開催日:2025年5月25日(日)10:30~12:50
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:張穎さん(中国出身・外国につながる子どもの支援員)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:19名
2025年4月27日(日)第386回グローバル・セッション・レポート
開催日:2025年4月27日(日)10:30~12:50
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:山本咲さん(かめおか多文化共生センタースタッフ)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:13名
今回のタイトル:「いろいろ考えて帰ってきました」
恒例の自己紹介からスタートです。
コーディネーター(亀田さん):では、これからGlobal Sessionを始めます。
まず、自己紹介からお願いします。
E・Tさん:2024年の8月からまた、亀岡に住み始めました。JTの子会社に勤務していますが、12月から同じ職場の中で新しくなり、悪銭苦闘しています。久しぶりにGlobal Sessionに参加しました。
Z・Sさん:亀岡市の職員でしたが、期間が終わり、新しく「森の京都」で仕事を「しています。今日のゲストの山本咲さんは、トロントから日本に家族で帰国したと聞き、興味があって参加しました。トロントは、ぼくのふる里です。山本さんが、カナダに来られた時は、ぼくは、14才でしたが、日本で出会ったのは、24才でした。
R・Sさん:オフィス・コン・ジュントの主催するひまわり教室で、指導者として関わっています。外国につながる子どもの支援について関わっています。
M・Sさん:咲さんとは長い付き合いになります。日頃から話はしていますが、どんどんテリトリーを拡げて行かれているようです。亀岡に住んで思う事を聞きたいと思っています。
M・Mさん:「やさしい日本語」を広める会の会長をしています。外国につながる人々にわかりやすい日本語で伝える方法をと考えています。
M・Hさん:立命館大学院の二回生で、日本語教育の専攻です。
Y・Hさん:いつも言っていますが、仕事で亀岡を離れていて、2年前に戻って来て今は、無職です。GSでは、いろいろな話が聞けるので、おもしろいです。(9月には、ゲストをお願いしています。:児嶋)
Z・Yさん:中国出身で、外国にルーツを持つ子どもたちの教育支援員をしています。(5月のGSのゲストです。:児嶋)
N・Fさん:市役所で勤務しています。ひまわり教室で指導もしています。
児嶋:Global Sessionは、毎回言っていますが、1999年から始め、今回が386回目になります。20年以上になると思います。
亀田さん:大津市に住んでいます。滋賀県は、琵琶湖があり、湖が中心です。大津市はマンションが多く、亀岡に来ると古い家に住んでいる人も多く、とても落ち着きます。
近江八幡や、彦根、長浜なども特色がありますが。
山本さん:亀岡はいろいろな所にアクセスがいい場所と思います。
亀田さん:では、山本さんのお話しをお願いします。
山本さん:亀岡に来て3年目になります。大阪の箕面生まれです。コロナ後、2022年に夫と合流して、家を探し、亀岡にベストの家として、決めました。
Global Sessionは、亀岡に住むようになる前に、多文化センターで、四方美智子さんに進められて参加しました。
カナダも好きでしたが、いろいろ考えて日本に帰って来ました。家族は、5人家族です。
小学6年生のノアと小学1年生になったアレンと5才のミラと夫のホルネル(42才)と咲(37才)です。
山本さんの追加のレポート
「本日は大変貴重な機会を賜り、本当にありがとうございました。児嶋さん含め、皆さまが“面白い”と思っていただけたらとても嬉しいです。
グローバルセッションのような、能動的で建設的な、それぞれの意見や思いが話し合える場所が、どの機関でも当たり前になったらなぁと改めて感じました。
いろんなことを話しすぎて、うちの子供達の言語について共有するのを忘れていました(笑)
●小6のノアは小1で日本に来たので、日本語に順応するのは容易でした。一年生の漢字も他の子供達と同じように習得しました。逆に、英語を話す環境がなくなってしまったため、英語が弱くなってしまいました。英語は6歳レベルの英語しか覚えていません。家ではパパとは英語で会話をしていますが、うまく伝えられないこともたまにあるみたいです。リスニングはありますが、単語の理解もカナダ人の6歳レベルです。
現在はアカデミックな英語学習は積極的にはしていません。家では英語で映画やYouTube 動画を一緒に観たりしています。
漢字は覚えられましたが、国語の読解力や日記を書くこと、会話力は他の子より平均以下かも?と感じたことは低学年の頃よくありましたが、言葉が遅いのも長男あるあるか?と思ったりもしました。生活上、問題ないです。
名前もカタカナですし、周りから帰国子女のように見られることが嫌みたいで、英語を少し拒絶しているようにも見ていて感じます。
まずは日本語をしっかり習得してもらって、英語に興味がでてから自分の意志で勉強してくれたらと願っています。最近は、自分の産まれた国、カナダにまた行ってみたいと言い出していますので嬉しいです。友達も多く、元気な野球少年です。
●アレン(現在小1)は日本で産み、0歳から2歳くらいまでカナダにいましたが、学校や幼稚園に通っていないので、英語は家庭内でのみでした。日本語が母語です。ただ、ノアよりも語学能力に長けているように思います。これは個人差や個性かなと思っていますが、両親の英会話をしっかり聞いているので英語も理解しています。積極的には喋ろうともしています。
●ミラはカナダ生活は4ヶ月のみなのでほぼ日本の環境で育っています。英語にふれることは両親の会話くらいです。女の子なので、口が達者です。よくしゃべります。英語はあまり喋りたがりません。英語で喋りかけても日本語で返事します。
3人とも、無理に英語は教えないようにしています。いつか自分たちが両親の住んでいたカナダや、アルメニアなどに興味を持って、外国語を学びたいと思ってくれたら、その時はサポートしてあげたいと思っています。」
なぜ、カナダのトロントに?
子どものころからのあこがれ+日本の景観がきらい(電車でみる風景ばかりですが)
はやく広い世界に行きたいと思い、アメリカ文化にあこがれていました。(ただのあこがれ)ワーキングホリデイでニューヨークの上にあるトロントに行きました。
フィリピン人の家でホームステイをしていたら、アルメニア出身の男(現在の夫)が休日に遊びに来て、それが夫との初めての出会いでした。トロントはいろいろなストリートがちがう民族性を持っている町です。
カナダは、それぞれの色や形を活かしたモザイクアートで、アメリカはいろんな素材を溶かしてできたスープ(るつぼ)みたいな感じと思います。
人種のモザイク(Mosaic):いろいろな文化や民族がそれぞれの特徴を持ちながら共存する社会。カナダのトロントでは、中国系、インド系、イタリア系など、それぞれの文化が残ったまま暮らしている。
人種のるつぼ(Melting Pot):いろいろな文化や民族が混ざり合い、一つの「アメリカ文化」に統合される社会。ニューヨークでは、移民もアメリカ流の生活になじみ、英語を話し、アメリカ文化を受け継ぐ。
人種のるつぼの由来:英国のユダヤ系作家:イズレイル・ザングウイルが20世紀初頭に発表した戯曲「メルティング・ポット(るつぼ)より
るつぼ:何種類もの金属を溶かし、一つの合金とするための道具のこと
なぜ、今日のテーマ「いろいろ考えて帰って来ました」にしたのか:
私は、大阪に生まれ、6年~7年バーテンダーをしていました。いじめられたこともあり、人間不信にもなりました。そこには、外国人も来て、英語で話すこともあり、早く海外に行きたいと思うようになりました。ワーキングホリデイでカナダに行き、3ヶ月ほどESLで英語を学びました。アルメニア人の夫と出会い、結婚をして、母親になりました。
夫はカナダの市民権を持ち、私はカナダの永住権を取得しました。その後、カナダの移民のための英語学校LINCに通い、英語をしっかり学び、人生で一番楽しい学校生活だったと思います。その後、留学サポートの仕事やパソコンを使っての仕事などもしました。
カナダの主要な移民プログラムは、言語能力(英語または、仏語)が重要な専攻基準の一つで、言語教育が移民政策の中心である。
カナダ:言語支援:ESL(英語支援)クラスが制度化
教員体制:ESL資格を持つ教員が常駐
法的枠組み:教育機関に提供義務あり
日本:言語支援は、一部学校が自主的に対応
教員体制は、専門教員の不足:自治体によって格差がある
法的枠組みは、努力義務レベル
カナダの多文化主義
カナダは人口が少ないので、移民を受け入れないと成り立たない移民国家であり、文化的多様性を前提としている。1971年に多文化主義政策(Multiculturalism policy)を国の政策として採用。人種・宗教・言語などのちがいを尊重する。
例:*移民が、母国の言語・文化を守りながら暮らせる社会をめざす
*州や市の公式文書が多言語対応(中国語・ロシア語・ペルシャ語など)
*学校で、宗教に配慮したメニューや休暇をとり入れる(ラマダン・ヒジャブなど)
日本は、単一民族国家としての意識が強い。それは、外国人が少数派で、特別扱いをされやすい。そのため、外国人の「受け入れ」に課題がある。最近は、外国人労働者や留学生が増加し、じわじわ変化中。「日本的なやり方」に同化を求める傾向がある。事実上、移民は多くなっているが、移民政策は不安定(技能実習制度や特定技能)。多文化主義の認識が不足している。また、支援の地域的かたよりがある。
例:*外国人のための相談窓口の設立(かめおか多文化共生センターなど)
*小学校や中学校での日本語指導支援(亀岡市・京都市など)があるが、多くは、非常勤やボランティアに頼っている。日本語が不自由なまま、通常授業に入ることになり、教科の学力が見につかないケースが多い。また、年令が高くなるほど「学び直し」が困難になる。そのため、言語能力が原因で進学をあきらめる生徒もいる。
*「やさしい日本語」の会などの指導(亀岡市役所などで市職員の指導のも)
教育・子育てのちがい
カナダ:自由な発想や多文化的理解が大切 個性・多様性を重要視する。そのため、個性や自己表現を尊重する。そのため、能動的な学びとして生徒が主体的に参加する授業を重視する。対話型で、質問やディスカッションを重視(Show and Tell)
考える力を育み、問題の本質を見抜く思考法として、Critical Thinking(批判的思考)が重視される。アインシュタインは、「常識とは、18才までに身に付けた先入観のコレクションである」と言い、うのみにしないで多角的に考える力が大切とする。
PTA活動は、アメリカ発祥だが、カナダにもあり、親は積極的で、ボランティア精神が根付いている。
清掃は、清掃員がする。トイレはきれいではない。ランチタイムは子どもが弁当を持って来て、子どもだけで食べ、教師はいない。
日本:知識の習得と協調性が求められる。(子どもが掃除)(給食を教師と共に)
集団の中で調和を保つ力が求められ、礼儀や秩序を大切にする。学び方は、受動的で、靜かに聞くことを求められる。
PTA活動は、会議は形式的。トイレはきれい。
Y・Hさん:カナダでは、「Critical Thinking(批判的思考)が重視される。」と言われているようですが、日本では、「批判的」という言葉のイメージから、あまり適切ではないと思われていると思いますが。
医療制度
山本さん:実は、日本の医療制度で息子が助かったことがありました。カナダではファミリードクター制度があり、予約する必要があり、時間がかかり、不便でもある。2才の時に帰国した時、それ以前から、腹痛と熱が続いていたが、なかなか見てもらえなかったが、日本では、小児科で診察後、すぐさま総合病院を紹介され、隠れた病気について、それぞれの医師たちが真摯に対応してくれて、結果、日本で無事に手術して成功しました。
カナダでは出産後、1日で退院しなければならないので、Midwife(助産師)制度があり、産後1~2日目に自宅を訪問するケア制度があります。とても助かったし、ミッドワイフの活動に母としてすごくあこがれもしました。でも、日本の贅沢な入院生活に憧れて、2人目は日本で出産しました。
仕事と働き方のちがい
カナダ:仕事が厳密に分業、専門化されている。(専門家に責任を振り分け、働きやすさを重視する。(「担当ではない」という責任の明確化
例:カナダのカスタマーサービスに電話する→「その件は、別の部署です。」→それは、別ですね。→待たされ、折り返す。または、やっと解決
サービス・ホスピタリティ
カナダ:「対話と公平さ」を大切にする文化。フレンドリーな接客など。
チップ制度:南北戦争後の奴隷解放宣言後に広まった。“感謝”だけでなく、“構造的な不平等”の影もある。
*人種差別や搾取の歴史的背景が全くないとは言えない。
*アメリカでチップ制度が根付いた背景には、奴隷解放後の黒人労働者たちへの待遇が深く関係している?
*雇用者側が「正規の賃金を支払わずに済む」仕組みとして利用された側面も。
日本:おもてなし文化は、「見えない心配り」に重きを置く文化。
千利休:「おもてなし」=「表なし」説
表裏のない心で、表面的ではなく本心で相手を気遣う
聖徳太子:「和をもって尊しとなす」
「もって」「なす」の文字が「もてなす」という言葉に発展した
見返りを求めない心・気づかれない気遣い:サービスの在り方がカナダ流と根本的にちがうと思います。
日本文化を形づくった3つの思想の融合(日本独特の精神文化)
神道:自然や目に見えないものへの畏敬
「清め」や「調和」「礼儀」を大切にする
周囲と調和して生きる心
仏教:苦しみを乗り越える智慧と、他者への思いやり(利他の精神)
無情や内省を重んじる
静けさ・控えめさ・慈悲の心
儒教:親子関係、師弟関係など上下関係や礼節を重視
勤勉・忠誠・礼儀という価値観
道徳と秩序ある社会を理想とする
トロントは、都会だけれど、どこでも簡単に行ける街で、住宅街は木が多く、歩き回るのも楽しいです。公園も多く、子どもと大人が楽しめる街。冬には、学校の校庭が雪だるまだらけになります。移民の学校も充実していて、いろんな国から来た人たちとディスカッションができ、日本人として、日本を知らなければと思いました。カナダに移民として来た人たちは、祖国は好きだけど、政治的不安などが現任で住めなかったので、自由な国のカナダに移民として住むことができて、嬉しいと言っていました。私は日本人としてカナダに住み、海外から日本を俯瞰し、自分を見つめ直す機会になりました。
カナダに移民として住むには、英語力は必要不可欠です。そのため、移民のための政策の中心は言語教育です。
亀田さん:質問の時間です。だいぶん、時間が経ちましたが、どうぞ。
M・Sさん:山本咲さんの講座は、よく分析され、まとまっていますね。プレゼンテーション能力が高いです。カナダの良さも日本の良さもわかります。その中で、帰国して「こんなはずじゃなかった」という部分もあるのではないですか?
