2023/10/30

2023年10月9日(月・祝)第368回グローバル・セッション・レポート

開催後のレポート
グローバルセッションイメージ

開催日:2023年10月9日(日)10:00~13:00
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:Rachel Clark(レイチェル・クラーク)さん(日系米国人・国連等で通訳・日本訪問中)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:13名

 今回のタイトル:「アーミッシュってどんな人たち?」

レイチェルさんからの事前配布資料より

「 2020年の春、パンデミックの波がNY界隈にも押し寄せ、ハドソン川を見下ろす私の窓からは、マンハッタンに停泊する救急船が見えました。

NY中で医療に従事する人々に敬意を表する為のブルーエンジェルスの編隊飛行も行われました。

その頃から世界19ヵ国、約60人の仲間が毎週ズームで会議を開き、あの不思議な世界の空気に立ち向かう声明を発表しました。私もその中に加わり、素晴らしい希望を感じながらも、末世的な演出効果の漂うメディア報道にうんざりしていました。

あの年の1月の4週間、私はグアテマラでスペイン語を学び、次の1週間をコスタリカで、その次の1週間をパナマでバックパッキングをして一人旅を経験しました。

3月にはなつかしい友人に会いにカナダのモントリオールまで7時間かけて運転し、帰宅した次の日から国境が封鎖されました。

日々伝えられる深刻なニュースと同時に、それを真っ向から否定するニュースにも触れる機会を得る事ができたのは、それまでに培った国際的な人脈のネットワークがあればこそ、でした。

国際航路客船の洋上通訳として、世界の50ヵ国以上を巡り、さまざまな文化や考え方に触れた事や、国連の会議を沢山傍聴した経験も、判断の役に立ちました。

私の下した結論は、「あの人たちのルール」に沿って生きる事をしない、と言う事です。

同年4月半ばから毎週末片道7〜8時間運転して、NY州北部の「ノースカントリー」と呼ばれる地域に引っ越し先を探しに行きました。9回目のドライブで見つけたのが現在の住処です。

自然に恵まれた美しい環境に一目惚れして、四季それぞれの豊かな恵みを与えてくれるアーミッシュの農家さんたちとの素敵な交流が始まり、彼/彼女らから「持続可能な」暮らしを学んでいます。

なぜ国連はこの人たちから学ばないのか? と疑問に思う事がよくあります。

アーミッシュってどんな人たちなのでしょうか? どうして世界はこの人たちから持続可能な暮らしを学ぼうとしないのでしょうか?アーミッシュに今更なろうとは思いませんが、取り入れられるコンセプトは沢山あると思います。そんなこんな思いを、エッセイのように参加者の皆さんと共有できたら、と思います。」

参加者自己紹介

亀田さん(コーディネーター):1999年からこのGlobal Sessionは始まっています。ゲストは毎回ちがう人で、最初は、英語でセッションという形でやっていました。

この頃は、日本語が上手なゲストが増え、ほとんど日本語でやっています。私は、大体最初に近い時期から、このGSに参加していると思います。今日はゲストがアメリカからなので、英語でもどうぞ。では、参加者のそれぞれの自己紹介から始めていきましょう。

E・Tさん:京都の北の京北町に住んでいます。仕事は島津製作所で、真空ポンプなどを作っています。

R・Sさん:児嶋さんたちとひまわり教室で外国につながる子ども達の学習支援活動をしています。

S・Nさん :京都市左京区に住んでいます。外国人女性の困った事などの相談活動をしています。高齢化した方達も増え、医療ネットワークとの関係が必要になってきています。

S・Fさん:在日外国人のための日本語のサポートを1年くらいしています。その中で「ものとことのちがい」や、「~だらけ」などの日本語に対する興味がわいてきて、楽しくやっています。

M・Oさん:(英語で)グローバルコーポレーションの仕事をしています。東京の大学を卒業後、ニューヨークで学んだことがあります。主な仕事としては、グラフィックデザイナーです。

 (後半に実際の英文と日本語の本人訳あり)  

M・Sさん:(英語で)亀岡市民で1999年に始まったGSのメンバーだったと思います。今回は、レイチェルさんの言われる「アーミッシュ」に興味があって、参加しました。楽しみです。最近はあまり来る機会がなかったのですが。ひまわり教室の指導もしています。

M・Fさん:私も1999年のGSの最初から参加しています。今日まで続いているGSには魅力があります。40数年間、映画人として映画作りに関わり、今も携わっています。

レイチェルさん:どんな映画ですか?

