2025年5月25日(日)第387回グローバル・セッション・レポート「歩んで来た道から見えること」

コンテント

開催日:2025年5月25日(日)10:30~12:50
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:張穎さん(中国出身・外国につながる子どもの支援員)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:19名

 今回のタイトル:歩んで来た道から見えること

2025年4月27日(日)第386回グローバル・セッション・レポート「いろいろ考えて帰ってきました」

コンテント

開催日:2025年4月27日(日)10:30~12:50
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:山本咲さん(かめおか多文化共生センタースタッフ)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:13名

 今回のタイトル:「いろいろ考えて帰ってきました」

恒例の自己紹介からスタートです。

コーディネーター(亀田さん):では、これからGlobal Sessionを始めます。

まず、自己紹介からお願いします。

E・Tさん:2024年の8月からまた、亀岡に住み始めました。JTの子会社に勤務していますが、12月から同じ職場の中で新しくなり、悪銭苦闘しています。久しぶりにGlobal Sessionに参加しました。

Z・Sさん:亀岡市の職員でしたが、期間が終わり、新しく「森の京都」で仕事を「しています。今日のゲストの山本咲さんは、トロントから日本に家族で帰国したと聞き、興味があって参加しました。トロントは、ぼくのふる里です。山本さんが、カナダに来られた時は、ぼくは、14才でしたが、日本で出会ったのは、24才でした。

R・Sさん:オフィス・コン・ジュントの主催するひまわり教室で、指導者として関わっています。外国につながる子どもの支援について関わっています。

M・Sさん:咲さんとは長い付き合いになります。日頃から話はしていますが、どんどんテリトリーを拡げて行かれているようです。亀岡に住んで思う事を聞きたいと思っています。

M・Mさん:「やさしい日本語」を広める会の会長をしています。外国につながる人々にわかりやすい日本語で伝える方法をと考えています。

M・Hさん:立命館大学院の二回生で、日本語教育の専攻です。

Y・Hさん:いつも言っていますが、仕事で亀岡を離れていて、2年前に戻って来て今は、無職です。GSでは、いろいろな話が聞けるので、おもしろいです。(9月には、ゲストをお願いしています。:児嶋)

Z・Yさん:中国出身で、外国にルーツを持つ子どもたちの教育支援員をしています。(5月のGSのゲストです。:児嶋)

N・Fさん:市役所で勤務しています。ひまわり教室で指導もしています。

児嶋:Global Sessionは、毎回言っていますが、1999年から始め、今回が386回目になります。20年以上になると思います。

亀田さん:大津市に住んでいます。滋賀県は、琵琶湖があり、湖が中心です。大津市はマンションが多く、亀岡に来ると古い家に住んでいる人も多く、とても落ち着きます。

近江八幡や、彦根、長浜なども特色がありますが。

山本さん:亀岡はいろいろな所にアクセスがいい場所と思います。

亀田さん:では、山本さんのお話しをお願いします。

山本さん:亀岡に来て3年目になります。大阪の箕面生まれです。コロナ後、2022年に夫と合流して、家を探し、亀岡にベストの家として、決めました。

Global Sessionは、亀岡に住むようになる前に、多文化センターで、四方美智子さんに進められて参加しました。

カナダも好きでしたが、いろいろ考えて日本に帰って来ました。家族は、5人家族です。

小学6年生のノアと小学1年生になったアレンと5才のミラと夫のホルネル(42才)と咲(37才)です。

山本さんの追加のレポート

「本日は大変貴重な機会を賜り、本当にありがとうございました。児嶋さん含め、皆さまが“面白い”と思っていただけたらとても嬉しいです。

グローバルセッションのような、能動的で建設的な、それぞれの意見や思いが話し合える場所が、どの機関でも当たり前になったらなぁと改めて感じました。

いろんなことを話しすぎて、うちの子供達の言語について共有するのを忘れていました(笑)

●小6のノアは小1で日本に来たので、日本語に順応するのは容易でした。一年生の漢字も他の子供達と同じように習得しました。逆に、英語を話す環境がなくなってしまったため、英語が弱くなってしまいました。英語は6歳レベルの英語しか覚えていません。家ではパパとは英語で会話をしていますが、うまく伝えられないこともたまにあるみたいです。リスニングはありますが、単語の理解もカナダ人の6歳レベルです。

現在はアカデミックな英語学習は積極的にはしていません。家では英語で映画やYouTube 動画を一緒に観たりしています。

漢字は覚えられましたが、国語の読解力や日記を書くこと、会話力は他の子より平均以下かも?と感じたことは低学年の頃よくありましたが、言葉が遅いのも長男あるあるか?と思ったりもしました。生活上、問題ないです。

名前もカタカナですし、周りから帰国子女のように見られることが嫌みたいで、英語を少し拒絶しているようにも見ていて感じます。

まずは日本語をしっかり習得してもらって、英語に興味がでてから自分の意志で勉強してくれたらと願っています。最近は、自分の産まれた国、カナダにまた行ってみたいと言い出していますので嬉しいです。友達も多く、元気な野球少年です。

●アレン(現在小1)は日本で産み、0歳から2歳くらいまでカナダにいましたが、学校や幼稚園に通っていないので、英語は家庭内でのみでした。日本語が母語です。ただ、ノアよりも語学能力に長けているように思います。これは個人差や個性かなと思っていますが、両親の英会話をしっかり聞いているので英語も理解しています。積極的には喋ろうともしています。

●ミラはカナダ生活は4ヶ月のみなのでほぼ日本の環境で育っています。英語にふれることは両親の会話くらいです。女の子なので、口が達者です。よくしゃべります。英語はあまり喋りたがりません。英語で喋りかけても日本語で返事します。

3人とも、無理に英語は教えないようにしています。いつか自分たちが両親の住んでいたカナダや、アルメニアなどに興味を持って、外国語を学びたいと思ってくれたら、その時はサポートしてあげたいと思っています。」

なぜ、カナダのトロントに?

子どものころからのあこがれ+日本の景観がきらい(電車でみる風景ばかりですが)

はやく広い世界に行きたいと思い、アメリカ文化にあこがれていました。(ただのあこがれ)ワーキングホリデイでニューヨークの上にあるトロントに行きました。

フィリピン人の家でホームステイをしていたら、アルメニア出身の男(現在の夫)が休日に遊びに来て、それが夫との初めての出会いでした。トロントはいろいろなストリートがちがう民族性を持っている町です。

カナダは、それぞれの色や形を活かしたモザイクアートで、アメリカはいろんな素材を溶かしてできたスープ(るつぼ)みたいな感じと思います。

人種のモザイク(Mosaic):いろいろな文化や民族がそれぞれの特徴を持ちながら共存する社会。カナダのトロントでは、中国系、インド系、イタリア系など、それぞれの文化が残ったまま暮らしている。

人種のるつぼ(Melting Pot):いろいろな文化や民族が混ざり合い、一つの「アメリカ文化」に統合される社会。ニューヨークでは、移民もアメリカ流の生活になじみ、英語を話し、アメリカ文化を受け継ぐ。

人種のるつぼの由来:英国のユダヤ系作家:イズレイル・ザングウイルが20世紀初頭に発表した戯曲「メルティング・ポット(るつぼ)より

るつぼ:何種類もの金属を溶かし、一つの合金とするための道具のこと

なぜ、今日のテーマ「いろいろ考えて帰って来ました」にしたのか:

 私は、大阪に生まれ、6年~7年バーテンダーをしていました。いじめられたこともあり、人間不信にもなりました。そこには、外国人も来て、英語で話すこともあり、早く海外に行きたいと思うようになりました。ワーキングホリデイでカナダに行き、3ヶ月ほどESLで英語を学びました。アルメニア人の夫と出会い、結婚をして、母親になりました。

 夫はカナダの市民権を持ち、私はカナダの永住権を取得しました。その後、カナダの移民のための英語学校LINCに通い、英語をしっかり学び、人生で一番楽しい学校生活だったと思います。その後、留学サポートの仕事やパソコンを使っての仕事などもしました。

カナダの主要な移民プログラムは、言語能力(英語または、仏語)が重要な専攻基準の一つで、言語教育が移民政策の中心である。

 カナダ:言語支援:ESL(英語支援)クラスが制度化

     教員体制:ESL資格を持つ教員が常駐

     法的枠組み:教育機関に提供義務あり

 日本:言語支援は、一部学校が自主的に対応

    教員体制は、専門教員の不足:自治体によって格差がある

    法的枠組みは、努力義務レベル 

カナダの多文化主義

 カナダは人口が少ないので、移民を受け入れないと成り立たない移民国家であり、文化的多様性を前提としている。1971年に多文化主義政策(Multiculturalism policy)を国の政策として採用。人種・宗教・言語などのちがいを尊重する。

 例:*移民が、母国の言語・文化を守りながら暮らせる社会をめざす

   *州や市の公式文書が多言語対応(中国語・ロシア語・ペルシャ語など)

   *学校で、宗教に配慮したメニューや休暇をとり入れる(ラマダン・ヒジャブなど)

日本は、単一民族国家としての意識が強い。それは、外国人が少数派で、特別扱いをされやすい。そのため、外国人の「受け入れ」に課題がある。最近は、外国人労働者や留学生が増加し、じわじわ変化中。「日本的なやり方」に同化を求める傾向がある。事実上、移民は多くなっているが、移民政策は不安定(技能実習制度や特定技能)。多文化主義の認識が不足している。また、支援の地域的かたよりがある。

例:*外国人のための相談窓口の設立(かめおか多文化共生センターなど)

  *小学校や中学校での日本語指導支援(亀岡市・京都市など)があるが、多くは、非常勤やボランティアに頼っている。日本語が不自由なまま、通常授業に入ることになり、教科の学力が見につかないケースが多い。また、年令が高くなるほど「学び直し」が困難になる。そのため、言語能力が原因で進学をあきらめる生徒もいる。

  *「やさしい日本語」の会などの指導(亀岡市役所などで市職員の指導のも)

教育・子育てのちがい

カナダ:自由な発想や多文化的理解が大切 個性・多様性を重要視する。そのため、個性や自己表現を尊重する。そのため、能動的な学びとして生徒が主体的に参加する授業を重視する。対話型で、質問やディスカッションを重視(Show and Tell)

 

考える力を育み、問題の本質を見抜く思考法として、Critical Thinking(批判的思考)が重視される。アインシュタインは、「常識とは、18才までに身に付けた先入観のコレクションである」と言い、うのみにしないで多角的に考える力が大切とする。

PTA活動は、アメリカ発祥だが、カナダにもあり、親は積極的で、ボランティア精神が根付いている。

清掃は、清掃員がする。トイレはきれいではない。ランチタイムは子どもが弁当を持って来て、子どもだけで食べ、教師はいない。

日本:知識の習得と協調性が求められる。(子どもが掃除)(給食を教師と共に)

集団の中で調和を保つ力が求められ、礼儀や秩序を大切にする。学び方は、受動的で、靜かに聞くことを求められる。

PTA活動は、会議は形式的。トイレはきれい。

Y・Hさん:カナダでは、「Critical Thinking(批判的思考)が重視される。」と言われているようですが、日本では、「批判的」という言葉のイメージから、あまり適切ではないと思われていると思いますが。

医療制度

山本さん:実は、日本の医療制度で息子が助かったことがありました。カナダではファミリードクター制度があり、予約する必要があり、時間がかかり、不便でもある。2才の時に帰国した時、それ以前から、腹痛と熱が続いていたが、なかなか見てもらえなかったが、日本では、小児科で診察後、すぐさま総合病院を紹介され、隠れた病気について、それぞれの医師たちが真摯に対応してくれて、結果、日本で無事に手術して成功しました。

 カナダでは出産後、1日で退院しなければならないので、Midwife(助産師)制度があり、産後1~2日目に自宅を訪問するケア制度があります。とても助かったし、ミッドワイフの活動に母としてすごくあこがれもしました。でも、日本の贅沢な入院生活に憧れて、2人目は日本で出産しました。

仕事と働き方のちがい

カナダ:仕事が厳密に分業、専門化されている。(専門家に責任を振り分け、働きやすさを重視する。(「担当ではない」という責任の明確化

例:カナダのカスタマーサービスに電話する→「その件は、別の部署です。」→それは、別ですね。→待たされ、折り返す。または、やっと解決

サービス・ホスピタリティ

カナダ:「対話と公平さ」を大切にする文化。フレンドリーな接客など。

 チップ制度:南北戦争後の奴隷解放宣言後に広まった。“感謝”だけでなく、“構造的な不平等”の影もある。

  *人種差別や搾取の歴史的背景が全くないとは言えない。

  *アメリカでチップ制度が根付いた背景には、奴隷解放後の黒人労働者たちへの待遇が深く関係している?