私は、外国に住んで、日本に帰国したとき、単一民族の日本がせまくるしく感じられ、苦しかった時期がありました。このGlobal Sessionはちがいますが。
山本さん:カナダから日本に帰国したとき、日本の空港の清掃員の掃除の仕方を見て感動しました。日本では、それぞれの仕事に対する誇りを感じます。渡航前は病弱でもあり日本がいやで、抜け出したいと思っていました。大阪では、煙草を吸っていましたが、カナダではきっぱりやめました。帰国した日本は美しかったです。
M・Sさん:私が、苦しんで居たとき、「Global Sessionに来たら」と児嶋さんに言われ、参加するようになりました。日本だけど、日本ではないような場ですから。
E・Tさん:ここが、外国に近い感覚というのは、わかりますね。
山本さん:私は、日本は個性を殺す教育をしていたと思っていました。戦後、平均をつくる教育指導だったと訊いたことがあります。他の国はそれでは、成長しないので個性を尊重すると。最近は不登校の子がいても、フリースクールも増加していますね。カナダから帰国して数年経ちまので、確かに、自分のことしか考えない、世の中に無関心な日本人も見えて、縦割り社会だと思います。
Y・Hさん:世界の中で、自分の国に対してリスペクトが高い国とそうでない国もあります。第2次大戦後、自分の国にほこりを持てず、日本がきらいという人も増えたのです。けれど、日本のことを外国の人からよく聴かれます。小学生から、日本の歴史を学び直した方がいいと思います。日本語をしっかり勉強させるべきです。
山本さん:日本での方法で英語教育をしても伸びないと思います。
M・Mさん:外国の方を移民として受け入れるために、薬剤師のための「やさしい日本語」のビデオを造りました。保険証を造ったりすることもわからず、簡単に脱落する外国人の方もいますから。
Z・Sさん:外国人が多くなり、社会的に、外国人に対する視点がきびしくなっています。カナダでは、1970年に多文化主義を法的にとり入れてから、ずっと平和を維持しています。
M・Mさん:最近は、なんでもネットでしらべるだけで、偏見ももったままでいる若者も多いです。
山本さん:なんでもネットで調べられるから、いろいろ知っている若者は多いが、「選挙に行かないのはなぜ?」とか、10代や20代の人に「あなたは日本が好きですか?」と聞きたい。
Z・Sさん:日本人として日本の国についてもっと学んだ方がいいと思います。選挙の学習も。
R・Sさん:18才から選挙権がありますが、今は、中学生から選挙制度を学習します。高校では模擬選挙もやっているようです。
Y・Hさん:多文化共生という言葉の響きは、いいですね。だけど、まずは、日本人が日本のアイデンティティを確立する必要がある。多文化共生は二の次だと思います。
E・Tさん:それも態度で示す必要があるでしょうね。
山本さん:となりのひとに興味を持ってほしいですね。
Y・Hさん:英会話もいいけれど、まずは、日本語をしつかり学ぶ必要がある。日本のことをよく知ってはじめて会話ができると思います。
亀田さん:日本のことを聞かれて答えられる日本人を育てていく必要があるでしょう。
Y・Hさん:中学校から10何年も「英語のでこぼこ道」をあるいて来ました。ぺらぺら話す必要はないので、何を話しているのかに注目していきたいですね。
亀田さん:今日は、この辺で終わりましょう。
2025年3月29日(日)第385回グローバル・セッション・レポート
開催日:2025年3月29日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室&オンライン
ゲストスピーカー:濱田雅子さん(元武庫川女子大学教授、アメリカ服飾社会史研究会 会長)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:8名
主催:オフィス・コン・ジュント&亀岡国際交流協会
共催:アメリカ服飾社会史研究会
今回のタイトル:「1940年代のアメリカ服飾史―第二次世界大戦がファッションに与えた影響―」
セッション終了後のレポート
2024年11月23日(日)第381回グローバル・セッション・レポート
開催日:2024年11月23日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:張穎さん(中国出身・日本語教師・母語支援員・ひまわり指導者)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:19名
今回のタイトル:「言語の壁とは?」
自己紹介
亀田さん(コーディネーター):では、簡単に自己紹介をお願いします。
E・Tさん:8月に亀岡市民に戻ってきました。12月から新しい仕事につきます。このGlobal Sessionに来始めてから、10年目になります。
S・Fさん:日本語ボランティア養成講座を取り、日本語教室で教えています。今は中国語を学習しています。
R・Sさん:ひまわり教室で指導をしています。
T・Dさん:ブラジル出身で、2年半に西京極に来て、今は翻訳などをしています。
Rさん:マレーシア出身で日本語学校の学生です。
H・Mさん:木綿屋をやっています。本町に住み、もめん染める仕事です。
K・Nさん:保津町に住み、村おこしなどに励んでいます。
Y・Nさん:元教員で、ひまわり教室の指導者です。教員の時には、子どもたちが本当に理解できたかどうかが気になっていました。
M・Yさん:元中学校教員で、ひまわり教室の指導者をして、若さをもらっています。
Y・Hさん:今は無職ですが、仕事で外国も行ったことがあります。
W・Lさん:中国人で18年前に日本に来ました。今は、日本で仕事をしていて、千代川小学校にいる子どもがいて、5年生です。
H・Mさん:日本語教師をしています。
K・Tさん :馬路町に住んでいて、映画の脚本などを書いています。
K・Hさん: 地域活性のための仕事をしています。
N・Fさん:篠町に住んでいて、市役所職員です。
M・Tさん:京都市に住んでいます。大学の教員をしていました。
児嶋: このGlobal Sessionは、私が亀岡交流活動センターに勤務していた1999年から開始し、退職後は、オフィス・コン・ジュントとして引き継ぎ、月に1回のペースで継続し、今回は381回目になります。20年以上やっていることになりますね。
亀田さん:みなさん、ありがとうございます。私は大津市に住んでいて、今回の『言語の壁って?』というタイトルがいいですね。張穎さんは、学校で、子どもに教えながら、親との対話も必要で、難しいなかでのコミュニケーションの取り方を考えていく方法について語ってもらえると思います。
グローバル・セッションスタート
亀田さん:では、張穎さん、お願いします。
張穎さん:亀岡で海外にルーツを持つ子どもたちの教育支援をしています。今日のお話は『言語の壁って』としましたが、どういうことだと思いますか?
少子化、産業の衰退といった問題は日本で起こる深刻な問題です。少子化の影響は経済的影響と社会的影響としては労働人口の減少とともに、労働力が足りなくなる。そのため、日本政府は少子高齢化による国内の人材不足を解消するために、外国人労働者を受け入れるためのさまざまな制度を創設してきました。
日本で働く外国人の増加に伴い、海外にルーツを持つ子供たちが急増しています。日本語学習や学校での勉強に苦戦する子は多く、不登校や退学につながるケースが目立ちます。
「海外にルーツを持つ子ども」とは?
両親または、親のどちらか一方が、外国人である子ども」のことを表します。外国籍の子どもたちはもちろん、日本国籍(または日本と外国の二重国籍)を持つ、いわゆる「ハーフ」の子どもたちに加え、難民2世など、何らかの理由により無国籍状態にある子どもたちを指す言葉です。
この中には、来日したばかりという子どもも、日本で生まれ育ち、日本以外の国には(まだ)行ったことがないという子どもも含まれます。場合によっては、日本人家庭に生まれた日本語母語話者の子ども、海外での生活経験を持つ「帰国子女」も含まれることがあります。
海外にルーツを持つ子どもの現状や課題は、まず日本語がわからなくて大変だと思います。来日したばかりで日本の学校に転入し、日本語がわからず友だちが作れず孤立し、学校の勉強についていけなくて、困っている姿がよく見られます。海外ルーツの子、増えているのに…
授業が理解できず、不登校や退学の子も・・・
言語の壁はどこから出てくるのでしょう?
コミュニケーションにおける言語的な障壁、すなわち、元々異なる言語(場合によっては方言さえも)を話す人々やグループが経験するコミュニケーションの難しさ
第二言語能力の不足から偏見、孤立、差別に直面することが多いです。それが心理的な問題を引き起こす言語の壁。
言語の壁は、生徒にとって最大の問題の一つとなっている。
無力感や過剰なストレスなど、言語の壁、教室の雰囲気を読むこと、教員と生徒の関係の難しさの問題。第二言語に対する不安、教育的ストレス要因、社会文化的ストレス要因が、課題として挙げられている。さらに、生徒は社会的孤立、偏見、差別を経験する可能性も高い。
現状と課題について
- 日本語がわからない子ども:全く日本語がわからない子が日本の学校に転入して来ました。もちろん、日本文化(生活の仕方、コミュニケーションの取り方、給食)なども知らない子どもたちです。→いじめや偏見を持って見られることもある。
- 支援の先生:亀岡市内でもいろいろな学校に入っています。
どういう支援か?
- 通訳( 例:算数の時間に比例をやっています。通訳しても理解できない→ついて行けないケースもあります。)
- 支援者が何でも教えられるわけではない。(中学校では、体育、保健など)各教科に対して、支援者も事前の準備が必要
- 子どもの数に対して、支援者の数が十分ではない。どの子にも毎時間支援者がついているわけではない。(週に2日だけ来てくれる支援者のみの子どもも)
- コミュニケーションの問題:
*中間休みになるとひとりでいる→不登校(かぜをひいたと言って登校しない)
*保護者が日本語ができない場合:家庭との連携もうまくいかないケースもある。
*保護者と連絡がとれても、家で泣いていて、理由を言わないケースも。
無力感が高まり、ストレスとなる(子どもも保護者も支援員も)→ 集中できなくなる(通訳して教えても、聞けない状態)
他の子ども達:気になる子もいて、じっと見ている子もいる。
- 他の子ども達:異文化の理解ができるような学校全体の指導が必要である。
現在、日本には、外国人登録者数は、310万人:全人口の3%である。
*ことなる文化の受け入れの教育が重要である。
共に暮らしていくために、どうしたらコミュニケーションが取れるのか?
学校や、地域全体で考える体制を取ってほしい。(共に考えるという体制)
課題
- 外国語を身に付ける。
中国では、高校生になると、いろいろな外国語を選んで学ぶ体制がある。
(英語、日本語、ロシア語などさまざまな言語を選ぶ)
- 積極的にコミュニケーションを取るシステム作り(教室に30人いて、外国人ひとりいる場合、いっしょにゲームなどしながら、話しかけるプログラムをとり入れる。
- 異文化の学習:生活習慣について
(ゴミの分別をしない国もある。日本で当たり前が通用しない場合は、知らせる必要がある。)
技能実習生受け入れの体制:現在も日本語を学ばずに来て、5年間で帰国させる。
それ以上の資格を取るためには、日本語のN4かN5の日本語能力が必要という条件がある(法律上)
- 日本人が外国人に対して偏見を持たないことが望まれる。外国人も住みやすいまちづくり(交流事業、多言語や多文化のイベントなど)
- 外国人の立場の声を聞く
*ことばの壁で、日本社会からの偏見や誤解をされやすい。
*仕事が不安定な場合もある。(相談窓口を知らせる必要がある)
ことばの壁を乗り越える:
- ことばの壁を互いに乗り越える。
支援教員の派遣:どのような効果があるか?
子どもが進歩しているか?
支援者の方の状況:支援者も疲れている。
- 多言語を身に付ける
- 日本語を最初に重点的に学ぶ日本語教室の開講(子どもに)
転入して1ヶ月~3ヶ月(重点的に日本語を日本語教室で学び、各学校に転入する)(宇治市、京都市の例も)
- 多様性のある日本語教室とは?