M・Fさん:東映の時代劇ですよ。今は、NPO法人として子どもたちの映画制作に関わっています。

Y・Hさん:(ドイツ語で)ドイツ語を勉強して話したいなと思っています。今は、ウクライナなど、世界に問題がありますが、国連とのつながりも見ていきたいと思っています。

Z・Y(ちょうえい)さん:中国出身で、現在は、亀岡市の学校教育課の小・中学校の教育支援員をしています。ひまわり教室にも参加し、中国語での母語支援をしています。レイチェルさんとは友人で、今回、日本に来られるということで、このGlobal Sessionのゲストをお願いしました。

H・Mさん:Z・Yさんといっしょに、ひまわり教室やGlobal Sessionには何回か参加しました。今回は、半年ぶりの参加です。アーミッシュの映画をハリソン・フォードの映画として見た事があります。それで話がしたいなと思って参加しました。

児嶋:先ほど亀田さんに紹介していただきましたが、Global Sessionを私が交流活動センターで仕事をしているころから始めて、退職後は、私のOffice Com Juntoの主宰として継続しています。最近は、参加者が「高齢で・・」とか言われるのですが、「高齢」って何歳から?とか思ってしまいます。多分私も高齢なので。

亀田さん:ヒロと呼んでくださいね。大津市からいつも来ています。亀岡は、緑が多く、冬は寒くて夏は暑いのですが、自然がいっぱいでとてもいい街です。水もおいしいし、亀岡牛もありますね。ツアーコンダクターですが、コロナ禍で、2、3年は人が来ない日が続き、今も円安で、日本人はあまり外国に出ません。個人的にはヨーロッパより東南アジアが好きで、チベットや、ウイグル、タクラマカン砂漠やモンゴル、中国では雲南省などに行きました。タイやミャンマーでは小数民族の村も行き、カンボジアでは、子どもたちの学校訪問もしました。

国内では、個人的な英語でのガイドもしています。10数年間、アメリカ、シアトルのハイスクールの生徒達が日本旅行をする手配をして来ました。ホームステイや北海道への旅もしました。今は、日本からアメリカに行くのはOKですが、来年くらいは、日本が外国の学校からの旅行の受け入れを出してくれないかなと思っていますが。

グローバル・セッション開始

では、レイチェルさんお願いします。

レイチェルさん:自己紹介から始めます。日本は今3連休ですが、ゆっくりしたいでしょうに、このGSに参加していただき、ありがとうございます。

レイチェル・クラークは、米国籍ですが、実は日本生まれで、新潟県出身です。

アテネ、フランスで、フランス語を学んでいたのですが、結婚後アメリカに行きました。通勤はニュージャージー州から始発のバスに乗って行くのですが、あの頃はまだアジア系は少なくて終点のマンハッタンまではせいぜい、3、4人でした。その少ないアジア系の人がとなりに座ると「中国人?」「韓国人?」と聞いてきて「日本人」と答えると、笑顔が消えるのです。

このようなことが続き、「日本の戦後の歴史を知らなかったこと」に気付きました。小・中・高校では、歴史を学びますが、戦後については、「時間がないから自分でやってね」などと言われ、ほとんど学んで来なかったと思います。今思えば、「 学ぶことをさせない」ためではなかったかと思うのです。

日本の学校では毎日英語を教えますが、あの、ちっとも身につかない英語教育は、きっと歴史を学ばせないためにあるのでしょう。父の弟は陸軍中野学校の出身で、4カ国語が話せました。ですから、少なくとも戦中までは、海外体験の無い日本人でも数ヶ月で外国語をマスターできるような教授方があったはずなんです。なのに戦後にその教育方が全く活用されていないのです。でも、その「役に立たない英語教育」のおかげで日本の優秀な人材が海外に流出せず、国内発展に寄与したことも否めません。

アメリカの大学で受講した日本の歴史はおもしろかったです。日本の古代から現代までの概要を最初のクラスで30分で教えてもらいました。日本では触れることのなかった第二次世界大戦以降の歴史も学び、これではお隣の国々に好かれる理由が無いと、思いました。

