2024/04/30

2024年4月21日(日)第374回グローバル・セッション・レポート

開催後のレポート

開催日:2024年4月21日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:大森和良さん(小浜市在住・漁師・地域創造クリエーター・シンガーソングライター・元教員)
コーディネーター:亀田博さん(ツアーガイド)
参加者:15名
共催:オフィス・コン・ジュント・亀岡国際交流協会

 今回のタイトル:「海は人をつなぐ」

参加者自己紹介

亀田さん:今日は小浜から大森さんに来ていただき、プレゼンテーションと歌を歌っていただけるようです。まず、みなさんの簡単な自己紹介を順番にお願いします。

M・Aさん:ブラジル出身で大本教の職員です。9月にゲストでお目にかかります。

S・Fさん:この1月にGSに参加させてもらいました。その時に「リトル・レジスタンス」というちょっと印象に残る言葉がありました。市役所とちょっと行き違いがあり、その決まった理由は何かと問いかけても、決まったことは実行するやり方について語り合いました。サークルとしては、理解が深まったと思うので、それは校歌があったと思います。「リトル・レジスタンス」というのもこういう効果が合ったかなと思っています。今日もいろいろ学びます。

E・Tさん:京北町から来ています。ふだんは島津製作所でターボ分子ポンプ作りしています。

H・Mさん:日本語教師です。久しぶりに参加しました。

Z・Yさん:中国出身で、日本語学校の派遣教師として、外国で日本語を教えたり、中国人向けの留学生に日本語を教えたりしていました。3年半ほど前から、亀岡市で外国につながる児童の教育支援員をしています。2月から亀岡市民です。

K・Nさん:保津町で、村おこし的なことをやっています。児嶋俊見先生にはむかしからお世話になっています。

M・Fさん:おはようございます。このGlobal Sessionにはかなり以前から参加していましたが、ここ2回ほどは、欠席していました。実は病気をして入院していました。仕事は映画関係の仕事をしていて、いまも子どもたちが映画の作り方を学ぶNPO法人で活動しています。

Y・Hさん:総合商社に務めていまして、50年ぶりに故郷に帰ってきました。今年もぼけてはいけないということで、脳の活性化と刺激を与えるために、このGlobal Sessionに参加させていただいています。

M・Tさん:アメリカのカリフォルニア大学で文化人類学を教えておりました。一応区切りをつけて2019年に引退しましたが、アメリカには「引退」という概念がはっきりせず、いまだに日本とアメリカを行ったり来たりしております。

F・Tさん:京都大学に高等研究院というのがあり、私はそこで、癌治療の研究をしています。なぜここでやっているかというと、日本はある特別な癌治療に世界一というか、世界的にリードしているからです。これは、中性子をもちいた放射線治療なのですが、中性子源として実験用の原子炉を使うのでその中に入って私も研究しています。

K・Kさん:大本本部の職員をしています。児嶋さんとは亀岡国際交流協会とのつながりで、今は副会長をしています。この副会長になったのが、2020年でコロナ禍で、今はようやく亀岡市としても国際交流ができないかなとそういう所に目を向けて活動できればと思っています。次回の5月19日には、こちらでゲストとしてお話しをさせていただきます。よろしくお願いします。

T・Kさん:このGSにはめったに参加せず、家で留守番をしていました。大森さんとは、学生時代からの知り合いで、たびたび小浜に行き、いろいろ教えてもらっていました。小浜にはお水送りという歴史があり、奈良や、京都とのつながりというのも知りました。日本には、むかしから海も含み、深い交流があるのだなあといろいろ勉強させておもらいました。今は木版画を中心に木版画家としてやっていますが、ようやく10年以上経ちました。これが、「お水送り」の木版画です。今日も朝鮮半島とのつながりの一部をお話しいただくのを楽しみにしています。

児嶋きよみ:1999年に亀岡交流活動センターでGlobal Sessionを開始し、今回は374回目になります。大体月に一回を継続してきましたので、もう20年を過ぎていますね。最初から参加されていたのは、M・Fさんで、そのすぐ後くらいから亀田さんが来られています。E・Tさんは、先ほどそろそろ10年目になると言われていましたね。何が面白くて続けてこられているのかと聞いたことはないのですが、他と少しちがうのは、人数を制限し、参加者とのセッションの時間を取っているということだろうと思っています。コーディネーターは必ずお願いをしていますので、皆さんのご意見をお聞きすることも目的にしています。それと、必ず、レポートを作成し、参加者とその他の会員(150名ほどがいろいろな国にもおられます)にメールで送っています。毎月ですが。そのレポートを見て、感想をメールで返していただく方もおられます。

亀田さん:私はコーディネートをさせていただいている亀田と申します。私は、亀岡市民ではなくて、滋賀の大津に住んでいます。琵琶湖も近く、大体家から10分くらいで湖に行けます。また、東側から比叡山も見えてとてもきれいです。ワシントンポスト紙から、世界に旅をすべき所として、12都市が選出されていますが、そのうちの1都市が福井が選ばれていますね。大森さんも福井県から来られていますが。最もスピリチュアルな都市として選ばれているのですが、多分、永平寺もあることがかなり影響を持っているのでしょう。もう一つ、福井県は都道府県幸福度ランキングとして、2014年、2016年、2018年、2020年、2022年の5回選出されています。勝山市は、福井県の中での住み心地が良い都市として選ばれていますね。恐竜博物館などもありますからね。今年は北陸新幹線が敦賀まで来ていますね。でも関西の人は敦賀で乗り換えなければならないので、やはり利用者が減っているようですね。今日はよろしくお願いします。

「海は人をつなぐ」大森和良(福井県小浜市)

自己紹介

 皆さまおはようございます。小浜から参りました大森です。写真をご覧いただきながらお話しさせていただきたいと思いますのでよろしくお願いします。皆さまからのお話を楽しみにしております。今ご紹介ありましたが、ご覧頂いている地図で赤い丸印のところが小浜です。紫の丸印のところが亀岡です。小浜から亀岡まで、京都縦貫道を通って車で1時間30分です。小浜はちょうど亀岡の真北ですね。磁石の針のように皆さんやっぱり北へ北へ向かわれる。北には何かあるんでしょうかね。

 この海岸は私の住んでいる近くの海岸です。目の前に広がるのは小浜湾の風景です。ここに少年の像が立っています。少年の像が何を見ているかというのは、これからお話しさせていただきます。

