グローバルセッションについて

毎回、外国出身者や外国語指導助手や、国内外の研究者をゲストスピーカーに招き、各国事情にまつわる話題を英語や日本語でセッションしています。
「教える・教えられる」関係ではなく、参加者が共に学び合い、「自分の意見を他人に伝える力」「他人の話に耳を傾ける力」を伸ばし合うことを目的としています。
英会話のレベルに関係なく、幅広い年齢層の方が参加されています。

グローバルセッション開催要項

  • 毎月1回 主にガレリアかめおかで開催 詳しい日程は、おしらせページで確認ください。
  • ガレリアかめおか:〒621-0806 京都府亀岡市余部町宝久保1
  • 地図:(外部サイトへ)
  • 参加費:600円
  • 対象:どなたでもご参加頂けます。

参加についてのお問合せ

お問合せページよりご連絡ください。折り返し返事を差し上げます。開催日程を確認し、直接会場にお越しになっても大丈夫です。

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グローバルセッション・ダイアリー

    グローバルセッションイメージ

    開催日:2021年11月28日(土)10:30~13:20
    場所:ガレリア3階 会議室&オンライン
    ゲストスピーカー:濱田雅子さん(元武庫川女子大学教授、アメリカ服飾社会史研究会 会長)
    コーディネーター:児嶋きよみ
    参加者:13名(うちオンラインでの参加7名)
    共催:亀岡国際交流協会

     今回のタイトル:「写真に見るアメリカの民衆の装い(その1)-1840年代の生活文化を階間見る」

    自己紹介

    濱田さん:今日は、学生さんでホームページを見て参加した方もいらっしゃいます。Joan Severaさんという方の紹介と分析を通じて近代アメリカにおける写真に見る風俗研究を論じていきたいと思います。率直なご意見をいただき、自分の再出発の機会にしたいと思います。

    R.Y.さん:せせらぎ出版から濱田さんのご本を2冊出版しています。

    M.M.さん:鹿児島の大学で指導していますが、大阪に住んでいます。飛行機で通っています。

    A.N.さん:武庫川女子大で教育社会学が専門です。ジェンダーの研究をしていて、今も濱田先生にお世話になっています。

    R.O.さん:神戸大の1年生です。ホームページから興味があり、応募して入っています。

    S.H.さん:法政大の通信教育で史学科に属しています。服飾史に興味があります。

    H.K.さん:大津市から来ていて、琵琶湖の近くに住んでいます。コロナ禍では、休みが多いですが、ツアーガイドをしています。Global Sessionははじめのころから参加しています。

    K.O.さん:宇治市で小学校の非常勤講師をして7年目です。それ以前は、正規の教員をしていました。

    S.T.(S.K.)さん:立命館守山高校の教員です。国際理解教育の分野でブラジル人学校なども訪問し、先日は漢字の勉強をしました。

    R.S.さん:濱田さんのGlobal Sessionも何度目かです。ファッションの歴史ですが、いろいろな要素を含んでいて楽しみです。ひまわり教室(外国につながる子どもや保護者の学習支援教室)で指導をしています。

    E.T.さん:以前、濱田さんの講座の時にはちょうど、仕事を代わったころでしたが、8月からは島津製作所で仕事をしています。

    鶴山さんには、亀岡国際交流協会との共催で、オンライン講座も含む準備をしていただいています。

    講座開始

    濱田雅子の服飾講座「服飾からみた生活文化」シリーズ21

    「アメリカの写真が語る民衆の装い(その1)ー1840年代の民衆の生活文化を垣間見るー」

    概要 Joan Severa, Dressed for the Photographer, Ordinary Americans and Fashion (1840-1900), Kent State University, Ohio, Kent, 1995. p.592. 本書はJ・セヴラ女史(Joan Severa,1925-2014)が30年と言う歳月をかけて取り組まれた 大作で、アメリカの服飾研究者から高く評価されています。彼女はウィスコンシン・ミュ ージアム歴史協会の学芸員を30年にわたって歴任する傍ら、アメリカ服飾学会の理事や多 くの博物館のコンサルタントとして活躍してこられました。 本書は、ミドルクラスや下層階級のアメリカ人たちが、ダゲレオタイプの銀板写真技術 が導入された1840年から1900年の60年間に、記念写真や日常生活の写真に、どのような装いでおさめられたのか、かれらのバックグランドや服装のディテールの分析も含めて、マテリアル・カルチャー(物質文化)の視点から書かれた大作です。掲載された写真は何と 277枚。服飾の専門家の視点で写真のなかの服装が的確に分析されています。ヨーロッパや アメリカの上流階級の装いを扱った書物は、沢山、ありますが、アメリカの庶民、すなわ ち、アメリカの民衆の装いを扱った書物は、J・セヴラ女史の上記の著作以外には、一冊も ありません。 ダゲレオタイプ(Daguerreotype)とは、ルイ・ダゲール(Louis Jacque Mande Daguerre,1787-1851)により発明され、1839年8月19日にフランス学士院で発表された世界最初の実用的写真技法であり、湿板写真が確立するまでの間、最も普及した写真技法です。 銀メッキをした銅板などを感光材料として使うため、日本語では銀板写真と呼ばれていま す。銀板上に直接左右反転した白黒画像を得るダイレクトプロセスです。 この技術のアメリカへの導入と普及について、セヴラ女史はこう述べています。「1839 年の晩秋、ルイ・ダゲール(Louis Jacque Mande Daguerre, 1787-1851)が開発した独自の手法による写真撮影[ダゲレオタイプ]の権利と装置を販売する公認代理人が、ブリティッ シュ・クイーン号でニューヨークに到着した。ダゲールの業績はすでにアメリカでとても よく知られており、多くの者がその権利の購入を申し込んだ。文字通り数週間のうちに、 あらゆる都市や町で何百人もの駆け出し写真屋が店開きした。それは絶対確実な成功への 道であった(1)」ということです。 また、銀板写真の普及は、西漸運動に伴い、急速に進みました。 「実際、西漸運動によって肖像写真を撮ってもらう人は何千人も増えた。というのも、 西へ向かう人びとは自分の写真を後に残し、家族や友人が写った貴重な写真をたずさえて 行ったからである。アメリカでは1850年代までに、毎年およそ300万枚のダゲレオタイプが 作られ(Taft 76)、それとともに価格は下がっていった(2)」ということです。セヴラ女史は、現存する銀板写真を全米から収集し、こう述べています。「これらの古くなった写真はほんのわずかしか残っていない。とはいえ、これらの残存している映像は広範な社会 的な基礎を包括しており、当時のマテリアルカルチャーの写真が非常に確かなまとまった 情報を残してくれている(3)」 本講演では本書において、10年単位で扱われている60年間(1840年~1900年)のうち、 1840年代の10年間にわたる写真に見るミドルクラスや下層階級のアメリカ人、すなわち、 アメリカの民衆の装いの紹介・分析を試みたいと思います。分析の視点は、アメリカ人がいかにヨーロッピアン・フレンチ・ファッションに憧れていたか、ヨーロッピアン・フレ ンチ・ファッションとアメリカンファッションの類似点と違いは何であるか、という点に 据えられます。1850年代から1900年についても本講演と同じ手法で5回に分けて、講演させていただく予定です。19世紀アメリカの民衆の生活文化を、装いを通して、ビジュアルに 学ぶ、またとない機会です。知らないことを知る「知の楽しみを」エンジョイなさって下 さい。

     全体構成

    1. ジョーン・セヴラ女史の写真資料を用いた研究方法
    2. 写真技術史の概要
    3. 19世紀ヨーロッパの服飾
    4. 1840年代アメリカの歴史的背景
    5. 1840年年代アメリカの写真が語る民衆の装い
    6. 19世紀アメリカの庶民服の実物調査からの報告―ミネソタ大学Goldstein Museum of Designのコレクションから―
    7. まとめ

    【注】
    (1) Joan Severa, Dressed for the Photographer, Ordinary Americans and Fashion (1840-1900), Kent State University, Ohio, Kent, 1995, p.1.

    (2)  Ibid., p.1, cited from Robert Taft, Photography and the American Scene,  New York: McMillan Co., 1938, p.76.

    (3)  Ibid., p.1.

    Joan Severaさんの著作に掲載された写真解説は下記からアクセスしてください。

    A Look at Old Photoraph by Joan Severa  https://www.american-mode.com

    代表のプロフィールの動画ギヤラリーから見て下さい。

    または、下記から直接、Youtubeへ “A Look at Old Photographs” by Joan Severa – YouTube

    当日の感想発表から

    (S.Tさん)

    「すごく興味深く見せていただきました。『風と共に去りぬ』や『大草原の小さな家』などを思い出しました。服装の自由は、人が初めて出会う「自由」というものかとも思いました。もっと知りたいなと思います。」

    (M.M.さん)

    「アメリカは、東から西のカリフォルニアを目指していた時代で、アメリカの激動の時代とも言えますね。1840年代というのは、南北戦争の前で、落ち着いた時代ではないです。」

    (濱田さん)

    「アメリカ特有の人種構造の時代であり、次回は1850年から60年代の写真が語るアメリカ民衆の衣生活を階級・ジェンダー・人種・民族の視点から見ていきます。丸山先生は世界を股にかけて来られたお立場から、グローバルな視点で、いつもおっしゃられているように、日本語の文献だけでは狭い範囲にしか情報が届きません。そこで、濱田は、グローバルな普及を目指して、『19世紀アメリカの庶民服』に関する本の日本語版だけではなく、英語版も出版する予定です。」

    (A.N.さん)

    「興味深い内容でした。1点質問があるのですが、ジェンダー研究をしていますが、フランスのレヴィストロースは、18世紀のヨーロッパの服装に触れ、女性の服装で細いウエストをコルセットで締め上げてもっと細くしたいとやっていたら、肋骨が折れて死亡したという記述がありますが、アメリカではどうですか?」

    (濱田さん)

    「以前に書いた私の著書『パリ・モードからアメリカン・ルックへーアメリカ服飾社会史 近現代編―』に詳しく書いてありますので、ご一読いただければ幸いです。」

    (A.N.さん)

    「ウエストが細いのが魅力だったのでしょうか?」

    (濱田さん)

    「誰が言ったかはわからなくて謎です。鋼鉄製のコルセットもあり、最初は浮気ができないようにするためにとか言われていたようですが、なぜ、細胴・太腰が美しいとされたのかについては、根拠は、いまのところ、服飾史上には見当たりません。」

    (R.O.さん)

    「西洋のファッションに目を向けていましたが、アメリカの服飾史もおもしろいですね。最初は、フランスや、イギリスの影響を受けていたはずですが、アメリカらしいファッションを生み出す拠点となる時代だったのでしょうか?

    (濱田さん)

    「19世紀アメリカの服飾にその萌芽がありますね。『西洋服飾史』という上流階級の服飾を中心とした大学の授業は沢山あります。18世紀のヨーロッパのロココ調のファッションは、上流階級が中心で、衣裳の遺品が博物館などにもあります。でも、中産・下層階級の衣服については、全く実物がないのです。私はJohn D. Rockefeller Jr. Library(https://research.colonialwilliamsburg.org/library
    )に招聘されて、在外研修員として、下層階級の衣服の遺品調査に携わった経験があります。18世紀のプランテーションで発掘されて、奴隷が使っていた針や鋏などが出てきていますが、テキスタイルは一枚も残っていないので、困難な分野ですが、敢えて踏み込んでいる状態です。

     19世紀は、ゼヴラさんの本があり、埋めていくことができる穴場とも言えます。歴史学と服飾史をドッキングさせてみてください。美術から服飾研究に入るとか、若いみなさんも継承してください。

    それと、濱田は、実際に服を作る人が研究することも薦めたいと思います。絵やイラストだけでなく、実際に縫っている人が研究すると、また、ちがうと思います。服作りという実学を軽視し、ファッション文化・表象文化を言説研究の方法で研究・教育されている大学の先生もおられますが、私は理論と実践は、車の両輪であると確信しています。両者の分離は、日本における学問研究のあり方の弱点であると確信しています。また、私が長年、師事させていただいてきた丹野郁先生から、海外に行って、三脚を立てて、写真を撮っていると人が集まってきたというお話を伺ったことがあります。衣服の実物はさることがら、写真は実証資料として、とても大切ですね。」

    (K.O.さん)

    「アメリカのファッションは元はヨーロッパであったと思いますが、変わるのですね。アメリカの生活、風土、自然に寄り添いながらアメリカ風になっていくのがおもしろいですね。

    「キャラコ」という言葉を久しぶりに聞きました。どのように残しながら、自分たち用に変えて行ったのかを知るのもおもしろいですね。ネイティブアメリカンの方の写真もあり、シルクを着ていましたね。

    (濱田さん)

    「今日お見せした写真は、どれも似てはいるけれどヨーロッパとはちがいます。よく見ると美しいのですが、レースも高価なので、リネンの襟もあります。手に入る物でそれなりにおしゃれをしているのですね。Native Americanの方がシルクのドレスを着ていますが、写真家がそれらしく見せるために装飾品を付けさせたようです。事実関係をよく調べてみます。」

    (S.H.さん)

    「初めてジョン・セヴラさんを知って、また本を読んでみたくなりました。1840年代に服飾の雑誌が出ていることも知りました。上流階級と民衆の服装のちがいなど服飾史を学んでいきたいと思います。」

    (濱田さん)

    「 Godey’s Lady’s Book。この雑誌を大学でもっているところがありますが、あまり厚くて、写真を綺麗にとれません。海外から雑誌を購読して、お金を払ってファッションプレートのデータをダウンロードできます。」

    (H.K.さん)

    「ありがとうございました。ヨーロッパの服飾は以前から興味がありました。晴れやかだったのが、カジュアルに変わってきましたが。

    先ほど西尾さんから質問がありましたが、ウエストをしぼり、コルセットを着けるのは、究極の美と言われていましたね。オーストリアのハプスブルグ家のエリザベートは、腰の周りが50cmなかったと言われています。ダイエット器具を使い、かくれた努力もしていたようです。そして、何よりもウエストが細いというプライドを持っていたようです。

    食事を何回かに分けて食べたりして。アメリカでは、コルセットは質素で鯨の骨とかだんだんカジュアルになっていったのでしょうね。階級のちがいもありでしょうが。」

    (濱田さん)

    「エリザベートは究極の食事制限をしていたようですね。武庫川女子大の卒業生で宝塚に入り、演劇のエリザベートの服を作ったひともいます。」

    (H.K.さん)

    「今もダイエットをするための木の機械が保存されていると聞いています。」

    (濱田さん)

    「その情報をお聞かせ下さい。1850年代になるとアメリカでは身体にやさしいコルセットに変わっていきます。隠れてコルセットをしない女性も出て来たし、授乳中の女性は締め付けられないですね。このようにコルセットから女性が解放されて行くようです。」

