2024年3月24日(日)第373回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2024年3月24日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:張穎(ちょうえい)さん
コーディネーター:亀田博さん(ツアーガイド)
参加者:14名

 今回のタイトル:外国にルーツを持つ子どもたちとどのようにして関係を短縮できるか についてかんがえましょう

参加者自己紹介

亀田さん(コーディネーター):今回は373回目になります。1999年から開始し、以前は、月に2回か、3回やっていたこともありますが、現在は月に1回のベースでつづいています。ゲストも以前は、留学生とか、外国の方がほとんどだったのですが、最近はバラエティに富んだゲストで、ゲストメンバーも変化してきています。

 今回のゲストの張穎さんは、中国出身で、2月には、宇治市から亀岡市に引っ越しをして来られ、亀岡市民になられました。亀岡もいろいろな国の人が増えて来ていますが、ひまわり教室という外国にルーツを持つ子どもと保護者の学習支援教室を中心に、張穎さんに話していただきます。言語や宗教の課題もあり、難しいことが多いですが、いっしょに話をしていただきたいと思います。

 まず、自己紹介からお願いします。

W・Wさん:中国の大連出身で、22年前留学に来て、今京都で自分の観光会社を持っています。京都に住んでいます。

E・Tさん:島津製作所で働いています。ターボ分子ポンプの製造をしています。最近、会社で、発表会があり、努力賞をもらいました。その部門では、初めての受賞のようでとてもうれしかったです。この会も楽しい会で、だいぶん前から来ています。

K・Nさん:保津町在住です。昨日もイベントを保津浜テラスでやっていました。そこには、張さんも、児嶋さんも来られて、今日は、張さんの会もあるということで、ぜひ参加したいときました。

桂川孝裕さん:市長です。多文化共生も大きな課題です。人口減少社会でどこも人が足りないのですが、外国の人の力も借りていかなければならないと思います。以前、児嶋さんに、外国にルーツを持つ子どもたちの話を聞いた時に、張穎さんのような指導者の話も聞きました。ガレリアに多文化共生センターも設置し、課題を共に考えていきたいと思っています。外国につながる人たちと共に、亀岡市民も良かったと思えることをいっしょに考えていきたいと思っています。

M・Mさん:私は、もめん屋で、綿を加工して手作り木綿を作っています。先ほどの中野さんは、米やで、ポン菓子も作っておられます。今日は、中野さんの紹介できました。ポン菓子も無農薬で作っておられるので、とても人気がありますよ。張さんとは、亀岡市に引っ越しをして来られるときから手伝って、どんどん付き合いも拡がってきました。

M・Nさん:京都で「やさしい日本語を広める会」の仕事をしています。外国につながる方ともわかりやすい日本語で話し、どちらもこの地で生きやすい世の中にして「いきたいとやっています。これは、2年前に京都市上京区の助成金を得て、印刷した冊子です。保育・幼児教育に関わって居られる方へのアンケートの報告書です。また、別に薬局の方も外国の方達とよくコミュニケーションを取られるはずですが、どのような状況かをファイザーの資金でビデオ撮りしたもので、ホームページで見られます。外国から来た人もよく薬局で薬を買うはずですが、話は通じているかのアンケートの結果です。

R・Sさん:8年か、9年前に退職し、その後、ひまわり教室で学習支援をしています。今は、中国出身の双子姉妹やマレーシア出身の男子でどの子も中2ですが、張穎さんといっしょに、学習の支援をしています。

Y・Nさん:亀岡生まれで、亀岡育ちで小学校教員をしていて、退職後、ひまわり教室で指導をしています。ここでは、保護者のがんばる様子も見え、自分が教師の時にどれだけ子ども達を理解できていただろうかと反省もし、指導を続けています。

児嶋きよみ:このGlobal Sessionは、1999年に交流活動センターではじめ、2011年に退職後は、自分のNPOのOffice Com Juntoで続けていて、先ほど言われたように373回目になります。20年以上過ぎてしまったことに驚いています。

亀田博さん:大津市より来ています。以前は、亀岡にオクラホマ州立大学京都校(OSU-K)がありましたが、本校に学生を戻して以後も、学部の受け入れなどをしていましたね。OSUの造園建築学科のPaul Hsu 教授と学生が毎年Study Abroadプログラムで亀岡に来て、宿泊し、そのツアーガイドなどもしていました。一度だけですが、市民の方達とOSUを中心にしたツアーのガイドでみなさんと行った事があります。現在は、関西テレビで亀岡市の庭や店などを毎週紹介していますので、いちど見てください。4月には、ももクロも来ますね。コロナ禍もありましたが、先端大や、民際日本語学校への留学生もかなり亀岡に興味を持っています。W・Wさんとも、三千院に行ったり、介護の仕事をされている今日も参加されているインドネシア出身のNさんもいますね。

では、張穎さん。ご自身の紹介から始めて、お話しをお願いします。

張穎さん:私は、19年前に日本に来ました。日本で派遣社員通訳者として働いていて、中国に帰国した兄を訪ねて来た日本人の友達と知り合い、結婚して日本に住むようになったのです。夫とは、コンビニの経営を6年半ほどしたり、その後3ヶ月ほどの世界一周の船旅もしたことがあります。日本語の教え方を学び、日本語教師になって、日本語学校の派遣教師で、海外で、日本語を教えたりもしました。6年前、夫が病気で亡くなり、海外へ単身赴任ができなくなって、ずっと日本で仕事をしていました。2019年から、亀岡市の小学校で、外国人児童教育支援に入らせていただきました。学校が休みになると仕事が無くなったり、コロナ禍で中国にも帰国できない難しい日々が続いていたのですが、2023年9月から、市役所の教育委員会から外国につながる子どもたちの支援者として雇用していただき、本当に感謝しています。その前から、ひまわり教室で、ボランティアで中国語の必要な子どもの通訳をしていましたが。

 亀岡にいる外国人といっしょに仕事をしてきて、1年間に食べるご飯の中のひとつぶにでもなれたらと思います。今日は、外国にルーツを持つ子どもたちとどのように関係を短縮できるかをみなさんの意見を聞きたいと思います。

グローバル・セッションスタート

1.異文化の理解と多文化共生

異文化とは?

 どこまでを『異なる』とするかについては、宗教、風俗、人種の相違などで見られる事が多い。しかし、民族の単位で見たり、地域の単位、果ては家族の単位で見るため、一概には言えない。

 生活様式や社会習慣、ものの考え方などの異なる文化は異文化である。

多文化共生とは?

  • 異文化を知ること

 価値観や言語、習慣、行動様式など自分が親しんでいる文化と、 規範や営みの異なる文化は異文化である。

*世界の学校を知ろう。日本の学校とのちがいは?

登校のやり方

日本:登校班が組まれ、歩いて学校へ向かう

中国:小学生は、登下校は、親や祖父母が必ずつきそう。

アメリカ:スクールバスか、保護者が送り迎えをする。

年度のはじまり

マレーシア:1月~11月 生徒は一つの学校に500人~2000人、先生は、70人~120人、2学期制 前期1月~6月 後期7月~11月、休み4回 3月に1週間・5月に2週間・8月に1週間・11月に6週間

日本:4月~3月

アメリカ&中国:9月

義務教育

マレーシア:11年、幼稚園1~2年 小学校6年 中学校5年、大学予備教育:2年 その後、公立大学へ

小学校のタイプ

マレーシア:3種類 ①公立学校 ②宗教学校 ③中国系公立小学校or 私立小学校orインド系公立小学校

中国:多民族の学校・小数民族の学校がある

学校の決め方

マレーシア:公立小学校・・・中華系・マレー系・インド系がある。私立学校・・・イスラム系・中文・台湾系・アメリカ系・イギリス系・ドイツ系・インタナショナル系

*両親が決める

*小学校は、午前グループと午後グループの2制度

食堂 午前7:00から4:00頃まで開館(多くの子どもが学校で朝食)

 

亀岡ひまわり教室:多文化共生の場楽しいコミュニケーションができいろいろ気にせず、子どもが楽に学習できる場

2.異文化を体験する

2024年2月25日(日)餃子つくりパーティ  張穎さんの家でひまわり教室の子どもたちといっしょに、餃子の皮から制作中

張穎さん:最初は中学生の双子姉妹がひまわり教室に来始めたときは、「行きたくない」とよく言っていました。でも、成長して今は中学2年で、2年が終わりましたが、楽しみで、「がんばります」と言って学んでいます。この間の餃子パーティの時は、野菜の切り方も教え、「手を切ったら、自分の責任よ」というと、ていねいにどの子も切っていました。餃子の皮も作ることから始めました。

 民際日本語学校で教えて居たときは、40カ国以上の留学生が来て居て、それそれの国料理を教えてくれました。

 ひまわり教室は子どもたちが中心なので、最初は子ども達とどう付き合うのかがわかりませんでした。

R・Sさん:外国にルーツを持つ子達と接するためには、自分自身の観点がないと、何がこの子達に今、必要なのかが見えてこないと思いました。千代川小学校の校長をしていましたが、当時、中国出身のお母さんとメキシコ出身のお母さんがいる子達が来ていました。友達との関係を見ていると、「やはり少し浮いているな」と思い、距離の取り方もよく見ていると見えて来ます。家で子ども同士がもめると、お母さんがものすごく怒るとか、いろいろありました。外国につながる子どもと言ってもいろいろな違いがあるので、どうしたらいいのかを知りたいと思っていました。

 その時の思いもあって、退職後、ひまわり教室でやり始めました。ここでは、学ぶことが多いと思います。子どもたちも泣いたり、笑ったりいろいろありますが、8年、9年たつと学校も変わってきました。

 大成中には、2年生に3人外国につながる子どもたちがいますが、新年になって中国の祝い方とセットとして発表などの取り組みをしたようです。中国では、小学生から、中国の漢詩を300首ほど暗記をすることを学んでいるようで、日本の古典と合せて両方の詩を暗唱する会をしたそうです。学校の中での中国の文化の位置付けをされている取り組みでしょう。

K・Yさん:日本語教室のボランティア指導者をしています。停年退職後も千代川小学校で常勤講師や非常勤講師をしています。ひまわり教室では、同じような外国につながりのある子どもたちがいて、仲間ができて楽しいようですね。千代川小には現在6人の外国につながりの在る子がいますが、中国人が2名とマレーシアやフィリピン、フランスにつながりがある子もいます。ひまわり教室に来ると、親同士のつながりもできてきて、いっしょに、どこかに出かけることもあるようです。マレーシアからの兄妹の妹は4年生ですが、英語と中国語ができます。でも、教室の先生の日本語の話がわからないとタブレット(グーグル翻訳)を使い始めました。張穎先生がいらっしゃるので、保護者とのやりとり(行事について・持ち物・教材費等)も助かっています。

 千代川小学校では、中国人の子のお母さんが、ゲストティーチャーとして来られ、息子さんの学年の子どもたちに、中国の文化や学校の話をしてくださいました。息子であるK君は、とてもうれしそうにしていました。

E・Tさん:マレーシアの学校の話ですが、「両親が子どもの学校を決める」と言われていましたが、それはどういう意味ですか?もし、両親と子どもの意見がちがう場合はどうするのでしょうか?

張穎さん:両親が相談をして、子どもはまだ知っている経験が不足していると考え、親が決めますね。小学校は義務教育ですが、大学も大体親が決めます。

Nさん(インドネシア出身:亀岡市内で介護士):先ほどひまわり教室で「宿題を見てあげる」内容といわれましたが、子ども同士の友達を作るなどの人間関係はどうされていますか?

K・Yさん:千代川小学校では、年間10ほどの外国人ゲストを招待して、お話しを聞いています。ひまわり教室に来ているシリアの子のお父さんのサフィさんにんも来てもらい、シリアという外国の文化を聞く機会を持ちました。たくさんの外国人ゲストに来ていただき、外国に理解を深める機会としています。マレーシアのあかねちゃんは、最初は日本語でのコミュニケーションはできなかったのですが、タブレットを使って、話し合いもでき、3月には、学年のみんなに日本語でスピーチすることもできました。

張穎さん:このような取り組みをしたあとで、「これ、中国語で何というの?教えて。」などと聞かれるようになりました。普通の子どもたちが外国につながりがある子達となかよくなりたいと思っているのだと感じました。

K・Yさん:中学校ではどうですか?

張穎さん:大成中学校には、H君という中2の子がいますが、日本生まれで4歳でお母さんの国のマレーシアへ行き、この夏に日本に帰国してきました。日本語での話し合いはできるのですが、読み書きはできません。同じく中国人の双子姉妹もいます。彼らも個性的ですが、最近は、さびしい時は、自分から話しかけてくることもあり、かなり安定しています。

R・Sさん:この子たちは、最初にひまわり教室に参加したとき、3年前から日本にきていたのに、全く日本語が通じませんでした。かっとなったら、泣いたり、男の子にかみついたりして、その子が泣いたりしたこともあるようです。最初は、「どうしようか?」と思っていましたが、日本語力がついて来ると、周りとの関係が変わってきました。この2年間に大分変わりました。

亀田さん(コーディネーター):この間の餃子作りパーティーの時も、中心になってやっていましたね。

児嶋:ひまわり教室も2014年に2人の子どもさんとそのお母さん達と始めましたが、今は10年目になりますが、いいことばかりではありませんでした。外国人のお母さんたちが、いろいろ教えてもらいたいこともありますが、関わりすぎるのもいやと思う人もいて、離れて行く人もありました。子どもが来たいと思っても忙しいという理由で来なくなった子もいます。それと、毎回レポートを指導者に書いてもらっているので、   次回に休んでも、どのような指導をされたかは、その人も頭に入れて参加してもらっています。

桂川さん:ひまわり教室のような教室は必要だと思いますね。いろいろ聞かせてもらっていますが。

Y・Nさん:千代川小学校で教員をして居たときは、特別支援教室や、生活指導などを担当していました。子どもさんの保護者との連絡は、連絡張におもに書いてもらっていました。ひまわり教室は、指導者としても、わかりやすいと思います。こころを開いてもらわなければならないので。

Mさん:話を聞いてみようとGlobal Sessionに参加しています。京都市での話ですが、フィリピン出身の学生がいて、この子の父親は日本人で、母親はフィリピン人でタガログ語が母語です。この子は日本国籍を持ち、最初はフィリピン出身とは思わなかったのです。英語が話せますが、ずっと傷ついてきたそうで、試験無しでいける大学に入学し、やっとついていけるようになったと聞きました。友達がいろいろ助けてくれたそうですが、このような子達をすくい上げる必要があるなと思います。

Y・Nさん:まわりの問題もありますね。つながりが必要という意識があるかないかも関係がありますね。家の人が子どもについて日本語で表現できるかどうかも関係しhますね。課題が大きいです。

児嶋:以前、双子姉妹のお母さんが、学校ともめた時に「もう転校させようか」と言っていたと聞いたことがあります。私は、埼玉県で3度も転校したことを聞いていたので、「この学校を転校して、よそがもっといいはずがない。」と張穎さんに頼んで言ってもらいました。その後は落ち着いたと聞いていますが、転校しなくて良かったとほっとしました。

桂川さん:聞かせてもらっていろいろな課題があるなあと思いました。直接には教育委員会が担当ですが。私への情報としてはワンクッションありますね。でも、どこにどれだけの、外国につながる子どもたちが在校しているかの実態調査はしていて、対象となる家庭に対して方法を考えて行きたいと思います。大成中などは体験型で中国などの文化を知ることをやっておられるようですね。

張穎さん:今日は、いろいろ聞かせていただきありがとうございました。

亀田さん:では、今日のGlobal Sessionは終わりにしましょう。ありがとうございました。

2024年2月25日(日)第372回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2024年2月25日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室&オンライン
ゲストスピーカー:濱田雅子さん(元武庫川女子大学教授、アメリカ服飾社会史研究会 会長)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:8名(うちオンラインでの参加2名)
主催:オフィス・コン・ジュント&亀岡国際交流協会
共催:アメリカ服飾社会史研究会

 今回のタイトル:「1920年代アメリカの服飾史」

セッション終了後のレポート

2024年1月27日(日)第371回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2024年1月27日(日)10:30~12:20
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:吉村静(しずか)さん:亀岡市在住、マイセン・ロバート・ルイスさんは、まだカナダに(1月末帰国予定)
コーディネーター:亀田博さん(ツアーガイド)
参加者:11名

 今回のタイトル:「自分の変化を受け入れて生きる」

吉村静さんのお知らせ版より

「2014年からカナダに7年、ニュージーランドに1年住み、世界のいろんなところを旅する中で、自分の中に変化がありました。

様々なバックグラウンドの人たちに出会ったことで、世界の見え方が変わり、自分の見たいものだけを見る世界から、批判的な思考も持つようになりました。

生きる上で大事にしたいことをなるべく守りながら、それでも世界に自分の心を開いておきたい、そう思うようになりました。

海外だけでなく、日本では新潟、京都、東京の3カ所に住みました。流動的に移動しながら遊牧民のように生きることで、自分の変化を受け入れることが様々な社会や環境の変化に順応していく鍵になると思っています。

私たちは水のように、雪や氷、はたまた蒸気になって形を変えながら常に移動していきます。私はそんなイメージを常に抱きながら生きています。自分という枠にとらわれずに、新しい世界へ順応していく。そんなお話をできたらいいなと考えています。」

自己紹介

亀田さん(コーディネーター):夫のルイスさんは、まだ帰国されていなくて、3月13日のグローバルカフェには来られます。今日は吉村静さんの「自分の変化を受けれて生きる」というタイトルでセッションをしていきましょう。まず、自己紹介からどうぞ。

S・Fさん:去年から、日本語教室の指導と民生委員をやっています。何をやるにも遅すぎることはないということをいいわけにいろいろやっております。

E・Tさん:京北町に住んでいます。今年に入って初めてのGlobal Sessionです。

N・Kさん:教師をしていましたが、退職後、ひまわり教室の指導などをしています。いろいろ知って世界が拡がると思えるようになって来たので、いろいろ知りたいと思います。

R・Sさん:小学校の教員をしてきました。退職してもう8年にもなります。ひまわり教室では、中国から来ている子どもたちの学習支援をしています。いろいろな所を見て来られた静さんのお話しを聞きたいと思い参加しました。

児嶋 R・Sさんは、昨日ベトナムから帰って来られましたよ。

R・Sさん:ベトナムのホーチミン市では、32度で、帰国した大阪は2度でした。20度の差がありました。

Z・Yさん:中国出身で、19年前に日本に来ました。いろいろ日本でも仕事をしましたが、今は、亀岡市の教育委員会で、外国につながる子どもたちの学習を支援する仕事をしています。ひまわり教室でも、子ども達と楽しく勉強しています。

亀田さん:今日の京都新聞に掲載された記事の、ここに立っている人がZ・Yさんです。

Z・Yさん:学校の子どもたちに中国語の講師をしています。2月1日から亀岡市民になります。篠町に住みます。

S・Fさん:うちと近いですね。

Y・Hさん: 亀岡国際交流協会の会員で、いろいろなイベントに参加しています。先日児嶋さんから声を掛けられて、それ以来、Global Sessionに参加しています。年をとっても視野を広げたいと参加しています。

児嶋: このGlobal Sessionは私は交流活動センターに勤務して居た1999年からはじめて、今回は371回目になります。大体毎月やってきたので、もう20年を超えていますね。

亀田さん:大津でツアーガイドをしています。亀岡市民ではありません。

ルイスさんも来られるかとエストニア語も勉強してきました。テレファンミクスト:こんにちは

ククダスラフェ:お元気ですか?

