2024/05/31

2024年5月19日(日)第375回グローバル・セッション・レポート

開催後のレポート
グローバルセッションイメージ

開催日:2024年5月19日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:木村且哉さん(亀岡市在住、亀岡国際交流協会副会長、大本本部国際愛善宣教課長、 NPO法人人類愛善会インターナショナル理事兼事務局長)
コーディネーター:亀田博さん(ツアーガイド)
参加者:9名

 今回のタイトル:「フィリピンでの子ども支援」

参加者自己紹介

亀田さん:今日は、NPO法人人類愛善会インターナショナルの理事で事務局長の木村且哉さんから、お話しを伺い、その後、セッションをしていきます。私は、コーディネーターの亀田博です。まず、参加者のみなさまの、自己紹介から始めていきます。

Z・Yさん:主人(日本人)と結婚し、2013年から、日本語教師の仕事を始めました。2015年からは、日本語学校の派遣教師として、フィリピンで日本語教育を始め、北方のブラッカにいました。その後日本でコンビニの経営などもしていましたが、夫が病気になり、亡くなりました。その後、2021年から、亀岡で日本語学校の紹介で、亀岡で外国につながる子どもの学習支援員を始めました。そのころから、ひまわり教室を知り、ボランティアで教えることも始めました。2023年の9月からは、亀岡市の職員として、毎日どこかの学校の支援員をしています。

H・Mさん:最初は日本語学校の事務員をしていましたが、肩と指の怪我をして、日本語教師になりました。最初は、Z・Yさんのあとに、フィリピンで教えたかったのですが、実際には、ベトナムで日本語教師をしていました。

Z・Yさん:2010年に留学生として、日本に来て京都大学で心理学を学んでいました。中国の江蘇省の蘇州市出身です。(蘇州市は亀岡の友好都市ですよ:R・Sさん)結婚し、子どもができてからは、亀岡で英語教室などをしています。今は、たのまれて、亀岡市内の学校のフィリピンから来た子どもの支援をしています。今日は、そのこともあり、参加して知りたいと思いました。(南つつじケ丘小学校で)

R・Sさん:小学校の教師をしていました。退職して8年目か、9年目になります。ひまわり教室の最初の頃から指導者として、関わっています。

N・Hさん:仕事で長く亀岡から離れていましたが、1.5年前に亀岡に戻ってからは、いろいろな方と話して脳に刺激をもらい、視野を広げたいと参加しています。

R・Aさん:南丹市で、国際交流関係で日本語コーディネーターをしていましたが、今は、京丹波町に変わり、多文化共生マネージャーをしています。個人でも子どもに関わる支援活動をしていますので、高校卒業後の進路や、出産、育児に関わることなどの支援も必要で、ヒントがないかなと思っていたら、児嶋さんに、これに参加したらと誘われ、来ました。外国につながる子どもの支援の中では、バイリンガルに育てるには、どのようなことをしたらいいのかなどが知りたいです。今は、パキスタン出身の子どもはウズグル語を話すのですが、この言語が話せるネパール人に助けてもらっています。京都府国際センターの堀江さんにも相談に乗ってもらいました。

児嶋:1999年から、亀岡市交流活動センターで始めました。2011年に私が退職をしてからは、Office Com Junto(オフィス・コン・ジュント)の主催として継続しています。毎月1回を目処に継続して来ましたが、今回は、375回目になります。いっしょにやって来てくださった亀田さんたちとも、「あっという間に20年も越えてしまいましたね。」と言い合っています。大本さんとは、オクラホマ州立大学(OSU)京都校が1996年に閉鎖したあと、1999年ころから、OSUの造園建築学科の先生と学生達が毎年、亀岡を拠点に海外研修プログラムを始めたのですが、その最初の年の宿泊場所としてお借りしたころから、お世話になっています。