    (H.K.さん)

    「日本の明治維新後の鹿鳴館の絵がありますね。コルセットを着けて。」

    (E.T.さん)

    「写真を見るだけでも楽しかったです。いろいろ知ることができてよかったです。一見華やかな服装に見えていても身体を締め付けて痛めていたというのを知り、衝撃でした。これからも服装について見ていきたいと思います。男性のファッションの歴史も見てみたいですね。」

    (濱田さん)

    「今回は、時間の関係で男性の服装は扱いませんでしたが、次回、ご紹介しましょう。一見、きれいだけれど拷問であった女性の服は、今後も服飾が女性に及ぼす影響という点で、目が離せないと思います。」

    後日に送られてきた感想集

    (R.O.さん)

    「今日は研究会を開いていただきありがとうございました。今まで私の中で服飾と言えば日本や西洋の王族・貴族、上流階級の人々が着る服を思い浮かべておりましたので、とても新鮮でした。

     今、アメリカはNYファッションウィークが開かれるなど、ファッションの中心地のひとつでもありますが、最初の方は(というと言い過ぎかもしれませんが)フランスの影響を強く受けていたことが、中国の影響を強く受けていた日本と少し重なる部分があったように感じ、興味深かったです。

     また、たくさんの写真を使いまさに美術史的・様式論的な方法で服飾の変遷を分析していくのも、勉強になりました。本日は本当にありがとうございました。

    (M.M.さん)

    先日は誠にありがとうございました。
    私はアメリカにおける写真資料という観点からKodakの栄枯衰退も大きな影響があったと思います。
    大きな乾式写真というイノベーションを起こし、デジタルカメラの発明をしたのに倒産した、まれにみる社史です。クリステンセンのまさにイノベーションジレンマです。
    世界ではAgfa、フジフィルム、コニカミノルタでしたがフジフィルムは医療分野で大きく羽ばたいています。コニカミノルタは写真分野は撤退するものの規模は保っています。
    https://www.youtube.com/watch?v=ZUQXLPNV-kU
    https://www.youtube.com/watch?v=6uPY-EiFYgE
    Youtubeでは研究者用ではありませんが、ご紹介させていただきます。

    (S.H.さん) 
    大学では服飾史を学ぶ機会がなく、この度はアメリカの服飾史について学ぶことができ、貴重な時間となりました。ありがとうございました。今回の講演によって、Joan Severaさんという方を初めて知り、今回紹介されていたYoutubeをもう一度拝見しようと思います。

    20世紀のアメリカの服装に比べて、19世紀のアメリカの服装についてはあまり知識やイメージがなく、今回1840年代のダゲレオタイプの写真を見ながら、当時の服装を知ることはとても印象的でした。また、1840年代にすでに雑誌が発行されていることも印象に残りました。今回のテーマであった写真が語る19世紀のアメリカの生活文化を、雑誌のファッションプレートと実際のダゲレオタイプの写真を比較して、当時の上流階級と民衆の服装の差や実態を考察することも、当時の生活文化、服装を理解するために重要だと分かりました。そして、階級別に焦点を当てることの重要性も知ることができました。

    (R.Y.さん)

    ○濱田先生が、たくさんの写真を使って説明していただいたので、とてもわかりやすく、興味深かったです。

    ○濱田先生の立ち位置が、上流階級・特権階級ではなく、働く人々、庶民にしっかり目を向けられていることに、いつも共感し、他の研究者には例をみないと感心しています。

    ○写真技術の発展史にも触れられていて、個人的には興味深かったし、とても勉強になりました

    (A.N.さん)

    本報告では、まずアメリカ人の衣生活について西洋近代服から初期近代服へのシルエッ トの変遷について概略が示され、次いで、アメリカ服飾史研究において大きな功績を残したJ.セヴラ女史によるアメリカのミドルクラスおよび下層階級の女性服(ドレス)について、袖、胴部など部位別の特徴が考察された。

    個人的に大変興味深かったのは、シュミーズ・ローブといわれる非常にシンプルで、スカートの広がりも少なく、動きやすかったと思われる女性服が主流であった 1790 年代~1810 年代から、ロマンティック・スタイルといわれる、シュミーズ・ローブとはまるで対照的な袖もふんわりと幅広く、スカートもクリノリンを着用することによって膨らませた、どう見ても動きづらそうな女性服に一気に変わったことである。「王政復古調」ともいわれるこのロマンティック・スタイルには、優雅な女性とそれをまとう女性への回帰が感じられる。

    同時に、クリノリンの他、細い腰を作るためのコルセット、ハイヒールなど、ミドルクラスの女性が自らを美しく見せるための工夫を惜しまなかった精神的、時間的余裕をうらや ましく思う反面、それらをまとうことによって自らを「正統な女性」として見せることが当たり前とされていたその時代に生きづらさを感じる。おそらくその時代の多くの女性はそ のように装うことが当たり前すぎて、他の選択肢があることをほとんど想像しなかっただ ろうが。そして、その感覚は、中国で纏足をしていた女性に通じるものがある。さらに、今日の日本でいえば、ハイヒールとパンティストッキングを履いて働く、今では数少ない(?) 女性にも共通する。

    以上は、本報告の内容をジェンダーの観点から考察した典型的な意見であり、そう捉える自分もいる。うそではない。一方で、正直なところ、「人生で一度くらい、あんなに優雅な女性服をまとってみたい」というアンビバレントな感覚もある。その場合、その衣装をまとった自分を見てみたいという気持ちもなくはない。しかし、それよりはむしろ装うことに時間をかけるその贅沢さを楽しみたい、装ってみることで気分をアップさせたいという気持ちの方が強い。時間的にも精神的にも余裕がなく、日々の仕事に追われているだけの私だからこそ、本報告で扱われた時代とその時代を生きた女性に憧れを抱くのだろう。

    【写真解説】

    写真15 この美しいポートレートは、ノーサンプトンで婦人帽製造業を営んでいたR・B・ディッキンソン夫人(Mrs. R. B. Dickinson)のものである。

    『ノーサンプトン・クーリエ』紙(Northampton Courier)に載せた1858年の広告の中で、ディッキンソン夫人は『ボンネットが欲しいすべての女性は、ぜひ私のボンネットルームにいらっしゃい』と述べている。ボンネットルームは、ノーサンプトンのメイン通りとキング通りの交差点の角にある建物の2階にあった。……ボンネットは、1840年代初めには鍔が顔の横に接近した形だった。1846年頃になると鍔の開きがいくぶん広がってこの写真のような形になり、鍔の内側に左右非対称の飾りを付けられる空間が生まれた。真のボンネットはかなり顔から離れており、シルクの花や草の繊細な装飾を付けるだけのゆとりがある。(Joan Severa p.49から引用)

    写真24 セヴラ女史に拠ると、この写真の時代考証はアフリカン・アメリカンの歴史上、非常に貴重である。少々、長くなるが、他の服飾史の文献には、決して見られない解説であるので、全文紹介させていただく。

    「この珍しい写真は、貴重な1840 年代のダゲレオタイプを1870年代に撮ったもので、ジョージア州サバンナのふたりの奴隷女性が写っている。年長の女性はジュディ・テルフェア・ジャクソン(Judy Telfair Jackson)で、テルフェア家で料理をしていた。若い女性はジュディの孫娘のラビニア(Lavinia)で、南北戦争後、テルフェア家に住み込んでメアリー・テルフェア(Mary Telfair)のメイドをしていた。ふたりの女性は、服こそシンプルだが、とてもきちんと身だしなみを整えている(当時の家内奴隷や使用人は一般的にそうであった)。」右側の年配奴隷の女性は、ターバンによって頭をくるんでいる。左側の若い女性の髪は下に引かれ、顔にぴったりとつけ、後ろで冠のように上げ、ファッショナブルなパフを耳の上につけている。当時流行のヘアースタイルに近い。」(Joan Severa p.60から引用)

    写真22 この写真に写った身なりのよいノーサンプトンの3人の紳士(氏名は不詳)は、みな同じように、1840年代の窮屈なフィットのコートを着用している。彼らの服で最も目立つ特徴は、高いアームホールと細い筒状の袖によるぴったりしたフィットで、それが細身の黒っぽいシルエトを生み出している。(Joan Severa p.57から引用)

    グローバルセッションイメージ

    開催日:2021年11月7日(土)13:30~15:00
    場所:ガレリア3階 会議室
    ゲストスピーカー:内田晴子さん(世界人権問題研究センター研究員)
    コーディネーター:亀田博さん
    参加者:9名

     今回のタイトル:「差別するかもしれない私」

    自己紹介

    亀田さん:コーディネーターの亀田です。大津市から来ています。順番にどうぞ。

    E・Tさん:派遣社員で今は島津製作所で仕事をしています。外国人労働者も多く、フィリピンなどからも来られています。とてもフレンドリーで、仕事に対してもアグレッシブですね。大阪に久しぶりに行ったら、人が大勢だからか、「せまいな」と感じました。コロナが収まったら、5月には、外国に行こうと思っていて、最初は、台湾に行こうと考えています。

    E・Fさん:京都新聞の「まちかど」欄を見て参加しました。72才です。障害者グループホームの世話人をしています。MRA財団法人の大阪にある「難民を救う会」の切手集めを手伝っています。(西京高校の先生が中心となっている会)

    M・Sさん:前は学校教員でしたが、今は退職し、英語が好きなので、学校の英語指導員をしていました。その時に、教員だった前田優子先生にお会いしました。今はそれもやめて、多文化共生センターの相談員をしています。いろいろな中で家にいることが増えたためか、ためいきや疲れを感じます。

    M・Fさん:このGlobal Sessionは、最初から参加しています。多文化について話をし、自分も発言できるし、楽しい会だと思います。東映映画撮影所で仕事をしていましたが、60才で退職してからは、NPO法人「京都映画クラブ」というところで仕事をしています。ここでは、子どもの映画作りを教えています。カメラの使い方や監督とか、いろいろです。11月27日にも計画していますが、広報がしっかりやれていないと以前のGSで話したら、ゲストであったFellner真理子さんが紹介してくださったようで、8名が集まり、実行できるようになりました。このような仕事をしていると、俳優さんと話す機会が多いのですが、普通に話していても、いざ、舞台に上がると役者の声になるということをよく経験しました。

    K・Iさん:亀岡に住んでいて、ひまわり教室の指導をしています。偏見とは思ってはいないのですが、各国のひとの考え方は違うなあと体験しながら考えています。そのちがいを差別となってはいけないので、今日は、ここで、セッションしながら教えてもらおうと思って来ました。

    グローバルセッションスタート

    亀田さん:ツアーガイドをしています。フィリピンにつながりがあるゲストなので、ちょっとタガログ語で話してみます。1986年にフィリピンでは、マルコス政権が崩壊したのですが、その翌年に初めてフィリピンを訪問しました。

    (1986年2月22日に起きた「エドゥサ革命」(二月革命、ピープル・パワー革命)で、民衆の不満が高まったためにマルコス政権は崩壊し、現在のフィリピン第四共和国体制が成立した。この革命は同年2月22日の国軍改革派将校の決起から25日のコリーアキノ政権樹立に至る4日間の出来事であった。民主化を求める市民が、マニラ首都圏の中心部でデモや集会、座り込みや兵士に花束を渡す行動を起こした。その模様をリアルタイムで、多くのテレビカメラの放列が世界中に生放送した。これらマスメディアの報道が心理的圧力となり、フィリピン共和国軍は市民に銃を発砲出来無かった。マルコスとイメルダはアメリカ合衆国のハワイ州に亡命した)

    私は、セブ島が好きなのですが、ここは、長くスペインの植民地であったので、スペイン系の雰囲気があります。当時は日本人も入るためには許可が必要であり、許可を取って入国しました。来年5月には、現在の大統領が辞めて娘のサラが大統領選に立つと言われていますが。ボクシングのチャンピオンもいますね。ノーベル平和賞の受賞者の女性(マリア・レッサさん)がいますので、興味があります。

    内田晴子さん:「フィリピンについていろいろ調べてきてくださってありがとうございます。私のフィリピン訪問は1991年にスタディ・ツアーで行ったのが初めてでした。1986年の政変の前、独裁体制期のフィリピンというのは、政府に批判的な活動をしていると拉致・誘拐されてそのまま行方が分からなくなったり、遺体で発見されたり、拘束・収監されて拷問を受けたり、本当に厳しい人権侵害が蔓延していました。1986年の政変後の熱狂は、コリー・アキノ政権下でだんだん失望に変わっていくのですが、それでも、スタディ・ツアーで訪問した大学生が様々な人権団体、労働組合、地方の人権活動団体などの話を聞けたこと自体、政変で「民主的な空間」ができていたから可能だったことです。首都マニラでの国際女性デー(3月8日)の大規模集会(みんなラリーと呼んでいました)は、トラックの荷台がステージになってバンド演奏もある楽しく明るく盛り上がりつつ、ヒューマンライツについて語られていました。地方に行けば、もう少しシビアな緊張感のある状況の中で、ヒューマンライツという言葉が聞かれました。具体性をもって人権について考え始めるという体験をしたと思います。その後、何度か、同様のスタディツアーでフィリピンを再訪し、また日本では、フィリピンのアーティストのコンサート企画とか、フィリピン教育演劇協会「PETA」の俳優による演劇ワークショップ企画とか、いろいろやっていた学生時代でした。フィリピンの人権問題を学び、日本人である私が、できることは何かを考える、行動するということであったと思います。 私のように、女性という属性を除いては日本社会でマジョリティとして生きてきた人間は、なかなか人権や差別を切実な自分事として学ぶ機会がなかったし、「差別するかもしれない自分」に気づくのも遅かったと思います。自分の子ども時代からのことを、ゆっくりとした気づきのプロセスを振り返ってみたいと思います。

    小4の時に担任の先生から、住井すゑさんの『橋のない川』の話を聞きました。それを小6のときに友達の家で見つけ、借りて読みました。小説ですけれども、途中から(水平社宣言のあたりから)、ああこれは本当にあったことなんだな、人間はこういう風な行動をとるんだな、こういうのが差別なんだな、と子どもなりに理解しました。

    20歳ぐらいの頃、フィリピンの学生が「フィリピンはclass society(階級社会)だから」と言いうのをきいても、意味がわかっていませんでした。人間にclass なんてないよ、対等じゃない?と思っていました。学問的な知識のなさもありますが、マジョリティー側にいるから構造に気づかなかったわけですね。

