが、「行ったよ 来たよ」という意味です。若者たちの交流を見て、ぴったりだなと思いました。ワッタカッタは「若狭」の名前の語源であるという説もあります。記念碑の前でサムルノリの演奏もしてくれました。

戦争は終わっていない〜拉致問題の根底

 さて、これは2001年の頃、拉致問題はまだ不透明な時期でした。私のすぐ近くに拉致被害者の地村富貴恵さんがいます。ジーンズショップに勤めていた富貴恵さん、私がジーンズを買って裾を直してもらった2日後に行方不明になったのです。私も防犯隊で山を探しました。そして24年ぶりに帰って来られたのです。それは私の人生にとっても、本当に大きな出来事でありました。

 拉致問題について、小浜の村上市長さんが非常に熱心に取り組まれ、「韓国の大統領に手紙を書きたい」と言われました。「大森さん、韓国船救護の話を手紙の中に入れて書いて心を伝えたいんだが、案文を書いて欲しい」と言われ、私はその案文を書かせていただきました。

 この手紙が韓国の金大中大統領のところに届きまして、韓国の大統領府から返事が来ました。もう一つ、「北朝鮮の高官にも手紙を書きたい」ということで、お手紙を書きました。、ところが、ルートがないのです。でも、鳥取県がルートを持っていました。鳥取県で今、知事をしておられる平井知事が当時に副知事さんでした。ハングルも堪能で、協力してくださいました。こうして中国経由で北朝鮮に手紙を送りました。しかし返事はありませんでした。

 また、地村富貴恵さんのお兄さんで濱本雄幸さんが「何としてでも妹を取り返すんだ」と頑張っておられて、うちの家にも、何度も来てくださいました。百周年記念事業の時も参加してくださったのです。濱本さんは、小泉純一郎首相が北朝鮮に行く時に、この絵本「風の吹いてきた村」を持って行ってほしいと言われ、濱本さんから小泉首相に届けられました。

 小泉首相が金総書記に渡されたかどうかは分かりませんが、2002年9月17日、小泉さんが訪朝し、その後、電撃的に拉致被害者が帰ってきたのです。手紙がどうなったか分かりませんが、私の中では、韓国船遭難救護からドラマがずっと続いているような気になりました。

 これは、その時に地村夫妻が帰ってきた時、一番最初に「ここへ行きたい」と言って、記念碑を訪問してくれました。私が案内をさせていただくことになり、記念碑に行くと、テレビが50社ぐらい来ていて、外国のテレビも来ていて、騒然でした。お子様の帰国が実現できるようにと願いを込めて、地村ご夫婦にこの絵本をお渡ししました。

帰って来ましたありがとう

 成田空港に拉致被害者が帰ってこられた時、一人で帰ってこられた方がいました。佐渡の曽我ひとみさんです。彼女だけ言葉が少なかったですね。短い言葉でポツポツと詩のような言葉を話されました。「人々の心 山 川 谷 みんな温かく 美しく見えます 空も土地も木もささやく お帰りなさいと 帰ってきました ありがとう」

 私には、曽我ひとみさんの言葉が頭をぐるぐる回っていました。自然にメロディーが湧き歌っていました。友人達から、「本人に送ってあげたら」って言われ、曽我さんにお送りしたのです。曽我さんの同級生たちが曽我さんを励ます会をしておられて一緒に歌ってくれました。

 佐渡から電話がありました。佐渡まで「来て欲しい。」

 私は佐渡に行きました。曽我ひとみさんにお会いしました。彼女は一人で帰ってきたのです。2回目に行った時は、曽我さんの旦那さんのジェンキンズさん、娘さんのブリンダちゃん、ミカちゃんも一緒でした。このご家族と一緒に歌いました。 この写真は1回目の訪問の時、佐渡のタイガーというレストランでの様子です。

環境と平和を考える

 さて話が変わります。2006年から、この団体がこの記念碑のところにやってくるようになりました。韓国の南ソウル大学の学生たちです。彼らは「環境と平和を考える研修」という名前で日本への研修旅行をしています。パンの耳をかじりながらのハングリーな旅です。  

 鳥取県の境港に船で来て、そこからは自転車とかバスとか使いながらやってくるのです。中心になって取り組んでおられたのはこの方、アン(安)ビョンコルさん。南ソウル大学の大学の教授です。安先生とも不思議な出会いです。

 安先生は、「日本の海岸の漂着物を拾いながら、韓国と日本がこうして海でつながっているのを体感し環境問題を考える。そこで一緒にボランティアできた現地の人たちと交流し、コミュニケーションを通してお互いを理解し合う、未来を考える、環境と平和を考える」というのが趣旨でありました。

 最初に出会ったとき、安先生を韓国船救護記念碑へご案内したら、「海は人をつなぐ母のことし、パダノン、サラムル、メジョジョン、ダオモニチョロンと書いてある。これだ! 我々のこの研修のテーマと同じ心だ!」と言われました。「このテーマを私たちの研修のテーマにして、そして、この旅のゴールをこの記念碑にしたい。」と言われました。

 この小さな記念碑のところがゴールになるわけであります。安先生の熱意に小浜の市長さんも大変感動されて、この写真のような「日韓友好の集い」を市主催で開催したこともありました。

 南ソウル大学から他の大学にも波及し、彼らは4月から6月ごろに来ています。この交流はもう16年も続いています。私はずっとサポートをさせてもらっています。(コロナでしばらく中断をしていますが)

島は海というお母さんのもの

 私は10日間船でアジアの海をクルーズする企画に講師として招聘されて乗船したときのことであります。30人ぐらいの団体の韓国の小学生たちと会いました。子どもたちは船に乗って平和ということをテーマにして学習していました。紙を持ってきて「平和について思うことを一言ずつ書いてください」」と回ってくるのです。

 私のところにも来ました。私は、「海は人をつなぐ母の如し」と日本語で書いて「パダヌン・サラムル・メジョジョンダ・オモニ・チョロン」と言うと、子ども達は目丸くしました。

 心がつながりました。子どもたちがオカリナを吹いてくれたのですが、そのときの挨拶がとても印象的で、忘れられない言葉です。「私たちは韓国のチェジュ島から来ました。チェジュ島という島は誰のものでもありません。海というお母さんのものです。」

 私はとても感動しました。「海は人をつなぐ母の如し」と同じ心を子どもたちが言ってくれたのでとても感動しました。子どもたちは素晴らしいなと思いました。

歴史を学び 痛みを分かち合う

 さて、改めてこの地図を見ていますと、抱き合うこの海は、母の羊水のように見えます。「海」は「母」です。分け隔つことはありません。分断しないのです。平和のキーワードだと私は思っています。母はハングルでは「オモニ」力強い存在です。大きな愛です。

 1900年というのは、日清戦争、日露戦争の狭間でありました。しかし戦争の過中にあっても、人と人は助け合うことができる。助け合うのが当たり前だということを私は韓国船遭難救護の事件で知ったわけであります。

 日韓の間、日朝の間において国同士の摩擦はまだまだ生じています。気がついてみると、まだ戦争が終わっていないのだと私は感じています。人が分断されている状況が、すぐ隣の国との間にも現実としてあるわけです。

 しかし、私は必ず心をつなぐことができると信じています。お互いに歴史を学び、痛みを感じ、分かち合いながら、隣人として友情を交わせること、このことを望みながら、このささやかな記念碑は立っています。

 私は記念碑を訪問される方を時々ご案内していますが、記念碑に寄せて作った歌があります。ご紹介します。「海は人をつなぐ 母の如し」という記念碑の文言であります。

「海は人をつなぐ母の如し:「パダヌン・サラムル・メジョジュンダ・オモニ・チョロン」

♪海は人をつなぐ母の如し

海は人をつなぐ      
海は人を隔てない      
優しい母のような 大きな海 

遠い日のようで 遠い日ではない 
時が流れても 忘れることはない  
嵐の海で 西へ東へ        
寒さに震え 死を覚悟した     

海の母に抱かれ 船は村に着いた 
まるで夢のような 奇蹟のような  
国を越えても 心は同じ      
人の命の 確かなぬくもり   

やがて命あふれ 船出の時が来た  
袖を絞るほどに 泣き別れた人たち 
山よりも高く 海よりも深い     
人の心に あふれる想い       

海は人をつなぐ 歴史の小さな碑 
人の熱き心 語り続ける        
両手広げ 抱いてくれる        
光る海は 母のふところ        

※ハングルで歌う
やがて海を越えて 船で来たる若者  
明日の国の行方 つないでくれる    
海を愛し 夢馳せる若者        
繋いでゆくよ 海の道を        

海は人をつなぐ 海は人を隔てない  
優しい母のような 大きな海      
鳥は舞う 子どもは遊ぶ        
風は歌う ムクゲは微笑む       

海は人をつなぐ 海は人を隔てない 
優しい母のような 大きな海        
優しい母のような 大きな海 

ご清聴ありがとうございました。

配布資料 韓国船遭難救護記念碑案内パンフレット・泊イラストマップ

歌「海は人をつなぐ母の如し」

KAZUオリジナル曲集・音源案内(QRコード)

※表記について

 本文の中に「韓国船」「朝鮮人」等が混在しています。

 1900年の遭難救護当時、朝鮮半島は「大韓帝国」という国名でした。

船は「韓国船」という表記です。乗船者は「朝鮮人」がほとんどでしたので、文書の記録通りの表記にしています。

グローバル・セッションスタート

亀田さんをコーディネーターに、これからGlobal Sessionのセッションが始ります。

亀田さん:どうぞ、ご意見や質問があれば、お話しください。

K・Kさん:50通の文書どこを通していたのですか。

大森さん:県を通して。当時は県令を通して国の方へ。

K・Kさん:問い合わせはどういうふうに。

大森さん:村長は郡の役場を通して県に文書を出すわけですね。報告書を出しました。他にも色々な書類があるんです。乗船者名、年齢、職業、聴書を全部提出。水難救護法に従って出すんです。しかし費用請求したけども全然返事がなかった。国は何にも答えていない。

K・Kさん:この遭難した船の出身はどこなんですか。ポハンですか?

大森さん:ポハンではありません。ウラジオストクでチャーターした船で朝鮮の明洲、吉州へ帰る船でした。沙浦(サッポ)という港に向かって出航しました。今北朝鮮がミサイル打ち上げているあたりですね。当時は、朝鮮は一つの国だったんです。大韓帝国だったので、その後日本の植民地になり、朝鮮戦争で二つに分かれているんです。帰国してからの記録も分からない。韓国のソウルに統一会館があるんですよ。将来的に統一したいと。北は5道の州があります。咸鏡北道は、遭難した人たちの帰る予定の州。咸鏡北道の知事はソウルにいるんですよ。ソウルに知事を置いて将来の統一を見通した政策として取りくんでいます。

亀田さん:記録は多分あるんですよね

大森さん:多分、伝承で話をしていると思うんです。儒教の国ですから、ハートはあると思うんです。

Y・Hさん:泊は小浜の港とどれくらい離れているんですか。

大森さん:大体12キロぐらいですね。小浜は昔は「小浜の津」って言いました。

大津も津ですね。大きな港は「津」といいます。泊は、船が湾に入ってきた時、錨を打ってそこで手続きしたり税金払ったりする道の駅の役割をしたようです。

児嶋きよみ:ハングルで歌われましたが、歌のハングル表記はあるのですか?今歌われているのは一部ですか? 実は私、ハングルを今勉強しているんですが、石碑の文字はちゃんと分かります。続きがあったら教えて欲しい。

大森さん:ハングルの歌は、文字ではなく、僕の頭の中にしかないのです。実は8番までハングルで歌っています。2005年、日韓交流で韓国の保寧文化会館で歌わせていただく予定だったのですが、竹島問題で日韓友情年の行事がドタキャンになったんです。しかし、訪韓しました。日本語はダメだから、ハングルで全部歌えるようにと、10日間かかって練習したんですよ。日本にいる在日の歌手に教えてもらって。だから今は歌えるんです。

S・Fさん:1910年に併合があったんですよね。10年後に、そういう状況の中で結構日本側は厳しいと言うか、そういう教育をしていたと思うんですけど、でも、いろんなものを全然意に返さず人命救助です。泊の方々の心っていうのは、ちょっとこう日本から浮いてたような。その当時の日本からは浮いていたような世界、夢の世界みたいな気がするんですけど。

大森さん:ありがとうございます。それは国レベルの感覚と民衆レベルの感覚の違いがあるんです。私は今、漁師をしていますが、一番いつも気につけているのは風ですね。いつ、どこから風が吹いて、自分がもし遭難するかもしれないということを覚悟で海に行くわけです。うちの父親も一回遭難をして、捜索に行ってなんとか岩の上に上がって居て助かったことがあります。近所でも遭難で亡くなった方が結構います。海で遭難すると、みんな仕事を辞めて、ずっと遺体が上がるまで捜索するんです。海は全部ボランティアです。だから、遭難船が着いた村の人たちは、もう今まで、海の人たちは、困っていたら外国の人であろうが、どこであろうが、もう助けるのが当たり前なんですよね。海民の精神文化というか、スピリチュアルなところです。助けるのは当たり前なんですよ。海で出会った、お互いに命を持った人たちがね。それと、国レベルの感覚とは、ずれていますね。だから、私はこの話を伝えたいと思って。国レベルで、ニュースで、どんどんどんどんいろんなことが進行していくんですけども、でも民衆は違うよと。

亀田さん:現場で出会った人はもっと違う。そんなんじゃないっていうことを伝えたいなと思って。和歌山のトルコの船を助けた話。あれも、結構、今も続いていて、そのままトルコ国民に結構伝わっているそうなんです。

大森さん:ヨーロッパの話はすごいメジャーになって、みんながワーッとして映画にもなるんです。ところが韓国とか中国とかアジアの国々との関係はなぜかそういうことを言わずに隠蔽されるんです。それが問題だと思います。なぜなのでしょうね。

児嶋きよみ:この話は現在の話なんですけど、私たちは去年の8月末からしばらくトルコに行ったんです。トルコの日本語で案内をする人が、「僕たちの祖先はモンゴルです。」と、しっかり言われ、「トルコっていうのは、西と東の文化がバチンと一緒になったところだから、文化としては僕らの祖先はアジアです。だから日本人の人もアジアアのひとつと思っています。」と、まず言われました。
 もう一つは和歌山のトルコの人たちを救援したというのは国中に広がっています。それも教育されている。だから日本人に対してすごく丁寧で、金もらえるとか、そんなだけじゃなくて優しいんです。どの人もというようなので、トルコっていうのはヨーロッパっていうふうにあまり見ないで、どうも東西文化が、ぶち当たったところであると見た方が、多分正しい。ヨーロッパの人たちと、トルコはちょっと違うというのを感じました。この話を伺って、和歌山でトルコ人々の遭難を助けたというお話は、やっぱり、今言われるように人のレベル、草の根のレベルの考え方と国の政治の考え方が違うと言う点が、非常に重要だと思うんです。国がやっぱり教育とかで相手の国に対するイメージだとかそういうのを作ってしまっているという部分が多分ありますね。だから、なかなか難しい問題ですけど、民衆レベルとの交流というのを続けていくというのは、結果は分かりませんが、非常に重要な部分じゃないかというようにお話をいただいて考えました。

F・Tさん:ちょっと違うことですが、タコですね。小浜のタコといろいろタコがある。沖縄のタコシマタコ?

大森さん:小浜はマダコですね。マダコとミズダコ、ミズダコは大きい2メートルとか大きいのがあるんですけど、僕が獲っているタコは、マダコです。このぐらいの大きさ(頭が握りこぶしくらい)のタコですね。でかいのから、小さいのからいろいろありますけど、小さいのは逃します。マダコはミズダコよりも美味しいです。

M・Tさん:あの逆さ地図、ああいう風に見るっていう対比はすごく教えられました。
すごくいい考え方だなって。私一度20年くらい前なんですけど、アメリカからシベリアに行ったことがあるんですよ。飛行機ですけど、その時に乗っていた人たちも半分は朝鮮人、走っている車がね。みんな日本から来た買った車なんですよね。色々と聞くだけではなくて、見て、いろいろな動きをすごく感じました。

大森さん:渤海船が敦賀や新潟に来ていた歴史もありますね。この遭難救護の事件の海はそういうルートを想像するような話ですね。北西の風がこう吹いていて、対馬暖流が流れていますので、若狭湾には入りやすかったんですよ。

児嶋きよみ:アメリカなんかから、最初の頃に来た船なんかも最初太平洋から来たんじゃなくて九州のこっちの方から入って来て、その後、日本政府がいくつかの港を開けましたよね。そこに函館もあれば、新潟とかもある。だから日本海から入っているという歴史があるんです。

大森さん:やっぱり陸をたどりながら行くと、安心感がありますね。特に動力船じゃない。
帆船の時代はまさにですね。函館から小さい船で上海へ行ったんです。その船は今でも函館に行った時に飾ってありました。

M・Tさん:あの舞鶴とかで、戦後、朝鮮人を朝鮮半島に返す時に船の事故がありましたね。どんな人が亡くなったんですか?