ハスティ:元気です。

メデトウトタ:はじめまして

ミルニオン ひろ:私の名前はひろです。

マイラン大津:大津に住んでいます。

アイダ:ありがとう

ロシア語の影響が多いと思いますが。

吉村さん:「テレ」というのを覚えています。こんにちはですね。

グローバル・セッション開始

亀田さん:では、吉村さんの自己紹介からセッションを始めていきましょう。

今日のタイトルで、「自分の変化を受け入れて生きる」としましたが、今カナダから日本に帰国して自分の変化を感じています。その項目としては、

  1. 変化はどういう時にしているか?
  2. 小さな抵抗も大切
  3. 心をオープンにすることも大切である
  4. 世界平和のために

 私は、新潟県の長岡生まれです。山登りが好きで、カナダに行く前は、「ランナーズ」の編集者をしていて、大阪や東京にいました。大学は京都芸術大学でした。やりがいのある仕事だと思い続けていましたが、満員電車に耐えられなくて、1時間ほど走って職場まで通ったこともあります。日本で無い所で何かをさぐりたいとまず、バンクーバーに行きました。バンクーバーにいたころ、今から10年ほど前にルイスと出会いました。ルイスはテキサス生まれの男性でしたが、大学時代にカナダに行き、セレモニーなどをやると、カナダの国籍がもらえました。彼は、アメリカとカナダの国籍を持っています。バンクーバーには、エストニアからの留学生がたくさん住んでいましたが、旧ソビエト時代のできごともユーモアで跳ね返すような人々でした。ルイスの祖父母はエストニア人で第二次世界大戦でアメリカに難民としてやってきました。ルイスも5年ほど前に祖父母のおかげでエストニアの市民権を取得したので、全部で3カ国の国籍を持っています。

 私は、新潟出身なので、「雪・氷」がテーマでいろいろやっています。ふるさととのつながりは大切な要素なので、7年間カナダに住んでいましたが、家族が元気なうちに日本へ帰りたいと思って帰ってきました。

 カナダのドーソンシティと言うところに住んでいて、冬はマイナス52度くらいになるものすごく寒い所です。北極圏に近いので冬は2:30ころに日没になります。あまり動けないので、10キロほど太り、シーズン鬱になるひとも多いです。

「自分のアート活動はどう変わるか?」自分の変化を受け入れることで、世界平和につながると思っています。

 育った新潟などでは、みんながサポートをしてくれて、生きやすさにつながっていたのだと思います。紛争の無い国にいてもそれができない人もいて、自殺者も多いです。

 質問タイムとしてみなさんにお聞きしてもいいですか?

 「自分が変わったと思ったことは何かありますか?」

Z・Yさん:若い時は、きれいな洋服を着て、おいしい食べ物を食べてお金ばかり使っていました。

 仕事をし始めて、年齢も増えると、考えが変わってきて、父母はだまって子どもにお金を使わせていたのだと気づきました。自分もがんばって学ばなければと思うようになりました。知っていることもほんの少しで、服なんかどうでもいいとも思うようになりました。

N・Kさん:小学校で38年間教師をしてきました。60才まで目の前にいた子どもたちに一生懸命で、繰り返していましたが、やめてから気付いたのは、私は学校の中だけにいたのだと言うことです。途中でなぜかしんどくなって、どこかに行きたくなりました。東京の娘をたずねるといことにして、2日間ほど年休を取り、一人旅に出ました。東京には平日なのにたくさんの人がいて、自由の職業も選んでいるみたいなどと思って帰ってきました。

 その後、児嶋さんは、教師時代からの知り合いですが、いろいろ紹介してもらって、いろいろな事が見えて来ました。第2の人生は明るいかもと思っています。

吉村さん:今までいたその場所を離れるとわかることがありますね。私も職場を離れ、日本を離れると、グループからも離れることになったようです。日本では、集合体にいると、グループでがんばることが求められ、個人の意見はあまり求められませんね。

 でも、カナダでは、「静はどう思う?」「あなたの意見は?」英語では、

 「What do you think?」ですが、「あなたの事を攻撃しているのではなく、意見を求めているだけです」と言われるのです。

 カナダには、いろいろな人が住んでいて、知らないこともお互いに多いので、知っていることや、できることを共有することが楽しいと思うようになりました。

 Critical thinking(批判的思考)も大切だと思います。自分の考えを批判的に見ることは時に自分の価値観の中の大切な物は何かということをぐらぐらさせます。インド人の先生で、「言語だけを学ぶよりも多角的にものごとを見ること」が大切と言われたことがあります。それからは、放っておかずにひとりひとりと話していこうと思うようになりました。

 カナダでもガーデニングが好きでやっていました。毎日変わるのでおもしろいのです。心を開けば変わるのかもと思います。カナダに居たときにはじゃがいもの根っこを見ても成長を感じていました。カナダに7年いると、日本に帰国したくなりました。リバースカルチャーと言えるかもしれません。日本にいたときには、人間関係に苦しんだこともありますが、カナダの友人には小さないやな事があっても、抵抗していくことも大事だよ、と言われてから次はひとこと言ってみようと思うようになりました。変わるためには抵抗する事も大切なのでしょうね。

 亀岡の「みずのき」の友人が、「自分が心地いいと言う場所も、良くないと思う場所もどちらも大事だ」と言うのです。それは、自分の人生を変えることにつながるかもしれないと。

 ひまわり教室などでも、出会えて変化することもあるし、自分の変化も教えてもらえることもありますね。

 ガンジーは、「あなたが見た変化に自分がなりなさい」と言っています。

 日本にいたときに会社の社長さんが、「女性は30才までに何かを仕上げておかないと難しいよ」と言ったことがあります。

 私は、それに対していやになり、やめました。自分が何ができるかを考え、行動してみることが大切であり、そのためには、自分の考えを言ってみて、社会との関係を考えることが大切と思います。何か感じた自分の違和感を無視しないことが大切だろうと。

 カナダでも考え過ぎた時期もありましたが、友人は「もっと気楽でいいよ」と言ってくれました。みんなも変わって来ていて、昔とはちがうかもしれません。今自分が見えて居るその人を信じることが大切で、自分の価値観を話せば、ちがいを越えられるのではないかと思います。

 ルイスは、テキサス出身で、宗教の囲い込みの強い地域ですが、カナダではオープンになってきて、互いの違いを乗り越えられています。日本で最近、ツアーガイドをしたときに「とてもオープンですね」と言われてうれしかったです。少しずつの変化を認めてもらうと生きやすくなり、しだいに心を開いていくのではないでしょうか?

 カナダで、最近行ったジュエリーショップの若い娘さんの店員さんが、体毛も剃っていなかったのですが、とてもフランクで驚きました。カナダには、意見のちがいはあるけれど共存できる喜びがあると思います。

 それと、学びが大事でいろいろな考えに触れることが大切です。それに加えて、ちがいを受け入れ、ちがいに対して抵抗も大切と思います。自分自身の変化がまわりを変えるきっかけにもなるので。ひとりひとりのパワーがあり、それぞれが影響しあうことで、平和につながるとも思います。小さいことからはじめようと思って、今年はブログを始めたいと思っています。

 先ほど言いましたように、私はアートをするときは、「水・氷」がテーマですが、水自身は変わらないのですが、環境によってその他のものは、形を変えていきます。

 人の話を聞いて、自分の考えをもう一度考えるというスタイルを持っています。

 みなさんのご意見をお聞かせくださいませ。

K・Yさん:日本語教室で、ルイスさんを教えていますが、明るくてとても楽しいです。

亀田さん:E・Yさんの自己紹介もどうぞ。

E・Yさん:吉村さんに誘われて参加しています。よろしくお願いします。

児嶋:私は、意見を誰に対しても言えないことはないですが、その理由は何かとお話しを聞きながら考えていました。

 私は小学校1年生から父の仕事場(福井県の地方の登記所)に実家から離れて住んでいました。家には祖父母も居て農業もしていたので、母と弟と祖父母はいっしょに住んでいました。山の村なので、分教場があり、学校をもう少し大きなところがいいと父は思ったのかもしれません。大体2週間に一度は、週末に帰宅していましたが、母と離れていたことは事実です。その後も父の転勤もあり、最後は地域の学校に行きましたが、実際に小学校を3校変わったことになります。そのためかどうかわかりませんが、自分の言いたいことは自分で言うということは習慣づいていたと思います。そうでなければ誰も助けてくれないことを子どもなのに知っていたと思います。これがすべてではありませんが、自分の言いたいことをあまりがまんしていることは、外国人が相手でも日本人に対しても同じだと思います。

Y・Hさん:変化したいとは思いますが、私の個人の経歴を言うと、現在は70台で、団塊の世代のベビーブーマーです。戦後のアメリカへの追いつき、追い越せの高度成長時代の会社員でした。働きづめで、変化しようと思っても、変化が起こらない会社生活でした。欧米ではそれぞれが話題が豊富で、しかも仕事と自分の生活は離れているはずです。日本人は会社がすべてで、会社以外の人との交流はない時代だったと思います。会社生活を終えたら、何とか変えようと今努力しています。

R・Sさん:30数年前の担任をしていたころを思い出していました。社会科のテストをして、余白のところに、問いかけをして自分の意見を書いて言っていました。

 第2次大戦で原爆をアメリカが落としたけれども、それについての意見を求めていたのです。①原爆は非人道的と思うか②原爆によって戦争を日本は終わることができた。

 大体の子どもたちは、①の原爆は許されることではないという意見でしたが。一人の子は②を選び、原爆で戦争が早く終わることができたと書いていたのです。

 帰宅した私は、夫に「このようなことを書いた子どもがいる」と話しました。すると、夫は、「何のために自分の意見を書かせたの?」と聞くのです。「自分の考えを持つために聞いているのだろう?」と。それを聞いた私は、「があーん」と頭がくらくらしました。そうだった。自分の考えを持つことが大切と思ってもらうことが目的だったと気付いたのです。それで、この子には「よく自分の考えを書いたね」と返しておきました。その子は、今も、連絡を時々してきます。現在は、台湾人と結婚しているようですが。

児嶋:アメリカ人で、亀岡のオクラホマ州立大学京都校の校長先生をしていた友人から、「アメリカが原爆を落としたので、日本が戦争を終わらせたとアメリカの教育界では、昔も今も教えているよ」と聞いています。原爆が悪いという指導をしていないと言うことです。

Y・Hさん:相手の論理を知ることが大切ですね。こちらが正しい。向こうが悪いという考え方だけではなく。論理を理解した上で新たな考えが生まれるのでしょうね。

児嶋:その時には、実はアメリカも原爆が何世代も続くような危害をもたらすということに気付いていなかったということも新聞では報道されていますが。

S・Fさん:私は小説を読むのが好きで、気に入った小説は、10回も読むことがあります。毎回新鮮だと思えるのです。『さあ、無明』という本です。応仁の乱を描いた内容ですが。以前に読んだころの自分をふり返ることもできます。

吉村さん:その時どきの人生でだいぶん変化があるでしょうね。読んで居ても。年齢とか、職業とかのちがいもあって。どこかに灯火が点っているのでしょうか。

亀田さん:最後にカナダへ行った時のことですが、カナダは移民の国で中国の香港からの移民の人もたくさん来ていました。移民の人はカナダでは最初はレンタルで借り、何年か経つと自分の物になるというような法があるようです。

 アメリカと比較すると、アメリカはとてもきびしいです。オーストラリアも厳しいです。移民の資格とか、持っているお金の額とか。カナダも以前に比べれば厳しくなっていますが。アメリカは州によって法律があり、常識がちがいます。日本は、衝突することを避けるので詐欺も多いですね。それにまだ多数決が通り、あとを引くこともありますね。外国ではツアーガイドをしていると、徹底的に言わないと交渉にならないですね。言って落ち着くこともあります。

 香港の女の子がカナダに渡り「帰りたくない」と言っていますね。カナダが亡命をOKすれば中国も踏み込まないと思いますが。カナダではこの件についてどのような意見がありますか?

吉村さん:その時は、私は、すでにカナダを離れていたので、国民の反応はわかりませんが、当然という意見が多いのではないかと思います。批判はあまり見受けられないです。難民の数も毎年多いので。地域によっては残念ながらまだ先住民への差別が残っていたります。先住民人たちの土地に入って行って植民地にしたわけですから。私も移民としてそこは複雑な思いがあります。ここにいていいのだろうかと。

 でもカナダは物価が高いです。特にバンクーバーは。学生ビザの発給は今年は減っているようです。

E・Tさん:新しい人や新しい物に触れるのは好きです。このGlobal Sessionも刺激があります。自分が変わっていくように、社会を変わってほしいと思っていますが。まわりが変わってくれたらいいなと思っていますが。

吉村さん:あきらめると心が苦しくなるので、自分のまわりだけでも話しながら、ひとりひとりの力を大切にしていきたいと思っています。

E・Tさん:新しい仕事に挑戦したり、新しい土地に住みたいとも思います。自分が動かないと周りも動かないのでしょうね。

吉村さん:他の人の考えを知り、自分も考えない限り、自分も変わらないですね。

E・Tさん:まわりが変わったら自分も変わるというのは甘いですね。挑戦しなければ。

吉村さん:戦争はくりかえさないという考えのゴールはどこなんだろうと思います。戦争はぜったい良くないと思いますので。他人を変えるのは難しいですが。

E・Tさん:難しいですね。自分が変わることで他人も変わるかもしれません。

吉村さん:変えられないバックグラウンドがあるのでしょうか?

Y・Hさん:変えるのはなかなか難しいでしょうが、変えようと志を持つことは大切ですね。九割以上は不可能かもしれませんが。変えられるだけ変わったらハッピーと言えるのではないでしょうか?