亀田さん(コーディネーター):私は、大津市に住み、OSUの造園建築学科が研修に来たころから、ツアーガイドとして関わり、OSUのあるオクラホマ州のStillwater市にも市民のツアーを組み、旅行ガイドとして行ったことがあります。コロナ禍のあと、日本人が海外へ行くのも無くなり、今は、外国から日本に来る方が増えていますね。日本は実は、外国に比べると物価がまだ安く、外国人は、「安い!」と言って喜んでいますね。でも、日本人が今ハワイへ行くと、すべてを込みで200万円くらいが普通の相場です。前回の福井県の小浜市から来られたゲストの大森和良さんが、小浜で遭難事故がゴールデンウイーク前にあり、それを大森さんが、小型船を出し、救助されたというお手紙をもらい、本当に驚きました。県内では、新聞にも掲載されたそうですが、その他の地域では大きくは取り上げられなかったようですね。でも、戦争前の事故の救助をされたことで、今も交流が続いているというお話しを聞いたばかりだったので、さらに驚きました。では、ゲストの木村さんの自己紹介からお願いします。

グローバル・セッション開始

木村さん:大本本部の職員で、NPO法人人類愛善会インターナショナル理事兼事務局長とNPO大本イスラエル・パレスチナ平和研究所の理事をしている木村且哉と申します。

 フィリピンのマリンドゥーケ島で子どもの教育支援をしています。マニラから南に200kmに位置し、ほぼ円形の島で、面積は日本の淡路島と同程度です。人口は20万人で、農業と漁業が産業の島です。人類愛善会は、フィリピン、香港、タイ、インド、スリランカ、バングラデシュ、モンゴル、ネパールなどに分会があります。

 私は、2008年にフィリピンに初めて行きました。フィリピンは、7109の島々と人口は1億人を越えます。大河ドラマの『黄金の日々』でも出て来ましたが、秀吉時代のルソン島の話がありました。そのころから、実は400年以上のつながりがあります。今、このマリンドゥーケ島に行くには、空港が無くなり、船で行かねばならず、時間がかかります。1986年のバブル全盛期のころ、人類愛善会のマニラ分会ができ、平野さんという人がマリンスカイ開発株式会社を設立し、ホテルやゴルフ場の経営に乗り出しました。マリントゥーケ島は、人口20万人の島ですが、近くのエレファント島という無人島にホテルを建て、ゴルフ場も開設し、客で賑わっていました。当時、この島でも例外ではなく、子どもが学校に行けないような貧しさで、平野さんがフィリピン愛善友の会として支援を始めました。物品を贈るだけでは子どもたちの成長の役にたたないと考え、1993年に養豚による奨学援助活動をスタートしました。子豚を産ませてそれを売り、奨学金にするシステムです。その奨学金は貯金通帳に入れておきます。フィリピンの女性は働き者ですが、男性はそうでもなく、現金があればすぐに使ってしまうので、貯金通帳はお父さんには使わせません。愛善友の会の活動拠点としてフィリピン愛善センターを開設しましたが、その開設式に当時のラモス大統領や、のちのアロヨ大統領(当時は国会議員)も出席しました。

 児嶋さんもよく知っている大本の出口眞人さんは、当時、人類愛善会の事務局長でこの写真に写っていますが、その横にいるのは、マリンドゥーケ州の教育委員長をしている女性です。この方ラブラドールさんは2才の時に父親を日本軍に殺されました。フィリピンは、実は太平洋戦争中の3年8ヶ月、日本の植民地だったのです。その間、フィリピン人捕虜が殺害されたりしたのを見て来ているので、最初は、この活動にいやいやながら、参加をしていたと聞いています。でもこの時からの日本人の温かさややさしさに接し、恨みも変化してきて、祭典に参加し、子どもたちに戦争の悲惨さと平和の大切さを伝えたいと考えるようになられたそうです。

 平野光男さんは、活動の最中に1995年に急逝されました。その後、フィリピンとのつながりはだんだん途絶えてしまっていました。

 私は、2001年に大本の国際部に異動になったのですが、フィリピンの活動の話は、全く聞いていませんでした。

 2008年にマニラで、宗教者の会議があり、私は初めてマニラに行きました。インターネットで、それまでの平野さん達といっしょにいた方たちの情報を調べると、マリンドゥーケ州教育委員長のラブラドールさんはフィリピン教育省の次官になられていることがわかりました。その年は会えなかったのですが、2009年に再度マニラに行くと、ラブラドールさんにお会いでき、小学校の校長先生をしているマリアさんを紹介していただきました。マリアさんは当時、写真に写っていた一番若い女性です。