大森さん:浮島丸事件ですね。舞鶴の港の中で謎の爆発。たくさんの方が亡くなるんですね。慰霊碑も建立されています。京都国際学園という学校があって、高校野球で活躍していて、甲子園にも出てますよね。この学校が生徒の研修旅行でよく来てくれるんですよ。それまでは舞鶴へ行って、浮島丸慰霊碑を見学し、帰るコースになっていたんですけど、舞鶴と泊のコースになったんです。暗と明の話、両方を生徒達たちに体験させたいというのです。もう5、6回いらっしゃいましたね。

Y・Hさん:ちょっと変な質問かもしれませんが、書には詳しくないですが、先ほど石碑に刻まれている字がございますね。それをお書きになったのはどなたですか。

大森さん:いとこで同じ村に住んでいる岸本一筆です。これはお酒のラベルに書いてもらった書です。

Z・Yさん:話を聞かせていただいて、とても感動しました。本当に国のレベルと民間のレベルがずれがあるということがわかりますね。違うということは、私もよく感じていました。日本と韓国とか中国とかだけじゃなくて、私も2013年の4月にピースボートに乗って世界中を周りました。いろんな国に行ったら、本当に、民間の交流ということがあり、特にコミュニケーションは、すごく大事だなと思いました。日本でも、国際的なコミュニケーションが、すごく大事だなと思いました。国のニュースだけではなくて。民間交流をできてない人たち、例えば日本人や、中国人も韓国人の中で、その国以外の、どこにも行ったことない人たちは、国レベルのニュースばかり見ていたら、外で会った人たちの考えとは、全然違うんじゃないかなと思いました。ありがとうございました。歌も感動しました。もしあれば買いたいです。本当です。

大森さん:さっきの(名刺)QRコードで無料でお聴きいただけます。

Z・Yさん:本当にありがたくて、学校でも子どもたちにこういう話聞かせていただきたいと思いました。

K・Nさん:ひいおじいさんが第1発見者ですか。ひいおじいさんは、すごいたくさんの命を助けられた本人だと思うんですけど、どういう人やったのかなとか、どうされたのかなと聞きたいです。

大森さん:そのおじいさん(曾祖父 宮城長太夫)が米寿の時に僕がおまんじゅう配ったのを覚えています。それしか覚えてないんですよ。そのおじいさんから遭難救護の話は聞いてないのです。今いたら、いっぱい聞きたいなと思って残念です。

S・Fさん:表彰とかはもらわれなかったのですね。普通渡しますよね。第1号ですよね。

大森さん:助けるのは当たり前ですから、しかも国同士がそういう関係で、なんとかその人たちは帰ったけども、その後の消息はわかりませんし、水難救護法が明治32年にできたので、それの第1号の事件がこれだったんですよ。

K・Kさん:国は無視したんですよね。

大森さん:そうです。お金を請求したんですけれど。

M・Tさん:それについて触れていなかったことにして、交流を開いたんでしょうかね。その交流の歴史は、オバマ大統領に送りましたが、奥さんのミシェル、オバマさんが、そういう風な本を出しているそうです。ミシェルに興味を持つ人に出しています。

大森さん:じゃあ、帰ったら電話してみます(笑)玉野井先生のルートがあるんですか?。

K・Kさん:これはエスペラントにはなったんですけども、英語にはなっていない。エスペラント語には、誰がされたんですか。

大森さん:エスペラント協会主催の全国エスペラント大会が小浜であったのです。その時に記念にこの絵本をエスペラント訳にしたものも作りました。

K・Kさん:私は、エスペラントで韓国と交流しています。毎年1年ごとに家から向こうに行ってエスペラントで喋る。向こうから家に来て日本に来ています。今は、東アジア問題がありますけどね。政治的なことを抜いて文化交流ですね。そういうところから広げていかないと国は動かないと思います。

大森さん:小浜水産高校や、南ソウル大学のと今後もつながっていく活動です。政治的なことを抜いて行える活動だと思います。韓国の南ソウル大学にしても草の根ですよね。国のレベルでの動きじゃなくて、民間の動きなんですよね。

児嶋きよみ:私は、一番最初に外国語を勉強したのは中国語なんですよ。大学の頃から中国語をやっていて。文化というのは今の地図でもありますけど、朝鮮半島を通して船でやってきたみたいなのが歴史的に多いというのに気がついて、ハングルをやらないといけないなと思い、ずっと勉強しているんですけど、なかなか話す機会がないとうまくならないです。でも今の歌やったら、ゆっくり歌われるし、わかるのです。やっててよかったと思いました。

K・Kさん:カラオケで結構K-POPはカラオケで、字幕で出るんですよ。僕らも稽古しているんですけど、向こうにいた時にね。やっぱりカラオケに行った時に向こうの言葉で歌うと喜ぶんですよね。難しいハングルは難しいですが。

児嶋きよみ:ハングルというのは並び方とかは、確実に日本語と似ているんですよ。もう中国語なんかは英語と同じようですから。

大森さん:日本語は韓国の東の方言だって韓国で聞きました。これは富山県が出している逆さ地図なんですよ。富山は韓国と交流が深いのです。というのは富山(フサン)は釜山(フサン)です。鳥取(トットリ)というのはハングルでどんぐりという意味なんです。笑い話ですけど、富山の空港で福井の越前の方から来たおじいさんが「うらぁほんでのぉ」って言ってたんですよ。越前弁は韓国語と似て語尾が上がるのです。おじさんは空港で韓国の方のゲートに連れて行かれたのです。「うらぁちゃんでのぉ」(ちがう)(笑)

児嶋きよみ:特に福井の方言っていうのは、私は福井出身なんですが、能登半島の地震のときに話される言葉つかいでも出てるなと思っていたのですが、「何年でぇぇぇ、何年越えてぇぇぇ、」と伸ばすのです。」ハングルに似てるんですよ。(笑)

大森さん:朝鮮半島から海流(津島暖流)に乗れば自然に越前に着くんです。西から津島暖流、北からはリマン海流が来てますね。ぶつかるところが若狭湾。入りやすくなってますよね。北海道からね。飛行機に乗って関空へ帰るとき、若狭の上空を通るんですよ。北海道から東北、北陸の海岸は、のっぺらで、若狭湾に来るとここだけヒダのようなリアス式海岸になっている。海から来る人にとって入りやすいのですね。

朝鮮半島から日本の上を渡って来るとき、一番最初に見える白い山は鳥取の大山。この白い山を目印にするのです。だから大山は白山(ペクサン 神の山)って言うんです。北陸の白山、立山も白山(ペクサン 神の山)この山を見て入って渡ってきたそうです。日本海側に白山神社がいっぱいあります。

S・Fさん:この地図はどこで売っているのですか?

大森さん:富山県で買いました。富山県庁か富山県の国際交流室かどこかに電話してに問い合わせれば買えると思います。家にもいつもこの地図を大きく貼っていつも見ています。

E・Tさん:質問じゃなくて感想ですが、ありがとうございました。困った人がいたら助けるのは当たり前。まあそうなんですけど、いざその自分が、例えば助ける側になった時にどんな行動ができるかとか、どこに動いたらいいかとか、いざその状況になった時に、自分に何ができるのかなっていうのをずっと考えながら今回聴いていました。

大森さん:多分、海の人は一人で身体が動くのだと思います。知床の観光船の遭難から今年は、2年目なんですよね。あのニュースを見た時も本当に我が事のように思いました。海に出ていると、いつ自分がそういう目に合うか分かりませんし、遭難して助けてもらうのかもしれないし。だから僕はいつも漁に行く時、船とすれ違う時には、知らない船にでも、こうやって手を挙げると、向こうも手を挙げてくれるのです。お互いを確認しているのだと思います。

亀田さん:私も海じゃないんですけれど、山が結構好きだから山へ行き、ニュージーランドで遭難しました。森の中で寝て、自力で3日目に降りてきましたが。多分、その時一人だったらよかったんですが。たくさんやったら大変だったと思います。要するに、夏が終わって次の季節になる時でした。それと、そんなに高くなくて2000mくらいのところでした。自分自身が寒さに強いので低酸素にはならないんです。寝ても寒さに強いのです。その時、雨とか降らず、また、ニュージランドは、クマとかヘビとかキツネとかいないのです。その時は食べるものもほとんどなかったんですけれど、今までの山に行った経験があったからでしょうか。一応レスキューは動いてたんですけれど、警察から、30人くらいが、ヘリコプターなどで。向こうは日本と違ってボランティアなんです。だからあとで、お金はいらないんですね。

 救助の人がどうとか、スイスとかでも保険をかけておくと、ヘリコプターとか無料で動いてくれるようです。あれは自分でも、いい経験でした。怪我一つなかったということで。海じゃないんですけど、山でもやっぱり一緒ですね。いつも山に登るときは、朝起きて雲を見るんですね。だいたいこの雲がどれくらいでかかってくるかという。今日雨とかやっぱり風とか。あとは人とね、出会った人と。助けていただけるかもしれないと思う事は、大事なことという実感をしました。

 知床大橋なども、あの辺は若い時は行ったことがあって、3月頃になると流氷が出てきますね。子どもさんが、何してるか言うと、割れたやつで乗って遊んでるんですね。でも昔はそんな気にしなかった。流氷の網走の港へ行くと、救難とか無線とかありますが、あの事件は、ちょっと非常識じゃないかなと思います。

 4、5年前、大雪山でガイドが2人ついてるのに、天候が悪いのに下山させて低体温症になったり、あれもやっぱりその会社のガイドが常識がない。特に外国の場合は山のガイドさんは厳しい。その例として、マッタホルンという山がありますよね。いつも、ガイドは、先にチェックします。この人は行けるの?と。そうしないと自分の命まで関わるので。下山に関しては甘いところはあるかなと思いますね。暗い話ばかりしてすみません。

H・Mさん:私はさっきのニュージーランドで、初めて韓国の人たちと話すことができたんですけど、20年くらい前、ニュージーランドにちょっと語学留学した時に韓国の人たちと話しました。20年前は、大学生とか大学を卒業したばかりの人たちが、「韓国のことを知らないのは当たり前で、なぜなら日本政府が」ってすぐ始まるんですよね。そういう風に初めて出会った人たちが、日本に対しての教育をされているということにすごくびっくりしました。私たちは、「韓国は」という教育を受けていないから、その差があると思います。教育を受けた上で、個人としての私に対しては何も思わないのですが、ただ日本政府に対しては不満を持っているという話を何回も聞くようになったんですね。10年くらい前に、私がソウルに行った時には、みんなすごく親切な人ばっかりで、地下鉄の乗り換えの時とかも、どっちで乗り換えかなって思っていると、途端に誰かが声をかけてくれるみたいな。

 国と国と、個人と個人の差は本当にあるな思います。ある日、ウォーキングで、日本人も来てるのを分かっている韓国の人が「竹島は韓国のだ」と背中に書いて歩いている人がいました。「人は様々だな」って思いましたね。

 竹島の問題も日本はそんなに話題にしないですよね。ただ、ウォーキングの時にそういうTシャツを着て、わざわざ日本人に見えるように着ている人がいるっていうのも事実なんだなっていうのは思いました。ありがとうございます。

T・Kさん:ガレリアで退職後の2年間ほど、市民大学の事務局をやったんですが、その時の市民大学の学長というのは京大の名誉教授の上田正昭さんですね。あの方はすごく高名な学者だったのですが、文化勲章はもらっていません。あの人は平成天皇から、たびたび呼ばれてお話を聞かれるんですけれども、上田正昭さんの話は基本的には朝鮮以来の日本の歴史を非常に詳しく研究しておられて、平成天皇におっしゃったのは、「天皇家も朝鮮ルーツなんですね。」と発言されていますね。あれが大ごとになりました。「そんなことを教えているのが上田正昭だ」ということになって、特に安倍さんにはかなり嫌われて、学者としては立派な業績を残しているのに、横にやられたという経緯があります。時々つぶやいておられましたが、朝鮮通信使の話になるとワーッと盛り上がって1時間でも2時間でも延々と続くとのです。そして最後に「本当にいい質問をしてくれて、嬉しい」というような話でした。それぐらい朝鮮半島って、亀岡の高齢者の頭の中に染み込んでますよね。

 日本というのは朝鮮を抜きにしては語れないし、政治的もあるということを今日の話を聞きながら思い出しました。上田正昭さんは、お亡くなりになりましたが、全然違う視点から、歴史をつくるといわれていたことを思い出しながら聞いていました。上田正昭さんのいい本もありますね。

亀田さん: 次のGSは、こちらの木村且哉さんがゲストです。何の話をするか、案内をお願いします。

木村且哉さん:フィリピンの子どもたちの支援活動についてお話しさせていただきますので、よろしくお願いいたします。

児嶋きよみ:今日はありがとうございました。また、大森さんに連絡をしたい方は、ご自身でメールアドレスとかしてください。皆さん、ありがとうございました。

亀田さん:ありがとうございました。

2024年3月24日(日)第373回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2024年3月24日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:張穎(ちょうえい)さん
コーディネーター:亀田博さん(ツアーガイド)
参加者:14名

 今回のタイトル:外国にルーツを持つ子どもたちとどのようにして関係を短縮できるか についてかんがえましょう

参加者自己紹介

亀田さん(コーディネーター):今回は373回目になります。1999年から開始し、以前は、月に2回か、3回やっていたこともありますが、現在は月に1回のベースでつづいています。ゲストも以前は、留学生とか、外国の方がほとんどだったのですが、最近はバラエティに富んだゲストで、ゲストメンバーも変化してきています。

 今回のゲストの張穎さんは、中国出身で、2月には、宇治市から亀岡市に引っ越しをして来られ、亀岡市民になられました。亀岡もいろいろな国の人が増えて来ていますが、ひまわり教室という外国にルーツを持つ子どもと保護者の学習支援教室を中心に、張穎さんに話していただきます。言語や宗教の課題もあり、難しいことが多いですが、いっしょに話をしていただきたいと思います。

 まず、自己紹介からお願いします。

W・Wさん:中国の大連出身で、22年前留学に来て、今京都で自分の観光会社を持っています。京都に住んでいます。

E・Tさん:島津製作所で働いています。ターボ分子ポンプの製造をしています。最近、会社で、発表会があり、努力賞をもらいました。その部門では、初めての受賞のようでとてもうれしかったです。この会も楽しい会で、だいぶん前から来ています。

K・Nさん:保津町在住です。昨日もイベントを保津浜テラスでやっていました。そこには、張さんも、児嶋さんも来られて、今日は、張さんの会もあるということで、ぜひ参加したいときました。

桂川孝裕さん:市長です。多文化共生も大きな課題です。人口減少社会でどこも人が足りないのですが、外国の人の力も借りていかなければならないと思います。以前、児嶋さんに、外国にルーツを持つ子どもたちの話を聞いた時に、張穎さんのような指導者の話も聞きました。ガレリアに多文化共生センターも設置し、課題を共に考えていきたいと思っています。外国につながる人たちと共に、亀岡市民も良かったと思えることをいっしょに考えていきたいと思っています。

M・Mさん:私は、もめん屋で、綿を加工して手作り木綿を作っています。先ほどの中野さんは、米やで、ポン菓子も作っておられます。今日は、中野さんの紹介できました。ポン菓子も無農薬で作っておられるので、とても人気がありますよ。張さんとは、亀岡市に引っ越しをして来られるときから手伝って、どんどん付き合いも拡がってきました。

M・Nさん:京都で「やさしい日本語を広める会」の仕事をしています。外国につながる方ともわかりやすい日本語で話し、どちらもこの地で生きやすい世の中にして「いきたいとやっています。これは、2年前に京都市上京区の助成金を得て、印刷した冊子です。保育・幼児教育に関わって居られる方へのアンケートの報告書です。また、別に薬局の方も外国の方達とよくコミュニケーションを取られるはずですが、どのような状況かをファイザーの資金でビデオ撮りしたもので、ホームページで見られます。外国から来た人もよく薬局で薬を買うはずですが、話は通じているかのアンケートの結果です。

R・Sさん:8年か、9年前に退職し、その後、ひまわり教室で学習支援をしています。今は、中国出身の双子姉妹やマレーシア出身の男子でどの子も中2ですが、張穎さんといっしょに、学習の支援をしています。

Y・Nさん:亀岡生まれで、亀岡育ちで小学校教員をしていて、退職後、ひまわり教室で指導をしています。ここでは、保護者のがんばる様子も見え、自分が教師の時にどれだけ子ども達を理解できていただろうかと反省もし、指導を続けています。

児嶋きよみ:このGlobal Sessionは、1999年に交流活動センターではじめ、2011年に退職後は、自分のNPOのOffice Com Juntoで続けていて、先ほど言われたように373回目になります。20年以上過ぎてしまったことに驚いています。

亀田博さん:大津市より来ています。以前は、亀岡にオクラホマ州立大学京都校(OSU-K)がありましたが、本校に学生を戻して以後も、学部の受け入れなどをしていましたね。OSUの造園建築学科のPaul Hsu 教授と学生が毎年Study Abroadプログラムで亀岡に来て、宿泊し、そのツアーガイドなどもしていました。一度だけですが、市民の方達とOSUを中心にしたツアーのガイドでみなさんと行った事があります。現在は、関西テレビで亀岡市の庭や店などを毎週紹介していますので、いちど見てください。4月には、ももクロも来ますね。コロナ禍もありましたが、先端大や、民際日本語学校への留学生もかなり亀岡に興味を持っています。W・Wさんとも、三千院に行ったり、介護の仕事をされている今日も参加されているインドネシア出身のNさんもいますね。

では、張穎さん。ご自身の紹介から始めて、お話しをお願いします。

張穎さん:私は、19年前に日本に来ました。日本で派遣社員通訳者として働いていて、中国に帰国した兄を訪ねて来た日本人の友達と知り合い、結婚して日本に住むようになったのです。夫とは、コンビニの経営を6年半ほどしたり、その後3ヶ月ほどの世界一周の船旅もしたことがあります。日本語の教え方を学び、日本語教師になって、日本語学校の派遣教師で、海外で、日本語を教えたりもしました。6年前、夫が病気で亡くなり、海外へ単身赴任ができなくなって、ずっと日本で仕事をしていました。2019年から、亀岡市の小学校で、外国人児童教育支援に入らせていただきました。学校が休みになると仕事が無くなったり、コロナ禍で中国にも帰国できない難しい日々が続いていたのですが、2023年9月から、市役所の教育委員会から外国につながる子どもたちの支援者として雇用していただき、本当に感謝しています。その前から、ひまわり教室で、ボランティアで中国語の必要な子どもの通訳をしていましたが。

 亀岡にいる外国人といっしょに仕事をしてきて、1年間に食べるご飯の中のひとつぶにでもなれたらと思います。今日は、外国にルーツを持つ子どもたちとどのように関係を短縮できるかをみなさんの意見を聞きたいと思います。

グローバル・セッションスタート

1.異文化の理解と多文化共生

異文化とは?