  *雇用者側が「正規の賃金を支払わずに済む」仕組みとして利用された側面も。

日本:おもてなし文化は、「見えない心配り」に重きを置く文化。

千利休:「おもてなし」=「表なし」説

表裏のない心で、表面的ではなく本心で相手を気遣う

聖徳太子:「和をもって尊しとなす」

「もって」「なす」の文字が「もてなす」という言葉に発展した

 見返りを求めない心・気づかれない気遣い:サービスの在り方がカナダ流と根本的にちがうと思います。

日本文化を形づくった3つの思想の融合(日本独特の精神文化)

 神道:自然や目に見えないものへの畏敬

    「清め」や「調和」「礼儀」を大切にする

    周囲と調和して生きる心

 仏教:苦しみを乗り越える智慧と、他者への思いやり(利他の精神)

    無情や内省を重んじる

    静けさ・控えめさ・慈悲の心

 儒教:親子関係、師弟関係など上下関係や礼節を重視

    勤勉・忠誠・礼儀という価値観

    道徳と秩序ある社会を理想とする

トロントは、都会だけれど、どこでも簡単に行ける街で、住宅街は木が多く、歩き回るのも楽しいです。公園も多く、子どもと大人が楽しめる街。冬には、学校の校庭が雪だるまだらけになります。移民の学校も充実していて、いろんな国から来た人たちとディスカッションができ、日本人として、日本を知らなければと思いました。カナダに移民として来た人たちは、祖国は好きだけど、政治的不安などが現任で住めなかったので、自由な国のカナダに移民として住むことができて、嬉しいと言っていました。私は日本人としてカナダに住み、海外から日本を俯瞰し、自分を見つめ直す機会になりました。

カナダに移民として住むには、英語力は必要不可欠です。そのため、移民のための政策の中心は言語教育です。

亀田さん:質問の時間です。だいぶん、時間が経ちましたが、どうぞ。

M・Sさん:山本咲さんの講座は、よく分析され、まとまっていますね。プレゼンテーション能力が高いです。カナダの良さも日本の良さもわかります。その中で、帰国して「こんなはずじゃなかった」という部分もあるのではないですか?

 私は、外国に住んで、日本に帰国したとき、単一民族の日本がせまくるしく感じられ、苦しかった時期がありました。このGlobal Sessionはちがいますが。

山本さん:カナダから日本に帰国したとき、日本の空港の清掃員の掃除の仕方を見て感動しました。日本では、それぞれの仕事に対する誇りを感じます。渡航前は病弱でもあり日本がいやで、抜け出したいと思っていました。大阪では、煙草を吸っていましたが、カナダではきっぱりやめました。帰国した日本は美しかったです。

M・Sさん:私が、苦しんで居たとき、「Global Sessionに来たら」と児嶋さんに言われ、参加するようになりました。日本だけど、日本ではないような場ですから。

E・Tさん:ここが、外国に近い感覚というのは、わかりますね。

山本さん:私は、日本は個性を殺す教育をしていたと思っていました。戦後、平均をつくる教育指導だったと訊いたことがあります。他の国はそれでは、成長しないので個性を尊重すると。最近は不登校の子がいても、フリースクールも増加していますね。カナダから帰国して数年経ちまので、確かに、自分のことしか考えない、世の中に無関心な日本人も見えて、縦割り社会だと思います。

Y・Hさん:世界の中で、自分の国に対してリスペクトが高い国とそうでない国もあります。第2次大戦後、自分の国にほこりを持てず、日本がきらいという人も増えたのです。けれど、日本のことを外国の人からよく聴かれます。小学生から、日本の歴史を学び直した方がいいと思います。日本語をしっかり勉強させるべきです。

山本さん:日本での方法で英語教育をしても伸びないと思います。

M・Mさん:外国の方を移民として受け入れるために、薬剤師のための「やさしい日本語」のビデオを造りました。保険証を造ったりすることもわからず、簡単に脱落する外国人の方もいますから。

Z・Sさん:外国人が多くなり、社会的に、外国人に対する視点がきびしくなっています。カナダでは、1970年に多文化主義を法的にとり入れてから、ずっと平和を維持しています。

M・Mさん:最近は、なんでもネットでしらべるだけで、偏見ももったままでいる若者も多いです。

山本さん:なんでもネットで調べられるから、いろいろ知っている若者は多いが、「選挙に行かないのはなぜ?」とか、10代や20代の人に「あなたは日本が好きですか?」と聞きたい。

Z・Sさん:日本人として日本の国についてもっと学んだ方がいいと思います。選挙の学習も。

R・Sさん:18才から選挙権がありますが、今は、中学生から選挙制度を学習します。高校では模擬選挙もやっているようです。

Y・Hさん:多文化共生という言葉の響きは、いいですね。だけど、まずは、日本人が日本のアイデンティティを確立する必要がある。多文化共生は二の次だと思います。

E・Tさん:それも態度で示す必要があるでしょうね。

山本さん:となりのひとに興味を持ってほしいですね。

Y・Hさん:英会話もいいけれど、まずは、日本語をしつかり学ぶ必要がある。日本のことをよく知ってはじめて会話ができると思います。

亀田さん:日本のことを聞かれて答えられる日本人を育てていく必要があるでしょう。

Y・Hさん:中学校から10何年も「英語のでこぼこ道」をあるいて来ました。ぺらぺら話す必要はないので、何を話しているのかに注目していきたいですね。

亀田さん:今日は、この辺で終わりましょう。

2025年3月29日(日)第385回グローバル・セッション・レポート「服飾から見た生活文化シリーズ28回目:「1940年代のアメリカ服飾史―第二次世界大戦がファッションに与えた影響―」」

コンテント

開催日:2025年3月29日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室&オンライン
ゲストスピーカー:濱田雅子さん(元武庫川女子大学教授、アメリカ服飾社会史研究会 会長)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:8名
主催:オフィス・コン・ジュント&亀岡国際交流協会
共催:アメリカ服飾社会史研究会

 今回のタイトル:「1940年代のアメリカ服飾史―第二次世界大戦がファッションに与えた影響―」

セッション終了後のレポート

2025年2月11日(火・祝)第384回グローバル・セッション・レポート「外国人ママから見た日本の小学校の不思議」

コンテント

開催日:2025年2月11日(火・祝)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:ゲスト:周悦さん(中国出身・亀岡市多言語指導員)
コーディネーター:亀田博さん(ツアーコンダクター)
参加者:17名

今回のタイトル:「外国人ママから見た日本の小学校の不思議

自己紹介

亀田さん:コーディネーターの亀田です。参加者の方々の自己紹介から始めたいと思います。

M・Mさん:「やさしい日本語を広める会」の会長です。仕事をする外国人の方と接する方々も必要です。

M・Yさん:教育委員を7年間していました。今回の「日本の小学校の不思議」というタイトルに興味があり参加しました。

Z・Yさん:亀岡市で外国につながる子どもたちの教育支援の仕事をしています。周悦さんの話が楽しみです。

S・Fさん:先月、「ひきこもり」の研修会を受講しました。15才~65才くらいのひきこもりの方は、150万人ほどいるそうで、ちょうど京都市の人口くらいです。外国の方の観光も増えていますが。

Y・Hさん: 総合商社に勤めていましたが、2年前に亀岡に戻ってきて、今は無職ですが、Global Sessionは、いろいろ聞けて楽しいので、いつも参加しています。

M・Hさん:30年ほど、亀岡市内で「へき亭」を運営していました。今は無職です。ただ、家で時々、料理教室などもしています。

S・Gさん:2024年9月まで5年間、亀岡市国際交流員をしていました。今は、「森の京都」という会社で、南丹地域などの地域振興の仕事をしています。

F・Kさん:滋賀県で35年間養護学校の教師をしていました。退職後、10年ほどたちますが、今は京都の中京区に引っ越しています。

N・Fさん:亀岡市の職員です。ボランティアで京都駅などでガイドをしています。

S・Yさん:ここの多文化共生センターの相談員をしています。

Y・Uさん:小学校で、30年間教師をしていました。日本に来ている外国につながる方も増えていますが、気が付かなかった事も多いので、今日は、参加しました。

S・K(新聞記者)さん:児嶋さんに誘われてこのGSに参加しました。小学生と今度1年生になる子どもがいます。

M・Sさん:亀岡に住み、小学校の教員をしていました。10年以上前に退職し、時間が経つのが早いと感じています。いろいろなボランティアをしていますが、ひまわり教室も参加しています。今日のタイトル(小学校の不思議)に引かれ、参加しました。

K・Nさん:村おこしの仕事をしています。学童保育も2ヶ月に1回ほどやっています。前回も参加しました。

H・Mさん:亀岡で木綿の生地屋をしています。

児嶋:このGlobal Sessionは、1999年に宮前町にあった交流活動センターで始め、私が退職後は、主宰をしています。今日は、384回目です。月に1回やってきたので、もう20年以上になりますね。セッションが主なので、どうぞ。いろいろなご意見を。

グローバル・セッション スタート

亀田さん:亀岡でない所から来ていて、大津市からです。京都駅も外国人観光客が多く、この嵯峨野線も多いので、早く行かないと乗れないくらい混んでいますね。

では、周悦さんの自己紹介から始めて、今日のお話をお願いします。

周悦さん:時間的には、30分~40分話し、セッションということでいいですか?Global Sessionのゲストに呼んでいただき、光栄です。みなさんのお話しも聞きたいと思います。

私は、中国の江蘇省の蘇州市で生まれました。亀岡市の友好都市でもありますね。

自己紹介:2009年に熊本大学に交換留学で来て、2011年には京都大学大学院で発達心理学を学び始めました。現在は、英会話教室の経営と講師をしています。

保津小学校ETTボランティア講師や、東輝中学校での語学支援員をし、通信教育で「認知心理士」資格取得のため勉強中です。又、二児(3才と7才)の母です。

7才の娘(小1)は、本が好きで新聞も読んでいます。2024年4月に入学しました。1学期には、先生からも友達とも仲良く、学校の勉強もいろいろ上手にこなしていると言われていました。ところが、9月になると、学校に行きしぶり出して、母子登校や父子登校でしか行けなくなりました。今は、転校を考え、2月からは、西別院小学校に週一回行き、「ここに行きたい」と言うようになりました。このように「学校に行きたい」と思えるまでに何があったのかを探ってみたいと思います。

タイトル「外国人ママから見た日本の学校のふしぎ」ですが、中国の学校と比較して、何がこうなっているのか、みなさんといっしょに考えてみたいと思います。

中国では、成績のランキングがはっきりしています。テストを返して貰うときも成績順で呼ばれ、先生からも友達からも重く見られます。また、親の送り迎えが必要で、小学校では、国語、算数、社会、理科だけで、家庭科や生活はありません。また、成績がトップの人がクラス長になり、班長も成績順になります。運動会は、運動ができる子どもだけが参加します。入学式も子どもだけが参加し、保護者は帰ります。全校の式典も先生の話を聞くだけです。

このような中国の学校で育った私ですが、日本の学校は楽しみでした。

子どもも行く前からわくわくしていて、楽しみでした。ところが、いろいろ準備も含め頭がいたい現実がありました。

  1. 持ち物にすべて名前を書く。袋のサイズまで規定がある。筆箱の鉛筆の本数も。
  2. びっくり仰天の教室の現実授業参観:先生が二人・子どもが歩き回る
  3. 保護者として:PTAの集まり・授業参観・懇談会・運動会の参観など(保護者も休んで参加するほど忙しい) 中国では、1年に1、2回

デメリット:自分で考える必要がない。子ども自身の思考力が失われるのではないか?

2学期から、不登校が始まった。

 母子登校をして気づいたこと:学校が楽しくないと思った現実

*先生に「おんぶして~」って言ったらダメと2回言われた(教師と生徒との体の接触は制限されると)→人間らしい行動がダメ?

*知り合いの好きなお姉さんの教室に行けない。→他の学年の階や教室に行ってはいけない。 (日本ではことばで、「大好き」と言いにくいのか?トラブル防止は、人間関係の薄さにつながらないか?)

*ブラックスケジュール?
毎週金曜に、学習予定表が配布され、下校時間が週によってちがう場合がある。(働く親は、どうやってスケジュールを組むのか?パートだけ?長期の休みの前後は給食がない。日本では予定の変化が多すぎる。→ストレスがたまる?

中国では、スケジュールの変化があまりない。

  • 2年生: 2:35下校
  • 2年生~6年生: 3:25校

放課後、担任の先生が教室内で預かり、決まった時間に下校する。

日本の場合、変化が多い→先生の負担にならないか?

(中国では、毎週の予定が決まっている。)

小学校の一日のスケジュールの変動で、困る児童がいるのでないか?

 (気づかれないストレス・不登校につながる恐れも)

*日本の小学校の1日のスケジュール

  ①次の授業までに5分で移動(お茶・トイレ)

  ②給食は12:05から~12:45(朝ご飯が7:00でお腹がすく)

  ③昼休み 12:45~1:00(たったの15分)

    ちょっとしか遊べない・外遊びは間に合わない

*中国では、昼寝の時間がある。(リクライニング椅子のある学校もある)

  授業の間は10分と固定されている。

  昼食と昼休みを含む時間は、長くて2時間も

*日本の学校でも、昼寝の時間の導入をする学校もある。

最後に、これから学校があるべき姿について考えたいです。私はまず学生は学生である前に「人間である」と思います。エリクソンの発達段階理論がありますが、6才~13才は勤勉性が求められ、身に付けたことに励む必要があると言われています。なので、学校は必要です。

ただ、学校は何を優先させるべきかというと、マズローの人間性心理学にあるように、まずは「生理的欲求」を満たす、つまり十分な休む時間があり、給食は落ち着いて食べられる環境が必要である。安定した学習スケジュール、友人・教師との関係性を作れる環境を整える。そのうえで、勤勉して成績が良い子はどんどん伸ばしてあげて、自主性を尊重して、学校のルール作りや学習内容も任せたらいいと思います。

質問

Y・Uさん:夜寝るのが遅いから、昼寝をしたいのですか?