アメリカでは主婦をしていて、元夫が東京に3年間転勤になり、私はアメリカ人として祖国に行き、悪名高い入国管理局にも行きました。そこでは、私たちの前にフィリピン人と思しき女性が二人質問を受けていましたが、非常に上から目線で、後ろで聞いていてとても気持ち悪かったです。私たちの番になり、白人の元夫に接する係官の人の手のひら返しの態度に、さらに気持ち悪くなりました。

子どもは1990年から3年間くらい、日本の幼稚園に行きました。ハーフの娘がいると、「お母さん、日本語上手ですね」とか、言われて。当時は核家族で、幼稚園児のママになると、母親同士の人間関係が難しかったです。

自分の子供時代は、テレビも勧善懲悪ばかりで、水戸黄門やウルトラマンのような最後の3分で必ず勝つ・巨人の星も男の子が主人公でした。女の子の番組は、いつもライバル同士の歪み合いのような作品が殆どでした。アタックナンバーワンとか、サインはブイとか。(だから、バブル時代に若い女性もサラリーマンとして職場に切望されていた頃に、「セーラームーン」のような女の子がヒーローになる作品が出てきたのは、時代と呼応しているのかな、と言いたかったのですが、ここまで言及しなかったような。。。)

子どもの手がかからなくなると仕事を始めました。2010年の国連の核不拡散条約再検討会議に、生協のメンバーを含む被爆者団体総勢150名の訪米団のために、急にボランティア通訳が沢山必要となり、3日間会社を休んで初めて通訳をしました。

一番最初のお仕事は、ニュージーランドの国連大使と被爆者代表の間での通訳でした。できはどうだったかわかりませんが、単にAさんの言うことをBさんに伝えるだけでなく、社会的意義のある類の通訳のお仕事に強く興味を惹かれました。

2011年3月11日に東北で大地震があり、福島原発事故が起きました。当時、自衛隊の仕事ぶりが高く評価され、入隊者が激増しました。米国の9.11直後に米軍志願者が殺到したのと全く同じシナリオでした。その後の展開も、まるで教科書のように、9.11の後と同じでした。復興支援と言いながら、企業を助けるような政策が多く導入され、被災者・被曝者は今も冷遇されています。

その後、ニューヨークでは核についての学習会が盛んになりましたが、NGOの多くは予算がないので、ボランティアの通訳を探していて、私はしょっちゅう駆り出されて、それがトレーニングになりました。

2012年には、会社をやめて通訳になりました。同年2月末から3月にかけて国連の婦人会議(UNCSW)があり、私のクライアントのひとりが福島出身でした。昼は国連で通訳し、夜は東北大震災の1周忌・追悼イベントに行くというような毎日でした。 国や大企業がスポンサーのイベントでは、私のクライアントはスピーチをさせてもらえず、環境保護団体や、反核団体のイベントでは大歓迎されました。彼女の原稿には、「国の責任」や「東電の責任」を問う部分があったからです。

そんなイベントで、必ずと言っていいほど、ピースボートの米国支部のディレクターとよく顔を合わせ、親しくなるうちに、ピースボートのボランティアスタッフになりました。この団体は、国連の諮問資格のあるNGOで、国連会議に数多く出席しました。

実際に初めてピースボートに洋上通訳として乗船した時に、Z・Yさんとお会いして、ご一緒に北半球を一周をしたのです。その後南回りにも乗りました。北回りは搾取する側、南半球の旅は搾取される側の国々への訪問です。

全部で6回のピースボートと、他の海外客船でのお仕事で、55~60カ国ほど回るなかで、大学(国際学専攻)で学んだことと現実とのギャップがあることを知りました。

2020年のパンデミック騒ぎの直前までに、やりたかったことをやりきった満足感を得ることができました。スペイン語学習のために、グアテマラやコスタリカ、パナマなどを訪ねて、世界中のバックパッカーたちとお友達になりました。中米には、危険だと言われる国々がありますが、若いヨーロッパの女性たちが平気で中米を旅していました。米国人には見せたくない歴史の汚点があるからのようです。ここでもしっかりと歴史を学ぶ必要があると思いました。

帰国後3月には駆け足でモントリオールに行って友人と合流し、翌日米国側に戻った直後に、カナダとアメリカの国境がパンデミックのために封鎖されました。暗い日々が始まった頃、ワシントンDCにあるアメリカン大学のデイビッド・バイン教授を中心に、グローバルアピールを書こうと19カ国の代表者が集まり、私も招待されて約60人の仲間とズーム会議に何度も参加しました。