 養豚活動は、実は、平野さんが亡くなってからも、2003年まで継続していたそうで、1500人もの子ども達を支援し、高校や大学にも行ったそうです。

 子豚は繊細で、ストレスに弱く、1500人の支援を受けた子どもたちの4割が豚の出産に成功し、子豚を売ったお金で学校に行き、高校、大学を卒業しました。

 1995年に支援を受けた子どものひとりである、ライネ・カピートさんという女性に2009年に訪問した時に会い、彼女の自宅につれていってもらいました。ほったて小屋のようなところが家で、電気も、ガスも、水道もありません。彼女は子豚を売ったお金で高校を卒業し、卒業後はサリサリ(現地のコンビニ店)を経営していましたが、20歳で結婚し、子どもが次々とできて(5人)お店の経営が難しくなったそうです。彼女の夫は、平野さんが始めたホテルを平野さんの死後、韓国企業が買収して会員制のリゾートホテルが2008年に開業しました。そこで仕事をしていますが、月収は、15000円程度で生活は苦しいです。彼女は「もういちど愛善会から、支援活動をしてほしい」と希望を述べていました。

 愛善友の会フィリピン愛善センターの建物はまだ残っていて、地域の集会所として使用されていました。現在は、子どもの放課後教育の施設として利用しています。

 子豚は、1才で大人になり、出産もできます。一度に10匹ほど産み、1匹2,000円から3,000円で売れるので、10匹いると、2.3万円の収入になるようです。マリンドゥーケでは、小学生ひとりあたり、年間18,000円ほど教育費がかるので、とても有益だと言っています。

 さきほどのラブラドール教育次官は、教育プログラムを担当していたようですが、残念ながら2012年に死去されました。

 2010年に第2期Pigletプログラムがスタートしました。日本円で10万円程度あれば20人の子どもに子豚が支給できます。第2期が開始して現在200人の子どもたちに子豚を支給しています。

 山岳地域では、子豚よりヤギの方がやりやすく、これも提供しています。

 現在までにマリンドゥーケを襲った台風の被害や2020年からのコロナ禍、また近年では豚疾病の流行と何度か活動は困難に見舞われましたが、皆様の支援をいただき15年間続けてこられました。今後も支援は続けていかなければならないと思います。以上です。お聞きいただき、ありがとうございます。

亀田さん:では今から質問などをどうぞ。

R・Aさん:先ほど、小学生の必要な金額として、18,000円と言われましたが、国か、自治体の支援などはないのでしょうか?私は南丹市でも仕事をしていましたが、南丹市の寺院の住職さんもフィリピンに行かれたことがあるようです。

木村さん:国や自治体には子供達を支援する余力はありません。

R・Aさん:現地にいて、自分で生活を維持できない場合は大変ですね。フィリピンから日本に来て日本人と結婚し、もう永住されている方達もいますね。

木村さん:ネパールでも、優秀な子は海外に行き、職につきたいという人がいます。チャンスがあれば、外に出たいと。国内では、目の前に居る子達の支援で手がいっぱいでしょう。マニラの支援団体でも、日本からフィリピンに来た駐在員がフィリピン女性との間に子どもができ、男性はそのまま帰国してしまい、大きくなった子どもは、日本にいる父親を見つけて認可させることがあります。支援団体は、あとしまつもあります。

R・Aさん:女性が子どもといっしょに日本に帰国した夫を追いかけてきて、苦労して見つけ、日本に住み着いた家族もいます。

木村さん:そのような状況でも、フィリピンの人は明るいですね。お金がなくてもあまり気にしないとか。日本は太平洋戦争中3年間も植民地として占領していたのですが。

N・Hさん:大本さんの播いた種で育って大きくなった子どもたちもいるのでしょうね。現地の人がこの支援活動をもっと育てていこうという動きはあるのでしょうか?