大人用:職業訓練
幼児:多言語でのあそび(絵をとり入れたカードなどで)
小・中学生:必要な学習ことばの学習
漢字:よみがなをつける・英語や必要な言語の訳も
親に対して日本文化を教える。
将来、日本社会に貢献できる他民族人材育成は大切なことだと思います。
亀田さん(コーディネーター):では、みなさん、お話しがあれば、どうぞ。
T・Dさん:数え切れないほど課題がありますが、2、3件だけお願いします。日本に来てから日本語を身に付けるのは大変ですが、私は、11年間ブラジルで日本語を勉強していたので、自分では文化の違いは、あまり感じなかったです。
でも、自分では常識でないところが、常識であったり、誤解したままだと、エスカレートして大変になると思います。どの年齢の方にも、子どもにも「外国人にやさしい街」を作ることが必要だと思います。張穎さんの今日のテーマの「言語の壁」というタイトルがいいですね。表情の出し方で壁もありますから。
例えば、手のマークで「私は天才です。」というのはありますが、このマークは日本人はわからないのですが、他国の人はたいていわかります。これは、実は皮肉であって、「私は天才ではないよ」と言う意味ですが、知らない日本人の多くは、「いばっているな。こいつ」などと取ってしまいます。
児嶋: T・Dさんの今の話を聞いていて、思ったのは、このような事を言う場が、外国から来た人には、あまりないのではないかと思いました。
T・Dさん:そうです。このように取られた外国人は、だいたい、わかってもらえないと思って愚痴ばかり言い合うようになるのです。このようなGSのような場所を作ることが必要なのだと思います。
M・Tさん:外国につながる子どもたちの声をもっと聞いてほしいし、聞く必要があると思います。私たちの娘はアメリカで生まれ、今はアメリカで小学校の先生をしています。おべんとうに、最初はおにぎりを持たせたのですが、娘は「持って行きたくない」というのです。「なぜか」と聞くと、「日本文化はどうでもいい。まわりと同じように見えるようになりたい。」と言うのです。ティーンエイジまでつづきました。
T・Dさん:周囲の意見が子どもも気になるのですね。
Y・Hさん:ことばはそれぞれの歴史や文化に根付いているので、ことばの学習にも文化を入れて行くことが重要でしょうね。若い時に英会話教室に通っていましたが、会話だけに特化しているように感じました。ことば+文化を同時にとり入れて行くことが必要でしょうね。
張穎さん:難しいかもしれませんが、日本の学校で、外国の文化についての学びも入れていくのがいいかと思います。千代川小で、国語の時間に「スーホの白い馬」を中国語でも書いてもらい、「中国語でも暗唱する」という学習がありました。そのほかにも、中国出身の保護者のW・Lさんに、中国について話してもらったことがあります。その後、たくさんの子どもたちから、「これは、中国語で何というの?」とよく聞かれるようになりました。
E・Tさん:「外国語を学ぶ」というと、「英語を学ぶ」ということだった時代が長くあったような気がします。日本人の外国人との関わり方を変えて行く必要がありますね。
張穎さん:いろいろな外国語を学ぶ必要があるというのは同感です。これから、外国人の受け入れが増え、子どもたちも増えていくはずです。日本社会はそのままでいられますかね?
E・Tさん:以前、働いていた工場で、外国人の方達と関わりがありましたが、いろいろな理由で日本に来ていると思いますが、物覚えがはやいなあと感じていました。今に、日本の工場は、外国人で埋まるのではないかと思います。どのような言語を学ぶかは、これからも、関わっていかなければならない課題ですね。
張穎さん:お互いに学び合うことが大切だと思います。京都民際日本語学校で私も教えていますが、優秀な学生が多いです。基本は、3カ国語くらいできる人が多いですが、5カ国語ができる人もいます。みんな学生同士がなかよくなれると思います。三鬼先生なども、ハングル、英語が話せ、日本語教育ができますね。
T・Dさん:僕も、ブラジル出身でポルトガル語ですが、スペイン語、日本語、英語も話します。
Rさん:私は、日本語、英語、中国語、マレー語、広東語などを話します。私は日本語を話すので、日本で生活ができると思っていますが、英語が話せると、その国の人とも交流ができると思います。英語と日本語ができるといいですね。
張穎さん:英語ができないとどうですか?
T・Dさん:逆に、英語圏の人は英語しかできない人が多いですね。英語圏でなければ、3つくらいの言語ができる人が多いです。私は、ブラジル人ですが、ポルトガル語、スペイン語も話しますが、英語はみんなが必要かなと思います。
児嶋:日本は、戦前、戦後の歴史をあまり教えてもらわずに来て、先生達も今もあまり教えていませんが、日本が植民地を持った台湾や朝鮮半島で、学校で日本語を教える事を強制してきました。そのために、戦後も自分達の母語をあまり考える言語とできない外国の人々がいました。大変なことですが、あまり知られていません。
亀田さん:スイスでは、ドイツ語、イタリア語、フランス語も学びます。ドイツの友人は、日本人は、「多分」とか、「かもしれない」ということが多いと言っています。日本語は最後まで聞かないと、賛成か、反対かもわかりませんが、英語も中国語も、まず、結論を先に言います。ちがいがありますね。
S・Fさん:日本語教室で、日本語指導のボランティアをしています。日本で働いて居る人たちに日本語を教えているのですが、労働力が不足しているために日本に来ている人たちですが、週に一度だけでは習得するレベルにはなれないと思います。仕事では、マニュアルだけわかれば、こなせるようですが。 子どものことを考えて、連れて来たいと思っても、無力感に襲われると思います。毎週続けられない人もいますし。もどかしいと思います。
児嶋:私は、会社が本気ならば、会社で、毎日時間を決めて、日本語教師を雇用し、日本語教室を開講するべきと思っています。
E・Tさん:日本語とドイツ語のできる人が、オンラインで教えていたこともあると聞いています。
張穎さん:職業訓練での日本語指導も大切と思います。会社の日本語教室があると、この会社関係のシラバスを作って重点的に教えるなど。会社でも交流会などでも文化の紹介などもするといいと思います。
S・Fさん:会社でも今は、必要生を感じているのではないでしょうか?
張穎さん:あいさつくらいは、日本人も外国人の人がいたら、学んでほしいですね。
T・Dさん:日本語の翻訳をしていると、日本語の前と後ろがなくて、何と翻訳していいかわからない時があります。日本語は、主語や目的語が無くても、話ができるので、周りのニュアンスが理解出来ないと翻訳できない時があります。
Y・Hさん:良い悪いは別にして、日本人は、「単一民族」と言われ、「あ、うん」の呼吸が必要と言われてきた時代があります。そのため、「全部、言わなくても通じる」と思い込んでいる人もいます。その点も、日本語を学習するときは、理解する必要があると思います。
T・Dさん:それは、日本の魅力でもあります。
Y・Hさん:時代が変わって来ているので、それだけでは通じないと思いますが。
S・Fさん:ひまわり教室は継続してやっておられますが、子どもの家に出前授業などにも行く事があるのですか?
M・Yさん:この間、大夢君のお父さんから電話があって、「急なことですが、今度のひまわり教室は用事で出かけるので、その前に家まで来てもらうことはできますか?」と電話があり、家に行きました。
R・Sさん:ひとりの子は、メールで送ってきて問い合わせすることもあります。
児嶋:オンラインで毎日、教えて先生と子どものつながりもあります。
張穎さん:一回休みましたが、大夢君も明るくなって昨日は来ていましたね。
M・Tさん:このひまわり教室などの資金はどうされているのですか?海外にでは、日本人学校があり、その子どもたちへの資金援助の方が多いように思います。これからは、日本にいる外国につながる子どもさんへの援助が必要になるのではないでしょうか?
児嶋:海外の日本人学校の教員の給料は、文科省が出し、その他の学校の経費は、登校している子どもたちの保護者の在籍する企業が、出し合っていると思います。今は、ほとんどひまわり教室などはボランティアですね。
S・Fさん:このような子どもたちが大きくなると、大学などに行けばまだいいですが、仕事を工場などで始めると、なかなかできないことが多く、続かないかもしれませんね。
T・Dさん:ブラジルの日系人は、通常の外国人とちがって日本に来て、簡単に働くことができます。それで、最初は、5年ほど日本に来て働き、ブラジルに帰国しようと思っているのですが、ここで生まれた子どもたちは、日本語を話せるし、日系人のコミュニティもあり、そこに住むと、大人になって来日した日系人は、日本語を話せないままで暮らしていけるという人たちもたくさんいます。
張穎さん:ひまわり教室では、親御さんとよく話していますが、学校にいるだけの外国につながる子どもたちは、学校と家庭との連携ができないと学習も伸びていくことが難しいと思います。家庭に帰っても、子どもたちは、自分の親に、抱えている問題を言えないし、親も学校とことばが通じないことがあります。そのために、学校か、市役所などに相談窓口がほしいし、作る必要があると思います。(別に多文化共生センターへはたくさん相談に来られていますが。)
K・Tさん:映画の脚本作りをしていますが、大阪の西淀川区で外国人労働者の子どもたちの映画を作ったことがあります。最初は、子どもたちが勉強する場所があるかどうかと見ていました。日本語の学習教室があり、小学生は夕方から、中学生は夜に来ていました。それをどのように表現するかを考えていました。彼らとどのように結びつけるかと考えて、外国語でのあいさつをしてみました。この経験から、子どもたちが行きやすい場所を作る必要があると思いました。
(後に亀田さんからの補足:映画脚本家の堤健介さん 、初監督として Chair(チェアー)を撮影されました。昨年の末、亀岡のオールロケで、保津浜TERRACEで、エキストラの方を交流撮影、Chair(チェアー) 家具職人の双子の兄弟である悠と翔平を主人公とした作品で、翔平が悠になりすまし、兄の地位を手入れるというストーリーです。
2024年3月 サンガスタジアムで上映会が開催されました。8月にもガレリアで上映されました。)
T・Dさん:その映画をどこかで見ることはできますか?(児嶋が後にK・Tさんからお聞きしました)
K・Tさん:映画のほうですが、今のところ上映の予定はないそうです。ですので、関係者向け限定公開のYouTube URLをお送りいたしますので、こちらでご覧いただければと思います。
タイトルは、『Hola! 出来島!!』約16分の短編映画です。大阪在住の岸本景子という女性が監督です。堤は、脚本を担当しております。大阪西淀川区の出来島商店会さんのPR企画として制作されました。あらすじなどは、リンクへアクセスしていただければご確認いただけます。
(児嶋は、作品を見せていただきましたが、今後、K・Tさんに、Global Sessionのゲストとしてきていただき、セッションをしながら見せていただくようお願いしています。
R・Sさん:今までの感想ですが、日本語のわかりづらさがありますね。日本語の文末まで言わない風習で、「皆まで言うな」などと思われ、外国につながる人たちとのコミュニケーションには、妨げになりますね。多文化共生のためには、受け入れ側の体制が必要で、「日本に来て良かった」と思える支援体制が必要と思い、無ければ作っていく必要があると思います。
T・Dさん:その日本語の言い方を、「美しい」とか、ささいな言い方でも気持ちが伝わるとか、良い方に取る方法もありますね。
張穎さん:日本語は美しいと思いますが、なかなか外国人にはわからないです。留学生なども「やさしいにほんご」から始める方法もあります。外国人から来て仕事をする人は特に必要と思います。
亀田さん:そろそろ時間が来ました。ご意見や質問があれば、児嶋さんのところにお知らせください。レポートで取り上げてもらえますので。
2024年10月26日(日)第380回グローバル・セッション・レポート
開催日:2024年10月26日(日)10:30~12:00
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:玉野井麻利子さん(アメリカ大学名誉教授・京都市在住)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:11名
今回のタイトル:「縮小社会の歴史を辿る」
概要:「縮小社会」という言葉が生まれたのは1990年代。それから20年以上経った今も解決の糸口がありません。政府は、女性にはもっと多くの子供を産んでいただきたい、そのためにはお金を差し上げますから、といった単純な言説を繰り返すばかりです。今回は「縮小社会」を全く違った側面からアプローチしようと思います。その方法とは「縮小社会」を明治から歴史的に追ってみること。実はあまり自信がないのですが、頑張ってみます。よろしくお願いします。(玉野井麻利子さんより)
コーディネーター亀田さん:では、みなさんの自己紹介からお願いします。
自己紹介
S・Fさん:昨日は、選挙(事前投票所)の立ち会い人をしていました。11時間半の予定と聞いていたのでつらい仕事だろうなと思っていました。この間、1500人もの人が入室し、この方たちを見ていると、「どんな生活をされているのだろうか?」とか、いろいろ考えながら見ているとおもしろくなってきました。あっという間の1日でした。今日は、玉野井さんと楽しい時間をすごしたいと思っています。
K・Nさん:保津町に住んでいます。今日は児嶋さんのプレゼントがあるということで、来ました。(歌集のこと)
M・Aさん:ブラジル生まれで、大本本部の国際課にいます。9月から、10月にかけて、合気道をする人たちとドイツに行ってきました。楽しかったです。
Z・Yさん:中国国籍です。長く日本にいて、今は「外国にルーツを持つ子どもたちの教育に関わっています。玉野井さんのお話しが楽しみです。
H・Mさん:日本語教師です。ベトナムでも教えていました。今日は、玉野井先生のお話を進められ来ました。
M・Sさん:昨日までの亀岡祭で盛り上がっていましたね。友人が横浜から来てこんなにすてきな祭に来られてうれしいと大喜びでした。この亀岡祭も200年もの歴史があるようですね。今日は、祭のあとのしずけさを味わっています。祭は動く美術館とも言われています。
S・Fさん:羽衣山のちょうちんを画きました。子どもたちを相手に祭も楽しいですね。
M・Fさん:私は、このGlobal Sessionの始め頃から参加していますが、ここでは、いろいろな話が聞けるし、楽しみです。仕事は今も子どもたちに映画作りを教えています。
S・O君:立命館大学国際学部の3年です。玉野井先生とのGlobal Sessionは、2回目で楽しみです。
児嶋:このGlobal Sessionは、いつも言いますが、1999年に亀岡市国際交流会館で始め、今に至っています。今回は、380回目になります。セッションですので、みなさんのお話しも聞きたいと思いますのでよろしくお願いします。