コロナ禍前は対面式会議が中心でしたが、この頃からオンラインでどこに居てもできるということを学びました。 元々ハイキングや山歩きが大好きだったので、ネットにアクセスできる「ど田舎」に住もうと決心し、4月の中頃から毎週のように片道7〜8時間かけてカナダの国境近くのNY州北部に棲家を求めてロードトリップをしました。9回目の旅で見つけたのが現在住んでいるアディロンダック国立公園の北の端にある山小屋です。

この辺りにはアーミッシュの人たちが沢山住んでいます。「バギー」と呼ばれる馬車で移動する彼らは、ゴムのついたタイヤは使いません。農作業が主な仕事ですが、他に大工、左官、水道工事、電気技師、キャビネット作り、雑貨屋など、様々な職業を営んでいます。(電気も水道も使わないのに仕事はできるんです!)普段着も正装も全て(足踏みミシンの)手製です。家の改装は、アーミッシュの大工さんにお願いしたので、馬車で通勤してました。この辺りのアーミッシュの人は写真や身分証明のようなものを持たず、クレジットカードも持ちませんので、常に現金を使います。

この北国では、春、夏、秋は2ヶ月ずつで丸っと半年冬です。長い冬の間に夏に売るものを作ります。店には、パン屋さんや、クラフトショップがあり、バスケットや鍋敷きなども売っています。樹液を24時間煮詰めて作るメープルシロップなどもあります。
 

(写真を見て)「これは何でしょう?」18インチの厚さの発砲スチロールの壁でできた部屋で、氷を入れて使う冷蔵庫です。この中に大きな氷をいっぱい入れて、空いたスペースに食べ物を置きます。夏まで氷があるそうです。停電しても全く影響ありませんね。

父親が成人する息子(21才)に送る物としては、ライティングビューローがあり、女の子には、ドレッサーやたんすがあるようです。大人になり独立できるというの は、自分の責任でクリスチャンになることだそうです。

アーミッシュというのは、非暴力のキリスト教徒で、プロテスタントですが、歴史的に平和教会と分類される宗派の一つです。

ここでちょっとプロテスタントが生まれた歴史をお話しますね。十字軍の遠征が地中海貿易の繁栄とカトリック(ローマ帝国)の拡大をもたらした結果、ローマの腐敗が始まりました。

メディチ家出身の教皇レオ10世は、大聖堂のフレスコ画を完成させるため、レオナルド・ダ・ビンチを雇い、多額の借金をしました。その返済のために、托鉢の坊さんティッツェルをドイツ語を話す地域に免罪符を売りに行かせます。元々免罪符というものは、十字軍に持たせたものです。軍人として人を殺すことは、聖書の教えに叛くことになりますが、それを許すためのものでした。 ティッツェルは、「いくら払うとこの罪が消え、もっと払うとこんな罪も消える」と言って免罪符を売り歩き、ローマの腐敗ぶりにうんざりしていたマーチン・ルーサー(マルティン・ルター)の怒りを買います。

16世紀のヨーロッパには、中国から印刷技術が伝わっており、彼は聖書をドイツ語に翻訳し、ローマの腐敗を訴える「95ヶ条の論題」は各国後に翻訳されて、ヨーロッパ中に広まりました。

彼がローマに呼ばれても行かなかったのは、80年ほど遡って、チェコのジョン・ハスという神学者が、ローマの腐敗を問い、ローマに呼ばれ、素直に従ったために破門された上火炙りの刑に処せられた前例があったからです。破門されたルーサーは、自分でプロテスタントを始めました。

カトリックにおいては、神父が神と信徒の間で権威を持ちますが、プロテスタントでは、神との直接の関係を重視するため、全ての信徒が聖書を読めるように読み書きを学びます。ですから、16世紀から識字率が上がり、女流文学が登場するのもこの頃です。プロテスタントの一派、歴史的平和教会派は、聖書を尊重し、決して戦に加わりません。その中で、アナバプティストと呼ばれる一派は、生後直ぐの洗礼を行わず、21歳になって成人してから、自分の意志で神との直接の繋がりを尊重するクリスチャンになるために洗礼をうける人たちです。

アナバプティストからメノナイトが分離し、メノナイトからアーミッシュが分派しました。

1632年のドルトレヒト信仰告白で成文化された信仰に同意し、16世紀に書かれたアカプラ讃美歌を歌うこの人たちは、バギーで移動し、ドイツ語起源のある種の方言を話し、神学教育を受けない一般人が教会の責任者です。「教会」という建物はなく、グループの人の家を順番に使って、隔週の日曜日にミサを行います。各コミュニティは、同一 の服装、ヘアスタイルです。

S・Fさん:学校は?