 この海岸にこうした石に絵を描いたり、写真を貼っています。これは私のいたずら遊びです。ここの海岸は綺麗なところなのに、過去にはゴミを捨てられたり、産業廃棄物を捨てられたりしてとても悲しい気持ちでした。石に絵を描いたりして置いておくと、子どもたちがやってきて、石に絵を描いて置いていってくれるんです。すると不思議とゴミが少なくなりました。一隅を照らせば本当に世界が美しくなるという体験をしました。 ここにはハマヒルガオが咲き誇ります。波打ち際に咲いている花なんです。淡いピンク色がなんともいい、大好きなハマヒルガオです。波のしぶきをかぶってもしっかりと花をつけて大きくなる力強い花です。かたまってこんな感じに咲いています。下は砂利で、ほとんど土のないところでもしっかり根を張って咲いています。

若狭湾の漁師

 さて、私はこの船に乗って漁師をしております。1トン足らずの小さい船です。この写真の向こうに見えるのが若狭湾です。遠くに見えるのが丹後半島です。冠島も見えます。半島の先端は経ヶ岬です。ここまで70キロあるのですが、晴れた日にはこうして若狭湾が一望できます。

 私が漁をしている海岸が「蘇洞門」という景勝地です。福井県には東尋坊とかいろいろ有名な観光地がありますが、蘇洞門も国定公園になっていて素敵なところです。私はこの海域で漁をしています。

 さてこれは最近の漁の様子です。箱眼鏡で海の底を覗いて、この竹の先に鎌がついています。磯見漁という伝統漁法でワカメを採っています。今最盛期です。ちょっと見てみましょうね。作業の様子はこういう感じです。この時期の天然のワカメはとても美味しいです。船が揺れるので、波があるときは落ちないように気をつけています。家に持って帰ると、こうして天日干しにして、最後は乾燥機にかけて仕上げて出荷します。

 夏になると、サザエもとっています。サザエは磯見漁で採るのと、サザエ網を仕掛けてとる方法と2通りです。サザエの習性で網に登るんです。サザエが網に絡まってとるという方法です。タコ、海のドリーマー、タコちゃんです。夢見るタコ。タコツボで獲っています。タコは暗いところ、狭いところが大好きで、タコツボを沈めておくとその中に入ります。また、カゴに餌を入れてとる方法もあります。タコが動くとこんな感じです。マダコは美味しいですよ。

サシ網には、ヒラメ、カサゴ、アコウ、イサキ、イカ、マゴチなど掛かります。ここに「勘治郎」って書いてあるのはうちの屋号です。この名前で早朝市場に出荷をしています。

若狭湾という位置

 さて、これは若狭湾の沿岸の風景です。本当にきれいですね。これは棚田。この狭い田で稲を作っています。美しい風景になっています。沖の石の方まできれいに見えます。

 今日の私の話は、若狭湾沿岸の原住民としての話でございます。とてもローカルな話です。私はローカルなことばかりやっているのですが、ローカルなことをやっていると、どんどんグローバルにつながって、世界につながっていくというのを体験しました。今日は、それを皆様にご報告、お聞きいただいて、いろいろアドバイスをいただきたいなと思っています。私が体験したことばかりのシンプルな話ばかりですがお聞きください。

 これは皆さんが普段から見ている地図ですね。こちらにアジアの大陸がありまして、朝鮮半島、そして日本です。私はこの地図をいつもこうして見ます。こうして逆さに見ると、大陸、朝鮮半島から、日本がこうして島国で目の前にあって、ちょっと行ってみたいな、ちょっと行こうかなみたいな感じの場所にあります。

 この海が「日本海」です。韓国では「東海」と言っています。大陸と日本が抱き合うこの海、私は母のように見えます。母の羊水のようにみえます。子どもたちが育まれて生まれてくる羊水です。

 さて、若狭湾でおきた歴史の一つをご紹介したいと思います。これは簡単にした地図です。ここは朝鮮半島で、ここにロシア、この辺りにウラジオストクあります。ここ(現在の)ウラジオストクを出港した船が、遭難し、2週間流され流されて着いたところが小浜市泊、私の村の海岸です。この話を子どもたちにも分かるように絵本にしました。史実に忠実に「風の吹いてきた村」として作った絵本です。挿絵を知り合いの画家上原徳治氏に描いてもらいました。この絵本を使って事件のあらましをご紹介します。

遭難・漂着・救護

 1900年1月12日のことです。泊の沖合に一隻の船が漂着しました。帆は破れて、帆柱も折れて無残な姿でした。この難破船の第一発見者が私の曾祖父なんです。だからそんなに昔の話じゃないのです。さあ、村の人はびっくりして、小舟を出してこの難破船に向かいました。近づくと船の上から手を振って何かを叫んでいます。しかし、何を言っているか分かりません。すぐに外国の船だということが分かりました。

 「この船はどこから来ましたか?」と聞くと「朝鮮です」。「船に病人や死人はいませんか?」「いません」。と筆談でやりとりをします。朝鮮人全員を小舟に乗せて上陸させました。真冬のことですから、まず藁の火を焚いて体を温めさせ、お湯を沸かして少しずつ飲ませ、村中の飯を集めて、おにぎりを作って食べてもらいました。

 救助した人は全部で93人。わずか25戸の村です。村の人口は100人少しです。村の人口と変わらない人が上陸したわけであります。相談して5軒の家に泊めて保護することにしました。それから村人は8日間、誠心誠意、懸命に保護、世話をし、93人の人は全員元気になっていったのです。死の境をさまよった人たちが命を吹き返すわけです。

 この船の名前は「サインパンゼ号」という8百石ほど積める木造船でありました。船主は鄭在官(チョン・ジェカン)。乗っていた人は、商人、運搬人、乗組員など93人です。ロシアのウラジオストクを出航して、大韓帝国へ帰る予定でした。当時は、朝鮮半島は李氏朝鮮の時代から大韓帝国になっていました。大韓帝国の時代が10年あったわけですが、その時期でした。大韓帝国咸鏡北道の明洲にある沙浦(サッポ)という港に向かっていた船でした。この場所は、現在は北朝鮮です。

 話を聞くとその漂流の様子は大変悲惨さを極めました。出航したその日の夕方、嵐になり、船は帆が破れて帆柱も折れて船内に海水が入ってきました。積んでいた荷物を全部海に投げ捨てました。食料も水も暖をとる槇もなくなりました。そして、しまいには船に積んであった少しの干し米を分け合って食べました。水がなくなったので、自分の尿を飲みながら生きる望みをつないだのであります。人間は海水を飲むと死ぬんです。