 どこまでを『異なる』とするかについては、宗教、風俗、人種の相違などで見られる事が多い。しかし、民族の単位で見たり、地域の単位、果ては家族の単位で見るため、一概には言えない。

 生活様式や社会習慣、ものの考え方などの異なる文化は異文化である。

多文化共生とは?

  • 異文化を知ること

 価値観や言語、習慣、行動様式など自分が親しんでいる文化と、 規範や営みの異なる文化は異文化である。

*世界の学校を知ろう。日本の学校とのちがいは?

登校のやり方

日本:登校班が組まれ、歩いて学校へ向かう

中国:小学生は、登下校は、親や祖父母が必ずつきそう。

アメリカ:スクールバスか、保護者が送り迎えをする。

年度のはじまり

マレーシア:1月~11月 生徒は一つの学校に500人~2000人、先生は、70人~120人、2学期制 前期1月~6月 後期7月~11月、休み4回 3月に1週間・5月に2週間・8月に1週間・11月に6週間

日本:4月~3月

アメリカ&中国:9月

義務教育

マレーシア:11年、幼稚園1~2年 小学校6年 中学校5年、大学予備教育:2年 その後、公立大学へ

小学校のタイプ

マレーシア:3種類 ①公立学校 ②宗教学校 ③中国系公立小学校or 私立小学校orインド系公立小学校

中国:多民族の学校・小数民族の学校がある

学校の決め方

マレーシア:公立小学校・・・中華系・マレー系・インド系がある。私立学校・・・イスラム系・中文・台湾系・アメリカ系・イギリス系・ドイツ系・インタナショナル系

*両親が決める

*小学校は、午前グループと午後グループの2制度

食堂 午前7:00から4:00頃まで開館(多くの子どもが学校で朝食)

 

亀岡ひまわり教室:多文化共生の場楽しいコミュニケーションができいろいろ気にせず、子どもが楽に学習できる場

2.異文化を体験する

2024年2月25日(日)餃子つくりパーティ  張穎さんの家でひまわり教室の子どもたちといっしょに、餃子の皮から制作中

張穎さん:最初は中学生の双子姉妹がひまわり教室に来始めたときは、「行きたくない」とよく言っていました。でも、成長して今は中学2年で、2年が終わりましたが、楽しみで、「がんばります」と言って学んでいます。この間の餃子パーティの時は、野菜の切り方も教え、「手を切ったら、自分の責任よ」というと、ていねいにどの子も切っていました。餃子の皮も作ることから始めました。

 民際日本語学校で教えて居たときは、40カ国以上の留学生が来て居て、それそれの国料理を教えてくれました。

 ひまわり教室は子どもたちが中心なので、最初は子ども達とどう付き合うのかがわかりませんでした。

R・Sさん:外国にルーツを持つ子達と接するためには、自分自身の観点がないと、何がこの子達に今、必要なのかが見えてこないと思いました。千代川小学校の校長をしていましたが、当時、中国出身のお母さんとメキシコ出身のお母さんがいる子達が来ていました。友達との関係を見ていると、「やはり少し浮いているな」と思い、距離の取り方もよく見ていると見えて来ます。家で子ども同士がもめると、お母さんがものすごく怒るとか、いろいろありました。外国につながる子どもと言ってもいろいろな違いがあるので、どうしたらいいのかを知りたいと思っていました。

 その時の思いもあって、退職後、ひまわり教室でやり始めました。ここでは、学ぶことが多いと思います。子どもたちも泣いたり、笑ったりいろいろありますが、8年、9年たつと学校も変わってきました。

 大成中には、2年生に3人外国につながる子どもたちがいますが、新年になって中国の祝い方とセットとして発表などの取り組みをしたようです。中国では、小学生から、中国の漢詩を300首ほど暗記をすることを学んでいるようで、日本の古典と合せて両方の詩を暗唱する会をしたそうです。学校の中での中国の文化の位置付けをされている取り組みでしょう。

K・Yさん:日本語教室のボランティア指導者をしています。停年退職後も千代川小学校で常勤講師や非常勤講師をしています。ひまわり教室では、同じような外国につながりのある子どもたちがいて、仲間ができて楽しいようですね。千代川小には現在6人の外国につながりの在る子がいますが、中国人が2名とマレーシアやフィリピン、フランスにつながりがある子もいます。ひまわり教室に来ると、親同士のつながりもできてきて、いっしょに、どこかに出かけることもあるようです。マレーシアからの兄妹の妹は4年生ですが、英語と中国語ができます。でも、教室の先生の日本語の話がわからないとタブレット(グーグル翻訳)を使い始めました。張穎先生がいらっしゃるので、保護者とのやりとり(行事について・持ち物・教材費等)も助かっています。

 千代川小学校では、中国人の子のお母さんが、ゲストティーチャーとして来られ、息子さんの学年の子どもたちに、中国の文化や学校の話をしてくださいました。息子であるK君は、とてもうれしそうにしていました。

E・Tさん:マレーシアの学校の話ですが、「両親が子どもの学校を決める」と言われていましたが、それはどういう意味ですか?もし、両親と子どもの意見がちがう場合はどうするのでしょうか?

張穎さん:両親が相談をして、子どもはまだ知っている経験が不足していると考え、親が決めますね。小学校は義務教育ですが、大学も大体親が決めます。

Nさん(インドネシア出身:亀岡市内で介護士):先ほどひまわり教室で「宿題を見てあげる」内容といわれましたが、子ども同士の友達を作るなどの人間関係はどうされていますか?

K・Yさん:千代川小学校では、年間10ほどの外国人ゲストを招待して、お話しを聞いています。ひまわり教室に来ているシリアの子のお父さんのサフィさんにんも来てもらい、シリアという外国の文化を聞く機会を持ちました。たくさんの外国人ゲストに来ていただき、外国に理解を深める機会としています。マレーシアのあかねちゃんは、最初は日本語でのコミュニケーションはできなかったのですが、タブレットを使って、話し合いもでき、3月には、学年のみんなに日本語でスピーチすることもできました。

張穎さん:このような取り組みをしたあとで、「これ、中国語で何というの?教えて。」などと聞かれるようになりました。普通の子どもたちが外国につながりがある子達となかよくなりたいと思っているのだと感じました。

K・Yさん:中学校ではどうですか?

張穎さん:大成中学校には、H君という中2の子がいますが、日本生まれで4歳でお母さんの国のマレーシアへ行き、この夏に日本に帰国してきました。日本語での話し合いはできるのですが、読み書きはできません。同じく中国人の双子姉妹もいます。彼らも個性的ですが、最近は、さびしい時は、自分から話しかけてくることもあり、かなり安定しています。

R・Sさん:この子たちは、最初にひまわり教室に参加したとき、3年前から日本にきていたのに、全く日本語が通じませんでした。かっとなったら、泣いたり、男の子にかみついたりして、その子が泣いたりしたこともあるようです。最初は、「どうしようか?」と思っていましたが、日本語力がついて来ると、周りとの関係が変わってきました。この2年間に大分変わりました。

亀田さん(コーディネーター):この間の餃子作りパーティーの時も、中心になってやっていましたね。

児嶋:ひまわり教室も2014年に2人の子どもさんとそのお母さん達と始めましたが、今は10年目になりますが、いいことばかりではありませんでした。外国人のお母さんたちが、いろいろ教えてもらいたいこともありますが、関わりすぎるのもいやと思う人もいて、離れて行く人もありました。子どもが来たいと思っても忙しいという理由で来なくなった子もいます。それと、毎回レポートを指導者に書いてもらっているので、   次回に休んでも、どのような指導をされたかは、その人も頭に入れて参加してもらっています。

桂川さん:ひまわり教室のような教室は必要だと思いますね。いろいろ聞かせてもらっていますが。

Y・Nさん:千代川小学校で教員をして居たときは、特別支援教室や、生活指導などを担当していました。子どもさんの保護者との連絡は、連絡張におもに書いてもらっていました。ひまわり教室は、指導者としても、わかりやすいと思います。こころを開いてもらわなければならないので。

Mさん:話を聞いてみようとGlobal Sessionに参加しています。京都市での話ですが、フィリピン出身の学生がいて、この子の父親は日本人で、母親はフィリピン人でタガログ語が母語です。この子は日本国籍を持ち、最初はフィリピン出身とは思わなかったのです。英語が話せますが、ずっと傷ついてきたそうで、試験無しでいける大学に入学し、やっとついていけるようになったと聞きました。友達がいろいろ助けてくれたそうですが、このような子達をすくい上げる必要があるなと思います。

Y・Nさん:まわりの問題もありますね。つながりが必要という意識があるかないかも関係がありますね。家の人が子どもについて日本語で表現できるかどうかも関係しhますね。課題が大きいです。

児嶋:以前、双子姉妹のお母さんが、学校ともめた時に「もう転校させようか」と言っていたと聞いたことがあります。私は、埼玉県で3度も転校したことを聞いていたので、「この学校を転校して、よそがもっといいはずがない。」と張穎さんに頼んで言ってもらいました。その後は落ち着いたと聞いていますが、転校しなくて良かったとほっとしました。

桂川さん:聞かせてもらっていろいろな課題があるなあと思いました。直接には教育委員会が担当ですが。私への情報としてはワンクッションありますね。でも、どこにどれだけの、外国につながる子どもたちが在校しているかの実態調査はしていて、対象となる家庭に対して方法を考えて行きたいと思います。大成中などは体験型で中国などの文化を知ることをやっておられるようですね。

張穎さん:今日は、いろいろ聞かせていただきありがとうございました。

亀田さん:では、今日のGlobal Sessionは終わりにしましょう。ありがとうございました。

2024年2月25日(日)第372回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2024年2月25日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室&オンライン
ゲストスピーカー:濱田雅子さん(元武庫川女子大学教授、アメリカ服飾社会史研究会 会長)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:8名(うちオンラインでの参加2名)
主催:オフィス・コン・ジュント&亀岡国際交流協会
共催:アメリカ服飾社会史研究会

 今回のタイトル:「1920年代アメリカの服飾史」

セッション終了後のレポート

2024年1月27日(日)第371回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2024年1月27日(日)10:30~12:20
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:吉村静(しずか)さん:亀岡市在住、マイセン・ロバート・ルイスさんは、まだカナダに(1月末帰国予定)
コーディネーター:亀田博さん(ツアーガイド)
参加者:11名

 今回のタイトル:「自分の変化を受け入れて生きる」

吉村静さんのお知らせ版より

「2014年からカナダに7年、ニュージーランドに1年住み、世界のいろんなところを旅する中で、自分の中に変化がありました。

様々なバックグラウンドの人たちに出会ったことで、世界の見え方が変わり、自分の見たいものだけを見る世界から、批判的な思考も持つようになりました。

生きる上で大事にしたいことをなるべく守りながら、それでも世界に自分の心を開いておきたい、そう思うようになりました。

海外だけでなく、日本では新潟、京都、東京の3カ所に住みました。流動的に移動しながら遊牧民のように生きることで、自分の変化を受け入れることが様々な社会や環境の変化に順応していく鍵になると思っています。

私たちは水のように、雪や氷、はたまた蒸気になって形を変えながら常に移動していきます。私はそんなイメージを常に抱きながら生きています。自分という枠にとらわれずに、新しい世界へ順応していく。そんなお話をできたらいいなと考えています。」

自己紹介

亀田さん(コーディネーター):夫のルイスさんは、まだ帰国されていなくて、3月13日のグローバルカフェには来られます。今日は吉村静さんの「自分の変化を受けれて生きる」というタイトルでセッションをしていきましょう。まず、自己紹介からどうぞ。

S・Fさん:去年から、日本語教室の指導と民生委員をやっています。何をやるにも遅すぎることはないということをいいわけにいろいろやっております。

E・Tさん:京北町に住んでいます。今年に入って初めてのGlobal Sessionです。

N・Kさん:教師をしていましたが、退職後、ひまわり教室の指導などをしています。いろいろ知って世界が拡がると思えるようになって来たので、いろいろ知りたいと思います。

R・Sさん:小学校の教員をしてきました。退職してもう8年にもなります。ひまわり教室では、中国から来ている子どもたちの学習支援をしています。いろいろな所を見て来られた静さんのお話しを聞きたいと思い参加しました。

児嶋 R・Sさんは、昨日ベトナムから帰って来られましたよ。

R・Sさん:ベトナムのホーチミン市では、32度で、帰国した大阪は2度でした。20度の差がありました。

Z・Yさん:中国出身で、19年前に日本に来ました。いろいろ日本でも仕事をしましたが、今は、亀岡市の教育委員会で、外国につながる子どもたちの学習を支援する仕事をしています。ひまわり教室でも、子ども達と楽しく勉強しています。

亀田さん:今日の京都新聞に掲載された記事の、ここに立っている人がZ・Yさんです。

Z・Yさん:学校の子どもたちに中国語の講師をしています。2月1日から亀岡市民になります。篠町に住みます。

S・Fさん:うちと近いですね。

Y・Hさん: 亀岡国際交流協会の会員で、いろいろなイベントに参加しています。先日児嶋さんから声を掛けられて、それ以来、Global Sessionに参加しています。年をとっても視野を広げたいと参加しています。

児嶋: このGlobal Sessionは私は交流活動センターに勤務して居た1999年からはじめて、今回は371回目になります。大体毎月やってきたので、もう20年を超えていますね。

亀田さん:大津でツアーガイドをしています。亀岡市民ではありません。

ルイスさんも来られるかとエストニア語も勉強してきました。テレファンミクスト:こんにちは

ククダスラフェ:お元気ですか?

ハスティ:元気です。

メデトウトタ:はじめまして

ミルニオン ひろ:私の名前はひろです。

マイラン大津:大津に住んでいます。

アイダ:ありがとう

ロシア語の影響が多いと思いますが。

吉村さん:「テレ」というのを覚えています。こんにちはですね。

グローバル・セッション開始

亀田さん:では、吉村さんの自己紹介からセッションを始めていきましょう。

今日のタイトルで、「自分の変化を受け入れて生きる」としましたが、今カナダから日本に帰国して自分の変化を感じています。その項目としては、

  1. 変化はどういう時にしているか?
  2. 小さな抵抗も大切
  3. 心をオープンにすることも大切である
  4. 世界平和のために

 私は、新潟県の長岡生まれです。山登りが好きで、カナダに行く前は、「ランナーズ」の編集者をしていて、大阪や東京にいました。大学は京都芸術大学でした。やりがいのある仕事だと思い続けていましたが、満員電車に耐えられなくて、1時間ほど走って職場まで通ったこともあります。日本で無い所で何かをさぐりたいとまず、バンクーバーに行きました。バンクーバーにいたころ、今から10年ほど前にルイスと出会いました。ルイスはテキサス生まれの男性でしたが、大学時代にカナダに行き、セレモニーなどをやると、カナダの国籍がもらえました。彼は、アメリカとカナダの国籍を持っています。バンクーバーには、エストニアからの留学生がたくさん住んでいましたが、旧ソビエト時代のできごともユーモアで跳ね返すような人々でした。ルイスの祖父母はエストニア人で第二次世界大戦でアメリカに難民としてやってきました。ルイスも5年ほど前に祖父母のおかげでエストニアの市民権を取得したので、全部で3カ国の国籍を持っています。

 私は、新潟出身なので、「雪・氷」がテーマでいろいろやっています。ふるさととのつながりは大切な要素なので、7年間カナダに住んでいましたが、家族が元気なうちに日本へ帰りたいと思って帰ってきました。

 カナダのドーソンシティと言うところに住んでいて、冬はマイナス52度くらいになるものすごく寒い所です。北極圏に近いので冬は2:30ころに日没になります。あまり動けないので、10キロほど太り、シーズン鬱になるひとも多いです。

「自分のアート活動はどう変わるか?」自分の変化を受け入れることで、世界平和につながると思っています。

 育った新潟などでは、みんながサポートをしてくれて、生きやすさにつながっていたのだと思います。紛争の無い国にいてもそれができない人もいて、自殺者も多いです。

 質問タイムとしてみなさんにお聞きしてもいいですか?