木村さん:経済的な部分に頼らないためには、スポンサー探しが必要ですね。ボランティアや指導者になるという志はあると思います。

N・Hさん:このような動きが拡がっていくのが理想ですね。

木村さん:1993年に始まり、一旦2003年に止まりましたが、2010年に再開され、現在まで続いています。このような支援は続けていかなければならないと思います。

Z・Yさん:現在はスマホもフィリピンでも使われていると思いますが、そのように変わってきましたか?情報は入って居るのでしょうか?

木村さん:そうですね。実はZOOMでエスペラント語を教えていますが、電波が悪い場所もありますね。

Z・Yさん:豚を育てて10頭も産むのはすごいですね。

木村さん:子豚は一匹2000円から3000円の値段で、マーケットなどで売れます。豚は毎年出産しますし。

Z・Yさん:売れるとしたら、大人もやっているのでしょう?

木村さん:農業と漁業が主な産業なので、養豚は島では貴重な産業です。

児嶋:ひまわり教室も2014年から始め、もう10年目になりますが、最初に子どもさんの勉強を見てほしいと言われたお母さんは、フィリピン出身のお母さんとメキシコ出身のお母さんの二人でした。そこから始めて今までやって来ましたが、フィリピン出身のお母さんもその後もいろいろな方がいました。日本人と結婚し、しばらくして離婚し、子どもさんを認知はしているので、日本国籍を持っていますが、母と子だけなので、宿題も教えられないので見てほしいと来られたのです。その後、アメリカ人とネットで知り合い、アメリカに行く前にフィリピンに戻り、キリスト教では、離婚を認めないので、フィリピン人とした結婚は無かったことにして、書類を書き、アメリカに渡り、今は昔別れたフィリピン人の子ども達も呼び寄せ、アメリカで仲良く暮らしているファミリーもいます。亀岡にも。いろいろなケースのファミリーがいますよ。

Z・Yさん:フィリピンで日本語を教えていましたが、日本の日本語学校でも教えていました。その中に、フィリピン出身でダンスが上手で、日本人との間に子どもができて、フィリピンに帰国して出産した人もいます。日本人の父親は生活費を出していましたが、結婚はしないままです。いつか、日本語を勉強して日本に来て、日本人の夫さんと結婚したいと言っている人がいました。

木村さん:夫とは別居しているケースも多いですね。

児嶋:Z・Yさんは、今は亀岡市の職員として、支援員をされています。

Z・Yさん:以前は、頼まれてアルバイトとして、支援の仕事をしていましたが、夏休みなどは学校に行かないので、仕事がなくなります。それで、都ホテルにいる友人から、「その仕事は止めて、ホテルで仕事をしたら?」と勧められました。面接も通り、この支援員の仕事をやめようかなと思って居たときに、児嶋さんから、「市長さんに紹介するので」と言われ、いっしょにお会いして、市役所の職員としての支援員をすることになりました。ひまわり教室もその時に紹介されて、指導者は、自費で参加をしていますが、いろいろな子どもたちがいて、楽しいです。マレーシアから来た日本人の父親と中華系マレーシア人の母親の間に生まれ、英語、中国語、マレー語はできます。でも、日本語は話せるけれども、全く書けないというような子もいます。

Z・Yさん:私も頼まれて、支援員をしていますが、南つつじ小ですが、全く支援がなかった子もいます。

亀田さん:亀岡は、他の地域より進んでいますが、何か支援ができるかもしれないが、知らない人が多いですね。沖縄の返還時に食料として、ハワイからアメリカ軍が豚を送ったことがあるそうです。気候が合って繁殖したそうですが、その後政府がピンハネをしたとか。

児嶋:フィリピンの子どもの支援も、10万円でできることがあるなら、支援者を通して寄付を募ると言う方法もありますね。このようなことを知ったら、できることはしなくてはと思いますね。

亀田さん:時間が来ましたので、また個別に話を聞きたい方は、木村さんのメールのアドレスも在りますので、よろしくお願いします。

児嶋:次回の6月のGlobal Sessionは、国際交流員のサムさんで、7月で5年目の最終月になります。ぜひ、話を聞きにいらしてください。