2022/10/08

2022年9月24日(土)第355回グローバル・セッション・レポート

開催後のレポート
グローバルセッションイメージ

開催日:2022年9月24日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:玉野井麻利子さん(UCLA名誉教授・京都市在住)
コーディネーター:藤田宗次さん
参加者:13名

今回のタイトル:「戦争孤児:日本、そしてウクライナ」

参加者自己紹介

A・Oさん:曾祖母が孤児の支援をしていたと聞いています。(京都新聞元記者:亀岡にも在住)

R・Sさん:ひまわり教室の指導者です。

S・Oさん:立命館大学国際関係学科1回生です。この学科には外国人留学生が多いです。以前に玉野井先生のGSに参加したことがあり、立命館大学院でも教えておられたということでまた、お会いしたいと思い、参加しました。(児嶋の孫です)

A・Uさん:ひまわり教室の指導者です。

A・Tさん:外国語大学を卒業し、一般企業に勤めていますが、友人の誘いで参加しました。(スペインやアルゼンチンに3年間滞在経験あり)

S・Tさん:亀岡市役所の文化国際課に勤務しています。亀岡国際交流協会の事業部会などで児嶋さんと会っています。京都外国語大学では、フランス語を専攻しました。

H・Kさん:ツアーコンダクターをしています。今はまだ、仕事としては動けない状況が続いています。大連市から来られた戦争孤児を案内したことがあります。なかなか難しい課題がありますね。今はウクライナへ送られた子どももいて。

Z・Yさん:17年前日本に来て、日本人の夫と結婚し、今は、日本語学校で教師をし、亀岡では学校への派遣教師を2校でしています。ひまわり教室の指導者もしています。

Z・Qさん:民際日本語学校で日本語を学んでいます。中国出身です。

M・Pさん:民際日本語学校の学生です。

児嶋:今回は1999年にGlobal Sessionを初めて今回は355回目になります。大体月に一回のペースで続けてきました。ルールは、コーディネーターはいますが、「当てない」です。でも、誰かが話していても、横から入ってきてもいいです。この二つだけです。

藤田(C):私は、早い時期にGSに入って、そのまま続けて来ています。最初は、外国人の参加者も   多くて、英語の勉強になるかなと思っていたのですが、だんだん変化してきました。でも、新   しい事を知ることに魅力を感じてきています。では、玉野井さま、どうぞ。

玉野井さん:UCLAで教鞭を取って居たときには、もちろん英語でしたが、立命館大学から要請があったときには、英語でも日本語ででもと言われ、日本語の方が学生がリラックスするので日本語でやることにしました。

児嶋:玉野井さんとお会いしたのは、私が停年退職して大学院に入学し、修士課程を終わり、博士課程に入ったころの夏休みの特別講座(2013年ころ)であったと思います。それ以来のお付き合いになります。

講座開始

玉野井さん:トピックを「戦争孤児」という難しいものにして「しまったな」と思いました。「孤児」ということばは、実は古い言葉ではなくて、明治時代以後に使用されるようになりました。それまでは、「みなしご・すてご・ててなしご」などが使われていたと思います。そのために、「孤児」(orphan)って何?と考えてしまいます。「親が居ない子」「片親しかいない子」(英語ではhalf orphan)「親が行方不明の子」など、ひっくるめて孤児と呼ばれることがありますが。。。それに、加えて、孤児って「子どもでなければならないの?」といった疑問も湧きます。30才で親を亡くした人を孤児と呼ぶでしょうか、孤児は子どもでないといけないのなら、幾つの子供なら孤児というのでしょうか。このように考えると、「孤児」とは定義がしにくいことばだなと思います。

そこで:

  • 孤児とは何か?
  • 子どもとは?
  • 戦争孤児とは?

などの課題が出てきました。

1.孤児とは?

孤児の「孤」の右のつくりはなぜ「瓜」なのか?

山上憶良の「瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして思はゆ」にも瓜の歌があります。魯迅という20世紀はじめの中華民国の作家で、日本に留学もした人ですが、彼も自らの作品の中で「瓜」と「子供」を関連させて語っています。瓜に「子」をくっつけると「孤児」となるわけですが、「瓜はどんどん繁殖する作物であるのに、一つだけだとさびしく見える」ということでしょうか。

日本では古代から慈善の対象になっていた人たちがいます。

61才以上の男やもめ、61才以上の未亡人、61才以上で子どもがいない老人、66歳以上の老人、病人、精神あるいは身体障害者ですが、それらに加えて14才以下の父親のない子は「孤」と呼ばれ、やはり慈善の対象となっていました。

2.「子ども」観の歴史について

21世紀を生きる私たちは「子ども」をどう定義しますか? 多分 5、6才から14、15才くらいであり、「子ども」は大人とは違って,教育を受けなければならない、ではないでしょうか。しかしこの考えは17世紀ごろに作られた、かなり新しい子供観なのです。

