2024/02/22

外国につながる子ども・保護者のための居場所つくりを考える研修会(2023年度第2回目)レポート

報告

開催日時:2024年2月10日 午後1:30~3:30

場所:ガレリア2階 大広間

講師:エニ・レスタリさん(インドネシア出身・大学講師・京都市在住)

タイトル:他国「日本」でのストーリーとコミュニティとのつながり

司会&コーディネーター:児嶋きよみ

参加者:15名

亀岡市国際交流協会&オフィス・コン・ジュント共催

プログラム

  1. 講座(エニさん)    1:30~2:00
  2. 参加者の自己紹介    2:00~2:30
  3. 休憩          2:30~2:40
  4. 全体ディスカッションし 2:40~3:30
  5. 絵本の紹介(H・Tさん) 3:30~3:45
  6. おわりのあいさつ    3:45~3:50

エニ・レスタリさん当日資料

 私は1996年に日本人と結婚して、2001年に子どもが生まれました。その時一番悩んだことは、やっぱり、どうやって子どもを育てるかです。特に言語の教育に関することでした。

 まず私たち夫婦は、婦人科と小児科の先生と相談しました。先生のアドバイスは、「子どもには母語が必要であること。多言語にすることは子どもを困難にする可能性があるので、一つの言語を定めたほうが良いのではないか。」でした。それで、私たちは、子どもは、これから日本の学校で教育を受けるのだから、日本語で育てると決めました。このころは、まだ外国人の子どもが多くはありませんでした。そして今のように、学校で日本語教育の支援がありませんでした。そしてバイリンガル教育も求める環境ではありませんでした。

 子どものために、私たち夫婦はできる限り日本語でコミュニケーションすることや、私自身も日本語をマスターするために、日本語をもっと勉強することにしました、生活面では、夫の両親や、保健所の職員さんから知識をいただきました。また、近所の皆さんとも友達関係を作りました。児童館で、他の保護者と一緒に絵本を見たり、遊んだりもしました。児童館のイベントもたびたび参加しました。それに、児童館で知り合ったお母さん達と友達にもなりました。子どもの教育のことを色々教えてもらい、非常に助かりました。

 その児童館には、たくさんの絵本がありました、時々、絵本の読み聞かせイベントにも行きました。子どもたちは、とても楽しく聞いていたので、それから私も家で絵本を読んであげることにしました。息子は、とても喜んでいました。絵本以外に、私は歌が好きですから、遊びながら、日本語で子どもの歌を歌いました。そして、毎晩、寝る前にも、必ず絵本や子守唄を聞かせてあげました。   

  日本の儀式も、ちゃんとやりました。生まれて間もなくお宮参りや七五三をしました。私は、この儀式は宗教と思わなくて、文化としてするべきと思いました。私の民族 「ジャワ民族」にも似ている儀式もあります。

 このような毎日の生活で、普通の日本の家庭のように暮らしました。息子の名前は日本語ですから、周りからは、100%日本人と思われていました。言葉も不自由なこともなく、日本語が出来ます。

 ある日、学校の先生からの依頼で、私は彼のクラスで、インドネシアを紹介しました。子どもたちは、非常に興味を持って、インドネシアの文化に触れ合いました。息子も、大変喜んでいました。「お母さんがインドネシア人で嬉しい」とも言ってくれました。

 インドネシアの生活習慣にも、ふれることもあります。私はイスラム教徒であるので、豚肉は食べません。お祈り、断食などもするので、彼はそれを、理解しています。宗教は人権でもあるので、夫は子どもへの宗教のしつけには反対でしたから、子どもが大きくなってから自由に選んでもらおうと考えています。

 小学校の時は、学校の宿題に、わからないことがあったら、いつも私に聞きにしました。中学校の時は英語の宿題は一緒にやりました。

 今、息子は大学生になりましたが、小さいころから、学校で困ったことやいじめなどにはあっていませんでした。彼自身も、母親が外国人であることに誇り持っています。

 ある日英語の授業で「自慢の人を紹介する」という作文を作りました、題名は「私のお母さん」でした。

 私はこれまで、子どもを、このように楽しく育てることが出来たのは、たくさんの人から助けてもらったおかげと思っています。もう一つは、児童館のお母さん達のつながりがあったからだと思います。このような事から、コミュニティ内でのつながりが一番大切と気づきました。

