2021/12/10

2021年11月7日(土)第345回グローバル・セッション・レポート

開催後のレポート
グローバルセッションイメージ

開催日:2021年11月7日(土)13:30~15:00
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:内田晴子さん(世界人権問題研究センター研究員)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:9名

 今回のタイトル:「差別するかもしれない私」

自己紹介

亀田さん:コーディネーターの亀田です。大津市から来ています。順番にどうぞ。

E・Tさん:派遣社員で今は島津製作所で仕事をしています。外国人労働者も多く、フィリピンなどからも来られています。とてもフレンドリーで、仕事に対してもアグレッシブですね。大阪に久しぶりに行ったら、人が大勢だからか、「せまいな」と感じました。コロナが収まったら、5月には、外国に行こうと思っていて、最初は、台湾に行こうと考えています。

E・Fさん:京都新聞の「まちかど」欄を見て参加しました。72才です。障害者グループホームの世話人をしています。MRA財団法人の大阪にある「難民を救う会」の切手集めを手伝っています。(西京高校の先生が中心となっている会)

M・Sさん:前は学校教員でしたが、今は退職し、英語が好きなので、学校の英語指導員をしていました。その時に、教員だった前田優子先生にお会いしました。今はそれもやめて、多文化共生センターの相談員をしています。いろいろな中で家にいることが増えたためか、ためいきや疲れを感じます。

M・Fさん:このGlobal Sessionは、最初から参加しています。多文化について話をし、自分も発言できるし、楽しい会だと思います。東映映画撮影所で仕事をしていましたが、60才で退職してからは、NPO法人「京都映画クラブ」というところで仕事をしています。ここでは、子どもの映画作りを教えています。カメラの使い方や監督とか、いろいろです。11月27日にも計画していますが、広報がしっかりやれていないと以前のGSで話したら、ゲストであったFellner真理子さんが紹介してくださったようで、8名が集まり、実行できるようになりました。このような仕事をしていると、俳優さんと話す機会が多いのですが、普通に話していても、いざ、舞台に上がると役者の声になるということをよく経験しました。

K・Iさん:亀岡に住んでいて、ひまわり教室の指導をしています。偏見とは思ってはいないのですが、各国のひとの考え方は違うなあと体験しながら考えています。そのちがいを差別となってはいけないので、今日は、ここで、セッションしながら教えてもらおうと思って来ました。

グローバルセッションスタート

亀田さん:ツアーガイドをしています。フィリピンにつながりがあるゲストなので、ちょっとタガログ語で話してみます。1986年にフィリピンでは、マルコス政権が崩壊したのですが、その翌年に初めてフィリピンを訪問しました。

(1986年2月22日に起きた「エドゥサ革命」(二月革命、ピープル・パワー革命)で、民衆の不満が高まったためにマルコス政権は崩壊し、現在のフィリピン第四共和国体制が成立した。この革命は同年2月22日の国軍改革派将校の決起から25日のコリーアキノ政権樹立に至る4日間の出来事であった。民主化を求める市民が、マニラ首都圏の中心部でデモや集会、座り込みや兵士に花束を渡す行動を起こした。その模様をリアルタイムで、多くのテレビカメラの放列が世界中に生放送した。これらマスメディアの報道が心理的圧力となり、フィリピン共和国軍は市民に銃を発砲出来無かった。マルコスとイメルダはアメリカ合衆国のハワイ州に亡命した)

私は、セブ島が好きなのですが、ここは、長くスペインの植民地であったので、スペイン系の雰囲気があります。当時は日本人も入るためには許可が必要であり、許可を取って入国しました。来年5月には、現在の大統領が辞めて娘のサラが大統領選に立つと言われていますが。ボクシングのチャンピオンもいますね。ノーベル平和賞の受賞者の女性(マリア・レッサさん)がいますので、興味があります。

