2022/09/14

2022年9月4日(日)第354回グローバル・セッション・レポート

開催後のレポート

開催日:2022年9月4日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:エニ・レスタリさん(インドネシア出身・インドネシア語講師・京都市在住)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:8名

今回のタイトル:「ひさしぶりにインドネシアへ。25年日本に住んで」

亀田さん(コーディネーター):では、参加者のみなさんの自己紹介をお願いします。エニさんは、このGSは、2年半ぶりのゲストとしての参加ですね。5年ぶりにインドネシアに帰国され、昨日ぎりぎりに日本に帰られ、このGSに間に合いましたね。今日は、息子さんのT・Oくんも参加していただきましたね。

T・Oくんは大学3年生ですが、家ではどの言語がいちばんT・Oくんとエニさんは話しやすい言語ですか?

エニさん:日本語ですね。

亀田(C)さん:では、自己紹介をお願いします。

S・Oさん:日本に2010年に始めて来ました。今は12年目です。元学園大学のそばに嫁と二人で住んでいます。仕事は、海外から日本に来た人たちの仕事のサポートをしています。

K・Yさん:ひまわり教室で、読み聞かせを担当しています。いろいろな本を読んできました。

Y・Yさん:2年前に小学校の教員を停年退職し、今は、千代川小学校と大井小学校で非常勤教師をしています。昨年も、今年も千代川小学校にエニさんに来ていただき、話をしていただきましたが、その時は別のことがあり、聞けなかったのが残念です。ひまわり教室の指導者をしながら、日本語教育を日本語学校で学んでいます。

E・Tさん:今は京都の島津製作所で仕事をしています。今回のGSは、5ヶ月ぶりで、今日の資料が2016年に参加したときの物でびっくり。

R・Oさん:日本で団体に勤務しています。中国出身で、小3の男の子がいます。家では日本語で話しています。

T・Oくん:息子(エニさんの)で、今は大阪の大学でひとりくらししていいます。機械工学が専攻です。高校1年の時に母とインドネシアに行きました。インドネシア語が少しは知っていますが、しゃべれません。

児嶋:Global Sessionは、私が亀岡市交流活動センターで仕事をしていた1999年から始めました。2011年に退職後は、Office Com JuntoでGSを引き継ぎ、続けています。今回は、354回目になります。

亀田さん:スラマットシアング(インドネシア語でのこんにちは。)ツアーガイドをしていますが、ここ2、3年外国に出られません。日本へ来る外国人もまだ、ツアーでは来られません。

インドネシア料理も好きで、屋台は、それぞれオリジナルでおいしいです。エニさんとは、2001年か2002年に京都市でインドネシアとの交流会があり、知り合いになりました。途中でこのGlobal Sessionにも来られるようになり、今もずっとお付き合いをしています。

エニさんの京都市内のアパートも知っています。とてもいいところで、京都散歩にはいちばんですね。インドネシアの国旗(赤・白)とモナコの国旗とポーランドの国旗はたて・横の比率がちがうだけで、かなり似ていますね。

Y・Yさん:千代川小学校で、ポーランドのオジュグさんをお呼びしたとき、国旗も見ましたが似ているなと思いました。

亀田さん:インドネシアの首都がジャカルタから移転するのですね。

(インドネシアは、首都をジャワ島のジャカルタからカリマンタン島(ボルネオ島)東部に移転し、新首都名を「ヌサンタラ」。ジャカルタは人口の過密化や大気汚染、地下水の過剰採取による急速な地盤沈下が問題となっている。ジャワ島の湿地帯に位置し、1000万人以上が暮らしている。交通渋滞も深刻で、閣僚らが会議に出席する際には、開始時刻に間に合うよう警察が護送しなければならない。:2022年9月7日取得)

エニさん:「ヌサンタラ」はむかしのインドネシアの名前です。ヌサの意味は島で、アンタラは間と言う意味です。つまりインドネシアはアジアとオーストラリアにある島々の国です。カリマンタン島を首都にした大きな理由は、地震がないことです。

「5世紀頃に中部ジャワを中心にインドの文化・宗教・思想に影響された仏教のシャイレーンドラ王朝やヒンドゥ教のマタラム王朝が誕生し、ラーマーヤナやマハーバーラタなどの叙事詩がジャワの文化として浸透していき、現在までワヤン(影絵芝居)の演目として引き継がれています。

スペインからの独立戦争である80年戦争の真っ最中の1602年にオランダは、ヨーロッパへの香辛料輸出拠点としてインドネシアに東インド会社を設立し、国内の各王朝との条約締結や交戦を繰り返しながら植民地支配地域を拡大していき、行政の中心地をバタビアと命名したものが今の首都ジャカルタに至っています。

1942年に日本がインドネシアに侵攻し1945年に敗戦した直後、初代スカルノ大統領が独立戦争を経てインドネシアの建国イデオロギーを確立し、「開発の父」と称されたスハルト大統領が工業化による経済発展を推進し、1998年のスハルト政権崩壊後に引き継がれた各政権で憲法改正、法律の制定・改正が繰り返され、民主化が着実に浸透していき現在に至ります。」(インドネシアの歴史:2022年9月7日取得)

