2022/08/17

2022年7月17日(日)外国につながりをもつ子どもの学びを支える研修会

報告

開催:2022年7月17日(日) 10:15~12:15

場所:ガレリアかめおか 2階大広間

講師:大野友アンドレイアさん(箕面市国際交流協会職員)ブラジルから14才で来日。現在は箕面市国際交流協会の職員として外国ルーツの子どもをサポートする活動を行っている。

内容:1.講座「マイノリティと日本社会の狭間で」(10:20~11:10)

   2.セッション(質疑応答)(11:10~12:15)

参加者数:26名

共催:京都府国際センター(令和4年度外国にしながりをもつ子ども・保護者のための居場所づくり支援事業)、亀岡国際交流協会

主催:オフィス・コン・ジュント

研修開始

堀江亜希子さん(京都府国際センター)のあいさつ

  • 資料について(アンドレイアさん制作の年表の紹介)
  • 研修会の流れについて

司会:児嶋きよみ(オフィス・コン・ジュント主宰)

講演:「マイノリティと日本社会の狭間で」

児嶋:アンドレイアさんは、亀岡に来ていただくのは、二度目になります。では、どうぞ。

アンドレイアさん:「マイノリティと日本社会の狭間で」という良いタイトルをつけていただき、ありがとうございます。日本でもブラジルでもマイノリティになると思いますが、マジョリティの面もあります。今は、外国人市民や外国につながる子どもたちの相談など受ける仕事をしていますが、私自身の人生をひろげることもあるなあと実感しています。

 最初の画面を見ていただくと、バナナがいっぱいありますね。日本ではバナナというと黄色いバナナを予想されるでしょう?ブラジルでは、バナナの色も形もいろいろです。木で黄色くなったのは、おいしいし、バナナナニッカという小さくてなかなか手に入らないのもあります。このいろいろなバナナを見ていただき、人もいろいろな人がいますよということを考えていただきたいので、話をする最初は、このバナナの映像にしています。

 2018年に亀岡に呼ばれて来ましたが、その時も話しましたが、私の履歴を知らせて、これからの課題をみなさんとごいっしょに話合いをしていきたいと思います。

なぜ、私の祖先がブラジルに行ったのか?

 祖父(母の父)は、最初は、中国の満州へ行っていました。祖父はあまり当時のことは、話しませんでしたが、当時は、瓦職人として仕事をしていました。日本が戦争に負けて引き揚げてくるようになりました。その時は、男子は、軍へ、女子は子どもを連れて引き揚げということになっていました。祖父は徴兵されて行ったのですが、そこから離れて帰る途中に偶然、家族と会えて、中国国内を汽車を乗り継ぎ、船に乗り、ようやく山口県にたどりついたそうです。途中では、中国のいろいろな人が助けてくれたおかげで帰国できたようです。祖父は中国満州では瓦職人でしたが、日本では最初は、何もなく、子ども4人と5人目の母が生まれ、生活は大変だったようです。

 戦後の政府は、海外移住センターを開設し、南米などへの移住を促進し始めていました。現在は日伯協会とか、関西ブラジルコミュニティなどの組織があります。ここで、祖父は決心をしました。ブラジルへ行く際、アマゾンを選択すれば、誰かの下で働かなくてもいいとのことだった。サンパウロへ移住した人は農園で雇われる形でした。アマゾンでは土地しかなく、家も自分で作らなければなりませんでした。コロニアという場所で、植民地の意味もありますが、ブラジルでは、外国人居留地のような意味で使われ、日本人の多く住むコミュニティです。アマゾンのコロニアに入植し、こしょう作りを始めました。学校には、船に乗ってみんなで行き、日本語での学校があり、ブラジルの学校には行っていませんでした。でも、土地についての知識が無く、雨期には水が溜まるような場所で、そこを避けて点々と移って行ったようです。その後、日本政府が推奨した土地でしたが、その土地が農業に向かない土地であると認めましたが、その補償は全く無かったそうです。母は、学校へ通うために、ブラジルの政治家のひとりの養女になり、アマゾン河口の都市ベレンに住みはじめました。1985年の民政移管後、この政治家は姿を消し、母ひとりが残され、家族の元に帰ったと聞いています。 