亀田さん:コーディネーターの亀田です。玉野井先生の、お知らせ版に掲載されている『満州 交錯する歴史』も読みました。我々は、この時代のことを学校では習っていないので、知らないことが多いです。私は、ツアーガイドですが、2週間前に、たまたま電話が通じて、2004年にシルクロード(ウイグル)へ行ったときのガイドさんとです。清水寺の駐車場で20年ぶりに会えました。漢民族は優遇されていますが、漢民族以外の人たちが中国から来るのは難しいという情報を聞いていたので、驚きました。裕福なウイグル人は来れましたが、普通の人にはパスポートも発行されないそうです。
今は、オーバーツーリズムで、10月は少なかったそうですが、中国人は以前は、バスを20台から60台くらい連ねて来て、駐車場も予約が必要なのだそうです。でも、ウイグル人やチベット人にはパスポートの発行も難しいようです。
グローバル・セッション開始
玉野井さん:まず縮小社会を考えるにあたって、1940年からの日本の人口の推移を見てみましょう。
1940年日本の出生数は約212万、1947年ごろになると約270万に増えます。ところが1970年代後半になると約200万人、そして2024年はたったの約72万です。
岸田元総理のいう異次元の少子化対策とは:子供を産んだ(あるいは不妊治療をしている)既婚女性の家庭にお金を支給する、という対策です。
支給額:3歳未満のこども 月1万5千円、 3−18歳 月1万 第3子以降 月3万円 (大人と認めた18歳以上は死刑の対象にもなり得ることに注視してください)。
これを2025年から開始するというのですが、 その基金は国から払うのではなく国民が、子供がいるいないに関わらず払う仕組みになっています。
被傭者保険 月額800円 国保加入者 月額 400円(75歳以上は350円)
ですからこれからどうなるのか、まだ未定の対策なのです。
「縮小社会」の歴史
「縮小社会」と言う言葉が誕生したのは1989年だと言われています。 出生率が急に150万ほど下がりピラミッド型の人口構成となりました。2022年にもなると、イーロン・マスクが次のようにtwitter でつぶやいています。「(日本は)街にも村にも家の中にも誰もいない、いずれ消滅する社会」だと。ただ私のような歴史家にとっては「縮小社会」という現状が今まで書かれた歴史にはあまり現れなかった子供と女の生活や考えを明るみに出したとも言えると思います。
縮小あるいは縮少の意味とは:小さい(大きい)、少ない(多い)
何が小さいのか、何が大きいのか、何が多いのか、何が少ないのか:小と少の違いははっきりしないのです。 この問題は明治期にもありました。
石井研堂(1865―1943)という方がいます。彼は『十日間世界一周』『明治事物起源』の著者です。日本で初めての月刊児童総合雑誌『小国民』を発行し、この雑誌は売り切れになるほど驚異的は発行部数がありました。内容に含まれているのは:地理学、博物学、理化学の紹介、西洋の子供達の遊戯や切手集めなどの趣味の紹介、世界中の政治家や学者の伝記、自転車のすすめ、などです。
つまり「小国民」とは日本という国に住んでいる小さい子供のことです。
ところが1894年に石井に起こったある出来事により石井は『小国民』を廃刊せざるを得なくなりました。この年、石田は絵入りの手旗信号を小国民に掲載します。ところが日清戦争がすでに始まっていたので、海軍の機密情報を漏洩したとして訴えられます。幸い訴訟の最中に戦争が終結したので石田は不起訴となりますが、この事件は雑誌の存続を根底から揺るがし、そのため石田は小国民を廃刊します。
それから約30年以上たった1931年(日中戦争の始まり)
日中戦争が始まると子供に向けた雑誌は全て小国民ではなく少国民という言葉を使うようになります。雑誌の名前は全て:少国民の友、週刊少国民、少国民文化、少国民雑誌、科学少国民、少国民文化。。。その理由は徳富蘇峰(1863―1957)が1937年の全日本保育大会において行った演説を読むとわかります。
「1000の人を殺すのは1500人の人を助けるためで、小の虫を殺して、大の虫を助けると言うことが我が世々(生まれては死に、死んでは生まれ、生死を繰り返すこと)やまざるところの国家の原則である。今その原則を実行しておるものであるからして。仕事の上ではこちらは産む方、向こうは殺すようでありますけれども、終局の目的においては皆さんが子をお産みになるのも、将兵が敵を殺すのもみな同じわけあひであります。この終局が同一であると言うことがおわかりならないような人間では、とても今日の私のお話はわからないに決まっております。
戦争中になると、こちらは母親、あちらは将兵(子供の将来)、つまり子供が戦争に勝つための人的資源になってしまったのです。確かに国は戦争中に子供を保護すると言いました。しかしそれは全くの名目にすぎません。子供を保護するという集団による、あるいは縁故による租界はようやく1940年になって始められました。しかし東京や大阪、さらにはあらゆる都市で始まった空爆は多くの人々を殺し、そのため疎開していた子供達は皆「戦争孤児」になってしまったのです。そして戦争が終わってからも戦争孤児は誰にも保護されることがなかったのです。
敗戦:人口減への努力
戦争が終わると、政府は全く正反対の対策を取ります。つまりいかに女に子供を生ませないか、という対策です。例えば、日本も先進国へなるために2、3人の子供がいる家族が好ましい、などと言うわけです。。そして、そのためにはバースコントロール(中絶を含む)が必要だ、とも言うのです。さらに1948年に始まった優生保護法は障疾患を有するものを不良と扱い、その子孫が生じることのないように強制的不妊手術を勧めました。最高裁が優生保護法の違憲を認定し、国に対し賠償を命じる判決をしたのはなんと2024年です。
最後に一つのエピソードを
内村鑑三(1861―1930)は無教会主義 非戦論者のクリスチャンです。また『デンマルク国の話』という本の著者でもあります。その内容とは:
1864年、戦争に負けたデンマークは領土の一部をドイツ、オーストリアに割譲。国は小さくなり、民は少なくなり、土地は荒れた。この時期にフランスでは迫害されたユグノー教徒がデンマークに移住し、木を植え、木材を収穫し、荒地に水を引いて農地に変え、穀類と野菜を作り、植林により水害を阻止。小さくても住みよい国にしました。
戦後すぐ、日本政府は内村の本を子供用に書き換え、『デンマークはいいなあ』などの題で国定教科書として小学校で使われるようになりました。小国であろうと平和で貧富の差のない日本を作ろう、ということでしょう。ところが日本は高度経済成長の道をまっしぐらに走り出します。大きくても、人口が多くても、人が豊かな生活を楽しむことができなければ豊かな国ではないのです。そしてそれはお金だけでは成り立つことではないのです。
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亀田さん:セッションを始めましょう。
児嶋:私は、今もなぜ、満州に人を出したのかが、不思議と思っています。開拓と言っても、中国人のいた土地を搾取し、中国人はその村を離れなければならなかったかったと聞いていますし。
玉野井さん:「満人」という呼び方がありましたね。戦争後、帰国できた人にしたインタビューを見ると、戦争後、放り出され、何人も死に、2年も3年もかかって帰国したとか、「いいところだよ」という宣伝をした政府でしたが。
M・Fさん:当時、日本経済が良くなってきて、朝鮮半島から、満州へと動くよう呼びかけたのでしょうね。
玉野井さん:そんなに大きな土地を耕せるよという宣伝でしたね。
S・Fさん:日本の貧しい村々に住んでいる人たちには、満州にでも出て狭い日本は住みあきたという考え方が気運を盛り上げたと言われています。徳富蘇峰の文を見ると、この時代の社会を最低の物としてか見ていない気がします。
M・Fさん:内村鑑三さんはどうですか?1930年ころですが。
S・Fさん:激しい時代につかまっていく感じですね。
M・Fさん:昭和に時代に、「明治に続け」という考えだったのでしょうね。中国では、清国は、もう古代と考え、今は戦後という考えですね。日本では、現代の戦前、戦後の時代は社会科教育の中で省かれたといえますね。
S・O君:1970年代は日本の人口が減少していたようですが、1989年代にはピークになったようですね。では、なぜ、このタイミングで、人口が変化しだしたのかと考えると、この年、昭和天皇が崩御したことが理由のひとつかと思います。「産めよ、増やせよ」に変化が出てきました。明治政府は、天皇中心の世を造ろうとしていたのが、「小国民」から、「少国民」へと流れが変わったように。
玉野井さん:私は、日本にいなかったこともあります。
S・O君:僕は、2003年生まれで、平成天皇のイメージは、被災地に行ったりして声をかけている感じです。昭和天皇のイメージはあまりないです。
1960年生まれの大学の先生から聞いたのですが、1989年に昭和天皇が倒れて初めて、天皇の身体情報が、テレビで報道されたそうです。天皇と国にとの関わり方が変化を見せた時期かと思います。同時に子どもが少なくなって行き始め、つばがりを持つのが難しくなっていったのではないでしょうか?
M・Fさん:核家庭ということばも出て来ました。その時期から、家族は祖父母や父母がいて、長男が家を継ぐ考え方が変わり、それぞれの家庭でもっと収入が必要になり、共働きが普通になり、家庭で子どもを育てあげるという意識が薄くなってきたのではないでしょうか?
M・Sさん:昭和天皇が亡くなった時の報道をよく覚えています。魂を安らかにという雰囲気ではなかったでしょうか?以前、私は教師をしていましたが、亀岡小学校から子どもたちが別れて、城西小学校ができました。宅地増成が相次ぎ、転入生も常に紹介され、ひとクラスが48人もいた時期もあります。その後、つつじケ丘小学校は、合計1000人を越えました。人に酔うくらいでした。1989年ころから子どもは減り、1000人規模の学校は、無くなりました。私は、その後、シンガポール日本人学校に赴任し、3年間いましたが、当時、そこも1000人規模でした。そのころは、もう日本にはそのような大規模学校はなかったですが。その後、シンガポールもバブルがはじけて、勢いが衰えてきましたが。
亀田さん:バブルがはじける前とは大きくかわりましたね。企業がリストラを始め、核家族や農業も下火になり、土地価格は上昇し、企業はリストラしてなんとか生き残ろうと。就職氷河期でもありました。今の中国は、同じように、バブルが落ち、大学を出た学生の就職もでいる状況ではないようです。
玉野井さん:昨日の評価を見ると、大学が多すぎる?(都会の大学だけが残る)ではその方法とは?子どもだけでなく、大人も入れるように変えるという方法も検討されていますね。小さい団体でもいいので、うまく機能する方法を考える必要があるのでしょうね。
児嶋: ひまわりの先生にも、大学院生や若い方も興味をもってもらえるように変わってきましたね。
玉野井さん:天皇と戦争をくっつける発想が大きかったですね。『白馬に乗る天皇』とか。
児嶋:天皇制を、第2次大戦後、アメリカは日本の人々の反感をそらすために、残そうとしたと聞いています。天皇をつぶしたら、日本人の反発があると。
S・O君:戦争と天皇制は高校時代までは、関係ないと思っていましたが、大学生になって、天皇の背景には、歴史があると認識するようになりました。
玉野井さん:「天皇はどんな人ですか?」とアメリカ人に聞かれて困ったことがあります。天皇がディズニーランドに行ったとか、ミッキーマウスの横で手をあげている写真とかを見て。
M・Sさん:日本の戦後の教育の中でも教えられてこなかったし、自分でも教えていなかったとか。沖縄についても、新婚旅行のメッカとなってひめゆりの塔の前で写真を撮ったり。ここは、悲しみのひとつの場所なのに。学校でも教材化してこなかったことを繰り返していると思います。シンガポールでも日本との戦跡に「反日本」の石碑があるところで、新婚旅行写真を撮ったり。日本人がいかに戦争について知らないか。教えられていないのか。と思います。
児嶋:沖縄は今もそうですね。
M・Fさん:天皇制については、江戸時代とはちがって明治時代になって急速に政治に巻き込まれてきたのでしょうが、教えるコンセンサスなどとれないままに今があるのpでしょうか?中国は、それに対してコンセンサスは取っているようですね。
亀田さん:今日は、玉野井さんが、以後、しなければならないことがあり、この12:00の時間で延長せずに終わることとします。
児嶋:感想があれば。児嶋までメールでおおくりください。ありがとうございました。
2024年9月15日(日)第379回グローバル・セッション・レポート
開催日:2024年9月19日(日)10:30~12:50
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:秋山昌廣さん(ブラジル生まれ:大本本部 亀岡宣教センター)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:13名
今回のタイトル:「亀岡のブラジルの姉妹都市ジャンジーラについて ブラジル移民の歴史・出身地(パラグアイとブラジルの国境)について」
セッション終了後のレポート
マイ広報誌より
大本教HPより
2024年8月18日(日)第378回グローバル・セッション・レポート
開催日:2024年8月18日(日)10:30~13:00
場所:ガレリア3階 会議室&オンライン
ゲストスピーカー:濱田雅子さん(元武庫川女子大学教授、アメリカ服飾社会史研究会 会長)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:10名(うちオンラインでの参加2名)
主催:オフィス・コン・ジュント&亀岡国際交流協会
共催:アメリカ服飾社会史研究会
今回のタイトル:「1930年代アメリカの服飾史―アメリカンルックの誕生―」
セッション終了後のレポート
2024年7月21日(日)第377回グローバル・セッション・レポート
開催日:2024年7月21日(日)10:30~12:40
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:レイチェル・クラークさん(日系米国人・国連等で通訳)
コーディネーター:亀田博さん(ツアーガイド)
参加者:11名
今回のタイトル:「情報戦で武器化されるメディアと読者・視聴者としてのメディアリテラシー」
参加者自己紹介
M・Aさん:ブラジルから来ました。大本本部国際部に所属しています。(9月16日(月・祝)にGSのゲストの予定)
Z・Yさん:中国出身で、亀岡市教育委員会で、小学校・中学校で外国にルーツを持つ子どもたちの教育支援の仕事をしています。レイチェルさんとは、ピースボートに乗った時からの友人です。
S・Sさん:千代川小学校の教員で、Z・Yさんといっしょに仕事をしています。
N・Sさん:レイチェルさんとZ・Yさんの友人です。2013年にピースボートで世界一周の旅でお会いしました。今はクルーズアンバシャダーをしています。ピースボートに乗って見たい人はどうぞ。
Y・Hさん:総合商社に勤めていましたが、退職後、2年前に亀岡に戻りました。脳に刺激が必要と、いろいろやってみています。Global Sessionは、意見交換もあり、いろいろな考えも聞けてうれしいです。
E・Tさん:今は島津製作所で仕事をしています。京北町の出身です。
M・Fさん:映画関係の仕事をしていました。
(レイチェル:どんな映画?)