エニさん:1945年8月17日に独立し、今年は77周年にあたります。ずっとジャカルタが中心でしたが、カリマンタン島に移転すれば、インフラも良くなるはずです。

亀田さん:新首都の名は、ムサンターラですね。

エニさん:13000もの島を持つインドネシアは、赤道を挟み、アジアとオーストラリアとのまん中に位置しています。2024年に大統領選挙がありますが、いろいろな民族がいて、1000以上あります。

言葉も、顔の色も、食べ物も文化もちがいます。でもヌサ(島)アンタラの豊かさを取り入れたらいいと思います。5年ぶりに帰国して、機内のアナウンスもさまざまなことばで話され、驚きました。

亀田さん:4年前にバリ島へ行きましたが、バリ島は経済も発展していましたね。ヨーロッパの客も多くなっていました。

エニさん:自己紹介ですが、先ほど言いましたように、日本に来て25年が過ぎました。通常の活動としては、いくつかの大学でインドネシア語の非常勤講師をしています。日本人と結婚して2001年生まれの息子がひとりいます。その頃は、今とちがっていて、バイリンガルかモノリンガルで育てるか迷いはしましたが、その余裕は無かったと思います。現在は、親の母語の学びも大切という考え方が一般になっていますが、20年前の当時はそうではありませんでした。そのため、会話だけではなく、生活すべてを日本語でやろうとして、日本語の歌を子どもに歌って聞かせ、本も日本語で読みました。5年前に息子とインドネシアに行った時、「ぼく、インドネシア語を勉強しようかな?」と言ったのが驚きでした。

今回は、2022年8月1日にインドネシア向けに飛行機で出発しましたが、コロナ禍で、関西空港から羽田へ羽田から成田へ移動し、成田から夕方6:00にANAに乗り、ジョグジャカルタへ向け出発しました。飛行機の中でインドネシアのアプリを取得し、PCR検査を受け、朝の6:00から数時間ジャカルタ飛行場の中のカプセルホテルで休みました。ジャカルタからジョグジャカルタにある故郷に向かいました。ジョグジャカルタは、西は、スンダ語で、東はジャワ語です。ろうけつ染めのバティックが有名です。私の家はジョグジャカルタにあり、今は姉に住んでもらっています。ここには、ジャワ人(イスラム教徒)とバリ人(ヒンズー教徒)がいて、ジャワ人は、果物が好きで、自分で作り、近所にもよく分けます。バリ人は、花が好きで、庭に花を咲かせ、お供えも花です。

1ヶ月帰国するので、その間何をしようかと考えましたが、自分は写真が趣味なので、展覧会をしようと思いました。ここは、実は京都市と姉妹都市で、博物館の館長も知り合いなので、ここで写真展をすることを予定して日本から60枚ほどの写真を持って行き、額は、インドネシアで調達しました。また、姉と二人だけが家族で残っているので、いっしょに旅行に行きたいとも思いました。それで、写真展の前に、ロンボク島へ旅に出ました。ここは、イスラム教徒の多い島です。この街は織物が盛んで、できなかったら、結婚もできないような感じです。ジャカルタでの案内の言語は、インドネシア語と英語ですが、このロンボク島では、インドネシア語、英語、サラ語、アラビア語がありました。海の観光も多く、シュノーケルや白いビーチに焼き魚や椰子の実もたくさんありました。

展覧会では、写真を展示するだけでなく、日本から浴衣を持って行き、試着もやってみました。着せるのは、私です。私もバティックで織った浴衣を作って持って行き、着ていました。

みなさんにすごい人気でした。私は、大学の時は考古学の専攻でしたが、その時の先生が、ジャワの伝統衣裳も用意してくれました。そこで、竹も用意してもらい、日本から持って行った短冊に願いを書いてもらい、竹に飾ることもみんなでやりました。これも大人気でした。

そして、木で紅い鳥居も作ってもらい、上がり口に立てました。そして、詩を読み、テープカットをして、展覧会は始まりました。展覧会の案内ちらしもカラー版で作ってもらい、知り合いの先生のおかげで新聞記事にもなりました。340名ほどの参加者があり、その人達が竹の短冊に書いて残してくれました。竹は「希望の木」とし、夢を書いてもらいました。

インドネシアは8月に独立記念日があり、8月17日には、出身高校でみんなでヒジャブを着てお祝いをしました。バッティクは何かの礼節に着ます。この高校に展示会に出した写真を5枚プレゼントしてきました。高校には、今は日本語教室があり、インドネシア語で書かれた京都市のちらしもありました。以上です。

亀田さん:これからセッションです。何か質問はありませんか?

Y・Yさん:8月のジャカルタの気候はどうですか?

エニさん:蒸し暑いのですが、気温は日本の方が高いと思います。33度くらいでしょうね。

亀田さん:雨期と乾期がありますね。8月は、まだ乾期ですね。9月から3月は雨期ですね。

エニさん:雨期になると、ゲリラ雨が降ります。

R・Oさん:バティックが式服というような話がありましたが、普段は若者はどんな服を着ているのですか?