    大学院卒業後は、在フィリピン日本大使館に3年間、政務担当の専門調査員として赴任しました。(ここで、「専門調査員とは何ですか」、と質問あり。)修士号をもつ人が、任期付きで外務省に採用されて在外の日本国大使館で働きます。在フィリピン大使館では、ほかに経済担当と文化広報担当がいました。)政治家などいろんな人に会って話を聞く仕事が多く、class societyの上の方にいる人たちと多く接してフィリピン社会の勉強になりました。またこの時期、フィリピンで外国人登録のための指紋押捺を経験しました。もちろん、かつての日本で人権侵害として問題になっていた在日コリアンの指紋押捺のことが念頭にあり、自分がどんな気持ちになるだろう、と思いながらやってみたら、特になにも感じなかった。そこで、日本で構造的に差別を受け続けている人たちがさせられた指紋押捺とは、文脈が違うな、という気づきがありました。大使館員として日頃、とくに非道な扱いも受けていない私が、「指紋押捺やってみたけど、どうってことないよ」というのは違う。

    外国人として暮らすのは初めてでした。フィリピン社会を観察しながら、外国人として生きるということは、最悪のときに守ってもらえる人がいればいいのですが、弱みがあることも痛感しました。何かをきっかけに排除されることもあり、例えば恨みをかって陥れられれば、警察へ通報、最悪の場合は強制退去の可能性もあると理解しました。

    30歳前後の経験としては、すごく身近なところで、父親が強い差別意識をもっていると知りました。結婚の話をしたときに、なんとなく賛同できないという理由が父親からたくさん挙がってきたのですが、電話で話しているときに、ついでのように「彼はそういう家筋の人じゃないだろうね」と聞かれて、ひきました。反対理由の本筋ではなかったのですが、その質問に答えること自体が差別してるってことだし、その質問に答える必要はない、と私が言ったので、さらに話がこじれました。説得に時間をかけましたが、絶縁を言い渡され、留学も決まっていたのでさっさと結婚してしまいました。父親は、小さい頃から「女の子だからって遠慮するな、どんどんやれ」と励まし、男女雇用機会均等法ができた時(1985年)も中学生の私にこの法律について話すような人でしたので、娘としては父親の差別意識にかなり傷つきました。

    差別する自分に気づく、ということについて。「私は差別しない」とみんなが思っているでしょうが、差別にはいろんな現れ方の類型があると知ることは、役立つかもしれません。たとえば、差別行為としては「見下し」を連想するでしょうが、逆方向のものもあります。例えば、ほめているつもりで、「さすが○○人だから足が速いね」「さすが△△人だから数字に強い」などと、個人の努力を正当に評価せずに属性のステレオタイプに押し込んでしまう行為です。法律ができることは、構造的な差別の仕組みを是正することと、差別の「行為」を禁止したり罰したりすることです。日本では足りてないので必要です。個々人のもつ差別意識については、他者が変えることは難しいですが、自分自身で気づくために、このような安心して話す場をつくることが大切と思います。

    児嶋:自己紹介の続きとして話します。私は、教職に10年間ほどいたあと、中国語を仕事にしようと3年間必死で学び、中国の北京に2年間続けて短期留学をしました。家庭もありましたが。その後初期の中国語の指導をしてねと言われた直後、夫のブラジルの日本人学校への転勤で3年間家族でブラジルで暮らしました。帰国後、市役所の指導主事などを頼まれたあと、アメリカ大学日本校のブームが来て、亀岡もオクラホマ州立大学京都校の設立をし始め、最初から関わり、1990年から1996年までアメリカ大学日本校が亀岡にありました。その後は学生が集まらなくなり、学生は全員本校に戻り、後は、亀岡交流活動センターとして2011年まで勤務しました。アメリカに行ったり、アメリカ人の教授などの受け入れはその当時からの仕事でした。

    M・Sさん:私は、大学卒業後、民間企業に務めたのですが、男女差別が当時は当然のようにあり、「女子はやめてもいい」とよく言われました。当時海外駐在の仕事に応募したら、通ったのですが、女子の第1号と言われました。その後、その仕事をやめて教員になったら、この世界には、全く男女の差がなく、給料も全く一緒なのに驚きました。その後、日本人学校の教師として、マレーシアに赴任しました。ここでは、長く住む覚悟をしている日本人と、数年駐在するだけの日本人が「楽しい」というのは、迷惑だとも言われました。しばらく住むだけの外国人は、差別の対象にもならないのだと思います。

    (これ以後は、休憩時間なども取りながら、話があちこちに行ったので、後日のそれぞれの感想がある方に感想を求めることで切り替えることにしました。)

    終了後の感想集

    内田晴子さん

    「GS御参加の皆さま:本日はありがとうございました。

    今日の皆さんとのお話で、「悪意なく、知らずに、差別する(あるいはすでにした)ことがあるかもしれないな」というところまでは共有されていると思いました。

    ではどうやったら気づくか、気づけるか。気づくパターンは、大きくふたつでしょうか。

    1)自分で(後から)気づく・・・その日の晩に気づくこともあれば、数日後、数年後、もっと後から気づくこともあるでしょう。差別行為の事例や類型などを学ぶことで、気づける可能性が高まるかもしれません。今日の私の話の中では、自分自身の人権教育機会の欠如、社会教育なしでは気づかないままであること(父親の例)、マジョリティが陥りがちな文脈無視(指紋押捺)、「見下し」とは逆方向で現れる差別の事例などにふれました。私自身が気づいた範囲では、私の過去の差別発言は、「ステレオタイプ・決めつけ」型が多かったです。(「ステレオタイプ・決めつけ」型には気づけた、ということかもしれません。)

    2)人に指摘されて気づく・・・自分が気づく前に人が気づいて教えてくれる、これはとても助かるのですが、問題は、自分がその指摘を受け入れることができるか、納得して咀嚼して理解できるか、ということです。自分が否定されたような気持ち、恥ずかしい気持ち、やっぱり「自分が差別なんて」という気持ちが、邪魔することもあります。誰にとっても難しいことなので、指摘されたときの「適切な謝罪、態度」の事例を知っておく、何ならシミュレーションしておく、ことは有用かもしれないと思っています。反論としての「納得できない」ではなく、「本当に分からないから教えてくれ」と誰かに言えるかどうか。

     残念ながら日本で目にする多くの「コメント」は、謝罪風でありながら実はまったく謝罪しておらず、差別について学ばないままだなと感じさせるものです。ですので、よい事例があれば、意識的に記憶にとどめるようにしています。以前に亀岡での研修でご紹介したのは、芸人コンビのAマッソさんが、ライブで大坂なおみさんの肌の色をネタにしてしまった後、事務所がすぐに弁護士による研修を手配し、本人たちは学んだ上で謝罪文を出した事例です。この件ではライブ主催者の反省・声明文も正直でよかったと思いました。最近では、尾瀬ガイド協会の公式ツイッターがすごい差別ツイートを複数発信して指摘された際に、尾瀬保護財団が(いわば身内なのに)尾瀬ガイド協会への抗議文を出したこと、その後、(おそらくは弁護士の助言をうけて)尾瀬ガイド協会が出した謝罪声明がきちんとしていたことを記憶しています。英語圏でも差別発言→指摘を受けて謝罪、は頻繁にありますから、英語の勉強を兼ねて正しい謝罪ツイートから「何について謝るべきか」を学ぶのもいいかもしれません。以上です。ありがとうございました。」

    E・Tさん

    「今日は、グローバルセッションに行きました。

    今回のテーマは、“差別するかもしれない自分に気づく”です。

    私は、差別=見下すと思ってましたが、差別=出来て当然、も差別だと知り衝撃でした。例えば、ケニア人は走るのが速いとかインド人は数学が出来る等です。残念ですが、そうじゃないんですよね。

    私自身、差別してるんじゃないか考えてみました。結果、差別していた事がありました。例えば、“正社員やから出来て当然”、“流石、○○さん、、、口に出したり、心で思う事が多々ありました。私は、差別してるつもりがないのですが(感謝のつもりで言ってるのですが)、差別になるんですよね。

    私は今回の話を聞いて、差別=依存とも考えました。

    また、相手の立場に立つと、“今回は期待に応えられたけど、次は期待に応えられるか不安”、“助けてもらえるのが当たり前って思ってるんじゃないかな?”と思うんじゃないかな?

    言葉って難しいけど、助け合って生きていかないと生きづらいと考えます。

    私は、助けてもらえれば、“助けてくれてありがとう”と言葉で伝えたり、心で思う事はもちろん、出来る事を増やし、他の人にも自分が出来た事(仕事でも何でも良いから)、を出来るようにしてもらいたいと思います。

    最後に、あなたは差別していませんか?」

    K・Iさん

    「ある子供の行動に対して、思わずきつく叱ってしまいました。まずい 大いにまずい。

    以来、ずーっと自省でこのGSを待ってました。いじめ、パワハラ、しかも子供への差別と自戒しながら少しでも自分の正当性を探している自分がいます。

    →先生に丸投げするなよ。

    →今後の国際人として頑張れよ!

    今思います。みんな違う。国も、考え方も。そこでの各人が、他と比較し(見下しと見下され)にどこまで妥協するか。

    方法:比較ハードルを低くし、言葉はソフトに努めます。

    やっちまった時は、即言葉で「ごめんなさい」  さらに 逃げるが勝ち もあるでよ・・・」

    Y・Mさん

    「私は、2番目の「人に指摘されて気づく」という体験をしたことがあります。

    自分がその指摘を受け入れることができるかどうか、ということについてですが、私の場合は、当時まだ若かったのと、自分が置かれている公的な立場を考えると、受け入れるべきだとすんなり思えました。そして、こんなことではいけないと 思いました。私が人権に携わる契機となる出来事になりました。

    人権は、ここまで学んだら終わりではなく、また単位取得や卒業もないので、人として生きる限り、学び続けることだと思っています。自分は差別なんかしてない、とか、そのことなら知ってる、という驕った気持ちが、偏見や差別につながる 「無知」に陥ってしまうことを、いつも自分に言い聞かせているような毎日です。」

    M・Sさん

    「外国に行ったとき、外国人と接したとき、見下されてる、と感じることはやっぱりありました。

    特に東南アジア、オセアニア諸国の場合は戦争という歴史から生まれる日本や日本人に対する嫌悪感に基づくものである場合、自分のできることが見当たらず、茫然とするばかりでした。また、欧米諸国の場合は「これって、人種差別?」と感じたことがありました。外国の人との交流の中で、たくさん学べたしたくさん楽しい経験が得られたけれど、中にはわずかながらもそうではない真逆の思いをしたことがあるなあ、と内田先生の話を聞きながら思い出していました。

    このように、差別されたことははっきり覚えているものです。しかし、私も差別したかもしれない、するかもしれない、という思いで自分を振り返ったり、これからの自分の考えや行動を変えたりすることがどれだけ大切なのか、ということを今回のグローバルセッションに参加して学ぶことができました。そして、これはかなり難しいことのように思えます。 内田先生のお話は、まだまだ聞いてみたいですし、ワークショップにも参加してみたいです。」

    亀田博さん

    「グローバルセッション  内田さんの講義、大変興味深かったです。学ぶところが多かったです。  

    テーマ  差別するかもしれない私に気づくで、私自身、普段、ステレオタイプ型であると思います。思い込みが強いところがあります。また、認知バイアスになりやすい時があります。職業柄、常に外国の人、顧客と接することが多いので、相手の気持ちや人柄を理解し、気配り、リスペクトが大事です。特に、国籍、宗教、性別、習慣、文化 、食事etc.     

    言動には、常に注意しなければならない。なにげない言葉が、相手には,不快に感じる事がある。                                 

    エンパワメントの必要性、最近の企業では、リッツカールトン、東京ロイヤル パーク ホテル、スターバックス、などは、評価が良いです。企業努力、能力開花しています。基本は、おもてなし、ホスピスタリテイ・神対応だと思います。個人でもおもてなしが必要です                      

      サイレントマジョリティ(silen majority):1969年アメリカ大統領  ニクソンのベトナム戦争に対する国民の支持を求めた演説で用いられた言葉「サイレントマジョリティ」をmy fellow (仲間たちよ)

       5年前にアイドル(欅坂46)  サイレントマジョリティの歌 「どこかの国の大統領が言っていた(曲解して)・声を上げない者たちは賛成していると—, 選べることが大事なんだ・人に任せるな・行動しなければノーと伝わらない・有り難うございます。」

    グローバルセッションイメージ

    開催日:2021年10月23日(土)10:30~12:00
    場所:ガレリア3階 会議室
    ゲストスピーカー:Fellner 真理子 宮良さん
    コーディネーター:四方美智子さん
    参加者:10名

     今回のタイトル:「異文化の中で育つということはどんなことか?(ゲームで体験してみよう)」

    四方美智子さん(コーディネーター)の司会で10:30ぴったりに始まりました。

    四方(C)さん:小学校教員をして退職後は、ひまわり教室の指導者をしたり、Global Sessionも多分最初から参加しています。Fellner真理子さんとは、昨年ひょんなことで出会い、K・TさんやR・Sさんともお世話になっています。K・Tさんの息子さんは、現在もアメリカで有名なシンガーとして活躍されています。

    E・Tさん:33才です。京北町出身。今は島津製作所で仕事をしています。ターボ分子ポンプ制作の仕事ですが。転職して今があります。

    Fさん:転職できるってすごいですね。このコロナの時代に。

    E・Tさん:最初の仕事は、自衛隊にいましたが。

    M・Fさん:Global Sessionは、最初から参加していると思います。以前は英語でのセッションが多かったと思いますが、最近は日本語での会が増えていますね。私は映画会社に40年勤務し、退職後は、NPO京都映画クラブというところで子どもたちに映画の作り方を教える仕事をしています。かなりの年齢ですが、辞職もできないので困っています。でも、家内は、私が出て居る方が喜んでいるようですが。

    F:よくわかります。

    M・Fさん:土曜塾という子どものための映画塾をやっているのですが、11月27日に子どもイベントを計画しています。京都市内への案内が間に合わなかったので、まだ募集中です。小学校の4、5、6年の子どもたちで実際に映画を作るのですが、その内容は、スタッフ、カメラマン、俳優などいろいろな役割を分担します。京都市のものづくり構想のひとつです。

    児嶋:京都新聞の亀岡版などに案内を出してもらったらどうですか?