フィリップ・アリエスというフランスの歴史家は、その著書『子どもの誕生』(1960)の中で、私たちが今考える「子ども」というもの、つまり大人とは違う子供、という概念が生まれたのは17世紀以後で、それ以前は、子どもは「小さなおとな」と見なされていたと書いています。

日本でも石川謙が『日本における児童観の変遷』(1949)の中で、中世の終わり頃(17世紀)までは、子どもは「小さな大人」として扱われたと書かれています。確かに親のために自ら自害する子供、あるいは自分の子を殺す親、など武家社会では相当ありましたし、子供は大人並みの労働をしていたのです。

ヨーロッパにおける17、18世紀前の言説は子供を子供として扱っていません。例えばパスカルは「理性のない子供は人ではない」というようなことを言っていますし、かの有名なルソーは、放蕩生活の挙句にできた自分の5人の子どもを自分の手で孤児院に連れて行った、という事実があります。

ここでいくつか「労働力としての子供」を見てみましょう。

  • これは1910年代の長野県で撮られた写真です。どうみても子どもとしか思えない女の子が、群れをなして、子守として働いています。
  • これは20世紀初めにアメリカでとられた写真ですが、とあるボタン工場が「小さな男の子を求める」というポスターをかかげています。アメリカに移民の子供としてきた子どもたちは、10歳ぐらいから働いていたのでしょう。

藤田さん:(長野の写真では)子どもが子どものめんどうを見ているのですね。

玉野井さん:そうです。子守は他人の子供の世話をしています。妹や弟の子守りではないのです。さらに「子ども観」は江戸から明治になると大きく変わりました。「親の子供」という考えから「国の子供」になったのです。親が教える教育から、国が教える教育、となり、教科書も国が配布するようになりました。同時に言葉も変わります。「みなしご」を「孤児」というようになりました。「捨て子」をすることは罪となりました。この変化を沢山美果子さんは次のように記しています(『江戸の捨て子たち』)。江戸時代には親が捨て子をすることは多くあった。ただ子供が捨てられても生きるように、である。捨て子は大体3、4才以上で、乳児ではないこと。捨て子の捨てられたところは、裕福な家の門の前や、お祭りで人がたくさんいるところ、だったそうです。近代に入ると、捨て子はだんだん消えて行きます。ですが、子供の売買に変わって行きます。堕胎は間引きと言われ、これももちろん罪となりました。

3.「戦争孤児」とは?  

さて、ここで「戦争孤児」についてお話しします。

「戦争孤児」ということばは、1894~1895年の日清戦争や日露戦争から使われるようになります。しかしこの場合、戦争孤児は亡くなった親が職業軍人か、徴兵された兵隊です。そして残された家族には国による保護がありました。 ただし階級も考慮されています。職業軍人の家族は、徴兵された兵隊の家族よりより多くの援助を得たのです。

ところが15年戦争(満州事変から太平洋戦争 1931−1945)になると、戦争孤児にかかわる状況は大きく変わります。

連合軍による日本の空爆は1942年から1945年まで日本の各地で繰り広げられました。1945年3月10日の東京空襲では、105,400人の民間人が1日で死亡したと言われています。空爆の犠牲者は終戦時202,975人まで増えたそうですが、最後の空襲、つまり広島と長崎に落とされた原爆で亡くなった方々の数は当時掴めていません。原爆は時間をかけて人を殺すからです。つまり15年戦争では軍人の親を失った戦争孤児も増えますが、急激に増えたのは民間人の親を失った戦争孤児なのです。

民間人の親を失った戦争孤児の数ははっきりとわかっていません。1948年に行われたGHQの実態調査によると、123,511人という数字が出ています。しかし現実はもっと多いでしょう。

その理由は:この中には1948年以前にはすでに孤児として親戚に預けられていた子供が含まれていないこと。原爆孤児が含まれていないこと。戦時中に朝鮮、台湾、中国から日本に移住した子供で戦争孤児となったものは含まれていないこと、などがあります。

軍人、徴兵された兵隊を親にもつ戦争孤児と、民間人を親にもつ戦争孤児との間には大きな差があります、そしてその差は今でも続いています。前者は日本の占領期間のわずかの間を除き、日本政府から年金を与えられています。そうした援助は孫の代まで続いているのです。ところが民間人の親を持つ戦争孤児にはなんの援助もありません。親は戦争のために犠牲になったにもかかわらずです。