太秦映画村で時代劇を作り、今は子ども達に映画つくりの指導をするグループでやっています。
F・Kさん:9年前に滋賀県の教員を退職し、昨年の6月に京都へ引っ越しをしました。今日は、しばらくぶりにGlobal essionに来れて楽しみです。
K・Kさん:大本本部国際部で仕事をしています。国際交流協会の副会長もしていましたが、ここ数年は、コロナ禍であまり動きはとれませんでした。(2024年5月19日にこのGlobal Sessionのゲストとして話をされました。)
H・Mさん:亀岡で木綿屋をしています。綿を加工して手作り木綿を作っています。K・Nさんは、米屋でぽん菓子を作っておられます。
K・Nさん:米屋をしていて、ぽん菓子なども作って売っています。
M・Oさん:千代川小学校で教員をしています。張穎先生にはお世話になっています。
児嶋:このGlobal Sessionは、亀岡市交流活動センター在職中の1999年から始めました。今回は、377回目になります。2011年に退職後は、オフィス・コン・ジュントとして主宰しています。コンジュント(Com Junto)はポルトガル語です。先ほど、M・Aさんが「ブラジルから来ました」と言われましたが、亀岡市はブラジルに姉妹都市があります。私たちも家族でブラジルに夫の赴任で3年ほど住みました。その間よく勉強し、1年半くらいで、だいたい話せるようになりました。英語は仕事にしていますが、その前に中国語も教えられる程度にはなっていました。今はハングルを学んでいますが、なかなかうまく話せるようになりません。
亀田さん:大津市から来ています。Global Sessionははじめから、大体毎月来ています。仕事はツアーガイドですが、コロナ禍の時は、日本人も海外に行けずに、外国の高校生のツアーなどもほとんどありませんでした。最近は、インバウンドで、京都はたくさんの人が来ています。自分の仕事としては、4年ぶりにシアトルの高校生が来て案内をしました。昨年は、レイチェルさんに、アーミッシュの話をしていただき、知らない事も多く、とても楽しみました。国連でも、通訳などをされていますね。では、レイチェルさん、お願いします。
グローバル・セッション開始
レイチェルさん:私は、日本生まれの日本育ちですが、アメリカ人と結婚し、子どもが生まれた後にパスポートをアメリカ人として選びました。でも、日本は大好きです。
2016年以来 peace speaking tour を企画し、米国の退役軍人に日本に来てもらい、戦争のリアルについて語ってもらいます。
2015年に日本は、憲法9条の解釈を変えてしまい、集団的自衛権が発動できるようになりました。日本のみなさんが受け取っている戦争の情報はかなり偏っています。
メディアが武器化されています。CIA をご存じですね。アメリカ中央情報局です。冷戦時代のころCIA内部にいた人のインタビューを含む動画に、日本語訳をつけましたのでご覧ください。
*動画リンク:https://youtu.be/8snCc3BPh44 (お見せしたのは、5分06秒から9分20秒まで)
CIA の役割は、情報収集とプロパガンダの2つがありますが、400人のジャーナリストが協力をしていたそうです。
動画を見ていかがでしたか?
米国のメディアは戦略として軍と協力させられる仕組みです。
ペンタゴンは、国防総省で、国務省というのは、日本の外務省に相当します。ペンタゴンの支出費は、米国の自由裁量予算(各省庁に割り当てられる予算)の半分以上で、8400億ドル以上で、世界でダントツで1位になります。他の2位~11位までの国々の国防費を全部足したものよりも多いので、かなりかたよりがあります。米国の人口は、世界人口のたった4%しかありませんが、世界中の囚人人口の20%が米国にあります。世界中の囚人の5人に一人は米国にいることになります。刑務所の数の方が、大学の数より多い州が沢山あるのです。無保険率は、7.7%で、パンデミックのおかげでそれ以前よりは減っています。保険のある人でも医療費が膨大で、自己負担が多く、大病すると破産したり、ガン離婚も多いようです。
貧困層は、11.5%です。また、核兵器使用回数は、主に米国領土内で、1032回と言われています。そのうちの2回は広島と長崎です。つまり、しられざる被曝者が米国内や、かつての領土内に沢山います。
2021年度に使った国家経費は、ペンダゴンが47%(通常は50%以上)、教育予算は、10%(通常はもっと少ないのですが、パンデミック中の特別費が必要でした)、退役軍人省の予算は通常は7%で二番目に大きな省ですが、パンデミックのために2021年は6%使われました。一番大事な食料に関する農業省の予算は、いつもたった1%です。
メディア統計としては、2005年~20年間の間に、三分の一が廃刊になり、多くのジャーナリストが解雇されました。この20年で、全米にあった9000紙のうち33000紙が廃刊になりました。4300人が解雇されたようです。
このように紙媒体は、インターネットに押されているのです。大手メディアのワシントンポストも240人を解雇し、CNNも縮小化し、この3年間でジャーナリストたちが全米で2700人も解雇されました。
産業革命の流れを見ると、第1次産業革命は、イギリスから始まりましたが、そのために必要だったインフラ建設の膨大な費用は、三角貿易の賜物でした。イギリスで製造した製品を積み、アフリカに行き、拉致・誘拐した人たちを奴隷にし、アメリカに奴隷と工業製品を売りそのお金で米国から原材料を購入し、イギリスの工場で製品化するという流れでした。
米国で始まった第2次産業革命は、米国で発明された動力、電力と(先住民から奪い取った)土地と資源を使い、人手をかけないで大量生産し、製品を輸出するという方法です。
第3次産業革命は、IT革命とも呼ばれ、コンピューターによる自動化が進み、グローバリゼーションという言葉も頻繁に使われるようになりました。
現在は第4次産業革命と言われ、デジタル化され、AIなどを利用したバーチャルリアリティになり、ネットによるいじめなども出て来ました。
予想ですが、第5次産業革命では、ドルの国際通貨としての力が失われ、多極的・相互協力的な世界になるでしょう。
【戦争とメディアと教育の関係】
戦争教育:相手を洗脳する。IQテストの目的は、武器の内容が読めるかだった。
第1次世界大戦~第2次世界大戦 プロパガンダが重要視された。
例:日本「ほしがりません。勝つまでは」
スパイ(諜報部員)と工作員:同じ「スパイ」でも、米英のスパイは「諜報部員」と呼び、共産圏やロシアのスパイは「工作員」と呼ぶところに、日本のメディアの中立性が失われていることがわかります。
1945年~1990年冷戦時代
ソ連の崩壊をめざす「共産主義は悪」:新聞の記事に書かせる→ネットワーク化
(1960年代:核開発競争:表立って戦費がかけられなくなったが、核開発で膨大な国防予算を計上した。)
*ペーパークリップ作戦(WWII終戦の直前に、ドイツの航空宇宙開発専門の科学者や技術者1600人を米国に移住させ、米空軍やNASAの基礎を築いた。)
MKウルトラ(覚醒剤や様々な虐待を用いて、人のマインドをどのようにコントロールできるか)
ペーパークリップ作戦では、アラバマ州のハンツビル(後に「南のペンタゴン」と言われるようになった)にドイツの科学者や技術者を移住させ、そこで米国の航空宇宙科学の基礎が築かれ、現在に至る研究開発が始まった。(2020年にできた宇宙軍は、すでに50年前に宇宙軍の創設のプランがあったものが実行されたもので、たまたまその時の大統領がトランプだった。 別段トランプ独自のアイディアではなかった。)
1954年~1975年は、ベトナム戦争があった(この戦争の流れを知ることは、とても大事! この戦争には、現在まで脈々と続く、米国の戦争遂行プランが多く含まれているので、米国の戦略を学ぶには、教科書的な戦争です。)
戦場の前線にレポーターを送り、リアルタイムに状況を伝えた。若者は、「ひどい」「だまされて連れてこられた」などと言い、反戦気分が盛り上がり、結果は、負けた。
以後厭戦ムードが広がり、政府はこれを教訓として学んだ。
ベトナム戦争後の厭戦機運が続き、国防費の低迷が続いた。→ 「第二のパールハーバー」(戦争を起こすきっかけ)が必要になった。
2001年9月11日、世界貿易センタービルがテロによって攻撃される ← 初めて米国内が戦場に。これに対する米国の反応は、「自省」ではなく「戦争」だった。
その後、湾岸戦争が起こる。国防費が増大する。武器会社がもうかる。
武器とは?物理的には肉体を傷つけ、精神的にも傷つける
①威嚇する(コントロール効果)→核抑止力など
②言論の自由を(人権)制限する(おどす)=基本的人権も武器化される=ハイブリッド戦争の時代に私たちは生きている
1960年代 ケネディ大統領 USAID(アメリカ合衆国国際開発庁)が設立された。
1980年代 レーガン大統領(日本は中曽根首相時代:原子力の日本への導入)
ジャーナリストや学生をスパイに使う
ブッシュ(CIA長官、副大統領、大統領を経て、CIAの活動範囲を新しいNGO, NEDをUSAIDの下部組織として発足させ、かつてCIAが水面下でやっていた政府転覆作戦を、大っぴらにNEDに「民主化援助」という隠れ蓑を着せて推進している。 ダライ・ラマもCIAから資金を得ていた。
National Endowment for Democracy全米民主主義基金(NGO、つまり非政府団体の形をとりながら、その資金の100%をUSAID(合衆国国際開発庁)という政府機関から得ているので、間接的に:政府からお金をもらっている偽NGO)このようなNGOのことを、「草の根運動」と対称的に「人工芝運動」と呼ぶ。
NED(アメリカが転覆させたい国の民主主義者をサポートする:お金や武器も:CIAが昔やっていたような事をやる)
カラー革命・アラブの春・ローズ革命・オレンジ革命等
*オスロフリーダムフォーラム(O.F.F.)がNEDの教育機関になっている。
香港の雨傘革命・中国天安門事件・北朝鮮脱北者・ロシアのロックバンド等は、このOFFの卒業生である。(参照:https://youtu.be/JIjVBUwpri8)
1990年代~2023年(ネットユーザーが50億人以上)
*ケイタイでドローン攻撃も可能
*常に近代兵器を揃えた米軍が、鍬とゴム草履のベトナム民兵に負け、アフガニスタンから撤退したにもかかわらず、ロシア、イラン、中国と戦ってまだ勝てると考えることは、ほとんど病気である。
第2次パールハーバー(テロとの戦い)を打ち出したことで、テロを増加させた。
*政府の言論の封じ込め策→全体主義に
インターネットの普及→投稿が削除される→アルゴリズムを駆使して、政府の方針にそぐわない内容が拡散しないように抑える
インターネットの普及→大手メディアの衰退(新聞購読数の激減やニュース番組の視聴者数の減少)
*日本に「原子力村」があるように、アメリカには「戦争ムラ」がある
2001年9月11日 ブッシュ(息子)時代 米国本土が標的になった。→国土安全保障省ができる。→ インターネットは、道路や港湾、橋のように、一般生活に必要な「インフラ」であるという認識が生まれ、それを妨害する者は、物理的なインフラを破壊するテロリストと同じである、という考えが罷り通るようになった。これにより、超監視社会へと変貌した米国の全体主義が顕著になってきた。
2003年 ブッシュ大統領
イラク戦争:戦場レポーターは少なくなる。デジタル映像で発表→悲惨さが伝わらない。
戦争がゲームソフトで遊び感覚で浸透してきた。→ネットでの戦略に変化
2020年~トランプ→バイデン
メディアの凋落:テレビを見ない→インターネットが中心となり、国防総省のメディアコントロールがさらに激しくなった。
ペンタゴンの傘下には、約20の諜報機関が存在する:常に敵が必要(元諜報機関の人員をメディアに再就職させるなど)
デジタル化社会の中の日本語の特異な環境を是非ご理解頂きたい。
*ウエブサイトのコンテンツ言語の使用統計が毎月発表されている。その中で、英語は常に:50%以上、2位以下のほとんどはアルファベットを使うヨーロッパ言語、 日本語はたったの2.4%〜4.5%程度で、そのほとんどが日本国内の情報で、国際ニュースは極端に限られており、しかも、米英の主要メディアの和訳版、つまりペンタゴンのシナリオばかりを知らされている。
日本の人たちが、米英プロパガンダ以外の情報を知るには、英語で検索することが必須で、普段の日本語情報を鵜呑みにすることは、非常に危険です。
Q&A(亀田さん:質問があればどうぞ)
M・Fさん:CIAを退職した人は、知っている情報を流せるのですか?