    K・Tさん:GSには、ひさしぶりに参加しました。息子はアメリカでミュージシャンをしていますが、四方さんの親戚もアメリカでミュージシャンをされていて、Keishi Shikataというグラミー賞を狙うような方です。私は、現在はフリーランスでガーデナーをして、しいたけ作りをしたり、クルージングをしたり、Fellnerさんの旦那さんのマックスさんに野菜作りを教えたりしています。

    H・Kさん:ドイツ語でトライして自己紹介をしてみます。ドイツ語圏と言ってもオーストリアとドイツでは、言い方にかなり違いがありますね。“Sound of Music”などでもわかりますが。大津市に住んでいます。琵琶湖の地図を見ると、オーストリアの国土の形と大きさがよく似ているそうで、「琵琶湖の日(7月1日)」にオーストリア観光局から代表が来たようです。オーストリア出身のオリンピック選手がバイクで優勝し、キーセン・ホーファーさんといいますが、その人に信楽焼のたぬきの像をプレゼントするようです。

    児嶋:今回のGlobal Sessionは344回目になります。開始は1999年に私が亀岡交流活動センターで仕事をしていたときから始まっていて、もう20年を超えています。毎月一回の開催を続けてきました。

    K・Yさん:今日は、10時からとまちがって早くから来ていました。“Good Morning”と四方さんに言われ、「あれ、英語だったか」とちょっとびっくりしました。私は丹波弁しか話さないので。四方さんや、R・Sさん、児嶋さんたちといっしょにひまわり教室で活動しています。私はただの主婦ですが。

    児嶋:絵本の読み聞かせや音読サークルで活動されているプロですよ。

    R・Sさん:小学校教員をしていました。その後はひまわり教室で指導をしたりしています。退職して5年か6年になります。Global Sessionにも参加していて、視野が広がる気がします。K・Tさんにも、何十年ぶりにお会いしました。

    Y・Hさん:週末に孫が帰って来たりして忙しかったです。以前にみなさんといっしょにツアーでオクラホマ州立大学(OSU)本校に行ったこともあります。最近はドイツ語講座に通っていてGSに来られない日がありました。Fellnerさんご夫妻は、現在千代川に住んでいらっしゃるので、もっとドイツ語もやりたいなと思っています。夫のマックスさんもとても意欲的で、畑などもやっておられると思います。

    Fellnerさん:Fellner宮良真理子と言います。日本国籍を持っていて、オーストリアでは公式ガイドをしています。40何年ほど前にオーストリアのグラーツへ来てずっと過ごしていました。一度だけ、「オーストリア・グラーツ・まりこ」という宛名で郵便が届いたことがあり、超有名人みたいでびっくりしました。うさぎ年でどのうさぎ年かは秘密ですが。小学校の6年生の時に1963年ですが、アメリカでの国際キャンプ(に参加しました。このキャンププログラムは、1951年に始まったのですが、創始者は、子どもの「戦争が始まったら、また戦争に行かなければならないの?」の質問に驚き、草の根「国際平和運動」の交流できる活動を始めたそうです。その年は、南部のミシシピー州で開催され、6カ国の11歳の子供が集まり、4週間ともに過ごすキャンプでした。普通は11~12カ国が集まりますが、南部で開かれるというので参加国が少なかったのでした。1963年というのはマーティン・ルター・キングが “I have a dream.という有名な演説をした年です。黒人解放がまだできていない年でしたそれ以来。50年以上経ちますが、今もつながりがあります。50周年目には、もう一度会う機会があり、樫の木の下で集まりました。このときにはいろいろな言葉がそれぞれ話せるようになり、昔のことが話せるようになっていました。「僕は貧しかったので、親がそんな所に行っても大丈夫か?」と心配していたとか。キャンプの参加後から、私は、「英語をやろう!」と思いました。もともと人と会うのが好きなので、日本では教育学をやりながら、ドイツ語、スウェーデン語、スペイン語など英語以外にもやりました。その後、同じ会のオーストリアで活躍していたマックスと出会い、結婚し、知らない国に住むことになりました。ドイツ語なので、最初は義父母ともあまり話せず、姑と嫁はどこの国であろうと、その関係は「サボテンのいす」だなと思いました。「とげがある」ことと、「その上には座れない」のです。その後、オーストリアで日本語を教えたいと思うようになり、市民大学などで教えたり、大学で教えたりするようになりました。その後、自分たちの子どもに母親の母語である日本語をどう伝えるかが課題となりました。現在は、継承語教育という分野での研究が盛んになって来ましたが。私は、自分の子どもに実験をして見て、どうやって日本語をこの子達に伝えるかと考えました。その方法として、

    1. 母親である私は子どもと日本語だけで話す。
    2. 夏休みに日本の小学校に送り、体験学習をさせる。

    このようにして現在は、大人になった私の子どもたちは、日本人を見ると日本語で話 し、違う顔を見るとその言語が出てくるようです。現在三男は、新横浜で仕事をしています。長男と次男は、ウイーンで仕事をしています。私が子どもたちに日本語で話そうと思ったのは、こまかい心の奥の気持ちを日本語以外で告げることは、難しいと思ったからです。現在子どもたちは継承語である日本語とドイツ語をどちらも話しています。Fellnerさん:みなさんにお聞きしますが、どんなときに異文化を感じるか?外国に行って最初に何を感じたか?このようなことをお話しください。

    四方さん:シンガポールの日本人学校で仕事を3年間したことがありますが、最初に思ったのは、「世界にはいろいろなことばがあるんだなあ」とか、「みんな肌の色もまちまちなんだなあ」ということでした。

    Fさん:コートを着て居る人もいれば、半袖の人もいますよね。

    四方さん:シンガポールでは、自由でしたいことは何でもできるんだなあと思いました。ものすごく多文化社会だったので。逆に日本に帰って来たら、みんな同じ格好のようで窮屈に感じました。

    Fさん:私も29才で日本を出て、現在久しぶりに日本で生活を始めているので、大変です。

    E・Tさん:僕は逆に日本を出たことがないので、みなさんの話がとてもおもしろいです。仕事場にはフィリピン出身の人もいます。いろいろな事情があって日本で仕事をしているのだと思います。時々僕も彼らと話し、給料や、仕事の内容なども聞いています。

    Fさん:家族の事とか、趣味の話とかは?

    E・Tさん:あまり趣味の話はないですね。僕は外国に行きたいと思っているので、いっしょに飲み会とか行きたいなと思っています。

    Fさん:私は基本的に隣の人も異文化と思っています。

    M・Fさん:アメリカ統制時代の沖縄に行ったことがあります。1週間行くのにも当時はビザが必要でした。那覇に行った時、近いので台湾にも行ってみました。フリーな時間があったので。ビザがなかったら、実際は入れないのですが、パスポートを預かるから、この時間までに帰って来るなら、町へ入ってもいいと入れてもらったことがあります。当時は安保騒動の時代で、沖縄も道を隔てて白人街と黒人街に分かれていました。タクシーもドル立てで、バスガイドさんが同行の3人を案内してくれていました。当時バスガイドはトップの職業で、「何の仕事をしているのか?」と聞かれたことを覚えています。

    Fさん:宮良という姓名は、沖縄の名前で祖父が沖縄出身です。当時沖縄では、女性が大学に行くのは大変で、行っても短大程度だったと思います。

    K・Yさん:ツアーで何度か外国に行きましたが、行ったところはどこも好きです。特にフィンランドが好きで、友達3人と自由時間に町を歩いていて迷子になり、出会う人たちに聞きましたが、みんなとても親切でした。それぞれの国というより、個人の「ひと」の付き合いのような気がします。

    H・Kさん:国によって色々でしょうが、スカンジナビア半島の国々は、幸福度がどこも高いようです。教育費は無料だし、しかもつめこみではなく、それぞれを伸ばす工夫をした教育がなされている点もあるでしょう。また、イタリアの人は人なつっこいですが、でも主権は母親にありますね。F:最初に外国に行かれたころは?

    H・Kさん:最初は、アメリカでもいろいろな種痘を打っていかなければならず、大変でした。マラリアなども。現在は、中国などは現金が使えず、ATMが止まったり、スマホが動かなくなったりしたら、特に年寄りは大変だと思います。アナログの方法も必要ではないかと思います。日本は比較すると、ワクチンを打つだけでもまだ紙に書くことが多すぎて、アメリカはマイナンバーだけでOKのようですが。

    Fさん:日本は個人の関わり方が違って、違和感があります。

    K・Tさん:マックスさんと息子さんのしんぺいさんが、亀岡で井戸の掃除をし始めて、息子さんはきたない仕事なのに、いやがらずにやるのにびっくりしました。ムカデを叩こうとしたら、しんぺい君が止めたのにも驚きましたが。    日本は美への意識が高いと思っていましたが、最近は、電線や看板などもぐちゃぐちゃで何だかおかしくなっているという感覚があります。今の日本はきたない物でも平気なのでしょうか?亀岡にコスモス園がありますが、あそこの看板も大きすぎると思います。

    R・Sさん:夫がスリランカの研究をしていて、私も2回ほど行ったことがあります。30年前と3年ほど前の2回です。最初に行った時には、空港の周りに何をするでもなく、大勢の人が集まっていました。3年前には、空港はきれいになっていて、人もそれほどいないし、服装が替わってサリーを着ている人がいませんでした。街中でも30年前はサリーを着た女性が多く、お茶も有名でした。ところが、最近は、スリランカの南橋に行くと、中国が借款を返せなくなって取り上げたらしく、中国語の看板や病院やホテルもたくさんできていました。全体の生活レベルは上がったように見えました。その変化を、その国らしさが失われたように感じて残念がったりもしますが、それは身勝手なことだと思います。どの国も、経済的な成長を求めて課題はあるにしても努力している。自分たちが便利な生活を送りながら、訪れた国について昔の方がよかったなどとは言えないものと思います。

    Y・Hさん:初めて外国に行ったのはハンガリーでした。どこかに見学に行った時、みんなが出かけている間に、運転手さんはドイツ語の勉強をしていました。必要な外国語を学ぶ姿を覚えています。また、ラオスかベトナムの北部に行った時には、昔の文化が残っていて、人々は裸足で棚田の開墾をしていました。貧しいくらしのようでしたが、空港は外国資本に飲み込まれているようでした。

    Fさん:この文を聞いてどう思いますか。

    「ある村に入ると、私が最初にショックを受けたのは、家族が食事をしていて、女性は床に座り、男性は椅子に座り、女性はその男性に食べ物を口に運んでいるのです。」

    皆さんはどう思いますか?これは男尊女卑と思いますよね。でもこれは、実は、女性は聖なる者と言われていて、地についているために床に座り、男性に食事を口に運んでいるのは、毒味をさせていたのです。実は、我々はこのように自分の文化をもとにあれこれ判断してしまう傾向があるということです。

    「行きませんか?」と日本語で尋ねられたら、どう答えますか?「「行きません」と答えるか、「そうですねえ。その時になってみないとわかりませんねえ」と答えるかもしれませんねえ。英語では「Don’t you go?」と聞かれたら、行かない場合は「No,I don’t」と答えますね。そのため、外国の人は日本語を使う時に迷うのです。どう答えたらいいのかと。

    メラビアンの法則というのがあります。

    (参考:メラビアンの法則とは、人と人がコミュニケーションを図る際、実は「言語情報7%」「聴覚情報38%」「視覚情報55%」という割合で影響を与えていることを示した心理学上の法則です。アメリカの心理学者であるアルバート・メラビアンによって提唱され、別名「3Vの法則」や「7-38-55ルール」などとも呼ばれています。メラビアンは、聴覚から得られる情報と視覚から得られる情報、そして言葉そのものが持つ情報のうち、どれがどの程度影響を与えるかを実験しました。たとえば、「Maybe(おそらく)」という言葉をさまざまな口調で録音し、実験の参加者に聞かせて反応をチェックするといった具合です。すると、柔らかい口調の「Maybe」を聞いた人より、強い口調の録音を聞いた参加者のほうが、より強く説得力を感じたことがわかりました。言葉そのものが持つ意味よりも、聴覚から得た情報で判断が左右されたことになります。さらに、「好意」「嫌悪」「中立」を示す表情の写真を用意し、それぞれの表情と矛盾するイメージの言葉と組み合わせて参加者に見せ、反応を確認しました。たとえば、「ありがとう」という言葉を、「怒りの表情」の写真や「不機嫌な口調」の録音と組み合わせ、参加者に聞かせたのです。このとき、参加者が本来の言葉の意味通り「好意」を感じ取れば言葉そのものの影響力が強く、逆に「嫌悪」を感じれば視覚や聴覚から得た情報が優先されたことになります。)

    Fさん:外国に行ってわからないことがあれば、この人は大丈夫かなと思って訊ねるのが普通ですが、日本にいると、どうやって話していいかと空気を読まなければならないし、住んでいたら、そこに合わせていかなければならないと言われます。

    児嶋:ひまわり教室のように最近は日本に住む外国出身の方とどう付き合っていくかが課題となってきています。先日もインドネシアから来たお母さんが、「子どもが学校に行きだして小学校の先生に親しみをこめてあいさつのつもりでハグしたり、手にキスをしたりしたら、「これはしないで」と言われ、ショックを受けたのだけれど、どのように先生にインドネシアの文化だと伝えたらいいのでしょう」とそのグループで訊ねていました。これに対して、日本語の堪能なインドネシア人のメンバーといっしょに学校へ行き、なるべく早く先生に説明をすることと、同時に近いうちにそのメンバーかだれかが、子どもたちを前に、インドネシアの文化について、お話し会を持つという提案を   する方がいいということになりました。自分の文化ではないことを頭から否定するのではなく、違いもあるはずという理解をまず、持ってほしいと思いますね。

    Fさん:外国人が多く住む地域では、60%が外国につながる子どもである学校もありますね。そこでは先生がどう付き合うかが課題のはずですね。

    児嶋:先日、横浜市の鶴見区の中学校の先生をオンラインでお呼びし、国際教室が小学校の場合340校の中で147校(43%)あり、中学校は145校の内39校(27%)という話を聞きました。この地域では大学の教職課程で、国際教室の指導の仕方を学ぶと聞きました。つまりどの先生もそこに行き担当になる可能性があるからです。

    四方さん:亀岡でもだんだん増えてきましたが、まだ国際教室というのは持っていないため、子ども個人の努力に任せている様なところがあり、ひまわり教室などでサポートしながら待つという傾向があります。Cくん(小学1年:中国の春節に帰国し、コロナ禍のため1年半ほどお父さんの待つ日本に帰国できなかったのがようやくこの7月に入国し、2学期から転入した)も給食がつらいらしいのです。今までの食事と変わり、おいしいと思わないらしいのです。

    Fさん:姪は日本人ですがアレルギーがあり、その時は弁当にしていますが。

    児嶋:イスラム教徒で食べられない物があれば弁当にもできるはずですが。

    四方さん:お母さんに聞くと宗教上でもなく、食べ付けないからなので、早く慣れてほしいですということでした。1年未満でなんとかなじんでほしいですね。

    Fさん:オーストリアでは、他所から来たひとが、すぐにその場所に馴染むとは思っていません、時間がかかりますし、無理強いはしない。多文化ではなく、複文化主義ですね。言語も親の都合で動くことを強制された子どもはいろいろな言語とつながっているはずで、他の文化を離すことはできない。どれも持っているという全体主義の考え方です。そうであれば、こちらが向こうに近づくという姿勢が必要であり、子どもも含めてこちら側に受け入れてくれることが大切です。新しく来た子も「学校へ行く」ことが楽しいと思える環境作りが大切と思います。

    Fさん:若い人たちは、昔のように仕事があるからどこかに行くというより、休暇で行ったスウェーデンが気に入ったから、スウェーデンに住みたいのでスウェーデン語を勉強するというのにびっくりしました。時代が変わってきたのだと思いました。

    児嶋:フィンランドでも大変だった歴史があります。西はスウェーデンに攻められ、次はロシアにも長く占領されていましたね。ハンガリーに行った時もガイドさんは、「祖父はセルビア出身で祖母はギリシャで・・」などと言い、ミックスの文化や言語が身近であるならば、どこで国境と言うのか、国籍がどこかだけの話ではないかと思います。

    E・Tさん:自分は、今は一番初めに台湾に行ってみたいです。 

    R・Sさん:日本もシンガポールを占領していましたね。このような歴史をどう思いますか?