 「自分が変わったと思ったことは何かありますか?」

Z・Yさん:若い時は、きれいな洋服を着て、おいしい食べ物を食べてお金ばかり使っていました。

 仕事をし始めて、年齢も増えると、考えが変わってきて、父母はだまって子どもにお金を使わせていたのだと気づきました。自分もがんばって学ばなければと思うようになりました。知っていることもほんの少しで、服なんかどうでもいいとも思うようになりました。

N・Kさん:小学校で38年間教師をしてきました。60才まで目の前にいた子どもたちに一生懸命で、繰り返していましたが、やめてから気付いたのは、私は学校の中だけにいたのだと言うことです。途中でなぜかしんどくなって、どこかに行きたくなりました。東京の娘をたずねるといことにして、2日間ほど年休を取り、一人旅に出ました。東京には平日なのにたくさんの人がいて、自由の職業も選んでいるみたいなどと思って帰ってきました。

 その後、児嶋さんは、教師時代からの知り合いですが、いろいろ紹介してもらって、いろいろな事が見えて来ました。第2の人生は明るいかもと思っています。

吉村さん:今までいたその場所を離れるとわかることがありますね。私も職場を離れ、日本を離れると、グループからも離れることになったようです。日本では、集合体にいると、グループでがんばることが求められ、個人の意見はあまり求められませんね。

 でも、カナダでは、「静はどう思う?」「あなたの意見は?」英語では、

 「What do you think?」ですが、「あなたの事を攻撃しているのではなく、意見を求めているだけです」と言われるのです。

 カナダには、いろいろな人が住んでいて、知らないこともお互いに多いので、知っていることや、できることを共有することが楽しいと思うようになりました。

 Critical thinking(批判的思考)も大切だと思います。自分の考えを批判的に見ることは時に自分の価値観の中の大切な物は何かということをぐらぐらさせます。インド人の先生で、「言語だけを学ぶよりも多角的にものごとを見ること」が大切と言われたことがあります。それからは、放っておかずにひとりひとりと話していこうと思うようになりました。

 カナダでもガーデニングが好きでやっていました。毎日変わるのでおもしろいのです。心を開けば変わるのかもと思います。カナダに居たときにはじゃがいもの根っこを見ても成長を感じていました。カナダに7年いると、日本に帰国したくなりました。リバースカルチャーと言えるかもしれません。日本にいたときには、人間関係に苦しんだこともありますが、カナダの友人には小さないやな事があっても、抵抗していくことも大事だよ、と言われてから次はひとこと言ってみようと思うようになりました。変わるためには抵抗する事も大切なのでしょうね。

 亀岡の「みずのき」の友人が、「自分が心地いいと言う場所も、良くないと思う場所もどちらも大事だ」と言うのです。それは、自分の人生を変えることにつながるかもしれないと。

 ひまわり教室などでも、出会えて変化することもあるし、自分の変化も教えてもらえることもありますね。

 ガンジーは、「あなたが見た変化に自分がなりなさい」と言っています。

 日本にいたときに会社の社長さんが、「女性は30才までに何かを仕上げておかないと難しいよ」と言ったことがあります。

 私は、それに対していやになり、やめました。自分が何ができるかを考え、行動してみることが大切であり、そのためには、自分の考えを言ってみて、社会との関係を考えることが大切と思います。何か感じた自分の違和感を無視しないことが大切だろうと。

 カナダでも考え過ぎた時期もありましたが、友人は「もっと気楽でいいよ」と言ってくれました。みんなも変わって来ていて、昔とはちがうかもしれません。今自分が見えて居るその人を信じることが大切で、自分の価値観を話せば、ちがいを越えられるのではないかと思います。

 ルイスは、テキサス出身で、宗教の囲い込みの強い地域ですが、カナダではオープンになってきて、互いの違いを乗り越えられています。日本で最近、ツアーガイドをしたときに「とてもオープンですね」と言われてうれしかったです。少しずつの変化を認めてもらうと生きやすくなり、しだいに心を開いていくのではないでしょうか?

 カナダで、最近行ったジュエリーショップの若い娘さんの店員さんが、体毛も剃っていなかったのですが、とてもフランクで驚きました。カナダには、意見のちがいはあるけれど共存できる喜びがあると思います。

 それと、学びが大事でいろいろな考えに触れることが大切です。それに加えて、ちがいを受け入れ、ちがいに対して抵抗も大切と思います。自分自身の変化がまわりを変えるきっかけにもなるので。ひとりひとりのパワーがあり、それぞれが影響しあうことで、平和につながるとも思います。小さいことからはじめようと思って、今年はブログを始めたいと思っています。

 先ほど言いましたように、私はアートをするときは、「水・氷」がテーマですが、水自身は変わらないのですが、環境によってその他のものは、形を変えていきます。

 人の話を聞いて、自分の考えをもう一度考えるというスタイルを持っています。

 みなさんのご意見をお聞かせくださいませ。

K・Yさん:日本語教室で、ルイスさんを教えていますが、明るくてとても楽しいです。

亀田さん:E・Yさんの自己紹介もどうぞ。

E・Yさん:吉村さんに誘われて参加しています。よろしくお願いします。

児嶋:私は、意見を誰に対しても言えないことはないですが、その理由は何かとお話しを聞きながら考えていました。

 私は小学校1年生から父の仕事場(福井県の地方の登記所)に実家から離れて住んでいました。家には祖父母も居て農業もしていたので、母と弟と祖父母はいっしょに住んでいました。山の村なので、分教場があり、学校をもう少し大きなところがいいと父は思ったのかもしれません。大体2週間に一度は、週末に帰宅していましたが、母と離れていたことは事実です。その後も父の転勤もあり、最後は地域の学校に行きましたが、実際に小学校を3校変わったことになります。そのためかどうかわかりませんが、自分の言いたいことは自分で言うということは習慣づいていたと思います。そうでなければ誰も助けてくれないことを子どもなのに知っていたと思います。これがすべてではありませんが、自分の言いたいことをあまりがまんしていることは、外国人が相手でも日本人に対しても同じだと思います。

Y・Hさん:変化したいとは思いますが、私の個人の経歴を言うと、現在は70台で、団塊の世代のベビーブーマーです。戦後のアメリカへの追いつき、追い越せの高度成長時代の会社員でした。働きづめで、変化しようと思っても、変化が起こらない会社生活でした。欧米ではそれぞれが話題が豊富で、しかも仕事と自分の生活は離れているはずです。日本人は会社がすべてで、会社以外の人との交流はない時代だったと思います。会社生活を終えたら、何とか変えようと今努力しています。

R・Sさん:30数年前の担任をしていたころを思い出していました。社会科のテストをして、余白のところに、問いかけをして自分の意見を書いて言っていました。

 第2次大戦で原爆をアメリカが落としたけれども、それについての意見を求めていたのです。①原爆は非人道的と思うか②原爆によって戦争を日本は終わることができた。

 大体の子どもたちは、①の原爆は許されることではないという意見でしたが。一人の子は②を選び、原爆で戦争が早く終わることができたと書いていたのです。

 帰宅した私は、夫に「このようなことを書いた子どもがいる」と話しました。すると、夫は、「何のために自分の意見を書かせたの?」と聞くのです。「自分の考えを持つために聞いているのだろう?」と。それを聞いた私は、「があーん」と頭がくらくらしました。そうだった。自分の考えを持つことが大切と思ってもらうことが目的だったと気付いたのです。それで、この子には「よく自分の考えを書いたね」と返しておきました。その子は、今も、連絡を時々してきます。現在は、台湾人と結婚しているようですが。

児嶋:アメリカ人で、亀岡のオクラホマ州立大学京都校の校長先生をしていた友人から、「アメリカが原爆を落としたので、日本が戦争を終わらせたとアメリカの教育界では、昔も今も教えているよ」と聞いています。原爆が悪いという指導をしていないと言うことです。

Y・Hさん:相手の論理を知ることが大切ですね。こちらが正しい。向こうが悪いという考え方だけではなく。論理を理解した上で新たな考えが生まれるのでしょうね。

児嶋:その時には、実はアメリカも原爆が何世代も続くような危害をもたらすということに気付いていなかったということも新聞では報道されていますが。

S・Fさん:私は小説を読むのが好きで、気に入った小説は、10回も読むことがあります。毎回新鮮だと思えるのです。『さあ、無明』という本です。応仁の乱を描いた内容ですが。以前に読んだころの自分をふり返ることもできます。

吉村さん:その時どきの人生でだいぶん変化があるでしょうね。読んで居ても。年齢とか、職業とかのちがいもあって。どこかに灯火が点っているのでしょうか。

亀田さん:最後にカナダへ行った時のことですが、カナダは移民の国で中国の香港からの移民の人もたくさん来ていました。移民の人はカナダでは最初はレンタルで借り、何年か経つと自分の物になるというような法があるようです。

 アメリカと比較すると、アメリカはとてもきびしいです。オーストラリアも厳しいです。移民の資格とか、持っているお金の額とか。カナダも以前に比べれば厳しくなっていますが。アメリカは州によって法律があり、常識がちがいます。日本は、衝突することを避けるので詐欺も多いですね。それにまだ多数決が通り、あとを引くこともありますね。外国ではツアーガイドをしていると、徹底的に言わないと交渉にならないですね。言って落ち着くこともあります。

 香港の女の子がカナダに渡り「帰りたくない」と言っていますね。カナダが亡命をOKすれば中国も踏み込まないと思いますが。カナダではこの件についてどのような意見がありますか?

吉村さん:その時は、私は、すでにカナダを離れていたので、国民の反応はわかりませんが、当然という意見が多いのではないかと思います。批判はあまり見受けられないです。難民の数も毎年多いので。地域によっては残念ながらまだ先住民への差別が残っていたります。先住民人たちの土地に入って行って植民地にしたわけですから。私も移民としてそこは複雑な思いがあります。ここにいていいのだろうかと。

 でもカナダは物価が高いです。特にバンクーバーは。学生ビザの発給は今年は減っているようです。

E・Tさん:新しい人や新しい物に触れるのは好きです。このGlobal Sessionも刺激があります。自分が変わっていくように、社会を変わってほしいと思っていますが。まわりが変わってくれたらいいなと思っていますが。

吉村さん:あきらめると心が苦しくなるので、自分のまわりだけでも話しながら、ひとりひとりの力を大切にしていきたいと思っています。

E・Tさん:新しい仕事に挑戦したり、新しい土地に住みたいとも思います。自分が動かないと周りも動かないのでしょうね。

吉村さん:他の人の考えを知り、自分も考えない限り、自分も変わらないですね。

E・Tさん:まわりが変わったら自分も変わるというのは甘いですね。挑戦しなければ。

吉村さん:戦争はくりかえさないという考えのゴールはどこなんだろうと思います。戦争はぜったい良くないと思いますので。他人を変えるのは難しいですが。

E・Tさん:難しいですね。自分が変わることで他人も変わるかもしれません。

吉村さん:変えられないバックグラウンドがあるのでしょうか?

Y・Hさん:変えるのはなかなか難しいでしょうが、変えようと志を持つことは大切ですね。九割以上は不可能かもしれませんが。変えられるだけ変わったらハッピーと言えるのではないでしょうか?

E・Tさん:ちいさい積み重ねで大きく変わるかもしれませんね。

Y・Hさん:自分で変えられるといいですね。

児嶋:ひまわり教室などでも毎回、小さな変化がありますね。それがおもしろくて、我々は続けているのかもしれませんね。

Y・Hさん:ケセラセラですね。

児嶋:楽しい方がいいですね。

E・Yさん:「変化する」ことに関心があったので、参加しました。小さな挫折もありますし。

 夜、零度以下らしい時に外を歩いてみました。寒いなあと思ってもとても気持ちが良かったです。大人になってから、冬がきらいでした。でもその日は、「きらいと思っていただけなのかな?」とも思えるほどでした。

 人は学ぶのですね。こう感じたら、こうだろうと考えてしまうことが多いのですが、寒いとか、暗いとか、それがいやというだけではなくて、人前で話すと話せて、苦手な人には多少抵抗がありますが、瞬間に変わる事もあります。

吉村さん:私は新潟出身でもあり、豪雪地帯でもあるので、冬が好きです。冬は新潟では生活がストップします。冬は暗いし、しんどいです。でも。冬には動物は寝ています。しずけさの中で、人間は春を待っていますね。

児嶋:京都に福井から来て教師をしていて一番驚いたのは、冬でも、外の運動場で体育ができることでした。日本海側では、考えられないですね。

亀田さん:カナダはオーロラがきれいですね。バッハローでは3、4年前は、大雪でした。

Y・Hさん:シカゴはこの間マイナス30度のようでしたよ。

吉村さん:北極圏はそうですよ。マイナス30度で、9:00ごろ日が昇り、3:00には日没です。マイナス50度くらいです。

亀田さん:では、時間が来ましたので一応終わりにしましょう。今日はありがとうございました。

2023年12月16日(日)第370回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2023年12月16日(日)10:30~12:40
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:オジュグ・タデウシュ・アダムさん(ポーランド出身・大学講師)
コーディネーター:亀田博さん(ツアーガイド)
参加者:11名

 今回のタイトル:
「世界の紛争・歴史観・多文化共生そして個人」

自己紹介

亀田さん(コーディネーター):昨年に続き、オジュグさんにはお世話になります。前回は、クリスマスについて楽しいお話しをお聞きしました。今年はそのクリスマスの話もお聞きしたいのですが、じっくり今の世界情勢について伺いたいと思います。

その前に、参加者の自己紹介からお願いします。

Y・Hさん:はじめての参加です。亀田さんとは、時々別の国際交流のイベントで会っていました。この間のワールドフェスタで児嶋さんに会い、このGSを紹介され、参加をしています。私は高校時代から、多文化交流に興味を持っていて、国際青少年交流協会主催で、ドイツの1ヶ月訪問したりもしました。就職もそれに関連したところに行きたいと思い、総合商社で仕事をしていました。退職後、50年ぶりに亀岡に帰って来ました。

F・Kさん:私は、このGSに2回目の参加です。この6月に滋賀県日野町から、京都市の中京区へ引っ越ししました。35年間、特別支援学校で教員をしていましたが、退職してから、私は狭いところにいたと気が付き、学び直しをしたいと思うようになりました。今は、古門書(江戸末期)を中心に学び直しをしています。

R・Sさん:小学校で教員をしていました。退職して8年目になります。今は外国につながる子ども達の学習支援教室のひまわり教室で、児嶋さんたちといっしょにボランティア活動をしています。オジュグさんがゲストのGSは、3回目になります。前回はポーランドの歴史を聞きながら、クリスマスの話もお聞きしました。今回は、ウクライナの隣の国であるポーランドの支援の話や、ポーランド政権が変わった上でのちがいなどもお聞きしたいと思っています。

S・Nさん:京都市左京区から来ています。外国人の困りごと相談などをしていて、最近は医療関係の相談が多いです。今回は、ポーランドから見たウクライナ支援についてなどもお聞きしたいと思います。

Y・Hさん:以前12月にオジュグさんからクリスマスについてお聞きしました。30年ほど前にハンガリーには、行ったことがあり、文化的に豊かな国だなあと思いました。そのようなことをポーランドについてもお聞きしたいです。退職後、イギリスに短期留学などもしましたが、「今は来るのが大変だ。ストライキなどもあり、いつ飛行機が止まるかもしれないし。」などと言われ、行っていません。私たちは、今何をすべきなのかを考えていきたいと思っています。

M・Kさん:大昔に一度ポーランドに行ったことがあります。現在は、私は亀岡市の教員をしていて、外国の勉強をする機会を作り、オジュグさんにも一度学校へ来ていただきました。ポーランドについては、あまり知らないので、学んで伝えたいと参加しました。

S・Yさん:今年の3月に亀岡市に引っ越しをしてきました。2010年から何年間もカナダに居ました。今は、多文化共生センターで仕事をしています。

Z・Yさん:中国出身で、現在は、亀岡市の児童教育支援員として、千代川小学校や大井小学校、大成中などで外国につながる子どもたちの支援をしています。オジュグさんの話は、3回目になります。この仕事をし始めて、自分が勉強不足だと感じることが多くなりました。

児嶋:このGlobal Sessionは、1999年に私が勤務していた、亀岡交流活動センター(元OSU-K)で始め、今回は370回目になります。知らない間に20年を過ぎてしまいました。2011年4月に退職後は、Office Com Junto(オフィス・コン・ジュント)の主催として続けています。

亀田さん:(ポーランド語でごあいさつ)私は、大津市民で、オジュグさんも同じ大津の比叡山下の坂本にお住まいです。事務所は、京都市内にあるのですね。今日は久しぶりにお会いしましたが、毎日世界のニュースを聞いていると、ウクライナのニュースが少なくなってきていますね。オジュグさんは、日本に在住で、ポーランドについてもお聞きしたいと思います。

最近は、いろいろな国から日本に来られていますが、オーバーツーリズムについてもお話ししたいと思っています。では、ご自身の紹介から、オジュグさん、お願いします。

グローバルセッション開始

オジュグさん:自己紹介と言っても。35年間日本に住んでいます。何で日本に来たのかとよく聞かれましたが、「わからない」と答えています。前の年のようにクリスマスの話は一番いいのですが、今日は、難しい話をさせてもらいたいと思っています。

  • 歴史をどう伝えるか。
  • いろんな国の人たちが仲良くするのはどうすべきか。個人の問題になりますが。
  • グローバルセッションとしては、セッションですから、ワークショップ式に問題を提起し、みなさんの意見をお聞きしたいと思っています。

ウクライナ戦争についてですが、ニュースが減ってきていると感じます。パソコンでヨーロッパのニュースも時々見て居ますが、戦争が日常の普通のような感じになって来ていると思います。最初は、ショックを受け、支援をすれば、早く終結するのではと思って居たのですが。最近は精神的にしんどいので、「忘れよう」とかいう雰囲気もありますね。ゼレンスキー大統領がアメリカに行きましたが、なかなかです。

アメリカの支援がないと負けると思うし、でもヨーロッパの支援も貧しくなっています。ここまで戦争が続くと、何か武力行使で得することがあるのかとか、もし、ウクライナが負けるような事があると、どのような世界が生まれてしまうのかなど、将来が安全とは言えないのではないかとか考えてしまいます。

アメリカもヨーロッパも疲れて来て居て、私たちも含めてどうしていくかを考えなければならないなと思っています。負けないように努力をするとしたら、個人のレベルでどうしていくかを忘れてはいけないと思います。

ポーランドニュースには、いつもウクライナ戦争が、今日は659日目とか出て、続いていることを明示しています。

毎日、どれだけの人が命の危険にさらされているか。爆弾が一分先に落ちている。自分たちに選択権がない。結果としてだけではないけれど、この状況を許してしまった状況があると想像してみてください。そのような可能性がすぐそこにあると。

ポーランドに避難したウクライナ人の現状にはどうかですが、最初は、「まさか」と思っていたけれど、日本との大きなちがいは、「となりの国」という点です。たくさんの人が流れてきます。それは、今出ないと命がない。家にも帰れない。知らない所へ行くのは、「とりあえず命を守る」ためです。ポーランドには200万人以上も流れてきましたが、最初から行政は対応できなくて、一般人が対応しなければならないとしてやってきたと思います。普通の人が、「どうぞ」と家にいれます。何も持っていないし、子ども連れもいますから。1ヶ月先に戦争が終わったら帰ってもらおうかくらい思って受け入れを始めたと思います。一日か二日が1週間になり、1ヶ月になって来ると、今までの自分の生活ができなくなります。日常化してくると、ことばがちがい、習慣もちがうし、食事の好みもちがうでしょう。また、家にいても、誰かに電話をするくらいで何もしないかもしれない。こうなると個人の対応は無理になってきます。国や自治体がようやく動き出すでしょうが、すぐ帰ってもらうと思っていたのが、しばらく暮らすことになって来る。「暮らす」と「訪問する」の差は大きいですね。教育や仕事も必要で、医療の必要も出て来るでしょう。個人のレベルを超えてしまいますね。例えば、亀岡に子どもが急に500人増えたと思ってください。どうしますか?帰れとは言えない状況で。