 私の父は、日本の会社の駐在員でしたので、日系1世の母との間に生まれた子どもが私で、日本国籍とブラジル国籍を持っています。生まれて3ヶ月以内に日本領事館に届ければ日本国籍が取れたのですが、それを知らない家庭もあり、日系の人でも日本国籍のない人が多くいます。

ブラジルの人種

 ブラジルは、先住民が多く住んでいたのですが、1500年にポルトガルにより発見という名で入植され、ヨーロッパからブラジルへ移住して来た人が多く、先住民を農場の雇い民とすることが難しかったので、アフリカから奴隷として黒人をたくさん連れてくるようになりました。このころから、白人から黒人が搾取され、1830年代に描かれた絵画には、黒人奴隷が白人にサーブしている様子が見られます。当時、ブラジルは、アメリカの10倍くらいの奴隷を連れて来たと言われています。

 現在は、ブラジルは、白人、黒人の区別があまりなく、混在していて、フレンドリーと言われ   ていますが、実際にはどうかなと思います。サンパウロには以前は日本人街と呼ばれた地域がありましたが、現在は、東洋人街と言われ、アジア人が多く住んでいます。アジアからは、中国からの移住者が先で、韓国などからも多く、多様性がイメージとなっています。

 しかし、大統領は今でも、白人ばかりで、アンドレイアさんが日本に来て、多くの日本の人々が、「ブラジルは白人の国とは思っていない」ということに大変驚いたようです。9月7日はブラジルの独立記念日と言われ、パレードやマーチが盛んに行われています。でも、実際には、ポルトガル人がブラジルを発見し、後に侵入してきたというのが事実です。 インドとまちがって、先住民をインディオと呼ぶようになったのは、よく知られていますが、現在は、「先住民を守る」という組織もあります。地方によってはちがいがありますが、総人口の2~3%と言われています。インディオは、ワクチンの接種も大変で、白人が行き、それで、コロナになり、免疫を持っていない病気に感染、問題になっています。

ブラジルでの構造的な人種格差

 奴隷解放の記念日も5月13日になっていますが、実際には奴隷は、白人に買われていた商品と思われていて、自由は自分の金で支払ったともきいています。アメリカで「Black lives matter」の動きがありましたが、ブラジルは白、黒が混ざった色の皮膚なので、問題はわかりにくく、優遇政策はありけれども十分ではないでしょう。

 アメリカでジョージ・フロイドが警官に殺され、大きな問題になった7日後、ブラジルのヘシーフェと言う町で、市長の妻のメイドをしていた女性が、犬の散歩を命じられ、その女性の5才の息子は市長の妻(雇われ主)と家に残され、エレベーターで9階に上がり、そこから、その子が墜落するという事件が起こりました。雇われ主がエレベーターのボタンを押す映像が監視カメラに写っており大きなニュースとなりました。事件当時は構造的な人種格差によるものだと本人も気づいていませんでしたが、その後、そのメイドだった母親が法律を勉強し始めた。人種差別が当事者にとっても分かりにくい構造であることが分かります。

 軍事政権時代に教育学者のパウロ・フレイレは抑圧者の権利を訴える活動をしており、捕まえられたあと、チリへ逃れ、その後ヨーロッパへ逃れた事件があります。フレイレの思想に共感したアウグスト・ホアールと言う人もまた劇を通して、抑圧と権力の仕組みを伝える活動を行い、箕面国際交流協会では、この手法を使って「日常の中の多様性について」、というテーマで取組を続けて実施しています。