    四方さん:自分では日本の歴史をわかったつもりでいても、それに対する考え方はいろいろですね。シンガポールに住んでいたときにその日がシンガポールの独立記念日で、タクシーの運転手さんは、「いつもならいいけど、今日だけは日本人を乗せたくない」と乗車拒否をされたことがあります。

    Fさん:今の天皇が英国に留学されたのは、オックスフォード大学でした。その裏にはケンブリッジは昔も今も日本への嫌悪感があるからだと聞いたことがあります。

    児嶋:台湾には50年間、朝鮮半島は30年間、日本語で学ぶことも強制してきた日本の歴史を知っているでしょうか?

    Fさん:知った上で台湾なども訪ねる方がいいですね。

    E・Tさん:外国に行かないまま死にたくないとも思います。

    Fさん:今日は、じゃんけんゲームなどをして異文化ゲーム(アメリカ発祥)などをしたかったのですが、次回にしましょうか?

    児嶋:次回につづきをやってください。

    四方:私は小学校時代に、山梨県から鳥取県、そして京都の綾部に移りました。外国ではなくても言葉が違うので、異文化に入ったと言う感覚でした。このことも異文化理解の必要性を強く思うし、受け入れ方も考えていきたいと思う理由のひとつだと思います。

    セッションは終わりましたが、Fellnerさんには、2022年4月にもう一度ゲストとしてお越し頂きます。みなさま。ご期待ください。

    グローバルセッションイメージ

    開催日:2021年10月2日(土)10:30~12:30
    場所:ガレリア3階 会議室
    ゲストスピーカー:玉野井麻利子さん:アメリカUCLA人類学部名誉教授・(立命館大学院非常勤講師)
    コーディネーター:亀田博さん
    参加者:7名

     今回のタイトル:「人類学とは何か」を気軽に考えてみよう

    「人類学とは何か?」と聞くと、そんなのどこから初めたらいいの?そういう声が聞こえてきそうです。

    実は一応人類学者である私にも答えに困るのです。

    そこで、昨年、アメリカのロサンゼルスに住む日本人向けの無料月刊新聞に「人類学者の奮闘記」という連載を書きました。

    今回はその原稿を元にお話しようと思います。

    「人類学」、なんとも厳しい言葉ですよね。我々人類(ホモサピエンス)についての研究?

    人類はひとつ、でも私たちは様々な方法で人類を分類しますー国籍で、肌の色で、進化の程度で、宗教で、使用する言語で。。。ヒトの「多様性」は私たちの生活に様々な恩恵を与えますが、戦争、差別もおこっています。

    今日はこのような視点から、人類とは何なのか?皆さんと一緒に考えていきたいと思います。」

    「What is ANTHROPOLOGY?  Isn’t it a dry, boring, hard science?  Where to begin to understand what it is?  To tell you the truth, even though I am an anthropologist, I always find it impossible to explain what it is.  Last year (2019-2020), I contributed a series of short articles, titled人類学者の奮闘記 or the struggle of an anthropologist, to the monthly newspaper circulated in Los Angeles area.  Based on these articles, I will try to demonstrate that anthropology is a fun science: it makes you to understand who you are. 」

    自己紹介

    亀田さん(コーディネーター):自己紹介をお願いします。

    M・Sさん:多文化共生センターのスタッフで、週に2回ほどセンターに来て相談にのっています。その他に「ふるさと亀岡ガイドの会」のガイドで月に1回か、2回城下町亀岡をめぐっています。また、ガレリア3階の「みんなのネットワーク」の理事や国際交流協会の理事もしています。このGlobal Sessionは、最初のころからずっと参加しています。

    R・Sさん:教員をリタイヤしたあと、ひまわり教室で、外国につながる子どもさんた保護支援をしたり、「みんなのネットワーク」の仕事もしています。通常は、コロナのために、ここ2年間ほどはいろいろな活動がなくなり、それをもう一度やるというのは、多分ものすごいエネルギーが必要になると思うのですが、このGSのような機会が常にあると、ひととつながれると思います。

    F・Mさん:2020年の12月にオーストリアから日本に来てオーストリア出身の夫と亀岡に住んでいます。途中で私だけ、また帰国していましたがこの6月に再入国して日本にいます。今は逆文化ショックを感じています。長い間、日本に住み続けたことがなかったので、日本の人の物の考え方が変わったと感じたり、腹がたっても誰に聞いたらいいのかわからないこともあり、とまどうことがたくさんありました。オーストリアでは、日本語教師をしていました。

    M・Sさん:奥さんがしばらかくいなくても、夫さんはひとりで生活されていましたね。

    F・Mさん:夫はその時々の状況判断がうまいのだと思います。

    S・Oさん:高校3年で立命館宇治に通学しています。児嶋きよみさんの孫で、自分とちがう世代の人の話を聞きたいなとこのGSに参加しました。その中でぼくなりの視点があるかもと思っています。

    児嶋:このGlobalSessionは、1999年から毎月1回続けていて、今回は、343回目になります。でも、この8月・9月は開催していなかったと今気づき、びっくりしています。そのため、今年は10月が2回、11月が2回開催予定です。どうぞ参加していくださいね。

    亀田さん:大津市から来て参加しています。このGlobalSessionへの参加も長く続けています。玉野井さんをゲストにお迎えしたのも3回目になりますね。前回は2019年で、アメリカの大学の教育についてであったと思います。仕事はツアーガイドをしています。ここ1年半くらいは、外国へ行くことも外国から来る人々の日本国内でのガイドの仕事がありません。2020年3月から日本は入国を禁止し、中国からもビザを出していないので、大勢来ていた観光客がいっさい来ていませんね。でも、ペキンにユニバーサルスタジオができたので、上海だけでなくて、日本に来なくてもいいようですね。来年も多分まだだめではないかと思っています。

    児嶋:以前の中国からの観光客を、関空で見た時、土産として買っているのは、炊飯器がたくさんあったと覚えていますが。

    亀田さん:そのほかに、水洗トイレの上の部分も多かったですね。それが第1位で2番が炊飯器で、日本の米も買って帰る人が多かったです。そのほかに、目薬とか化粧品もありました。最近では中国の高所得者向けに「人間ドッグ」も人気でした。それとか、韓国向けには「ぷち整形」とかも。これからは、中国政府がみやげに税金をかけるらしくてあまり買って帰ることはできないかもしれませんね。

    亀田さん:玉野井さんも簡単に自己紹介からお願いします。

    玉野井さん:私は、大阪生まれの関西育ちで、大学に入ってから東京に行きました。1978年にアメリカからフルブライト奨学金をいただき、5年間留学しました。この奨学金の規則ではその後は必ず、日本に帰国することが条件だったのですが、私はアメリカで結婚したこともあり、そのままアメリカに滞在し、人類学を学び、博士号を取得しました。その後2019年までアメリカの大学で教えておりました。アメリカの大学では、退職制度はありません。みなさん、自分でいつ退職するかを決めます。私の場合は2019年に引退をして日本に帰国ました。

    京都に住み始めて気が付いたのは、京都は方言が生きている地域だなあということです。私の母は京都出身で、父は大阪で、ずっと関西に住んでいたわけですが、海外では会う日本人はさまざまな地域から来ているので、ほとんどが標準語を使用していました。F・Mさんが言われたように私も、「文化的逆ショック」を受けています。特に最近のことばで、「トリセツ」とか、「バズル」とか、「めっちゃ」とか。楽しむこともありますが、腹がたつこともありますね。現在は、立命館大学大学院で児嶋さんも在籍していらした先端総合学術研究科で非常勤講師をしています。さて、ここで本題にはいります。

    アメリカの大学では、大学生が卒業する前に、学生の保護者と会い、話をする機会があります。そのような時に、「人類学をやっていて就職口はあるのか?」とか、聞かれます。そのために、「人類学を学んでいる学生の父母への人類学講座」が必要になります。

    まず、皆さんにおききします。人類学とはどのような研究だと思いますか?

    S・Oさん: 最近『サピエンス全史』という本を読み、歴史として、人はどういう営みをしてきたのかを考えています。人類学では、証拠をつなぎ合わせて歴史というのを作っているのでしょうか?

    M・Sさん:人類誕生の歴史からの研究でしょうか?進化も含めて。

    R・Sさん: 幅広い分野を含んで居る感じですね。生物の進化をしながら、作り上げていくのが文化かと思いますが。

    玉野井さん:人類学というのはとても幅が広い学問だと思います。今の日常生活でだれもが思う、「なぜ戦争は終わらないのか?」とか、「女性は今もなぜ差別されるのか?」などこのような疑問も人類学と関連があります。ギリシャ語のanthropol(s)は、人間とか、ホモサピエンスという意味です。Anthropomorphismは、擬人化というような意味があります。

    人類学という学問ができたのは、19世紀でかなり最近です。米・英・仏で生まれてきました。この時代の人類学者のなかにはBoasとMalinowski(マリノフスキー)がいます。Boas (1858~1942)は、ドイツ生まれのユダヤ人でアメリカに渡りました。マリノフスキーはポーランド生まれで英国に渡り、英国の植民地であったパプアニューギニアで最初のフィールドワークをしました。Boas はアメリカで初めて人類学部を創設しました。彼はエスキモー(Inuit)の研究をしたことで知られています。

    当時グリーンランドに行くことは不可能だったので、Boasは、とある探検家のひとりにエスキモーの家族 (7人)をグリーンランドから連れてきてもらい、ニューヨークにあるMuseum of Natural Historyの地下に住まわせ、実験材料として研究をしたようです。彼らの体型、言語、習慣などを観察していたのですが、インフルエンザにかかって7人家族の内1番小さな子どもを残してみな死んでしまいました。生き残った子どもは英語を学び、アメリカの生活に馴染んだかに見えましたが、つれてきた探検家が彼をグリーンランドに戻してしまう。ところが本来はそうであるはずだった自分の文化にも馴染めず、またアメリカに連れてきてもらいます。が、今度はほったらかし。結局インフルエンザにかかり、なくなってしまうのです。

    私は、アメリカで人類学の入門クラスを教えるとき、かならずこのエピソードから始めます。つまり、人類学とは西欧(Boasの、あるいはこの探検家の)のおごりから始まったと。上から下を見下ろしていると言えます。

    アメリカの人類学はその後、Native American Indiansの研究が中心となります。でも皆さん、当時(19世紀後半)は、ニューヨークの動物園でアフリカにいる民族のひとつ、ホッテントットの子どもを檻に入れ、見世物にしていました。そんな時代に、「人はだれであろうと、文明人でも未開民族でもが文化を持っている」ということを証明しました。そうして、アメリカでは文明人は社会学が、未開民族は人類学が、という分業が発展したのです。

    アメリカの人類学部は、1.生物人類学、2.考古学、3.言語人類学、4.文化(社会)人類学の4つに分かれ、私は第4の文化社会人類学を専攻しました。1は主に進化論を、2は歴史を、3は言語を、4はヒトの多様性を軸として展開しています。すべてに共通するのは「文化」という考えの追求です。

    ところで、日本では包括的な人類学部をもつ大学はほとんどありません。今のところの学、東京大学、東京都立大学、埼玉大学ぐらいでしょうか。これらの大学も、たとえば東大の場合生物人類学は医学部とか、理学部におかれているようです。

    私がどうして人類学に興味を持つようになったかというと、日本の大学生の1年だったころ、メキシコに留学する機会に恵まれたときです。当時のメキシコ大統領は息子を慶応大学に留学させていました。そのお礼にと、日本全国からメキシコへの留学の応募者をつのったのです。その結果、1年間メキシコに留学しました。ホームステイをし、家族とともに住んでいたのですが、なんと大金持ちの家族で、メイドさんがいて、下着まで洗濯してアイロンをかけて返してくれるのです。しかしこういう人々はわずか、貧困が蔓延しています。メキシコはすばらしいアステカやインカ文明があった国ですが、征服されてほろんでしまいました。そこで見た貧困の格差と、その歴史が今の私を作ったような気がします。《知らない国へ行くのはおもしろい」と思ったのが人類学に進むきっかけだったのかもしれません。

    F・Mさん:文明人と未開民族はどこで線を引くのでしょう?

    玉野井さん:文字を持つかどうかでしょうか?

    F・Mさん :文字がなくても絵で伝えられる民族もあったのではないでしょうか?

    玉野井さん:もちろんです。絵や寓話や、記憶を送り続けることによって。でも文字を持たないということが、フィールドワークという方法を作ったと思います。今は未開民族はいません。それと同時に人類学はいわゆる文明国でもフィールドワークをするようになりました。文字をもっていても、かかれなかった歴史はたくさんあるわけですがら。たとえば女性史がはじまったのは20世紀になってからですね。 

    M・Sさん:フィールドワークというのは、具体的にどのようにするのですか?

    玉野井さん:ある地域に住んで、そこにいる人たちと毎日くらし、聞き書きをしたり、また私の場合は文書を読むこともあります。フィルドワークでは大体女性に聞く方が、生き生きした話が聞けるようにおもいますが、これはフィルドワークの難しさでもあります。

    M・Sさん:F・Mさんは、旦那さんとどこで知り合ったのですか?

    F・Mさん:11才でCISVという子どもの国際夏休み村にアメリカで参加し、そこで会いました。そこでは「戦争が始まったら、どこへ行くの?」などという視点で話合いがありました。

    R・Sさん:今でも北海道でアイヌの人の骨を掘り起こすとか、沖縄の人の骨が散らばっているところを、港にするために掘り起こしているとか、矛盾がたくさんありますね。中国でも天安門事件で「君たちの意見はよくわかる」と言った趙紫陽さんは、家の中に閉じ込められたまま亡くなりました。全体主義の監視下では、つながっていくはずの学問がつながらないという側面もありますね。」2021/10/12一部修正

    玉野井さん:日本も中国を占領地にした時代に、中国人にたいして人体実験したことがありました。

    玉野井さん:何か他に質問はありますか?

