2023/04/15
2023年3月26日(日)第361回グローバル・セッション・レポート
開催後のレポート開催日:2023年3月26日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:大野友アンドレイアさん(ブラジル出身・箕面市国際交流協会職員)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:14名
今回のタイトル:「二つの文化を行き来しながら生きる・・正解はだれのものか」
自己紹介
亀田さん(コーディネーター):仕事はツアーコンダクターですが、今は外国に行かれる人も増えていますが、これからですね。今日は箕面市におられる大野友アンドレイアさんをおまねきしています。今日は、1999年から始まったGlobal Sessionの361回目です。自己紹介をお願いします。
R・Sさん:ひまわり教室で指導しています。アンドレイアさんのお話しは3度目になります。だんだん深化して行くので今日も楽しみに来ました。
M・Sさん:2002年からGSに参加しています。10年以上になりますね。(10年ではなく、20年ですよ。:声在り) 学びに来ています。アンドレイアさんのお話しも3回目になると思います。
Iさん(市役所職員):4月9日に中東和平プロジェクトがありますので、みなさまもどうぞ。
S・Mさん:京都市で外国人支援のプログラムを実践しています。いろいろな相談があり、借金から出廷などの内容もあります。いろいろな場所で支援していますが、GS参加はこれで2回目です。いっしょに来ているAさん(リア)は、ポルトガル語を話したくて。このGSに来られています。
S・Yさん:多文化共生センターで相談員の仕事をしています。夫がカナダ人で、日本語教室に来ています。7年間カナダに住んでいましたが、向こうもコロナ禍で、日本に帰国することにしました。GSは、3回目か4回目の参加です。昔、子どものころ、箕面市に住んでいました。
E・Tさん:GSは2014年ころから来ていて9年目になります。今は島津製作所で真空ポンプ作りなどをしています。アンドレイアさんのお話しははじめてです。
Z・Yさん:中国出身で、1年半前にひまわり教室を紹介されて、今は指導もしています。アンドレイアさんのお話しは2回目です。
Z・Qさん:京都市に2年間いて学習し、今は会社で仕事をしています。
Oさん:GSは、2回目です。いろんな方と交流して勉強ができるなあと思っています。
Y・Nさん:在日スリランカ人で、大野友アンドレイアさんといっしょに仕事をしています。
児嶋:GSは以前仕事をしていた亀岡市交流活動センター(宮前町)で1999年にはじめました。その後、2011年に私が退職後、オフィス・コン・ジュントの主宰として継続しているので、もう20年以上になりますね。今回は亀田さんが言われたように361回目です。
グローバルセッション開始
亀田さん:(ポルトガル語で)「ボンジーア。トードベン?Como esta?」 大津に住んでいます。滋賀県の湖西や湖南にはブラジル人が多く住んでおられます。ペルー人もおられますが。「ムイト プラゼール(はじめまして)」地域は仕事をしている工場も多く、もうブラジルからの3世や4世の方もおられます。なぜ、ブラジルに帰国しないのかと聞くと、「親の世代はポルトガル語だけで話し、自分は、日本語だけでした。それで、今自分が帰国してもポルトガル語が話せないので、帰りません。それと、ブラジルは治安が悪いので、日本の方が生活は大変だけれど安全です。以前はブラジルから移住する人がたくさんいましたが、今は来る人が減っています。」と聞きました。
児嶋: 亀田さんはポルトガル語で話をされるとは思いませんでした。すごい。
私も、1985年から夫の赴任でブラジルのミナス・ジェライス州のベロオリゾンテというブラジル第3の都市に3年間住んでいました。子ども達や夫は学校や仕事で忙しかったので、私はひとりでポルトガル語の学習に励みました。1年半くらいで、普通に話せるようになりましたが。
アンドレイアさん:ポルトガル語で話してもいいですか?
資料で「わたしのルーツ」をお配りしました。私は、ブラジルからきましたが、ひとりの人間です。という意味です。ブラジル代表ではありません。参考程度に聞いていただければと思います。
日本から、たくさんの人がブラジルに渡りました。この人たちを1世とすると、現在は、その人達の子どもや孫が、日本に来ていて、日本で生まれた2世や3世もいます。この人達の呼び方は、ブラジル系1世というのでしょうか?それとも、日系3世?