周悦さん:政府が睡眠時間について調査しようとしているようです。不登校になった子どもは、「学校に行きたい」と思っていて、西別院小学校に行ったら、「学校が楽しかった」と言っていました。その前は、運動が好きな子どもなのに、「体育が楽しくない」と言っていたのに、この学校へ行ったら、「体育ってこんなに楽しいのかと思った」とも。

M・Hさん:中国も小学校と中学校は義務教育ですね。

M・Sさん:なぜ、どの品物にも名前を入れるかというと、落とすと名前がないと拾わないからです。昔は、私が50年前に教師を始めたころ、雨が降ると学校に来られない子どもがいました。家庭訪問をすると、家に傘が一本しかなかったのです。それで、雨がふると傘が余分にないので、学校に来られないと。今は落とし物係が居ても、だれも取りに来ないので、落とし物が溜まります。子どもの物に対する価値観がないように見えます。

先生の立場からすると、必要な物をそれぞれがそろえて置かないと授業が成立しない場合があります。

Z・Yさん:なぜ、日本ではどれにも名前を書くのかですが、中国では、自分の物はそれぞれが管理し、授業中に立ち上がったりもしないで、ビシッと座っていて、落としてはダメと子どもも思っています。

Y・Hさん:今は若いころとちがって、物が溢れています。私は、物が不自由なころに育ちましたが。無くしても買えない時代とちがって、物を大切にする感覚が低いのではないですか?中国の成績第1主義は、むかしからですか?

周悦さん:1980年代からエスカレートして来たと思います。学歴が仕事に関わり、行けるポジションも決まってしまうので、良い学校へと思うようになったのでしょう。成績のトップの人は、学校でも権力があります。

Y・Hさん:北京大学への志望者が多いと思いますが、地域別に北京大学に入れる人数を割り当てていますか?

周悦さん:割り当てる人数の違いよりも、地域によって同じ大学に入学するための合格ラインが違います。

S・Yさん:おんぶしてと言ったり、上の学年の好きな人のクラスに行けないなど、日本では人間らしい行動がだめと言われているような気がしますが、中国ではどうですか?

周悦さん:気をつけていることはあると思います。同じ性の先生に「おんぶして」とか。ただ中国では先生は権威がある存在なので、そもそも子どもはボディタッチしたがらないと思います。

M・Sさん:教師と子どものボディタッチは当たり前で、世話をすることも教師の仕事で、足りない場合は、補助の先生もつきますし。でも、コロナ禍になってから、「さわっちゃだめ」と言われ始めましたね。

H・Mさん:管理社会が子どもの社会にも入ってきているのでしょうか?自然を学べる年齢は小学校の間でしょうが、ほったらかしで育ってきたわれわれですが。昼寝のリクライニングシートにはびっくりしました。親が子を管理するのはおかしいと思います。

オーストリアに長く住まれているF・Mさんは、親と子の絶妙の距離感を持っておられます。中国では成績だけでいろいろ決めるのですか?バランスが必要と思いますが。今日は、リクライニングの椅子などが中国にあると聞き、日本にはないことも学ばせていただきました。

S・Gさん:カナダでは、文房具も含めて名前は書かなかったと思います。無くしたら、先生か誰かに借りていたと思います。鉛筆削りもあるけれど、音がして、はずかしかったと覚えています。成長していくので、世話をしすぎないことも大切かとも思います。

Z・Yさん:学校によってちがうかもしれませんが、日本では放課後預かる場所もあり、7:00までできると思います。中国では、自分の場合は、家庭科もあり、工場見学などもしました。昼寝の時間もありました。眠たくない子はどうしたかというと、絶対に寝なければならいと言われていたと思います。

S・Fさん:会社にも昼寝の習慣はあるのですか?

Z・Yさん:私の子どものころは、給食はなかったです。でも学校に食堂はありました。食べに帰ってまた来る子もいました。今は学校に給食はありますが、どちらにするかは選べると思います。日直は、班長がやり、毎日指導します。日本は、毎日替わりますね。私が行っている千代川小学校などでは、先生も子どもと遊んでいると思いますが。時間割は、中国では1年間同じですが、毎週変化する日本の時間割の方法は、先生もたいへんだろうと思います。

S・Fさん:先ほど先生におんぶしてもらえないとありましたが、先生にゆとりがなくなったこともあるのでしょう。時間割も、いつごろから毎週出して、変わるようになったのでしょうね。

F・Kさん:教師も心の病で休む人がとても増えました。1990年ころからです。高校でも進学校の教師はたいへんです。テストでも成績によって席が替わることもあり、自分がつぶれないようにするのもたいへんでしょう。教育大学を卒業しても教師にならない人が増えてきたと聞いています。中国では先生の病気はありますか?

周悦さん:中国でも先生はたいへんです。先生の教育に集中できる時間が少なくなっています。国からは、国を協賛しましょうというような知らせを生徒に送ることも言われます。

Y・Hさん:教育も大事ですが、まず、人間性ですね。物事にひとつの解決方法はないと思います。

M・Yさん:先生も管理されています。中国でも日本でも子どもを大切に育てたいという思いは同じでしょう。中国は、デジタル化が早いですね。

周悦さん:集中度を見る機械もありますね。

亀田さん:「中国の領土は?」などとAIに聞くと、答えないで、イチテンポ置くようですね。日本人はAIに弱いかもしれませんね。

児嶋:学校によって教育委員会などからの指示がちがうことは、日本ではないと思います。今までの学校と西別院小学校のちがいは、まず、子どもの数と、もう一つはどこからも受け入れる学校体制を持っているので、自分と同じように、親の国がちがったり、よそから来ていたり、ちがうひとがたくさんいることではないでしょうか?それに子どもの数が少ないので、学年を超えてなかよくなっていこうという雰囲気はあるのでしょうね。

周悦さん:学校にもっとよゆうがあればと思います。子どもがたくさんいても、個人差はあるはずで、いろいろな学年の子どもと遊べることも必要だと思います。実際の人間的環境のように、いろいろなひとが交ざっていますから、それが重要ではないかと。

亀田さん:12:30を過ぎましたので、これで、終わりにします。意見や質問があれば、児嶋さんを通したら、また周悦さんとの連絡がとれますので、どうぞ、よろしく。

2025年1月25日(日)第383回グローバル・セッション・レポート「保津むらグローバル -四代目水車小屋の倅(せがれ)として-」

コンテント

開催日:2025年1月25日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 第1会議室
ゲストスピーカー:ゲスト:中野恵二さん(保津川こなこな研究所・保津むらカフェプロジェクト・ ひのまる米工房・中野精米工場)
コーディネーター:亀田博さん(ツアーガイド)
参加者:15名

今回のタイトル:「保津むらグローバル -四代目水車小屋の倅(せがれ)として-

自己紹介

亀田さん:コーディネーターの亀田です。今回は383回目になります。これから、GSが始まりますが、まず、参加された方々の自己紹介から始めたいと思います。

H・Mさん:日本語教師をしています。

Z・Yさん:亀岡市の小学校や中学校で外国につながる子どもたちの教育支援員をしています。

M・Mさん:木綿屋をしています。亀岡市です。

K・Hさん:3年前に亀岡市に移住してきました。中野さんとのご縁で今日も来ています。

M・Hさん:おととしまで、へき亭をやっていました。今はこのように遊んでいます。料理教室などもやっています。

M・Sさん:教師を退職して何年か過ぎました。カルチャー教室やひまわり教室でのボランティアやおけいこ事などをやり、今が一番楽しいです。

S・Fさん:2年前から民生委員をしています。また、ガレリアでの日本語教室で外国から来た人たちに日本語を教え、楽しくおもしろい関わりを持っています。保津の火祭りのちょうちんも作りました。安町で提灯屋もしています。

N・Fさん:市役所で、市民活動の支援を担当しています。京都で外国人を観光に案内することもしています。

Y・Hさん:定年退職後、2年前に亀岡に戻ってきました。Global Sessionは、毎回参加しています。脳の活性化につながると。地元の中野さんが、今日はゲストなので楽しみしてきました。

M・Fさん:2020年から亀岡に住んでいます。オーストリアに43年暮らしていました。亀岡からの訪問団が来られた時からのつながりです。

児嶋:1999年から、亀岡市交流活動センターという神前の山の中でGlobal Sessionを始めて、定年退職後、主宰するオフィス・コン・ジュントとして開催して今回は、383回目になります。知らない間に、20年以上過ぎてしまいました。毎月1回ゲストをお呼びしてセッションをやっています。

亀田さん:エスペラント語でのあいさつは知っていますか?中野さんは知っていますか?

 (知りません:中野さん)

 エスペラント語話者は、200万人ほどいるそうです。ポーランドのザメンホフと言う眼科医の人が1877年に始めました。世界に通じる言語をということで開発されたのです。今日は、水車小屋の話もあり、楽しみです。

児嶋:亀岡は、大本教の方達がエスペラント語を学ぶ人が多く居て、どこの町よりもエスぺラント語の理解できる人の割合は多いと思いますよ。

亀田さん:中野さん、どうぞお願いします。

グローバル・セッション スタート

中野さん:ほぼ知っている人が多く、やりにくいんですが。では、保津町の紹介からです。保津町の紹介ですが、ほぼ山です。JRの駅がある町です。わかりますか?どこの駅でしょう。保津峡駅は、実は保津町です。

<保津町基本データ> 2019年 3月時点の亀岡市統計より
人口 : 1,574 人   世帯 : 727   面積 : 15.01 ㎢
森林 : 約 77%         農地 : 約 9%          住宅 : 約 5%

大家族宣言

保津町には、「保津橋を渡ってきたらもうみんな家族だ」という大家族宣言があります。住んでいる人も、 訪れた人もみんな家族です。

自己紹介 我が家の歴史

明治41年(1908年)に愛宕谷川の豊かな水量を利用して、保津村の山裾に曽祖父が水車小屋を設置して精米業、製粉業を始める。当時、保津町に11軒の水車小屋がありました。
 私の祖父 慶太郎は、大八車を牛に引かせて、川東地域を中心に仕事をしていました。

「ケイタロ」さんと呼ばれ皆さんに親しまれ、「ケイタロさんの孫か・・・」と言われる事もあります。

大正生まれの父はあまり商売人ではなかったので、第2次世界大戦の真っただ中で、勉強は良くできたが大学にはやってもらえず、地域の私塾「興風義塾」で勉学に励み軍人に。

東京の「陸軍中野学校」で学び、苦労して「憲兵」に。今でいう所の(軍事)警察官として約1年弱働き、原爆投下後は、広島の片づけへと出兵して終戦を迎え、帰郷しました。

仕方なく家業を継ぎ、動力を引いてオート三輪を購入して営業していました。精麦に力を入れていました。

私で四代目となり、米屋が斜陽の時代に細々と継続しながら、今年で117年になります。

米の販売は後発組 精米、製粉業(こなこな研究所)、菓子製造業など多方面にやっています。

「グローバル」とは? 世界規模、地球規模という意味

世界を感じたのは、亀岡保育園(大本教主催)時代の大本でのエスペラント大会や小学校時代のEXPO70で、「世界にはいろいろな人がいるんだなあ」と体験して思いました。

大学は地元の京都学園(現在の京都先端科学)・社会参加は、イベントのお手伝いなど。

英会話の先生は、アレックスカー(東洋文化研究者で亀岡の矢田天満宮に住んでいる)さんでした。半年前に同級生とアレックスさんを訪問したら、「1年しか教えなかったのに奇遇ですね」と言われました。「私、信じられない」という日本語が先生の口癖でした。

25歳で冬のヨーロッパ40日の放浪の旅へ

 *10ヶ国:フランスのパリ・イギリス・ドイツ(ベルリンの壁)・オーストリア・イタリア・ギリシャ・スイス・フランスのパリへ戻る。

*オーストリアでは、亀岡市の姉妹都市のクニッテルフェルト市へ親書を持って行った。

(父が当時の谷口市長と友達で)到着して、通訳の案内人の(言われた)tel番号にかけても通じなくて、自分で市役所を探し持って行った。(tel番号がまちがいでした)

*ベルリンの壁も体験(列車の中で、ビザのない人が隠れているのも見ました)

おもしろくて、おそろしい体験でした。オーストリアやドイツの人は声をかけてくれてとても親切で、日本人としてフレンドリーと感じました。帰国して「日本は安全やなあ」と思いました。「国籍の壁をなくしたい」とも。

以後は、仕事をしながら社会参加 

青年会議所・行政関係・商工会議所など「地域や人との繋がりが大切」思いながら、農林振興課と地産地消を考える。

*日替わりシェフレストランの「かめおか四季菜」で6年間店長

現在は、地元の保津町をよくして行こうと考えています。

(保津川下りにはたくさん来るが、保津町にも来てほしい)