とりあえず、子どもが学校に来れるようにしなければならないです。では、どうしたらいいのか。半年で帰ることが決まっているということと、ずっと留まるは、対応策がちがうはずです。「ここにいる」と言えば、無視できない。勝手にしろとも言えない。自分を犠牲にすることもできないですね。

これからもポーランドへのウクライナからの流入は続く可能性があります。最初、クラスに10人転入して来たと考えてください。一人、二人は可能でも、どうしたらいいのかですね。ふつうのポーランド人の子どももいるし、受験生の場合もあります。その子には将来に関わる事になりますね。ウクライナ人だけのクラスを作る案もありますが、このようなクラスにいると、ポーランド人の友達もできないし、ことばも覚えられない状況が予想されます。精神的な問題が起こることもあり、大人のサポートが必ず精神的なケアが必要です。これを理解しなければ、「疲れた」状態になりますね。

ウクライナは穀物の輸出国ですが、黒海経由で出せなくてポーランド経由になって来ました。ウクライナの穀物は、ポーランドより安価で、ポーランドの農家の産物が売れない状況が出て来ました。他にも、ドライバーの料金がウクライナの方が安くて今度はポーランドのドライバーが仕事をできなくなる状況も出て来ました。こうなるとポーランド政府は、何とか対応しないといけない状況です。

ポーランドは最近、政権が交代し、ようやくEUとの協力体制で動けるようになりました。前の政府の時の変な状況がやっと正常化してきました。

ウクライナを大事な友人として、似たような文化を持つ国として、普通の市民が助け合う気持ちになるようにしなければと思います。

戦争が始まってから、ウクライナからポーランドへ1700万人の人が国境を越えて来たと言われています。その後、1500万人が自国に戻って行ったようです。行ったり来たりの移動の多さに驚きますね。今は300万人ほどが留まっていると言われています。京都と大阪で人口は1300万人ぐらいですから、2年間にこの京都大阪に住む全員が移動したということになります。ポーランドだけでなく、他国への国境を越えた人もいたはずですから、ドイツには150万人ほどが留まっていると言われています。

イスラエルとパレスチナをどう思っているかですが、外国のメディアの報道と実際はどうなっているのかをしる必要がありますね。亡くなっている人は、パレスチナ人は14000人などと言っていますが。

Why War?

  • 初めは、ウクライナ戦争はだれも想像しなかった。
  • イスラエルとパレスチナの戦争は、なぜそれが起きたかを考えなくてはいけない。

皆さんは、戦争についてはどうですか?

Y・Hさん:ウクライナともうひとつの戦争は、根っこがちがうような気がします。ロシアは、昔ソ連時代にウクライナは、自分の支配下にあったからと言っていますが、1990年頃から東西融和が進み、EUやNATOが拡がって行ったので、ロシアが結果的には暴発したことになるのでしょう。イスラエルとパレスチナは、もともと民族間に抗争がありましたね。ユダヤ人とアラブ人の抗争ですが、アラブの人が住んでいた地域にヨーロッパ各国の支援を受けてユダヤ人の国を作ったのですね。その後、アラブ人が追い出され、この根っこは深いと思います。だから、ふたつの戦争はちがうと考えます。

オジュグさん:ハマスの攻撃があったからとイスラエルの正当化をはかり、イスラエルを守ろうという動きがあります。自分が危険だからと。

Y・Hさん:どちらも脅威から来ていると思います。

亀田さん:ウクライナ戦争の他でも、コソボ紛争以後、他のEU諸国でも問題が起こっています。イスラエルとパレスチナは第2次大戦以後の争いですね。イギリスは逃げていますが、アメリカは引けないし、アラブ諸国もいろいろな問題があります。シリア・ヨルダンやイランにイエメンなど。イスラエルの隣がエジプトですし。

Why War?

オジュグさん:答えは出ると思いますか?

Y・Hさん:自分の考えだけが正しいと考え、相手と話をすることがいけないと思います。他を理解するという姿勢が大切(聞く耳を持つ)でしょうね。

オジュグさん:戦争が起こっている理由を考えていくべきだと思います。なぜ戦争がなくならないのか。そして、なくすためには、何が必要なのかと。

Y・Hさん:日本政府も非核宣言をしないですね。軍需産業をのばそうとしています。日本もアメリカに追随しているような。

オジュグさん:歴史的にそうであっても、政治的には戦争の必要性を説明できますか。

S・Yさん:宗教上のちがいもありますが、キリスト教徒でアラブ人という人もいますよ。

オジュグさん:不思議じゃないですか?理解できないけれど、現実にはありますね。

S・Nさん:政府と庶民はちがうんですよ。実際に戦争などで死んでいるのは庶民です。金持ちというより庶民(貧乏人)のちがいがあり、個人としての金持ちがやらしているのではないでしょうか?

オジュグさん:宗教上では、欲を抑えるよう指導していますね。

S・Nさん:宗教の組織の上の人は金持ちでしょう。

オジュグさん:共産主義でも戦争は否定していないですね。

S・Nさん:権力を握るとあまり共産主義ではいられないのではないでしょうか?誰も殺したくないと言いながら、おかしいいですね。拒否する権限もないですからね。

オジュグさん:何も言わないなら、楽かもしれませんね。

S・Nさん:教育の問題としたら、今がチャンスかもしれませんね。

児嶋:先日テレビで見たのですが、日本の高校生とアメリカの高校生がが、第2次大戦の真珠湾攻撃と広島・長崎の原爆について日本で話合いを持ったというニュースでした。これからの若者を入れた会議として必要でおもしろいと思いました。私は、OSU-Kのアメリカ人の教授たちといっしょに仕事をしていた時に、何度も「原爆を落とされなかったら日本は戦争をやめなかっただろう」と言われました。原爆そのものの、被害についてあまり知らないままに落としたアメリカでは、その後の教育もこの程度しかやっていなかったのかと何度もがっくりしたことを思い出します。

S・Yさん:今は戦争をしている双方が、どっちが勝つかを決めなければ、「共生」についての考えが受け入れられないのかと考えてしまいます。

オジュグさん:当たり前の事がどうして通らないのでしょうか?

F・Kさん:「共生」については、教育の中では特に必要なことがらだと思います。戦争は、弱い立場の人(障害を持った人)に特にひどい状況を作ります。ウクライナの戦争などでも、あまり報道には見えて来ませんが、どうなっているのかなといつも私は考えています。

オジュグさん:人間の価値の問題ですね。

F・Kさん:戦争の時ほどあらためて感じてしまいます。

R・Sさん:なぜ戦争は起こるのかについては難しい課題だと思いますが、プーチンでも、自分が作りあげた体制を維持していかなければ負けてしまうと思っているのでしょう。先日は、プーチンの支持者が8割とか出ていましたが。そのためにひとつの操作として戦争を続けているような気がします。

イスラエルのネタニアフ首相は人気がないと聞いていますが、負けるわけにはいかないので、つっぱしるしかないと思っているのではないでしょうか?反対の声もあるようですが。

日本も戦争をくりかえして来たわけですが、「あぶない」と見抜き、どんな政府や国を選ぶべきかふだんから話し合っていなければならないのではないかと思います。

オジュグさん:普通の人が望んで戦争をするわけではないですね。自己利益だけではないはずですが。ウクライナ人だけが犠牲になっているわけではなく、ロシア人も多数犠牲になっているはずです。戦争とはそのようなしくみでしょう。

Z・Yさん:戦争はどうしておこるのか。宗教や、教育の内容なども問題があるはずです。自分の国が強くなりたいと思うからかもしれません。海の底で起こる地震でさえも、自然に起こるばかりとは言えないかもしれません。反抗から?ではどうして?どっちが悪いとも言えないケースがあると思います。では、戦争が止まらないのはどうして?平和的運動もいろいろしているのに。日本はまだ独立していないという考え方もありますね。それを打ち崩す、日本の独自の力も足りないような気がします。

オジュグさん:自分が守らないといけない。それは何か。今のウクライナのためにと考えることもあります。

M・Kさん:なんで戦争が起こるのを認め、許しているのか?ひとごととか、傍観者でいるのか。それは、想像力の欠如かもしれません。

児嶋:自分の知っている範囲しか言わない人もいますね。日本政府もそうしているような気がします。

オジュグさん:戦争はなぜ起こるのか?

  • 相手の土地を奪う(領土争い)
  • 宗教上のちがい(私の方が正しい:神様に言われた)
  • 民族のちがい
  • 政治的争い(イスラエルとパレスチナのように)
  • イデオロギーのちがい(ロシアはずっとスラブ民族を統治してきたと思い込んで、今後もそうしなければとならない権利・使命感がある。)

戦争を許すなど不思議でしょう?議論をしてまとまらなかったら、殴り合って決めようかというのが戦争でしょう?許し合うことはないのでしょうか?

S・Nさん:国民の思いと権力者の思いにはずれがあるのではないでしょうか?戦争を許す人が日本にはいないでしょう。民主主義ですから。でも、日本は実は民主主義ではないのではないでしょうか?投票率20%以下で当選しているのですよ。にせの民主主義で、政治家主義とでも言うのでしょうか?投票するしか自分の意見を通すことはできないのですが、当たり前が国会で法案が通らないことが多いですね。それで、「戦うぞ」と思っても、だれのために?自分のため?

オジュグさん:日本の1億何千万人の人は普通の人で、政治家はほんの少しでしょう。ポーランドは8年間同じ政権でしたが、これではあぶないと投票があり、投票率は70%だったそうです。つい最近のことですが、変わりました。戦争をしたくなければ、普通の人が物を言える仕組みが必要と思います。

Yuval Noah Harariという人を知っていますか?イスラエル出身のユダヤ人ですが、おもしろい人です。今までは「知識は力なり」と言われてきましたが、現代は知識や智恵は消えて、「情報」社会になって来たと言われています。「情報の洪水」でどれが重要かを見分ける力が必要です。自分にとって重要でない情報、例えば電話帳を皆暗記する必要は無いでしょう?

Harariは、自分にとって重要なものとそうでないものを見分ける力が大切だと言っています。そのためには、教育の中でその力を養うことや人と意見を交しながら話合いで見つけることなどが必要ですね。人は「物語で物事を考える」という傾向があるとも言っています。事実かどうかは関係なく、人間にひかれて判断する傾向があるとも。これが良いとは限らないのですが。社会の仕組みとして民主主義がいいとは思いますが、「自分が歴史や政治をどう見るか」それは、「自分という存在をどう考えるか」が大切と言っています。それは、自分を理解することによって相手を理解する力を持つからです。

「共生社会」とは、地元の人と外の人が共に生きることでしょう。

Me and Other 

児嶋:今日の朝、テレビでNHKの「チコちゃん」の番組を見ていたら、「すべての日本国民に告ぐ」と言い出しました。毎週、聞いているのですが、「日本国民」と言うなよと思ってしまうのです。「住んでいるすべてのみなさん」でいいでしょうと。

オジュグさん:EUなどでは、国を越えようとしていますね。先日、初めて会った人と話していたら、突然、「英語で話して」などと言うのです。

私は、初めから日本語で話していたのに、それに気付かないみたいで、気付いたら 「英語で話して」と言うのです。接する時に、顔で決めているのは、先入観からでしょう。他人との関係は、実感してそれから判断してもらいたいと思います。

「戦争という手段」は、他を排除することですね。もうやめましょう。

亀田さん:先ほどチコちゃんの番組で、「日本国民」と言ったという話がありましたが、日本人は「平和ぼけ」しているとも言われています。どう聞くかについて無関心なのですね。その戦争による怖さの経験がある人は、ポーランドの人たちのように選挙も拒否したりしないでしょう。

オジュグさん:「平和ぼけ」という表現は危険ですね。気付かない内に「平和」は悪いことですという気持ちを持つようになる可能性があります。政治に関心を持ち、理解をした上で、賛成するか、賛成しないかを判断するべきですね。情報に左右され過ぎずに。

児嶋:最近の若者というと、私は小学生からでもそうだと思うのですが、手に入れる情報量が多すぎて、多分判断できないのではないかと思っています。昔の世代の子ども時代とは極端にちがいがあります。この子達が、情報を、将来自分で判断できるかは心配です。

オジュグさん:教育の場でも考える必要がありますね。

M・Kさん:リテラシー(与えられた材料から必要な情報を引き出し、活用する能力・応用力)に弱いですね。これは今に始まったことではないと思いますが、どう判断するかなどの力が弱いと感じます。

オジュグさん:権力側から見ると、自力で考える国民が増えることは、喜ばないでしょう。権力の都合で動かせられる方がいいですから。ソ連も共産主義で失敗しているので、その点は明らかです。リベラルな方がいいのですが、最も良い選択をそれぞれができるかというと、今のままでは、まだですね。最も良い選択をそれぞれができるよう、「がんばろう」と励まし合うことが大切なのではないでしょうか?

Z・Yさん:選挙も20%くらいで当選するようではだめですね。

オジュグさん:ケースバイケースではありますが、50%くらいはほしいですね。それに想像したことと現実がちがう場合は、現実を重んじる体制であってほしいと思います。

亀田さん:さて、時間も過ぎました。まだ話したい人は個人でやっていただくことにして、今回はこれで終わりにしましょう。ありがとうございました。

2023年11月19日(日)第369回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2023年11月19日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:大野友アンドレイアさん(ブラジル出身・箕面国際交流協会職員)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:11名(内2名はオンライン参加)

 今回のタイトル:
「①ブラジルに子どもたちと一時帰国して」
「②外国につながりを持つ子どもたちが、自分のルーツにふれて」

自己紹介

亀田(コーディネーター):ボンジーア。今日のGlobal Sessionは、369回目です。

 大津市在住です。アンドレイアさんのGSのゲスト参加は2回目ですね。2022年に研修会の講師でも来ていただいたので、全部で3回目ですね。箕面から山越えで来られましたね。

 では、それぞれ、自己紹介をしてください。

E・Tさん:京北町に住んでいます。Global Sessionにはよく来ています。

M・Aさん:1年前までブラジルに居ました。現在は大本さんで、奉仕中です。    (亀岡市のブラジルの姉妹都市ジャンジーラから代表団が来られた時のポルトガル語通訳でした。)

S・Nさん:京都の左京区から来ました。在住外国人の相談ごとを聞くことをしています。今日は、そのメンバーがオンラインでの参加がある予定です。

M・Mさん:「やさしい日本語をひろめる会」の会長をしています。在住の外国人とコミュニケーションをとることを考える会です。現在は、薬局や薬剤師の方々との外国につながる人たちが話が通じるようにといろいろ聞いて調べています。いろいろな課題があります。

M・Fさん:映画関係の仕事をしています。秋のイベントが終わったところです。子どもの映画制作やカルチャーウオークなどもやりました。

R・Sさん:ひまわり教室で外国につながる子どもたちの学習支援をしています。アンドレイアさんの講座などは全回参加しています。今日は、子どもさんとブラジルに行かれた話というので、お聞きしたいと参加しました。

児嶋:1999年に開始しましたが、当時は、亀岡交際交流協会の職員でした。それ以後、停年退職後は、主宰するオフィス・コン・ジュントの企画で継続しています。今回は369回目ですが、20年以上過ぎたと驚いています。

亀田さん:コーディネーターをしています。先ほどはポルトガル語でお話ししましたが、仕事はツアーガイドです。ここ3、4年はコロナでしていませんが、日本人をいろいろな国に案内してきました。南米は遠いので行っていませんが、ヨーロッパや中国やいろいろな国に行きました。チベットやウイグル、モンゴルも何度も行きました。現在は、中国はまだ開放とはいきませんが、ヨーロッパからの旅行者が多く来られていますね。スペイン、フランス、ブラジル、ペルーなどからも多いですね。「日本は天国」などと言われていますが、その理由は、1は円安で、2は、実際の物価が安いことが挙げられるようです。どこへまずいくかといくと、100円ショップなどです。中国などにも安売りの店がありますが、「200円ショップ」とかで、お気に入りのようです。京都駅などを見ても、ほとんど外国人かとか思うほど多いですね。

 アンドレイアさんの自己紹介から始め、今日のGSをよろしくお願いします。

グローバルセッション開始

アンドレイアさん:大野友アンドレイアと言います。箕面国際交流協会で仕事をしていますが、今日は、その職員として来たのではありません。(笑)

 箕面市には住んでいる外国人も多いです。近くに大阪大学もあり、留学生も多いし、就労者も多いです。今までと同じ話の内容にならないように気を付けますが、よろしくお願いします。

 私は、本当に10年ぶりに、今回は子ども3人といっしょにブラジルに行ってきました。「子どもが母親の文化に触れる」ことと「いろんな人と出会う」ことを目当てに行ってきました。

 私自身は、ブラジルの小さい町で育ったので、「ブラジル人はこうだ」とか、「日系人」という感覚が無かったと思います。今回はサンパウロへ行き、日系の人たちにいっぱい会いました。

 私は、サンパウロ生まれですが、すぐガラパリという小さな町に移転し、学校では台湾人の家族一軒以外にはアジア系の人はいなくて、アジア人とも、日本人とも、日系人とも思う事がなく、過ごしていました。