 コミュニティとのつながりの大切さを感じた私は、日本人のコミュニティとだけではなく、インドネシア人のコミュニティとのつながりも必要と考えました。

 多くのインドネシア人留学生とその家族が京都にやってきます。私は先輩として皆さんが子どもさんの事で、困ったことがあったら、相談にのって、助けています。例として、学校との連絡の通訳や、病院の情報提供などです。

 現在は、「アニサーシャリハー」と言うイスラム教徒女性の会のアドバイザーとして、活動しています。活動の一つに、日本語教室の開催があります。週1回90分オンラインで行っています。他の活動は日本のコミュニティとの架け橋や、日本の生活についての相談などです。

当日の講座より

エニさん:寒い中、来ていただき、ありがとうございます。私は、1993年に来日し、日本の文化財の熟成や修復の共同研究のために、JICAの支援を受けてインドネシアと東京など行ったり来たりしていました。日本を好きになり、日本で暮らしたいと思うようになりました。1995年には、恋に落ち、1996年に結婚しました。5年後、2001年には、子どもを出産しました。インドネシアの家では、「結婚して何年?」とか、「子どもはいつ?」とか、よく聞かれます。実は、私は、国際結婚の子どもはハーフと呼ばれる時代だったので、とても心配で、怖かったのです。子どもを持つことが。夫は、子どもがいても、幸せになると言ってくれましたが。

 どの言語で育てるかも課題でした。夫は、インドネシア語、英語、日本語が話せますが、日本で育てたいという思いもありました。その当時は、私には日本語は難しく、医者にも相談しました。「どの言語の柱で育てるかは、決めておくほうがいいですよ。その後、成長と共に、足していく方法がいいかもしれませんね。」と言われました。

 このことで、私は、この子を「日本語で育てる」と決めました。そのためには、私が日本語をマスターしないと子育ては難しいと考えました。それまでに、1995年には、福岡大学で日本語を学びましたが、テレビやラジオ、周りの人々とつながりを持ち、当時は京都の太秦の大きなマンションに住んで居ました。そこの自治会や、祭などにも積極的に参加し、近所の人々とつながりを持ってきました。その間、たくさん支えになっていただきました。学童保育の場所などでも、わからない事をいろいろ教えてもらいました。今も、年賀状が来る人もいます。

 その後、覚悟して日本語を学ぼうと決心しました。子どもの日本語が不自由にならないために。毎日絵本を読んで聞かせたのもそのひとつです。絵本は、見る、聞く、読むの活動が重なり、母と子の間強くなった気がします。毎日寝る前にも絵本を読んでいました。

 私は歌が好きでCDを買って子守歌も歌いました。「おかあさん、なあに」の歌などは、大学生の息子が、今も歌ってくれます。インドネシアの子守歌も歌いました。私の宗教は、イスラム教です。インドネシアでは、同じ宗教同士でなければ結婚ができないことになっています。そのため、夫はイスラム教徒になりました。

 ただ、日本ではちがうので、夫は、「子どもの人権を守る必要があるので、大きくなったら自分で選ぶようにしよう」と言っていました。

 それで、子どもには何も言わずに、寝かせながら、「神様に見守ってもらいましょう」と言ってイスラム教のアルファライカを教えていました。

 今も、子どもはしんどい時に、「お母さん読んでね」という事があります。

 毎日の暮らしは、日本人と同じです。ただ、食べ物としては、家の中には、豚肉はないし、母といっしょに出かけると、豚は食べません。でも今は一人暮らしなので、自分で材料は選んでいるでしょう。

 外国人であることは、なかなかデリケートです。私は、自分の暮らしを子どものために日本のくらしをしようと思いますが、自分の文化も伝えたいと思い、インドネシア料理も作りました。今も彼にとってインドネシアの文化がある所は、自分の家でしかなくて、食べたくなると帰ってきます。ソオアイアンという鳥のスープが好きなようです。

 彼は親のことは自慢できるようです。日本でもアジア系の人は下に見られることが多いのですが、近所でもやさしくしてもらっていました。

 一回だけ事件がありました。一時保育の時に、インドネシア写真の展覧会があり、そこへみんなで行った時になぜか、他の子をうちの子が、咬んだそうで、その親が警察を呼んだのです。その警察の方は、「あやまってください。でも住所など聞かないでください。これで、終わりにしましょう」と言ってくれて、終わりました。