 さあ、もうこれで終わりだなと死を覚悟した人たち。それが幸運にも難破船は若狭湾から小浜湾に入ってきたのです。小浜湾の間口はこんな狭いのです。ここへ幸運にも入ってきたのです。

異文化の理解〜生活・習慣の違い

 さて、村での8日間の滞在の様子が、当時の文書に詳しく書いてあります。滞在の中で困ったこともありました。文化や生活の違いによって起こることであります。彼らは習慣から草履のまま家に上がったり、火を燃やす暖炉に唾を吐いたりしたんです。それはもう嫌で大変困り果てたそうです。しかし、言葉が分からないから、お互いの意思疎通がなかなかできません。身振り手振りでお互いを理解しようと努力して、とうとうお互いのことを理解しました。

 最初に白米のご飯をたっぷり食べさせていたのです。朝鮮人たちは満足していました。ところが5日目に役所からの命令が来るわけです。

 「朝鮮人に食べさせる米は半分にせよ」これひどいと思うでしょう。でもこれは水難救護法に従った措置でした。この事件の1年前に日本に初めて「水難救護法」ができたのです。     

 食料のことから、手続きまで全部書いてある。それに従って役場は言ってきたんですね。ところが米を半分にすると、朝鮮人たちはひもじい思いで腹が減っている様子、その顔を見ると村の人は気の毒がって、役所に内緒で芋や豆、朝鮮人の大好きな大根や生かぶらを差し入れたそうです。そうしたら、大変喜んで感謝して食べたそうです。その姿を見て村の人も涙を流したと文書に記録されています。

いのちあるもの〜人情は国境を越える

 さて、この8日間の滞在で朝鮮人たちはすっかり元気になりました。そして国に帰る手続きができたのです。

 出発の日です。浜には村の人たちも老若男女、子どもに至るまで集まりました。朝鮮の人たちが別れの挨拶を泣きながらするのですね。村の人たちも「袖を絞るほどに泣き、その様子は、親子兄弟のようであった」と文書に書かれています。

 村長が送別の言葉を述べました。朝鮮の人たちは何通か礼状を書いて村長に渡したのです。この礼状も残っています。その礼状の中に「このご恩は山のごとく、海のごとくであります。万世に世まで語り伝えていくつもりです。」と書いてあります。

 それから、手漕ぎの船で小浜の港まで村の人が送りました。小浜の港からは敦賀まで蒸気船で送りました。敦賀からは汽車で大阪まで送りました。大阪から釜山港までは、蒸気船で送ったと記録されています。

 その後の記録はまだ見つかっていません。ここまでが、実際に文書をもとにして確認していることであります。

戦争の渦中での不条理 

 さて、1900年という時代、日清戦争と日露戦争の狭間で国同士は非常に断絶した厳しい関係にありました。村長は水難救護法をもとに、誠実に事務処理をしました。漂着したそこの該当地の役所が報告とか手続きをすると書いてあるのです。また救護にかかった費用は、県を通して国に提出処理をしなさいと書いてあるのです。村長は忠実に事務処理をしました。  

 県を通して国へ。ところが国からも県からも一切回答と、返事はなかったのです。何と村長は50通も請求書を出しました。全部文書に残っています。しかし一切回答がなかったのです。

 1910年日韓併合の10年前の事件です。国同士の関係は非常に厳しい状況だったと思います。それでその費用はどうしたかと言いますと、村の役場と泊住民が負担したと記録が残っています。

 私の祖父は88歳まで生きたのですが、私が幼少の時にこの話をする時、いつも話の最後には、「費用は村で出した。国は何もしてくれんかった」と話していました。

 これは朝鮮人たちが残していた礼状であります。出航したその日の夕方、嵐にあって東へ西へ流されて行く様子、飢えと寒さが絶えがたい状況が書いてあります。この礼状が村の土蔵から見つかり、今も大事に保存をしています。

 村長の家の蔵にサインパンゼ号をつないだ係留ロープが残っています。今も大事に保管してあります。

 いろんな文書が見つかったので、これを記録にして残したいと、村の仲間と本を作りました。「韓国船遭難救護の記録」(1997年)

 その後、いろんなことが展開します。私はこの本を持って初めて韓国へ行きました。1996年頃というのは、まだまだ反日感情が強くて日韓関係も厳しい空気でした。2002年のワールドカップ以前です。韓流ブーム、ヨン様の前です。反日色の強い韓国の新聞社東亜日報がこの話を取り上げて記事にしました。東亜日報が記事にするのは大変なことだったみたいですね。その記事を書いた記者が辞めたという噂もあって、まだまだ厳しい時代でありました。

反日の壁を越えて

 この方は、鄭在吉(チョン・ジェキル)さんという全北大学の教授であります。この方から私の家に電話がかかってきたのです。「大森さん、私はこの本を読んで大変感動しました。私は反日教育で育ちました。私の父親も、徹底した反日でした。だから私は日本を憎んでいました。しかし、このような話が日韓の間にあったのかと思うと、私はとても感動しました。私はこの話を韓国の道徳の教科書に載せて日韓の子どもたちの未来をつなぎたい。」と熱く語られたわけですね。

 その後も鄭先生は私の家の電話が火を吹くぐらい、電話とファックスをやりとりしました。スピード感のある方で1ヶ月後、私の村にやってきました。そして村のメンバーとノミュニケーション(飲み語り合う)しながらこう言ったのです。

 「1900年からちょうど100年後の2000年は来年ですね。だから、100周年記念事業をして、この話を風化させないようにしましょう。」こう提案されたんです。そして、鄭先生が実行委員長をしてくださって、記念事業をすることになりました。

 鄭先生の熱意に打たれ、私たちは「韓国船遭難救護百周年記念事業」という事業に取り掛かりました。予算はゼロです。お金はありません。でも何とかなるという勢いでやりました。歴史の現場にささやかな記念碑を建立しました。応援してくださる方がたくさん集まりました。韓国からもたくさん来てくれました。

 絵本も発行しました。日韓・日朝の子どもたちが肩を並べて読めるように、日本語とハングルで表記しました。救護事務所になった海照院という村のお寺で記念式典を行いました。  

 この話を韓国の新聞で知ったという北出身で現在はソウルで実業家をしている方も参加してくださってスピーチをしてくれました。「この村は私のふるさとのような気がする」感動的なスピーチしてくれました。

 韓国から子どもたちもやってきました。ホームステイをして村の子どもたちと交流しました。韓国の文化放送(MBC)がやってきて、ドキュメンタリー「百年目の再会」という60分番組を制作して全韓国で放映しました。翻訳版を日本でも放映しました。