●NPO法人ふるさと保津・田舎を生かした村おこし・農業塾・産品開発

(放置されて柚子を使う:ジャムやサイダーに)

インバウンドの外国人観光客増加

 へき亭や湯浅農園へ:年間マイクロバスが200本も来る

 「丹波七福米(現在、お休み中)」を海外の家庭画報に紹介頂く(京ちりめんのふろしきに包む)

一時期、知り合いに頼まれて外国人の宿泊所に(5組くらい)→母の介護・コロナが始まり休止

●保津川こなこな研究所 粉(製粉)を使った村おこし 料理教室や産品開発など

 こなこな料理教室 Z・Yさんをゲストに「皮から餃子をつくる会」開催

●保津むらカフェプロジェクト 保津川屋酒店を拠点にした移住促進・村おこし事業

     保津の妖怪「竹きり狸」の里吉くんをキャラクターに村おこし

     商品化 ポン菓子、お米、米粉、小麦粉 + プリン、ポン米粉

      (竹きり狸のぽんぽこプロジェクトは休止中 竹林整備事業) 

アイアルクラシ京都 10年前に「ほづあい研究所」吉川慶一さん 京都ほづ藍工房

 私は食べる藍を考え中: 藍茶(粉)、藍茶ハーブ(ティーバッグ)、藍茶のど飴

 藍のコスメ 藍の化粧水・藍の石鹸なども商品化して世界に発信しよう

 *今年は、藍の栽培から商品化までを保津で体験できる教室を開催予定

 アイアルクラシ京都 + kyo-aroma Breath + NIMBUS STUDIO

今後の企画

保津むらグローバル 保津から世界に発信 ⇔ 世界から保津に求心 保津むらローカル

保津川下り(世界一の激流下り・昔から人気)→トロッコ電車からの連動

  京都ほづ藍工房(藍染め体験は人気のアイテム 団体での受け入れも)

  長岡銘竹(海外での需要もあり、海外アートイベントなどにも参加)

 農家民泊 ファームハウスナナ(インバウンド客を中心に受け入れ)

 吹きガラススタジオ「カローレ」(海外からの体験客も増えている)

 霧の工房(天然砥石館田中亜紀館長 ものづくり体験ができる一棟貸切農家民泊)

 お香と土「NIMBUS STUDIO」(お香と土(陶芸) 日本の伝統文化の魅力を世界へ)

約20年前、NPO法人ふるさと保津を立ち上げた時には、「行くところが村の中には何も無い」と言われました。今回、お話しを頂き、なんとなく整理してみたら、意外とあって、改めて感慨深いです。これからは、保津むらグローバルであり、保津むらローカルである事を意識して活動したいです。

亀田さん:では、質問がある方からどうぞ。

M・Sさん:私は、こちらのM・FさんとMさんご夫婦を通して中野さんと親しくなりました。最初から、「おもしろいおじさん」と思いました。中野さんの活動は、「発信」と「求心(信)」をSNSを上手に使ってやっておられると思います。昔は難しかったかもしれませんが、現在は、発信力としてうまく使えばパワーアップになると思います。

 昨年は、M・Fさんたちとのつながりでオーストリアにしばらく滞在しました。その間、亀岡市の姉妹都市のクニッテルフェルト市にも行って来ました。亀岡とよく似ていて、山も多いです。モニュメントもあり、「かめおか通り」もあります。その時に中野さんにメールをすると、以前行かれた時は、市の道路が舗装されていなかったと聞いたのですが、現在は立派に舗装されていると伝えました。

 中野さんは、積み重ねもされ、発信力もあるおもしろいおじさまです。

Y・Hさん:たいへんいろいろ活動されているなあと思います。今は外国からのインバウンドが多いと思いますが、保津の活動にはどれくらいの割合で来られていますか?

中野さん:駅から歩いてでも行けるので保津藍工房などに南アの高校生がバス3台で来られたこともあります。シンガポールやアメリカからも来ていると聞いています。

Y・Hさん:保津むらグローバルとローカルを組み合わせるという方法は、個人的に賛同できます。ローカルな部分にも外国人は多くなっていますね。そして、ローカルな視点も必要と思います。

中野さん:保津むらと「むら」にしてローカルも大事にしたいと思っています。

亀田さん:水車小屋ですが、黒沢明監督の『夢』という映画がありますが、そこでは、長野県で水車小屋で小麦やそば作りをしている様子があります。

 スイスのツェルマットという村では、電気自動車と馬だけが通れるハイキングコースがあり、そこにも水車小屋がありました。これからは水力発電になるかもしれませんね。亀岡の水車はめずらしいので、SNSやYouTubeなどで知らせると外国人もたくさんローカルの地に来ると思いますよ。

中野さん:SNSはまだ遊びの範囲で使っていますが、これで行こうと決めたら、しっかりやりたいと思っています。

M・Hさん:今SNSに上げましたよ。

K・Hさん:水車小屋も観光として期間限定で動かすとか。水質管理もできるのではないでしょうか?

中野さん:10何年か前に、亀岡に水車小屋がなくなったのですが、放っておくと壊れるのです。棒が折れたり。ずっと使うためには、お金が必要です。

K・Hさん:お金があるおばさまたちもいますよ。

中野さん:私の藍の畑の前に水車小屋があります。そこで藍を作り、水車小屋を看板に(を)使って活動(製品化)しようと思っています。水車小屋は使わないとなくなってしまいますので。

M・Sさん:今はいくつ水車小屋が残っているのですか?

中野さん:ひとつだけです。

K・Hさん:ここ、京都で復活しましょう。

M・Hさん:資金がいるのですね。

M・Fさん:クラウド(クラフト)ファンディングですね。

中野さん:精米30kgを打つのに一晩かかります。大きな音がするので文句を言われたこともあります。今は水車小屋を倉庫として利用しています。

K・Hさん:そばとか藍の畑を復活してほしいですね。

M・Hさん:藍の花と(を)水車で売り出す(動かす)方がいいのではないですか?そばと水車はどこにでもありますから。私は、保津町の隣の千歳町に住んでいるのですが、保津町に良いところは、駅から歩いてこれる点です。それもあって活発なのかもしれませんね。

中野さん:市に対して物が言える人がいるのがいいのかも。それに、小さい町なのに、小学校も保育園も残っているのがいいなと思います。中学校も、近い方の亀岡中学校に子どもたちは行っていますからね。

M・Sさん:私の前職は教師で保津小学校には1年間行ったことがあります。子ども達は地元の人々に支えられているなあと思いました。竹が保津町にはたくさんありますが、総合学習で、竹で竹庭を造ったり、とうふを作ったりしました。保津川下りも有名ですが、英国の皇太子が来られた時に、その後ロイヤルファミリーに子ども達が手紙を書いたら、返事が来たとか。

中野さん:保育園、小学校、祭などもひとまとまりでやっていますね。保津町にも個性的な方々が入ってきていると思います。

真理子さん:保津川があり、森も山もあるしね。

中野さん:山は放置されているところが多いですが。

真理子さん:使える方法はないのかな?何かに使えたらいいですね。

M・Hさん:チャイナから来て土地を買う人がいると聞いていますよ。みんなで規制しないとね。

東村さん:いなかはほったらかしですよ。私の自宅にも水車がありました。今は妹が田んぼを作っていますが。私も教員として、1987年から8年間保津小にいました。中野さんは6565才のようですが。保津は、駅からちかいですね。

H・Mさん:私は水車を見たことがないのですが。

中野さん:保津浜テラスというレンタルスペース(店)がありますが、そこから水車が見えますよ。

Z・Yさん:亀岡が好きで10年ほど前からよく亀岡に来ていました。民際日本語学校の紹介があり、亀岡で仕事をし始めたのですが、最初は宇治に家があるので、通っていました。ちょうどひまわり教室の話を聞き、ボランティアを始めたころ、亀岡で教育支援の話がありました。宇治の小倉から亀岡に家を借りて2024年の2月に引っ越して来ました。真理子さんやM・Hさんからも引っ越しの手伝いをしてもらったり、素敵な家具をたくさんもらったりしました。自分の家族より暖かいと思います。

 保津町には、散歩道ができるといいなと思います。亀岡駅からと馬堀駅からと歩く様な散歩道が。

M・Hさん:旅行会社の「まいまい」の30人から40人ほど保津から七福神めぐりをしていたと思います。

Z・Yさん:中国から兄が来たとき七福神めぐりをしたのですが、いつもあいているわけでもないですね。

M・Hさん:保津町にはお寺がたくさんありますね。朱印帳などやスタンプなどもあるといいですね。休憩所もね。

中野さん:竹の通りの良い所なども見せたらいいですね。

児嶋:亀岡市には、外国籍の方が1000人以上今は住んでおられるし、両親のどちらかが日本人の場合は、日本国籍なので、その中には入っていない「外国につながるひと」は、もっともっといます。住んでいる「外国につながる人々」に少しのサポートをしながら保津に呼んでもらえるアイディアがほしいですね。おもしろいところの地図を作るとか。お願いします。

M・Mさん:今、アメリカはトランプさんになり、アメリカファーストを強く出していますね。ローカルな面で良いところは何かと考えていました。亀岡は霧の町とも言われていますね。私の仕事の綿は、湿度が大きく影響するのです。亀岡はこれも売り出したらいいのではと思います。それと、昔の「農林一号」を作り出したのは亀岡出身の方だそうです。このようにミーティングして亀岡の偉人を研究するとか。それと、湿度も関わって。

児嶋:私は福井市の出身ですが、最初に宇治市に教師として赴任したとき、とても乾燥して体がつらかったのですが、亀岡に来てからは湿度が体に合ったのか、とても楽になりました。

M・Hさん:野菜もそうですね。水菜や小豆は霧の出る湿度の高い地域が向いているのです。亀岡は野菜がいろいろあり、道の駅などには観光バスがとまり、しっかり買い物されていますね。

Z・Yさん:亀岡の野菜はとてもおいしいと思います。

M・Hさん:乾燥しないので、肌にもいいし、水もいいですね。目の前に保津川はあるし。

Z・Yさん:ここだけに住んでいるとわからないかもしれませんが、私は主人と世界一周の度に出たことがありますが、亀岡はどこよりもいいと思います。

M・Hさん:よそに行って京都に帰ってくると、灰色の家が多いなあと思いますが、亀岡に帰るともっといいなあと思います。香港人のマネージャーが亀岡に来てびっくりしていました。「ゴールド!」と言って。田んぼが見えて、「ゴールドだ」と。

児嶋:京都の人は、亀岡は遠いと思っていて、舞鶴くらいと思うみたいで、JR京都駅から30分以内で亀岡に着くというと、びっくりしてしまいます。

M・Hさん:新快速を使い、大阪から京都を通り、帰って来ても近いです。

亀田さん:12時半です。もっと聞きたいことなどあれば、中野さんか児嶋さんにメールで聞いてくださいね。ありがとうございました。

2024年12月25日(日)第382回グローバル・セッション・レポート「食草園から学んだ“もちあじ”」

コンテント

開催日:2024年12月25日(日)13:30~15:30
場所:ガレリア3階 第1会議室
ゲストスピーカー:ゲスト:村田英克さん(中国出身・日本語教師・母語支援員・ひまわり指導者(JT生命誌研究館 表現を通して生きものを考えるセクター研究員)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:11名

今回のタイトル:「食草園から学んだ“もちあじ”

自己紹介

亀田さん:村田さんは、今回が3回目ですね。毎年楽しみにしています。

  それでは、みなさんの自己紹介からお願いします。

M・Aさん:ブラジル出身で、大本本部にいます。日本には9年目です。

M・Yさん:亀岡在住です。「食草園」の「食」とは、誰が食べるのですか?

村田さん:例えば、笹や竹はパンダの食草と言えると思いますが、今日は蝶々と、蝶々の幼虫が食べる植物のお話です。

R・Sさん:ひまわり教室の学習支援をしています。

M・Kさん:京都の中京区から来ました。10月に新聞に館長の永田和宏さんの食草園のお話しが載っていて、その後、植物園に行ってきました。

E・Tさん:今月から新しい場所で働くことになりました。JTプラントサービスという所ですが、これも、JTということでびっくりしました。先週の水曜からかぜでダウンしていました。

Y・Hさん:総合商社を退職後、2年前ですが、その後、5050年ぶりに亀岡に戻って来ました。このGlobal Sessionは、頭の刺激になり、楽しみで参加しています。今回も、「食草園」というふだん、聞けない話が聞けると思って来ました。

R・Eさん:昔、交流活動センターであった、グローバルパスポートという企画に参加していて、今回、新聞で見て参加しました。私は、30年間、「たんぽぽ」として絵本やかみしばいを作っていて、『さんしょとみかんの木』などもあり、楽しみです。

K・Yさん:ひまわり教室で本の読み聞かせを担当しています。もう10年間過ぎたようです。生きものが好きで、前回の村田さんのお話しにも参加しました。

児嶋:このGlobal Sessionは亀岡交流活動センター時代に始め1999年からですので、20年以上になります。今回も村田さんのおもしろいお話しとセッションをお楽しみください。

亀田さん:私は、まだ高槻のJT生命誌研究館には行ったことがないのですが、いちど行きたいのですが、いつの時期が一番いいですか?