レイチェルさん:うちの近くの学校は、アーミッシュのお嬢さんが一人で8~14才まで教えます。一般の学校には行きません(が、公立校用の地方税は払います)。14才以降は独学で本を読んで勉強します。夕食後、テレビもラジオもない家庭では、読書が当たり前。子どもたちの夏休みは農業の手伝いもするので、長いです。くらしの中では、電気もなく、水道もないので、本を読むときには、ランプの光で読みます。

各グループごとに異なる細かい決まり事があります。官僚的要素はいっさいありません。

戦に行かない代わりに奉仕活動を望んだため、ヨーロッパでは、80年間に2500人が殉教しました。支配者は彼らに転々と引っ越しを強要し、荒れ地を開拓させた歴史がありました。

M・Oさん:どうしてアメリカへ?

レイチェルさん:1730年~1770年代には、信教の自由を求めて500人(第一波)が、1816年~1860年代に、1500人(第二波)がアメリカに移住しました。元々当時はまだ電気が発明されてなく、発明されて普及しても、彼らは使わない選択をしました。現在も電気もガスも水道も車も使わない生活をしています。

全米にいますが、特にペンシルバニア州、オハイオ州、ミシガン州、ミズーリ州、ケンタッキー州などが多いです。最近ニューヨーク州の北部で急増しています。

水や土地の質が良い上に、後継者不足の農家さんが安く土地を売りに出すケースが多いので、引っ越してくる人が増えてきているようです。オハイオ州やケンタッキー州からこちらに引っ越してくる人が多いです。

亀田さん:アーミッシュは、それでも共生するのですか?

レイチェルさん:ヨーロッパでとことん排斥されたので、政府や権威を嫌います。政府嫌いはDNAに染み付いてるみたいです。日本では中国やロシアが独裁だとの批判を多く耳にしますが、アメリカも民主・共和党という二つの0.5大政党が一緒になって一党独裁です。二大政党制とは、表向きだけなんです。私は決して、バイデンもトランプも支持しませんが、トランプ支持者の多いこの土地に住んでみて、都会に住んでいた頃に抱いていたトランプのステレオタイプは、メディアが作ったと言えます。金持ち優遇政策だとすり込まれていましたが、実際農家さんや商店経営者も含めた中小の事業主が彼の税制改革で減税の恩恵を受けていました。

アーミッシュの写真から:牛や馬の方が、人間より多いです。薪を焚いてくらしています。

薪ストーブ一台で、暖房・煮炊き・給湯・ごみ焼却・洗濯物の乾燥・アイロンの6役をこなしますので、それぞれの機能ごとにエネルギーを使う暮らしの方が非効率的に見えます。私は彼らの暮らしぶりを見習って人間らしさを取り戻したいと願っています。

亀田さん:質問は?

M・Sさん:アーミッシュは、血のつながりの部族と思っていました。ここで生活したい人が入り、出たい人は出るのですね。

レイチェルさん:グループによりますが、うちの周りのアーミッシュは、出たい人は出てますし、出た後も家族との交流は普通にやっています。電気や動力が発明される前は、アーミッシュもそうでない人たちも同じ暮らし方だったので、ヨーロッパからやってきたアーミッシュに加わる人もいたそうです。

死ぬまで一生予防接種もしませんし、注射というものを一切しません。コロナ禍でも普通に学校に通って、真冬の吹雪の中でも外で走り回って遊んでいました。

児嶋:ジェンダーの役割が決まっているようですが、抵抗はないのでしょうか?