 これ以後、私は、子どもの他人とのつながりを強くしようと思い、近所の人たちともつながりを持ちました。お祭りや災害訓練や、いろいろな行事にも参加しました。

 このようにつながりが大切と思い、インドネシア人のコミュニティにも足を運ぶようになりました。「アニササリア」というインドネシア人の女性のグループの生活アドバイザーをしています。困ったことがあったら、相談に乗っています。例えば、保育園への入り方や、ひっこしの時や、あやまりかたや、京都の人たちとの暮らし方などをアドバイスしています。例えば、みんなが集まる時には、その前に、あいさつをしておくと、大きな声で笑ったりしても大丈夫になります。 

 当時子どもに読んだ本を紹介します。今も「あの絵本」と息子が言います。

 現在は2024年ですから、30年近く前の本ですが。『   』です。

 読んで歌う本もありました。『I love you いつまでも』ギターやロックバンドで歌っている場面もあります。現在、息子はこのとおりになってバンドなどで歌っています。

児嶋:では、参加された方がたの自己紹介からはじめたいと思います。それぞれが、せっっかくのお時間をとって集っているわけですから、ご自身の話をしてくださいね。

参加者自己紹介

Z・Yさん:中国出身で、日本に来て19年になります。今は、大成中学校、千代川小学校、大井小学校などで外国につながる子どもの学習支援員をしています。

H・Tさん:亀岡には30年前に来ました。子どもは大きくなり独立しました。自分の作った絵本はあとで、みていただきます。

W・Lさん:中国出身で、2006年に日本に来ました。日本語の学習や日本の大学を卒業し、今は会社で仕事をしています。夫も中国人で、子どもは千代川小学校の4年生です。エニさんの話を聞くのは2回目です。外国人としてどのように子育てをしていくのかを考えたいと今日は、参加しました。

M・Sさん:教師をしていました。英語や国際交流を、教えていました。今は小学校でも

 英語を学習したりしていますが、40年前には、小学校教育に中には国際交流や英語教育はなかったのです。昔は、外国に人が前で話すと、子どもが固まってしまうことがありました。今は、いっしょに築きあげて行く時代ですが、これからどうなるかわかりませんが。

 エニさんは、そのころ、すでに日本に暮らし始めていましたね。息子さんのちいさいころも知っているので、185cmにもなった青年と聞いてびっくりしています。きっといいことも、悲しいことも、くやしい事もあったでしょうが、子どもさんとの絆を家庭で作っておられたのでしょう。

H・Kさん:大津から来ています。Global Sessionは、こちらで月に1回あり、エニさんとは、4、5回お会いしたと思います。京都市国際交流協会でもお会いしています。

 インドネシアは、アチェの地震があり、政治構造の変化がありましたね。

 フィリピンなどから出稼ぎに他国に行くのは多いですが、日本は円安で、なかなか期待人が少なくなっているようです。

 私は、ツアーガイドで、日本人が他国に行くのも大変です。

C・Mさん:保育士をしています。亀岡も外国からの子どもさんが増えて来て、父母が日本語がわからない家族も増えているので、今回は何かを得たいと参加しました。

S・Yさん:となりの多文化共生センターの相談員をしています。夫はカナダ人でヨーロッパにルーツがあります。外国で子育てをしていて、2年前に日本に来ました。今は、小学校4年生、4才と5才の3人の子どもがいます。子どもの言語には悩んでいます。

 今は、日本語で学校で学んでいますが、「英語で話すのはいや」などと今は言っています。私も「I love forever」の英語版を持っています。

N・Rさん:インドネシア出身でまだ独身です。亀岡で介護の仕事をしています。エニさんがインドネシア人で、お話しをされるということで、ぜひ参加したいと来ました。亀岡では、インドネシア人にやさしいと思いますが、イスラム教は今までどおりに思っていますが。これからもよろしくお願いします

S・Tさん:立命館大学大学院の大学院生です。大学時代にインドネシア語を学び、3週間ほど語学留学したことがあります。大学院では日本語教育を研究しています。ひまわり教室でも教えたことがあります。

M・Mさん:「やさしい日本語を広める会」の代表をしています。ホームページを作り、そのリーフレットをお持ちしました。エニさんの息子さんがインドネシア人のお母さんに誇りを持つというのがいいですね。私も息子がいますが、下の子は、スペイン女性と結婚し、IT関係の仕事をしていて、いづれ、スペインへ行くでしょう。