E・Tさん:ちいさい積み重ねで大きく変わるかもしれませんね。

Y・Hさん:自分で変えられるといいですね。

児嶋:ひまわり教室などでも毎回、小さな変化がありますね。それがおもしろくて、我々は続けているのかもしれませんね。

Y・Hさん:ケセラセラですね。

児嶋:楽しい方がいいですね。

E・Yさん:「変化する」ことに関心があったので、参加しました。小さな挫折もありますし。

 夜、零度以下らしい時に外を歩いてみました。寒いなあと思ってもとても気持ちが良かったです。大人になってから、冬がきらいでした。でもその日は、「きらいと思っていただけなのかな?」とも思えるほどでした。

 人は学ぶのですね。こう感じたら、こうだろうと考えてしまうことが多いのですが、寒いとか、暗いとか、それがいやというだけではなくて、人前で話すと話せて、苦手な人には多少抵抗がありますが、瞬間に変わる事もあります。

吉村さん:私は新潟出身でもあり、豪雪地帯でもあるので、冬が好きです。冬は新潟では生活がストップします。冬は暗いし、しんどいです。でも。冬には動物は寝ています。しずけさの中で、人間は春を待っていますね。

児嶋:京都に福井から来て教師をしていて一番驚いたのは、冬でも、外の運動場で体育ができることでした。日本海側では、考えられないですね。

亀田さん:カナダはオーロラがきれいですね。バッハローでは3、4年前は、大雪でした。

Y・Hさん:シカゴはこの間マイナス30度のようでしたよ。

吉村さん:北極圏はそうですよ。マイナス30度で、9:00ごろ日が昇り、3:00には日没です。マイナス50度くらいです。

亀田さん:では、時間が来ましたので一応終わりにしましょう。今日はありがとうございました。

2023年12月16日(日)第370回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2023年12月16日(日)10:30~12:40
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:オジュグ・タデウシュ・アダムさん(ポーランド出身・大学講師)
コーディネーター:亀田博さん(ツアーガイド)
参加者:11名

 今回のタイトル:
「世界の紛争・歴史観・多文化共生そして個人」

自己紹介

亀田さん(コーディネーター):昨年に続き、オジュグさんにはお世話になります。前回は、クリスマスについて楽しいお話しをお聞きしました。今年はそのクリスマスの話もお聞きしたいのですが、じっくり今の世界情勢について伺いたいと思います。

その前に、参加者の自己紹介からお願いします。

Y・Hさん:はじめての参加です。亀田さんとは、時々別の国際交流のイベントで会っていました。この間のワールドフェスタで児嶋さんに会い、このGSを紹介され、参加をしています。私は高校時代から、多文化交流に興味を持っていて、国際青少年交流協会主催で、ドイツの1ヶ月訪問したりもしました。就職もそれに関連したところに行きたいと思い、総合商社で仕事をしていました。退職後、50年ぶりに亀岡に帰って来ました。

F・Kさん:私は、このGSに2回目の参加です。この6月に滋賀県日野町から、京都市の中京区へ引っ越ししました。35年間、特別支援学校で教員をしていましたが、退職してから、私は狭いところにいたと気が付き、学び直しをしたいと思うようになりました。今は、古門書(江戸末期)を中心に学び直しをしています。

R・Sさん:小学校で教員をしていました。退職して8年目になります。今は外国につながる子ども達の学習支援教室のひまわり教室で、児嶋さんたちといっしょにボランティア活動をしています。オジュグさんがゲストのGSは、3回目になります。前回はポーランドの歴史を聞きながら、クリスマスの話もお聞きしました。今回は、ウクライナの隣の国であるポーランドの支援の話や、ポーランド政権が変わった上でのちがいなどもお聞きしたいと思っています。

S・Nさん:京都市左京区から来ています。外国人の困りごと相談などをしていて、最近は医療関係の相談が多いです。今回は、ポーランドから見たウクライナ支援についてなどもお聞きしたいと思います。

Y・Hさん:以前12月にオジュグさんからクリスマスについてお聞きしました。30年ほど前にハンガリーには、行ったことがあり、文化的に豊かな国だなあと思いました。そのようなことをポーランドについてもお聞きしたいです。退職後、イギリスに短期留学などもしましたが、「今は来るのが大変だ。ストライキなどもあり、いつ飛行機が止まるかもしれないし。」などと言われ、行っていません。私たちは、今何をすべきなのかを考えていきたいと思っています。

M・Kさん:大昔に一度ポーランドに行ったことがあります。現在は、私は亀岡市の教員をしていて、外国の勉強をする機会を作り、オジュグさんにも一度学校へ来ていただきました。ポーランドについては、あまり知らないので、学んで伝えたいと参加しました。

S・Yさん:今年の3月に亀岡市に引っ越しをしてきました。2010年から何年間もカナダに居ました。今は、多文化共生センターで仕事をしています。

Z・Yさん:中国出身で、現在は、亀岡市の児童教育支援員として、千代川小学校や大井小学校、大成中などで外国につながる子どもたちの支援をしています。オジュグさんの話は、3回目になります。この仕事をし始めて、自分が勉強不足だと感じることが多くなりました。

児嶋:このGlobal Sessionは、1999年に私が勤務していた、亀岡交流活動センター(元OSU-K)で始め、今回は370回目になります。知らない間に20年を過ぎてしまいました。2011年4月に退職後は、Office Com Junto(オフィス・コン・ジュント)の主催として続けています。

亀田さん:(ポーランド語でごあいさつ)私は、大津市民で、オジュグさんも同じ大津の比叡山下の坂本にお住まいです。事務所は、京都市内にあるのですね。今日は久しぶりにお会いしましたが、毎日世界のニュースを聞いていると、ウクライナのニュースが少なくなってきていますね。オジュグさんは、日本に在住で、ポーランドについてもお聞きしたいと思います。

最近は、いろいろな国から日本に来られていますが、オーバーツーリズムについてもお話ししたいと思っています。では、ご自身の紹介から、オジュグさん、お願いします。

グローバルセッション開始

オジュグさん:自己紹介と言っても。35年間日本に住んでいます。何で日本に来たのかとよく聞かれましたが、「わからない」と答えています。前の年のようにクリスマスの話は一番いいのですが、今日は、難しい話をさせてもらいたいと思っています。

  • 歴史をどう伝えるか。
  • いろんな国の人たちが仲良くするのはどうすべきか。個人の問題になりますが。
  • グローバルセッションとしては、セッションですから、ワークショップ式に問題を提起し、みなさんの意見をお聞きしたいと思っています。

ウクライナ戦争についてですが、ニュースが減ってきていると感じます。パソコンでヨーロッパのニュースも時々見て居ますが、戦争が日常の普通のような感じになって来ていると思います。最初は、ショックを受け、支援をすれば、早く終結するのではと思って居たのですが。最近は精神的にしんどいので、「忘れよう」とかいう雰囲気もありますね。ゼレンスキー大統領がアメリカに行きましたが、なかなかです。

アメリカの支援がないと負けると思うし、でもヨーロッパの支援も貧しくなっています。ここまで戦争が続くと、何か武力行使で得することがあるのかとか、もし、ウクライナが負けるような事があると、どのような世界が生まれてしまうのかなど、将来が安全とは言えないのではないかとか考えてしまいます。

アメリカもヨーロッパも疲れて来て居て、私たちも含めてどうしていくかを考えなければならないなと思っています。負けないように努力をするとしたら、個人のレベルでどうしていくかを忘れてはいけないと思います。

ポーランドニュースには、いつもウクライナ戦争が、今日は659日目とか出て、続いていることを明示しています。

毎日、どれだけの人が命の危険にさらされているか。爆弾が一分先に落ちている。自分たちに選択権がない。結果としてだけではないけれど、この状況を許してしまった状況があると想像してみてください。そのような可能性がすぐそこにあると。

ポーランドに避難したウクライナ人の現状にはどうかですが、最初は、「まさか」と思っていたけれど、日本との大きなちがいは、「となりの国」という点です。たくさんの人が流れてきます。それは、今出ないと命がない。家にも帰れない。知らない所へ行くのは、「とりあえず命を守る」ためです。ポーランドには200万人以上も流れてきましたが、最初から行政は対応できなくて、一般人が対応しなければならないとしてやってきたと思います。普通の人が、「どうぞ」と家にいれます。何も持っていないし、子ども連れもいますから。1ヶ月先に戦争が終わったら帰ってもらおうかくらい思って受け入れを始めたと思います。一日か二日が1週間になり、1ヶ月になって来ると、今までの自分の生活ができなくなります。日常化してくると、ことばがちがい、習慣もちがうし、食事の好みもちがうでしょう。また、家にいても、誰かに電話をするくらいで何もしないかもしれない。こうなると個人の対応は無理になってきます。国や自治体がようやく動き出すでしょうが、すぐ帰ってもらうと思っていたのが、しばらく暮らすことになって来る。「暮らす」と「訪問する」の差は大きいですね。教育や仕事も必要で、医療の必要も出て来るでしょう。個人のレベルを超えてしまいますね。例えば、亀岡に子どもが急に500人増えたと思ってください。どうしますか?帰れとは言えない状況で。

とりあえず、子どもが学校に来れるようにしなければならないです。では、どうしたらいいのか。半年で帰ることが決まっているということと、ずっと留まるは、対応策がちがうはずです。「ここにいる」と言えば、無視できない。勝手にしろとも言えない。自分を犠牲にすることもできないですね。

これからもポーランドへのウクライナからの流入は続く可能性があります。最初、クラスに10人転入して来たと考えてください。一人、二人は可能でも、どうしたらいいのかですね。ふつうのポーランド人の子どももいるし、受験生の場合もあります。その子には将来に関わる事になりますね。ウクライナ人だけのクラスを作る案もありますが、このようなクラスにいると、ポーランド人の友達もできないし、ことばも覚えられない状況が予想されます。精神的な問題が起こることもあり、大人のサポートが必ず精神的なケアが必要です。これを理解しなければ、「疲れた」状態になりますね。

ウクライナは穀物の輸出国ですが、黒海経由で出せなくてポーランド経由になって来ました。ウクライナの穀物は、ポーランドより安価で、ポーランドの農家の産物が売れない状況が出て来ました。他にも、ドライバーの料金がウクライナの方が安くて今度はポーランドのドライバーが仕事をできなくなる状況も出て来ました。こうなるとポーランド政府は、何とか対応しないといけない状況です。

ポーランドは最近、政権が交代し、ようやくEUとの協力体制で動けるようになりました。前の政府の時の変な状況がやっと正常化してきました。

ウクライナを大事な友人として、似たような文化を持つ国として、普通の市民が助け合う気持ちになるようにしなければと思います。

戦争が始まってから、ウクライナからポーランドへ1700万人の人が国境を越えて来たと言われています。その後、1500万人が自国に戻って行ったようです。行ったり来たりの移動の多さに驚きますね。今は300万人ほどが留まっていると言われています。京都と大阪で人口は1300万人ぐらいですから、2年間にこの京都大阪に住む全員が移動したということになります。ポーランドだけでなく、他国への国境を越えた人もいたはずですから、ドイツには150万人ほどが留まっていると言われています。

イスラエルとパレスチナをどう思っているかですが、外国のメディアの報道と実際はどうなっているのかをしる必要がありますね。亡くなっている人は、パレスチナ人は14000人などと言っていますが。

Why War?

  • 初めは、ウクライナ戦争はだれも想像しなかった。
  • イスラエルとパレスチナの戦争は、なぜそれが起きたかを考えなくてはいけない。

皆さんは、戦争についてはどうですか?

Y・Hさん:ウクライナともうひとつの戦争は、根っこがちがうような気がします。ロシアは、昔ソ連時代にウクライナは、自分の支配下にあったからと言っていますが、1990年頃から東西融和が進み、EUやNATOが拡がって行ったので、ロシアが結果的には暴発したことになるのでしょう。イスラエルとパレスチナは、もともと民族間に抗争がありましたね。ユダヤ人とアラブ人の抗争ですが、アラブの人が住んでいた地域にヨーロッパ各国の支援を受けてユダヤ人の国を作ったのですね。その後、アラブ人が追い出され、この根っこは深いと思います。だから、ふたつの戦争はちがうと考えます。

オジュグさん:ハマスの攻撃があったからとイスラエルの正当化をはかり、イスラエルを守ろうという動きがあります。自分が危険だからと。

Y・Hさん:どちらも脅威から来ていると思います。

亀田さん:ウクライナ戦争の他でも、コソボ紛争以後、他のEU諸国でも問題が起こっています。イスラエルとパレスチナは第2次大戦以後の争いですね。イギリスは逃げていますが、アメリカは引けないし、アラブ諸国もいろいろな問題があります。シリア・ヨルダンやイランにイエメンなど。イスラエルの隣がエジプトですし。

Why War?

オジュグさん:答えは出ると思いますか?

Y・Hさん:自分の考えだけが正しいと考え、相手と話をすることがいけないと思います。他を理解するという姿勢が大切(聞く耳を持つ)でしょうね。

オジュグさん:戦争が起こっている理由を考えていくべきだと思います。なぜ戦争がなくならないのか。そして、なくすためには、何が必要なのかと。

Y・Hさん:日本政府も非核宣言をしないですね。軍需産業をのばそうとしています。日本もアメリカに追随しているような。

オジュグさん:歴史的にそうであっても、政治的には戦争の必要性を説明できますか。

S・Yさん:宗教上のちがいもありますが、キリスト教徒でアラブ人という人もいますよ。

オジュグさん:不思議じゃないですか?理解できないけれど、現実にはありますね。

S・Nさん:政府と庶民はちがうんですよ。実際に戦争などで死んでいるのは庶民です。金持ちというより庶民(貧乏人)のちがいがあり、個人としての金持ちがやらしているのではないでしょうか?

オジュグさん:宗教上では、欲を抑えるよう指導していますね。

S・Nさん:宗教の組織の上の人は金持ちでしょう。

オジュグさん:共産主義でも戦争は否定していないですね。

S・Nさん:権力を握るとあまり共産主義ではいられないのではないでしょうか?誰も殺したくないと言いながら、おかしいいですね。拒否する権限もないですからね。

オジュグさん:何も言わないなら、楽かもしれませんね。

S・Nさん:教育の問題としたら、今がチャンスかもしれませんね。

児嶋:先日テレビで見たのですが、日本の高校生とアメリカの高校生がが、第2次大戦の真珠湾攻撃と広島・長崎の原爆について日本で話合いを持ったというニュースでした。これからの若者を入れた会議として必要でおもしろいと思いました。私は、OSU-Kのアメリカ人の教授たちといっしょに仕事をしていた時に、何度も「原爆を落とされなかったら日本は戦争をやめなかっただろう」と言われました。原爆そのものの、被害についてあまり知らないままに落としたアメリカでは、その後の教育もこの程度しかやっていなかったのかと何度もがっくりしたことを思い出します。

S・Yさん:今は戦争をしている双方が、どっちが勝つかを決めなければ、「共生」についての考えが受け入れられないのかと考えてしまいます。

オジュグさん:当たり前の事がどうして通らないのでしょうか?

F・Kさん:「共生」については、教育の中では特に必要なことがらだと思います。戦争は、弱い立場の人(障害を持った人)に特にひどい状況を作ります。ウクライナの戦争などでも、あまり報道には見えて来ませんが、どうなっているのかなといつも私は考えています。

オジュグさん:人間の価値の問題ですね。

F・Kさん:戦争の時ほどあらためて感じてしまいます。

R・Sさん:なぜ戦争は起こるのかについては難しい課題だと思いますが、プーチンでも、自分が作りあげた体制を維持していかなければ負けてしまうと思っているのでしょう。先日は、プーチンの支持者が8割とか出ていましたが。そのためにひとつの操作として戦争を続けているような気がします。

イスラエルのネタニアフ首相は人気がないと聞いていますが、負けるわけにはいかないので、つっぱしるしかないと思っているのではないでしょうか?反対の声もあるようですが。

日本も戦争をくりかえして来たわけですが、「あぶない」と見抜き、どんな政府や国を選ぶべきかふだんから話し合っていなければならないのではないかと思います。

オジュグさん:普通の人が望んで戦争をするわけではないですね。自己利益だけではないはずですが。ウクライナ人だけが犠牲になっているわけではなく、ロシア人も多数犠牲になっているはずです。戦争とはそのようなしくみでしょう。

Z・Yさん:戦争はどうしておこるのか。宗教や、教育の内容なども問題があるはずです。自分の国が強くなりたいと思うからかもしれません。海の底で起こる地震でさえも、自然に起こるばかりとは言えないかもしれません。反抗から?ではどうして?どっちが悪いとも言えないケースがあると思います。では、戦争が止まらないのはどうして?平和的運動もいろいろしているのに。日本はまだ独立していないという考え方もありますね。それを打ち崩す、日本の独自の力も足りないような気がします。

オジュグさん:自分が守らないといけない。それは何か。今のウクライナのためにと考えることもあります。

M・Kさん:なんで戦争が起こるのを認め、許しているのか?ひとごととか、傍観者でいるのか。それは、想像力の欠如かもしれません。

児嶋:自分の知っている範囲しか言わない人もいますね。日本政府もそうしているような気がします。

オジュグさん:戦争はなぜ起こるのか?

  • 相手の土地を奪う(領土争い)
  • 宗教上のちがい(私の方が正しい:神様に言われた)
  • 民族のちがい
  • 政治的争い(イスラエルとパレスチナのように)
  • イデオロギーのちがい(ロシアはずっとスラブ民族を統治してきたと思い込んで、今後もそうしなければとならない権利・使命感がある。)

戦争を許すなど不思議でしょう?議論をしてまとまらなかったら、殴り合って決めようかというのが戦争でしょう?許し合うことはないのでしょうか?

S・Nさん:国民の思いと権力者の思いにはずれがあるのではないでしょうか?戦争を許す人が日本にはいないでしょう。民主主義ですから。でも、日本は実は民主主義ではないのではないでしょうか?投票率20%以下で当選しているのですよ。にせの民主主義で、政治家主義とでも言うのでしょうか?投票するしか自分の意見を通すことはできないのですが、当たり前が国会で法案が通らないことが多いですね。それで、「戦うぞ」と思っても、だれのために?自分のため?

オジュグさん:日本の1億何千万人の人は普通の人で、政治家はほんの少しでしょう。ポーランドは8年間同じ政権でしたが、これではあぶないと投票があり、投票率は70%だったそうです。つい最近のことですが、変わりました。戦争をしたくなければ、普通の人が物を言える仕組みが必要と思います。

Yuval Noah Harariという人を知っていますか?イスラエル出身のユダヤ人ですが、おもしろい人です。今までは「知識は力なり」と言われてきましたが、現代は知識や智恵は消えて、「情報」社会になって来たと言われています。「情報の洪水」でどれが重要かを見分ける力が必要です。自分にとって重要でない情報、例えば電話帳を皆暗記する必要は無いでしょう?

Harariは、自分にとって重要なものとそうでないものを見分ける力が大切だと言っています。そのためには、教育の中でその力を養うことや人と意見を交しながら話合いで見つけることなどが必要ですね。人は「物語で物事を考える」という傾向があるとも言っています。事実かどうかは関係なく、人間にひかれて判断する傾向があるとも。これが良いとは限らないのですが。社会の仕組みとして民主主義がいいとは思いますが、「自分が歴史や政治をどう見るか」それは、「自分という存在をどう考えるか」が大切と言っています。それは、自分を理解することによって相手を理解する力を持つからです。

「共生社会」とは、地元の人と外の人が共に生きることでしょう。

Me and Other 

児嶋:今日の朝、テレビでNHKの「チコちゃん」の番組を見ていたら、「すべての日本国民に告ぐ」と言い出しました。毎週、聞いているのですが、「日本国民」と言うなよと思ってしまうのです。「住んでいるすべてのみなさん」でいいでしょうと。

オジュグさん:EUなどでは、国を越えようとしていますね。先日、初めて会った人と話していたら、突然、「英語で話して」などと言うのです。

私は、初めから日本語で話していたのに、それに気付かないみたいで、気付いたら 「英語で話して」と言うのです。接する時に、顔で決めているのは、先入観からでしょう。他人との関係は、実感してそれから判断してもらいたいと思います。

「戦争という手段」は、他を排除することですね。もうやめましょう。

亀田さん:先ほどチコちゃんの番組で、「日本国民」と言ったという話がありましたが、日本人は「平和ぼけ」しているとも言われています。どう聞くかについて無関心なのですね。その戦争による怖さの経験がある人は、ポーランドの人たちのように選挙も拒否したりしないでしょう。

オジュグさん:「平和ぼけ」という表現は危険ですね。気付かない内に「平和」は悪いことですという気持ちを持つようになる可能性があります。政治に関心を持ち、理解をした上で、賛成するか、賛成しないかを判断するべきですね。情報に左右され過ぎずに。

児嶋:最近の若者というと、私は小学生からでもそうだと思うのですが、手に入れる情報量が多すぎて、多分判断できないのではないかと思っています。昔の世代の子ども時代とは極端にちがいがあります。この子達が、情報を、将来自分で判断できるかは心配です。

オジュグさん:教育の場でも考える必要がありますね。

M・Kさん:リテラシー(与えられた材料から必要な情報を引き出し、活用する能力・応用力)に弱いですね。これは今に始まったことではないと思いますが、どう判断するかなどの力が弱いと感じます。

オジュグさん:権力側から見ると、自力で考える国民が増えることは、喜ばないでしょう。権力の都合で動かせられる方がいいですから。ソ連も共産主義で失敗しているので、その点は明らかです。リベラルな方がいいのですが、最も良い選択をそれぞれができるかというと、今のままでは、まだですね。最も良い選択をそれぞれができるよう、「がんばろう」と励まし合うことが大切なのではないでしょうか?