 祖父は戦前満州に行き、ソ連が参戦後、ようやく家族で日本の山口県に帰国することができました。でも、その時は、いろいろな中国人が助けてくれてやっと家族一緒に帰れたそうです。でもそのような話は祖父はあまりしなくて幼児であった叔母もあまりその話はしませんでした。満州では、瓦職人だったそうです。当時日本に帰国してもどうしようもなく、当時ブラジルは、奴隷制度が廃止され、入植地を用意して移民を促進していたので、家族でアマゾンに移民することになりました。でも、土地はあっても自分で家を建てなければならず、母は5才でブラジル人の政治家の家に6人目の養子として住み込み、学校に行かせてもらうことになったようです。その後、1985年にはブラジルも軍事政権が終わり、母の養子先の政治家は夜逃げし、ベレンで母だけ残されたそうです。その後、叔母に連絡が取れ、助かったそうです。

 その後、サンパウロで駐在員だった父と出会い、結婚しました。そして、私(アンドレイア)が生まれ、父は日本の会社をやめ、日本に出稼ぎに行っていた従兄のやっていた八百屋を継ぐことになりました。「仕事ない?」とたくさんの人が出入りしていたことを覚えています。また、父は、八百屋で売っていた野菜がホテルでは高額で売っていることを知り、今度はホテル経営に乗り出しました。父はポルトガル語は話せても書いたりするのは十分でなく、苦労したようです。

 当時ブラジルでは、私立学校と公立学校に大きな差があったのですが、私は、私立学校に行きました。その間、ポルトガル語はうまくなり、日本語は家でだけ話す状況でした。だんだん弟達とはポルトガル語だけの生活になりました。

 そのためもあってか、14才で突然、日本にやって来た時は困りました。吹田市の学校に入ったのですが、今のような学校での支援はあまりなかったし、近くにブラジル人もあまりいませんでした。父は昔いた会社で仕事をすることができたのです。

 学校での支援はなかったのですが、家に支援者が来てくれることもありました。でも、学校では内容が難しいと感じ、自分だけができないと思っていました。中学校から高校へは、入試がありますが、通常のテストでは、100点満点の内、5点か10点しか取れないのです。ある先生が調べてくれて、高知県の明徳義塾高校に国際コースができるらしいし、入学することができました。2年生の時にブラジル人の監督と選手がやってきました。この高校の国際コースは、3年間の内に自費で留学が義務付けられています。そのお金をどうしようと思っていたのですが、当時、ブラジル人たちのために翻訳を頼まれていて、その翻訳料でカナダに10ヶ月間留学することができました。ポルトガル語ができると、日本語より早く身に付けることができました。英語の方が日本語よりもよく読める状態になりました。

箕面市での在住外国人支援

 箕面市では、ブラジル人は少ないですが、外国につながる16才未満の子どもは少なくないです。

①子どもの支援、 ②相談を上げていますが、英語、ポルトガル語、スペイン語、フランス語などで相談を受けています。対応言語が多いので多様な人たちに出会うことができます。

外国人が日本に住む時の壁は大きく分けて3つあります。

1.ことば 2.制度 3こころ

 この中で、制度の問題も大きいです。在留資格を更新しなければいけないことを知らない人が多いです。日本生まれで、日本で育ち、ブラジルに行ったことがない子どもでも在留資格は大きな問題です。ひとつの家族で、祖母は日系二世で、日本語だけ、母はポルトガル語、子どもは日本語だけを話す家族もいます。最近のニュースでは、日本で生まれた外国ルーツの子に永住権を与えるというものがあります。在留資格によって、仕事も安定しないので、さまざまな滞納も出てきます。日本で生まれ、どこにも行った事のない子どもたちにとっては、なぜ日本に住む権利がないのか、不公平に思うのです。

「多言語での育成はプラスかマイナスか」

 1960年代半ばまでは、マイナスと思われていました。それは、学校での学業不振・精神不安・情緒不安定などの理由が挙げられました。

 その後は、多言語での育成はプラスだろうと変化しています。

「母語支援について」

*保護者が母語に力があるか、ないかで差ができる

 学校では母語支援のスキルがないので、その子の学力を知る手立てが必要。

 DLA(母語と日本語と両方でアセスメントする)方法で測る方法(大阪大学等)

普通のクラスではなく支援学級に入れてゆっくり学習する方が子どもによいと考えがちだが、問題はある。(レッテルがはられるようで、子どもが自分で自己肯定観を持つのが難しい) 

箕面市では、母語クラブ(スペイン語とポルトガル語で チャチャチャ)を7年前から、毎月ミーティングをイベントとして開催している。

 関西ブラジル人コミュニティのイベントを、4月18日にブラジル移民した祖先の気持ちを考える体験として神戸港で移民船に乗る体験を毎年しています。

外国にルーツを持つ子どもの現状を説明する時は、ことばの課題として学習機会があるか。日本語力が不足・母語の発達として支援が不足・母語喪失などがあげられます。

 うちの長男は、生まれてからアメリカにいたために、外では英語、家の中では日本語とい生活でした。ポルトガル語は全くしりません。8年後に生まれた下の子達は、まったくポルトガル語は消えています。

子供たち3人とブラジルへ一時帰国

 今回のブラジル行きは、16才、8才、6才の3人の子といっしょでした。なかなかチケットも取れないので、16才の長男は別便で行き、ブラジルで会うというような行き方でした。

私の弟は、いっしょに日本に帰国したときは7才でしたが、成長してブラジルに帰国していました。ポルトガル語も忘れてしまっているのに。

 最初はサンパウロのリベルダージで倉庫の整理などのバイトで仕事を始めました。そのうちにトップに立ち、営業職になりました。当時ブラジルに拠点を持とうとしていたダイソーの社長の手伝いをし、その後、ポルトガル語も日本語もできるようになったので、代表になり、その後独立をしました。今はうどんやとラーメン屋をしています。その子どもたちはブラジルの学校に通っていますが、時間の空く日には、日本語学校にも通っています。(ブラジルの学校は、半日ごとに学習する子どもが交替します)このため、両方の言語ができるようになっています。

 ブラジルでは、クレジットカードがどこでも使えます。

 また、今回行って、自分の日本に対する雰囲気が変わったと思います。それは、アフロ博物館というところを訪ね、日系の母親の絵が飾ってありました。そこでは、「日系のひとがどれだけブラジル根付いているか」を問うような感じがありました。

 私は、現在の分断が広がる世界の中で、憎しみではなく、安心を得ることができ、国籍や立場ではなく、個人が尊重され、互いの対話をあきらめず、関係をつむぎ続けられる場所が大切だと思います。

 移民博物館では、「移民の旅はいつ終わるのか」「移動って当たり前」というメッセージが書かれていました。

 ブラジルにはいろいろな顔があり、サンパウロの町では自分と似ている人も見ました。日本の各県から来ている地図もありました。日本語を教えている私立学校もあります。自由な雰囲気ですが、月謝は高いので、貧富の差が大きいですね。

アンドレイアさんへ質問

亀田(コーディネーター):質問はどうですか?

M・Fさん:14才で日本に来られた時の日本の状況はどうでしたか?ブラジルとのちがいをどう感じられましたか?

アンドレイアさん:ブラジルでは、自分が日系とあまり思わなかったのですが、日本に来たら顔がみんな同じだと思いました。帰る時には、ガラパリから、サンパウロに行き、日本に来たのですが、その時に日系コミュニティに寄り、「日本ではいじめに気をつけて」と言われました。日本では、「海外に興味がある」という子達もいましたが、少し集まる所に遅れると、「ブラジル人だから」とも言われました。現在は、国際交流協会から小学校の国際交流クラブなどを訪問することがありますが、「海外いや」とか、「日本は安全やし」とか言う子が多いです。

M・Fさん:物理的なちがいはどうでしたか?家の大きさとか。

アンドレイアさん:最初日本に来たときには、父が元いた会社に就職したこともあり、社長さんの家に住んでいましたので、とても大きかったのです。でも、他の家は小さいと思いました。

S・Nさん:神戸にある海外移住者協議会に行くと、移住した2世が多くいて、70代や80代がいます。最初にブラジルに行ったブラジル丸の展示がしてあるビルにも行ったことがあります。県人会なども各県にあるようです。パラグアイからの人が多いですが、当時、ブラジルに行きたい人が多く、それに入れなかった人は、パラグアイに行ったようです。今日は、ポルトガル出身の学生が来たかったのですが、風邪で来られませんでした。

児嶋:ブラジル生まれで、現在日本に仕事で来られているM・Aさんの感想が聞きたいです。

M・Aさん:歴史的によくしらべてプレゼンをされていると思います。私も同じ移民のルーツでブラジル生まれです。母はパラオ出身で、父は広島出身です。ブラジルで二人は出逢い、パラグアイとブラジルとの国境の町で生活していました。学校は、ブラジル人学校に通い、ポルトガル語、スペイン語、そして日本語も学びました。ブラジルは、1500年に、ポルトガル人が発見し、そこをインドと思い込み、現地の人をインディオと呼び始めました。アマゾンの先住民は日本人と似ていると思います。シャーマンや薬草の紹介などもしています。元はアジア系と言われています。現在は、金の採掘で水銀を使用し、それを川に流すので、水銀中毒が大きな問題になていますね。

S・Nさん:アンドレイアさんは、ブラジル生まれで日本に来ていますが、国籍はブラジル人ですか?

アンドレイアさん:よく(  )人という箱に入れる人がいますが、地球人と思っています。最近は、日本にルーツをもつブラジル人と言っています。私は、14才で日本に来たのですが、母語がないなと思います。中学生でもかけ算の九九は知らなかったです。時々何かができないと「やっぱりブラジル人」とよく言われました。

Emikoさん(オンライン):アメリカに住んでいます。自分のアイデンティティを自覚することはありますか?私の義父は日系二世ですが、バイリンガルです。計算するのはたいてい母語であるのではないでしょうか?また、日本国籍を持たないと国民扱いされず、住民票がないと病気の時にこまりますね。

Yukikoさん(オンライン):今、不便なことはありますか?

アンドレイアさん:日本語は「~とみなされる」とか、わかりにくいことばが多く、かさなると混乱してしまいます。

児嶋:ひまわり教室で外国につながる子どもたちの学習を見ていると、「かけ算」がネックかなと思う事がたくさんありました。S先生はどうですか?

R・Sさん:かけ算や100マス計算なども振り返って学習すると力が出てきますね。宿題をみながら、気が付くことが多いです。

M・Aさん:外国に生まれて、日本に移住してきた人と、元からいる日本人とは、何か大きな穴があるような気がします。

S・Nさん:サンフランシスコでは刑務所が満杯で、999ドルまでは万引きしてもOKだと聞いたことがあります。それに比べると、日本は犯罪が少ないです。

M・Aさん:ブラジルにはお金がない人を無料でめんどうを見るという法律があります。

S・Nさん:以前、アメリカの破産状態の時に、医療保険を作ろうという動きがありました。日本では、最低限の医療は拒否できないと思います。

M・Mさん:現在薬局などへの外国につながる人たちへの支援について調査しています。保険制度は、スペインは無料、日本は1ヶ月に一度行かなければ、また保険料の支払いが必要です。韓国は、日本よりも良い点もあるようです。中国は保険制度が機能していないところが多いようです。

亀田さん:アメリカでは、事故に合っても支払い能力があるかどうかがチェックされ、それがないと医者は手術を受けつけないです。そのため、渡航時には必ず医療保険をかけるように旅行でもしています。

児嶋:以前アメリカ大学京都校(OSU―K)を開設していたときも、全員にまず、医療保険をかけて出発するよう厳しく指導しました。そのため、いろいろな事故もありましたが、お金が無くて、医療ができなかったことはありません。

亀田さん:日本の医療保険は、その点では優れていると思います。コロナ禍の保険も今はあります。ツアーで行っても家族で行っても、保険は大事です。さて、12:50分になりましたので、まだ質問などある方はあとで、独自にお願いします。ありがとうございました。

2023年10月9日(月・祝)第368回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2023年10月9日(日)10:00~13:00
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:Rachel Clark(レイチェル・クラーク)さん(日系米国人・国連等で通訳・日本訪問中)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:13名

 今回のタイトル:「アーミッシュってどんな人たち?」

レイチェルさんからの事前配布資料より

「 2020年の春、パンデミックの波がNY界隈にも押し寄せ、ハドソン川を見下ろす私の窓からは、マンハッタンに停泊する救急船が見えました。

NY中で医療に従事する人々に敬意を表する為のブルーエンジェルスの編隊飛行も行われました。

その頃から世界19ヵ国、約60人の仲間が毎週ズームで会議を開き、あの不思議な世界の空気に立ち向かう声明を発表しました。私もその中に加わり、素晴らしい希望を感じながらも、末世的な演出効果の漂うメディア報道にうんざりしていました。

あの年の1月の4週間、私はグアテマラでスペイン語を学び、次の1週間をコスタリカで、その次の1週間をパナマでバックパッキングをして一人旅を経験しました。

3月にはなつかしい友人に会いにカナダのモントリオールまで7時間かけて運転し、帰宅した次の日から国境が封鎖されました。

日々伝えられる深刻なニュースと同時に、それを真っ向から否定するニュースにも触れる機会を得る事ができたのは、それまでに培った国際的な人脈のネットワークがあればこそ、でした。

国際航路客船の洋上通訳として、世界の50ヵ国以上を巡り、さまざまな文化や考え方に触れた事や、国連の会議を沢山傍聴した経験も、判断の役に立ちました。

私の下した結論は、「あの人たちのルール」に沿って生きる事をしない、と言う事です。

同年4月半ばから毎週末片道7〜8時間運転して、NY州北部の「ノースカントリー」と呼ばれる地域に引っ越し先を探しに行きました。9回目のドライブで見つけたのが現在の住処です。

自然に恵まれた美しい環境に一目惚れして、四季それぞれの豊かな恵みを与えてくれるアーミッシュの農家さんたちとの素敵な交流が始まり、彼/彼女らから「持続可能な」暮らしを学んでいます。

なぜ国連はこの人たちから学ばないのか? と疑問に思う事がよくあります。

アーミッシュってどんな人たちなのでしょうか? どうして世界はこの人たちから持続可能な暮らしを学ぼうとしないのでしょうか?アーミッシュに今更なろうとは思いませんが、取り入れられるコンセプトは沢山あると思います。そんなこんな思いを、エッセイのように参加者の皆さんと共有できたら、と思います。」

参加者自己紹介

亀田さん(コーディネーター):1999年からこのGlobal Sessionは始まっています。ゲストは毎回ちがう人で、最初は、英語でセッションという形でやっていました。

この頃は、日本語が上手なゲストが増え、ほとんど日本語でやっています。私は、大体最初に近い時期から、このGSに参加していると思います。今日はゲストがアメリカからなので、英語でもどうぞ。では、参加者のそれぞれの自己紹介から始めていきましょう。

E・Tさん:京都の北の京北町に住んでいます。仕事は島津製作所で、真空ポンプなどを作っています。

R・Sさん:児嶋さんたちとひまわり教室で外国につながる子ども達の学習支援活動をしています。

S・Nさん :京都市左京区に住んでいます。外国人女性の困った事などの相談活動をしています。高齢化した方達も増え、医療ネットワークとの関係が必要になってきています。

S・Fさん:在日外国人のための日本語のサポートを1年くらいしています。その中で「ものとことのちがい」や、「~だらけ」などの日本語に対する興味がわいてきて、楽しくやっています。

M・Oさん:(英語で)グローバルコーポレーションの仕事をしています。東京の大学を卒業後、ニューヨークで学んだことがあります。主な仕事としては、グラフィックデザイナーです。

 (後半に実際の英文と日本語の本人訳あり)  

M・Sさん:(英語で)亀岡市民で1999年に始まったGSのメンバーだったと思います。今回は、レイチェルさんの言われる「アーミッシュ」に興味があって、参加しました。楽しみです。最近はあまり来る機会がなかったのですが。ひまわり教室の指導もしています。

M・Fさん:私も1999年のGSの最初から参加しています。今日まで続いているGSには魅力があります。40数年間、映画人として映画作りに関わり、今も携わっています。

レイチェルさん:どんな映画ですか?