 こうして、この百周年記念事業は終わったのであります。私は事務局として関わったので、ほとんど寝ていなかったというか、電話がもう火吹いていましたし、やれやれとホッとしたのですが、なんとこれは終わりでなく、いろんな展開の始まりだということに気がつきました。

新しい風

 記念事業のニュースがマスコミで報道されると、多くの人がこの小さな記念碑を訪問するようになりました。国内、韓国から、アジアの留学生の方、たくさんの人が来てくれています。この24年間で、直接ご案内した人だけでも、記録してあるだけでも現在3200人になっています。

 韓国から船で来てくれる団体もありました。これは韓国の船です。ポハン水産高等学校の実習船です。韓国の若者たちが来てくれたのです。小浜には水産高校がありまして、水産高校の実習船で韓国へ行くというプログラムを私は提案したのです。(水産高校の職員じゃなかったのですが、フリーで)そしたら、校長先生が「よし行こう!」って言われて「大森さん、あなたも乗って来て」言われました。

 船に乗って海道を韓国へ。台風の中の航海でした。水産高校ですからやんちゃな若者もいました。ところが船酔いでみんなゲロゲロ、飯食っていたのは乗組員以外に私と生徒3人ぐらいでした。

 韓国へ入港しポハン水産高等学校と交流をしました。そのとき、私はこの学校の図書館に絵本「風の吹いてきた村」を10冊ほど謹呈しました。校長先生が読んでくださり大変感激してくださって「よし、今度はポハンから小浜へ船で行く。そしてこの記念碑を訪問したい」っておっしゃったのです。

 翌年、ポハン水産高校の実習船が小浜に入港し、ポハン水産高校の校長先生は、おっしゃっていた通り、記念碑を訪問してくださいました。日韓の国旗を上げ、泊区民も出て歓迎しました。こうして、小浜と韓国を若者たちが海を越えて船で行ったり来たりするという交流が始まったわけです。

 ハングルで「ワッタカッタ」という言葉があるのですが、「行ったよ 来たよ」という意味です。若者たちの交流を見て、ぴったりだなと思いました。ワッタカッタは「若狭」の名前の語源であるという説もあります。記念碑の前でサムルノリの演奏もしてくれました。

戦争は終わっていない〜拉致問題の根底

 さて、これは2001年の頃、拉致問題はまだ不透明な時期でした。私のすぐ近くに拉致被害者の地村富貴恵さんがいます。ジーンズショップに勤めていた富貴恵さん、私がジーンズを買って裾を直してもらった2日後に行方不明になったのです。私も防犯隊で山を探しました。そして24年ぶりに帰って来られたのです。それは私の人生にとっても、本当に大きな出来事でありました。

 拉致問題について、小浜の村上市長さんが非常に熱心に取り組まれ、「韓国の大統領に手紙を書きたい」と言われました。「大森さん、韓国船救護の話を手紙の中に入れて書いて心を伝えたいんだが、案文を書いて欲しい」と言われ、私はその案文を書かせていただきました。

 この手紙が韓国の金大中大統領のところに届きまして、韓国の大統領府から返事が来ました。もう一つ、「北朝鮮の高官にも手紙を書きたい」ということで、お手紙を書きました。、ところが、ルートがないのです。でも、鳥取県がルートを持っていました。鳥取県で今、知事をしておられる平井知事が当時に副知事さんでした。ハングルも堪能で、協力してくださいました。こうして中国経由で北朝鮮に手紙を送りました。しかし返事はありませんでした。

 また、地村富貴恵さんのお兄さんで濱本雄幸さんが「何としてでも妹を取り返すんだ」と頑張っておられて、うちの家にも、何度も来てくださいました。百周年記念事業の時も参加してくださったのです。濱本さんは、小泉純一郎首相が北朝鮮に行く時に、この絵本「風の吹いてきた村」を持って行ってほしいと言われ、濱本さんから小泉首相に届けられました。

 小泉首相が金総書記に渡されたかどうかは分かりませんが、2002年9月17日、小泉さんが訪朝し、その後、電撃的に拉致被害者が帰ってきたのです。手紙がどうなったか分かりませんが、私の中では、韓国船遭難救護からドラマがずっと続いているような気になりました。

 これは、その時に地村夫妻が帰ってきた時、一番最初に「ここへ行きたい」と言って、記念碑を訪問してくれました。私が案内をさせていただくことになり、記念碑に行くと、テレビが50社ぐらい来ていて、外国のテレビも来ていて、騒然でした。お子様の帰国が実現できるようにと願いを込めて、地村ご夫婦にこの絵本をお渡ししました。

帰って来ましたありがとう

 成田空港に拉致被害者が帰ってこられた時、一人で帰ってこられた方がいました。佐渡の曽我ひとみさんです。彼女だけ言葉が少なかったですね。短い言葉でポツポツと詩のような言葉を話されました。「人々の心 山 川 谷 みんな温かく 美しく見えます 空も土地も木もささやく お帰りなさいと 帰ってきました ありがとう」

 私には、曽我ひとみさんの言葉が頭をぐるぐる回っていました。自然にメロディーが湧き歌っていました。友人達から、「本人に送ってあげたら」って言われ、曽我さんにお送りしたのです。曽我さんの同級生たちが曽我さんを励ます会をしておられて一緒に歌ってくれました。

 佐渡から電話がありました。佐渡まで「来て欲しい。」

 私は佐渡に行きました。曽我ひとみさんにお会いしました。彼女は一人で帰ってきたのです。2回目に行った時は、曽我さんの旦那さんのジェンキンズさん、娘さんのブリンダちゃん、ミカちゃんも一緒でした。このご家族と一緒に歌いました。 この写真は1回目の訪問の時、佐渡のタイガーというレストランでの様子です。

環境と平和を考える

 さて話が変わります。2006年から、この団体がこの記念碑のところにやってくるようになりました。韓国の南ソウル大学の学生たちです。彼らは「環境と平和を考える研修」という名前で日本への研修旅行をしています。パンの耳をかじりながらのハングリーな旅です。  

 鳥取県の境港に船で来て、そこからは自転車とかバスとか使いながらやってくるのです。中心になって取り組んでおられたのはこの方、アン(安)ビョンコルさん。南ソウル大学の大学の教授です。安先生とも不思議な出会いです。