Z・Yさん:選挙も20%くらいで当選するようではだめですね。

オジュグさん:ケースバイケースではありますが、50%くらいはほしいですね。それに想像したことと現実がちがう場合は、現実を重んじる体制であってほしいと思います。

亀田さん:さて、時間も過ぎました。まだ話したい人は個人でやっていただくことにして、今回はこれで終わりにしましょう。ありがとうございました。

2023年11月19日(日)第369回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2023年11月19日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:大野友アンドレイアさん(ブラジル出身・箕面国際交流協会職員)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:11名(内2名はオンライン参加)

 今回のタイトル:
「①ブラジルに子どもたちと一時帰国して」
「②外国につながりを持つ子どもたちが、自分のルーツにふれて」

自己紹介

亀田(コーディネーター):ボンジーア。今日のGlobal Sessionは、369回目です。

 大津市在住です。アンドレイアさんのGSのゲスト参加は2回目ですね。2022年に研修会の講師でも来ていただいたので、全部で3回目ですね。箕面から山越えで来られましたね。

 では、それぞれ、自己紹介をしてください。

E・Tさん:京北町に住んでいます。Global Sessionにはよく来ています。

M・Aさん:1年前までブラジルに居ました。現在は大本さんで、奉仕中です。    (亀岡市のブラジルの姉妹都市ジャンジーラから代表団が来られた時のポルトガル語通訳でした。)

S・Nさん:京都の左京区から来ました。在住外国人の相談ごとを聞くことをしています。今日は、そのメンバーがオンラインでの参加がある予定です。

M・Mさん:「やさしい日本語をひろめる会」の会長をしています。在住の外国人とコミュニケーションをとることを考える会です。現在は、薬局や薬剤師の方々との外国につながる人たちが話が通じるようにといろいろ聞いて調べています。いろいろな課題があります。

M・Fさん:映画関係の仕事をしています。秋のイベントが終わったところです。子どもの映画制作やカルチャーウオークなどもやりました。

R・Sさん:ひまわり教室で外国につながる子どもたちの学習支援をしています。アンドレイアさんの講座などは全回参加しています。今日は、子どもさんとブラジルに行かれた話というので、お聞きしたいと参加しました。

児嶋:1999年に開始しましたが、当時は、亀岡交際交流協会の職員でした。それ以後、停年退職後は、主宰するオフィス・コン・ジュントの企画で継続しています。今回は369回目ですが、20年以上過ぎたと驚いています。

亀田さん:コーディネーターをしています。先ほどはポルトガル語でお話ししましたが、仕事はツアーガイドです。ここ3、4年はコロナでしていませんが、日本人をいろいろな国に案内してきました。南米は遠いので行っていませんが、ヨーロッパや中国やいろいろな国に行きました。チベットやウイグル、モンゴルも何度も行きました。現在は、中国はまだ開放とはいきませんが、ヨーロッパからの旅行者が多く来られていますね。スペイン、フランス、ブラジル、ペルーなどからも多いですね。「日本は天国」などと言われていますが、その理由は、1は円安で、2は、実際の物価が安いことが挙げられるようです。どこへまずいくかといくと、100円ショップなどです。中国などにも安売りの店がありますが、「200円ショップ」とかで、お気に入りのようです。京都駅などを見ても、ほとんど外国人かとか思うほど多いですね。

 アンドレイアさんの自己紹介から始め、今日のGSをよろしくお願いします。

グローバルセッション開始

アンドレイアさん:大野友アンドレイアと言います。箕面国際交流協会で仕事をしていますが、今日は、その職員として来たのではありません。(笑)

 箕面市には住んでいる外国人も多いです。近くに大阪大学もあり、留学生も多いし、就労者も多いです。今までと同じ話の内容にならないように気を付けますが、よろしくお願いします。

 私は、本当に10年ぶりに、今回は子ども3人といっしょにブラジルに行ってきました。「子どもが母親の文化に触れる」ことと「いろんな人と出会う」ことを目当てに行ってきました。

 私自身は、ブラジルの小さい町で育ったので、「ブラジル人はこうだ」とか、「日系人」という感覚が無かったと思います。今回はサンパウロへ行き、日系の人たちにいっぱい会いました。

 私は、サンパウロ生まれですが、すぐガラパリという小さな町に移転し、学校では台湾人の家族一軒以外にはアジア系の人はいなくて、アジア人とも、日本人とも、日系人とも思う事がなく、過ごしていました。

 祖父は戦前満州に行き、ソ連が参戦後、ようやく家族で日本の山口県に帰国することができました。でも、その時は、いろいろな中国人が助けてくれてやっと家族一緒に帰れたそうです。でもそのような話は祖父はあまりしなくて幼児であった叔母もあまりその話はしませんでした。満州では、瓦職人だったそうです。当時日本に帰国してもどうしようもなく、当時ブラジルは、奴隷制度が廃止され、入植地を用意して移民を促進していたので、家族でアマゾンに移民することになりました。でも、土地はあっても自分で家を建てなければならず、母は5才でブラジル人の政治家の家に6人目の養子として住み込み、学校に行かせてもらうことになったようです。その後、1985年にはブラジルも軍事政権が終わり、母の養子先の政治家は夜逃げし、ベレンで母だけ残されたそうです。その後、叔母に連絡が取れ、助かったそうです。

 その後、サンパウロで駐在員だった父と出会い、結婚しました。そして、私(アンドレイア)が生まれ、父は日本の会社をやめ、日本に出稼ぎに行っていた従兄のやっていた八百屋を継ぐことになりました。「仕事ない?」とたくさんの人が出入りしていたことを覚えています。また、父は、八百屋で売っていた野菜がホテルでは高額で売っていることを知り、今度はホテル経営に乗り出しました。父はポルトガル語は話せても書いたりするのは十分でなく、苦労したようです。

 当時ブラジルでは、私立学校と公立学校に大きな差があったのですが、私は、私立学校に行きました。その間、ポルトガル語はうまくなり、日本語は家でだけ話す状況でした。だんだん弟達とはポルトガル語だけの生活になりました。

 そのためもあってか、14才で突然、日本にやって来た時は困りました。吹田市の学校に入ったのですが、今のような学校での支援はあまりなかったし、近くにブラジル人もあまりいませんでした。父は昔いた会社で仕事をすることができたのです。

 学校での支援はなかったのですが、家に支援者が来てくれることもありました。でも、学校では内容が難しいと感じ、自分だけができないと思っていました。中学校から高校へは、入試がありますが、通常のテストでは、100点満点の内、5点か10点しか取れないのです。ある先生が調べてくれて、高知県の明徳義塾高校に国際コースができるらしいし、入学することができました。2年生の時にブラジル人の監督と選手がやってきました。この高校の国際コースは、3年間の内に自費で留学が義務付けられています。そのお金をどうしようと思っていたのですが、当時、ブラジル人たちのために翻訳を頼まれていて、その翻訳料でカナダに10ヶ月間留学することができました。ポルトガル語ができると、日本語より早く身に付けることができました。英語の方が日本語よりもよく読める状態になりました。

箕面市での在住外国人支援

 箕面市では、ブラジル人は少ないですが、外国につながる16才未満の子どもは少なくないです。

①子どもの支援、 ②相談を上げていますが、英語、ポルトガル語、スペイン語、フランス語などで相談を受けています。対応言語が多いので多様な人たちに出会うことができます。

外国人が日本に住む時の壁は大きく分けて3つあります。

1.ことば 2.制度 3こころ

 この中で、制度の問題も大きいです。在留資格を更新しなければいけないことを知らない人が多いです。日本生まれで、日本で育ち、ブラジルに行ったことがない子どもでも在留資格は大きな問題です。ひとつの家族で、祖母は日系二世で、日本語だけ、母はポルトガル語、子どもは日本語だけを話す家族もいます。最近のニュースでは、日本で生まれた外国ルーツの子に永住権を与えるというものがあります。在留資格によって、仕事も安定しないので、さまざまな滞納も出てきます。日本で生まれ、どこにも行った事のない子どもたちにとっては、なぜ日本に住む権利がないのか、不公平に思うのです。

「多言語での育成はプラスかマイナスか」

 1960年代半ばまでは、マイナスと思われていました。それは、学校での学業不振・精神不安・情緒不安定などの理由が挙げられました。

 その後は、多言語での育成はプラスだろうと変化しています。

「母語支援について」

*保護者が母語に力があるか、ないかで差ができる

 学校では母語支援のスキルがないので、その子の学力を知る手立てが必要。

 DLA(母語と日本語と両方でアセスメントする)方法で測る方法(大阪大学等)

普通のクラスではなく支援学級に入れてゆっくり学習する方が子どもによいと考えがちだが、問題はある。(レッテルがはられるようで、子どもが自分で自己肯定観を持つのが難しい) 

箕面市では、母語クラブ(スペイン語とポルトガル語で チャチャチャ)を7年前から、毎月ミーティングをイベントとして開催している。

 関西ブラジル人コミュニティのイベントを、4月18日にブラジル移民した祖先の気持ちを考える体験として神戸港で移民船に乗る体験を毎年しています。

外国にルーツを持つ子どもの現状を説明する時は、ことばの課題として学習機会があるか。日本語力が不足・母語の発達として支援が不足・母語喪失などがあげられます。

 うちの長男は、生まれてからアメリカにいたために、外では英語、家の中では日本語とい生活でした。ポルトガル語は全くしりません。8年後に生まれた下の子達は、まったくポルトガル語は消えています。

子供たち3人とブラジルへ一時帰国

 今回のブラジル行きは、16才、8才、6才の3人の子といっしょでした。なかなかチケットも取れないので、16才の長男は別便で行き、ブラジルで会うというような行き方でした。

私の弟は、いっしょに日本に帰国したときは7才でしたが、成長してブラジルに帰国していました。ポルトガル語も忘れてしまっているのに。

 最初はサンパウロのリベルダージで倉庫の整理などのバイトで仕事を始めました。そのうちにトップに立ち、営業職になりました。当時ブラジルに拠点を持とうとしていたダイソーの社長の手伝いをし、その後、ポルトガル語も日本語もできるようになったので、代表になり、その後独立をしました。今はうどんやとラーメン屋をしています。その子どもたちはブラジルの学校に通っていますが、時間の空く日には、日本語学校にも通っています。(ブラジルの学校は、半日ごとに学習する子どもが交替します)このため、両方の言語ができるようになっています。

 ブラジルでは、クレジットカードがどこでも使えます。

 また、今回行って、自分の日本に対する雰囲気が変わったと思います。それは、アフロ博物館というところを訪ね、日系の母親の絵が飾ってありました。そこでは、「日系のひとがどれだけブラジル根付いているか」を問うような感じがありました。

 私は、現在の分断が広がる世界の中で、憎しみではなく、安心を得ることができ、国籍や立場ではなく、個人が尊重され、互いの対話をあきらめず、関係をつむぎ続けられる場所が大切だと思います。

 移民博物館では、「移民の旅はいつ終わるのか」「移動って当たり前」というメッセージが書かれていました。

 ブラジルにはいろいろな顔があり、サンパウロの町では自分と似ている人も見ました。日本の各県から来ている地図もありました。日本語を教えている私立学校もあります。自由な雰囲気ですが、月謝は高いので、貧富の差が大きいですね。

アンドレイアさんへ質問

亀田(コーディネーター):質問はどうですか?

M・Fさん:14才で日本に来られた時の日本の状況はどうでしたか?ブラジルとのちがいをどう感じられましたか?

アンドレイアさん:ブラジルでは、自分が日系とあまり思わなかったのですが、日本に来たら顔がみんな同じだと思いました。帰る時には、ガラパリから、サンパウロに行き、日本に来たのですが、その時に日系コミュニティに寄り、「日本ではいじめに気をつけて」と言われました。日本では、「海外に興味がある」という子達もいましたが、少し集まる所に遅れると、「ブラジル人だから」とも言われました。現在は、国際交流協会から小学校の国際交流クラブなどを訪問することがありますが、「海外いや」とか、「日本は安全やし」とか言う子が多いです。

M・Fさん:物理的なちがいはどうでしたか?家の大きさとか。

アンドレイアさん:最初日本に来たときには、父が元いた会社に就職したこともあり、社長さんの家に住んでいましたので、とても大きかったのです。でも、他の家は小さいと思いました。

S・Nさん:神戸にある海外移住者協議会に行くと、移住した2世が多くいて、70代や80代がいます。最初にブラジルに行ったブラジル丸の展示がしてあるビルにも行ったことがあります。県人会なども各県にあるようです。パラグアイからの人が多いですが、当時、ブラジルに行きたい人が多く、それに入れなかった人は、パラグアイに行ったようです。今日は、ポルトガル出身の学生が来たかったのですが、風邪で来られませんでした。

児嶋:ブラジル生まれで、現在日本に仕事で来られているM・Aさんの感想が聞きたいです。

M・Aさん:歴史的によくしらべてプレゼンをされていると思います。私も同じ移民のルーツでブラジル生まれです。母はパラオ出身で、父は広島出身です。ブラジルで二人は出逢い、パラグアイとブラジルとの国境の町で生活していました。学校は、ブラジル人学校に通い、ポルトガル語、スペイン語、そして日本語も学びました。ブラジルは、1500年に、ポルトガル人が発見し、そこをインドと思い込み、現地の人をインディオと呼び始めました。アマゾンの先住民は日本人と似ていると思います。シャーマンや薬草の紹介などもしています。元はアジア系と言われています。現在は、金の採掘で水銀を使用し、それを川に流すので、水銀中毒が大きな問題になていますね。

S・Nさん:アンドレイアさんは、ブラジル生まれで日本に来ていますが、国籍はブラジル人ですか?

アンドレイアさん:よく(  )人という箱に入れる人がいますが、地球人と思っています。最近は、日本にルーツをもつブラジル人と言っています。私は、14才で日本に来たのですが、母語がないなと思います。中学生でもかけ算の九九は知らなかったです。時々何かができないと「やっぱりブラジル人」とよく言われました。

Emikoさん(オンライン):アメリカに住んでいます。自分のアイデンティティを自覚することはありますか?私の義父は日系二世ですが、バイリンガルです。計算するのはたいてい母語であるのではないでしょうか?また、日本国籍を持たないと国民扱いされず、住民票がないと病気の時にこまりますね。

Yukikoさん(オンライン):今、不便なことはありますか?

アンドレイアさん:日本語は「~とみなされる」とか、わかりにくいことばが多く、かさなると混乱してしまいます。

児嶋:ひまわり教室で外国につながる子どもたちの学習を見ていると、「かけ算」がネックかなと思う事がたくさんありました。S先生はどうですか?