レイチェルさん:ジェンダーの問題は、簡単ではないですが、あまり問題にはなっていません。

M・Oさん:国連でも、アメリカは戦勝国であり、日本は何も言えなかったはずです。

レイチェルさん:デジタル社会になり、いろいろな統計が取りやすくなりましたね。世界中でネットに載っている情報を100とした場合、それぞれの言語がどれくらい使われているかというと、英語が56%、ヨーロッパ言語がそれに続きますが、日本語は、2.4~4%くらいです。その狭い幅の中の9割以上が国内関連の記事ですよね。国際ニュースなんてほんのちょっとだけです。このような現状では簡単にコントロールされてしまいますね。知られたくないニュースは翻訳せずに、日本人にはこう思って欲しいというニュースだけ和訳すればいいのですから。

M・Oさん:日本はメディアコントロールしやすい国と言われています。

亀田さん:国連の会議でも河野太郎さんは、日本語でした。

M・Oさん:自然と共生する知恵は日本にはありますが、若者に目覚めてほしいですね。伝統も守るように。

レイチェルさん:今回のツアーで広島や長崎で資料館も見学し、歴史改ざんが進んでいることを発見しました。長崎の資料館の年表では、1945年の1月に天皇が降伏の用意があることを示し、それを連合国側が拒否したと書かれていたのを記憶していますが、今回行ったら、その部分の表記がありませんでした。アメリカ政府は、情報を武器化していると思います。

NTIAとFCC (←この部分はもっと複雑で長いので割愛してください。来年の発表で、もっと詳しくご説明させてください)

亀田さん:時間です。今日はこれで終わります。質問の在る人はあとで自分でやってくださいね。

M・Oさんの英語での自己紹介文 :Global Session self introduction

  My name is Masakazu Otsuki, based in Kyoto yet act for globe to create something new for client, self projects now my amount of effort into Global Cooperation which I’ve learned it in the graduate school in Tokyo.

an artist, a designer, creator, producer, existing label makes me express various but I’m who I am, I do create what I want to do.

 One thing I wanted to mention you NYC is the city I used to live, which inspired me, nurtured all my creativity, sensitivity, identified national differences, realized deep cultural identity in Japanese, and diverse perspective. 

The first to live alone, the first to go abroad, and the first to eat cheap Chinese food. 

That was all NYC I had experienced. 

Never forget that day made my whole life shifted in a good way. 

It was September Eleven as two airplanes attacked the World Trade Center. 

I deeply felt how people had been affected by insecure tragedy when facing true fear, awful things, and extraordinary anxiety. 

My whole life was completely transformed into how I live my life. 

So much memory I had experienced there.
 
Mankind sometimes awake or gets awareness by these catastroph include previous Corona crisis.

People often warn now the world is dystopia.
 
But we really think so?

My sincer pleasure to hear your thoughts, global mindset, and your precious experience about how we live together in this uncertain time.

 大槻正一です、京都を拠点としてますが、世界と共に何か新しいものを作り出してます。
クライアントと共に、また自身での取り組みであるプロジェクトの場合もあります。

今は特に国際協力の分野に勢力を注いでいて、東京の大学院で学びを深めてます。

アーティスト、デザイナー、クリエーター、プロデューサー、現状様々なプロフェッショナルで僕を肩書きするものはありますが、僕は僕であり、僕が好きなものを創造するだけです。

レイチェルさんに一つ強く言及したかったのは、レイチェルさんの住むNew Yorkは僕も以前住んだ街であり、創造性を、感性を沢山感化され、日本人としての国民性の違いを確固たるものとし、日本の文化の深みを再確認し、多様な価値観を学びました。

初めて一人暮らしをした街、初めて海外を訪れた街、初めてこんなにも安い中国のご飯を食べた街、それら全て経験したのが他ならないNew Yorkという街でした。そして僕の人生を良き方向へと導いてくれた、決して忘れてはならない日があります。

それが、2001年9月11日で、2機の飛行機がワールドトレードセンターにテロを仕掛けたあの日。その時、僕は感じたのでした。人々が真の恐怖や、最悪な悲劇に、尋常じゃない不安に襲われた時の影響たるその凄まじさ。

この出来事が、僕の人生そのものをどのように生きるのか?を深く考えさせたのでした。言葉で言い尽くせないほどの思い出が色こく残っています。

 人類は、度々このような『悲劇』9.11含め、例えば先のパンデミックなどもそうですが、我々を目覚めさせる、気づきをもたらす機会となることがあります。

 人々はよく『今の世の中は反理想郷、暗黒の世界だ』と言及します。果たしてそうなのでしょうか?今の複雑な現状にあって、この一つの地球上で如何にして私たち人類が共に生きるか?

 レイチェルさん、貴方の考え、グローバルに培って来られた価値観、そして貴重な経験を伺えること、この上なき光栄に思います。