M・Fさん:東映の時代劇ですよ。今は、NPO法人として子どもたちの映画制作に関わっています。

Y・Hさん:(ドイツ語で)ドイツ語を勉強して話したいなと思っています。今は、ウクライナなど、世界に問題がありますが、国連とのつながりも見ていきたいと思っています。

Z・Y(ちょうえい)さん:中国出身で、現在は、亀岡市の学校教育課の小・中学校の教育支援員をしています。ひまわり教室にも参加し、中国語での母語支援をしています。レイチェルさんとは友人で、今回、日本に来られるということで、このGlobal Sessionのゲストをお願いしました。

H・Mさん:Z・Yさんといっしょに、ひまわり教室やGlobal Sessionには何回か参加しました。今回は、半年ぶりの参加です。アーミッシュの映画をハリソン・フォードの映画として見た事があります。それで話がしたいなと思って参加しました。

児嶋:先ほど亀田さんに紹介していただきましたが、Global Sessionを私が交流活動センターで仕事をしているころから始めて、退職後は、私のOffice Com Juntoの主宰として継続しています。最近は、参加者が「高齢で・・」とか言われるのですが、「高齢」って何歳から?とか思ってしまいます。多分私も高齢なので。

亀田さん:ヒロと呼んでくださいね。大津市からいつも来ています。亀岡は、緑が多く、冬は寒くて夏は暑いのですが、自然がいっぱいでとてもいい街です。水もおいしいし、亀岡牛もありますね。ツアーコンダクターですが、コロナ禍で、2、3年は人が来ない日が続き、今も円安で、日本人はあまり外国に出ません。個人的にはヨーロッパより東南アジアが好きで、チベットや、ウイグル、タクラマカン砂漠やモンゴル、中国では雲南省などに行きました。タイやミャンマーでは小数民族の村も行き、カンボジアでは、子どもたちの学校訪問もしました。

国内では、個人的な英語でのガイドもしています。10数年間、アメリカ、シアトルのハイスクールの生徒達が日本旅行をする手配をして来ました。ホームステイや北海道への旅もしました。今は、日本からアメリカに行くのはOKですが、来年くらいは、日本が外国の学校からの旅行の受け入れを出してくれないかなと思っていますが。

グローバル・セッション開始

では、レイチェルさんお願いします。

レイチェルさん:自己紹介から始めます。日本は今3連休ですが、ゆっくりしたいでしょうに、このGSに参加していただき、ありがとうございます。

レイチェル・クラークは、米国籍ですが、実は日本生まれで、新潟県出身です。

アテネ、フランスで、フランス語を学んでいたのですが、結婚後アメリカに行きました。通勤はニュージャージー州から始発のバスに乗って行くのですが、あの頃はまだアジア系は少なくて終点のマンハッタンまではせいぜい、3、4人でした。その少ないアジア系の人がとなりに座ると「中国人?」「韓国人?」と聞いてきて「日本人」と答えると、笑顔が消えるのです。

このようなことが続き、「日本の戦後の歴史を知らなかったこと」に気付きました。小・中・高校では、歴史を学びますが、戦後については、「時間がないから自分でやってね」などと言われ、ほとんど学んで来なかったと思います。今思えば、「 学ぶことをさせない」ためではなかったかと思うのです。

日本の学校では毎日英語を教えますが、あの、ちっとも身につかない英語教育は、きっと歴史を学ばせないためにあるのでしょう。父の弟は陸軍中野学校の出身で、4カ国語が話せました。ですから、少なくとも戦中までは、海外体験の無い日本人でも数ヶ月で外国語をマスターできるような教授方があったはずなんです。なのに戦後にその教育方が全く活用されていないのです。でも、その「役に立たない英語教育」のおかげで日本の優秀な人材が海外に流出せず、国内発展に寄与したことも否めません。

アメリカの大学で受講した日本の歴史はおもしろかったです。日本の古代から現代までの概要を最初のクラスで30分で教えてもらいました。日本では触れることのなかった第二次世界大戦以降の歴史も学び、これではお隣の国々に好かれる理由が無いと、思いました。

アメリカでは主婦をしていて、元夫が東京に3年間転勤になり、私はアメリカ人として祖国に行き、悪名高い入国管理局にも行きました。そこでは、私たちの前にフィリピン人と思しき女性が二人質問を受けていましたが、非常に上から目線で、後ろで聞いていてとても気持ち悪かったです。私たちの番になり、白人の元夫に接する係官の人の手のひら返しの態度に、さらに気持ち悪くなりました。

子どもは1990年から3年間くらい、日本の幼稚園に行きました。ハーフの娘がいると、「お母さん、日本語上手ですね」とか、言われて。当時は核家族で、幼稚園児のママになると、母親同士の人間関係が難しかったです。

自分の子供時代は、テレビも勧善懲悪ばかりで、水戸黄門やウルトラマンのような最後の3分で必ず勝つ・巨人の星も男の子が主人公でした。女の子の番組は、いつもライバル同士の歪み合いのような作品が殆どでした。アタックナンバーワンとか、サインはブイとか。(だから、バブル時代に若い女性もサラリーマンとして職場に切望されていた頃に、「セーラームーン」のような女の子がヒーローになる作品が出てきたのは、時代と呼応しているのかな、と言いたかったのですが、ここまで言及しなかったような。。。)

子どもの手がかからなくなると仕事を始めました。2010年の国連の核不拡散条約再検討会議に、生協のメンバーを含む被爆者団体総勢150名の訪米団のために、急にボランティア通訳が沢山必要となり、3日間会社を休んで初めて通訳をしました。

一番最初のお仕事は、ニュージーランドの国連大使と被爆者代表の間での通訳でした。できはどうだったかわかりませんが、単にAさんの言うことをBさんに伝えるだけでなく、社会的意義のある類の通訳のお仕事に強く興味を惹かれました。

2011年3月11日に東北で大地震があり、福島原発事故が起きました。当時、自衛隊の仕事ぶりが高く評価され、入隊者が激増しました。米国の9.11直後に米軍志願者が殺到したのと全く同じシナリオでした。その後の展開も、まるで教科書のように、9.11の後と同じでした。復興支援と言いながら、企業を助けるような政策が多く導入され、被災者・被曝者は今も冷遇されています。

その後、ニューヨークでは核についての学習会が盛んになりましたが、NGOの多くは予算がないので、ボランティアの通訳を探していて、私はしょっちゅう駆り出されて、それがトレーニングになりました。

2012年には、会社をやめて通訳になりました。同年2月末から3月にかけて国連の婦人会議(UNCSW)があり、私のクライアントのひとりが福島出身でした。昼は国連で通訳し、夜は東北大震災の1周忌・追悼イベントに行くというような毎日でした。 国や大企業がスポンサーのイベントでは、私のクライアントはスピーチをさせてもらえず、環境保護団体や、反核団体のイベントでは大歓迎されました。彼女の原稿には、「国の責任」や「東電の責任」を問う部分があったからです。

そんなイベントで、必ずと言っていいほど、ピースボートの米国支部のディレクターとよく顔を合わせ、親しくなるうちに、ピースボートのボランティアスタッフになりました。この団体は、国連の諮問資格のあるNGOで、国連会議に数多く出席しました。

実際に初めてピースボートに洋上通訳として乗船した時に、Z・Yさんとお会いして、ご一緒に北半球を一周をしたのです。その後南回りにも乗りました。北回りは搾取する側、南半球の旅は搾取される側の国々への訪問です。

全部で6回のピースボートと、他の海外客船でのお仕事で、55~60カ国ほど回るなかで、大学(国際学専攻)で学んだことと現実とのギャップがあることを知りました。

2020年のパンデミック騒ぎの直前までに、やりたかったことをやりきった満足感を得ることができました。スペイン語学習のために、グアテマラやコスタリカ、パナマなどを訪ねて、世界中のバックパッカーたちとお友達になりました。中米には、危険だと言われる国々がありますが、若いヨーロッパの女性たちが平気で中米を旅していました。米国人には見せたくない歴史の汚点があるからのようです。ここでもしっかりと歴史を学ぶ必要があると思いました。

帰国後3月には駆け足でモントリオールに行って友人と合流し、翌日米国側に戻った直後に、カナダとアメリカの国境がパンデミックのために封鎖されました。暗い日々が始まった頃、ワシントンDCにあるアメリカン大学のデイビッド・バイン教授を中心に、グローバルアピールを書こうと19カ国の代表者が集まり、私も招待されて約60人の仲間とズーム会議に何度も参加しました。

コロナ禍前は対面式会議が中心でしたが、この頃からオンラインでどこに居てもできるということを学びました。 元々ハイキングや山歩きが大好きだったので、ネットにアクセスできる「ど田舎」に住もうと決心し、4月の中頃から毎週のように片道7〜8時間かけてカナダの国境近くのNY州北部に棲家を求めてロードトリップをしました。9回目の旅で見つけたのが現在住んでいるアディロンダック国立公園の北の端にある山小屋です。

この辺りにはアーミッシュの人たちが沢山住んでいます。「バギー」と呼ばれる馬車で移動する彼らは、ゴムのついたタイヤは使いません。農作業が主な仕事ですが、他に大工、左官、水道工事、電気技師、キャビネット作り、雑貨屋など、様々な職業を営んでいます。(電気も水道も使わないのに仕事はできるんです!)普段着も正装も全て(足踏みミシンの)手製です。家の改装は、アーミッシュの大工さんにお願いしたので、馬車で通勤してました。この辺りのアーミッシュの人は写真や身分証明のようなものを持たず、クレジットカードも持ちませんので、常に現金を使います。

この北国では、春、夏、秋は2ヶ月ずつで丸っと半年冬です。長い冬の間に夏に売るものを作ります。店には、パン屋さんや、クラフトショップがあり、バスケットや鍋敷きなども売っています。樹液を24時間煮詰めて作るメープルシロップなどもあります。
 

(写真を見て)「これは何でしょう?」18インチの厚さの発砲スチロールの壁でできた部屋で、氷を入れて使う冷蔵庫です。この中に大きな氷をいっぱい入れて、空いたスペースに食べ物を置きます。夏まで氷があるそうです。停電しても全く影響ありませんね。

父親が成人する息子(21才)に送る物としては、ライティングビューローがあり、女の子には、ドレッサーやたんすがあるようです。大人になり独立できるというの は、自分の責任でクリスチャンになることだそうです。

アーミッシュというのは、非暴力のキリスト教徒で、プロテスタントですが、歴史的に平和教会と分類される宗派の一つです。

ここでちょっとプロテスタントが生まれた歴史をお話しますね。十字軍の遠征が地中海貿易の繁栄とカトリック(ローマ帝国)の拡大をもたらした結果、ローマの腐敗が始まりました。

メディチ家出身の教皇レオ10世は、大聖堂のフレスコ画を完成させるため、レオナルド・ダ・ビンチを雇い、多額の借金をしました。その返済のために、托鉢の坊さんティッツェルをドイツ語を話す地域に免罪符を売りに行かせます。元々免罪符というものは、十字軍に持たせたものです。軍人として人を殺すことは、聖書の教えに叛くことになりますが、それを許すためのものでした。 ティッツェルは、「いくら払うとこの罪が消え、もっと払うとこんな罪も消える」と言って免罪符を売り歩き、ローマの腐敗ぶりにうんざりしていたマーチン・ルーサー(マルティン・ルター)の怒りを買います。

16世紀のヨーロッパには、中国から印刷技術が伝わっており、彼は聖書をドイツ語に翻訳し、ローマの腐敗を訴える「95ヶ条の論題」は各国後に翻訳されて、ヨーロッパ中に広まりました。

彼がローマに呼ばれても行かなかったのは、80年ほど遡って、チェコのジョン・ハスという神学者が、ローマの腐敗を問い、ローマに呼ばれ、素直に従ったために破門された上火炙りの刑に処せられた前例があったからです。破門されたルーサーは、自分でプロテスタントを始めました。

カトリックにおいては、神父が神と信徒の間で権威を持ちますが、プロテスタントでは、神との直接の関係を重視するため、全ての信徒が聖書を読めるように読み書きを学びます。ですから、16世紀から識字率が上がり、女流文学が登場するのもこの頃です。プロテスタントの一派、歴史的平和教会派は、聖書を尊重し、決して戦に加わりません。その中で、アナバプティストと呼ばれる一派は、生後直ぐの洗礼を行わず、21歳になって成人してから、自分の意志で神との直接の繋がりを尊重するクリスチャンになるために洗礼をうける人たちです。

アナバプティストからメノナイトが分離し、メノナイトからアーミッシュが分派しました。

1632年のドルトレヒト信仰告白で成文化された信仰に同意し、16世紀に書かれたアカプラ讃美歌を歌うこの人たちは、バギーで移動し、ドイツ語起源のある種の方言を話し、神学教育を受けない一般人が教会の責任者です。「教会」という建物はなく、グループの人の家を順番に使って、隔週の日曜日にミサを行います。各コミュニティは、同一 の服装、ヘアスタイルです。

S・Fさん:学校は?

レイチェルさん:うちの近くの学校は、アーミッシュのお嬢さんが一人で8~14才まで教えます。一般の学校には行きません(が、公立校用の地方税は払います)。14才以降は独学で本を読んで勉強します。夕食後、テレビもラジオもない家庭では、読書が当たり前。子どもたちの夏休みは農業の手伝いもするので、長いです。くらしの中では、電気もなく、水道もないので、本を読むときには、ランプの光で読みます。

各グループごとに異なる細かい決まり事があります。官僚的要素はいっさいありません。

戦に行かない代わりに奉仕活動を望んだため、ヨーロッパでは、80年間に2500人が殉教しました。支配者は彼らに転々と引っ越しを強要し、荒れ地を開拓させた歴史がありました。

M・Oさん:どうしてアメリカへ?

レイチェルさん:1730年~1770年代には、信教の自由を求めて500人(第一波)が、1816年~1860年代に、1500人(第二波)がアメリカに移住しました。元々当時はまだ電気が発明されてなく、発明されて普及しても、彼らは使わない選択をしました。現在も電気もガスも水道も車も使わない生活をしています。

全米にいますが、特にペンシルバニア州、オハイオ州、ミシガン州、ミズーリ州、ケンタッキー州などが多いです。最近ニューヨーク州の北部で急増しています。

水や土地の質が良い上に、後継者不足の農家さんが安く土地を売りに出すケースが多いので、引っ越してくる人が増えてきているようです。オハイオ州やケンタッキー州からこちらに引っ越してくる人が多いです。

亀田さん:アーミッシュは、それでも共生するのですか?

レイチェルさん:ヨーロッパでとことん排斥されたので、政府や権威を嫌います。政府嫌いはDNAに染み付いてるみたいです。日本では中国やロシアが独裁だとの批判を多く耳にしますが、アメリカも民主・共和党という二つの0.5大政党が一緒になって一党独裁です。二大政党制とは、表向きだけなんです。私は決して、バイデンもトランプも支持しませんが、トランプ支持者の多いこの土地に住んでみて、都会に住んでいた頃に抱いていたトランプのステレオタイプは、メディアが作ったと言えます。金持ち優遇政策だとすり込まれていましたが、実際農家さんや商店経営者も含めた中小の事業主が彼の税制改革で減税の恩恵を受けていました。

アーミッシュの写真から:牛や馬の方が、人間より多いです。薪を焚いてくらしています。

薪ストーブ一台で、暖房・煮炊き・給湯・ごみ焼却・洗濯物の乾燥・アイロンの6役をこなしますので、それぞれの機能ごとにエネルギーを使う暮らしの方が非効率的に見えます。私は彼らの暮らしぶりを見習って人間らしさを取り戻したいと願っています。

亀田さん:質問は?

M・Sさん:アーミッシュは、血のつながりの部族と思っていました。ここで生活したい人が入り、出たい人は出るのですね。

レイチェルさん:グループによりますが、うちの周りのアーミッシュは、出たい人は出てますし、出た後も家族との交流は普通にやっています。電気や動力が発明される前は、アーミッシュもそうでない人たちも同じ暮らし方だったので、ヨーロッパからやってきたアーミッシュに加わる人もいたそうです。

死ぬまで一生予防接種もしませんし、注射というものを一切しません。コロナ禍でも普通に学校に通って、真冬の吹雪の中でも外で走り回って遊んでいました。

児嶋:ジェンダーの役割が決まっているようですが、抵抗はないのでしょうか?

レイチェルさん:ジェンダーの問題は、簡単ではないですが、あまり問題にはなっていません。

M・Oさん:国連でも、アメリカは戦勝国であり、日本は何も言えなかったはずです。

レイチェルさん:デジタル社会になり、いろいろな統計が取りやすくなりましたね。世界中でネットに載っている情報を100とした場合、それぞれの言語がどれくらい使われているかというと、英語が56%、ヨーロッパ言語がそれに続きますが、日本語は、2.4~4%くらいです。その狭い幅の中の9割以上が国内関連の記事ですよね。国際ニュースなんてほんのちょっとだけです。このような現状では簡単にコントロールされてしまいますね。知られたくないニュースは翻訳せずに、日本人にはこう思って欲しいというニュースだけ和訳すればいいのですから。

M・Oさん:日本はメディアコントロールしやすい国と言われています。

亀田さん:国連の会議でも河野太郎さんは、日本語でした。

M・Oさん:自然と共生する知恵は日本にはありますが、若者に目覚めてほしいですね。伝統も守るように。

レイチェルさん:今回のツアーで広島や長崎で資料館も見学し、歴史改ざんが進んでいることを発見しました。長崎の資料館の年表では、1945年の1月に天皇が降伏の用意があることを示し、それを連合国側が拒否したと書かれていたのを記憶していますが、今回行ったら、その部分の表記がありませんでした。アメリカ政府は、情報を武器化していると思います。

NTIAとFCC (←この部分はもっと複雑で長いので割愛してください。来年の発表で、もっと詳しくご説明させてください)

亀田さん:時間です。今日はこれで終わります。質問の在る人はあとで自分でやってくださいね。

M・Oさんの英語での自己紹介文 :Global Session self introduction

  My name is Masakazu Otsuki, based in Kyoto yet act for globe to create something new for client, self projects now my amount of effort into Global Cooperation which I’ve learned it in the graduate school in Tokyo.

an artist, a designer, creator, producer, existing label makes me express various but I’m who I am, I do create what I want to do.

 One thing I wanted to mention you NYC is the city I used to live, which inspired me, nurtured all my creativity, sensitivity, identified national differences, realized deep cultural identity in Japanese, and diverse perspective. 

The first to live alone, the first to go abroad, and the first to eat cheap Chinese food. 

That was all NYC I had experienced. 

Never forget that day made my whole life shifted in a good way. 

It was September Eleven as two airplanes attacked the World Trade Center. 

I deeply felt how people had been affected by insecure tragedy when facing true fear, awful things, and extraordinary anxiety. 

My whole life was completely transformed into how I live my life. 

So much memory I had experienced there.
 
Mankind sometimes awake or gets awareness by these catastroph include previous Corona crisis.

People often warn now the world is dystopia.
 
But we really think so?

My sincer pleasure to hear your thoughts, global mindset, and your precious experience about how we live together in this uncertain time.