R・Sさん:ひまわり教室で学習支援をしています。先ほどのエニさんの話で感銘を受けたのは、子どもさんに信教の自由を勧め、自分で判断して決められるのを待つし、信じる宗教はそれぞれ尊重するという点です。相手に敬意を払うことは大切で、相手の大切にしているものは同じく大事にしようということだと思います。

K・Iさん:私はナイティブJapaneseです。自分の家は330年前から続いている家です。

 60才までは、International な会社に務めていました。パンパースなども売る会社です。その間、欧米や、台湾やフィリピンなどによく行っていました。退職後の10年間は自治会などの頼まれ仕事をしていましたが、13年前に、保育園などをもつほうじょうかいという所から理事長を頼まれ今もやっています。

 上西山保育園・あゆみ保育園・高齢者施設などをもつ会です。今は、83才です。ここは、定年なしです。

S・Kさん:京田辺市から来ています。以前は東大阪市や枚方市で、教員をしていました。17年前からこちらのイベントなどに来ていました。ひまわり教室も2014年から始めておられますが、私も車で来て参加していました。国際交流協会の事業部会にも参加していたのですが、車で来られなくなって、今日は、何年ぶりかでカツを入れてもらいました。エニさんの「私のお母さん」が息子さんが自慢できるひとというのがすごいです。

 私の息子達もパンパースで育ちました。

休憩:10分間

児嶋:では、もういちど会に戻って質問やご意見を聞いていきましょう。

M・Sさん:子どもさんとは、日本語で話すより、インドネシア語で話そうとは思わなかったのですか?

エニさん:小学生になると野球に夢中になり、インドネシアには小学校3年生からしばらく行かなかったのです。ようやく高校1年で、インドネシアにまた行きました。その時は、自己紹介くらいがインドネシアでできました。

M・Sさん:母語って子どもさんにとって何?と思うのですが、お母さんの言葉を話さない状況は、お母さんにとってプレッシャーだったのではないでしょうか?日本で生活する外国出身のお母さんが、「日本人の夫の家族から、日本にいるのだから、子どもに外国語で話しかけないでね」と言われて、苦労した話もありました。逆に父親が日本人の、自分の子どもたちから、「お母さんの日本語は古い」とか言われた例もありました。または、日本人のお母さんが韓国に住み、お父さんが韓国人の場合、「ここは韓国だから日本語で育てないで」と言われた礼もあります。

 また、多言語で子どもを育てることは、子どもにとって大変だという意見もありますね。

児嶋:母語というのは、お母さんの話す言語という意味ではありませんね。子どもさんが小さい時から、一番影響を受けてきた言語のことですね。

エニさん:コロナ禍の前に京都市国際交流会館で、講座があったときにうちの息子も参加したことがありますが、息子は「自分は日本人というアイデンティティで育って、自分の母語は、日本語と言ったことがあります。母がインドネシア人でも」と息子は迷わず、言いました。母親が外国出身でも、ひとはそれぞれで、どこの国で生活をするかで覚悟を決めて育てる必要があるかと思います。また、文化のちがいもあるはずで、「自分は外国人ですから」とていねいに質問し、説明することが大切かと思います。

W・Lさん:私は中国で出産し、子どもが2歳半で日本に来ました。最初は、子どもは全く日本語も話せなかったです。2か月後には、保育園に行かせ、最初は毎日泣いていたようです。ところが、家でも私たち夫婦も日本語で話していると、今は小学校4年生ですが、彼は、日本語が母語になっています。夏休みに中国にいる我々の父母(彼の祖父母)に預けてみようかと思っていたのですが、コロナ禍でまだできていません。今は、中国語と中国文化についてオンラインで学んでいます。この旧正月には、中国の祖父母にオンラインで水餃子について中国語で話していました。

 息子の通っている千代川小学校は、多文化教育に熱心で、私もゲストの先生として2回呼ばれました。息子の王冠博君のお母さんと紹介もされて、息子は喜んでいました。

エニさん:イスラム教は、文化や生活の中に宗教が入り込んでいます。断食もあります。

 最初の夫とは離婚し、その後、再婚した日本人のパートナーである現在の夫は、いっしょにイスラム教に入信してくれて、断食もしています。

 京都留学生会のインドネシア人コミュニティでは、「子どもと日本語で話しているが、いっしょにインドネシアに行くと、インドネシア語で話した」と聞いています。でも、インドネシア人でもお母さんに言語を習うのは難しいという意見もありますね。

S・Yさん:何歳から、インドネシア語を学んだのですか?息子さんは。

エニさん:インドネシアには、先ほど言いましたが、小学2年から、高校1年まで、行っていませんでした

M・Mさん:いくつくらいで宗教を決めたのですか?