    S・Oさん:誰もが文化を持つと僕は思います。僕は絵や、音楽で表現をすることで何かをつくり上げる仕事をしたいと思っていますが、曲を作るのも周りの影響を強く受けていると思います。高1の時にカナダにホームステイしながら留学していましたが、自分と同世代のみんなと関わりながら、自分が日本の文化にどのように影響を受けてきたかをいろいろ感じていました。毎日ちがいがどうしてこんなにあるのだろうと考えていました。人生はほとんど同じ長さのはずなのに、どうしてこんなにちがいが生まれるのかと不思議でした。どういう経験がこのようにちがいを生むのかとも考えていました。

    玉野井さん:人類学で扱う「文化」はある意味で人間の行動、考えそのものです。日本ではよく文化(芸術など)と政治をわけますが、政治の成り立ち、そのなかでのたとえば議員の行動、もまた文化です。ただ私は、やはりひとりひとりの個人、その人に特有の価値観も大事にしたいと思っています。

    時間になりました。また、来年度の別の機会に玉野井さんに再度GSのゲストをお願いします。

    次回のGlobalSession

    期日:2021年10月23日(土)10:30~12:00
    場所:ガレリア3階 会議室
    ゲスト:フェルナー真理子さん
    コーディネーター:募集中
    タイトル:異文化の中で育つということはどんなことか?(ゲームで体験してみよう)

    グローバルセッションイメージ

    開催日:2021年7月25日(土)10:30~12:45
    場所:ガレリア3階 会議室&オンライン
    ゲストスピーカー:濱田雅子さん(元武庫川女子大学教授、アメリカ服飾社会史研究会 会長)
    コーディネーター:児嶋きよみ
    参加者:12名(うちオンラインでの参加4名)
    共催:亀岡国際交流協会

     今回のタイトル:「20世紀アメリカの女性デザイナーの知られざる真実― ティナ・リーサの作品に見るフェアトレードと持続可能性―」

    時間が来ると、オンラインで濱田雅子さんが話を始められました。今回は「濱田雅子の服飾講座」の20回目のGlobal Sessionです。今回は、濱田さん以外にもオンラインでの参加者が3名いらっしゃいます。さあ、どのようなセッションになっていくでしょうか?

    自己紹介

    R・Yさん:せせらぎ出版社長(濱田さんの研究書『アメリカ植民地時代の服飾』『アメリカ史にみる職業着』などの発行をになう:(濱田さんより)

    K・Yさん:大学でフランス語を教えています。濱田さんのファンで、ほとんどの研究書を読んでいます。

    K・Iさん:大学でメディアコミュニケーションを教えています。

    M・Fさん:グループを作り、子どもたちに映画の製作などを教えています。(京都や滋賀で) 亀岡市在住

    E・Tさん:今日、33才になりました。京北町在住

    M・Tさん:カリフォルニア大学で人類学を教えていました。今年からは、拠点を京都に移しています。

    K・Kさん:宇治市在住・小学校で非常勤講師をしています。毎回、ここに参加すると、学ぶことが多いです。今日も楽しく勉強していきたいと思っています。

    K・Kさん:南大阪の泉大津市から来ました。80才になります。(造園デザイナーで工房カワサキを主宰:なんばウオークの「くじらパーク」の制作者)

    E・Lさん:インドネシア出身でインドネシア語講師(関西のさまざまな大学で) 京都市在住

    Kさん:亀岡国際交流協会 職員

    児嶋きよみ:1999年にGlobal Sessionを、亀岡市交流活動センター(亀岡市宮前町)で開始し、2011年より、児嶋の主宰となり、毎月一回のペースで継続し、今回は342回目になります。知らない間に20年以上になっています。濱田講座はGSの中で20回目になります。

    今回の講座について濱田さんより説明

    濱田さん:1時間20分ほどの内容で録画をしてあります。この中には、著作権の問題などもあり、本の中では説明できなかった写真なども入っています。この中では、職人とのフェアトレードの取り組み方や持続可能性についても触れています。

    概要について

    ★ティナ・リーサは、1950 年代に芸術家として育ったアメリカのファッション・デザイナ ーです。世界中を旅行しており、フェアトレード、持続可能性、デザインと生産における グローバルな展望を優先しました。

    ★ティナ・リーサは、アメリカでも知られていないということです。

    ★本講演では、ティナ・リーサの生い立ち、ファッション・デザイナーとしてのハワイ、 ニューヨーク、インド他を舞台とした活躍ぶりをアメリカの服飾研究者の近年の研究に基 づいて、紹介させていただき、こんな凄い活躍をしたファッション・デザイナーが、なぜ、 知られていないのだろう? その真実に迫ります。

    ★第41回研究会で話題になったフェアトレードと持続可能性の問題をティナ・リーサの活躍ぶりと作品の数々を通して考察し、皆さんとともに考えてみる機会になればと思います。

    全体構成

    1. 濱田雅子著『20世紀アメリカの女性デザイナーの知られざる真実—アメリカ服飾社会史 続編ー』の内容紹介

    2. ティナ・リーサの生い立ち

    3. ハワイ・ニューヨーク、インド他での活躍

    4. 世界旅行で培ったグローバル・ビジョン

    5. ティナ・リーサのファッション哲学―ウィリアム・モリスの影響

    6. ティナ・リーサの作品に見るフェアトレードと持続可能性

    7. Tina Leser’s Sustainable Fashion 映像・解説(3~6 でも作品紹介)

    8. まとめ

    参考文献 濱田雅子著『『20 世紀アメリカの女性デザイナーの知られざる真実ーアメリカ服飾社会史 続編』(POD 出版) 電子書籍 アマゾン kindle 版 ペーパーバック(Next Publishing Authors Press, 2021年4月7日発行

    テーマ『20世紀アメリカの女性デザイナーの知られざる真実 ―ティナ・リーサの作品に見るフェアトレードと持続可能性―』

    ティナ・リーサのあゆみ

    1910 年12月12日 クリスティン・バフィントン(Christine Buffington)は、フィラデルフィアアリー・エディス・コックス(Mary Edith Cox, 1886.3.12-1954.1.7)とチャールズ・バフィントン(Charles Buffington)のもとに生まれた。母親の裕福な従兄弟であるジョージーヌ・ウェザリル・シラード・スミス(Georgine Wetherill Shillard₋Smith, 1873.3.2-1955.10.12)と彼女の夫チャールズ・シラード・スミス(Charles Shillard-Smith, 1864.9.10-1946.11.25)によって養子として迎えられた。ロサンゼルスのウエストレイク・スクール・フォー・ガールズ(Westlake School for Girls)、 ラホーヤのビショップ・スクール(Bishop’s School)、アグネス・アーウィン・スクール (The Agnes Irwin School)、ザ・シップリー・スクール(The Shipley School)、フィラ デルフィアのカーティス音楽研究所(The Curtis Institute of Music)、そしてパリのソ ルボンヌ(the Sorbonne)で教育を受けた。

    1931 年 カーティン・リーサ(Cartin Leser)と結婚。

    1935 年 ロイヤル・ハワイアン・ホテルの向かいのホノルル専門店をオープン。彼女の ブティックは、私たちと同じようにハイエンドの既製服を扱っていた。

    1936-1938 年 カーティン・リーサと離婚。

    1940 年 リーサは本土に事業を拡大する。ボンウィット・テーラー(Bonwit Teller)とサ ックス・フィフス・アベニュー(Saks Fifth Avenue)は、彼女のデザインを販売した最初の小売業者であった。 リーサは 1943 年まで自分のブランドで設計、製造していた。

    1943-1953 年 アメリカの第二次世界大戦への参入とともにニューヨークに移住。メーカー Edwin H. Foreman Sportswear Company と提携し、Tina Leser というレーベルの下でエドウィン・フォアマン(Edwin H. Foreman, 1915-1992)のためにデザインした。

    1944 年 「ベアブラウン・ルック」(Bare Brown Look)

    1945 年 コティー・アメリカン・ファッション批評家賞(Coty, Inc.American Fashion Critics Award)および、ニーマン・マーカス賞(Neiman Marcus Award)を受賞。 ロング・アイランドのサンズ・ポイントにあるリーサの夏の家として使用される納屋の改修が完了する。水着メーカー、ガーバー(Gabar)とライセンス提携。「オリンパスの影」ギリシアコレクション。

    1946 年 パーク・アベニューのブロードウェイ・ステージ制作用の衣装をデザインし、アンパリッシュの小説「すべてひざまずく」の映画化のための衣装をデザインするために 一時的にハリウッドに移転した。

    1947 年 ニューヨーク・ドレス・インスティテュートからプリンセス・エリザベスに送られたトルソーの一部として選ばれたリーサのデザイン。ニューヨーク・ドレス・インスティテュートのクチュール・グループが最初に招待したメンバーになる。 チェイニーのメンズネクタイをデザイン。 リーサの作品は、メトロポリタン美術館のコスチューム・インスティテュートに、フランスの中世のタペストリーを基にしたファッション展の一環として登場した。「ゴディーズ・レディーズ・ブック」コレクション

    1948 年 「カリプソ」コレクション。11月 ジェームズ・ハウリー(James Howley,1920ー2012)と結婚し、ハワイ、日本、 中国、トルコ、インド、タイ、ヨーロッパを訪問するグローバル・ハネムーン・ツアーに参加した。

    1949 年 日本のファッション・デザイナーを対象とした年次コンテストを開催。モリニューはロンドンとパリの彼のブティックでリーサのデザインを販売した。メーカー・シグネットのメンズネクタイ・ラインをデザイン。「世界一周」コレクション。

    1950 年代初期 養母のジョージアを助け、フロリダ州クリアウォーターにベルエア・アー トセンターを設立。

    1950 年 「スペイン風」コレクション。

    資料 濱田雅子著 『20世紀アメリカの女性デザイナーの知られざる真実―アメリカ服飾社 会史 続編―』(Next Publishing Authors Press、2021年4月7日) pp.71-76

    グローバルセッション開始

    E・Lさん:アメリカのデザイナーに興味を持ちました。実際のデザインの元はあまり知らなかったので写真にあるデザインを見て驚きました。インドネシアでは小さい頃、母が作った服を着ていました。1970年代のインドネシアにもアメリカのデザインの影響はあったのかもしれません。写真の25, 42, 51に興味があります。日本でもファッション画のルックスはアメリカンだったのでしょうか。戦争前に禁止の条項が多いのを尻目にシースルーなどをアイディアにしたのはおもしろいですね。

    M・Tさん:いろいろ学びました。大きな疑問としては、なぜ、彼女が知られていないのかというのがあります。1950年代からフェアトレードを実行してきたわけで、今でこそ、ユニクロなどが問題視されていますが、ティナ・リーサは最初に言い出したデザイナーなので、もっと知られてもいいのにと思います。次にファッションのデザインですが、ヨーロッパから着た服のデザインでは、普通の人は着られなかったと思います。50年間アメリカにいましたが、服については何でもいいから着るというような生活をしていました。でもこのティナさんの服は着られそうと思います。でも、このような事があまり知られていない原因と言えるのでしょうか?

    M・Fさん:質問ですが、デザイナーさんの写真の著作権は、どうだったのでしょうか?

    濱田:デザインには、制作の面では著作権があります。それで、今回も写真掲載の許可が得られませんでしたので、私の本には、ティナ・リーサさんの作品の写真は、パブリック・ドメインの写真以外は掲載していません。この問題には私も、本当に苦しみました。裁判になる怖さもあります。出版社のせせらぎ出版の山崎さんにも相談しました。著作権は、著者が亡くなってから、70年間あります。

    M・Fさん :苦労されたのがよくわかりました。

    濱田さん:映像化することがデザインの著作権問題としてクリアされれば、アメリカだけでなく、他の国にも紹介できるのですが。

    K・Kさん:私の仕事は石工なので、ファッションの世界には疎いのですが、素材をアートに変えていくという点では同じかなと思い、見ながら、自分の来た道を振り返っていました。私の場合は、石材やセメントが重要な素材です。イサム・ノグチは石材を使って世界的なアートを制作されました。かつては遊牧民と自称し、『ぼくの生まれた時代』(1941年)を出版し、生きた時代を重ね合わされていますね。

    濱田さん:K・Kさんも泉大津市に住みながら、石材を使っておられるわけですが、職人を大切にされていたと思います。これに対して、ユニクロなどの生産国での低賃金が今は問題になってきました。(新疆ウイグル自治区などで)

    K・Kさん:楽しかったです。来てよかった。ティナ・リーサさんは、経歴を聞くと、世界をいろいろ回っていらっしゃいますね。それぞれの地域で交流があり、人生を楽しんでいたという印象があります。戦争末期の制限の中で、シースルーの衣服を取り入れたり、共感できます。でも、アメリカで取り上げられずにいたということは、先を走り過ぎたのかと残念です。アメリカ人は、実質的な物の価値を取り上げるはずなのに、受け入れられなかったのは、周りの理解が無かったためかなどとも思いました。持続可能な点については、人類の滅亡の危機があるのは、産業の中の廃液の処理なども含まれます。表に出ている商品だけでなく、それの後ろ側やまわり、先なども考えていかなければと思います。そうでなければサスティナブルな産業はなくなると思います。何が大切なのかをみんなで考えていくことが大切と考えます。

    濱田さん:以前はアメリカン・ルックについて書かれた服飾社会史はありませんでした。『アメリカ服飾社会史』(東京堂出版、2009年)を出版した時には、シリーズで書くという気はなかったのですが、POD出版の時代になり、出版しやすくなり、出版いたしました。アメリカのスタイルについては、Eniさんも質問されていましたが、その誕生と発展について、2019年と2020年に、ペーパーバックと電子書籍を出版していますので、また、読んでください。『パリ・モードからアメリカン・ルックへ―アメリカ服飾社会史近現代篇―』(株式会社R&D POD出版サービス, 2019年)、『アメリカ服飾社会史の未来像―アメリカ服飾社会史の視点から―』(株式会社R&D POD出版サービス, 2020年)の2冊です。

    K・Yさん:今日はありがとうございました。苦労された著作権に対してもアーカイブでの資料があり、説得力がありますね。サスティナブルの視点では、パタゴニアについての事項を思い起こしていました。ティナ・リーサさんはその時代の先取りを実践しましたね。そこでは、かわいらしいとか、はなやかというコンセプトだけを表にだそうとしていたわけではないですね。モリスの案を実践に持って行ったことは、とても良いと思います。アメリカのファッションは、フランスに比べると目立たないですね。

    濱田:今度の本を最初に読んで下さったのは、吉川さんです。本を読まれたのと、今日のビジュアルな講座を見て、いかがでしたか?