 安先生は、「日本の海岸の漂着物を拾いながら、韓国と日本がこうして海でつながっているのを体感し環境問題を考える。そこで一緒にボランティアできた現地の人たちと交流し、コミュニケーションを通してお互いを理解し合う、未来を考える、環境と平和を考える」というのが趣旨でありました。

 最初に出会ったとき、安先生を韓国船救護記念碑へご案内したら、「海は人をつなぐ母のことし、パダノン、サラムル、メジョジョン、ダオモニチョロンと書いてある。これだ! 我々のこの研修のテーマと同じ心だ!」と言われました。「このテーマを私たちの研修のテーマにして、そして、この旅のゴールをこの記念碑にしたい。」と言われました。

 この小さな記念碑のところがゴールになるわけであります。安先生の熱意に小浜の市長さんも大変感動されて、この写真のような「日韓友好の集い」を市主催で開催したこともありました。

 南ソウル大学から他の大学にも波及し、彼らは4月から6月ごろに来ています。この交流はもう16年も続いています。私はずっとサポートをさせてもらっています。(コロナでしばらく中断をしていますが)

島は海というお母さんのもの

 私は10日間船でアジアの海をクルーズする企画に講師として招聘されて乗船したときのことであります。30人ぐらいの団体の韓国の小学生たちと会いました。子どもたちは船に乗って平和ということをテーマにして学習していました。紙を持ってきて「平和について思うことを一言ずつ書いてください」」と回ってくるのです。

 私のところにも来ました。私は、「海は人をつなぐ母の如し」と日本語で書いて「パダヌン・サラムル・メジョジョンダ・オモニ・チョロン」と言うと、子ども達は目丸くしました。

 心がつながりました。子どもたちがオカリナを吹いてくれたのですが、そのときの挨拶がとても印象的で、忘れられない言葉です。「私たちは韓国のチェジュ島から来ました。チェジュ島という島は誰のものでもありません。海というお母さんのものです。」

 私はとても感動しました。「海は人をつなぐ母の如し」と同じ心を子どもたちが言ってくれたのでとても感動しました。子どもたちは素晴らしいなと思いました。

歴史を学び 痛みを分かち合う

 さて、改めてこの地図を見ていますと、抱き合うこの海は、母の羊水のように見えます。「海」は「母」です。分け隔つことはありません。分断しないのです。平和のキーワードだと私は思っています。母はハングルでは「オモニ」力強い存在です。大きな愛です。

 1900年というのは、日清戦争、日露戦争の狭間でありました。しかし戦争の過中にあっても、人と人は助け合うことができる。助け合うのが当たり前だということを私は韓国船遭難救護の事件で知ったわけであります。

 日韓の間、日朝の間において国同士の摩擦はまだまだ生じています。気がついてみると、まだ戦争が終わっていないのだと私は感じています。人が分断されている状況が、すぐ隣の国との間にも現実としてあるわけです。

 しかし、私は必ず心をつなぐことができると信じています。お互いに歴史を学び、痛みを感じ、分かち合いながら、隣人として友情を交わせること、このことを望みながら、このささやかな記念碑は立っています。

 私は記念碑を訪問される方を時々ご案内していますが、記念碑に寄せて作った歌があります。ご紹介します。「海は人をつなぐ 母の如し」という記念碑の文言であります。

「海は人をつなぐ母の如し:「パダヌン・サラムル・メジョジュンダ・オモニ・チョロン」

♪海は人をつなぐ母の如し

海は人をつなぐ      
海は人を隔てない      
優しい母のような 大きな海 

遠い日のようで 遠い日ではない 
時が流れても 忘れることはない  
嵐の海で 西へ東へ        
寒さに震え 死を覚悟した     

海の母に抱かれ 船は村に着いた 
まるで夢のような 奇蹟のような  
国を越えても 心は同じ      
人の命の 確かなぬくもり   

やがて命あふれ 船出の時が来た  
袖を絞るほどに 泣き別れた人たち 
山よりも高く 海よりも深い     
人の心に あふれる想い       

海は人をつなぐ 歴史の小さな碑 
人の熱き心 語り続ける        
両手広げ 抱いてくれる        
光る海は 母のふところ        

※ハングルで歌う
やがて海を越えて 船で来たる若者  
明日の国の行方 つないでくれる    
海を愛し 夢馳せる若者        
繋いでゆくよ 海の道を        

海は人をつなぐ 海は人を隔てない  
優しい母のような 大きな海      
鳥は舞う 子どもは遊ぶ        
風は歌う ムクゲは微笑む       

海は人をつなぐ 海は人を隔てない 
優しい母のような 大きな海        
優しい母のような 大きな海 

ご清聴ありがとうございました。

配布資料 韓国船遭難救護記念碑案内パンフレット・泊イラストマップ

歌「海は人をつなぐ母の如し」

KAZUオリジナル曲集・音源案内(QRコード)

※表記について

 本文の中に「韓国船」「朝鮮人」等が混在しています。

 1900年の遭難救護当時、朝鮮半島は「大韓帝国」という国名でした。

船は「韓国船」という表記です。乗船者は「朝鮮人」がほとんどでしたので、文書の記録通りの表記にしています。

グローバル・セッションスタート

亀田さんをコーディネーターに、これからGlobal Sessionのセッションが始ります。

亀田さん:どうぞ、ご意見や質問があれば、お話しください。

K・Kさん:50通の文書どこを通していたのですか。

大森さん:県を通して。当時は県令を通して国の方へ。

K・Kさん:問い合わせはどういうふうに。

大森さん:村長は郡の役場を通して県に文書を出すわけですね。報告書を出しました。他にも色々な書類があるんです。乗船者名、年齢、職業、聴書を全部提出。水難救護法に従って出すんです。しかし費用請求したけども全然返事がなかった。国は何にも答えていない。

K・Kさん:この遭難した船の出身はどこなんですか。ポハンですか?