村田さん:食草園は、5月か6月が一番いい感じですね。それから秋、蝶々は、だいたい11月以降は越冬モードです。

亀田さん:この資料にあるように、たくさんの蝶々が来るのですか?

村田さん:これまでに確認したのはだいたい20~30種くらいでしょうか。私たちの日常の生活圏にも重なるまちなかで見られる、身近な、小さな自然に目を向けるところから私たちヒトという生きものも含めた生命にとっての豊かな環境を考える、その入り口として、生命誌研究館では食草園を提案しています。

高槻は街、「とかいなか」で、市の面積のおよそ半分は山地です。山を越えると亀岡にもつながっていますね。高槻市のいま一番のニュースは、関西将棋会館が市内で12月にオープンしたこと。市域の山林の木材から拵えた将棋の駒を市内の小学校にプレゼントしたり、市は「将棋のまち」をアピールしています。うちの子もその将棋の駒をもらってきました(笑)。

研究館の場所はまちなかですが、近くに芥川も流れ、山へ続く自然を背景に、住宅地でも、皆さんお庭にみかんやホトトギスなど植えますし、街路樹を伝って蝶々が食草園にもやってきます。蝶々は種類によって、移動距離は違うと思いますが。

 皆さんよくご存じの渡りの蝶々:アダギマダラは、暖かいアジアの方から海を越えて日本列島を縦断して北海道まで、毎年、行き来しているようです(夏は北へ、冬は南へ)。その道行きの一コマを高槻でも見られますし、亀岡でも見られるのではないでしょうか。

  • JT生命誌研究館の表現を通して生きものを考えるセクターの立場から>

私(村田英克)は、長年、JT生命誌研究館(現館長・永田和宏)で、主に、展示・映像・出版物を企画・制作・編集して「生きものってみんなすごいね!」「生きもの研究ってこんなに面白いよ!」とみなさんに向けて表現することをお仕事としてまいりました。なかなか他にない珍しいことをやっている、やらせていただける、恵まれた職場だと思います。何をやっているのか? 少々、ややこしく言いますと「生命科学研究(発生・進化・生態系)の知見を、誰もが、自分事として受け止めてくれるような(私たちヒトは生きもの、自然の一部ですから)コンテンツを拵えて、それを介して、生きものとして暮らしやすい豊かな社会の実現への共感の輪を広げる」という思いでやってます。

今日のお話の「食草園」は、およそ20年前に、チョウと食草の関わり合いながらの進化の解明を目指す新しい研究がスタートしたことを受けて、その研究を伝える生態展示として、施設4階の屋上に作られました。チョウの幼虫が食べる植物をそろえた食草園です。屋根はなく、市域から蝶々がここへやってきて、卵を産み、幼虫が育ち、蛹から羽化し、また旅立って行きます。但し、トリやハチなどの天敵もやってきますし、アブラムシやダンゴムシも棲む、まちなかの小さな生態系のサンプルです。20年前の最初の担当(庭師?)が私でした。今は、若いスタッフたちが日々手入れをしてくれています。

2年前に、このGlobal Sessionでも皆さんに鑑賞していただきましたが、ちょうどコロナの時期に、この「食草園」にまつわる昆虫と植物に関する研究館の活動を伝える記録映画を作りまして、それは全国のミニシアターでも上映していただきました。私は、元々、映像制作の仕事を長くしておりましたので、コロナ対策で、人と人とが会うこと自体が憚られ、催しの開催なんてとんでもないという時期、私は「昔取った杵柄」で、なんでもかんでも映像に記録して自分で編集して発信するということを始めました(業者さんに頼むとコストが嵩みますが、私は、ほぼ人件費のみです)。それが劇場向け映画としても受け入れられたことは、大変、嬉しいことでした。そもそも若い頃は、学校へ行かず、映画館に入り浸り、映画を浴びる日々を送っておりましたので。

  • 小学校のPTA活動として>

そして次は、昨年のGlobal Sessionで、これまた記録映像として、皆さんにもご鑑賞いただきましたが、ちょうど「食草園」の映画上映であちこちお招きいただいていた時期に重なりますが、たまたまPTA会長を引き受けた、愚息の通う小学校が、なんと創立150周年だというのです(なるほど明治の夜明けののち、鉄道が敷かれ、寺子屋が学校に、そこから150年)。その記念に、小学校の学校生活を描く短編記録映画を作って、全校児童の保護者の皆さん、先生方や地域の方々にご鑑賞いただきました。PTAを引き受ける以前から、子どもが持ち帰る宿題やら参観やらを通して、大変、充実した学校生活を送っているなあと感心し、私自身が興味を持っておりましたので。この映画に出て参りますが、この町は、中世以来の寺内町で、江戸初期には酒造りで栄えました。また人権活動にも長い歴史があり、そうした地域の伝統や歴史を学ぶ授業がたくさんあり、まちの方々も暖かいのです。そのような歴史を背景に、子どもたちの生き生きした姿を映像にしてお伝えしました。

さて、この小学校の150周年のセレモニーを経て、研究館の「食草園」の映画もご覧になった校長先生が、「周年記念に、小学校にも食草園を作りたい、校内の池もビオトープとして再生させたい。」とおっしゃいました。「是非是非、喜んでご協力しますよ!」と、小学校の食草園プロジェクトが始まりました。学校からの提案が「緑の基金」に採択され、予算を獲得。市役所の協力と、プロの造園ボランティアの積極的な参加も得て、5年生が中心となり総合的な学習の時間、約30時間をかけて、庭づくりが進みました。そして私は、もちろんその授業の様子も記録撮影し、関係者で鑑賞いただける記録映像に仕立てました。今日は、その記録映像を、後ほど、ご鑑賞いただきます。

さっき、申し上げましたように、私は「コロナの時期に、なんでもかんでも映像で記録し、発信し始め」たのですが、私の拵える映像は、こちらが予め考えた意図に沿って形にしていくのではありません。研究館の人々にしても、小学校の子どもたちも先生も地域の方々も、そして町の佇まいも、空も、自然も、みんな楽しそうに、日々、自分たちのやるべき活動をしている。私の役割は、カメラを向けた先で起きている人々、人に限らず全ての生き生きした様子、元気いっぱい、楽しそうに、一生懸命、生きている人々、物事を、そのまま、掬い取ってくること、そして掬い取った映像の声を聞きながら、何が起こっていたのかを、この映像を見た、何も知らない方々に届けるために、見ていただけそうな試聴時間の枠の中に収める、流れを作り出す(映像の本質は、目と耳で追う、飽きることのない動きの連鎖です)。時間と空間を再構成します。それは、映像に映っている物事の命を、謙虚に、かつ楽しく、紡いでいくことと言っても良いかもしれません。作品の意図、伝えたいことというのは、カメラが捉えた映像の中にあります。それをグッと取り出して、伝わるようにするのです。そういうことを、いろいろやっておりますと、出来上がった映像に関わる、まずは当事者の方々、そして、そのような活動に興味を持っている方々には、大変よろこんでいただける、ということがわかりました。

  • オンライン活動写真館「みんなの “もちあじ”」とは>

そんなに、皆さん、喜んでいただけるのであればということで、研究館での仕事、PTAとしての地域貢献に加えて、第三の仕事として「オンライン活動写真館 みんなの “もちあじ”」なる動画配信サイトを立ち上げ、市内のNPOサポートセンターに団体登録し、さまざまな市民活動=自然保護、子育て支援、親子劇場などに取材し、皆さんの素敵な活動を、多くの方々に知っていただくために、動画発信によるお手伝いを始めました。12 月で、ちょうど丸1年になりますが、既にいくつかの団体さんにお声がけいただき、映像でお手伝いしたり、今、私が住む地域の歴史、伝統文化を次世代に映像で伝えよう!というプロジェクトも動き出しました。いろんな動画があるんですが、一番、多く見られているのは蝶々やイモムシのショート動画で、これはPTAで小学校へいくたびに四季を通じて変化する食草園の様子や、ベランダの食草園の様子などで、こういうものはアクセスが上がるようです。人間社会の営みも、虫や草花の営みも、「もちあじ」という言葉で括ると、矛盾なく一つにおさまるように思っています。

「もちあじ」という言葉を、私はとても大切に考えています。これはPTAの立場で、このエリアの学校と地域が一体となってこれまでも取り組んできた、小中学校の一貫教育の基本「誰一人取り残さないまち」を実践する入り口の言葉で、これを知って、ちょっと感動してしまいまして、小学1年生の「もちあじ学習」からお借りしました。1年生は、まず自分の「もちあじ」を書き出します。それを皆で発表しあって、お互いの「もちあじ」を認め合うことから学校生活が始まるのです。良い悪いじゃないのです。不得意なことを書いても良いのです。「ドジ」とか「めんずき」とか「はしるのがはやい」「ほねばっかり」とかで良いのです。それをお互いに話し合うことによって子どもたちは、自分とは違う異質な存在を受け入れる心を養い、多様性を前向きに捉える学習が始まるのです。9年生(中学3年生)まで続きます。私はこの「もちあじ」という言葉が、生命にとっての本質だと思っています。生命誌研究館が、科学の言葉を借りて、積み上げて、いろいろ語っている、その行き着く先は、詰まるところ、この「もちあじ」を認め合う世界なのだと思います。私は、齢60にして小学校に学んだこの言葉を羅針盤として、第三の活動として市民公益活動にも取り組んでまいりたいと思っています。

===========<パワーポイントを使っての紹介>===========

・生命誌研究館の活動の基本と、「食草園」の紹介。

 〜どんな草花があり、どんな蝶々がやってくるかなど〜

・研究館からの提案により、他施設に最近作られた「食草園」の例

 〜京都府立植物園「いもむしのレストラン」

 〜高槻市役所敷地内「チョウと幼虫の食草園」

 〜JR大阪駅前の公園計画の中で、その一角に作られた「うめきた食草CUBES」

・食草園と言っても、それぞれが、個性的な他にないお庭になっています。

・小学校の食草園プロジェクトの紹介

 〜その記録動画の鑑賞

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質問開始:

Y・Hさん:「食草」ということばは、重要な役割を示していると思いますが、気候変動で各地の植生にも影響が出ていると思います。一般にガーデニングも流行っていますが、「食草」に重点をおいた庭づくりというのは今、どれくらいあるのでしょうか?

村田さん:街路樹でも、花壇でも、「まちなか」では、どうしても人間が管理しやすい植物、入手が容易な植物、あるいは消費者の購買意欲をそそる植物が、普及しているのが今の社会の実情かと思いますが、本来は、その土地の元々の植物の分布などを意識したいですね。難しいですが。

生命誌研究館は「生命論的世界観に基づく「科学的知」の創造と、その社会への還元」をミッションとして活動しています。私たちヒトも、現在、地球上に生息している多種多様な生きものの一つに過ぎず、そのような謙虚な立場から、自然界を構成する生きものたちとの「共生」「共存」を考えていきたい。ということを研究館の展示や映像や季刊誌やらで、一般に呼びかけていくというお仕事をしてまいりました。たとえば植物たちは、葉っぱを広げてお日さまを浴びて光合成し、根っこで土から養分を得てと、そういう生き方をしています。土中の微生物は、さまざまな有機物を分解し物質循環に大きく貢献しています。一方、私たち動物は、他の生きものの生命をいただいてそれを栄養として生きています。他の生きもののいのちをいただいているわけで、それで私たちは3度3度の食事に際して「いただきます」というわけです。そこには感謝の気持ちが込められているはずです。その時、善・悪の価値でなく、多種多様な生きもの同士が、一体どのように関わり合っているのかということは、まだまだわかっていないでしょ。という謙虚さを自覚した立場から社会を経営して行かなくてはいけない。日常生活の一コマ、一コマにおいて「生命論的世界観」を振り返る、その小さなきっかけとして、まちなかでも可能な、蝶々が訪れ卵を産み、その幼虫が食べる植物をそろえた食草園を身近に作って、小さな生きものたちの関わりあう様子を見つめるという提案をしているわけです。

もう一つ、先ほど映像でごらんいただいた、小学校内に「チョウを呼ぶ庭をつくる」プロジェクトでご一緒した「まち杜の環」という造園家のグループ(LLP)の方々のお仕事ですが、まちなかでの「循環」の庭づくりを提唱し、そして実践されている。小学校の食草園プロジェクトでは、私は、チョウと食草についてのアドバイスをしながら、プロジェクトの一部始終を記録撮影して一つの短編映像にしました。今回は、小学校の敷地内でしたが「まち杜の環」では、都市の中の施設でも、個人宅でも、とにかく、ゴミを出さない、土が豊かになる庭づくりを実践されています。ダンゴ虫やミミズが棲みつき、土壌生物が有機物を分解し、植物にとっても私たちの生活にとっても、豊かな自然を身近なところに作って行こうという。小学校では、まず「循環」を考える授業に続き、皆で校内で落ち葉を集め、これは堆肥やマルチングに使えます。土中に水や空気が通って、生きものが暮らしやすい土づくりを実践、木陰に廃材を再利用したベンチを作り、全校児童で、蝶が蜜を吸う花を咲かせる植物やイモムシの食べる葉っぱが茂る植物(食草)を植え、昨年の修了式前、2月末に完成しました。そして、4月以降、植物たちは生い茂り、花開き、たくさんの蝶が訪れ、ダンゴムシやミミズも棲む、とても素敵な庭になりました。もっともその手入れを続けていくことが大事ですが。研究館の「食草園」の提案や、まち杜の環の「循環の庭」の提案は、まだまだ始まったばかりですが、こうした取り組みが、これからもっと浸透していくことを期待しています。

Y・Hさん:人間は、いろいろな物を食べていますからね。

R・Sさん:「食草」という発想がおもしろいと思います。楠(くすのき)を食べる虫もいますね。ジョチュウギクはどうですか?