    吉川:本も説得力があり、いろいろなことを考えることができました。でも、映像は華やかさがありますね。ティナ・リーサさんに華を感じました。映像では材料にオーガンジーを使用したり、細部にかわいらしさも出ていました。質問ですが、今回のビデオで流されているBGMは、内容と関係があるのでしょうか?

    濱田:全く関係がありません。自分の好きなパターンをマイクロソフトから取りました。吉川さんは、「本は本でいい」と言われましたが、著作権に関わる映像では、文字、情報がカバーできるのですが、著作権が著者死後、70年間、保護されるというのは、現代史を扱う著作者にはかなり苦しいと思います。

    K・Iさん:服飾の研究が専門ではないのですが、感想としては、ファッション界の評価としては、オリジナリティが評価の対象となるはずです。ティナ・リーサさんは、ヨーロッパに触発されて自由に作り上げたと思います。私たちは見たことのない物が好きで、固定観念のある社会としては、「オリジナリティはない」とされたのも知られていない理由のひとつなのではないでしょうか?

    濱田さん:濱田としては、ティナ・リーサさん他のアメリカの女性デザイナーが認知されなかった理由について、5つの見解を提出していますが、まず、パリモードとしては、ディオールの映画を見て「パリモードはすごい」と思いました。オリジナリティはもちろんすばらしいのですが、モリスもいうように、農家の中から生まれたデザインもすばらしいと思います。ファッション社会の中では、パリはすばらしいという固定観念があります。アメリカは実用性を重んじる社会ですが、評価は低いですね。

    K・Iさん :ギルド制もありましたね。

    濱田さん:川崎さんの作品の本もせせらぎ出版さんから電子書籍という方法もありますね。

    R・Yさん:(せせらぎ出版):詳しくこちらのことを話してもらってありがとうございます。濱田さんの『アメリカ植民地時代の服飾』と『アメリカ史に見る職業着』も出版してきました。

    濱田さん:阪神大震災の時に私の研究資料が無くなるのではないかと心配でした。指導教員の先生に「資料が健在なうちに本を出版したい」むね相談しました。その結果、せせらぎ出版さんを父の知人から紹介してもらって、修士論文を『アメリカ植民地時代の服飾』というタイトルで出版していただきました。その後、職業着の翻訳書も出しました。

    R・Yさん :ウイリアム・モリスの翻訳書をせせらぎ出版で作りましたね。出版すると大きな資金が必要という敷居を下げました。

    • POD(プリント オブ デマンド)で出版できる。
    • 出版部数も選べる。(ウイリアム・モリスの本も初版は400部作成し、100部ずつ印刷を重ねる。2ヶ月に一度このように出版し、800部売却しました。
    • 紙の本を少量ずつ印刷しているので、費用は安い。

    従来は3000部以上というのが普通で出版のハードルは高い。

    • サスティナブルという面でも売れる数を印刷するので、廃棄は無い。

    従来の印刷方法から脱却する。

    濱田さん:せせらぎ出版さんの方法は先見の明があると思います。本の出版が夢だった人々にも実際にできるようになりました。せせらぎ出版は、インターネットで見られます。

    E・Tさん:ファッションは好きです。今日は歴史を楽しく学びました。今は訳あって職探し中です。だれかの役にたっているという仕事がしたいと思っています。

    児嶋:夏のおわりになると、ファストファッションの店では、びっくりするような値段で売りさばこうとしています。1000円以下でもいっぱいあります。質も悪くないのに。これはいいと買い求める人も多いと思いますが、そのたびに、最近は、産出国で、どれだけ安い賃金で造らされているのかと思ってしまいます。

    濱田:今日の講座で服飾に関して20回目になります。パワーポイントで20回分の映像が残っています。ナレーションを聴き直してみると気恥ずかしいです。このたびは、本当に皆さんのご感想やご意見に励まされました。ありがとうございます。みなさま、コロナと猛暑に気をつけて、お過ごし下さいますように。

    感想集

    K・Yさん

    「今回は初めて会に参加させていただき、ありがとうございました。このような会を運営しておられる児嶋さんはじめ関係者にお礼を申し上げます。

    さて濱田雅子氏の最新の著作は6人のアメリカの女性デザイナーを紹介しながら、なぜその活躍にもかかわらず、今日、彼女たちの認知度が低いのかを解き明かす内容です。最新の研究をふまえ、大変明快に論じられています。

    彼女たちの認知度の低さは、第二次世界大戦後のパリ・モードの動静が大きく関わっていますが、理由は複合的で、彼女たちの業績等のアーカイブの未整理も影響しています。

    著者が導き出した結論は、パリとアメリカを視野に収めたダイナミックなものであり、研究者のみならず多くの読者に資するものだと思います。

    濱田氏のご発表はパワーポイントを使ったわかりやすいものでした。画面は整理がきいていると同時にレイアウトが工夫されていて、楽しく見ることができました。サスティナブル・ファッションなど最近のSDGsの動きを視野に収めた刺激的な内容で、たいへん勉強になりました。ティナ・リーサがこのようなファッション界の動きを早くから感知していたことにあらためて驚かされました。

    普段、ヨーロッパに目を向けがちな私にとって、20世紀アメリカの服飾事情は、比較の視点からしてもおおいに注目されるところです。」

    K・Kさん

     本来私は繊維の世界についてほとんど専門的知識は持ち合わせておりません。初めて講座を受けた時でした。その時講座を聞いていた時突然思い出した事をお話しさせて頂きました。

    それは、白人がアメリカに入植した頃の大統領がだれだったのか?40年位まえに読んだ本が思い出せなかった。今も変わらずその事が頭から離れません。

     繊維について興味と関心を持ったきっかけは白人社会がインデアンを山奥に追い出した時インデアンの酋長が当時の大統領に1通の手紙を送った。その中身はこうでした。

    「大統領様、貴方たちは一方的にインデアンを追い出して白人優先社会を作ろうとしている。私達が着ている繊維は縦糸と横糸を絡ませて繊維は出来上がっている。私達を山奥に追いやる事は、縦糸か横糸を一本抜けば繊維は必ず綻びてくる。

     私達先住民族を追い出して白人だけの社会を作るならアメリカ社会は必ず滅びらだろう。

     この手紙を大統領に送ったインデアン酋長の先見性と勇敢さが今日のアメリカ社会を作ったと言っても過言ではない事を思うと、どの大統領に手紙を送ったのか興味があります。今でも本の名前も記憶無く、思い出す度にネットで調べてもわからない。アメリカ社会のファッションを聴く瞬間思い出されます。

     濱田先生の話といささか外れますが、私は繊維やファッション界は素人もはなはだしい。皆さんの意見を聞きながらゆっくりのんびり勉強しています。」

    (濱田さんから、K・Kさんへ)

    「インディアンの手紙」

    K・Kさんの探されているのは次の手紙ではありませんか?次のサイトで見つけました。https://note.com/mannaonnote/n/n988e4d2a40ae

    E・Tさん

    私はファッションは好きなのですが、その歴史はほとんど知らないのが現状です。講座を聞いていて疑問に思ったのは、ティナ・リーサさんの名前があまり知られていないことです。世界中を回り、ファッション業界に大きく貢献された方の一人のはずなのに、どうしてかなと思いました。おそらく、リーサさん自身、名声より人々のファッションの未來の方を気にされたと推測しますが、、、、

     あと、興味のある写真は、図22,19,24,26,32,35,37,51です。

    本日はありがとうございました。

    グローバルセッションイメージ

    開催日:2021年6月12日(土)10:30~12:30
    場所:ガレリアかめおか 3階 会議室
    ゲストスピーカー:村田英克さん(JT生命誌研究館 スタッフ)
    コーディネーター:亀田博さん
    参加者:12名

    今回のタイトル:曲『胡蝶』と生命誌研究館の「食草園」企画展

    コーディネーターの亀田さんの自己紹介から始まりました。

    サム:国際交流員のジード サムです。コロナで現在、交際交流の事業もないのでこれから、やれたらいいなと思っています。カナダ出身です。

    T・M:東つつじに東つつじにいましたが、現在は保津町に住んでいます。設計を仕事にしていますが、現在、レンタルスペースとして「保津浜TERRACE」を運営し、最近、ガラス工房の個展をしていた時に児嶋さんが来られ、ここに来ることになりました。その時に安詳小学校からつつじが丘小学校に校区変更をしたときに、いっしょに安詳小からつつじ小に移動に児嶋さんもいっしょに、教員として異動されたという事実も見つかりましたね。

    N・K:小学校教員をしていて、退職後ひまわり教室に関わるようになり、村田さんの前回のGSで話しに出ていた『セロ弾きのゴーシュ』を帰ってから見させてもらいました。今回もおもしろそうと思って参加しています。

    K・Y:ひまわり教室で読み聞かせを担当しています。今回のちらしを見て、いいなと思って参加しました。

    R・S:私もひまわりの指導者であり、前回の村田さんのGSにも参加しました。その時の、「ウイルスは生命体ではない」というのに驚き、今日も楽しみにしています。

    E・K:以前、市役所で女性相談員(カウンセラー)をしていました。今は美山町に住んでいてひとりぐらしをしています。ひまわりにも時々関わっています。自分の居るところには、虫・葉っぱ・木などがあり、地面の中にいる生きものもいますが、このごろは何かが変化しているなという感じがします。

    H・I:この間までガレリアで仕事をしていました。今は農業をしながら、次にすることを模索中です。田んぼも獣害(鹿や猪など)が大きいです。新しいウイルスが生まれても不思議ではないと思っています。村田さんのおられるJT生命誌館を訪問し、ウイルスの変化はあるのかなど聞いてみたいと思っています。

    S・O:前回も参加しました。JT生命誌館の前館長の中村桂子さんに会いたいなあと思っています。村田さんの小鼓の演奏も楽しみです。私も、昨日からですが、能を始めました。京都観世会館の林さんが指導者です。

    M・F:Global Sessionには最初から参加しています。(1999年より) 前回にもありましたが、38億年前に人類が誕生したと聞きましたが、そのころ、ウイルスはいたのかなど興味があります。また、最近古代エジプト展に行ってきましたが、「生きものは海から生まれた」という言葉もあり、村田さんの言われていることと同じだなと思いました。明日はワクチンの接種をします。

    児嶋:今回のGSは、1999年に開始して今回は341回目になります。最初は月に一度ではなく、もっとやっていたのですが、大体は月に一度のペースですでにもう、20年以上過ぎました。

    亀田(コーディネーター):大津市から参加しています。毎回亀岡に来ていますが、ここには四季があるなあと思います。ツアーガイドが仕事ですが、今は直接の、海外交流ができなくて、メールなどのみにあり残念です。最近、BSテレビでは、いろいろな国の歴史などの特集がありますが、生命体などについても大きな昔の特集も放映されていますね。アマゾンの生命体はまたちがうとか、今はコロナで大変だったけれども、以前にもウイルスはあり、その細菌がどんどん強くなってきているとか。

    児嶋:ちょっと付け加えますが、亀岡市には1990年から96年までアメリカ大学日本校のシステム野中の、オクラホマ州立大学京都校(OSU-K)があり、OSU―Kの第1期卒業生が、井尻さんたちです。6期生ほどまでがいます。その後、OSU-Kの校舎は、亀岡国際センターに、そして交流活動センターに変わり、卒業した井尻さんと私は、それ以来ずっと停年までそこで仕事をしていました。2012年にそのセンターの業務はガレリアに吸収され、現在は交流会館として、いろいろな事業が展開されています。その後、OSUの造園建築学科の海外研修プログラムとして亀岡を拠点に毎年アメリカのOSUの学生と先生が来られ、そのガイドやOSUがあり姉妹都市であるオクラホマ州のStillwater市への訪問団体のツアーガイドなどを亀田さんにお願いして来たのです。そのようなつながりがあり、訪問団のひとりとして、藤田宗次さんなども行かれましたね。

    村田:(ようやく登場です。)このGSはどんどん話に入ってと言われていますのでどうぞ、入ってくださいね。今日で3回目のお話です。そもそもガレリアのジュニアワールドフェスタという催しで、確か日程の都合で中村桂子前館長の代役を務めたのがご縁の始まりで、その時も私は、子どもとの交流や異文化というテーマに関心があったので喜んで参りました。来てみると、児嶋さんから「JTってたばこをつくる会社でしょう? どうして生命のこととつながるの?」と聞かれ、改めて生命誌の活動をお伝えしたところ関心を持っていただき、胸を撫で下ろしました。フェスタの時は、ヒッポファミリークラブの方もいらして、亀岡の活動に更に関心が深まりました。私は子どもの頃、そのヒッポの前身となったラボパーティという、多言語でいろんな歌や遊びや劇などを楽しむ交流サークルに参加していて、いずれも多言語活動を提唱した榊原陽さんの創設ですね。その頃に体得した、言語とは頭で理解するものでなく、身体ぜんぶで出したり入れたりするものという感覚は、私の中でずっと生きていて、今の仕事にも重なる気がしています。

    80年代から90年代にかけて、エデュテイメントという言葉がありました。純粋な娯楽でなくどこかで学習につながるようなコンテンツの市場というものが成立してきたのですが、私はそうした多ジャンルの映像やPCソフト(今のようにNetは普及していませんでした)、更には教材テキストを編集、制作する仕事をしており、1993年に創立した生命誌研究館の展示映像の仕事を受注したことが、今につながりました。中村桂子館長が提唱する生命誌研究館という構想に驚き、関心をもって仕事をしているうちに館のメンバーとなる機会があり、今は「表現を通して生きものを考えるセクター」のチーフとして、若いスタッフと一緒に、生きもの研究の面白さをみなさんに伝える展示や映像やネット、催しなどに携わっています。

    今日のタイトルは、「謡曲『胡蝶』と生命誌研究館の食草園企画展」です。研究館の屋上に、チョウが花の蜜を吸い、その幼虫が食べる葉を茂らす花壇があり、これを食草園と呼んでいます。チョウのためのレストラン、英語では” nursery for butterfly”です。チョウは種によって幼虫の食べる植物が決まっています。利用する植物を棲み分けているのです。どのような進化過程を経てこのような昆虫と植物の関係が生まれてきたのかを探る館内の研究を紹介する庭ですが、この食草園を糸口にさまざまな昆虫と植物の関わりを考える企画展示を現在準備中で、今日はそのエピソードを通して、最近の研究館の表現についてお話しさせていただきます。「胡蝶」はちょうど今、私が能の小鼓でお稽古している課題曲です。研究館の課題と能の課題とが、偶然にも重なって私の中では一体化しているので、今日はそんなお話しです。