エニさん:インドネシアでは、17歳で大人と言われます。「宗教はイスラムにする?」と聞いたのですが、息子の実際の父親(前の夫)は、もう亡くなっていますが、無宗教でした。

 インドネシアでは、先ほど言いましたが、ひとつの宗教を選ばなければならないのです。

 でも、強制することはできないと思っています。

M・Mさん:子どもは小さい時には、親と同じ行動をすると思いますが、食べ物やお祈りなども濃淡があり、いろいろな家庭があると思います。子どもさんとていねいなコミュニケーションを取る必要があると思います。

エニさん:インドネシアも時代によって変わって来ています。1993年に初めて私は外国に行ったのですが、日本に来て牛肉と鶏肉は食べられると思っていたのですが、実際には、スーパーの日本の肉は実は、ハラル食ではないのです。その殺し方がちがうのです。ただ、そこまでは考えなくて、時代によって変わっても来ています。食べ物は、自分の身を守れない場合は、きびしく守ることも避けた方がいいと思います。

 ハーフの場合に、名字もちがうと日本では特別扱いをするといじめられる可能性もあります。給食も、最初は、学校に言っても、クラスに11人しかいない学校だったので、変りの食事を出すことはできないと言われました。「神様。ごめんなさい」と言って、特別扱いは「いいです」と断りました。

 外国に住んでいる私は、「宗教は、神様と私との関係です」と考え、それでいいと考えてやってきました。

K・Iさん:私の保育園では、インドネシア出身のイスラム教信者の保護者がいて、豚肉は対応してきました。ここまでの話で。イスラム教の信者に対して見落としていることはありませんか?

エニさん:イスラム教信者から見た日本は、時間を守り、清潔で、約束も守りますね。これは、イスラム教の大綱でもあります。これを守っているすべての日本人は、天国へ行けると思います。インドネシアの先生は、「イスラムの教えが日本に入っている」と言っています。

K・Iさん:いろいろそれぞれの考えを聞いて対応することが大切なのですね。

エニさん:インドネシアでも、すべての人がイスラム教徒というわけではないですね。

K・Iさん:祈りの場が保育園などにも必要ですか?

エニさん:12歳以上は、お祈りは義務ですね。熱心な人は小学生からやっています。

 学校には、祈りの場があるとありがたいと思います。祈りの時間もあります。断食もあります(一ヶ月)。断食では昼食を食べないのです。何時するのかは、普通のカレンダーとはちがってずれています。イスラムカレンダーがあるのです。

 もし、会社などにインドネシア人がいたら、カレンダーにも注意することが必要です。それに断食明けには、モスクへ連れて行くので、2日間は、学校を休ませる場合があります。

 このようなことを理解していただくと助かると思います。

エニ・レスタリさんの多文化共生への関わり(亀岡市と)

ワールドフェスタ

*ワールドフェスタ2017 2017年2月11日

  「私のインドネシアのイスラム文化~ファッションとハラール食について

*ワールドフェスタ2018 2018年2月18日

  「イスラム教徒のおもてなし~イスラム文化とおつきあいのしかた」

*ワールドフェスタ2019 2019年1月20日

  「ムスリム社会とビジネスチャンスin京都」

*ワールドフェスタ2020 2020年2月9日

  「多文化共生のまち亀岡~ごみの分別とそのゆくえ~」

  世界のごみ事情について~パネルディスカッション~

  上田:環境事業公社 エニ:インドネシア 陳少暉:中国

Global Session エニさんゲスト回

(1999年に亀岡交流活動センターで開始し、2011年以降はオフィス・コン・ジュント主宰)

2019年8月31日 「日本で日本語での子育てをして」

2020年7月25日 「How Corona affects our daily life?」

2022年9月4日 「ひさしぶりにインドネシアへ。25年日本に住んで」