大森さん:ポハンではありません。ウラジオストクでチャーターした船で朝鮮の明洲、吉州へ帰る船でした。沙浦(サッポ)という港に向かって出航しました。今北朝鮮がミサイル打ち上げているあたりですね。当時は、朝鮮は一つの国だったんです。大韓帝国だったので、その後日本の植民地になり、朝鮮戦争で二つに分かれているんです。帰国してからの記録も分からない。韓国のソウルに統一会館があるんですよ。将来的に統一したいと。北は5道の州があります。咸鏡北道は、遭難した人たちの帰る予定の州。咸鏡北道の知事はソウルにいるんですよ。ソウルに知事を置いて将来の統一を見通した政策として取りくんでいます。

亀田さん:記録は多分あるんですよね

大森さん:多分、伝承で話をしていると思うんです。儒教の国ですから、ハートはあると思うんです。

Y・Hさん:泊は小浜の港とどれくらい離れているんですか。

大森さん:大体12キロぐらいですね。小浜は昔は「小浜の津」って言いました。

大津も津ですね。大きな港は「津」といいます。泊は、船が湾に入ってきた時、錨を打ってそこで手続きしたり税金払ったりする道の駅の役割をしたようです。

児嶋きよみ:ハングルで歌われましたが、歌のハングル表記はあるのですか?今歌われているのは一部ですか? 実は私、ハングルを今勉強しているんですが、石碑の文字はちゃんと分かります。続きがあったら教えて欲しい。

大森さん:ハングルの歌は、文字ではなく、僕の頭の中にしかないのです。実は8番までハングルで歌っています。2005年、日韓交流で韓国の保寧文化会館で歌わせていただく予定だったのですが、竹島問題で日韓友情年の行事がドタキャンになったんです。しかし、訪韓しました。日本語はダメだから、ハングルで全部歌えるようにと、10日間かかって練習したんですよ。日本にいる在日の歌手に教えてもらって。だから今は歌えるんです。

S・Fさん:1910年に併合があったんですよね。10年後に、そういう状況の中で結構日本側は厳しいと言うか、そういう教育をしていたと思うんですけど、でも、いろんなものを全然意に返さず人命救助です。泊の方々の心っていうのは、ちょっとこう日本から浮いてたような。その当時の日本からは浮いていたような世界、夢の世界みたいな気がするんですけど。

大森さん:ありがとうございます。それは国レベルの感覚と民衆レベルの感覚の違いがあるんです。私は今、漁師をしていますが、一番いつも気につけているのは風ですね。いつ、どこから風が吹いて、自分がもし遭難するかもしれないということを覚悟で海に行くわけです。うちの父親も一回遭難をして、捜索に行ってなんとか岩の上に上がって居て助かったことがあります。近所でも遭難で亡くなった方が結構います。海で遭難すると、みんな仕事を辞めて、ずっと遺体が上がるまで捜索するんです。海は全部ボランティアです。だから、遭難船が着いた村の人たちは、もう今まで、海の人たちは、困っていたら外国の人であろうが、どこであろうが、もう助けるのが当たり前なんですよね。海民の精神文化というか、スピリチュアルなところです。助けるのは当たり前なんですよ。海で出会った、お互いに命を持った人たちがね。それと、国レベルの感覚とは、ずれていますね。だから、私はこの話を伝えたいと思って。国レベルで、ニュースで、どんどんどんどんいろんなことが進行していくんですけども、でも民衆は違うよと。

亀田さん:現場で出会った人はもっと違う。そんなんじゃないっていうことを伝えたいなと思って。和歌山のトルコの船を助けた話。あれも、結構、今も続いていて、そのままトルコ国民に結構伝わっているそうなんです。

大森さん:ヨーロッパの話はすごいメジャーになって、みんながワーッとして映画にもなるんです。ところが韓国とか中国とかアジアの国々との関係はなぜかそういうことを言わずに隠蔽されるんです。それが問題だと思います。なぜなのでしょうね。

児嶋きよみ:この話は現在の話なんですけど、私たちは去年の8月末からしばらくトルコに行ったんです。トルコの日本語で案内をする人が、「僕たちの祖先はモンゴルです。」と、しっかり言われ、「トルコっていうのは、西と東の文化がバチンと一緒になったところだから、文化としては僕らの祖先はアジアです。だから日本人の人もアジアアのひとつと思っています。」と、まず言われました。
 もう一つは和歌山のトルコの人たちを救援したというのは国中に広がっています。それも教育されている。だから日本人に対してすごく丁寧で、金もらえるとか、そんなだけじゃなくて優しいんです。どの人もというようなので、トルコっていうのはヨーロッパっていうふうにあまり見ないで、どうも東西文化が、ぶち当たったところであると見た方が、多分正しい。ヨーロッパの人たちと、トルコはちょっと違うというのを感じました。この話を伺って、和歌山でトルコ人々の遭難を助けたというお話は、やっぱり、今言われるように人のレベル、草の根のレベルの考え方と国の政治の考え方が違うと言う点が、非常に重要だと思うんです。国がやっぱり教育とかで相手の国に対するイメージだとかそういうのを作ってしまっているという部分が多分ありますね。だから、なかなか難しい問題ですけど、民衆レベルとの交流というのを続けていくというのは、結果は分かりませんが、非常に重要な部分じゃないかというようにお話をいただいて考えました。

F・Tさん:ちょっと違うことですが、タコですね。小浜のタコといろいろタコがある。沖縄のタコシマタコ?

大森さん:小浜はマダコですね。マダコとミズダコ、ミズダコは大きい2メートルとか大きいのがあるんですけど、僕が獲っているタコは、マダコです。このぐらいの大きさ(頭が握りこぶしくらい)のタコですね。でかいのから、小さいのからいろいろありますけど、小さいのは逃します。マダコはミズダコよりも美味しいです。

M・Tさん:あの逆さ地図、ああいう風に見るっていう対比はすごく教えられました。
すごくいい考え方だなって。私一度20年くらい前なんですけど、アメリカからシベリアに行ったことがあるんですよ。飛行機ですけど、その時に乗っていた人たちも半分は朝鮮人、走っている車がね。みんな日本から来た買った車なんですよね。色々と聞くだけではなくて、見て、いろいろな動きをすごく感じました。

大森さん:渤海船が敦賀や新潟に来ていた歴史もありますね。この遭難救護の事件の海はそういうルートを想像するような話ですね。北西の風がこう吹いていて、対馬暖流が流れていますので、若狭湾には入りやすかったんですよ。

児嶋きよみ:アメリカなんかから、最初の頃に来た船なんかも最初太平洋から来たんじゃなくて九州のこっちの方から入って来て、その後、日本政府がいくつかの港を開けましたよね。そこに函館もあれば、新潟とかもある。だから日本海から入っているという歴史があるんです。

大森さん:やっぱり陸をたどりながら行くと、安心感がありますね。特に動力船じゃない。
帆船の時代はまさにですね。函館から小さい船で上海へ行ったんです。その船は今でも函館に行った時に飾ってありました。

M・Tさん:あの舞鶴とかで、戦後、朝鮮人を朝鮮半島に返す時に船の事故がありましたね。どんな人が亡くなったんですか?