R・Sさん:かけ算や100マス計算なども振り返って学習すると力が出てきますね。宿題をみながら、気が付くことが多いです。

M・Aさん:外国に生まれて、日本に移住してきた人と、元からいる日本人とは、何か大きな穴があるような気がします。

S・Nさん:サンフランシスコでは刑務所が満杯で、999ドルまでは万引きしてもOKだと聞いたことがあります。それに比べると、日本は犯罪が少ないです。

M・Aさん:ブラジルにはお金がない人を無料でめんどうを見るという法律があります。

S・Nさん:以前、アメリカの破産状態の時に、医療保険を作ろうという動きがありました。日本では、最低限の医療は拒否できないと思います。

M・Mさん:現在薬局などへの外国につながる人たちへの支援について調査しています。保険制度は、スペインは無料、日本は1ヶ月に一度行かなければ、また保険料の支払いが必要です。韓国は、日本よりも良い点もあるようです。中国は保険制度が機能していないところが多いようです。

亀田さん:アメリカでは、事故に合っても支払い能力があるかどうかがチェックされ、それがないと医者は手術を受けつけないです。そのため、渡航時には必ず医療保険をかけるように旅行でもしています。

児嶋:以前アメリカ大学京都校(OSU―K)を開設していたときも、全員にまず、医療保険をかけて出発するよう厳しく指導しました。そのため、いろいろな事故もありましたが、お金が無くて、医療ができなかったことはありません。

亀田さん:日本の医療保険は、その点では優れていると思います。コロナ禍の保険も今はあります。ツアーで行っても家族で行っても、保険は大事です。さて、12:50分になりましたので、まだ質問などある方はあとで、独自にお願いします。ありがとうございました。

2023年10月9日(月・祝)第368回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2023年10月9日(日)10:00~13:00
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:Rachel Clark(レイチェル・クラーク)さん(日系米国人・国連等で通訳・日本訪問中)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:13名

 今回のタイトル:「アーミッシュってどんな人たち?」

レイチェルさんからの事前配布資料より

「 2020年の春、パンデミックの波がNY界隈にも押し寄せ、ハドソン川を見下ろす私の窓からは、マンハッタンに停泊する救急船が見えました。

NY中で医療に従事する人々に敬意を表する為のブルーエンジェルスの編隊飛行も行われました。

その頃から世界19ヵ国、約60人の仲間が毎週ズームで会議を開き、あの不思議な世界の空気に立ち向かう声明を発表しました。私もその中に加わり、素晴らしい希望を感じながらも、末世的な演出効果の漂うメディア報道にうんざりしていました。

あの年の1月の4週間、私はグアテマラでスペイン語を学び、次の1週間をコスタリカで、その次の1週間をパナマでバックパッキングをして一人旅を経験しました。

3月にはなつかしい友人に会いにカナダのモントリオールまで7時間かけて運転し、帰宅した次の日から国境が封鎖されました。

日々伝えられる深刻なニュースと同時に、それを真っ向から否定するニュースにも触れる機会を得る事ができたのは、それまでに培った国際的な人脈のネットワークがあればこそ、でした。

国際航路客船の洋上通訳として、世界の50ヵ国以上を巡り、さまざまな文化や考え方に触れた事や、国連の会議を沢山傍聴した経験も、判断の役に立ちました。

私の下した結論は、「あの人たちのルール」に沿って生きる事をしない、と言う事です。

同年4月半ばから毎週末片道7〜8時間運転して、NY州北部の「ノースカントリー」と呼ばれる地域に引っ越し先を探しに行きました。9回目のドライブで見つけたのが現在の住処です。

自然に恵まれた美しい環境に一目惚れして、四季それぞれの豊かな恵みを与えてくれるアーミッシュの農家さんたちとの素敵な交流が始まり、彼/彼女らから「持続可能な」暮らしを学んでいます。

なぜ国連はこの人たちから学ばないのか? と疑問に思う事がよくあります。

アーミッシュってどんな人たちなのでしょうか? どうして世界はこの人たちから持続可能な暮らしを学ぼうとしないのでしょうか?アーミッシュに今更なろうとは思いませんが、取り入れられるコンセプトは沢山あると思います。そんなこんな思いを、エッセイのように参加者の皆さんと共有できたら、と思います。」

参加者自己紹介

亀田さん(コーディネーター):1999年からこのGlobal Sessionは始まっています。ゲストは毎回ちがう人で、最初は、英語でセッションという形でやっていました。

この頃は、日本語が上手なゲストが増え、ほとんど日本語でやっています。私は、大体最初に近い時期から、このGSに参加していると思います。今日はゲストがアメリカからなので、英語でもどうぞ。では、参加者のそれぞれの自己紹介から始めていきましょう。

E・Tさん:京都の北の京北町に住んでいます。仕事は島津製作所で、真空ポンプなどを作っています。

R・Sさん:児嶋さんたちとひまわり教室で外国につながる子ども達の学習支援活動をしています。

S・Nさん :京都市左京区に住んでいます。外国人女性の困った事などの相談活動をしています。高齢化した方達も増え、医療ネットワークとの関係が必要になってきています。

S・Fさん:在日外国人のための日本語のサポートを1年くらいしています。その中で「ものとことのちがい」や、「~だらけ」などの日本語に対する興味がわいてきて、楽しくやっています。

M・Oさん:(英語で)グローバルコーポレーションの仕事をしています。東京の大学を卒業後、ニューヨークで学んだことがあります。主な仕事としては、グラフィックデザイナーです。

 (後半に実際の英文と日本語の本人訳あり)  

M・Sさん:(英語で)亀岡市民で1999年に始まったGSのメンバーだったと思います。今回は、レイチェルさんの言われる「アーミッシュ」に興味があって、参加しました。楽しみです。最近はあまり来る機会がなかったのですが。ひまわり教室の指導もしています。

M・Fさん:私も1999年のGSの最初から参加しています。今日まで続いているGSには魅力があります。40数年間、映画人として映画作りに関わり、今も携わっています。

レイチェルさん:どんな映画ですか?

M・Fさん:東映の時代劇ですよ。今は、NPO法人として子どもたちの映画制作に関わっています。

Y・Hさん:(ドイツ語で)ドイツ語を勉強して話したいなと思っています。今は、ウクライナなど、世界に問題がありますが、国連とのつながりも見ていきたいと思っています。

Z・Y(ちょうえい)さん:中国出身で、現在は、亀岡市の学校教育課の小・中学校の教育支援員をしています。ひまわり教室にも参加し、中国語での母語支援をしています。レイチェルさんとは友人で、今回、日本に来られるということで、このGlobal Sessionのゲストをお願いしました。

H・Mさん:Z・Yさんといっしょに、ひまわり教室やGlobal Sessionには何回か参加しました。今回は、半年ぶりの参加です。アーミッシュの映画をハリソン・フォードの映画として見た事があります。それで話がしたいなと思って参加しました。

児嶋:先ほど亀田さんに紹介していただきましたが、Global Sessionを私が交流活動センターで仕事をしているころから始めて、退職後は、私のOffice Com Juntoの主宰として継続しています。最近は、参加者が「高齢で・・」とか言われるのですが、「高齢」って何歳から?とか思ってしまいます。多分私も高齢なので。

亀田さん:ヒロと呼んでくださいね。大津市からいつも来ています。亀岡は、緑が多く、冬は寒くて夏は暑いのですが、自然がいっぱいでとてもいい街です。水もおいしいし、亀岡牛もありますね。ツアーコンダクターですが、コロナ禍で、2、3年は人が来ない日が続き、今も円安で、日本人はあまり外国に出ません。個人的にはヨーロッパより東南アジアが好きで、チベットや、ウイグル、タクラマカン砂漠やモンゴル、中国では雲南省などに行きました。タイやミャンマーでは小数民族の村も行き、カンボジアでは、子どもたちの学校訪問もしました。

国内では、個人的な英語でのガイドもしています。10数年間、アメリカ、シアトルのハイスクールの生徒達が日本旅行をする手配をして来ました。ホームステイや北海道への旅もしました。今は、日本からアメリカに行くのはOKですが、来年くらいは、日本が外国の学校からの旅行の受け入れを出してくれないかなと思っていますが。

グローバル・セッション開始

では、レイチェルさんお願いします。

レイチェルさん:自己紹介から始めます。日本は今3連休ですが、ゆっくりしたいでしょうに、このGSに参加していただき、ありがとうございます。

レイチェル・クラークは、米国籍ですが、実は日本生まれで、新潟県出身です。

アテネ、フランスで、フランス語を学んでいたのですが、結婚後アメリカに行きました。通勤はニュージャージー州から始発のバスに乗って行くのですが、あの頃はまだアジア系は少なくて終点のマンハッタンまではせいぜい、3、4人でした。その少ないアジア系の人がとなりに座ると「中国人?」「韓国人?」と聞いてきて「日本人」と答えると、笑顔が消えるのです。

このようなことが続き、「日本の戦後の歴史を知らなかったこと」に気付きました。小・中・高校では、歴史を学びますが、戦後については、「時間がないから自分でやってね」などと言われ、ほとんど学んで来なかったと思います。今思えば、「 学ぶことをさせない」ためではなかったかと思うのです。

日本の学校では毎日英語を教えますが、あの、ちっとも身につかない英語教育は、きっと歴史を学ばせないためにあるのでしょう。父の弟は陸軍中野学校の出身で、4カ国語が話せました。ですから、少なくとも戦中までは、海外体験の無い日本人でも数ヶ月で外国語をマスターできるような教授方があったはずなんです。なのに戦後にその教育方が全く活用されていないのです。でも、その「役に立たない英語教育」のおかげで日本の優秀な人材が海外に流出せず、国内発展に寄与したことも否めません。

アメリカの大学で受講した日本の歴史はおもしろかったです。日本の古代から現代までの概要を最初のクラスで30分で教えてもらいました。日本では触れることのなかった第二次世界大戦以降の歴史も学び、これではお隣の国々に好かれる理由が無いと、思いました。

アメリカでは主婦をしていて、元夫が東京に3年間転勤になり、私はアメリカ人として祖国に行き、悪名高い入国管理局にも行きました。そこでは、私たちの前にフィリピン人と思しき女性が二人質問を受けていましたが、非常に上から目線で、後ろで聞いていてとても気持ち悪かったです。私たちの番になり、白人の元夫に接する係官の人の手のひら返しの態度に、さらに気持ち悪くなりました。

子どもは1990年から3年間くらい、日本の幼稚園に行きました。ハーフの娘がいると、「お母さん、日本語上手ですね」とか、言われて。当時は核家族で、幼稚園児のママになると、母親同士の人間関係が難しかったです。

自分の子供時代は、テレビも勧善懲悪ばかりで、水戸黄門やウルトラマンのような最後の3分で必ず勝つ・巨人の星も男の子が主人公でした。女の子の番組は、いつもライバル同士の歪み合いのような作品が殆どでした。アタックナンバーワンとか、サインはブイとか。(だから、バブル時代に若い女性もサラリーマンとして職場に切望されていた頃に、「セーラームーン」のような女の子がヒーローになる作品が出てきたのは、時代と呼応しているのかな、と言いたかったのですが、ここまで言及しなかったような。。。)

子どもの手がかからなくなると仕事を始めました。2010年の国連の核不拡散条約再検討会議に、生協のメンバーを含む被爆者団体総勢150名の訪米団のために、急にボランティア通訳が沢山必要となり、3日間会社を休んで初めて通訳をしました。

一番最初のお仕事は、ニュージーランドの国連大使と被爆者代表の間での通訳でした。できはどうだったかわかりませんが、単にAさんの言うことをBさんに伝えるだけでなく、社会的意義のある類の通訳のお仕事に強く興味を惹かれました。

2011年3月11日に東北で大地震があり、福島原発事故が起きました。当時、自衛隊の仕事ぶりが高く評価され、入隊者が激増しました。米国の9.11直後に米軍志願者が殺到したのと全く同じシナリオでした。その後の展開も、まるで教科書のように、9.11の後と同じでした。復興支援と言いながら、企業を助けるような政策が多く導入され、被災者・被曝者は今も冷遇されています。

その後、ニューヨークでは核についての学習会が盛んになりましたが、NGOの多くは予算がないので、ボランティアの通訳を探していて、私はしょっちゅう駆り出されて、それがトレーニングになりました。

2012年には、会社をやめて通訳になりました。同年2月末から3月にかけて国連の婦人会議(UNCSW)があり、私のクライアントのひとりが福島出身でした。昼は国連で通訳し、夜は東北大震災の1周忌・追悼イベントに行くというような毎日でした。 国や大企業がスポンサーのイベントでは、私のクライアントはスピーチをさせてもらえず、環境保護団体や、反核団体のイベントでは大歓迎されました。彼女の原稿には、「国の責任」や「東電の責任」を問う部分があったからです。

そんなイベントで、必ずと言っていいほど、ピースボートの米国支部のディレクターとよく顔を合わせ、親しくなるうちに、ピースボートのボランティアスタッフになりました。この団体は、国連の諮問資格のあるNGOで、国連会議に数多く出席しました。

実際に初めてピースボートに洋上通訳として乗船した時に、Z・Yさんとお会いして、ご一緒に北半球を一周をしたのです。その後南回りにも乗りました。北回りは搾取する側、南半球の旅は搾取される側の国々への訪問です。

全部で6回のピースボートと、他の海外客船でのお仕事で、55~60カ国ほど回るなかで、大学(国際学専攻)で学んだことと現実とのギャップがあることを知りました。

2020年のパンデミック騒ぎの直前までに、やりたかったことをやりきった満足感を得ることができました。スペイン語学習のために、グアテマラやコスタリカ、パナマなどを訪ねて、世界中のバックパッカーたちとお友達になりました。中米には、危険だと言われる国々がありますが、若いヨーロッパの女性たちが平気で中米を旅していました。米国人には見せたくない歴史の汚点があるからのようです。ここでもしっかりと歴史を学ぶ必要があると思いました。

帰国後3月には駆け足でモントリオールに行って友人と合流し、翌日米国側に戻った直後に、カナダとアメリカの国境がパンデミックのために封鎖されました。暗い日々が始まった頃、ワシントンDCにあるアメリカン大学のデイビッド・バイン教授を中心に、グローバルアピールを書こうと19カ国の代表者が集まり、私も招待されて約60人の仲間とズーム会議に何度も参加しました。

コロナ禍前は対面式会議が中心でしたが、この頃からオンラインでどこに居てもできるということを学びました。 元々ハイキングや山歩きが大好きだったので、ネットにアクセスできる「ど田舎」に住もうと決心し、4月の中頃から毎週のように片道7〜8時間かけてカナダの国境近くのNY州北部に棲家を求めてロードトリップをしました。9回目の旅で見つけたのが現在住んでいるアディロンダック国立公園の北の端にある山小屋です。

この辺りにはアーミッシュの人たちが沢山住んでいます。「バギー」と呼ばれる馬車で移動する彼らは、ゴムのついたタイヤは使いません。農作業が主な仕事ですが、他に大工、左官、水道工事、電気技師、キャビネット作り、雑貨屋など、様々な職業を営んでいます。(電気も水道も使わないのに仕事はできるんです!)普段着も正装も全て(足踏みミシンの)手製です。家の改装は、アーミッシュの大工さんにお願いしたので、馬車で通勤してました。この辺りのアーミッシュの人は写真や身分証明のようなものを持たず、クレジットカードも持ちませんので、常に現金を使います。

この北国では、春、夏、秋は2ヶ月ずつで丸っと半年冬です。長い冬の間に夏に売るものを作ります。店には、パン屋さんや、クラフトショップがあり、バスケットや鍋敷きなども売っています。樹液を24時間煮詰めて作るメープルシロップなどもあります。
 

(写真を見て)「これは何でしょう?」18インチの厚さの発砲スチロールの壁でできた部屋で、氷を入れて使う冷蔵庫です。この中に大きな氷をいっぱい入れて、空いたスペースに食べ物を置きます。夏まで氷があるそうです。停電しても全く影響ありませんね。

父親が成人する息子(21才)に送る物としては、ライティングビューローがあり、女の子には、ドレッサーやたんすがあるようです。大人になり独立できるというの は、自分の責任でクリスチャンになることだそうです。

アーミッシュというのは、非暴力のキリスト教徒で、プロテスタントですが、歴史的に平和教会と分類される宗派の一つです。

ここでちょっとプロテスタントが生まれた歴史をお話しますね。十字軍の遠征が地中海貿易の繁栄とカトリック(ローマ帝国)の拡大をもたらした結果、ローマの腐敗が始まりました。

メディチ家出身の教皇レオ10世は、大聖堂のフレスコ画を完成させるため、レオナルド・ダ・ビンチを雇い、多額の借金をしました。その返済のために、托鉢の坊さんティッツェルをドイツ語を話す地域に免罪符を売りに行かせます。元々免罪符というものは、十字軍に持たせたものです。軍人として人を殺すことは、聖書の教えに叛くことになりますが、それを許すためのものでした。 ティッツェルは、「いくら払うとこの罪が消え、もっと払うとこんな罪も消える」と言って免罪符を売り歩き、ローマの腐敗ぶりにうんざりしていたマーチン・ルーサー(マルティン・ルター)の怒りを買います。

16世紀のヨーロッパには、中国から印刷技術が伝わっており、彼は聖書をドイツ語に翻訳し、ローマの腐敗を訴える「95ヶ条の論題」は各国後に翻訳されて、ヨーロッパ中に広まりました。

彼がローマに呼ばれても行かなかったのは、80年ほど遡って、チェコのジョン・ハスという神学者が、ローマの腐敗を問い、ローマに呼ばれ、素直に従ったために破門された上火炙りの刑に処せられた前例があったからです。破門されたルーサーは、自分でプロテスタントを始めました。

カトリックにおいては、神父が神と信徒の間で権威を持ちますが、プロテスタントでは、神との直接の関係を重視するため、全ての信徒が聖書を読めるように読み書きを学びます。ですから、16世紀から識字率が上がり、女流文学が登場するのもこの頃です。プロテスタントの一派、歴史的平和教会派は、聖書を尊重し、決して戦に加わりません。その中で、アナバプティストと呼ばれる一派は、生後直ぐの洗礼を行わず、21歳になって成人してから、自分の意志で神との直接の繋がりを尊重するクリスチャンになるために洗礼をうける人たちです。

アナバプティストからメノナイトが分離し、メノナイトからアーミッシュが分派しました。

1632年のドルトレヒト信仰告白で成文化された信仰に同意し、16世紀に書かれたアカプラ讃美歌を歌うこの人たちは、バギーで移動し、ドイツ語起源のある種の方言を話し、神学教育を受けない一般人が教会の責任者です。「教会」という建物はなく、グループの人の家を順番に使って、隔週の日曜日にミサを行います。各コミュニティは、同一 の服装、ヘアスタイルです。

S・Fさん:学校は?

レイチェルさん:うちの近くの学校は、アーミッシュのお嬢さんが一人で8~14才まで教えます。一般の学校には行きません(が、公立校用の地方税は払います)。14才以降は独学で本を読んで勉強します。夕食後、テレビもラジオもない家庭では、読書が当たり前。子どもたちの夏休みは農業の手伝いもするので、長いです。くらしの中では、電気もなく、水道もないので、本を読むときには、ランプの光で読みます。

各グループごとに異なる細かい決まり事があります。官僚的要素はいっさいありません。

戦に行かない代わりに奉仕活動を望んだため、ヨーロッパでは、80年間に2500人が殉教しました。支配者は彼らに転々と引っ越しを強要し、荒れ地を開拓させた歴史がありました。

M・Oさん:どうしてアメリカへ?