内田晴子さん:「フィリピンについていろいろ調べてきてくださってありがとうございます。私のフィリピン訪問は1991年にスタディ・ツアーで行ったのが初めてでした。1986年の政変の前、独裁体制期のフィリピンというのは、政府に批判的な活動をしていると拉致・誘拐されてそのまま行方が分からなくなったり、遺体で発見されたり、拘束・収監されて拷問を受けたり、本当に厳しい人権侵害が蔓延していました。1986年の政変後の熱狂は、コリー・アキノ政権下でだんだん失望に変わっていくのですが、それでも、スタディ・ツアーで訪問した大学生が様々な人権団体、労働組合、地方の人権活動団体などの話を聞けたこと自体、政変で「民主的な空間」ができていたから可能だったことです。首都マニラでの国際女性デー(3月8日)の大規模集会(みんなラリーと呼んでいました)は、トラックの荷台がステージになってバンド演奏もある楽しく明るく盛り上がりつつ、ヒューマンライツについて語られていました。地方に行けば、もう少しシビアな緊張感のある状況の中で、ヒューマンライツという言葉が聞かれました。具体性をもって人権について考え始めるという体験をしたと思います。その後、何度か、同様のスタディツアーでフィリピンを再訪し、また日本では、フィリピンのアーティストのコンサート企画とか、フィリピン教育演劇協会「PETA」の俳優による演劇ワークショップ企画とか、いろいろやっていた学生時代でした。フィリピンの人権問題を学び、日本人である私が、できることは何かを考える、行動するということであったと思います。 私のように、女性という属性を除いては日本社会でマジョリティとして生きてきた人間は、なかなか人権や差別を切実な自分事として学ぶ機会がなかったし、「差別するかもしれない自分」に気づくのも遅かったと思います。自分の子ども時代からのことを、ゆっくりとした気づきのプロセスを振り返ってみたいと思います。

小4の時に担任の先生から、住井すゑさんの『橋のない川』の話を聞きました。それを小6のときに友達の家で見つけ、借りて読みました。小説ですけれども、途中から(水平社宣言のあたりから)、ああこれは本当にあったことなんだな、人間はこういう風な行動をとるんだな、こういうのが差別なんだな、と子どもなりに理解しました。

20歳ぐらいの頃、フィリピンの学生が「フィリピンはclass society(階級社会)だから」と言いうのをきいても、意味がわかっていませんでした。人間にclass なんてないよ、対等じゃない?と思っていました。学問的な知識のなさもありますが、マジョリティー側にいるから構造に気づかなかったわけですね。

大学院卒業後は、在フィリピン日本大使館に3年間、政務担当の専門調査員として赴任しました。(ここで、「専門調査員とは何ですか」、と質問あり。)修士号をもつ人が、任期付きで外務省に採用されて在外の日本国大使館で働きます。在フィリピン大使館では、ほかに経済担当と文化広報担当がいました。)政治家などいろんな人に会って話を聞く仕事が多く、class societyの上の方にいる人たちと多く接してフィリピン社会の勉強になりました。またこの時期、フィリピンで外国人登録のための指紋押捺を経験しました。もちろん、かつての日本で人権侵害として問題になっていた在日コリアンの指紋押捺のことが念頭にあり、自分がどんな気持ちになるだろう、と思いながらやってみたら、特になにも感じなかった。そこで、日本で構造的に差別を受け続けている人たちがさせられた指紋押捺とは、文脈が違うな、という気づきがありました。大使館員として日頃、とくに非道な扱いも受けていない私が、「指紋押捺やってみたけど、どうってことないよ」というのは違う。

外国人として暮らすのは初めてでした。フィリピン社会を観察しながら、外国人として生きるということは、最悪のときに守ってもらえる人がいればいいのですが、弱みがあることも痛感しました。何かをきっかけに排除されることもあり、例えば恨みをかって陥れられれば、警察へ通報、最悪の場合は強制退去の可能性もあると理解しました。

30歳前後の経験としては、すごく身近なところで、父親が強い差別意識をもっていると知りました。結婚の話をしたときに、なんとなく賛同できないという理由が父親からたくさん挙がってきたのですが、電話で話しているときに、ついでのように「彼はそういう家筋の人じゃないだろうね」と聞かれて、ひきました。反対理由の本筋ではなかったのですが、その質問に答えること自体が差別してるってことだし、その質問に答える必要はない、と私が言ったので、さらに話がこじれました。説得に時間をかけましたが、絶縁を言い渡され、留学も決まっていたのでさっさと結婚してしまいました。父親は、小さい頃から「女の子だからって遠慮するな、どんどんやれ」と励まし、男女雇用機会均等法ができた時(1985年)も中学生の私にこの法律について話すような人でしたので、娘としては父親の差別意識にかなり傷つきました。

差別する自分に気づく、ということについて。「私は差別しない」とみんなが思っているでしょうが、差別にはいろんな現れ方の類型があると知ることは、役立つかもしれません。たとえば、差別行為としては「見下し」を連想するでしょうが、逆方向のものもあります。例えば、ほめているつもりで、「さすが○○人だから足が速いね」「さすが△△人だから数字に強い」などと、個人の努力を正当に評価せずに属性のステレオタイプに押し込んでしまう行為です。法律ができることは、構造的な差別の仕組みを是正することと、差別の「行為」を禁止したり罰したりすることです。日本では足りてないので必要です。個々人のもつ差別意識については、他者が変えることは難しいですが、自分自身で気づくために、このような安心して話す場をつくることが大切と思います。