エニさん:学校の制服になっているところもあります。今は普段は、着ていないですね。

昔は、小学校は、青色で、中学校は、紺色、高校はグレーとか決まっていましたが。

児嶋:バティックはどこにあるのですか?

エニさん:今は世界遺産のなっているのもあります。いろいろな民族を大切にというジョコダ大統領の考えもあり、民族衣装も大切になって来ています。

Y・Yさん:今はヒジャブを身に付けるように厳しくなって来ているようですが、それはなぜですか?

エニさん:以前のスハルト政権時代は、民主主義で、宗教と国家は別と考え、勤務中のヒジャブなどは禁止でした。それが終了すると、国民の95%がイスラム教徒の国なので、2000年くらいから変化してきたようです。また、アラブ諸国から、インドネシアにきびしいイスラム教を持ち帰った人もたくさんいて、ファッション化して来たようです。2022年には学校でもヒジャブを身に付けるように強制したりしてきました。(イスラム教徒以外にもヒジャブをつけよとか)

E・Tさん:日本人が行くとしたらおすすめのスポットは?

エニさん:山も海もありますが、ロンボク島やスラベシ島などもいいですね。山もいいですね。島がたくさんあるので、きれいですよ。グルメもバリ島などには何でもあるし、織物体験もできます。

亀田さん:ウブドというバリ島スタイルの絵もありますね。

エニさん:バティクという刀を画いた絵もあります。

Y・Yさん:絹のような織物もありますが、あれは、何の織物ですか?

エニさん:1日に7cmくらいしか織れない織物です。絹ではないのですが。

日本のことわざで、「馬の耳に念仏」とありますが、インドネシアでは、「水牛に鈴」というのがあり、同じ意味です。

亀田さん:水牛は食べないのですか?

エニさん:硬いです。ジャワではあまり食べませんね。

お墓参りにも行きました。母のお墓も父のお墓も同じ所にあります。バラを持って行きます。お墓参りは、木曜日の夕方にすることになっていて、その前にならないと市場に花が売っていないこともあります。

亀田さん:感想もいいですよ。順番にどうぞ。

K・Yさん:知らないことばかりで、とてもおもしろかったです。バッティクの模様は決まってはいないのですか?

エニさん:模様の形はばらばらです。昔のともちがって来ています。大体は、上はブラウスで、下は巻きスカートでしたね。フォーマルな服装というのは、今もそうですが、最近はパーティーでは、ヒジャブというスカーフを巻くのが普通になっているようです。

S・Oさん:バッティクの模様は、型染めですか?

エニさん:模様のサンプルはいっぱいありますが、まず、鉛筆で布に描き、色をつかない部分に蝋で描きます。その後染めます。蠟で描いた部分は、色がつかないので、白くなります。繰り返しながら、模様つくります。高いバティックでは、50万円くらいするのもあります。

E・Tさん:たくさんの写真を見せてもらい、日本との考え方がちがうとも思いました。ルールがかなり厳しいですね。例えば、織物ができないと結婚できないとか。それと、いろいろな民族が住んでいたと聞きましたが、価値観なんどのちがいもあり、大変だったのではないですか?

エニさん:大変だけれど、家族としてひとつになることもできます。それと、どの民族にもそれぞれの価値観があり、食文化のちがいもあります。

姉の夫は、スマトラ島出身で、ちがう民族の出身でした。

Y・Yさん:何年も今は、外国に行けないので、行った気分になり、うれしいです。子どもがインドネシア語をやりたいと言っていますが、日本人はインドネシア語を学びやすいですか?

エニさん:インドネシア語は文法もシンプルで、しやすいと思います。順番は、主語・述語・目的語とならべればいいので、簡単ですよ。

亀田さん:日本語のカタカナがインドネシアの文字と似ていますね。

エニさん:そうですね。英語の「a」は、(ア)と読んだり、(エイ)と読んだりいろいろな読み方がありますが、インドネシア語は「a」は、(ア)と読むだけです。

R・Oさん:息子さんは、日本生まれのようですが、子どもさんがインドネシアの事に興味を持つようになったのは、いつからですか?

O・Tさん:母が毎日、お祈りをしていて、インドネシア語を織り交ぜながらずっとやっているのを見ていました。それで、自然と頭に入り、知りたいなと思い始めました。

今日は、母が今回インドネシアで、写真を60点も出展したと聞き、驚きました。すごいなと思います。

Y・Yさん:インドネシアで電車は時間通りに来ますか?

エニさん:バスは、3分くらいおくれるくらいですね。携帯を活用しているので、オンラインタクシーもあり、よく使われています。今、インドネシアでは、日本語を学ぶ人が増えてきました。日本に行ってみたいので、日本語を学ぼうと。

インドネシアの生活習慣のちがいも大きいです。例えば、夜の10時ころになると、たくさん人が街に出てきて真夜中まで騒いでいます。有名な食堂は、10:00開店だったりして。バイクも多いですね。それと、ネットバンキングが盛んで、支払いはほとんど携帯からです。

ここらで終了です。まだ話がしたい方はそれぞれにどうぞ。連絡先も聞いてくださいね。(児嶋)