「わたしのアイデンティティは、どのようにして現在までに作られてきたのか?」

という課題があります。

 父は日本の会社の駐在員でしたが、母と結婚してサンパウロにいたようですが、ここには、日系のグループもあり、マジョリティの一員です。その方が安全ではありますが、私が1歳の時、日本人がほとんどいないガラパリという町へ行き、やおやさんを始めました。仕事はないかとたずねて来る人が従業員となりどんどん増えました。やおやの後、家のガレージをお店にして、アイスクリームや缶詰なども売っていました。私はそこの幼稚園に入ると、言葉がちがうことに気づきました。父母とは日本語で、近所の子どもたちとは、ポルトガル語で話していたが、日常のボキャブラリーが少ないと感じました。その後、父はホテルをやりはじめました。雇い人は、やおや時代から一緒に成長してきた従業員で、ほとんど、町のスラム街に住んでいて、学校に行っていなくて、アルファベットも書けない状況であり、「なぜか?」と考え始めました。その後、ホテルのレストランを作るとき、さしみは気持ち悪いと言われる時代でしたので、中華料理店をしました。学校でいろいろな行事もありましたが、なにかみんなとちがうと思うようになりました。

 第2次世界大戦の時、母方の祖父を含め、その時代を生きた1世はあまりその時代のブラジル政府の対応を3世や4世の孫には言っていませんでしたが、日本移民強制退去事件などもありました。その後も、日系のあいだで、戦争の勝ち組と負け組が戦ったこともありました。

 私の学校生活は、そのずっとあとですが、どの子もルーツはいろいろで、「あなたは何系?」とは言われませんが、アジア系はみな、「日系」と言われていました。でも、そこには私ひとりしかいないので、ルーツは問われませんでしたが。

 ブラジルの時代背景ですが、大統領が替わるとお金まで変わってしまうのです。1980年~1990年代ですが。今日、何かを買っても、明日それが買えるという保証はないのです。お金が変わるので、以前の紙幣は役にたたず、ドアのストッパーにされているのも見ました。ためてももったいない時代でした。

 その後、1991年に父は家族と共に、サンパウロへ移るか、日本へ帰国するかを考え、突然、ブラジル人出稼ぎ者がいるわけでもない大阪の吹田市に帰国しました。私は、14才で、弟は、11才と7才でした。帰国したのは1月で、寒くて寒くて大変だったのを覚えています。当時、政府の支援制度などはありませんでした。母は、いろいろなところから、情報を得て、私の正式な名前の「長谷川友アンドレイア」からアンドレイアを取り、長谷川友とするようにしました。ちがいがあるといじめられると思ったようです。中学校ではマンガ研究部に入っていた人から声をかけられることがありましたが、日本語の読み書きもままならず、成績は悪く、当時入れる高校として、高知にある全寮制の高校に入ることにしました。ここの国際コースに入ると、その後、Jリーグができて、その高校にブラジル人留学生もくるようになり、私が通訳や翻訳を頼まれるようになりました。その後、大阪外語大学に入学し、ときどき、ディスコに行くと、ブラジル人が多く来ていることに気がつきました。JICAの南米日系プログラムで住み込みの研修もしました。

 高校時代にカナダに留学し、英語も話すようになりました。その後、仕事でアメリカに行き、夫とはそこで知り合い、結婚しました。

 2013年に箕面市に来て、国際交流協会へ子どもといっしょに行くと、ポルトガル語を教えてほしいと頼まれました。日本で生まれ、親は日本語を話せず、親との会話のできない高校生たちに教える仕事です。その後、相談が必要となり、協会の相談業務に関わりを持つようになりました。

講演終了。

質疑応答

Z・Yさん:バナナの写真がありましたが、フィリピンに日本語教師として行った時に、バナナは、128種類ほどあると聞きました。料理用のオレンジ色のバナナが好きですが、ブラジルにはどれくらいのバナナの種類がありますか?

アンドレイアさん:ブラジルにもいろいろな種類のバナナがあります。日本では黄色のバナナがほとんどで、バナナと言ったら黄色と思っている方が多いようです。それで、最近のお話しの最初に、この絵を見てもらい、バナナといってもいろいろありますよと多様性について考えていただいています。

M・Wさん:20数年間、大人向けの日本語教育を地域でしていましたが、子どもさんと関わることがなかったので、行政との関わり方など、知りたいと思い、参加しました。それについては、いかがですか?