大森さん:浮島丸事件ですね。舞鶴の港の中で謎の爆発。たくさんの方が亡くなるんですね。慰霊碑も建立されています。京都国際学園という学校があって、高校野球で活躍していて、甲子園にも出てますよね。この学校が生徒の研修旅行でよく来てくれるんですよ。それまでは舞鶴へ行って、浮島丸慰霊碑を見学し、帰るコースになっていたんですけど、舞鶴と泊のコースになったんです。暗と明の話、両方を生徒達たちに体験させたいというのです。もう5、6回いらっしゃいましたね。

Y・Hさん:ちょっと変な質問かもしれませんが、書には詳しくないですが、先ほど石碑に刻まれている字がございますね。それをお書きになったのはどなたですか。

大森さん:いとこで同じ村に住んでいる岸本一筆です。これはお酒のラベルに書いてもらった書です。

Z・Yさん:話を聞かせていただいて、とても感動しました。本当に国のレベルと民間のレベルがずれがあるということがわかりますね。違うということは、私もよく感じていました。日本と韓国とか中国とかだけじゃなくて、私も2013年の4月にピースボートに乗って世界中を周りました。いろんな国に行ったら、本当に、民間の交流ということがあり、特にコミュニケーションは、すごく大事だなと思いました。日本でも、国際的なコミュニケーションが、すごく大事だなと思いました。国のニュースだけではなくて。民間交流をできてない人たち、例えば日本人や、中国人も韓国人の中で、その国以外の、どこにも行ったことない人たちは、国レベルのニュースばかり見ていたら、外で会った人たちの考えとは、全然違うんじゃないかなと思いました。ありがとうございました。歌も感動しました。もしあれば買いたいです。本当です。

大森さん:さっきの(名刺)QRコードで無料でお聴きいただけます。

Z・Yさん:本当にありがたくて、学校でも子どもたちにこういう話聞かせていただきたいと思いました。

K・Nさん:ひいおじいさんが第1発見者ですか。ひいおじいさんは、すごいたくさんの命を助けられた本人だと思うんですけど、どういう人やったのかなとか、どうされたのかなと聞きたいです。

大森さん:そのおじいさん(曾祖父 宮城長太夫)が米寿の時に僕がおまんじゅう配ったのを覚えています。それしか覚えてないんですよ。そのおじいさんから遭難救護の話は聞いてないのです。今いたら、いっぱい聞きたいなと思って残念です。

S・Fさん:表彰とかはもらわれなかったのですね。普通渡しますよね。第1号ですよね。

大森さん:助けるのは当たり前ですから、しかも国同士がそういう関係で、なんとかその人たちは帰ったけども、その後の消息はわかりませんし、水難救護法が明治32年にできたので、それの第1号の事件がこれだったんですよ。

K・Kさん:国は無視したんですよね。

大森さん:そうです。お金を請求したんですけれど。

M・Tさん:それについて触れていなかったことにして、交流を開いたんでしょうかね。その交流の歴史は、オバマ大統領に送りましたが、奥さんのミシェル、オバマさんが、そういう風な本を出しているそうです。ミシェルに興味を持つ人に出しています。

大森さん:じゃあ、帰ったら電話してみます(笑)玉野井先生のルートがあるんですか?。

K・Kさん:これはエスペラントにはなったんですけども、英語にはなっていない。エスペラント語には、誰がされたんですか。

大森さん:エスペラント協会主催の全国エスペラント大会が小浜であったのです。その時に記念にこの絵本をエスペラント訳にしたものも作りました。

K・Kさん:私は、エスペラントで韓国と交流しています。毎年1年ごとに家から向こうに行ってエスペラントで喋る。向こうから家に来て日本に来ています。今は、東アジア問題がありますけどね。政治的なことを抜いて文化交流ですね。そういうところから広げていかないと国は動かないと思います。

大森さん:小浜水産高校や、南ソウル大学のと今後もつながっていく活動です。政治的なことを抜いて行える活動だと思います。韓国の南ソウル大学にしても草の根ですよね。国のレベルでの動きじゃなくて、民間の動きなんですよね。

児嶋きよみ:私は、一番最初に外国語を勉強したのは中国語なんですよ。大学の頃から中国語をやっていて。文化というのは今の地図でもありますけど、朝鮮半島を通して船でやってきたみたいなのが歴史的に多いというのに気がついて、ハングルをやらないといけないなと思い、ずっと勉強しているんですけど、なかなか話す機会がないとうまくならないです。でも今の歌やったら、ゆっくり歌われるし、わかるのです。やっててよかったと思いました。

K・Kさん:カラオケで結構K-POPはカラオケで、字幕で出るんですよ。僕らも稽古しているんですけど、向こうにいた時にね。やっぱりカラオケに行った時に向こうの言葉で歌うと喜ぶんですよね。難しいハングルは難しいですが。

児嶋きよみ:ハングルというのは並び方とかは、確実に日本語と似ているんですよ。もう中国語なんかは英語と同じようですから。

大森さん:日本語は韓国の東の方言だって韓国で聞きました。これは富山県が出している逆さ地図なんですよ。富山は韓国と交流が深いのです。というのは富山(フサン)は釜山(フサン)です。鳥取(トットリ)というのはハングルでどんぐりという意味なんです。笑い話ですけど、富山の空港で福井の越前の方から来たおじいさんが「うらぁほんでのぉ」って言ってたんですよ。越前弁は韓国語と似て語尾が上がるのです。おじさんは空港で韓国の方のゲートに連れて行かれたのです。「うらぁちゃんでのぉ」(ちがう)(笑)

児嶋きよみ:特に福井の方言っていうのは、私は福井出身なんですが、能登半島の地震のときに話される言葉つかいでも出てるなと思っていたのですが、「何年でぇぇぇ、何年越えてぇぇぇ、」と伸ばすのです。」ハングルに似てるんですよ。(笑)

大森さん:朝鮮半島から海流(津島暖流)に乗れば自然に越前に着くんです。西から津島暖流、北からはリマン海流が来てますね。ぶつかるところが若狭湾。入りやすくなってますよね。北海道からね。飛行機に乗って関空へ帰るとき、若狭の上空を通るんですよ。北海道から東北、北陸の海岸は、のっぺらで、若狭湾に来るとここだけヒダのようなリアス式海岸になっている。海から来る人にとって入りやすいのですね。

朝鮮半島から日本の上を渡って来るとき、一番最初に見える白い山は鳥取の大山。この白い山を目印にするのです。だから大山は白山(ペクサン 神の山)って言うんです。北陸の白山、立山も白山(ペクサン 神の山)この山を見て入って渡ってきたそうです。日本海側に白山神社がいっぱいあります。

S・Fさん:この地図はどこで売っているのですか?