民間人の親を持つ戦争孤児は長い間自らの経験を公に話しませんでした。それにはいくつかの理由があるようです。まず戦争孤児としての生活はあまりに苦しく、思い出すことも苦痛であった、ということです。私が長い間お付き合いしている金田茉莉さん(現在88才)は戦後親戚をたらい回しにされ、誰からも厄介者扱いを受けました。 それでも親戚の悪口など、生きている間には話すこともできず、むしろ記憶を話したりすることへの反発を感じ、なかなか話ができなかったと言われています。おまけに戦後の日本は「戦争孤児」のイメージは決して気持ちの良いものではありません:警察に「刈り込み」される「浮浪児」や「不良児」のイメージです。戦後社会は戦争孤児を暖かい目で見たでしょうか。金田さんは1990年代に入ってようやく「戦争孤児の会」を立ち上げられました。

1956年2月25日には、朝日新聞に「この子たちの親を探そう」という記事が掲載されています。戦後10年以上も経ってから戦争孤児の親を探そう、という運動が始まったのです。しかし親に巡り合えた子供たちは多くなかったようです。

グローバルセッション開始

藤田(C)さん:これからセッションを始めますので、どうぞ。

児嶋:今も、ヤングケアラーとして、子どもが兄妹のケアをしている子どももいるなあと思って聞いていました。

R・Sさん:亀岡の児童養護施設として青葉学園がありますが、この学園ができたわけを聞いたことがあります。戦災孤児として浮浪児などの刈り込みをされた子どもたちを何とかしたいと、親がいない子どもさんを収容する施設を作られたと。現在は親がいないから来ている子どもさんは、少ないようですが。

玉野井さん:アメリカに孤児院ができたのは、18世紀のようですが、二親ともいない子どもは預からなかったと聞いています。保証人がいないからです。つまり片親がいないと孤児として扱われなかった、ということです。孤児はストリートチルドレンと呼ばれ、オーファントレインに乗せられ、農村に運ばれたとか。これも、19世紀、20世紀の初めまで続いたようです。

A・Oさん:アメリカの転換は何時だったのでしょうか?今は少なくとも農村に集団で送ってはいないのではないでしょうか?アメリカでは、虐待はニュースにもなっていませんが。「子どもたちをさがす運動」は、それ以前にはなかったのでしょうか?

玉野井さん:満州からの引き揚げ孤児については、「親をさがそう」という運動があったと思います。ですが日本とは1972年まで国交がなかったので、そうした運動はうまく行きませんでした。1980年代になってようやく国が介入、日本での親探し運動が始まり、運よく親戚が見つかった方々は日本へ帰国できるようになったのです。

Z・Yさん:私の父は、日本人の父母といっしょに戦前に中国に渡り、戦後、その父母は、子どもの命を守ろうと中国人に預けられ、そこで大きくなりました。1966年から69年に起こった文化大革命で、日本語ができる反体制分子として投獄され、何年も帰って来ませんでした。その間、母は中国人だったので、その間、離婚を勧められたりしたそうです。母は、着物生地を使った繊維会社のエンジニアで、「離婚したら、給料も上がる」とか、言われたそうですが、「夫は罪があると思わない」として、父が帰って来るのを待っていました。その後、父は、いろいろな物を売ったりする仕事をしながら、72才まで生きました。

R・Sさん:お父さんのルーツは知っているのですか?

Z・Yさん:父には兄妹もいたようですが、今も兄は日本にいるらしいとだけ聞いています。

藤田さん:私は、戦争が始まった年に生まれたのですが、戦後、京都の神社やお寺、町中に足や手のない人たちがたくさん、座っていました。子ども達は、受け皿に置かれたお金を取ってくる役目をしていました。金閣寺の参道などには、特に多くの人がいました。ところが、急にその人達が居なくなりました。どんな政策があったのか、知らないのですが。

後日、中国に旅行に行った時、片足のない子が、手を出してめぐんでくれと言っているみたいだったので、日本円の200円ほどを渡したら、近くの大人が出てきて、「不公平だ」と言うのです。いっしょにいた中国人のガイドさんが、「何をしたのか?」と問うので答えると、「その人だけに渡したらだめで、みんなに公平に分けないと」と言うのです。そこで、日本とのちがいに驚いたことがあります。中国にも戦争孤児は、日本の数倍もいたはずですね。蒋介石の奥さんが、孤児のために学校を建てたのですが、建てても建てても、足りなかったと聞いたことがあります。

日本では、1945年の終戦後、地位が低かった傷痍軍人も年金がもらえるようになったと思いますが、その年金がないと生まれてこなかった子どももたくさんいたはずですね。1949年になってようやく、保護法ができたと思いますが。

A・Oさん:1970年代にも、京都の吉田神社には、傷痍軍人がたくさん並んでおられたのを覚えています。

S・Oさん:今ぼくは、19才ですが、「子どもとは?」という話の中で、「子どもは小さい大人だ」という話があったと思います。その頃は、労働力として安い賃金で使えるという考え方があったのでしょう。現在は、子どもは働かなくてもいいし、教育を受けるように保護されていますが、もし、昔のような状況になったとしたら、同じように子どもは労働力とみなされるのでしょうか?このことが聞きたいなあと思いました。