児嶋:自己紹介の続きとして話します。私は、教職に10年間ほどいたあと、中国語を仕事にしようと3年間必死で学び、中国の北京に2年間続けて短期留学をしました。家庭もありましたが。その後初期の中国語の指導をしてねと言われた直後、夫のブラジルの日本人学校への転勤で3年間家族でブラジルで暮らしました。帰国後、市役所の指導主事などを頼まれたあと、アメリカ大学日本校のブームが来て、亀岡もオクラホマ州立大学京都校の設立をし始め、最初から関わり、1990年から1996年までアメリカ大学日本校が亀岡にありました。その後は学生が集まらなくなり、学生は全員本校に戻り、後は、亀岡交流活動センターとして2011年まで勤務しました。アメリカに行ったり、アメリカ人の教授などの受け入れはその当時からの仕事でした。

M・Sさん:私は、大学卒業後、民間企業に務めたのですが、男女差別が当時は当然のようにあり、「女子はやめてもいい」とよく言われました。当時海外駐在の仕事に応募したら、通ったのですが、女子の第1号と言われました。その後、その仕事をやめて教員になったら、この世界には、全く男女の差がなく、給料も全く一緒なのに驚きました。その後、日本人学校の教師として、マレーシアに赴任しました。ここでは、長く住む覚悟をしている日本人と、数年駐在するだけの日本人が「楽しい」というのは、迷惑だとも言われました。しばらく住むだけの外国人は、差別の対象にもならないのだと思います。

(これ以後は、休憩時間なども取りながら、話があちこちに行ったので、後日のそれぞれの感想がある方に感想を求めることで切り替えることにしました。)

終了後の感想集

内田晴子さん

「GS御参加の皆さま:本日はありがとうございました。

今日の皆さんとのお話で、「悪意なく、知らずに、差別する(あるいはすでにした)ことがあるかもしれないな」というところまでは共有されていると思いました。

ではどうやったら気づくか、気づけるか。気づくパターンは、大きくふたつでしょうか。

1)自分で(後から)気づく・・・その日の晩に気づくこともあれば、数日後、数年後、もっと後から気づくこともあるでしょう。差別行為の事例や類型などを学ぶことで、気づける可能性が高まるかもしれません。今日の私の話の中では、自分自身の人権教育機会の欠如、社会教育なしでは気づかないままであること(父親の例)、マジョリティが陥りがちな文脈無視(指紋押捺)、「見下し」とは逆方向で現れる差別の事例などにふれました。私自身が気づいた範囲では、私の過去の差別発言は、「ステレオタイプ・決めつけ」型が多かったです。(「ステレオタイプ・決めつけ」型には気づけた、ということかもしれません。)

2)人に指摘されて気づく・・・自分が気づく前に人が気づいて教えてくれる、これはとても助かるのですが、問題は、自分がその指摘を受け入れることができるか、納得して咀嚼して理解できるか、ということです。自分が否定されたような気持ち、恥ずかしい気持ち、やっぱり「自分が差別なんて」という気持ちが、邪魔することもあります。誰にとっても難しいことなので、指摘されたときの「適切な謝罪、態度」の事例を知っておく、何ならシミュレーションしておく、ことは有用かもしれないと思っています。反論としての「納得できない」ではなく、「本当に分からないから教えてくれ」と誰かに言えるかどうか。

 残念ながら日本で目にする多くの「コメント」は、謝罪風でありながら実はまったく謝罪しておらず、差別について学ばないままだなと感じさせるものです。ですので、よい事例があれば、意識的に記憶にとどめるようにしています。以前に亀岡での研修でご紹介したのは、芸人コンビのAマッソさんが、ライブで大坂なおみさんの肌の色をネタにしてしまった後、事務所がすぐに弁護士による研修を手配し、本人たちは学んだ上で謝罪文を出した事例です。この件ではライブ主催者の反省・声明文も正直でよかったと思いました。最近では、尾瀬ガイド協会の公式ツイッターがすごい差別ツイートを複数発信して指摘された際に、尾瀬保護財団が(いわば身内なのに)尾瀬ガイド協会への抗議文を出したこと、その後、(おそらくは弁護士の助言をうけて)尾瀬ガイド協会が出した謝罪声明がきちんとしていたことを記憶しています。英語圏でも差別発言→指摘を受けて謝罪、は頻繁にありますから、英語の勉強を兼ねて正しい謝罪ツイートから「何について謝るべきか」を学ぶのもいいかもしれません。以上です。ありがとうございました。」

E・Tさん

「今日は、グローバルセッションに行きました。

今回のテーマは、“差別するかもしれない自分に気づく”です。

私は、差別=見下すと思ってましたが、差別=出来て当然、も差別だと知り衝撃でした。例えば、ケニア人は走るのが速いとかインド人は数学が出来る等です。残念ですが、そうじゃないんですよね。

私自身、差別してるんじゃないか考えてみました。結果、差別していた事がありました。例えば、“正社員やから出来て当然”、“流石、○○さん、、、口に出したり、心で思う事が多々ありました。私は、差別してるつもりがないのですが(感謝のつもりで言ってるのですが)、差別になるんですよね。

私は今回の話を聞いて、差別=依存とも考えました。

また、相手の立場に立つと、“今回は期待に応えられたけど、次は期待に応えられるか不安”、“助けてもらえるのが当たり前って思ってるんじゃないかな?”と思うんじゃないかな?