レイチェルさん:内部告発として言っている人もいます。平和主義団体など。
スパイ法で投獄されている人が沢山います。囚人の5割は無実のアメリカですから、政府に都合の悪い人たちが、その中に沢山います。
K・Kさん:若い人は、国防についてもハリウッド映画的に見ているのではないでしょうか? 軍需産業もありますしね。
レイチェルさん:10月7日にハマスの攻撃があり、ハマスが悪いという記事がありましたが、NYタイムスのベテラン記者にまじって、ジャーナリストではない人材が、イスラエル寄りの記事を書いたことが暴露されました。
M・Fさん:「フェイクニュースがある」とは、トランプが広めたと思いますが。
レイチェルさん:フェイクにも色々なタイプがあります。私の通訳経験で、インタビューした中には、大学の研究者もいて、フェイクニュースをわざと作り、どういうタイプの人がどのようなフェイクの発信の仕方に反応するかを調査していたりします。よくSNSで、「いいね」をクリックしますね。あれは、SNSとは別のマーケティング会社がやっているものです。どんなタイプの人が、どんな物事に「いいね」をクリックするか、それに合わせて商品のコマーシャルを送るターゲットを定めるのです。
M・Fさん:ニューヨークに行った時にみたのですが、ただの(無料という意味の)新聞がありました。
レイチェルさん:コミュニティー新聞は、まだ地域のビジネスが広告を出すので、無料で成り立っています。「売りたし」「書いたし」「人材募集」などが殆どで、その他役場の告知などです。
Y・Hさん:国防総省と国務省がありますが、複雑で理解しにくい人の関係ですね。先ほどのデータで半分以上が英語と言われていますが、情報が溢れすぎて正しいか嘘かが判断しにくいですね。
レイチェルさん:メディアリテラシー(情報処理能力)が必要とされますね。
「新しく選挙権を持つ学生にメディアリテラシーを指導するプロジェクトが2020年に開始されました。これに出資したのが、マーク・ザッカバーグ(Facebookの創始者で億万長者)で、結局この指導を受けた若者層の多くがバイデンに投票しました。つまり、民主党の選挙戦略の一端だったということ。
例:郵送で投票用紙を集計するNGOがありますが、そのNGOも民主党寄りの大物が出資したものなので、選挙戦略でした。パンデミックを起こして投票に行かせないというような方針を持つとか。(別に私は共和党も民主党もどちらも支持しませんので、どうぞ誤解なさらないでください。)
Y・Hさん:混沌の時代に、どのように国民の情報リテラシーを高めるかが課題なのですね。おそろしい時代ともいえますね。
レイチェルさん:グーグル検索もありますが、https://duckduckgo.com/を勧めます。
NGOにもあやしいのもあります。501c3:記録を残す→税金の控除がある
501c4:記録を残さない・20%をロビー活動に使うことができる。議員の袖の下になる(イスラエルロビーなど)
日本のネットパーソナリティーの多くは、芸能プロダクションや電通が背後にいるので、政府寄りですね。
M・Fさん:戦争をあおっているような。
レイチェルさん:戦争の現実をどう知らせるかが大切ですね。PTSDとどう向き合うかも大切です。退役軍人は、ホームレスになったり、苦しんでいる人がたくさんいます。
日本は54基も原発がありますが、ドローンで原発を爆破したらしまいですよ。若狭湾の原発銀座だけで、15基も原子炉があります。どれが攻撃されたり事故を起こしても、神戸まで2時間で放射能が届きます。一番南の高浜原発のそばには、経ヶ岬(京都府)の米軍・X-バンドレーダー基地があります。あれは有事には一番標的になりやすいですが、あれを狙って高浜原発に当たってしまったら、大惨事になります。
これだけたくさんあり、地震も多いので心配ですね。福島原発からの放射性排水の海洋放出そのものが、近隣諸国や太平洋の多くの島国に対して、すでに核兵器になっています。
M・Fさん:最近東京で島国の集まる会議がありましたね。
レイチェルさん:日本のメディアは、常に中国やロシアのリアクションから報道を始めます。実は、それ以前に、自衛隊は、NATOや韓国軍、フィリピン軍と一緒に、中国の目と鼻の先で合同軍事演習を行っています。例えば、この7月にはNATO諸国を含む環太平洋の国々の20数カ国の軍事演習がありますね。これは一年おきに行われていて、来年はありませんが、オーストラリアの北東海岸沖で、やはり1年おきの大きな海軍合同演習が来年行われます。つまり、太平洋では、毎年そのような大掛かりな軍事演習がハワイ沖と豪州北東沖で交互に行われているのです。その他にも沢山の合同軍事演習という名の下に、中国を威嚇し、挑発しています。ロシアに対しても同様です。そして、驚いた中国やロシアが対抗して沿岸の防衛力強化を行うと、その時点から日米のメディアが大々的に報道を始めます。
2016年には、アメリカミネソタ州の空港で日本の若い自衛隊員に遭遇しました。 彼らは、ミネソタの米軍基地で訓練を受けに来たと言っていました。2014年から8年間は、ウクライナは内戦状態で戦争をしていましたね。
(ロシアのウクライナ侵攻の8年前から、NATO・米軍に訓練されたウクライナ軍が、ウクライナ東部のドンバス地区ーロシア語圏ーに砲撃を続け、8年間で14000人が殺されたことは、少なくとも3年前から日本では一切報道されていないようです。)
昔はNHKもきちんと同時通訳付きで報道していたのですが。。。こちらをご参照ください:
1)https://youtu.be/z_cwFRCP_mw
2)https://youtu.be/Bm9nVXAjiW4
3)https://youtu.be/KE1wOlzuxYI
4)https://www.youtube.com/watch?v=zvz73RFD5e0
*つまり、上記の動画にあるように、以前はNHKもウクライナのキエフ政権がウクライナ
東部のロシア語圏を攻撃していたこと、その背後で米国が操作していたことも、正直に報道していたのです。ところが、2020年ごろから以下の報道が、日本では全くなされていません:
1)2014年に、ベラルーシのミンスクで、フランス・ドイツの立ち会いのもと、ロシア、ウクライナの合意がなされ、ウクライナ東部のロシア語圏の住民の、言語の自由・宗教の自由とある程度の自治権が保証されました。これは国連の安保理の承認を得たので、国際法です。ところが、ウクライナはその結果を無視して、砲撃を続けました。二回目のミンスク合意も行われましたが、結果は同じでした。それからもずっと、ロシアによる国際会議における交渉は続きましたが、西側諸国はこれを全く無視しました。
2)中国で冬季オリンピックが行われていた頃、米国は、ウクライナに400台の戦車を送り、ウクライナ東部の砲撃をさらに激化させていました。この西側の挑発行為も全く日本では知られていません。
3)ロシアは、ウクライナ東部のロシア系住民にバスを出し、その多くがロシアに避難しました。世界中で一番多くのウクライナ難民を抱えているのは、ロシアなのです。
4)ロシアの議会は、プーチンにウクライナ東部の二つの共和国の独立を承認するようにという決定を伝え、プーチンは承認しました。これにより、ドネツク共和国とルガンスク共和国とロシアは同盟関係になりました。(*この二つの共和国の独立を、世界の各国が認めておらず、ウクライナにとってはこの地域は自国領、独立を認めたロシアにとっては同盟国、という複雑な関係です)
- ロシアがウクライナ東部の二つの共和国に加担する直前の冬、北極海沿岸で、NATO軍と協力国による大掛かりな軍事演習が行われました。(これも西側の挑発)
- 二つの共和国の独立を認めたロシアは、共和国の内側からウクライナに対する攻撃を開始します。この時点でのロシアの攻撃は集団的自衛権の行使に当たります。ですが、日本の多くの「識者」も「自称ジャーナリスト」も「軍事評論家」も、ロシアの国際法違反と言っています。最初に国際法を違反してミンスク合意を破ったウクライナとそれを支援する西側のことは報道されないので、今でもこのような理解がまかり通っています。
- このような筋書きは、2019年に発表された「ランド研究所」の論文に明記されています。
参照:https://www.rand.org/pubs/research_briefs/RB10014.html
上記の論文では、ロシアをバルカン化(細分化)して小国家群にし、北極海沿岸の鉱物資源を貪るプランが書かれています。そして、この非政府団体であるはずのシンクタンク、「ランド研究所」に誰が、どこが寄付をしているのか、以下のパイチャートをご覧になれば一目瞭然。ほとんどが、国防総省の傘下にある機関です:

ちなみに、ベトナム戦争の筋書きを書いたのも、ランド研究所です。
*ニュースになるのを待っていては、本当のことは何もわかりません。ご自分で、自衛隊のウェブサイトの中にある「プレスリリース」のタグをご確認ください。どれほど頻繁に合同演習を行っているのか、その度に、中国やロシアを刺激していることを考えてください。ニュースになるのは、その後の中露のリアクションからなのです。日中間の緊張を解くのは武力ではなく、外交しかありません。都議選の最中に、中国の海域を海上自衛隊の船が侵入していたことを、誰が知るでしょうか?これを挑発と言わずして、なんと表現しますか?
そのほか、ブチャの虐殺や、ノードストリームガズパイプラインの爆破、ザパロジア原発へのドローン攻撃等の報道が、ウクライナ側の偽旗作戦であったことはとっくに論破されていますが、それも日本では全く知られていません。ウクライナから誘拐される子どもたちの件は、ロシアでの音楽キャンプに親の同意を得て連れて行っていることであるのも証明済みですが、日本ではわかってもらえません。全て証拠は私のFacebookに載せてますので、ご興味のある方はお友達申請をしてください。ここで全て証拠を並べる時間が、今の私にはありません。
よろしかったら、最近、字幕をつけた以下の動画もご覧ください:
第三次世界大戦を止めるには:https://www.youtube.com/watch?v=KOi_BRcU6Eo
学生たちと教師たちへ —ベトナム戦争の記録と画像—:https://www.youtube.com/watch?v=WnvXBRGhR0I
亀田さん:そろそろ時間が来てしまいましたので、意見や質問がまだある方は、児嶋さんまでメールで送ってください。
児嶋:そうですね。まだまだこれから聞きたいことや知りたいことが見えて来ると思いますので、児嶋まで送ってください。レポートもありますので、よろしくお願いします。
2024年6月23日(日)第376回グローバル・セッション・レポート
開催日:2024年6月23日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:サム・ジードさん(亀岡市国際交流員)
コーディネーター:亀田博さん(ツアーガイド)
参加者:11名
今回のタイトル:「歩んで来た亀岡市国際交流員の5年間」
参加者自己紹介
亀田さん(コーディネーター):では、自己紹介をお願いします。
E・Tさん:京北町から来ています。島津製作所で仕事をしています。
Z・Yさん:外国につながる子どもの教育信支援の仕事をしています。亀岡市内の小学校と中学校に行っています。
R・Sさん:外国につながる子どもや保護者の学習支援をしているひまわり教室で指導をしています。
M・Sさん:私もひまわり教室で指導をしています。サムさんとはいろいろな所でいろいろな事をして来ましたが、もう5年も過ぎたのかとびっくりしています。月日の流れが速いですね。今日も楽しみです。
M・Fさん:このGlobal Sessionとの付き合いは長いです。今日は、サムさんのトークが楽しみです。
H・Mさんさん:日本語教師です。
Y・Hさん:退職後も脳に刺激と栄養をもらおうとGSに参加しています。
児嶋: 今日は、1999年に亀岡市交流活動センターで、Global Sessionを始めて、376回目になります。M・Fさんや亀田さん、M・Sさんとは長く、もう20年を過ぎましたね。E・Tさんでも、「ぼくも、もう少しで10年目にあります」と言っておられます。
私は、最初のJETプログラムを亀岡で始める時の説明会に東京の文部省に行ってほしいと言われ、行った覚えがあります。その次の年からALT(英語指導助手)が亀岡で採用され、CIR(国際交流員)は、その2年後くらいからだったと思います。
サムさんは、その中でも、大変よくやられた方と思っています。
亀田さん:コーディネートをやっています。最初にサムさんに会った時には、ことばの壁があると言われていたような。京都弁など。それと、日本語は、本音と建て前がわかりにくいとか、言われていたと思います。今は、我々以上に、よく知っておられますよ。交流員としては、ラスト1ヶ月ですが、これからも、別の仕事で、亀岡に住まわれるらしいので、いいですね。
サムさん:あまりまだわかりませんが。
亀田さん:給料は円だし、今は生活も大変だと思いますが、サムさんのラストに期待しています。
サムさん:コロナ禍で、いろいろな事が制約されて大変でした。それで、料理教室ではなく、体育館でクッキーを焼いたり、ワールドフェスタでも、話し合いだけを、それもマスクをしてやったりとかありました。
私は、ジード サミュエル マークと申します。カナダのトロント市の出身で、23才の時に、この国際交流員の仕事を始め、今は28才で、12代目の亀岡市のCIRです。あと1ヶ月でこの仕事は終わります。
私は、大学4年の時に、ボストンキャリアフォーラムに参加しましたが、当時は日本語は全くだめでした。英語Nativeは有利かと思っていましたが、そうではないことがわかり、帰り道で、CIRの仕事があることを発見しました。それで、あとの2年間をがんばって日本語を学習しました。日本語能力試験は上から2番目くらいの内容でしたが、それは、実は最低限必要な力で、その後もずっと学習し、2年前にようやく日本語能力試験N1を取得しました。国際交流員の仕事は当時から憧れで、日本語の勉強は8年間ほどしてきましたが、最初は、1年目に関西学院大へ留学し、帰国後、独習し、日本に来てからも日本語教室に通い、次のステップに行けるよう続けていました。最近は就活が忙しかったですが。
グローバル・セッション開始
亀田さん:では、みなさんから質問などはありますか?
S・Oくん:僕は今、大学3年ですが、サムさんとのGlobal Sessionは3回目になります。
Z・Yさん:「まかせます」とか言われたようですが、仕事の内容はわかりましたか?はじめから。
サムさん:細かい内容は緊張もしていてわかりませんでした。
M・Sさん:CIRに合格してもどこに行くかはわからないですね。いつごろ、どんな気持ちで亀岡に決めたのですか?
サムさん:2月に面接があって、3月ころに行き先が決まると言われていたのですが、まだ決まらずに、6月ころに、「京都の亀岡に仕事があるけれど行く?」と聞かれ、「行きます」と5分以内に返事しました。留学したのが関学で、亀岡も関西だから、大丈夫だろうと思いました。ここに決まって今は良かったと思っています。
Z・Yさん:面接の時の言語は?
サムさん:7割が英語でしたが、最後に「小学生向けの英語レッスンをやってください」と言われ、日本人の面接官が子どものふりをして「わかりません」などと言っていました。それで、かなりこわくなって、日本に行っていろいろ聞かれたらどうしようなどとも思いました。
Y・Hさん:他の国にJETプログラムのようなのはありますか?