「日系ブラジル人」と聞くとみなさんは、どんなイメージを持ちますか?私は、「日系ブラジル人」という言葉が自分を表すとは思いません。ブラジルにいると、大勢の人とは顔はちがいます。小さな町だったので、アジア系というのは、日本と台湾から来た2家族だけでした。サンパウロなどの大きな町には、このような顔は多いのですが。
日本に来て自分を「日系ブラジル人」と呼ばれだしたのはいつだったかなと思いますが。
日本への出稼ぎで来ているブラジル人のコミュニティにも入っていませんでした。ひまわり教室のように、多文化の中にいるとあまり意識をしないのかもしれません。
「わたしのルーツ」を見ていただくと、祖父母は日本人だけれど、中国の満州で瓦職人をしていました。母の兄姉の伯父・叔母は、満州生まれです。戦後、満州から家族で逃げるように日本に帰国して、母は日本の山口県で生まれました。生活も大変で、政府が「ブラジル行き」を勧めていました。半年に一度、ブラジル行きの船が出ました。ブラジルに着くとアマゾンへ入植をしました。アマゾンでコロニアが作られ、耕し、家も作ったのですが、雨期になるとすべてが流されてしまうような地域でした。
現在では、政府も「あのやりかたは、まちがいだった」と認めていますが、当時は、戦後でもあり、移民ではなく、棄民の政策であったと言われています。
最近、静岡県にブラジルのベレンの料理を出しているひとの新聞記事が掲載されました。それを見た母が、同じ船に乗り、ブラジルのアマゾンへ行った人かもしれないと、電話をしました。その通りだったようです。静岡でブラジルの野菜を作り出しているようです。実際に会いに行きました。二人で新聞記者にもらった入植当初の資料を見ながら真剣に話し合っていました。日本が成長する前のブラジル移民でした。ブラジルで生まれた子どもたちはポルトガル語を話し、親は話せないので、親子間のコミュニケーションが難しい例がたくさんあります。
母は、学校に通うため、家族から離れ、ブラジル政治家の養女になりましたが、その人達が、ブラジルの政変後、いなくなり、母だけが残されました。大きくなると、サンパウロに移住し、日本人農家で働き始めました。
父は、日本企業の駐在員でした。父母は結婚すると、サンパウロからガラパリへ移住し、小さな八百屋を始め、ガレージで物を売っていました。このころ、家では日本語を話し、外ではポルトガル語という生活でした。その後、中国料理店を開き、春巻きの皮なども作っていました。
私は、ガラパリで幼稚園に行っていました。学校へ行き出すと、日本語がだんだんなくなって行き、「あなたは日本語ができない」とも言われました。母は、日本語を教える力はなかったのです。そのころは「日本はとてもちがう」と思っていました。
当時、ブラジルは、私立学校と公立学校の差が大きく、公立学校は、くらしに困っているひとたちが多かったようです。教科書もなく、黒人も多かったです。そのころ、黒人の男の子から「おれたちと同じだね」と言われ、なかよくなりました。
中学2年で日本に来たのですが、当時、行きたいという気持ちと行きたくないという気持ちちが同時にありました。日本では、「いじめ」のイメージもあり、日本語の字もわかりませんでしたから。
日本に来てから、アイデンティティについて考えることが多くなりました。「日本人でないといけない」と母は言っていましたが。ブラジル人って何と考えると、ネットもない時代で、周りから「ブラジル人だから時間を気にしない」とかいろいろありました。
日本では、勉強がまず、苦しかったです。マンガ研究部に入っていた人たちだけが、話しかけてくれました。中3で高校受験があると知りましたが、その難しさの実感が沸いていなかったと思います。弟二人は、実際の年齢より学年を下げてはいったので、まだだいじょうぶでしたが。
弟たちは、バレーや野球をやっていました。弟のバレーの先生に相談して、国際コースを受験することになりました。その結果、高知県の明徳高校に入ることができました。この学校は、全寮制の高校で、日本語のみの生活になりました。英語もやろうと思ったので、カナダへ高校時代に留学をしました。この学校にブラジルから、4人のサッカー選手が留学してきて、監督一家も来ました。手伝いを頼まれ、ポルトガル語も復活し、話せるようになりました。日本にいる父方の祖母は、来日当初「大学へ行けないよね。」と言っていて、悔しくて、大学に行きたい気持ちが強まりました。高校の内申書を学校でいろいろ工夫をして書いてくれたと思いますが、奇跡的に大阪外国語大学へ入りました。この学校は大阪にあるので、夜にディスコに行くとブラジル人がいっぱいいました。彼らと話すことで、たくさんのことを知る事ができました。1990年代のころです。このころは、「自分のままでいいのだ。」とようやく思うことができました。大学の友人はいなかったと思います。就職活動もしていなくて、その理由は、「ブラジルへ帰るからいいんだ」と思っていたからです。このころ、通称届で隠していた「アンドレイア」という本名も名前に戻すと、周りの対応が変わりました。大学卒業後、JICA主催の、「中南米日系人向けの研修プログラム」に3ヶ月参加しました。ブラジルの人に会いたくて、工場でアルバイトの仕事をしたとき、すぐに通訳となってしまい、ブラジル人の仲間はできず、上司側の日本人に気に入られてしまいました。そのことを知っていたのか、出稼ぎに来ていた従兄は日本語ができることは隠していました。それは、周りから特をしているように見えるからです。でも、この研修プログラムを受けて、元の国で活躍できればと思い、合格することができました。