 大槻正一です、京都を拠点としてますが、世界と共に何か新しいものを作り出してます。
クライアントと共に、また自身での取り組みであるプロジェクトの場合もあります。

今は特に国際協力の分野に勢力を注いでいて、東京の大学院で学びを深めてます。

アーティスト、デザイナー、クリエーター、プロデューサー、現状様々なプロフェッショナルで僕を肩書きするものはありますが、僕は僕であり、僕が好きなものを創造するだけです。

レイチェルさんに一つ強く言及したかったのは、レイチェルさんの住むNew Yorkは僕も以前住んだ街であり、創造性を、感性を沢山感化され、日本人としての国民性の違いを確固たるものとし、日本の文化の深みを再確認し、多様な価値観を学びました。

初めて一人暮らしをした街、初めて海外を訪れた街、初めてこんなにも安い中国のご飯を食べた街、それら全て経験したのが他ならないNew Yorkという街でした。そして僕の人生を良き方向へと導いてくれた、決して忘れてはならない日があります。

それが、2001年9月11日で、2機の飛行機がワールドトレードセンターにテロを仕掛けたあの日。その時、僕は感じたのでした。人々が真の恐怖や、最悪な悲劇に、尋常じゃない不安に襲われた時の影響たるその凄まじさ。

この出来事が、僕の人生そのものをどのように生きるのか?を深く考えさせたのでした。言葉で言い尽くせないほどの思い出が色こく残っています。

 人類は、度々このような『悲劇』9.11含め、例えば先のパンデミックなどもそうですが、我々を目覚めさせる、気づきをもたらす機会となることがあります。

 人々はよく『今の世の中は反理想郷、暗黒の世界だ』と言及します。果たしてそうなのでしょうか?今の複雑な現状にあって、この一つの地球上で如何にして私たち人類が共に生きるか?

 レイチェルさん、貴方の考え、グローバルに培って来られた価値観、そして貴重な経験を伺えること、この上なき光栄に思います。

2023年9月23日(日)第367回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2023年9月23日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:玉野井麻利子さん(アメリカ大学名誉教授・文化人類学)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:14名

 今回のタイトル:「アメリカ人は日本人をどう見ていたか」

自己紹介

亀田さん(コーディネーター):では、それぞれの自己紹介をどうぞ。

Y・Nさん:ひまわり教室で指導しています。小学校教員をしていました。今日のタイトルが楽しみで参加しました。

M・Yさん:ひまわり教室の指導をしています。中学校の教員でした。

N・Kさん :ひまわり教室の指導をしています。小学校教員でした。

F・Kさん:初めての参加です。滋賀県の日野町というところに住んで居て、最近京都の四条河原町付近に引っ越しをしました。児嶋さんとは、短歌での知り合いです。

S・Fさん:GSは5年ぶりの参加です。英語の小説を読む会に参加していて、「日系人の強制収容」の話を読んでいて、今回のテーマの「アメリカ人は日本人をどう見て居るのか?」に興味があり参加しました。

E・Tさん:京都の北の京北町に住んでいます。仕事は島津製作所で、真空ポンプ作りなどをやっています。

R・Sさん:ひまわり教室の指導をしています。テーマに興味があります。アメリカでのアジア系アメリカ人に対する差別があることは知っていますが、「ゆれているアメリカ」を感じているので。

M・Fさん:タイトルに興味があります。このGSは、私は多分参加者としては、一番古くからいると思います。今も子どもに映画制作を教えたりして、活動しています。

Z・Yさん:ひまわりで母語指導をしています。中国出身です。この9月から市の外国につながる子どもたちへの母語支援者をしています。玉野井さんのGSは、2回目です。

Tさん:ブラジル出身で翻訳者をしています。2022年4月に京都に来て今も住んでいます。

児嶋:1999年から亀岡市交流活動センターでGlobal Sessionを始めて今回は367回目になります。2011年に私が退職してからは、オフィス・コン・ジュントとして主宰者として開催しています。

亀田さん:大津市から毎回参加しています。ツアーガイドをしていますが、最近は外国人が多くなり、オーバーツーリズムが問題となっています。コロナの間は、旅行客がいなくて、タクシーの運転手などもちがう仕事に行ってしまったので、人員不足が深刻のようです。タクシーもバスも足りないようです。今は1ドルが148円くらいで外国より安いので、来やすいのでしょう。

では、玉野井さんから、自己紹介をしてその後、お話しをお願いします。

グローバル・セッション開始

玉野井さん:アメリカ在住50年を越えていますが、私は「日本人」です。カリフォルニア大学ロサンゼルス校の人類学部で教えております。今は引退しましたが、アメリカの大学は、引退というのが、はっきりしなくて、今も大学院生の指導のため、日米を行ったり来たりの生活をしています。

今日のお話の題名は「アメリカ人は日本人をどう見ていたか」で、過去形となっていますが、日本に対するアメリカ人の考えは常に変化しています。これは日本人のアメリカに対するイメージがどんどん変化しているのと同じです。明治の始め頃、日本は積極的に西洋の文化を取り入れようとしました。ところはそれからたった数十年ですっかり変わってしまい、鬼畜米英という言葉に現れているように、西洋に対して戦争を始めたのです。ですから今日はそういった歴史を踏まえ、アメリカが建国された18世紀後半から現在に向けてお話ししようと思います。

さて、アメリカとは、どんな国なのでしょうか?

1492年にコロンブスが中央アメリカのとある島にたどりつき、ここをインダス川の流れるインドとまちがったことから始まりました。しかしその後、新大陸についての知識はなかなか広がりませんでした。ですからヨーロッパから新大陸への移民の流れはそれからいく世紀たってから始まるわけです。ところが新大陸には先住民がおりました。いわゆるNative Amercan Indianと呼ばれる人たちです。その人口は16世紀には1000万人いた、と言われています。ヨーロッパから移民した人たちはこの先住民たちを動物のように扱いました。彼らは天然痘などの病気を持ちこみ、殺戮を繰り返し、そのため、アメリカ先住民の数は、20世紀初めには、30万人ほどになってしまいました。さらに白人の植民者たちはアメリカ先住民の子どもたちを親から離し、全寮制の学校に入れ、「アメリカ人」への同化を強制していきました。19世紀になると、Andrew Jacson大統領がAmerican Removal Actを発令、アメリカ先住民の多くはいわゆる保留地に追いやられます。つまりアメリカは西洋からの移民と、アメリカ先住民と、さらにアフリカから奴隷として連れてこられたアフリカからの移民が共存する国であり、アメリカ人とはこれら全ての人たちを指すのですが、日本人の多くは「アメリカ人」といえば白人を思い浮かべる人たちが多いのです。一つの例としてですが、アメリカの若い学生たちの中には、日本を知るために、日本で英語を教えたいとい多くの若者がいます。ところが日本の英語会話学校などでは「白人」を採用することが多く、日系人や黒人は、採用されないという差別がありました。彼らもアメリカ人なのに。。。

アメリカ人について、もう少しその歴史を見てみましょう。

今皆さんが見ている絵(スクリーン)はアメリカではManifes Destinyの絵として知られています。 中心にいる女性はコロンビアと呼ばれる、「アメリカ」の象徴です。彼女はもちろんイギリスから移民したのでしょう。そしてイギリスからどんどん西へ西へと西洋の文明を広めようとしています。彼女が持っているのは電話のライン、そして子供のための学校の教科書です。この絵の中にはアメリカ先住民もアフリカからの奴隷も見当たりません。

 東からやってきたアメリカ人(白人)が西海岸にたどり着いた頃、アジアからやってきた中国人や、のちに日系人と呼ばれる日本人も新大陸の西海岸に到着します。アメリカでは1863年に奴隷制度が廃止されため、今度は中国人や日本人が奴隷に変わって鉄道の建設や、農地を広げていくことに駆り出されたのです。日本からは、年間約3万人がアメリカに移民として到着したと言われています。しかし「黄色い肌の有色人種」に対する白人アメリカ人の差別はひどいものでした。この現象はYellow Peril(黄禍)と呼ばれ、アメリカだけではなく、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、ロシアなど、アジア人が移民した国々で起こったのです。

日本人にとってアメリカ人(白人)との結婚が許可されていないので、日本からお嫁さんを呼ばなければなりません。この現象は「写真花嫁」と呼ばれていて、まず日本にいる女性が自分の写真をアメリカに移民した男性に送り、気に入れば彼が彼女を呼び寄せたのです。それでも黄禍の波は止まらず、アメリカ政府は1924年に日系人移民を禁止、1941年には、太平洋戦争が始まり、1942年には日系移民の強制収容が始まりました。 

児嶋:1985年から88年まで住んで居たブラジルでは、ミックスが一番美しいという考え方があり、化粧品のファンデーションの色の多さにびっくりしたことがあります。

Tさん:ブラジルでは、肌の色はどんな色でもいいと言われ、ブラジル人は、白人とか、黒人とか、言われていないです。

玉野井さん:北アメリカと南アメリカ(ブラジルやアルゼンチンなど)の状況はかなり違っています。南の場合、スペイン、ポルトガルからの移民は、やはり病気を持ち込んだり、アステカ文明を破壊しますが、根底にあったのはキリスト教の布教でした。北アメリカでは宗教はそれほど問題になりませんでした。

今度は太平洋戦争の間にアメリカ人の日本人に対するイメージがどのように変わっていったかをお話しします。(スクリーン)。ここに当時アメリカ政府、軍がカリフォルニアで「敵である日本人とは一体誰なのか」を示すポスターを作り、あちこちに配布したと思われます。

白人アメリカ人にとっては日本人(敵)と中国人(中国はこの戦争では友)の区別がわからないために、どのように区別するのか、教えているわけです。

中国人

  • 表情が従順、温和、平和を愛する
  • 背が高い人が多い
  • 中国人は、特にお金持ちの人は太っている。
  •  眼と眼の間が広い

日本人

  • 表情が狂信的、残忍、軍国主義
  • 押し並べてみんな背が低い背が低い
  • 太った日本人は少ない。年をとると、もっとやせる。
  • 眼と眼の間が狭い。
  • 会話がへた、間違ったところで笑ったり、大声を出したりする。

今読んでみると、日本を敵と仕上げるために作られたイメージとしか言えません。中国人を差別したことをすっかり忘れています。このようなポスターと共に、日本人を描いた漫画があります。それらは全て眼鏡をかけていて、出っ歯の大男であったり、猿だったりします。

この戦争で日本人はどんなアメリカ人のイメージを作ったでしょうか。

興味深いことに日本で作られたイメージはアメリカ人に比べ、日本人がいかに優れているかを表すイメージです。例えば日本人の女性が頭のふけを払っているのですが、それらに名前がつけてあり、

ぜいたくや利己心、拝金主義はアメリカ人の得意とするもので、日本人はそうではない、と伝えていますし、白人のような桃太郎が鬼となったアメリカ人をやっつけたり、ルーズベルト大統領、蒋介石、チャーチルをこらしめた日本の若者を、アメリカの黒人が喜んで褒めています。つまり日本人はアメリカ人のように人種差別をしない、というイメージです。

こうしたイメージによる戦争は戦後も続きました。

アメリカは日本を占領した後、日本の男性のイメージを「可愛らしい、これから民主主義を習う、お猿さん」に変えました。1980年代に日本の自動車産業がアメリカのそれを抜いた時、一人のアメリカ人の男がVincent Chenという中国人を日本人と思い、彼を射殺しました。コロナが始まると、やはりアジア人への暴力が再燃しました。

さて結論です

私はアメリカという国、アメリカ人は、どこの国の手助けも得ることなくやっていけるという自負を持っていると思います。つまり内向きというか、例えば地球上のどこにいっても英語を使える。そのため外国語取得に懸命になる人はあまりいません。アメリカにいれば、なんでも知ることができる、というような空気。日本のことだって知っているよ、と軽く言われ、日本人は「真似をすることが上手」と言われると、悲しくなります。トランプがまさにその象徴です。しかし人種間の関係は決して健康ではありません。以上です。

あとは皆さんの感想を聞かせてください。

M・Fさん:アメリカには何度か行ったことがありますが、日本人は見下げられていると感じることがありました。高級なレストランでは、入り口に座らされるのです。ホテルから予約すると、奥の良い席が用意されますが。別の時に、ノーマルな服装で行ったら、ブレザーやネクタイをしていないと入らせないということがありました。ホテルで背広を取ってきたら、入れましたが。

S・Fさん:戦争は勝った方が押しつけるので、日本は負けたので、差別もあるのでしょう。日本も関東大震災の時には、朝鮮人殺害をしていますね。

Z・Yさん:他言語や他文化を学ぼうとするひとが少ないという話がありましたが、英語は世界のことばになっていますが、アメリカが全てに一番ではないですね。日本だけではなくて、アジア人対して差別意識はありますね。中国人は、突然高い声で笑うとか、アメリカ人も大声でわらいますけれど。

児嶋:オクラホマ州立大学京都校(OSU-K)が亀岡に1990年から1996年までありましたが、私は、その時に職員をしていました。そこのアメリカ人の校長先生は、今も友人ですがその人から何度も「アメリカが原爆を落として戦争が終わった」と言われました。このことは、戦後のアメリカの教育の内容だろうと思い、悲惨さや被害が何年も継続するということを日本政府がアメリカにはっきり言わなかったために、学校でそのように教えたのだろうと思っています。

玉野井さん:アメリカは戦場にならなかったために、悲惨さがわからないのでしょうね。「はだしのゲン」を見て少しわかって来たでしょうか?戦後も配給でしか砂糖をもらえなかったとかも。

M・Fさん:以前、ハワイに行ったときに、ホテルの人から、「ひとりでパールハーバーには行かない方がいい。日本人を憎んでいるひとがいるから」と言われたことがあります。

E・Tさん:アメリカ人がみんな、見下しているわけでもないと思いますが。他の文化や言語を学ぼうとする人が少ないというのは気になりますが。学習する意欲を持って世界へ出ようと思わないのでしょうか?

玉野井さん:親日家のドナルド・キーンさんのような人もいますね。

児嶋:個人的な友人としての付き合いはもちろんありますが。

玉野井さん:アメリカで、日米学生会議に参加したことがあります。互いの文化を知り合うことが目的です。お互いの知識を交換するのが目的ですが、お互いわかり合うことは難しいなと感じました。

児嶋:先ほどのOSU―Kの卒業生は、今もアメリカ在住の人もいます。獣医師になり、アメリカ人と結婚し、大学で教えているようですが、大体は日本に帰国して仕事をしているようですね。

Y・Nさん:鬼畜米英と言っていた時代もあったのだと今さらながら知りました。考え方は時代に沿って変わってもいいと思いますね。

児嶋:今も残っている課題はありますね。

Tさん:玉野井さんは、アメリカで差別は受けましたか?

玉野井さん:1977年にまずアメリカのシカゴで暮らし、その後ボストン、ニューヨークへ、それから西海岸のロスへ行きました。個人的な差別はなかったと思いますが、差別されるようなところにはいなかった、ということだと思います。

Tさん:最初から英語を使っていましたか?普通にアメリカ人と接触されていたのですか?相手の振る舞いは?

玉野井さん:いつだったか、ひとりの友人に言われたことがあります。「玉野井さんは、日本人ではないみたい」と。これ褒め言葉ですが、どう解釈すればいいのか悩みました。

Tさん:現在もアメリカ人の若者と接触されていて、友人もいらっしゃると思いますが、日本や韓国の文化に好印象を持っている人はいますか?

玉野井さん:日本のアニメが好きな学生が多いですね。韓国の文化も人気があります。台湾に最近行ったときに、韓国語を学ぶ人が多いのにびっくりしました。日本語研究も盛んですし、中国研究はすでに多くあります。

Tさん:日本や韓国はソフトパワーが強いですね。

玉野井さん:特に若い人はそうですね。

Tさん:平和的手段で学ぶことが大切ですね。

玉野井さん:政府が入り込むと、うまくいかないのかな?

児嶋:言語の学習は大切ですね。

F・Kさん:私は、滋賀県の日野市という人口2300人ほどの町に実家があります。実家は220年ほど続いた家で、江戸時代の先祖の暮らしがわかる物が残っているので、市の学芸員の人に頼んで整理をしてもらいました。日清、日露戦争の時代の戦勝記念品のような物もありました。その中には、代々、開けてはいけないと言われていた物もあり、出金簿と書かれていました。日中戦争の献盃としてのすずのとっくりなどもありました。この日野町のような文化を理解しようと思ったら、歴史を知り合うことが大切なのだと思います。古文書をひもとくと、いろいろな歴史を知り、若い人に伝えたいと思うようになりました。今は、京都市に移転してその家は、別のひとがそのまま購入することになっています。

「アメリカが内向きになっている」と聞き、気になりました。

今も、日野町には朝鮮人街道があります。石どう寺というお寺もあり、近江八幡市には安土城もあります。

亀田さん:外国との付き合い方は、秀吉の時代から変化してきたようですね。

F・Kさん:韓国からの修学旅行の学生が京都の耳塚に来ていますね。毎年慰霊祭がありますが。

Z・Yさん:私の中国の実家は、北朝鮮との国境の町にあります。丹せん市といいます。朝鮮戦争の時に朝鮮人集落がありました。

亀田さん:さて、時間も来ましたのでこれで、終わりにしますが、感想や言いたいことがあれば、児嶋さんまでどうぞ。

今日は、玉野井さんありがとうございました。

開催後の感想から 

N・Kさん

先日はありがとうございました。global sessionに伺うと、いつも行ってよかったと思うのですが、今回も、アメリカの歴史と、国の内情や日本人への見方などのお話をお聞きして、大変興味深かったです。

アメリカの歴史のお話を聞いて、その国の人々の考え方はその国の歴史から出てくるのだなあと思いました。「アメリカといえば白人を思い浮かべる人が多いが、実は他民族国家」というお話を聞いて、改めてトランプ大統領がプアーホワイトの男性から支持を集めている理由を思いました。玉野井先生は、お若い頃にアメリカに渡られ、アメリカで職につかれて現在に至っておられる由。どれほどのご苦労があったことかと思いますが、明るく穏やかで、「差別は感じたことはない」とおっしゃる言葉から、強靭さとしなやかさを感じました。歴史からその国の人々の考え方が出てくるのなら、すぐ近くの韓国や中国、フィリピン、インドネシアなどの国々には、どんな歴史があるのでしょう。勿論、太平洋戦争の歴史があるのですが、それ以前にも長い歴史があるに違いありません。昔からの日本との関わりなども知りたいなあと思いました。また、お話を聞きたいです。ありがとうございました。学ぶことは楽しいなと思います。機会を与えていただいていることに、感謝しています。

今後ともよろしくお願い致します。