村田さん:蚊取り線香の原料ですね。キクを好んで食べる蝶々はあまり聞いたことがありませんが、ヨモギは、ヒメアカタテハの食草ですね。

R・Eさん:イモムシは、さなぎで越冬するのですか?

村田さん:蛹が多いですが成虫で越冬するのもいます。幼虫で越冬するのもいます。エノキを食べるゴマダラチョウの幼虫は、夏場は葉っぱに紛れてみどり色で、冬場は落ち葉、枯れ葉に紛れる茶色になって越冬します。

Y・Hさん:民間企業が生命誌研究館を作ったのですね。JTさんが、作られた理由は?

E・Tさん:ぼくがこれから仕事をするのもJT関連ですが、組織図の中にあったような気がします。

村田さん:生命誌研究館は昨年が創立30周年でしたが、元々、たばこの工場があった土地で、そこで新たに医薬総合研究所ができることになり、その敷地内の一角に、市民に開かれたもう一つの研究施設として設立されたと聞いています。中村桂子名誉館長が、それまでの博物館とは違った新しいコンセプトで、生きもの研究(生命科学)の魅力を一般の方々と広く共有するための活動拠点として構想されました。今のSDGsを先取りした構想を実践する組織として、JTグループの一員として活動しています。

村田さん:以前、亀岡から見学に来られた時に児嶋さんから、第一声に「なんでJTなの?」と聞かれたことを覚えています。

児嶋:見学に行った時に一番おどろいたのは、屋上に、庭園があったのです。高槻の蝶々のためのレストランと言われて。驚きました。

亀田さん:以前、村田さんが来られた時に小鼓を聞かせてくれましたね。あれを聞かせてください。能の世界の豊かさですよね。

村田さん:最近は、ちょっとお能の囃子方のお稽古はサボってまして、なかなかお金もかかることなんで、今は距離を置いています。で、最近は、江州音頭にハマっています。「もちあじ」動画の取材で、富田のエリアには、珍しい、陰旋律の江州音頭の伝統があって、その文化を映像で残そうというプロジェクトで、今その音頭とりの師匠や、踊り手、太鼓の方などに取材をしているところです。お囃子もそうですが、やはり、自分で踊ったり、謡ったりしないと本当にはわからない、体に入ってこないと思うのですが、今はまだその入り口でウロウロしています。

M・Kさん:江州音頭は滋賀のおどりですね。

村田さん:滋賀の八日市が本場の江州音頭のようですね。この芸能の歴史を追いかけていくと、河内音頭や、泉州音頭など、関わりが見えてきて面白いんですが、あんまり広げたら収集つかないんで。

亀田さん:では、時間ですので、終わりにしましょう。(3:30を過ぎました)

2024年11月23日(日)第381回グローバル・セッション・レポート「言語の壁とは?」

コンテント

開催日:2024年11月23日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:張穎さん(中国出身・日本語教師・母語支援員・ひまわり指導者)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:19名

 今回のタイトル:言語の壁とは?

自己紹介

亀田さん(コーディネーター):では、簡単に自己紹介をお願いします。

E・Tさん:8月に亀岡市民に戻ってきました。12月から新しい仕事につきます。このGlobal Sessionに来始めてから、10年目になります。

S・Fさん:日本語ボランティア養成講座を取り、日本語教室で教えています。今は中国語を学習しています。

R・Sさん:ひまわり教室で指導をしています。

T・Dさん:ブラジル出身で、2年半に西京極に来て、今は翻訳などをしています。

Rさん:マレーシア出身で日本語学校の学生です。

H・Mさん:木綿屋をやっています。本町に住み、もめん染める仕事です。

K・Nさん:保津町に住み、村おこしなどに励んでいます。

Y・Nさん:元教員で、ひまわり教室の指導者です。教員の時には、子どもたちが本当に理解できたかどうかが気になっていました。

M・Yさん:元中学校教員で、ひまわり教室の指導者をして、若さをもらっています。

Y・Hさん:今は無職ですが、仕事で外国も行ったことがあります。

W・Lさん:中国人で18年前に日本に来ました。今は、日本で仕事をしていて、千代川小学校にいる子どもがいて、5年生です。

H・Mさん:日本語教師をしています。

K・Tさん :馬路町に住んでいて、映画の脚本などを書いています。

K・Hさん: 地域活性のための仕事をしています。

N・Fさん:篠町に住んでいて、市役所職員です。

M・Tさん:京都市に住んでいます。大学の教員をしていました。

児嶋:   このGlobal Sessionは、私が亀岡交流活動センターに勤務していた1999年から開始し、退職後は、オフィス・コン・ジュントとして引き継ぎ、月に1回のペースで継続し、今回は381回目になります。20年以上やっていることになりますね。

亀田さん:みなさん、ありがとうございます。私は大津市に住んでいて、今回の『言語の壁って?』というタイトルがいいですね。張穎さんは、学校で、子どもに教えながら、親との対話も必要で、難しいなかでのコミュニケーションの取り方を考えていく方法について語ってもらえると思います。

グローバル・セッションスタート

亀田さん:では、張穎さん、お願いします。

張穎さん:亀岡で海外にルーツを持つ子どもたちの教育支援をしています。今日のお話は『言語の壁って』としましたが、どういうことだと思いますか?

少子化、産業の衰退といった問題は日本で起こる深刻な問題です。少子化の影響は経済的影響と社会的影響としては労働人口の減少とともに、労働力が足りなくなる。そのため、日本政府は少子高齢化による国内の人材不足を解消するために、外国人労働者を受け入れるためのさまざまな制度を創設してきました。

日本で働く外国人の増加に伴い、海外にルーツを持つ子供たちが急増しています。日本語学習や学校での勉強に苦戦する子は多く、不登校や退学につながるケースが目立ちます。

「海外にルーツを持つ子ども」とは?

両親または、親のどちらか一方が、外国人である子ども」のことを表します。外国籍の子どもたちはもちろん、日本国籍(または日本と外国の二重国籍)を持つ、いわゆる「ハーフ」の子どもたちに加え、難民2世など、何らかの理由により無国籍状態にある子どもたちを指す言葉です。

この中には、来日したばかりという子どもも、日本で生まれ育ち、日本以外の国には(まだ)行ったことがないという子どもも含まれます。場合によっては、日本人家庭に生まれた日本語母語話者の子ども、海外での生活経験を持つ「帰国子女」も含まれることがあります。

海外にルーツを持つ子どもの現状や課題は、まず日本語がわからなくて大変だと思います。来日したばかりで日本の学校に転入し、日本語がわからず友だちが作れず孤立し、学校の勉強についていけなくて、困っている姿がよく見られます。海外ルーツの子、増えているのに… 
授業が理解できず、不登校や退学の子も・・・

言語の壁はどこから出てくるのでしょう?

コミュニケーションにおける言語的な障壁、すなわち、元々異なる言語(場合によっては方言さえも)を話す人々やグループが経験するコミュニケーションの難しさ

第二言語能力の不足から偏見、孤立、差別に直面することが多いです。それが心理的な問題を引き起こす言語の壁。

言語の壁は、生徒にとって最大の問題の一つとなっている。

無力感や過剰なストレスなど、言語の壁、教室の雰囲気を読むこと、教員と生徒の関係の難しさの問題。第二言語に対する不安、教育的ストレス要因、社会文化的ストレス要因が、課題として挙げられている。さらに、生徒は社会的孤立、偏見、差別を経験する可能性も高い。

現状と課題について

  • 日本語がわからない子ども:全く日本語がわからない子が日本の学校に転入して来ました。もちろん、日本文化(生活の仕方、コミュニケーションの取り方、給食)なども知らない子どもたちです。→いじめや偏見を持って見られることもある。
  • 支援の先生:亀岡市内でもいろいろな学校に入っています。

どういう支援か?

  1. 通訳( 例:算数の時間に比例をやっています。通訳しても理解できない→ついて行けないケースもあります。)
  2. 支援者が何でも教えられるわけではない。(中学校では、体育、保健など)各教科に対して、支援者も事前の準備が必要
  3. 子どもの数に対して、支援者の数が十分ではない。どの子にも毎時間支援者がついているわけではない。(週に2日だけ来てくれる支援者のみの子どもも)
  • コミュニケーションの問題:

 *中間休みになるとひとりでいる→不登校(かぜをひいたと言って登校しない)

 *保護者が日本語ができない場合:家庭との連携もうまくいかないケースもある。

 *保護者と連絡がとれても、家で泣いていて、理由を言わないケースも。

無力感が高まり、ストレスとなる(子どもも保護者も支援員も)→ 集中できなくなる(通訳して教えても、聞けない状態)

他の子ども達:気になる子もいて、じっと見ている子もいる。

  • 他の子ども達:異文化の理解ができるような学校全体の指導が必要である。

  現在、日本には、外国人登録者数は、310万人:全人口の3%である。

 *ことなる文化の受け入れの教育が重要である。

   共に暮らしていくために、どうしたらコミュニケーションが取れるのか?

   学校や、地域全体で考える体制を取ってほしい。(共に考えるという体制)

課題

  • 外国語を身に付ける。

中国では、高校生になると、いろいろな外国語を選んで学ぶ体制がある。

(英語、日本語、ロシア語などさまざまな言語を選ぶ)

  • 積極的にコミュニケーションを取るシステム作り(教室に30人いて、外国人ひとりいる場合、いっしょにゲームなどしながら、話しかけるプログラムをとり入れる。
  • 異文化の学習:生活習慣について

 (ゴミの分別をしない国もある。日本で当たり前が通用しない場合は、知らせる必要がある。)

技能実習生受け入れの体制:現在も日本語を学ばずに来て、5年間で帰国させる。

それ以上の資格を取るためには、日本語のN4かN5の日本語能力が必要という条件がある(法律上)

  • 日本人が外国人に対して偏見を持たないことが望まれる。外国人も住みやすいまちづくり(交流事業、多言語や多文化のイベントなど)
  • 外国人の立場の声を聞く

 *ことばの壁で、日本社会からの偏見や誤解をされやすい。

 *仕事が不安定な場合もある。(相談窓口を知らせる必要がある)

ことばの壁を乗り越える:

  • ことばの壁を互いに乗り越える。

支援教員の派遣:どのような効果があるか?

   子どもが進歩しているか?

   支援者の方の状況:支援者も疲れている。

  • 多言語を身に付ける
  • 日本語を最初に重点的に学ぶ日本語教室の開講(子どもに)

 転入して1ヶ月~3ヶ月(重点的に日本語を日本語教室で学び、各学校に転入する)(宇治市、京都市の例も)

  • 多様性のある日本語教室とは?

 大人用:職業訓練

 幼児:多言語でのあそび(絵をとり入れたカードなどで)

 小・中学生:必要な学習ことばの学習

 漢字:よみがなをつける・英語や必要な言語の訳も

 親に対して日本文化を教える。

 将来、日本社会に貢献できる他民族人材育成は大切なことだと思います。

亀田さん(コーディネーター):では、みなさん、お話しがあれば、どうぞ。

T・Dさん:数え切れないほど課題がありますが、2、3件だけお願いします。日本に来てから日本語を身に付けるのは大変ですが、私は、11年間ブラジルで日本語を勉強していたので、自分では文化の違いは、あまり感じなかったです。

 でも、自分では常識でないところが、常識であったり、誤解したままだと、エスカレートして大変になると思います。どの年齢の方にも、子どもにも「外国人にやさしい街」を作ることが必要だと思います。張穎さんの今日のテーマの「言語の壁」というタイトルがいいですね。表情の出し方で壁もありますから。

 例えば、手のマークで「私は天才です。」というのはありますが、このマークは日本人はわからないのですが、他国の人はたいていわかります。これは、実は皮肉であって、「私は天才ではないよ」と言う意味ですが、知らない日本人の多くは、「いばっているな。こいつ」などと取ってしまいます。

児嶋: T・Dさんの今の話を聞いていて、思ったのは、このような事を言う場が、外国から来た人には、あまりないのではないかと思いました。

T・Dさん:そうです。このように取られた外国人は、だいたい、わかってもらえないと思って愚痴ばかり言い合うようになるのです。このようなGSのような場所を作ることが必要なのだと思います。

M・Tさん:外国につながる子どもたちの声をもっと聞いてほしいし、聞く必要があると思います。私たちの娘はアメリカで生まれ、今はアメリカで小学校の先生をしています。おべんとうに、最初はおにぎりを持たせたのですが、娘は「持って行きたくない」というのです。「なぜか」と聞くと、「日本文化はどうでもいい。まわりと同じように見えるようになりたい。」と言うのです。ティーンエイジまでつづきました。

T・Dさん:周囲の意見が子どもも気になるのですね。

Y・Hさん:ことばはそれぞれの歴史や文化に根付いているので、ことばの学習にも文化を入れて行くことが重要でしょうね。若い時に英会話教室に通っていましたが、会話だけに特化しているように感じました。ことば+文化を同時にとり入れて行くことが必要でしょうね。

張穎さん:難しいかもしれませんが、日本の学校で、外国の文化についての学びも入れていくのがいいかと思います。千代川小で、国語の時間に「スーホの白い馬」を中国語でも書いてもらい、「中国語でも暗唱する」という学習がありました。そのほかにも、中国出身の保護者のW・Lさんに、中国について話してもらったことがあります。その後、たくさんの子どもたちから、「これは、中国語で何というの?」とよく聞かれるようになりました。

E・Tさん:「外国語を学ぶ」というと、「英語を学ぶ」ということだった時代が長くあったような気がします。日本人の外国人との関わり方を変えて行く必要がありますね。

張穎さん:いろいろな外国語を学ぶ必要があるというのは同感です。これから、外国人の受け入れが増え、子どもたちも増えていくはずです。日本社会はそのままでいられますかね?