言葉って難しいけど、助け合って生きていかないと生きづらいと考えます。

私は、助けてもらえれば、“助けてくれてありがとう”と言葉で伝えたり、心で思う事はもちろん、出来る事を増やし、他の人にも自分が出来た事(仕事でも何でも良いから)、を出来るようにしてもらいたいと思います。

最後に、あなたは差別していませんか?」

K・Iさん

「ある子供の行動に対して、思わずきつく叱ってしまいました。まずい 大いにまずい。

以来、ずーっと自省でこのGSを待ってました。いじめ、パワハラ、しかも子供への差別と自戒しながら少しでも自分の正当性を探している自分がいます。

→先生に丸投げするなよ。

→今後の国際人として頑張れよ!

今思います。みんな違う。国も、考え方も。そこでの各人が、他と比較し(見下しと見下され)にどこまで妥協するか。

方法:比較ハードルを低くし、言葉はソフトに努めます。

やっちまった時は、即言葉で「ごめんなさい」  さらに 逃げるが勝ち もあるでよ・・・」

Y・Mさん

「私は、2番目の「人に指摘されて気づく」という体験をしたことがあります。

自分がその指摘を受け入れることができるかどうか、ということについてですが、私の場合は、当時まだ若かったのと、自分が置かれている公的な立場を考えると、受け入れるべきだとすんなり思えました。そして、こんなことではいけないと 思いました。私が人権に携わる契機となる出来事になりました。

人権は、ここまで学んだら終わりではなく、また単位取得や卒業もないので、人として生きる限り、学び続けることだと思っています。自分は差別なんかしてない、とか、そのことなら知ってる、という驕った気持ちが、偏見や差別につながる 「無知」に陥ってしまうことを、いつも自分に言い聞かせているような毎日です。」

M・Sさん

「外国に行ったとき、外国人と接したとき、見下されてる、と感じることはやっぱりありました。

特に東南アジア、オセアニア諸国の場合は戦争という歴史から生まれる日本や日本人に対する嫌悪感に基づくものである場合、自分のできることが見当たらず、茫然とするばかりでした。また、欧米諸国の場合は「これって、人種差別?」と感じたことがありました。外国の人との交流の中で、たくさん学べたしたくさん楽しい経験が得られたけれど、中にはわずかながらもそうではない真逆の思いをしたことがあるなあ、と内田先生の話を聞きながら思い出していました。

このように、差別されたことははっきり覚えているものです。しかし、私も差別したかもしれない、するかもしれない、という思いで自分を振り返ったり、これからの自分の考えや行動を変えたりすることがどれだけ大切なのか、ということを今回のグローバルセッションに参加して学ぶことができました。そして、これはかなり難しいことのように思えます。 内田先生のお話は、まだまだ聞いてみたいですし、ワークショップにも参加してみたいです。」

亀田博さん

「グローバルセッション  内田さんの講義、大変興味深かったです。学ぶところが多かったです。  

テーマ  差別するかもしれない私に気づくで、私自身、普段、ステレオタイプ型であると思います。思い込みが強いところがあります。また、認知バイアスになりやすい時があります。職業柄、常に外国の人、顧客と接することが多いので、相手の気持ちや人柄を理解し、気配り、リスペクトが大事です。特に、国籍、宗教、性別、習慣、文化 、食事etc.     

言動には、常に注意しなければならない。なにげない言葉が、相手には,不快に感じる事がある。                                 

エンパワメントの必要性、最近の企業では、リッツカールトン、東京ロイヤル パーク ホテル、スターバックス、などは、評価が良いです。企業努力、能力開花しています。基本は、おもてなし、ホスピスタリテイ・神対応だと思います。個人でもおもてなしが必要です                      

  サイレントマジョリティ(silen majority):1969年アメリカ大統領  ニクソンのベトナム戦争に対する国民の支持を求めた演説で用いられた言葉「サイレントマジョリティ」をmy fellow (仲間たちよ)

   5年前にアイドル(欅坂46)  サイレントマジョリティの歌 「どこかの国の大統領が言っていた(曲解して)・声を上げない者たちは賛成していると—, 選べることが大事なんだ・人に任せるな・行動しなければノーと伝わらない・有り難うございます。」