アンドレイアさん:外国籍を持つ人は、義務教育ではないので、でも受け入れますよくらいの態度が最初だったと思います。現在は、文科省の予算もつき、市でも予算化されてきました。ただ、市単位でちがいが大きいと思います。教育委員会でも担当者がいない地域もあります。外国人児童がどこで困っているのかをわからない先生もいます。そのまま行くと、中学校では、積み重ねがないと勉強がしんどくなる子が出てきます。箕面市でも外国にルーツを持つ子どもの学習と居場所事業があり、日本語教室は7校ありますが、それぞれがつながることはむずかしいので、学校で子どもの学習支援ができるのが、いちばんいいと思います。時には特別支援のクラスに行くように勧められることもあります。でも、そうなると、自意識が下がり、教室に入るのもいやがることもあります。支援方法も市によって大きなちがいがあるので、もう少し大きな範囲(県や府、日本全体など)で教育の方法を考えて行く方が望ましいです。

F・Kさん:日本に来てからの経験や今の活動などをお話ししていただき、ありがとうございました。聞きたいのは、日本の中でのマイノリティには大きな壁があるのではないでしょうか?

アンドレイアさん:多文化の受け入れについての前提がアメリカなどと大きくちがいます。アメリカのカリフォルニア州などでは、移動してきた保護者に、母語としてのことばの歴史をそれぞれにまず、聞きます。保護者自身が、子どもの言語学習には、母語が関係するという意識を持ってもらうためです。     日本では、先生も、保護者にどこまで聞いていいいのかわからないと思う人もいて、地域によって大きな差が出てきます。母語をどこまで子どもが使い、日本語はどの程度かの認識があれば、いろいろな支援に助けになります。それがないとその子の問題点が見えてこないと思います。

F・Kさん:日本に来て良い点はありますか?

アンドレイアさん:それぞれの国にはいろいろな価値観があり、それぞれがちがいます。親の国の過去を聞き、比べるのではなく、現在を比較する事が必要ですね。

 例えば、年金制度なども、ブラジルから日本に移住した場合、現在は、ブラジルの年金制度から続けて日本でかけ続けられるとか、知らないひとも多いです。

Z・Yさん:ブラジルは白人が中心の国というのを聞いて驚きました。確かにテレビの主役にも白人が多いのですね。力を持っているのも。

H・Kさん:ブラジルのニュースで、最近アマゾンで火事が続いていますね。温暖化のせいだと思いますが、政府は力を入れているのだろうか、入れていないのではないかと思います。政府の安定が必要ですが、現在の政府はどうなのでしょうね。

アンドレイアさん:アマゾンに住む先住民も弁護士になり、活動して居る人もいますね。貧富の差も大きいですね。毎日の生活が大変なので活動を続けるというのも大変ですね。

児嶋:ブラジルの第3の都市のベロオリゾンテにいた1985年からの3年間に見た子とだけでも、驚くことはたくさんありました。化粧品店にもおしろいの色が黒っぽいのから真っ白までいくつもあって、肌色などという日本のクレパスの色もなくなりましたが、全部肌の色なのです。それほどちがうのですね。姉弟でも、大きなちがいがある家族もありました。

アンドレイアさん:ブラジルの日系人だけが住む地域の学校は、日本語だけもありましたが、小さい時だけと聞きました。中学校からは現地の学校へ行きポルトガル語だけで学ぶようになります。現在90~100才となる移民1世の中にはポルトガル語ができない人もいます。2世に当たるその子どもはポルトガル語しかできず、日本に出稼ぎに来ると、今度はその子どもは日本語しかできず、親子での会話が難しいケースがあります。

 親子が別の母語で生活をしていて、他のお母さんと交流できていないお母さんもいます。そのような親子の会話の通訳などの協会ですることもあります。例えば女の子の生理の話なども。見た目もちがうのに、日本語しか話せない人もいます。何度も警察に呼び止められる人もいるようです。日本生まれの日本育ちでもです。

 自分の子育てでは、長男は日本で生まれましたが、5ヶ月でアメリカに駐在する家族として行き、6才の時に家族で日本に帰国しました。日本では英語でしゃべれないので、「自分は何人か?」と長男から聞かれたことがあります。「日本人なのか、ブラジル人なのか、アメリカ人なのか」と。

 子どもというのは、何人という意識は、属している環境によるのかもしれないと思うようになりました。

講座終了。