玉野井さん:どの時代も社会の中に格差はあったと思います。子供を子供として保護する、という考えは上層社会で生まれました。下層社会では労働力としての子供は長い間残りました。今でも多くの国で子供は「働いて」います。

玉野井さん:アメリカのUCLAでは、家族の誰も大学に入ったことがない学生を優先的に通す方策があります。大学に入っても働く必要があれば、大学が働き口を紹介しています。

藤田さん:戦後、日本も貧しかったころ、「子どもは働いて国に貢献しろ」と言われていたと思います。

イタリアに行った時に、切符を買おうとしてとまどっていたら、「何処行くの?」と聞かれ、「ここ」と言ったら、切符を買ってくれて、「教えたのだから、おつりはもらっていいよね」と言って持って行かれたことがあります。他の人を見ていると、そのような人が近づいて来ないように、ふたりがいたら、ひとりをガードしているのが見えました。 

玉野井さん:戦後日本で出版された本に、石川淳の「焼跡のイエス」という短編小説があります。石川自身の経験をもとに書かれた小説です。彼が闇市で出会った戦争孤児は石川の財布を盗むのですが、その姿が石川にはイエスのように見えた、というのです。そのわけは書かれていませんが、おそらく、その子供の生活力に圧倒された、ということでしょうか。

藤田さん:ローマでは小さな女の子がポケットに手を入れてきたことがあります。背中を寄せて来て、どこにあるかを探っているとも聞いたことがあります。

H・Kさん:ガイドをしていると出会うことがあります。バルセロナやローマでは、10才くらいの子どもがグループになり、スリをしていました。ベルサイユで財布をすられたことがあり、警察へ行って調書を書いたら、犯人が捕まったと言って現金が返って来たこともあります。昔は、添乗員が旅行者のパスポートを預かっていたことがありますが、取られたら全部とられるので、このごろは、しませんね。

Z・Yさん:中国人は、日本に来ても、バッグは自分の前に置き、離れません。

H・Kさん:しょうもない物は、返しに来たこともありますよ。

玉野井さん:現代(例えばウクライナ)の戦争孤児は単独で国境を渡り、難民として保護されることもあるようです。そういう子供は(日本の終戦時に見かけた)浮浪児にはなりませんね。

A・Oさん:「刈り込み」というのは、社会の冷たさを感じますね。当時の施設に入っても、脱走していく子どもがあとを絶たなかったようですね。

児嶋:ウクライナでも、今、ロシアが侵攻した地域の子どもたちをシベリアにつれて行ったとかニュースがありました。

玉野井さん:1920年ごろ、シベリアには多くのポーランドの子ども達が(ロシアによって連れてこられて)住んでいたようです。ほとんどが孤児でした。彼らを助けたのは日本赤十字です。その後東京にあった福田会という孤児院が日本に連れてきて、無事ポーランドに送られたそうです。

Z・Sさん:日本語に加え、お茶も研究したいと思っています。中国にもお茶がありますが、作り方が多少ちがうのです。

児嶋:玉野井先生と初めてお会いしたのは、立命館大学院に私が定年後行っていて、修士課程が終わって博士課程に入った夏休みの特別講座だったような気がしますが。

玉野井さん:当時、その講座には、中国からの留学生が半分くらいいて、最初、学校からは、英語でも日本語でも、どちらでもと言われていたのですが、日本語の方が共通語のようだったので、それ以後、ずっと日本語で話していましたね。

藤田さん:戦争はどこも得することがないのに、プーチンとその取り巻きは何を考えているのでしょうか?ウクライナは、戦わずに平和に行こうとしていたのに、プーチンはなぜ、話をしないのでしょうか?

S・Tさん:ウクライナから今来ている人は、女性が多いですね。9月20日現在で支援を必要としているウクライナ人は、1925人と聞いています。京都市は、受け入れを始めましたが、亀岡市はまだだれも来ていません。プーチンは昔からの政治家のような気がします。ウクライナの大統領はパフォーマンスを重視しているように見えますが。

藤田さん:ウクライナが勝つためには、他国の戦争への手助けが必要ですね。

R・Sさん:自分の領土が武力で侵略されたら、降参するなどと言うことはしていいのかと思います。この時期までにクリミア半島は捕られていましたが、最初は、クリミア後に戻そという動きだったのが、今は、クリミア半島が捕られた以前に戻そうという動きが出て来ていますね。大統領がコメディアンであるかどうかは、関係がないと思います。

藤田さん:人命を尊重しないやり方はどちら側でも赦されることではないですね。日本も軍事費を増額するようですが、それを環境政策に使ってほしいです。地球はこれからどうなっていくのでしょう。

セッション終了