サムさん:韓国にはあるようですが、日本が一番進んでいると思います。
仕事の内容としては、英語から日本語への翻訳の仕事が多いです。これには、日本語能力が必要で、最初のころは、ひとつの資料を一日かけてやっていたこともあります。その時に聞いても、誰も答えてくれないし、大変でした。亀岡市の資料の翻訳も多かったです。(日本語から英語に)
コロナで、通訳の仕事は少なかったです。市役所の窓口やBcomeなどで。
仕事で学校訪問もあり、日本語から英語ですが、中身が違うことを言ってしかられたこともあります。それからは、楽しんでもらえる内容として、クイズや、ゲーム、工作なども入れました。亀岡国際タイムズも編集してきました。だいたい一人で作っています。コロナ禍で、日本にいる外国人が国に帰れないとか、ワクチン接種の仕方などもありました。
3番目の仕事としては、多文化共生センターへ行ったり、市役所やガレリアで仕事をしたりといろいろでした。出入国管理センターの方とも毎月、ミーティングをしました。また、イベントの企画もいろいろし、グローバルカフェなども年に5、6回やり、海外の文化の体験もできました。最初は企画が大変で、年に3回でも大変でしたが、今は、もっとやりたいなどと思っています。
M・Fさん:こちらに来て初めて日本人に会った時と、最近とはちがいはありますか?
サムさん:そんなに変わってはいないと思います。ただ、相手の日本人が、外国人と接する機会が少なかったのか、自分が日本人より下に見られていると思って仕舞うことがありました。やさしい英語を話す人もいました。
M・Fさん:接する日本人が変化してきたとしたら、CIRの努力の結果ではないでしょうか?
サムさん:日本語で普通に話してもらえるのが理想でしたが、最近はそうなっています。日本にいるうまく話せない外国人は、いっぱいいますので、気持ちをわかってもらえるとうれしいと思います。
M・Fさん:京都駅の外などに「大きなスーツケースを持って乗らないでください」と書いてあるのですが、そんなの、日本語だけではわからないと思います。大きな荷物をあずける場所の案内なども必要と思います。
カナダ人が見たらどう思いますか?
サムさん:京都は、ほとんどの外国人が来たくなる町だと思います。「~してください」というのは、義務なのか、しなくてもいいのかがわかりにくいと思います。願うだけでなくてもいいのかとも思ってしまうと思います。
M・Fさん:嵯峨嵐山駅からたくさん乗ってきますが、自分は太秦駅で下りる時、体をのけてくれるのは、外国人で、日本人はしらんふりする人が多いです。
サムさん:多分、個人によってちがうと思いますが、その人は性格のいい人だったのでしょう。
M・Fさん:私は、「Excuse me」と言ってコミュニケーションをとりながら動くのですが。自治体の、やり方も問題があると思います。
サムさん:最近は観光客の多さが違いますね。
M・Sさん:国柄もあると思います。ヨーロッパの中でもフランスに行った時にはいろいろな人が荷物を持ってくれたりして助けてくれました。地下鉄でも席を譲ってくれたり。
でも、オーストリアでは、知らんふりで、こんなに国柄でちがうのかと驚きました。日本では若者も、優先席にどーんと座っていますよ。
Y・Hさん:個人によってちがうのではないでしょうか?日本人でも助ける人もいますよ。
M・Sさん:個人にまかされているのでしょうか?
R・Sさん:嵯峨野線に乗っているとみんなが、入り口に立って動かない人が多くて困りますね。どんどん乗ってくるのに、中の方に動かないので入り口だけぎゅうぎゅうになり、情けないなあと思います。
E・Tさん:その情景はよくわかります。入り口、出口だけ人がいっぱいですよね。
サムさん:カナダも同じで、真ん中に行かないですよ。
Y・Hさん:イギリスでは、「乗れない」と叫んだら少し動いてくれたことがありました。
E・Tさん:中はもっと空いているのにね。
亀田さん:京都市内のバスは、前から下りるのですが、運転手さんの中には、後ろからバッグを下ろしてもいいですよ。」とか言う人もいますね。今は、京都駅前から、「特急バス」が出ています。清水寺などにまず、行くので途中はとまりませんとか。でも値段は、ひとり500円で、矛盾しているような。ヨーロッパからのツアーは、30人や40人とかで多いです。そのツアーガイドのマナーが悪い場合もあります。祇園などでは、人が多いので「注意してください」というガイドさんもいますが。ベネチアなどでは人が多くなり、町への入場料を取り始めましたね。水の問題やトイレが足りないこともあるようです。日本では姫路城が、外国人入場に4倍も取る案があるとか。
サムさん:シンガポールは、地域と外国人の二重価格があります。
亀田さん:住民のためにとコミュニティに使ってもいいですね。ヨーロッパでは、二重価格の場合は、美術館の補修などに使うと言っています。
M・Fさん:サムさんは、たくさんのレストランをテストされたようですが、何が良かったですか?
サムさん:いろいろなひとと話す事ができました。
今までやったことをもう少し、話します。
グローバルカフェについて
- 1年目:ユダヤ教の文化の紹介
- 2年目:ハロウインでカナダやアメリカの文化の紹介 メキシコの死者の日も
- 3年目以降:オーストリアのクリスマスとか(コロナ禍のなか)
無料。大人数になると、交流会ができるようになったが、子どもと関わる機会が減ってきた。→子ども向けをはじめに持って来た。
料理教室:餃子教室(Z・Yさんなどがゲスト)
コロナ禍の時は、年に1.2回しかできなかったが、お金も時間もあり、力を入れてやれた。(メキシコの死者の日の紹介:装飾・おやつ・変装なども)
子どもグローバルカフェ:ブラジルの料理も
4年目以降:以前、5年間ほど料理を仕事にしていたので、料理をやりたいと思った
ベトナムコーヒー・テキサスやメキシコの料理・中華ちまき(丹波篠山のちまき屋さんから・カナダのピクニック料理・ウズベキスタンとヨルダンのデザート作りなど。
国際交流協会のイベント
ワールドフェスタ:カナダの紹介・姉妹都市からの訪日
姉妹都市訪問:中学生とStillwater市での交流プログラム&報告会
多文化共生センターの設営
亀岡訪問:自粛はするが、少しづつ訪問客があった。
空手選手・オーストリアのクリスマスイベントの紹介・
イスラエル&パレスチナの人がいっしょに訪問など
OSU教授グループの亀岡訪問
アメリカ女性の話(桜の女王):日米交流について
他国へ通訳として:中学生をアメリカオクラホマに交流プログラム(通訳として)
最後に:外国人がせっかく日本に来たので、日本語も話せるので、積極的に交流しようとしました。外国人に対する印象が変わるかもと。町をうろうろして、よくいろいろな人と話をしました。おもしろい人が多いなという印象ですが、特に、料理を通じて話すと誰とでも話ができたと思います。亀岡市内の料理店は、だいたい全部行った事があると思います。
亀岡の食べ物はおいしいですね。他の地域の人が、知らないのはもったいないと思います。バールでも、京都市内でも、スノーボードのつながりの人たちにも、話しています。亀岡の食べ物のおいしさを。
最初は、仕事にかける時間がほとんどでしたが、だんだん同僚とも仲良しになり、バイクなどのツーリングにも出かけるようになりました。気持ちを込めて人間関係をがんばったと思います。
ずっといっしょにいても、名前がわからないような状況は避けようと仲良くしてきたと思います。そのため、地域の行事にも参加してきました。亀岡祭では高砂山で笛を吹きました。その笛を持ってStillwater訪問にも持って行き、アメリカで笛を吹いて見せました。光秀祭も参加しています。
亀岡では、誘われたら、とりあえず行ってみようと。
M・Fさん:自分で文章も書いていましたね。
サムさん:そうです。
M・Fさん:日本人と結婚してずっと住みますか?
S・Oくん:5年間亀岡におられて積極的に関わってこられたなあと思います。ぼくも、高校時代のカナダに留学し、交流しようと思っていたのですが、なかなかせまいコミュニティからは、出られませんでした。アルバイトなどをすると、人間関係ができるのかもしれませんね。サムさんのやり方は、僕のあこがれです。
サムさん:自分の私生活だけにいると、何も変わらないですね。1、2年目は、仕事の時間も多く、不安もありました。日本語もそれほどうまくないし、ほめられることもないしと。その後、自分から考え方を変えようとしました。それからは、積極的に話しかけようとか、京都人の考え方を知ろうとか、その後少し、余裕ができてきました。
不安があっても、自分で考えていけば、良い方向が見えてくると。
S・Oくん:いろんな方と接しておられますが、料理を作ることは効果的だったのでは、ないですか?サムさんのベースでできるし。
Y・Hさん:コロナ禍もあり、大変だったでしょうけれど、ものすごい経験でもありましたね。
サムさん:大変な事はいっぱいありました。コロナ禍というのは、今まで誰も体験がなく、自分で考えないといけないということで。でも、その後、何とか自分で乗り切ったという気持ちは持てるようになりました。
M・Sさん:5年間の最初の方は、サムさんは、自信がなさそうに見えました。英語で話すと、「日本語で話してください。」と言われたのですが、緊張感が伝わりました。コロナ禍も越え、通訳の仕事も翻訳も成長されたと思います。そんなに表に出しはしないけれど、努力してくれたと思います。
サムさん:タイムズでは、思い出として、Stillwaterへ生徒死とたちと行き、自分にできるかなと思っていたことができたと思いました。亀岡祭でも笛も吹きましたし。
亀岡はそんなに大きな町ではないので、また、亀岡で就職できるとは思っていませんでした。でも、「森の京都」に就職できて、まだ亀岡にいます。
R・Sさん:10月にStillwater市から、また訪問がありますね。その時もサムさんは、頼まれるのではないですか?