ディスコでブラジル人と親しくなると、犯罪がすぐに近くに感じることもありました。ルーツである日本に夢をいだいた若者は社会になじめず、現実はちがっていました。高い給料をもらっていても悪い会社に騙され、ふてくされる気持ちもあったと思います。大人になりかけの人が多く、自国の制度もよく知らないまま、日本での仕組みも分からず、保険や光熱費などの滞納の督促状が来ても分からず、相談するところもなく、犯罪に手をそめるものもいました。
大学では、「なんかちがうな」とも思っていました。でも、JICAでの研修では、いっしょに考えて、実現することを学びました。ブラジルに帰るにしてもお金がいるので、バイトをしていました。
会社の正社員になり(2004年)出向でアメリカに行きました。
2005年に結婚、2006年に第1子出産
2007年にアメリカオレゴン州へ
ここでいろいろな人に出会い、ブラジル人でも日本人でもない自分でいられるアメリカに住む心地よさを感じていました。となりの人でも子どもの学習を見てくれるひとがいました。
2012年に息子が日本語を話さないことに気付き、自分と同じように学習や言葉の壁に苦しむだろうと考え日本に帰ってきました。
2013年からMAFGA(箕面国際交流協会)で母語支援者として関わりはじめました。ブラジルに行ったことがないブラジル人の子どものポルトガル語の学習支援です。日本語もポルトガル語もできないような子どももいます。多様な背景を大切にできる社会を目指し、活動したいと思っています。現在は、外国にルーツをもつ子どもや外国人市民の相談事業を担当しています。みんなが背景はちがうのですが、ひとりひとりとていねいに話していきたいと考えています。
仕事とは他に、「チャチャチャ」というスペイン語とポルトガル語の母語の教室の代表でもあり、ブラジルブックカフェで、ポルトガル語学科の大学生なども支援をしています。100人ほど登録しています。以前は遊び場がなかった子どもたちに、場を提供し、「NO」と言える力をつけるのは、自分で選択できるようにするためです。このように、母語・母文化に出逢う場をつくりつづけようと考えています。
“Muito Prazer”とか、「オキナワサントス」とか、「ファミリア」という映画などがあり、ステレオタイプの”日系ブラジル人“がキャスティングされることも増えました。
亀田さん(コーディネーター):質問があればどうぞ。
児嶋:アンドレイアさんがどれだけ苦労されて今があるかが、多少わかったような気がします。
アンドレイアさん:年月が経つと介護での問題も出てきます。母語はわかるが、新たに学んだ言語はもう覚えていないというような。
M・Sさん:波瀾万丈の歴史ですね。いろいろな扉があって、その扉を開けて行かれたことで、今があるのですね。このような歴史を持つ方は、あまり身近では少ないですね。刺激になりました。それと、アンドレイアさんの、決してたやすくはなかったご苦労が感じられます。箕面国際交流協会では、かけはしになっておられますね。今のアンドレイアさんは、ゴールの手前まで来ておられると思いますが、このようになるには、その時の時代背景も関係していると思います。「正解はだれのもの?」と問いかけられていますが。
アンドレイアさん:ブラジル人と日本人の間に、上とか下とかはないと思います。
M・Sさん:自信は付きましたか?積み上げて来て。
アンドレイアさん:「なんとかなる」と思えるようになりました。
今は、生きにくい時代だと思います。大切にしているものが、それぞれにちがうので、ミスすることもあると思いますが、それに対して、評価が低くなることがあります。
協会でいろいろな問い合わせがあり、保育所へ提出する物があり、それを提出しないと言われるとか。「だいじょうぶよ」と声掛けをすると、楽になるはずですが。相談を受けているとだんだんその人達と近くなる実感があります。
S・Yさん:このお話しは日本におられるときだと思いますが、アメリカにおられた時はどうでしたか?
アンドレイアさん:もともと移民の国なので、わかってもらいやすいと思います。
児嶋:ひまわり教室の指導者は、子どもさんや保護者の質問に答えるけれども、踏み込みすぎないようにしています。
M・Sさん:私は、つい入りすぎてしまったと思うこともあります。
児嶋:私は、多分ないと思います。
アンドレイアさん:日本では記述する言葉が難しいですね。入管でも、「相談して」と言われますが、
どう、何を相談していいのかがわからないことが多くあります。入管でも、自分の国の言葉や習慣や制度を知っている支援者がほしいと思います。
Aさん:日本でポルトガル語を話す機会はありますか?(ポルトガル語で)
アンドレイアさん:ポルトガル語を忘れてしまっていた期間は私にもあります。言葉が時代により変化しますし、何だったっけと思うこともあります。ポルトガル語を使用するイベントなどを開催すると思い出します。子ども達に自分の母語を教えたいとも思います。在日韓国・朝鮮の人の母語・母文化を継承する活動は私たちにとって先輩のような存在です。
M・Sさん:ひまわりには、中国ルーツの子ども達がたくさんいますが、宿題を教えているわけですが、中国語で互いに話せるとわかった時のうれしそうな顔がわすれられません。
アンドレイアさん:堺市で活動をしている田中ルジアさんは以前ブラジルルーツの子どもに日本語を教えていましたが、今はポルトガル語の本がおいてあり、母語を中心に活動しています。
亀田さん:そろそろ12:30になりましたので、個人的にもっとお話しをしたい方は後にどうぞ。
今回はこれで終わります。ありがとうございました。
その後も、いろいろなお話しをしながら、しばらくして帰って行かれました。アンドレイアさんにメールでお願いして、11月にまた、来ていただくことになりました。みなさんもどうぞ。