E・Tさん:以前、働いていた工場で、外国人の方達と関わりがありましたが、いろいろな理由で日本に来ていると思いますが、物覚えがはやいなあと感じていました。今に、日本の工場は、外国人で埋まるのではないかと思います。どのような言語を学ぶかは、これからも、関わっていかなければならない課題ですね。

張穎さん:お互いに学び合うことが大切だと思います。京都民際日本語学校で私も教えていますが、優秀な学生が多いです。基本は、3カ国語くらいできる人が多いですが、5カ国語ができる人もいます。みんな学生同士がなかよくなれると思います。三鬼先生なども、ハングル、英語が話せ、日本語教育ができますね。

T・Dさん:僕も、ブラジル出身でポルトガル語ですが、スペイン語、日本語、英語も話します。

Rさん:私は、日本語、英語、中国語、マレー語、広東語などを話します。私は日本語を話すので、日本で生活ができると思っていますが、英語が話せると、その国の人とも交流ができると思います。英語と日本語ができるといいですね。

張穎さん:英語ができないとどうですか?

T・Dさん:逆に、英語圏の人は英語しかできない人が多いですね。英語圏でなければ、3つくらいの言語ができる人が多いです。私は、ブラジル人ですが、ポルトガル語、スペイン語も話しますが、英語はみんなが必要かなと思います。

児嶋:日本は、戦前、戦後の歴史をあまり教えてもらわずに来て、先生達も今もあまり教えていませんが、日本が植民地を持った台湾や朝鮮半島で、学校で日本語を教える事を強制してきました。そのために、戦後も自分達の母語をあまり考える言語とできない外国の人々がいました。大変なことですが、あまり知られていません。

亀田さん:スイスでは、ドイツ語、イタリア語、フランス語も学びます。ドイツの友人は、日本人は、「多分」とか、「かもしれない」ということが多いと言っています。日本語は最後まで聞かないと、賛成か、反対かもわかりませんが、英語も中国語も、まず、結論を先に言います。ちがいがありますね。

S・Fさん:日本語教室で、日本語指導のボランティアをしています。日本で働いて居る人たちに日本語を教えているのですが、労働力が不足しているために日本に来ている人たちですが、週に一度だけでは習得するレベルにはなれないと思います。仕事では、マニュアルだけわかれば、こなせるようですが。   子どものことを考えて、連れて来たいと思っても、無力感に襲われると思います。毎週続けられない人もいますし。もどかしいと思います。

児嶋:私は、会社が本気ならば、会社で、毎日時間を決めて、日本語教師を雇用し、日本語教室を開講するべきと思っています。

E・Tさん:日本語とドイツ語のできる人が、オンラインで教えていたこともあると聞いています。

張穎さん:職業訓練での日本語指導も大切と思います。会社の日本語教室があると、この会社関係のシラバスを作って重点的に教えるなど。会社でも交流会などでも文化の紹介などもするといいと思います。

S・Fさん:会社でも今は、必要生を感じているのではないでしょうか?

張穎さん:あいさつくらいは、日本人も外国人の人がいたら、学んでほしいですね。

T・Dさん:日本語の翻訳をしていると、日本語の前と後ろがなくて、何と翻訳していいかわからない時があります。日本語は、主語や目的語が無くても、話ができるので、周りのニュアンスが理解出来ないと翻訳できない時があります。

Y・Hさん:良い悪いは別にして、日本人は、「単一民族」と言われ、「あ、うん」の呼吸が必要と言われてきた時代があります。そのため、「全部、言わなくても通じる」と思い込んでいる人もいます。その点も、日本語を学習するときは、理解する必要があると思います。

T・Dさん:それは、日本の魅力でもあります。

Y・Hさん:時代が変わって来ているので、それだけでは通じないと思いますが。

S・Fさん:ひまわり教室は継続してやっておられますが、子どもの家に出前授業などにも行く事があるのですか?

M・Yさん:この間、大夢君のお父さんから電話があって、「急なことですが、今度のひまわり教室は用事で出かけるので、その前に家まで来てもらうことはできますか?」と電話があり、家に行きました。

R・Sさん:ひとりの子は、メールで送ってきて問い合わせすることもあります。

児嶋:オンラインで毎日、教えて先生と子どものつながりもあります。

張穎さん:一回休みましたが、大夢君も明るくなって昨日は来ていましたね。 

M・Tさん:このひまわり教室などの資金はどうされているのですか?海外にでは、日本人学校があり、その子どもたちへの資金援助の方が多いように思います。これからは、日本にいる外国につながる子どもさんへの援助が必要になるのではないでしょうか?

児嶋:海外の日本人学校の教員の給料は、文科省が出し、その他の学校の経費は、登校している子どもたちの保護者の在籍する企業が、出し合っていると思います。今は、ほとんどひまわり教室などはボランティアですね。

S・Fさん:このような子どもたちが大きくなると、大学などに行けばまだいいですが、仕事を工場などで始めると、なかなかできないことが多く、続かないかもしれませんね。

T・Dさん:ブラジルの日系人は、通常の外国人とちがって日本に来て、簡単に働くことができます。それで、最初は、5年ほど日本に来て働き、ブラジルに帰国しようと思っているのですが、ここで生まれた子どもたちは、日本語を話せるし、日系人のコミュニティもあり、そこに住むと、大人になって来日した日系人は、日本語を話せないままで暮らしていけるという人たちもたくさんいます。

張穎さん:ひまわり教室では、親御さんとよく話していますが、学校にいるだけの外国につながる子どもたちは、学校と家庭との連携ができないと学習も伸びていくことが難しいと思います。家庭に帰っても、子どもたちは、自分の親に、抱えている問題を言えないし、親も学校とことばが通じないことがあります。そのために、学校か、市役所などに相談窓口がほしいし、作る必要があると思います。(別に多文化共生センターへはたくさん相談に来られていますが。)

K・Tさん:映画の脚本作りをしていますが、大阪の西淀川区で外国人労働者の子どもたちの映画を作ったことがあります。最初は、子どもたちが勉強する場所があるかどうかと見ていました。日本語の学習教室があり、小学生は夕方から、中学生は夜に来ていました。それをどのように表現するかを考えていました。彼らとどのように結びつけるかと考えて、外国語でのあいさつをしてみました。この経験から、子どもたちが行きやすい場所を作る必要があると思いました。

(後に亀田さんからの補足:映画脚本家の堤健介さん 、初監督として Chair(チェアー)を撮影されました。昨年の末、亀岡のオールロケで、保津浜TERRACEで、エキストラの方を交流撮影、Chair(チェアー)   家具職人の双子の兄弟である悠と翔平を主人公とした作品で、翔平が悠になりすまし、兄の地位を手入れるというストーリーです。 

 2024年3月 サンガスタジアムで上映会が開催されました。8月にもガレリアで上映されました。)

T・Dさん:その映画をどこかで見ることはできますか?(児嶋が後にK・Tさんからお聞きしました)

K・Tさん:映画のほうですが、今のところ上映の予定はないそうです。ですので、関係者向け限定公開のYouTube URLをお送りいたしますので、こちらでご覧いただければと思います。

タイトルは、『Hola! 出来島!!』約16分の短編映画です。大阪在住の岸本景子という女性が監督です。堤は、脚本を担当しております。大阪西淀川区の出来島商店会さんのPR企画として制作されました。あらすじなどは、リンクへアクセスしていただければご確認いただけます。

(児嶋は、作品を見せていただきましたが、今後、K・Tさんに、Global Sessionのゲストとしてきていただき、セッションをしながら見せていただくようお願いしています。

R・Sさん:今までの感想ですが、日本語のわかりづらさがありますね。日本語の文末まで言わない風習で、「皆まで言うな」などと思われ、外国につながる人たちとのコミュニケーションには、妨げになりますね。多文化共生のためには、受け入れ側の体制が必要で、「日本に来て良かった」と思える支援体制が必要と思い、無ければ作っていく必要があると思います。

T・Dさん:その日本語の言い方を、「美しい」とか、ささいな言い方でも気持ちが伝わるとか、良い方に取る方法もありますね。

張穎さん:日本語は美しいと思いますが、なかなか外国人にはわからないです。留学生なども「やさしいにほんご」から始める方法もあります。外国人から来て仕事をする人は特に必要と思います。

亀田さん:そろそろ時間が来ました。ご意見や質問があれば、児嶋さんのところにお知らせください。レポートで取り上げてもらえますので。

2024年10月26日(日)第380回グローバル・セッション・レポート「縮小社会の歴史を辿る」

コンテント

開催日:2024年10月26日(日)10:30~12:00
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:玉野井麻利子さん(アメリカ大学名誉教授・京都市在住)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:11名

 今回のタイトル:縮小社会の歴史を辿る

概要:「縮小社会」という言葉が生まれたのは1990年代。それから20年以上経った今も解決の糸口がありません。政府は、女性にはもっと多くの子供を産んでいただきたい、そのためにはお金を差し上げますから、といった単純な言説を繰り返すばかりです。今回は「縮小社会」を全く違った側面からアプローチしようと思います。その方法とは「縮小社会」を明治から歴史的に追ってみること。実はあまり自信がないのですが、頑張ってみます。よろしくお願いします。(玉野井麻利子さんより)

コーディネーター亀田さん:では、みなさんの自己紹介からお願いします。

自己紹介

S・Fさん:昨日は、選挙(事前投票所)の立ち会い人をしていました。11時間半の予定と聞いていたのでつらい仕事だろうなと思っていました。この間、1500人もの人が入室し、この方たちを見ていると、「どんな生活をされているのだろうか?」とか、いろいろ考えながら見ているとおもしろくなってきました。あっという間の1日でした。今日は、玉野井さんと楽しい時間をすごしたいと思っています。

K・Nさん:保津町に住んでいます。今日は児嶋さんのプレゼントがあるということで、来ました。(歌集のこと)

M・Aさん:ブラジル生まれで、大本本部の国際課にいます。9月から、10月にかけて、合気道をする人たちとドイツに行ってきました。楽しかったです。

Z・Yさん:中国国籍です。長く日本にいて、今は「外国にルーツを持つ子どもたちの教育に関わっています。玉野井さんのお話しが楽しみです。

H・Mさん:日本語教師です。ベトナムでも教えていました。今日は、玉野井先生のお話を進められ来ました。

M・Sさん:昨日までの亀岡祭で盛り上がっていましたね。友人が横浜から来てこんなにすてきな祭に来られてうれしいと大喜びでした。この亀岡祭も200年もの歴史があるようですね。今日は、祭のあとのしずけさを味わっています。祭は動く美術館とも言われています。

S・Fさん:羽衣山のちょうちんを画きました。子どもたちを相手に祭も楽しいですね。

M・Fさん:私は、このGlobal Sessionの始め頃から参加していますが、ここでは、いろいろな話が聞けるし、楽しみです。仕事は今も子どもたちに映画作りを教えています。

S・O君:立命館大学国際学部の3年です。玉野井先生とのGlobal Sessionは、2回目で楽しみです。

児嶋:このGlobal Sessionは、いつも言いますが、1999年に亀岡市国際交流会館で始め、今に至っています。今回は、380回目になります。セッションですので、みなさんのお話しも聞きたいと思いますのでよろしくお願いします。

亀田さん:コーディネーターの亀田です。玉野井先生の、お知らせ版に掲載されている『満州 交錯する歴史』も読みました。我々は、この時代のことを学校では習っていないので、知らないことが多いです。私は、ツアーガイドですが、2週間前に、たまたま電話が通じて、2004年にシルクロード(ウイグル)へ行ったときのガイドさんとです。清水寺の駐車場で20年ぶりに会えました。漢民族は優遇されていますが、漢民族以外の人たちが中国から来るのは難しいという情報を聞いていたので、驚きました。裕福なウイグル人は来れましたが、普通の人にはパスポートも発行されないそうです。