レイチェルさん:1730年~1770年代には、信教の自由を求めて500人(第一波)が、1816年~1860年代に、1500人(第二波)がアメリカに移住しました。元々当時はまだ電気が発明されてなく、発明されて普及しても、彼らは使わない選択をしました。現在も電気もガスも水道も車も使わない生活をしています。

全米にいますが、特にペンシルバニア州、オハイオ州、ミシガン州、ミズーリ州、ケンタッキー州などが多いです。最近ニューヨーク州の北部で急増しています。

水や土地の質が良い上に、後継者不足の農家さんが安く土地を売りに出すケースが多いので、引っ越してくる人が増えてきているようです。オハイオ州やケンタッキー州からこちらに引っ越してくる人が多いです。

亀田さん:アーミッシュは、それでも共生するのですか?

レイチェルさん:ヨーロッパでとことん排斥されたので、政府や権威を嫌います。政府嫌いはDNAに染み付いてるみたいです。日本では中国やロシアが独裁だとの批判を多く耳にしますが、アメリカも民主・共和党という二つの0.5大政党が一緒になって一党独裁です。二大政党制とは、表向きだけなんです。私は決して、バイデンもトランプも支持しませんが、トランプ支持者の多いこの土地に住んでみて、都会に住んでいた頃に抱いていたトランプのステレオタイプは、メディアが作ったと言えます。金持ち優遇政策だとすり込まれていましたが、実際農家さんや商店経営者も含めた中小の事業主が彼の税制改革で減税の恩恵を受けていました。

アーミッシュの写真から:牛や馬の方が、人間より多いです。薪を焚いてくらしています。

薪ストーブ一台で、暖房・煮炊き・給湯・ごみ焼却・洗濯物の乾燥・アイロンの6役をこなしますので、それぞれの機能ごとにエネルギーを使う暮らしの方が非効率的に見えます。私は彼らの暮らしぶりを見習って人間らしさを取り戻したいと願っています。

亀田さん:質問は?

M・Sさん:アーミッシュは、血のつながりの部族と思っていました。ここで生活したい人が入り、出たい人は出るのですね。

レイチェルさん:グループによりますが、うちの周りのアーミッシュは、出たい人は出てますし、出た後も家族との交流は普通にやっています。電気や動力が発明される前は、アーミッシュもそうでない人たちも同じ暮らし方だったので、ヨーロッパからやってきたアーミッシュに加わる人もいたそうです。

死ぬまで一生予防接種もしませんし、注射というものを一切しません。コロナ禍でも普通に学校に通って、真冬の吹雪の中でも外で走り回って遊んでいました。

児嶋:ジェンダーの役割が決まっているようですが、抵抗はないのでしょうか?

レイチェルさん:ジェンダーの問題は、簡単ではないですが、あまり問題にはなっていません。

M・Oさん:国連でも、アメリカは戦勝国であり、日本は何も言えなかったはずです。

レイチェルさん:デジタル社会になり、いろいろな統計が取りやすくなりましたね。世界中でネットに載っている情報を100とした場合、それぞれの言語がどれくらい使われているかというと、英語が56%、ヨーロッパ言語がそれに続きますが、日本語は、2.4~4%くらいです。その狭い幅の中の9割以上が国内関連の記事ですよね。国際ニュースなんてほんのちょっとだけです。このような現状では簡単にコントロールされてしまいますね。知られたくないニュースは翻訳せずに、日本人にはこう思って欲しいというニュースだけ和訳すればいいのですから。

M・Oさん:日本はメディアコントロールしやすい国と言われています。

亀田さん:国連の会議でも河野太郎さんは、日本語でした。

M・Oさん:自然と共生する知恵は日本にはありますが、若者に目覚めてほしいですね。伝統も守るように。

レイチェルさん:今回のツアーで広島や長崎で資料館も見学し、歴史改ざんが進んでいることを発見しました。長崎の資料館の年表では、1945年の1月に天皇が降伏の用意があることを示し、それを連合国側が拒否したと書かれていたのを記憶していますが、今回行ったら、その部分の表記がありませんでした。アメリカ政府は、情報を武器化していると思います。

NTIAとFCC (←この部分はもっと複雑で長いので割愛してください。来年の発表で、もっと詳しくご説明させてください)

亀田さん:時間です。今日はこれで終わります。質問の在る人はあとで自分でやってくださいね。

M・Oさんの英語での自己紹介文 :Global Session self introduction

  My name is Masakazu Otsuki, based in Kyoto yet act for globe to create something new for client, self projects now my amount of effort into Global Cooperation which I’ve learned it in the graduate school in Tokyo.

an artist, a designer, creator, producer, existing label makes me express various but I’m who I am, I do create what I want to do.

 One thing I wanted to mention you NYC is the city I used to live, which inspired me, nurtured all my creativity, sensitivity, identified national differences, realized deep cultural identity in Japanese, and diverse perspective. 

The first to live alone, the first to go abroad, and the first to eat cheap Chinese food. 

That was all NYC I had experienced. 

Never forget that day made my whole life shifted in a good way. 

It was September Eleven as two airplanes attacked the World Trade Center. 

I deeply felt how people had been affected by insecure tragedy when facing true fear, awful things, and extraordinary anxiety. 

My whole life was completely transformed into how I live my life. 

So much memory I had experienced there.
 
Mankind sometimes awake or gets awareness by these catastroph include previous Corona crisis.

People often warn now the world is dystopia.
 
But we really think so?

My sincer pleasure to hear your thoughts, global mindset, and your precious experience about how we live together in this uncertain time.

 大槻正一です、京都を拠点としてますが、世界と共に何か新しいものを作り出してます。
クライアントと共に、また自身での取り組みであるプロジェクトの場合もあります。

今は特に国際協力の分野に勢力を注いでいて、東京の大学院で学びを深めてます。

アーティスト、デザイナー、クリエーター、プロデューサー、現状様々なプロフェッショナルで僕を肩書きするものはありますが、僕は僕であり、僕が好きなものを創造するだけです。

レイチェルさんに一つ強く言及したかったのは、レイチェルさんの住むNew Yorkは僕も以前住んだ街であり、創造性を、感性を沢山感化され、日本人としての国民性の違いを確固たるものとし、日本の文化の深みを再確認し、多様な価値観を学びました。

初めて一人暮らしをした街、初めて海外を訪れた街、初めてこんなにも安い中国のご飯を食べた街、それら全て経験したのが他ならないNew Yorkという街でした。そして僕の人生を良き方向へと導いてくれた、決して忘れてはならない日があります。

それが、2001年9月11日で、2機の飛行機がワールドトレードセンターにテロを仕掛けたあの日。その時、僕は感じたのでした。人々が真の恐怖や、最悪な悲劇に、尋常じゃない不安に襲われた時の影響たるその凄まじさ。

この出来事が、僕の人生そのものをどのように生きるのか?を深く考えさせたのでした。言葉で言い尽くせないほどの思い出が色こく残っています。

 人類は、度々このような『悲劇』9.11含め、例えば先のパンデミックなどもそうですが、我々を目覚めさせる、気づきをもたらす機会となることがあります。

 人々はよく『今の世の中は反理想郷、暗黒の世界だ』と言及します。果たしてそうなのでしょうか?今の複雑な現状にあって、この一つの地球上で如何にして私たち人類が共に生きるか?

 レイチェルさん、貴方の考え、グローバルに培って来られた価値観、そして貴重な経験を伺えること、この上なき光栄に思います。

2023年9月23日(日)第367回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2023年9月23日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:玉野井麻利子さん(アメリカ大学名誉教授・文化人類学)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:14名

 今回のタイトル:「アメリカ人は日本人をどう見ていたか」

自己紹介

亀田さん(コーディネーター):では、それぞれの自己紹介をどうぞ。

Y・Nさん:ひまわり教室で指導しています。小学校教員をしていました。今日のタイトルが楽しみで参加しました。

M・Yさん:ひまわり教室の指導をしています。中学校の教員でした。

N・Kさん :ひまわり教室の指導をしています。小学校教員でした。

F・Kさん:初めての参加です。滋賀県の日野町というところに住んで居て、最近京都の四条河原町付近に引っ越しをしました。児嶋さんとは、短歌での知り合いです。

S・Fさん:GSは5年ぶりの参加です。英語の小説を読む会に参加していて、「日系人の強制収容」の話を読んでいて、今回のテーマの「アメリカ人は日本人をどう見て居るのか?」に興味があり参加しました。

E・Tさん:京都の北の京北町に住んでいます。仕事は島津製作所で、真空ポンプ作りなどをやっています。

R・Sさん:ひまわり教室の指導をしています。テーマに興味があります。アメリカでのアジア系アメリカ人に対する差別があることは知っていますが、「ゆれているアメリカ」を感じているので。

M・Fさん:タイトルに興味があります。このGSは、私は多分参加者としては、一番古くからいると思います。今も子どもに映画制作を教えたりして、活動しています。

Z・Yさん:ひまわりで母語指導をしています。中国出身です。この9月から市の外国につながる子どもたちへの母語支援者をしています。玉野井さんのGSは、2回目です。

Tさん:ブラジル出身で翻訳者をしています。2022年4月に京都に来て今も住んでいます。

児嶋:1999年から亀岡市交流活動センターでGlobal Sessionを始めて今回は367回目になります。2011年に私が退職してからは、オフィス・コン・ジュントとして主宰者として開催しています。

亀田さん:大津市から毎回参加しています。ツアーガイドをしていますが、最近は外国人が多くなり、オーバーツーリズムが問題となっています。コロナの間は、旅行客がいなくて、タクシーの運転手などもちがう仕事に行ってしまったので、人員不足が深刻のようです。タクシーもバスも足りないようです。今は1ドルが148円くらいで外国より安いので、来やすいのでしょう。

では、玉野井さんから、自己紹介をしてその後、お話しをお願いします。

グローバル・セッション開始

玉野井さん:アメリカ在住50年を越えていますが、私は「日本人」です。カリフォルニア大学ロサンゼルス校の人類学部で教えております。今は引退しましたが、アメリカの大学は、引退というのが、はっきりしなくて、今も大学院生の指導のため、日米を行ったり来たりの生活をしています。

今日のお話の題名は「アメリカ人は日本人をどう見ていたか」で、過去形となっていますが、日本に対するアメリカ人の考えは常に変化しています。これは日本人のアメリカに対するイメージがどんどん変化しているのと同じです。明治の始め頃、日本は積極的に西洋の文化を取り入れようとしました。ところはそれからたった数十年ですっかり変わってしまい、鬼畜米英という言葉に現れているように、西洋に対して戦争を始めたのです。ですから今日はそういった歴史を踏まえ、アメリカが建国された18世紀後半から現在に向けてお話ししようと思います。

さて、アメリカとは、どんな国なのでしょうか?

1492年にコロンブスが中央アメリカのとある島にたどりつき、ここをインダス川の流れるインドとまちがったことから始まりました。しかしその後、新大陸についての知識はなかなか広がりませんでした。ですからヨーロッパから新大陸への移民の流れはそれからいく世紀たってから始まるわけです。ところが新大陸には先住民がおりました。いわゆるNative Amercan Indianと呼ばれる人たちです。その人口は16世紀には1000万人いた、と言われています。ヨーロッパから移民した人たちはこの先住民たちを動物のように扱いました。彼らは天然痘などの病気を持ちこみ、殺戮を繰り返し、そのため、アメリカ先住民の数は、20世紀初めには、30万人ほどになってしまいました。さらに白人の植民者たちはアメリカ先住民の子どもたちを親から離し、全寮制の学校に入れ、「アメリカ人」への同化を強制していきました。19世紀になると、Andrew Jacson大統領がAmerican Removal Actを発令、アメリカ先住民の多くはいわゆる保留地に追いやられます。つまりアメリカは西洋からの移民と、アメリカ先住民と、さらにアフリカから奴隷として連れてこられたアフリカからの移民が共存する国であり、アメリカ人とはこれら全ての人たちを指すのですが、日本人の多くは「アメリカ人」といえば白人を思い浮かべる人たちが多いのです。一つの例としてですが、アメリカの若い学生たちの中には、日本を知るために、日本で英語を教えたいとい多くの若者がいます。ところが日本の英語会話学校などでは「白人」を採用することが多く、日系人や黒人は、採用されないという差別がありました。彼らもアメリカ人なのに。。。

アメリカ人について、もう少しその歴史を見てみましょう。

今皆さんが見ている絵(スクリーン)はアメリカではManifes Destinyの絵として知られています。 中心にいる女性はコロンビアと呼ばれる、「アメリカ」の象徴です。彼女はもちろんイギリスから移民したのでしょう。そしてイギリスからどんどん西へ西へと西洋の文明を広めようとしています。彼女が持っているのは電話のライン、そして子供のための学校の教科書です。この絵の中にはアメリカ先住民もアフリカからの奴隷も見当たりません。

 東からやってきたアメリカ人(白人)が西海岸にたどり着いた頃、アジアからやってきた中国人や、のちに日系人と呼ばれる日本人も新大陸の西海岸に到着します。アメリカでは1863年に奴隷制度が廃止されため、今度は中国人や日本人が奴隷に変わって鉄道の建設や、農地を広げていくことに駆り出されたのです。日本からは、年間約3万人がアメリカに移民として到着したと言われています。しかし「黄色い肌の有色人種」に対する白人アメリカ人の差別はひどいものでした。この現象はYellow Peril(黄禍)と呼ばれ、アメリカだけではなく、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、ロシアなど、アジア人が移民した国々で起こったのです。

日本人にとってアメリカ人(白人)との結婚が許可されていないので、日本からお嫁さんを呼ばなければなりません。この現象は「写真花嫁」と呼ばれていて、まず日本にいる女性が自分の写真をアメリカに移民した男性に送り、気に入れば彼が彼女を呼び寄せたのです。それでも黄禍の波は止まらず、アメリカ政府は1924年に日系人移民を禁止、1941年には、太平洋戦争が始まり、1942年には日系移民の強制収容が始まりました。 

児嶋:1985年から88年まで住んで居たブラジルでは、ミックスが一番美しいという考え方があり、化粧品のファンデーションの色の多さにびっくりしたことがあります。

Tさん:ブラジルでは、肌の色はどんな色でもいいと言われ、ブラジル人は、白人とか、黒人とか、言われていないです。

玉野井さん:北アメリカと南アメリカ(ブラジルやアルゼンチンなど)の状況はかなり違っています。南の場合、スペイン、ポルトガルからの移民は、やはり病気を持ち込んだり、アステカ文明を破壊しますが、根底にあったのはキリスト教の布教でした。北アメリカでは宗教はそれほど問題になりませんでした。

今度は太平洋戦争の間にアメリカ人の日本人に対するイメージがどのように変わっていったかをお話しします。(スクリーン)。ここに当時アメリカ政府、軍がカリフォルニアで「敵である日本人とは一体誰なのか」を示すポスターを作り、あちこちに配布したと思われます。

白人アメリカ人にとっては日本人(敵)と中国人(中国はこの戦争では友)の区別がわからないために、どのように区別するのか、教えているわけです。

中国人

  • 表情が従順、温和、平和を愛する
  • 背が高い人が多い
  • 中国人は、特にお金持ちの人は太っている。
  •  眼と眼の間が広い

日本人

  • 表情が狂信的、残忍、軍国主義
  • 押し並べてみんな背が低い背が低い
  • 太った日本人は少ない。年をとると、もっとやせる。
  • 眼と眼の間が狭い。
  • 会話がへた、間違ったところで笑ったり、大声を出したりする。

今読んでみると、日本を敵と仕上げるために作られたイメージとしか言えません。中国人を差別したことをすっかり忘れています。このようなポスターと共に、日本人を描いた漫画があります。それらは全て眼鏡をかけていて、出っ歯の大男であったり、猿だったりします。

この戦争で日本人はどんなアメリカ人のイメージを作ったでしょうか。

興味深いことに日本で作られたイメージはアメリカ人に比べ、日本人がいかに優れているかを表すイメージです。例えば日本人の女性が頭のふけを払っているのですが、それらに名前がつけてあり、

ぜいたくや利己心、拝金主義はアメリカ人の得意とするもので、日本人はそうではない、と伝えていますし、白人のような桃太郎が鬼となったアメリカ人をやっつけたり、ルーズベルト大統領、蒋介石、チャーチルをこらしめた日本の若者を、アメリカの黒人が喜んで褒めています。つまり日本人はアメリカ人のように人種差別をしない、というイメージです。

こうしたイメージによる戦争は戦後も続きました。

アメリカは日本を占領した後、日本の男性のイメージを「可愛らしい、これから民主主義を習う、お猿さん」に変えました。1980年代に日本の自動車産業がアメリカのそれを抜いた時、一人のアメリカ人の男がVincent Chenという中国人を日本人と思い、彼を射殺しました。コロナが始まると、やはりアジア人への暴力が再燃しました。

さて結論です

私はアメリカという国、アメリカ人は、どこの国の手助けも得ることなくやっていけるという自負を持っていると思います。つまり内向きというか、例えば地球上のどこにいっても英語を使える。そのため外国語取得に懸命になる人はあまりいません。アメリカにいれば、なんでも知ることができる、というような空気。日本のことだって知っているよ、と軽く言われ、日本人は「真似をすることが上手」と言われると、悲しくなります。トランプがまさにその象徴です。しかし人種間の関係は決して健康ではありません。以上です。

あとは皆さんの感想を聞かせてください。

M・Fさん:アメリカには何度か行ったことがありますが、日本人は見下げられていると感じることがありました。高級なレストランでは、入り口に座らされるのです。ホテルから予約すると、奥の良い席が用意されますが。別の時に、ノーマルな服装で行ったら、ブレザーやネクタイをしていないと入らせないということがありました。ホテルで背広を取ってきたら、入れましたが。

S・Fさん:戦争は勝った方が押しつけるので、日本は負けたので、差別もあるのでしょう。日本も関東大震災の時には、朝鮮人殺害をしていますね。

Z・Yさん:他言語や他文化を学ぼうとするひとが少ないという話がありましたが、英語は世界のことばになっていますが、アメリカが全てに一番ではないですね。日本だけではなくて、アジア人対して差別意識はありますね。中国人は、突然高い声で笑うとか、アメリカ人も大声でわらいますけれど。

児嶋:オクラホマ州立大学京都校(OSU-K)が亀岡に1990年から1996年までありましたが、私は、その時に職員をしていました。そこのアメリカ人の校長先生は、今も友人ですがその人から何度も「アメリカが原爆を落として戦争が終わった」と言われました。このことは、戦後のアメリカの教育の内容だろうと思い、悲惨さや被害が何年も継続するということを日本政府がアメリカにはっきり言わなかったために、学校でそのように教えたのだろうと思っています。

玉野井さん:アメリカは戦場にならなかったために、悲惨さがわからないのでしょうね。「はだしのゲン」を見て少しわかって来たでしょうか?戦後も配給でしか砂糖をもらえなかったとかも。

M・Fさん:以前、ハワイに行ったときに、ホテルの人から、「ひとりでパールハーバーには行かない方がいい。日本人を憎んでいるひとがいるから」と言われたことがあります。

E・Tさん:アメリカ人がみんな、見下しているわけでもないと思いますが。他の文化や言語を学ぼうとする人が少ないというのは気になりますが。学習する意欲を持って世界へ出ようと思わないのでしょうか?