大森さん:富山県で買いました。富山県庁か富山県の国際交流室かどこかに電話してに問い合わせれば買えると思います。家にもいつもこの地図を大きく貼っていつも見ています。

E・Tさん:質問じゃなくて感想ですが、ありがとうございました。困った人がいたら助けるのは当たり前。まあそうなんですけど、いざその自分が、例えば助ける側になった時にどんな行動ができるかとか、どこに動いたらいいかとか、いざその状況になった時に、自分に何ができるのかなっていうのをずっと考えながら今回聴いていました。

大森さん:多分、海の人は一人で身体が動くのだと思います。知床の観光船の遭難から今年は、2年目なんですよね。あのニュースを見た時も本当に我が事のように思いました。海に出ていると、いつ自分がそういう目に合うか分かりませんし、遭難して助けてもらうのかもしれないし。だから僕はいつも漁に行く時、船とすれ違う時には、知らない船にでも、こうやって手を挙げると、向こうも手を挙げてくれるのです。お互いを確認しているのだと思います。

亀田さん:私も海じゃないんですけれど、山が結構好きだから山へ行き、ニュージーランドで遭難しました。森の中で寝て、自力で3日目に降りてきましたが。多分、その時一人だったらよかったんですが。たくさんやったら大変だったと思います。要するに、夏が終わって次の季節になる時でした。それと、そんなに高くなくて2000mくらいのところでした。自分自身が寒さに強いので低酸素にはならないんです。寝ても寒さに強いのです。その時、雨とか降らず、また、ニュージランドは、クマとかヘビとかキツネとかいないのです。その時は食べるものもほとんどなかったんですけれど、今までの山に行った経験があったからでしょうか。一応レスキューは動いてたんですけれど、警察から、30人くらいが、ヘリコプターなどで。向こうは日本と違ってボランティアなんです。だからあとで、お金はいらないんですね。

 救助の人がどうとか、スイスとかでも保険をかけておくと、ヘリコプターとか無料で動いてくれるようです。あれは自分でも、いい経験でした。怪我一つなかったということで。海じゃないんですけど、山でもやっぱり一緒ですね。いつも山に登るときは、朝起きて雲を見るんですね。だいたいこの雲がどれくらいでかかってくるかという。今日雨とかやっぱり風とか。あとは人とね、出会った人と。助けていただけるかもしれないと思う事は、大事なことという実感をしました。

 知床大橋なども、あの辺は若い時は行ったことがあって、3月頃になると流氷が出てきますね。子どもさんが、何してるか言うと、割れたやつで乗って遊んでるんですね。でも昔はそんな気にしなかった。流氷の網走の港へ行くと、救難とか無線とかありますが、あの事件は、ちょっと非常識じゃないかなと思います。

 4、5年前、大雪山でガイドが2人ついてるのに、天候が悪いのに下山させて低体温症になったり、あれもやっぱりその会社のガイドが常識がない。特に外国の場合は山のガイドさんは厳しい。その例として、マッタホルンという山がありますよね。いつも、ガイドは、先にチェックします。この人は行けるの?と。そうしないと自分の命まで関わるので。下山に関しては甘いところはあるかなと思いますね。暗い話ばかりしてすみません。

H・Mさん:私はさっきのニュージーランドで、初めて韓国の人たちと話すことができたんですけど、20年くらい前、ニュージーランドにちょっと語学留学した時に韓国の人たちと話しました。20年前は、大学生とか大学を卒業したばかりの人たちが、「韓国のことを知らないのは当たり前で、なぜなら日本政府が」ってすぐ始まるんですよね。そういう風に初めて出会った人たちが、日本に対しての教育をされているということにすごくびっくりしました。私たちは、「韓国は」という教育を受けていないから、その差があると思います。教育を受けた上で、個人としての私に対しては何も思わないのですが、ただ日本政府に対しては不満を持っているという話を何回も聞くようになったんですね。10年くらい前に、私がソウルに行った時には、みんなすごく親切な人ばっかりで、地下鉄の乗り換えの時とかも、どっちで乗り換えかなって思っていると、途端に誰かが声をかけてくれるみたいな。

 国と国と、個人と個人の差は本当にあるな思います。ある日、ウォーキングで、日本人も来てるのを分かっている韓国の人が「竹島は韓国のだ」と背中に書いて歩いている人がいました。「人は様々だな」って思いましたね。

 竹島の問題も日本はそんなに話題にしないですよね。ただ、ウォーキングの時にそういうTシャツを着て、わざわざ日本人に見えるように着ている人がいるっていうのも事実なんだなっていうのは思いました。ありがとうございます。

T・Kさん:ガレリアで退職後の2年間ほど、市民大学の事務局をやったんですが、その時の市民大学の学長というのは京大の名誉教授の上田正昭さんですね。あの方はすごく高名な学者だったのですが、文化勲章はもらっていません。あの人は平成天皇から、たびたび呼ばれてお話を聞かれるんですけれども、上田正昭さんの話は基本的には朝鮮以来の日本の歴史を非常に詳しく研究しておられて、平成天皇におっしゃったのは、「天皇家も朝鮮ルーツなんですね。」と発言されていますね。あれが大ごとになりました。「そんなことを教えているのが上田正昭だ」ということになって、特に安倍さんにはかなり嫌われて、学者としては立派な業績を残しているのに、横にやられたという経緯があります。時々つぶやいておられましたが、朝鮮通信使の話になるとワーッと盛り上がって1時間でも2時間でも延々と続くとのです。そして最後に「本当にいい質問をしてくれて、嬉しい」というような話でした。それぐらい朝鮮半島って、亀岡の高齢者の頭の中に染み込んでますよね。

 日本というのは朝鮮を抜きにしては語れないし、政治的もあるということを今日の話を聞きながら思い出しました。上田正昭さんは、お亡くなりになりましたが、全然違う視点から、歴史をつくるといわれていたことを思い出しながら聞いていました。上田正昭さんのいい本もありますね。

亀田さん: 次のGSは、こちらの木村且哉さんがゲストです。何の話をするか、案内をお願いします。

木村且哉さん:フィリピンの子どもたちの支援活動についてお話しさせていただきますので、よろしくお願いいたします。

児嶋きよみ:今日はありがとうございました。また、大森さんに連絡をしたい方は、ご自身でメールアドレスとかしてください。皆さん、ありがとうございました。

亀田さん:ありがとうございました。