今は、オーバーツーリズムで、10月は少なかったそうですが、中国人は以前は、バスを20台から60台くらい連ねて来て、駐車場も予約が必要なのだそうです。でも、ウイグル人やチベット人にはパスポートの発行も難しいようです。

グローバル・セッション開始

玉野井さん:まず縮小社会を考えるにあたって、1940年からの日本の人口の推移を見てみましょう。

1940年日本の出生数は約212万、1947年ごろになると約270万に増えます。ところが1970年代後半になると約200万人、そして2024年はたったの約72万です。

岸田元総理のいう異次元の少子化対策とは:子供を産んだ(あるいは不妊治療をしている)既婚女性の家庭にお金を支給する、という対策です。

支給額:3歳未満のこども 月1万5千円、 3−18歳 月1万 第3子以降 月3万円 (大人と認めた18歳以上は死刑の対象にもなり得ることに注視してください)。

これを2025年から開始するというのですが、 その基金は国から払うのではなく国民が、子供がいるいないに関わらず払う仕組みになっています。

被傭者保険 月額800円 国保加入者 月額 400円(75歳以上は350円)

ですからこれからどうなるのか、まだ未定の対策なのです。

「縮小社会」の歴史

「縮小社会」と言う言葉が誕生したのは1989年だと言われています。 出生率が急に150万ほど下がりピラミッド型の人口構成となりました。2022年にもなると、イーロン・マスクが次のようにtwitter でつぶやいています。「(日本は)街にも村にも家の中にも誰もいない、いずれ消滅する社会」だと。ただ私のような歴史家にとっては「縮小社会」という現状が今まで書かれた歴史にはあまり現れなかった子供と女の生活や考えを明るみに出したとも言えると思います。

縮小あるいは縮少の意味とは:小さい(大きい)、少ない(多い) 

何が小さいのか、何が大きいのか、何が多いのか、何が少ないのか:小と少の違いははっきりしないのです。 この問題は明治期にもありました。

石井研堂(1865―1943)という方がいます。彼は『十日間世界一周』『明治事物起源』の著者です。日本で初めての月刊児童総合雑誌『小国民』を発行し、この雑誌は売り切れになるほど驚異的は発行部数がありました。内容に含まれているのは:地理学、博物学、理化学の紹介、西洋の子供達の遊戯や切手集めなどの趣味の紹介、世界中の政治家や学者の伝記、自転車のすすめ、などです。

つまり「小国民」とは日本という国に住んでいる小さい子供のことです。

ところが1894年に石井に起こったある出来事により石井は『小国民』を廃刊せざるを得なくなりました。この年、石田は絵入りの手旗信号を小国民に掲載します。ところが日清戦争がすでに始まっていたので、海軍の機密情報を漏洩したとして訴えられます。幸い訴訟の最中に戦争が終結したので石田は不起訴となりますが、この事件は雑誌の存続を根底から揺るがし、そのため石田は小国民を廃刊します。

それから約30年以上たった1931年(日中戦争の始まり)

日中戦争が始まると子供に向けた雑誌は全て小国民ではなく少国民という言葉を使うようになります。雑誌の名前は全て:少国民の友、週刊少国民、少国民文化、少国民雑誌、科学少国民、少国民文化。。。その理由は徳富蘇峰(1863―1957)が1937年の全日本保育大会において行った演説を読むとわかります。

「1000の人を殺すのは1500人の人を助けるためで、小の虫を殺して、大の虫を助けると言うことが我が世々(生まれては死に、死んでは生まれ、生死を繰り返すこと)やまざるところの国家の原則である。今その原則を実行しておるものであるからして。仕事の上ではこちらは産む方、向こうは殺すようでありますけれども、終局の目的においては皆さんが子をお産みになるのも、将兵が敵を殺すのもみな同じわけあひであります。この終局が同一であると言うことがおわかりならないような人間では、とても今日の私のお話はわからないに決まっております。

戦争中になると、こちらは母親、あちらは将兵(子供の将来)、つまり子供が戦争に勝つための人的資源になってしまったのです。確かに国は戦争中に子供を保護すると言いました。しかしそれは全くの名目にすぎません。子供を保護するという集団による、あるいは縁故による租界はようやく1940年になって始められました。しかし東京や大阪、さらにはあらゆる都市で始まった空爆は多くの人々を殺し、そのため疎開していた子供達は皆「戦争孤児」になってしまったのです。そして戦争が終わってからも戦争孤児は誰にも保護されることがなかったのです。

敗戦:人口減への努力

戦争が終わると、政府は全く正反対の対策を取ります。つまりいかに女に子供を生ませないか、という対策です。例えば、日本も先進国へなるために2、3人の子供がいる家族が好ましい、などと言うわけです。。そして、そのためにはバースコントロール(中絶を含む)が必要だ、とも言うのです。さらに1948年に始まった優生保護法は障疾患を有するものを不良と扱い、その子孫が生じることのないように強制的不妊手術を勧めました。最高裁が優生保護法の違憲を認定し、国に対し賠償を命じる判決をしたのはなんと2024年です。

最後に一つのエピソードを

内村鑑三(1861―1930)は無教会主義 非戦論者のクリスチャンです。また『デンマルク国の話』という本の著者でもあります。その内容とは:

1864年、戦争に負けたデンマークは領土の一部をドイツ、オーストリアに割譲。国は小さくなり、民は少なくなり、土地は荒れた。この時期にフランスでは迫害されたユグノー教徒がデンマークに移住し、木を植え、木材を収穫し、荒地に水を引いて農地に変え、穀類と野菜を作り、植林により水害を阻止。小さくても住みよい国にしました。

戦後すぐ、日本政府は内村の本を子供用に書き換え、『デンマークはいいなあ』などの題で国定教科書として小学校で使われるようになりました。小国であろうと平和で貧富の差のない日本を作ろう、ということでしょう。ところが日本は高度経済成長の道をまっしぐらに走り出します。大きくても、人口が多くても、人が豊かな生活を楽しむことができなければ豊かな国ではないのです。そしてそれはお金だけでは成り立つことではないのです。

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亀田さん:セッションを始めましょう。

児嶋:私は、今もなぜ、満州に人を出したのかが、不思議と思っています。開拓と言っても、中国人のいた土地を搾取し、中国人はその村を離れなければならなかったかったと聞いていますし。

玉野井さん:「満人」という呼び方がありましたね。戦争後、帰国できた人にしたインタビューを見ると、戦争後、放り出され、何人も死に、2年も3年もかかって帰国したとか、「いいところだよ」という宣伝をした政府でしたが。

M・Fさん:当時、日本経済が良くなってきて、朝鮮半島から、満州へと動くよう呼びかけたのでしょうね。

玉野井さん:そんなに大きな土地を耕せるよという宣伝でしたね。

S・Fさん:日本の貧しい村々に住んでいる人たちには、満州にでも出て狭い日本は住みあきたという考え方が気運を盛り上げたと言われています。徳富蘇峰の文を見ると、この時代の社会を最低の物としてか見ていない気がします。

M・Fさん:内村鑑三さんはどうですか?1930年ころですが。

S・Fさん:激しい時代につかまっていく感じですね。

M・Fさん:昭和に時代に、「明治に続け」という考えだったのでしょうね。中国では、清国は、もう古代と考え、今は戦後という考えですね。日本では、現代の戦前、戦後の時代は社会科教育の中で省かれたといえますね。

S・O君:1970年代は日本の人口が減少していたようですが、1989年代にはピークになったようですね。では、なぜ、このタイミングで、人口が変化しだしたのかと考えると、この年、昭和天皇が崩御したことが理由のひとつかと思います。「産めよ、増やせよ」に変化が出てきました。明治政府は、天皇中心の世を造ろうとしていたのが、「小国民」から、「少国民」へと流れが変わったように。

玉野井さん:私は、日本にいなかったこともあります。

S・O君:僕は、2003年生まれで、平成天皇のイメージは、被災地に行ったりして声をかけている感じです。昭和天皇のイメージはあまりないです。

1960年生まれの大学の先生から聞いたのですが、1989年に昭和天皇が倒れて初めて、天皇の身体情報が、テレビで報道されたそうです。天皇と国にとの関わり方が変化を見せた時期かと思います。同時に子どもが少なくなって行き始め、つばがりを持つのが難しくなっていったのではないでしょうか?

M・Fさん:核家庭ということばも出て来ました。その時期から、家族は祖父母や父母がいて、長男が家を継ぐ考え方が変わり、それぞれの家庭でもっと収入が必要になり、共働きが普通になり、家庭で子どもを育てあげるという意識が薄くなってきたのではないでしょうか?

M・Sさん:昭和天皇が亡くなった時の報道をよく覚えています。魂を安らかにという雰囲気ではなかったでしょうか?以前、私は教師をしていましたが、亀岡小学校から子どもたちが別れて、城西小学校ができました。宅地増成が相次ぎ、転入生も常に紹介され、ひとクラスが48人もいた時期もあります。その後、つつじケ丘小学校は、合計1000人を越えました。人に酔うくらいでした。1989年ころから子どもは減り、1000人規模の学校は、無くなりました。私は、その後、シンガポール日本人学校に赴任し、3年間いましたが、当時、そこも1000人規模でした。そのころは、もう日本にはそのような大規模学校はなかったですが。その後、シンガポールもバブルがはじけて、勢いが衰えてきましたが。

亀田さん:バブルがはじける前とは大きくかわりましたね。企業がリストラを始め、核家族や農業も下火になり、土地価格は上昇し、企業はリストラしてなんとか生き残ろうと。就職氷河期でもありました。今の中国は、同じように、バブルが落ち、大学を出た学生の就職もでいる状況ではないようです。

玉野井さん:昨日の評価を見ると、大学が多すぎる?(都会の大学だけが残る)ではその方法とは?子どもだけでなく、大人も入れるように変えるという方法も検討されていますね。小さい団体でもいいので、うまく機能する方法を考える必要があるのでしょうね。

児嶋: ひまわりの先生にも、大学院生や若い方も興味をもってもらえるように変わってきましたね。

玉野井さん:天皇と戦争をくっつける発想が大きかったですね。『白馬に乗る天皇』とか。

児嶋:天皇制を、第2次大戦後、アメリカは日本の人々の反感をそらすために、残そうとしたと聞いています。天皇をつぶしたら、日本人の反発があると。

S・O君:戦争と天皇制は高校時代までは、関係ないと思っていましたが、大学生になって、天皇の背景には、歴史があると認識するようになりました。

玉野井さん:「天皇はどんな人ですか?」とアメリカ人に聞かれて困ったことがあります。天皇がディズニーランドに行ったとか、ミッキーマウスの横で手をあげている写真とかを見て。

M・Sさん:日本の戦後の教育の中でも教えられてこなかったし、自分でも教えていなかったとか。沖縄についても、新婚旅行のメッカとなってひめゆりの塔の前で写真を撮ったり。ここは、悲しみのひとつの場所なのに。学校でも教材化してこなかったことを繰り返していると思います。シンガポールでも日本との戦跡に「反日本」の石碑があるところで、新婚旅行写真を撮ったり。日本人がいかに戦争について知らないか。教えられていないのか。と思います。

児嶋:沖縄は今もそうですね。

M・Fさん:天皇制については、江戸時代とはちがって明治時代になって急速に政治に巻き込まれてきたのでしょうが、教えるコンセンサスなどとれないままに今があるのpでしょうか?中国は、それに対してコンセンサスは取っているようですね。

亀田さん:今日は、玉野井さんが、以後、しなければならないことがあり、この12:00の時間で延長せずに終わることとします。

児嶋:感想があれば。児嶋までメールでおおくりください。ありがとうございました。 

2024年9月15日(日)第379回グローバル・セッション・レポート「亀岡のブラジルの姉妹都市ジャンジーラについて ブラジル移民の歴史・出身地(パラグアイとブラジルの国境)について」

コンテント

開催日:2024年9月19日(日)10:30~12:50
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:秋山昌廣さん(ブラジル生まれ:大本本部 亀岡宣教センター)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:13名

 今回のタイトル:亀岡のブラジルの姉妹都市ジャンジーラについて ブラジル移民の歴史・出身地(パラグアイとブラジルの国境)について

セッション終了後のレポート

姉妹都市ジャンヂーラ市長と交流~地球の裏側から亀岡を訪問~

マイ広報誌より

大本教 歴史

大本教HPより

2024年8月18日(日)第378回グローバル・セッション・レポート「服飾から見た生活文化シリーズ27回目:「1930年代アメリカの服飾史―アメリカンルックの誕生―」」

コンテント

開催日:2024年8月18日(日)10:30~13:00
場所:ガレリア3階 会議室&オンライン
ゲストスピーカー:濱田雅子さん(元武庫川女子大学教授、アメリカ服飾社会史研究会 会長)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:10名(うちオンラインでの参加2名)
主催:オフィス・コン・ジュント&亀岡国際交流協会
共催:アメリカ服飾社会史研究会

 今回のタイトル:「1930年代アメリカの服飾史―アメリカンルックの誕生―」

セッション終了後のレポート