玉野井さん:親日家のドナルド・キーンさんのような人もいますね。

児嶋:個人的な友人としての付き合いはもちろんありますが。

玉野井さん:アメリカで、日米学生会議に参加したことがあります。互いの文化を知り合うことが目的です。お互いの知識を交換するのが目的ですが、お互いわかり合うことは難しいなと感じました。

児嶋:先ほどのOSU―Kの卒業生は、今もアメリカ在住の人もいます。獣医師になり、アメリカ人と結婚し、大学で教えているようですが、大体は日本に帰国して仕事をしているようですね。

Y・Nさん:鬼畜米英と言っていた時代もあったのだと今さらながら知りました。考え方は時代に沿って変わってもいいと思いますね。

児嶋:今も残っている課題はありますね。

Tさん:玉野井さんは、アメリカで差別は受けましたか?

玉野井さん:1977年にまずアメリカのシカゴで暮らし、その後ボストン、ニューヨークへ、それから西海岸のロスへ行きました。個人的な差別はなかったと思いますが、差別されるようなところにはいなかった、ということだと思います。

Tさん:最初から英語を使っていましたか?普通にアメリカ人と接触されていたのですか?相手の振る舞いは?

玉野井さん:いつだったか、ひとりの友人に言われたことがあります。「玉野井さんは、日本人ではないみたい」と。これ褒め言葉ですが、どう解釈すればいいのか悩みました。

Tさん:現在もアメリカ人の若者と接触されていて、友人もいらっしゃると思いますが、日本や韓国の文化に好印象を持っている人はいますか?

玉野井さん:日本のアニメが好きな学生が多いですね。韓国の文化も人気があります。台湾に最近行ったときに、韓国語を学ぶ人が多いのにびっくりしました。日本語研究も盛んですし、中国研究はすでに多くあります。

Tさん:日本や韓国はソフトパワーが強いですね。

玉野井さん:特に若い人はそうですね。

Tさん:平和的手段で学ぶことが大切ですね。

玉野井さん:政府が入り込むと、うまくいかないのかな?

児嶋:言語の学習は大切ですね。

F・Kさん:私は、滋賀県の日野市という人口2300人ほどの町に実家があります。実家は220年ほど続いた家で、江戸時代の先祖の暮らしがわかる物が残っているので、市の学芸員の人に頼んで整理をしてもらいました。日清、日露戦争の時代の戦勝記念品のような物もありました。その中には、代々、開けてはいけないと言われていた物もあり、出金簿と書かれていました。日中戦争の献盃としてのすずのとっくりなどもありました。この日野町のような文化を理解しようと思ったら、歴史を知り合うことが大切なのだと思います。古文書をひもとくと、いろいろな歴史を知り、若い人に伝えたいと思うようになりました。今は、京都市に移転してその家は、別のひとがそのまま購入することになっています。

「アメリカが内向きになっている」と聞き、気になりました。

今も、日野町には朝鮮人街道があります。石どう寺というお寺もあり、近江八幡市には安土城もあります。

亀田さん:外国との付き合い方は、秀吉の時代から変化してきたようですね。

F・Kさん:韓国からの修学旅行の学生が京都の耳塚に来ていますね。毎年慰霊祭がありますが。

Z・Yさん:私の中国の実家は、北朝鮮との国境の町にあります。丹せん市といいます。朝鮮戦争の時に朝鮮人集落がありました。

亀田さん:さて、時間も来ましたのでこれで、終わりにしますが、感想や言いたいことがあれば、児嶋さんまでどうぞ。

今日は、玉野井さんありがとうございました。

開催後の感想から 

N・Kさん

先日はありがとうございました。global sessionに伺うと、いつも行ってよかったと思うのですが、今回も、アメリカの歴史と、国の内情や日本人への見方などのお話をお聞きして、大変興味深かったです。

アメリカの歴史のお話を聞いて、その国の人々の考え方はその国の歴史から出てくるのだなあと思いました。「アメリカといえば白人を思い浮かべる人が多いが、実は他民族国家」というお話を聞いて、改めてトランプ大統領がプアーホワイトの男性から支持を集めている理由を思いました。玉野井先生は、お若い頃にアメリカに渡られ、アメリカで職につかれて現在に至っておられる由。どれほどのご苦労があったことかと思いますが、明るく穏やかで、「差別は感じたことはない」とおっしゃる言葉から、強靭さとしなやかさを感じました。歴史からその国の人々の考え方が出てくるのなら、すぐ近くの韓国や中国、フィリピン、インドネシアなどの国々には、どんな歴史があるのでしょう。勿論、太平洋戦争の歴史があるのですが、それ以前にも長い歴史があるに違いありません。昔からの日本との関わりなども知りたいなあと思いました。また、お話を聞きたいです。ありがとうございました。学ぶことは楽しいなと思います。機会を与えていただいていることに、感謝しています。

今後ともよろしくお願い致します。

2023年8月20日(日)第366回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2023年8月20日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:村田英克さん(JT生命誌研究館:表現を通して生きものを考えるセクター・高槻市立富田小学校PTA会長・150周年実行委員長)
コーディネーター:藤田宗次さん
参加者:8名

 今回のタイトル:「一人ひとりの“もちあじ”と生きものごとの“もちあじ”」

<村田英克さんから>

前回(昨年)は、私のつくった生命誌研究館の記録映画「食草園が誘う昆虫と植物のかけひきの妙」をご覧いただき、私たちと生活圏を共にする身近なチョウや植物から「私たち人間を含む、多様な生きものの関わり、つながり」を話し合いました。私は、研究館では、生命科学の知見に基づき、38億年という長い時間が育んだ生命現象の豊かさ、その関わりの中での、生きものとしての人間を考えるための展示や映像、季刊誌などの表現に携わっていますが、その立場にあって、いつも、自分自身の「生活者」としてのありようが、問われているように思っています。 

今回は、まず私がつくった記録映画「とんだの“もちあじ”」(32分)をご覧ください。私がPTA会長をつとめる小学校の創立150周年記念の作品です。以下、記念冊子に記した作品紹介です。

「富田小の子どもたちはうらやましいなあ。」それが、わが子を通じて、常々思っていた実感。そんな学校を自分ももっと知りたい、との思いから、うっかり引き受けたPTA役員。しかし、PTA活動を通して、知れば知るほど、やっぱり富田小は素敵。背景にあるのは、富田の町に今も息づく歴史と文化。その豊かな資産を、子どもたちが成長する日々につなぐ努力をおしまない先生方、暖かい地域の方々。そして、このような肥沃な土壌を、これまでに培ってこられた歴代先生方、卒業生、地域の皆さまのご努力と連携があってこそ、の今を、とてもとても羨ましく思います。今ここにある人と人とのつながりを、これからも大切にしていきたい。創立150周年ほんとうにおめでとうございます。これからの発展を心より祈念いたします。

自己紹介

藤田さん(コーディネーター):では、みなさんの自己紹介から始めます。

Z・Qさん:中国出身で、日本に来てから2年半です。河南省から来ました。

E・Tさん:島津製作所という会社で、真空ポンプなどを作る仕事をしています。8月11日から20日まで夏季休暇で、明日から仕事です。

K・Yさん:ひまわり教室で、読み聞かせ担当をしています。今まで村田さんのGSは、2回参加しています。今日も村田さんのお話しが楽しみです。

H・Kさん:前回のGSでも、生命誌研究館のお話の中の蝶々と、お能の『胡蝶』の小鼓のイメージが強いです。涼しくなったら、生命誌研究館にも行ってみたいと思っています。今、カナダやハワイのマウイ島で大きな山火事が起こっていますが、その原因についても知りたいと考えています。滋賀県の大津市から来ていて、ほとんど来ています。

児嶋:Global Sessionは、私が亀岡市交流活動センター在職中の1999年から始めました。現在は、366回目で、20年以上続いていますね。最初はもっと英語の学習のように始め、月に何度もやっていましたが、現在は、月に一度で定着していますね。2011年4月からは、私たちのオフィス・コン・ジュントの主催で継続しています。

藤田さん:私は、最初から参加しています。先ほど言われたように、英語の学習から始まったのですが、最近は、日本語でのセッションがほとんどですね。映画会社に勤めていて、今も東映映画村を中心に、映画関係に携わっています。

 では、村田さん、お願いします。

グローバルセッション開始

村田さん: 映像を見ながら話合いをしていきたいと思います。

 私は、今年60才になり、この4月から管理職をはずれましたが、再雇用として、生命誌研究館で相変わらず表現に携わる仕事しています。2022年のセッションでは、映画「食草園…」を見て頂きながら、身近な昆虫と植物の関わりを探る研究と、生きもの研究と生活者としての私たちの日常との接点や重なりについて話し合いました。

藤田さん:映像の脚本はだれが作られるのですか?

村田さん:映像作りをされている藤田さんならでは、の突っ込みですね。

 劇映画であれば、まず構成や脚本から制作が始まると思いますが、記録映画の入り口は、実際に面白い出来事が起こっている現場の魅力をいかに伝えるか? というところになるので、「撮りながら考える」ことが大事だと思っています。もちろん、まず撮ってみて、次には、撮れたものをいかに生かすかという風に、種から育てるように、構成を、映像のつながりや展開を考えて、育てていく、というイメージで映画をつくっています。

 で、前作で、「実際に面白い出来事が起こっている現場」は生命誌研究館でしたが、今回、私は、ちょうど150周年を迎える富田小学校(とんだしょうがっこう)を「とっても面白い現場だ」と思ったわけです。

 富田小学校は、高槻市内の市街地にありながら1学年1学級で、全校で児童数150人ほど。これは、集団として、お互いに一人一人の顔、個性が見えるよい人数です。町の歴史も古く、室町時代から続く寺内町で、地蔵盆などの伝統も生きています。江戸時代から続く酒造家もあり、そうした地域の文化に触れる授業も組まれています。一人一人の個性や特徴、そして町の歴史や文化を、“もちあじ”という言葉で表現することで、小学校6年間を通して、お互いの価値を認め合い、協力し合って、生活していくことを考える。そんなカリキュラムを学校と地域が手を取り合い育んできた土壌があります。

 今回の記録映画「とんだの“もちあじ”」の中でも、「わたしの“もちあじ”ってなんだろう?」と一人一人が考える1年生の宿題のシーンから始まります。

 実は、私は、昨年PTA会長を引き受けた後で、今年が小学校創立150周年だと知らされました。私自身、たまたま今ここで家族と暮らしていますが、元々この土地の縁者でもないのに、そんな大役は…と思いましたが、逆に、外から目線だからこそ見える富田小の魅力を記録映画にまとめて未来へおくるということであれば、私にできるなと腹をくくって、150年目の児童の様子を記録映画にすることにしました。およそ半年間、仕事の合間に時間をつくって、学校へ通って撮影を始めると、私自身も直接は知らなかった、子どもたちがどのような毎日をおくっているか、元気な授業や休み時間はもちろん、自分たちで給食を配膳したりする様子や、そして先生たちの思いを、撮影し、編集しながら、全校児童の保護者の皆さんに、ぜひこれを見て欲しいなと思えるような作品として、去る7月の150周年記念式典に体育館で上映することができました。     

 映画の後半は、児童の歌声によるオリジナル・ソングにあわせて学校生活の映像をつないだメドレーのようなつくりになっています。これは、校歌とはまた別に、歴代の先生方が児童とともに作詞・作曲した「いまとみらい」「わがまちソング」など、素敵なオリジナル・ソングがたくさんあるので、そんな歴代の努力の蓄積が、受け継がれ、今も生きて学校生活を豊かにしているんだという状況を表現したかったのです。富田小学校は、地域の小中学校と連携する小中一貫教育のモデル校として、これまでに学校と地域が連携して、いわゆる総合的な学習の時間を発展させて、“もちあじ学習”などを行う「いまとみらい科」というカリキュラムを開発してきました。数々のオリジナル・ソングや、商店街のゆるキャラ「とんちゃん」、さらに「ひとりぼっちのいないまち」を目指して「子ども食堂」などを展開する地域の福祉法人の活動の場づくりにも子どもたちが参画するという好循環が根づき、育っています。

 映画の中で「S・R・P・D・C・A」サイクルという円盤状に描かれた図が出てきます。「P・D・C・A」サイクルというのは、Plan(計画)、Do(実行)、Check(評価)、Action(改善)という循環によりマネジメントを向上させようという、業務管理の手法で、以前よく言われました。いまでは古いと言われているようです。ところで「S・R・P・D・C・A」サイクルというのは、頭にStanding と Research という2ステップがついているのが味噌で、この図は学校内、各クラスに、いつも張り出してあって、子どもたちも先生もいつもこれを心がけているようです。私も最初はピンと来なかったのですが、今では、とても納得しています。つまり、子どもたち一人一人が、自分のものとして問題意識、目標を持って、これから課題に取り組む、そのスタート地点で、自分の「立ち位置」を確認することはとても大事です。途中で目標を見失わないためには、そもそも自分がなぜその課題に取り組むかを、内発として、自分自身の「問い」としなくてはなりません。そのために自分のStaiding pointを明確化することは大事です。そして、朧げに見えた自分なりの目標を、より明確にするために、周辺の状況を自分でリサーチする。目標を実現するための手がかりを、自分で調べて自分の思いと課題を整理できた段階で、はじめて計画のステップに入る。自分から周囲に働きかけて、お互いを尊重し、仲間と協力し合って、社会に働きかけていく。そういう人に育って欲しいという思いがこの円盤には込められているようです。

 さて今日は、富田小学校のお話でしたが、今日お話ししながらも、またこの映画を作りながらも、私としては、富田小学校で大事にしていることは、生命誌研究館で表現に取り組んでいる「生きもののつながりの中の人間」という考えに重なるように思っています。そして、最後のS・R・P・D・C・Aのお話は、いつも研究館で永田和宏館長が語っている「自分なりに「問い」を持つということの大切さ」に重なるものと思っています。

 映画は、2023年4月に、新1年生を迎えた「第150回入学式」で終わります。

 「いまもみらいも どこまでも つづくみちで いまを たいせつに ともにあるいていこう あたらしいなにかに かがやかしい みらいに つづいてる このみちを いまもみらいも どこまでも つづくみちで じぶんらしく かがやく ひかりをみつけよう そのひとつひとつで きれいな にじをつくり いきさきをてらしてくれる ゆめをえがこう かがやく いまとみらいへ ゆめをえがこう」

 これはオリジナル・ソング「いまとみらい」の歌詞です。

 昨年の映画「食草園」をつくっている間は、作品のエンディングで流している謡曲「胡蝶」が、いつも私の頭の中で流れていました。そして今回、映画「とんだの “もちあじ”」をつくっている間は、頭の中では、この「いまとみらい」がいつも流れていました。

児嶋:「生命誌」の本をもらって読んでいると、前館長の中村桂子さんが、ものすごい数の人たちとインタビューをしてその記録があります。これも村田さんの編集だと思います。その多くの中から、永田和宏さんが、現在の館長に選ばれたことが驚きでした。永田さんは、私が所属する短歌の会の塔の方ですが、科学者でもありますね。

村田さん:中村先生は、現在は名誉館長という立場から積極的に生命誌の発信をなさっています。その本は『生命誌の思い 100の対話』という文庫本で、創刊以来、季刊誌に掲載した対談を、ちょうど100号の時に、それぞれの対談のポイントだけ抽出して、格言集みたいに編集した本です。ホームページでは、いまも全文が読めるんですが、膨大すぎてなかなか読んでもらえないのでその入り口として、コンパクト版を編集しました。研究館は、科学と表現(芸術)と両面性があるので、双方の顔をもつ一流の方って、ちょっと永田館長の他には…。

藤田さん:17年間小・中学生の映画作りを指導してきました。今年のテーマは「あおばな」です。朝顔と同じく、朝早く咲きます。染料に使う花です。花をしぼった汁をぬったり、塗料として塗るときには、水にひたして使います。これを映画の物語として表現するという目標です。

 草津「あおばな」として有名で、京都市と草津市が主催しています。化粧品などにも使われています。この映画作りには、小学生が19人参加しました。2024年1月24日に試写会が草津市であります。俳優も、監督も、カメラマンなどの担当も子どもたちがそれぞれ担当します。東映の撮影所の指導ですが。前回の試写会には、300名の会場がいっぱいになったようです。家族をはじめ、親戚の人たちも集まって。子どもたちがそれぞれ作るしんどさと喜びを感じていたようです。後にDVDを作成し、図書館で貸し出しもしています。

 このような活動を続けていると、子どもは、だんだんはずれて来るものです。俳優はもちろん、だれもはずれてはだめなんですが、繰り返しはずれてくると、子ども自身が、「自分がやらないと先にすすまない」という現実に気が付きます。それからまた、やる気を出してやるというようなくり返しがありました。ナレーションには、保護者も参加し、年に2回この映画作りを開催しています。

 話は変わりますが、生きものの話ですが、近所にコウモリが住み着いている家があり、大変なようです。夜の7時ころ飛び立ち、朝からいます。天敵はいないのか、スプレーでも死なないで糞をまき散らします。以前、鳩が住み着いたけれども、おもちゃのへびを置いたら、来なくなったことがありましたが。

K・Yさん:近所にコウモリが住み着いた家がやはりありました。屋根と壁の間のすき間をかじり、大変だったようです。

H・Kさん:琵琶湖疎水にもコウモリがもともと住み着いているようです。ミャンマーへ仕事の旅行で行ったとき、コウモリの糞のにおいは、ほうじ茶の香りでしたが。

E・Tさん:島津製作所に勤務していますが、職場のみなさんんといっしょに考えるグループがあり、そのリーダーになっていますが、なかなか大変で、目上の人もいますし。

 学校での映画作りで、協力してもらっている方はいますか?