サムさん:今の仕事は人生の中で一回しかできない仕事だったと思います。5年間ちゃんとやりたいと思っていて、がんばったのですが、後悔はしていません。僕は亀岡市の12番目のCIRでした。「森の京都」は、財団でこの地域の振興や定住者の支援とか、丹波地域の魅力を紹介する仕事のようです。9月から始めます。8月には、一度カナダ゙に帰ります。
Z・Yさん:ずっと日本に住んでいると、中国語でこれを何というのだろうというようにわからなくなることがあります。漢字もちがうし、書けないことも。中国語で話そうと思っても、話せないこともあります。
E・Tさん:ぼくは今日のこのようなセッションについて、もっといろいろな人に知ってほしいなあと思います。ここのメンバーは自分で動く人がほとんどですが、外には、あまりないグループや話し合いの場所だと思うので。今日は本当にそう思いました。
児嶋:このあとで、毎回私はレポートを書き、この会員メンバーの150名ほどにはメールや郵送でお送りしています。今、E・Tさんが、もっと多くの人に知ってほしいと言われたことは、うれしいし、少し考えましょう。ただ、セッションというのは、ゲストの話をただ聞くだけではないので、自分の思いを話して、セッションと思うので、小人数に限定しているのです。ただ、私のホームページ(児嶋きよみ・ホームページ)と
打ち込んだら出てきます。以前のGSも。ただ、みなさんの発言などは、イニシャルで書き、ゲストとコーディネーターの亀田さんと児嶋だけは、名前を明記しています。
亀田さん:では、今日はこの辺で。
児嶋:次回は、レイチェル・クラークさんという元日本人でアメリカで国際会議で通訳などをされている方がゲストです。英語社会で、日本語という言語はどう受け止められているのかなどについての話し合いです。またどうぞ、おいでください。
2024年5月19日(日)第375回グローバル・セッション・レポート
開催日:2024年5月19日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:木村且哉さん(亀岡市在住、亀岡国際交流協会副会長、大本本部国際愛善宣教課長、 NPO法人人類愛善会インターナショナル理事兼事務局長)
コーディネーター:亀田博さん(ツアーガイド)
参加者:9名
今回のタイトル:「フィリピンでの子ども支援」
参加者自己紹介
亀田さん:今日は、NPO法人人類愛善会インターナショナルの理事で事務局長の木村且哉さんから、お話しを伺い、その後、セッションをしていきます。私は、コーディネーターの亀田博です。まず、参加者のみなさまの、自己紹介から始めていきます。
Z・Yさん:主人(日本人)と結婚し、2013年から、日本語教師の仕事を始めました。2015年からは、日本語学校の派遣教師として、フィリピンで日本語教育を始め、北方のブラッカにいました。その後日本でコンビニの経営などもしていましたが、夫が病気になり、亡くなりました。その後、2021年から、亀岡で日本語学校の紹介で、亀岡で外国につながる子どもの学習支援員を始めました。そのころから、ひまわり教室を知り、ボランティアで教えることも始めました。2023年の9月からは、亀岡市の職員として、毎日どこかの学校の支援員をしています。
H・Mさん:最初は日本語学校の事務員をしていましたが、肩と指の怪我をして、日本語教師になりました。最初は、Z・Yさんのあとに、フィリピンで教えたかったのですが、実際には、ベトナムで日本語教師をしていました。
Z・Yさん:2010年に留学生として、日本に来て京都大学で心理学を学んでいました。中国の江蘇省の蘇州市出身です。(蘇州市は亀岡の友好都市ですよ:R・Sさん)結婚し、子どもができてからは、亀岡で英語教室などをしています。今は、たのまれて、亀岡市内の学校のフィリピンから来た子どもの支援をしています。今日は、そのこともあり、参加して知りたいと思いました。(南つつじケ丘小学校で)
R・Sさん:小学校の教師をしていました。退職して8年目か、9年目になります。ひまわり教室の最初の頃から指導者として、関わっています。
N・Hさん:仕事で長く亀岡から離れていましたが、1.5年前に亀岡に戻ってからは、いろいろな方と話して脳に刺激をもらい、視野を広げたいと参加しています。
R・Aさん:南丹市で、国際交流関係で日本語コーディネーターをしていましたが、今は、京丹波町に変わり、多文化共生マネージャーをしています。個人でも子どもに関わる支援活動をしていますので、高校卒業後の進路や、出産、育児に関わることなどの支援も必要で、ヒントがないかなと思っていたら、児嶋さんに、これに参加したらと誘われ、来ました。外国につながる子どもの支援の中では、バイリンガルに育てるには、どのようなことをしたらいいのかなどが知りたいです。今は、パキスタン出身の子どもはウズグル語を話すのですが、この言語が話せるネパール人に助けてもらっています。京都府国際センターの堀江さんにも相談に乗ってもらいました。
児嶋:1999年から、亀岡市交流活動センターで始めました。2011年に私が退職をしてからは、Office Com Junto(オフィス・コン・ジュント)の主催として継続しています。毎月1回を目処に継続して来ましたが、今回は、375回目になります。いっしょにやって来てくださった亀田さんたちとも、「あっという間に20年も越えてしまいましたね。」と言い合っています。大本さんとは、オクラホマ州立大学(OSU)京都校が1996年に閉鎖したあと、1999年ころから、OSUの造園建築学科の先生と学生達が毎年、亀岡を拠点に海外研修プログラムを始めたのですが、その最初の年の宿泊場所としてお借りしたころから、お世話になっています。
亀田さん(コーディネーター):私は、大津市に住み、OSUの造園建築学科が研修に来たころから、ツアーガイドとして関わり、OSUのあるオクラホマ州のStillwater市にも市民のツアーを組み、旅行ガイドとして行ったことがあります。コロナ禍のあと、日本人が海外へ行くのも無くなり、今は、外国から日本に来る方が増えていますね。日本は実は、外国に比べると物価がまだ安く、外国人は、「安い!」と言って喜んでいますね。でも、日本人が今ハワイへ行くと、すべてを込みで200万円くらいが普通の相場です。前回の福井県の小浜市から来られたゲストの大森和良さんが、小浜で遭難事故がゴールデンウイーク前にあり、それを大森さんが、小型船を出し、救助されたというお手紙をもらい、本当に驚きました。県内では、新聞にも掲載されたそうですが、その他の地域では大きくは取り上げられなかったようですね。でも、戦争前の事故の救助をされたことで、今も交流が続いているというお話しを聞いたばかりだったので、さらに驚きました。では、ゲストの木村さんの自己紹介からお願いします。
グローバル・セッション開始
木村さん:大本本部の職員で、NPO法人人類愛善会インターナショナル理事兼事務局長とNPO大本イスラエル・パレスチナ平和研究所の理事をしている木村且哉と申します。
フィリピンのマリンドゥーケ島で子どもの教育支援をしています。マニラから南に200kmに位置し、ほぼ円形の島で、面積は日本の淡路島と同程度です。人口は20万人で、農業と漁業が産業の島です。人類愛善会は、フィリピン、香港、タイ、インド、スリランカ、バングラデシュ、モンゴル、ネパールなどに分会があります。
私は、2008年にフィリピンに初めて行きました。フィリピンは、7109の島々と人口は1億人を越えます。大河ドラマの『黄金の日々』でも出て来ましたが、秀吉時代のルソン島の話がありました。そのころから、実は400年以上のつながりがあります。今、このマリンドゥーケ島に行くには、空港が無くなり、船で行かねばならず、時間がかかります。1986年のバブル全盛期のころ、人類愛善会のマニラ分会ができ、平野さんという人がマリンスカイ開発株式会社を設立し、ホテルやゴルフ場の経営に乗り出しました。マリントゥーケ島は、人口20万人の島ですが、近くのエレファント島という無人島にホテルを建て、ゴルフ場も開設し、客で賑わっていました。当時、この島でも例外ではなく、子どもが学校に行けないような貧しさで、平野さんがフィリピン愛善友の会として支援を始めました。物品を贈るだけでは子どもたちの成長の役にたたないと考え、1993年に養豚による奨学援助活動をスタートしました。子豚を産ませてそれを売り、奨学金にするシステムです。その奨学金は貯金通帳に入れておきます。フィリピンの女性は働き者ですが、男性はそうでもなく、現金があればすぐに使ってしまうので、貯金通帳はお父さんには使わせません。愛善友の会の活動拠点としてフィリピン愛善センターを開設しましたが、その開設式に当時のラモス大統領や、のちのアロヨ大統領(当時は国会議員)も出席しました。
児嶋さんもよく知っている大本の出口眞人さんは、当時、人類愛善会の事務局長でこの写真に写っていますが、その横にいるのは、マリンドゥーケ州の教育委員長をしている女性です。この方ラブラドールさんは2才の時に父親を日本軍に殺されました。フィリピンは、実は太平洋戦争中の3年8ヶ月、日本の植民地だったのです。その間、フィリピン人捕虜が殺害されたりしたのを見て来ているので、最初は、この活動にいやいやながら、参加をしていたと聞いています。でもこの時からの日本人の温かさややさしさに接し、恨みも変化してきて、祭典に参加し、子どもたちに戦争の悲惨さと平和の大切さを伝えたいと考えるようになられたそうです。
平野光男さんは、活動の最中に1995年に急逝されました。その後、フィリピンとのつながりはだんだん途絶えてしまっていました。
私は、2001年に大本の国際部に異動になったのですが、フィリピンの活動の話は、全く聞いていませんでした。
2008年にマニラで、宗教者の会議があり、私は初めてマニラに行きました。インターネットで、それまでの平野さん達といっしょにいた方たちの情報を調べると、マリンドゥーケ州教育委員長のラブラドールさんはフィリピン教育省の次官になられていることがわかりました。その年は会えなかったのですが、2009年に再度マニラに行くと、ラブラドールさんにお会いでき、小学校の校長先生をしているマリアさんを紹介していただきました。マリアさんは当時、写真に写っていた一番若い女性です。
養豚活動は、実は、平野さんが亡くなってからも、2003年まで継続していたそうで、1500人もの子ども達を支援し、高校や大学にも行ったそうです。
子豚は繊細で、ストレスに弱く、1500人の支援を受けた子どもたちの4割が豚の出産に成功し、子豚を売ったお金で学校に行き、高校、大学を卒業しました。
1995年に支援を受けた子どものひとりである、ライネ・カピートさんという女性に2009年に訪問した時に会い、彼女の自宅につれていってもらいました。ほったて小屋のようなところが家で、電気も、ガスも、水道もありません。彼女は子豚を売ったお金で高校を卒業し、卒業後はサリサリ(現地のコンビニ店)を経営していましたが、20歳で結婚し、子どもが次々とできて(5人)お店の経営が難しくなったそうです。彼女の夫は、平野さんが始めたホテルを平野さんの死後、韓国企業が買収して会員制のリゾートホテルが2008年に開業しました。そこで仕事をしていますが、月収は、15000円程度で生活は苦しいです。彼女は「もういちど愛善会から、支援活動をしてほしい」と希望を述べていました。
愛善友の会フィリピン愛善センターの建物はまだ残っていて、地域の集会所として使用されていました。現在は、子どもの放課後教育の施設として利用しています。
子豚は、1才で大人になり、出産もできます。一度に10匹ほど産み、1匹2,000円から3,000円で売れるので、10匹いると、2.3万円の収入になるようです。マリンドゥーケでは、小学生ひとりあたり、年間18,000円ほど教育費がかるので、とても有益だと言っています。
さきほどのラブラドール教育次官は、教育プログラムを担当していたようですが、残念ながら2012年に死去されました。
2010年に第2期Pigletプログラムがスタートしました。日本円で10万円程度あれば20人の子どもに子豚が支給できます。第2期が開始して現在200人の子どもたちに子豚を支給しています。
山岳地域では、子豚よりヤギの方がやりやすく、これも提供しています。
現在までにマリンドゥーケを襲った台風の被害や2020年からのコロナ禍、また近年では豚疾病の流行と何度か活動は困難に見舞われましたが、皆様の支援をいただき15年間続けてこられました。今後も支援は続けていかなければならないと思います。以上です。お聞きいただき、ありがとうございます。
亀田さん:では今から質問などをどうぞ。
R・Aさん:先ほど、小学生の必要な金額として、18,000円と言われましたが、国か、自治体の支援などはないのでしょうか?私は南丹市でも仕事をしていましたが、南丹市の寺院の住職さんもフィリピンに行かれたことがあるようです。
木村さん:国や自治体には子供達を支援する余力はありません。
R・Aさん:現地にいて、自分で生活を維持できない場合は大変ですね。フィリピンから日本に来て日本人と結婚し、もう永住されている方達もいますね。
木村さん:ネパールでも、優秀な子は海外に行き、職につきたいという人がいます。チャンスがあれば、外に出たいと。国内では、目の前に居る子達の支援で手がいっぱいでしょう。マニラの支援団体でも、日本からフィリピンに来た駐在員がフィリピン女性との間に子どもができ、男性はそのまま帰国してしまい、大きくなった子どもは、日本にいる父親を見つけて認可させることがあります。支援団体は、あとしまつもあります。
R・Aさん:女性が子どもといっしょに日本に帰国した夫を追いかけてきて、苦労して見つけ、日本に住み着いた家族もいます。
木村さん:そのような状況でも、フィリピンの人は明るいですね。お金がなくてもあまり気にしないとか。日本は太平洋戦争中3年間も植民地として占領していたのですが。
N・Hさん:大本さんの播いた種で育って大きくなった子どもたちもいるのでしょうね。現地の人がこの支援活動をもっと育てていこうという動きはあるのでしょうか?
木村さん:経済的な部分に頼らないためには、スポンサー探しが必要ですね。ボランティアや指導者になるという志はあると思います。
N・Hさん:このような動きが拡がっていくのが理想ですね。
木村さん:1993年に始まり、一旦2003年に止まりましたが、2010年に再開され、現在まで続いています。このような支援は続けていかなければならないと思います。
Z・Yさん:現在はスマホもフィリピンでも使われていると思いますが、そのように変わってきましたか?情報は入って居るのでしょうか?
木村さん:そうですね。実はZOOMでエスペラント語を教えていますが、電波が悪い場所もありますね。
Z・Yさん:豚を育てて10頭も産むのはすごいですね。
木村さん:子豚は一匹2000円から3000円の値段で、マーケットなどで売れます。豚は毎年出産しますし。
Z・Yさん:売れるとしたら、大人もやっているのでしょう?
木村さん:農業と漁業が主な産業なので、養豚は島では貴重な産業です。
児嶋:ひまわり教室も2014年から始め、もう10年目になりますが、最初に子どもさんの勉強を見てほしいと言われたお母さんは、フィリピン出身のお母さんとメキシコ出身のお母さんの二人でした。そこから始めて今までやって来ましたが、フィリピン出身のお母さんもその後もいろいろな方がいました。日本人と結婚し、しばらくして離婚し、子どもさんを認知はしているので、日本国籍を持っていますが、母と子だけなので、宿題も教えられないので見てほしいと来られたのです。その後、アメリカ人とネットで知り合い、アメリカに行く前にフィリピンに戻り、キリスト教では、離婚を認めないので、フィリピン人とした結婚は無かったことにして、書類を書き、アメリカに渡り、今は昔別れたフィリピン人の子ども達も呼び寄せ、アメリカで仲良く暮らしているファミリーもいます。亀岡にも。いろいろなケースのファミリーがいますよ。
Z・Yさん:フィリピンで日本語を教えていましたが、日本の日本語学校でも教えていました。その中に、フィリピン出身でダンスが上手で、日本人との間に子どもができて、フィリピンに帰国して出産した人もいます。日本人の父親は生活費を出していましたが、結婚はしないままです。いつか、日本語を勉強して日本に来て、日本人の夫さんと結婚したいと言っている人がいました。
木村さん:夫とは別居しているケースも多いですね。
児嶋:Z・Yさんは、今は亀岡市の職員として、支援員をされています。
Z・Yさん:以前は、頼まれてアルバイトとして、支援の仕事をしていましたが、夏休みなどは学校に行かないので、仕事がなくなります。それで、都ホテルにいる友人から、「その仕事は止めて、ホテルで仕事をしたら?」と勧められました。面接も通り、この支援員の仕事をやめようかなと思って居たときに、児嶋さんから、「市長さんに紹介するので」と言われ、いっしょにお会いして、市役所の職員としての支援員をすることになりました。ひまわり教室もその時に紹介されて、指導者は、自費で参加をしていますが、いろいろな子どもたちがいて、楽しいです。マレーシアから来た日本人の父親と中華系マレーシア人の母親の間に生まれ、英語、中国語、マレー語はできます。でも、日本語は話せるけれども、全く書けないというような子もいます。
Z・Yさん:私も頼まれて、支援員をしていますが、南つつじ小ですが、全く支援がなかった子もいます。
亀田さん:亀岡は、他の地域より進んでいますが、何か支援ができるかもしれないが、知らない人が多いですね。沖縄の返還時に食料として、ハワイからアメリカ軍が豚を送ったことがあるそうです。気候が合って繁殖したそうですが、その後政府がピンハネをしたとか。
児嶋:フィリピンの子どもの支援も、10万円でできることがあるなら、支援者を通して寄付を募ると言う方法もありますね。このようなことを知ったら、できることはしなくてはと思いますね。
亀田さん:時間が来ましたので、また個別に話を聞きたい方は、木村さんのメールのアドレスも在りますので、よろしくお願いします。
児嶋:次回の6月のGlobal Sessionは、国際交流員のサムさんで、7月で5年目の最終月になります。ぜひ、話を聞きにいらしてください。