村田さん:この映画制作では、PTA役員の仲間には、地域の人への取材依頼や、実際に映画に出てくる催しの運営など協力してもらい一緒につくったと思っています。ただベースにある映画に写っている魅力的な学校生活や、富田の町まちづくりとつながった地域と学校の活動は、すでにこれまでの皆さんの努力で行われていたもので、私は、それを外から目線で記録係りとして記録してまわったという。今のイキイキした学校の様子を150周年の節目にぜひ映像で記録し、未来へ送りたいという気持ちがありました。

E・Tさん:リーダーになりましたが、まだ仕事をし始めて2年くらいなので、自分の知識のなさに困っています。

村田さん:メンバー一人一人の前向きな力を合わせるには、それぞれの人のモチベーションを考えながら、やって行く必要がありますね。グループには目上の人もいらっしゃると言われましたね。私自身は60才でシニア社員となって、今も現場にいますが、あまり年寄りは余計なことは言わないようにしていると、若い次世代が、私は思わなかったような方法で新しく仕事をして行ってくれているように思っています。固定観念にとらわれないようにね。

E・Tさん:目上の人は、当たり前ですが、経験も実績もあるので、自分の立場からリーダーとして接する難しさを感じています。

児嶋:私は、アメリカ大学日本校に6年間いて、その後、亀岡交流活動センターと名前を変えた同じ場所に20年間仕事をしていました。その間、市役所から代わる代わる、課長とか、センター長とかで上司として若い人が来ていましたが、仕事を仕上げていくには、ほとんど気になりませんでした。何をするかを共に考え、目標を決めたら、どうやるかをそれぞれが必死で考え仕上げていくのです。資金もそこそこあり、そのことは考えなくてもいいので、とても楽でした。市民のために共に仕事を作り、発表していくのは、楽しくていやとか、どのように付き合おうとかあまり考えていませんでした。

 でも、最初の3年間が終わって、担当課長が市の部署に帰るときに、「この3年間ほどおもしろくて楽しかったことはなかったです。」と言われて、「良かった」と思いました。今もその方達とは付き合いがありますよ。

村田さん:生命誌研究館に「研究」と「表現」の部門がありますが、それぞれ仕事内容も、空気というか、現場での価値観も、違いますから。でも、思ったことを気軽に口にできるような、日常の空気感に気をつけていけば、良い方向に行くのではないかと思います。それぞれの“もちあじ”を互いに生かし合う気持ちを大切にというのは、大人になっても大事なことだと思います。

Z・Yさん:2013年4月に夫がまだ元気だったころ、船で世界一周旅行に行きました。3ヶ月間かけて回るので、その間たくさんの写真を撮りました。それで、ビデオを制作しようという話しになり、友人たちと話をしていたのですが、そこに使用するテーマ曲の話で、最初は一致しませんでした。一人の友人は、「タイタニック号の曲がいい」と言いました。私は「イタリアのこの曲がいい」と提案しました。その友人は、「黙って!」などと言って聞こうとしませんでした。

 そこで、私は「みんなの意見を聞きましょう」と提案し、聞いた所、私の方法が採用されました。みんなの意見を聞くのもいいかと思います。

E・Tさん:自分は自信がないので、みなさんがうらやましいです。みんなの意見を聞いてどうまとめるかも。

Z・Yさん:さっきの話ですが、5人でビデオを作ろうといいはじめましたが、その「黙って」と言った人は、気が強く、プライドも高かったのだと思います。

藤田さん:さて、時間ですがあと10分で話したい事が在る人はどうぞ。

Z・Qさん:外国人として見ると、日本の小学生は豊な日常があるなと思います。教科書だけではなく、自然や社会との関わりもつながりを持とうとしていますね。中国の小学生は、自然とのつながりは少ないです。

村田さん:この学校は子どもの家庭数も150人ほどですから、PTAとしての活動もまだ意思疎通できていますが、児童数、家庭数が多い学校は、大変だろうと思います。富田の場合、申し上げたように、ボトムアップによるこれまでの人々の積み重ねがあります。本当は、それぞれの地域で、それぞれの文化を土壌に小さな協働のしくみが根付いていくといいと思うのですが。

児嶋:これが日本の普通の小学校の取り組みではないと思います。同じように150名の1学年1クラスの学校でも、しっかりとした目標をみんなで持っていなければできないと思います。これで、日本と中国の対比はしない方がいいと思いますよ。 

2023年7月17日(月・祝)第365回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2023年7月17日(月・祝)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室&オンライン
ゲストスピーカー:濱田雅子さん(元武庫川女子大学教授、アメリカ服飾社会史研究会 会長)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:8名(うちオンラインでの参加2名)
共催:アメリカ服飾社会史研究会

 今回のタイトル:服飾から見た生活文化シリーズ25回目:「写真が語るアメリカ民衆の装い(その5)-1890年代の民衆の生活文化を   垣間見るー」

セッション終了後のレポート

2023年6月2日(日)第364回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2023年5月28日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 第2会議室
ゲストスピーカー:範雲飛さん(中国出身・専門学校生)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:5名

 今回のタイトル:「人間と動物の関係:動物のことをよく思いやっているかな?」

自己紹介

亀田さん(コーディネーター:C):では、今から始めます。範雲飛さんの読み方は?

範さん:ハン・ウンヒです。

児嶋:それは、日本語の漢字読みですね。中国の読み方は?

範さん:fan yun fei (ファン ユイン フェイ)です。

亀田さん(C): 範さんという名字は、中国で多いのですか?

範さん:少ないです。

亀田さん(C): 範さんは、ゲストは今回が初めてということですが、まず、参加者の自己紹介から始めましょう。

Z・Yさん:ちょうえいと言います。京都民際日本語学校からの派遣で、大成中と千代川小学校に、外国につながる子どもたちの母語での支援に入っています。2年前から、ひまわり教室を紹介していただき、中国出身の子ども達の指導に入っています。Global Sessionもその時から、ゲストになったり、参加者になったりしながら、来ています。今日は、範さんの話を楽しみにしています。

M・Fさん:Global Sessionは、私は、長いです。最近は、最初とちょっと変化してきていますが、できるかぎり参加しています。勤め先の映画村の中島監督が最近亡くなり、その後を決めるまで大変です。

児嶋:Global Sessionは、1999年に、宮前町の亀岡交流活動センターで開始してもう20年を超えました。大体、1ヶ月に一回のペースでやり、今回は、364回目になります。M・Fさんも最初からのメンバーで、数人まだいっしょに参加されている方々がおられます。 亀田さんも少し後から参加されていますが、もうかなりですね。

亀田さん(C):コーディネーターをしている亀田です。私は、大津市に住んでいて、通っています。範さんは、今は、Z・Yさんのところにお世話になっているようですが、引っ越しはいつから?

範さん:6月末です。専門学校も、アルバイト先も近くて便利な所です。

亀田さん:毎月Global Sessionには来ていますが、コロナ禍で、ツアーガイドをしていますが、この間は大変でした。学生さんが外から来られて案内するガイドは、始まりましたが、日本人が外にガイドで行く仕事はまだまだです。昨日は、オーストラリアから、予約が入りました。今は団体客が多いですね。中国はビザの関係で、団体客の来日はまだですね。

児嶋:中国の旅行者は団体が多かったのですね。

亀田さん:日本人が中国へ行くのもまだ無理ですね。香港は入りやすいのですが、その他の地域に行くには、書類が大変なのです。キャセイ航空の場合はフライト代がサービスがあり、25,000円くらいで行けますが。香港以外は行きにくいですね。中国の規制があるので。京都は、今、外国人でいっぱいですが、ヨーロッパが多く、中国からはまだですね。ベトナムへは、6、7時間で行けるし、航空運賃も安いです。在住の中国人でも大体のツアーは、OKですが、個人旅行は、無理だと思います。範さんの自己紹介をお願いします。

範さん:2015年に初めて日本に留学し、日本語学校に入りました。20才の時です。その後、東京のミュージシャン専門学校に2年間いました。その後帰国し、2023年に4月に2回目の留学をし、介護職の専門学校に行っています。2025年3月に卒業したら、仕事をしたいと思っています。

M・Fさん:最近は、医師がやることも、介護職の人がやることもありますね。

範さん:今もアルバイトをしながら、学校に行っています。

亀田さん:海外でも介護職はできますね。

範さん:介護のバイトも日本でしています。

M・Fさん:中国では、介護職の需要は?

グローバルセッション開始

範さん:ちょっとえらそうですが、中国はまだその点では、発展途上国と思います。今日は、人間と動物との関係をみなさんに、どう思うかを聞いてみたいと思います。私は、29才の若者ですが、みなさんに、この話題についてどう思われているか、聞いてみたいと思って取り上げました。地球、世界、宇宙の在り方についても考えています。このGSを紹介してもらったZ・Yさんに感謝しています。音楽やアニメも考えましたが、今回は、人間と動物との関係について取り上げました。動物の虐待の動画もたくさん出ていますが、なかなかえぐいかもしれません。

最初は、中国の動物園でラクダを飼育員がなぐっています。

2番目は、カナダで、政府が認可していますが、アザラシの毛皮を取るために、あかんぼうのアザラシを穫っています。

M・Fさん:昔は象も象牙などが捕られていましたね。今はインド政府が禁止しているし、日本も輸入禁止ですね。

亀田さん:アフリカでも政府は禁止していても密輸が盛んです。以前ニュースで、中国の要人が象牙のみやげをもらったというのがありました。ベトナムでは、鼈甲(亀の甲羅)が、フランスでは貝を高額のジュエリーにして売ったりしています。最近ではペットはワシントン条約で入らないはずですが、東南アジアに行けば手に入るそうです。アフリカでは、自分が生きるために動物のハンティングをしています。中国でも、奥地に行けば何でも手に入ると聞いています。動物は昔は自然に動物同士が食べて減らしていったはずですが、日本にもオオカミがいて。

日本は今は鹿が多いようですね。山から田んぼに降りて来て作物を食べるようです。

熊が町に出て来たというニュースもありますね。食べ物がなくなり降りて来て人間の食べ物を見つけるとくせになるようですね。奈良の鹿はえさをもらえますが、宮島の鹿は禁止されているので、ゴミ箱をあさり、ビニールを食べてしまうそうです。カナダではシロクマがあざらしを穫ってくらしていたのが、氷が溶け出し、死んでいるとか。人間が殺すという批判もあるのが、くじらですが、日本には捕鯨団がありましたからね。

範さん:中国では毛皮は高価でビジネスになります。あらいぐまの毛皮とか。うさぎや猫や犬も料理店が求めるし。光りもあれば蔭もあるようです。

M・Fさん:おいしい肉屋さんという評判の店で食べていたときに、ひょっこり裏に行ったら、猫の頭がいっぱいころがっていて、我々は猫の肉を食べていたのかと思ったことがあります。

範さん:かいこは絹の糸を作りますが、蜘蛛の糸も何かを目的を持って使うと聞いたことがあります。次の映像は虐待ではないでしょうか?洗濯機にペット入れていますね。

今日の話題の人間と動物の関係についてですが、地球には人間と動物がいて、どちらも哺乳類ですね。人間が頭がいいかもしれませんが、動物を虐待する理由はないと思います。昔恐竜がいて、絶滅したと言われていますが、その時は、99%の動物が絶滅したと言われています。天災か人災かですが、人間の動きをつながるものであれば、許せないし、同じ人間として、恥だと思います。動物と動物も平和的な関係もあれば、そうでない場合もありますね。人間と動物のバランスが大切かと思います。力が強いから暴力をふるっていいでしょうか?力があるからこそ、責任をとる必要があると思います。

人間は、人間同士のことを考えて、祈ることもあります。動物のために祈るひとはいるのでしょうか?

亀田さん:日本では、ペットは家族の一員という考え方がありますね。

M・Fさん:ペットのお墓もありますね。ペットのためのお寺も神社もあります。

Z・Yさん:母が猫を飼っていましたが、魚など料理をして与えていました。自分たちより猫が大事みたいに。

児嶋:猫はえさをやるひとになつきますね。

M・Fさん:昔、うちでは牛を飼っていました。牛は耕す大切な動物として扱われ、一軒家の牛用の小屋があり、玄関のひだり隣が、牛小屋でした。寝床の古草も整理してきれいにしていました。馬も車がなかったから、荷車をひくので、大切にされていました。竹の鞭もありましたが、牛も馬もへたな使い手には動かないようでした。

児嶋:今、中国は、ペットがブームと聞いた事がありますが、そうですか?

範さん:まだ動物の保護法は一般的ではないようです。法律はまだ甘いと思います。

M・Fさん:ペットにかまれたら、予防注射がしていなかったら、大変ですね。ブータンでは、犬にかまれたら、危険と言われています。

亀田さん:日本でも、あらいぐまやハクビシンは危険です。

M・Fさん:動物もペットショップで買えば、予防注射を打ち、病気になると、動物病院に見てもらいます。でも、そのために、値段も高いですね。餌代も高いし。

Z・Yさん:日本では、動物が亡くなると頼めば、寺に来てもらいますね。

M・Fさん:マレーシアかタイで象使いの車に乗ったことがあります。象にはえさとしてバナナが配られ、頭もたたいて血も出ていました。丸太を持ち上げさせたりもして、見ているとつらかったです。象牙も高価な物として売買されていますね。

Z・Yさん:象の歯も高いです。それで、作られた箸も見たことがあります。

亀田さん:タイのチェンマイで、絵をかくキャンバスに鼻で絵を画かせていたのを見たことがあります。

児嶋:馬車で人を運ぶのは、むかしからやっていたと思いますが。

範さん:動物との関係には、政府が関与しなければならないと私は思います。人間同士の法律はあっても、人間に動物のことは頭にないのかと思います。

亀田さん:ブータンは宗教的な国だと思いますが、JICAの職員さんが、政府から招聘を受けて行ったのに、受け入れ体制ができていなくて、3ヶ月で帰国してきました。映像を撮るために行ったのに、受け入れられる技術がなかったようです。「何しに来たの?」と聞かれ、人間関係がおかしくなって帰国するしかなかったと聞いています。

M・Fさん:日本に来て、自分の国と比較してちがいはありましたか?

範さん:あります。価値観がまず、ちがうと思います。中国は人口が多く、就職もなかなかできません。ストレスも多いのですが、若者は、わがままで、他のひとにこだわりがあまりありません。入社してからも、オリエンテーションのようなものはなく、「適当にやれ」とか、「自分で判断してやれ」とか言われます。そのため、中国に帰国すると、孤独感があります。

M・Fさん:日本では大学卒は、総合職と言われ、事務系の仕事が多いですね。高校卒はそれ以外で、技術系が多くあり、分かれています。総合職は会社が教育していきますね。先輩が教育することもあります。

Z・Yさん:教育の内容のちがいがありますね。日本では会社が教育し、どんな仕事も会社の責任ということになりますね。中国では、自分で見て行動させて、教えてはもらえないです。入試までは、夜まで学校で勉強しているので、大学に入るまでは経験もなく、自立できていないと思います。

M・Fさん:中国の人は商売が上手ですね。旅行すると、外国人には高く売り、中国人には安く売ることがよくありました。

Z・Yさん:私の出身の丹東市では、物に値段が書いてありません。北京では、値段がいろいろあり、一致していません。

亀田さん:イタリアも白タクが多くいて、いろいろな値段です。ベトナムでも交渉でいろいろになりました。タイでも英語をよく使うのですが、中国人が多く、日本語も使えます。シンガポールも中国人が多いですね。

M・Fさん:上海に行ったときに、道幅がとても広いのですが、車優先で、人が渡れないのに驚きました。

Z・Yさん:歩行者優先の道路で渡ろうとしたら、途中で渡れませんでした。原則と実際がちがう事もあります。

亀田さん:ベトナムもバイクが多いのですが、歩いている人はさけてくれるようです。

M・Fさん:車優先社会はどうしてでしょうね。

Z・Yさん:以前、中国で、タクシーの運転手をしていたことがあります。町で手を上げて知らせてもらうのです。

M・Fさん:道を渡るときには、文化のちがいが大きいですね。上海に行ったとき、あちこち回って、5万円も払ったことがあります。アメリカもタクシーでも160キロもだすようなタクシーがありました。高速道路は混んでいて、蘇州から上海に行ったことがありますが。スピードが速すぎてこわかったです。

範さん:日本に住んでみると、中国はまだ発展途上国だと感じます。でも、多分まだ時間がかかるはずです。どの国に暮らすかは、自分で選べるのがいいです。

M・Fさん:中国のレストランで食事をしたときに、「この食事にある酒は?」と聞いたら、60度もあるような強い酒を持って来て、火がついたくらいになりました。その酒は持って帰りましたが、今も家にあります。今も飲めるでしょうか?紹興酒がいいですね。青島ビールもいいですね。

(時間です。終了)