    研究館の表現では、生きもの研究(科学)を伝えることになりますが、基本は、「言葉」だとつくづく思います。国によって異なる人間の言葉も、生きものの多様化のように、それぞれの気候や風土に培われたものですね。言葉には書き言葉(written)と話し言葉(spoken)とありますが、私はオーラル(oral)な言葉に強く惹かれます。

    <声>、<自ら発する言葉>には力があります。<声>というものが<文化>の原点かと思います。「古事記」の成立過程がそうですね。稗田阿礼が誦習した口承の歴史物語を太安万侶が筆録し、それが後の世に伝えられた。今、家では10歳、5歳、2歳の男児がわいわいやっていますが、この子たちの発達を見ていても、自分から言う(能動的な主体として声や言葉を発する)ということが、自ら周囲を(大げさに言えば世界を)変えていくとわかってやっていますね。そういう発露によって前のめりに言葉を獲得していく、毎日、見ていて面白いです。

    「百蝶図」円山応挙

    これから企画展「食草園が誘う昆虫と植物のかけひきの妙」のお話に入りますが、話の枕に一枚の絵を、これは江戸時代の円山応挙の「百蝶図」です。以前、生命誌の本でも紹介したものですが、応挙は「写生」、「生き写す」ということを追求した絵師で、本当に自然をよく観察していることがわかります。ここに描かれた蝶はもちろん、植物も、蝶と縁の深い食草がたくさん描かれています。

    「応挙は亀岡の人ですよ」と声がかかりました。「ええっ?」「知らなかったのですか?ええっ?」

    ※続いて、謡曲「胡蝶」の紹介とその一部の謡と小鼓の実演。

    ※「胡蝶」は、旅僧の前に現れた蝶の霊魂が梅の花に縁のないことを嘆き、歌い舞う曲。

    ※「胡蝶」演奏に続き、食草園の植物と、蝶の動画を見ながら、蝶と食草の縁の話し。

    食草園の吸蜜植物はランタナやアザミが蝶に人気です。食草は、どれも皆さんよくご存知の植物です。ススキはセセリチョウ、萩やネムノキはキチョウ、シロツメクサやレンゲはモンキチョウ、スミレ、ギシギシ、カタバミ、カラムシ他にも、皆、蝶にとっては大事な食草です。

    季刊「生命誌」105号の表紙は、食草園で卵を産むジャコウアゲハ、葉はウマノスズクサです。106号の表紙は、チョウと食草のネットワーク図。インターネットで公開しています。チョウと食草の関係を調べることができますよ。チョウと食草という関係の他にも、昆虫は様々な形で植物を利用します。そして植物も黙って利用されているわけでなく、色や匂いで昆虫を誘い利用しています。企画展「食草園が誘う昆虫と植物のかけひきの妙」は、館の研究と最近の季刊誌で取材した昆虫と植物の関わりを探る研究を集めて、両者の果てしないせめぎ合いの世界を描きます。今日のお話しの色々なトピックスは、HPでも読める以下の季刊誌に詳細があります。話を思い出しながら、更に深く記事を楽しんでいただけましたら幸いです。そして研究館にも、是非是非ご来館ください。7月から日曜日も開館しています。

    ※当日ご紹介した資料です(HPでご覧になれます)。

    ●季刊生命誌105号:https://www.brh.co.jp/publication/journal/105/

    ・「自然と人工の調和する場」大倉源次郎(能楽囃子方大倉流16世宗家)×中村桂子

    ・「昼と夜を分けた鱗翅目昆虫の進化」河原章人(フロリダ大学)

    ・「植物の遺伝子を巧みに操る虫こぶ形成のしくみ」平野朋子(京都府立大学)

    ●季刊生命誌106号:https://www.brh.co.jp/publication/journal/106/

    ・「風土に染まる蟲と言葉」奥本大三郎(ファーブル昆虫館)×永田和宏

    ・「ナミアゲハの生活を支える視覚情報」木下充代(総合研究大学院大学)

    ・「植物の匂いが結ぶ植食者と寄生バチの関係」塩尻かおり(龍谷大学農学部)

    ●企画展「食草園が誘う昆虫と植物のかけひきの妙」7/3 〜 11/28

    グローバルセッション開始

    児嶋:最近、テレビの番組で、鳥たちがそれぞれの鳴き方をしながら、緊急事態の場合は、相互に理解できるようで、四十雀が「はげたかが飛んで来るぞ。あぶない」と叫ぶと、鳩も理解して逃げるとか。それは、互いの鳥の中の多言語を理解できるということを実験で証明したという内容でした。

    村田:鳥のコミュニケーションもすごいですね。同種族の個体間で伝達し合うサインを、横から見ている異種にとってもメリットがあればうまく利用する。生きていくためには何でも使っちゃうわけですね。鳥の脳を調べると、私たち哺乳類の脳のような層構造とは違う形で高度な機能分担がされているという研究もありました。

    亀田:鳥は、人間を覚えてしまうようで、よく襲われる人は、そのカラスに覚えられてしまっているようです。そして雨の降る日にカラスが電線に並んでいるが、感電はしないようです。マンションの桜の木にカラスが巣を作ったので、市の人に取ってくださいとお願いしたけれど、自然状態の場合は取れないと返答がありました。

    M・F:揚羽蝶の生態から、世界をどう見ているのかと興味があります。植物のにおいの意味は?

    亀田:科学番組で見ましたが、ウニは海の生きものだけれども、好物はキャベツとか。

    村田:それは知りませんでした。ウニとキャベツというのは、自然界では出会わない組み合わせですが、その機会を人間が作ったらたまたま利用できた。そうした例は他にもありますね。因みにキャベツを私たちが積極的に食用とするようになったのは、日本では近代以降で、江戸時代には観賞用だったようですね。

    植物の匂いということでは、今日、ご紹介した塩尻先生の研究で、葉をかじられたキャベツが、かじった芋虫の天敵のハチを呼ぶ時に、芋虫の種によってかじり方が違うんだそうで、キャベツはかじられ方の違いに応じて、発する匂い(化合物のブレンド)を変えて、芋虫の種に応じた天敵の蜂を呼ぶんだそうです。驚きですよね。

    N・K: 人間にもいろいろな性格の人がいますが、鳥やちょうちょもいろいろな性格があるんどえはないでしょうか?40年間亀岡に住んでいますが、自宅には毎年、ツバメが巣を作りにきます。それを見ていると、真面目で勤勉なツバメと不真面目なのがいるのではと思えます。子どもが卵からかえると、ツバメは、年に2回子育てをするのですが、餌を親が持ってきてやらなければなりません。ここ10年くらい、ふまじめなつがいが続いて自宅に来ていて、子どもが巣から落ちたり、もう一羽が来てけんかしたり、それを見ていると、ツバメもいろいろな個体がいるのだと感じました。

    大槻:科学が最近は発達しすぎていますが、生命体はこれから、どこへ進んでいくのでしょうか?

    村田:例えば、ある生きものが持つ遺伝情報に人間が手を加えて、その生きものが本来持っていなかった特徴を持たせる、というようなことをやっているわけです。植物に対して、動物に対して、さらにはヒトに対しても技術的にはそれができる。遺伝情報が変化するということ自体は、自然な現象です。しかし、遺伝情報に対する人間の目的的操作がどのような影響を及ぼすのか。いずれも生態系への影響、倫理面などの十分な検討が必要だとされています。

      ウイルスは、寄生した他の生物の細胞の働きを利用して増殖します。自己複製できないので「生きもの」とは言えないとされますが、地球上で多様な生物と関係し共存している。38億年前の生命誕生からずっとウイルスも続いているわけです。ウイルスの遺伝情報は少なく、増殖も速いので、変異型もいろいろ出てきます。ウイルスは寄生する、宿主あっての寄生者なので、あんまり強くなって宿主が滅んでしまってはウイルスも困る。ここにも今日のテーマの「かけひき」があるわけです。

    児嶋:朝に歩きながら、空を見上げて、「鳥はなぜとべるのだろうか」などと考えています。

    セッション終了

    児嶋:これでセッションがおわりというわけではなく、感想を児嶋までお送りください。レポートをもちろん書きますし、ゲストの村田さんにもお送りします。できるだけ忘れないうちに、1週間後の6月20日ころまでにお願いします。

    感想集

    K・Yさん:「多彩な顔を(息子さん達の父親としての様子も・・)見せて頂き、楽しく受講させて頂きました。小鼓と張りのある通る声に圧倒されました。そしてお話は面白く、あっと言う間に1時間半は過ぎてしまいました。蝶々は、家の小さな庭に良く来ていました。ヒラヒラと自由に飛び回っているだけ、と見ていた蝶々の動きの一つひとつに意味があり、今まで知らなかった豊かな世界に繋がっているのだと感動しました。また、憧れの絵師、円山応挙の「百蝶図」の説明も納得がいき、図を静かにじっくりと観たいと思っています。村田さんが、応挙が亀岡の出である事を知られた時の驚きを、嬉しい思いで見ていました。今後機会をみつけて「JT生命誌研究館」を訪れたくなり、また頂いた本「生命誌の思い」をチョイスしながら、読んでいこうと思っています。「虫こぶ」について興味がわき、もう少し知りたい思いもありましたが、とても良い勉強が出来たと嬉しく思っています。ありがとうございました。」

    S・Oさん:「生命を物語るとは、壮大である。というのが正直な感想でした。ミクロ(蝶や蜂などの世界)とマクロ(脈々と受け継がれてきた、生き物それぞれ)の両方に思いをはせることだと。人間の見えている世界など高々知れていて、蝶はどう世界を見ているか、そこに意識を向けるだけでも、命そのものに対して愛らしく思えてきます。まだまだ科学で説明がつかないことが多々あるから、世界は面白いと言える。今回も沢山の示唆を頂きました。また、生命誌の思い、なる書は抜群です。面白すぎます。中田力先生、大橋力先生、そして敬愛する松岡正剛さんもあって、ドキドキしながら読んでおります。本当にありがとうございました。」

    I・Hさん:「蝶の研究をされている村田さんのところで、以前に教えていただいた「蝶は前足で葉の味見をして、卵を産み付けるべき木を選んでいる」というのに驚きました。

    今回は、今まで気にしていなかった「蝶と蛾の違い」に納得しました。蝶は昼間の虫で、蛾は夜の虫であることや、蛾はコウモリのように超音波が出せると言うことに驚きました。

    また、虫こぶのことも知りませんでした。そのようなこぶは見たことはありましたが、単なる病気だと思っていました。ほかの生物と共生して生きる力を持つ昆虫は、なかなかしたたかですね。人間も同じように人や自然と共生をしなければうまく生きていけないのだと思いました。」

    T・Mさん:「6月のGSでは、素敵な時間をありがとうございました。保津浜TERRACEの松井です。元々、命や、世界全体の関係性などに、日常の環境として興味があります。個々のテーマを、科学として掘り下げる能力は無いのですが、多くの命が集まる環境が、自分の命、人生とどのようにつながっているのか?という肌感覚の興味です。飽き性の私が、35年ほど建築を続けてこれているのも、人の日常の生活の場としての空間に、様々な時空をつなげていく力のようなものを感じるからかも知れません。自然と、関係性、多様性へと興味が向かいます。様々なことを、単純化してわかりやすくすることに違和感があり複雑な状態の中に、何かを発見することに喜びを感じたりもします。ただ、よく理解していただきにくいのが難点です。幼少の頃、亀岡の原っぱの茂みの中で、一日中、虫を追いかけていました。一見、均質で一つながりに見える場所に、様々な居場所が多様な生き物と共にあるという感覚が、肌に合います。お越しいただいた、保津浜TERRACEは、初めて自分達のために作った空間であり、そのあたりが、かなり純粋に出ているのではと思っています。

    自然の多様なフィールドの中での、昆虫と植物の関係性、騙し合い。それらが織り込まれた生態系の豊饒さにつながる具体のイメージに、奥深さを感じました。また、いただいた「生命誌の想い」拝読致しました。生命とは何か? なぜ生命というものは生まれたのか? その発生に必要性はあったのか?現在の私たちが生きる世界・宇宙が、現象として、どのような状態にあるか?ということは、様々な観察や研究からなんとなくはわかる気はします。でも、なぜそのようなことになったのか?なっているのか?という根本の疑問の答えには長年、出会っていません。ひょっとしたら、この本のどこかに・・一気に読ませていただきました。一番、興味の感覚に近かったのは、佐藤勝彦先生との対話でしょうか。小さなものが一気に広がる時のゆらぎが、様々な多様な生命を生み出し続ける源。でも、それなら、それらを包み込み込む宇宙は、なぜ・・と考えてしまう自分がいます。  そこに特別な意味は無く、多くの多様な状況の中のひとつ。そこに意味を求めるのは、ナンセンスで不可能。不思議としてあるべきだ。という、いつもの場所に戻った感じでもあります。きっと、目の前の日常に起こることと対峙していくしかない。

    テラスの2階から亀岡の山河をながめ、そこに村田先生の鼓の音を響かせながら・・」

    グローバルセッションイメージ

    開催日:2021年5月22日(土)10:30~12:30
    場所:ゲストハウス藤原
    ゲストスピーカー:北神圭朗さん
    コーディネーター:藤田宗次さん
    参加者:11名

    今回のタイトル:「多文化共生社会時代の子育てとは」

    藤田さんのコーディネートで参加者それぞれの自己紹介から始まりました。

    藤田(C):ゲストの紹介を私からさせていただくと、9ヶ月でアメリカにご家族と渡り、朝日学園という日本語学校で学ばれたのですね。ロサンジェルスにもいくつかあり、サンタモニカにも。

    北神:よくご存じですね。

    藤田:調べました。そして、大学は京都大学を出られ、本省に入り、2002年に退官され、政治家になられたのですね。では、みなさんのご紹介をどうぞ。

    ET: GSに来始めてから7年目になります。コロナであまり人と話していなかったので、今日は幸せです。

    TY:ひまわり教室で指導をしています。子どもたちといっしょに活動するのが楽しみです。

    KY:ひまわり馬路教室で読み聞かせを担当しています。GSは何回目かです。今日は北神さんの話はおもしろいよと児嶋さんに聞いて楽しみにして来ました。

    RS:ひまわり教室の指導をしています。今はお母さんが中国人でお父さんは日本人の子どもさんの学習支援をしています。両方の文化をどう思っているのかとか、自分は何者と思っているのかなど気になります。それと、学習の伸びが心配で、北神さんのお話しは2回目になりますが、同じような体験をされたので、お話しが楽しみで来ました。

    藤田:並河に住んでいます。東映映画撮影所や映画村で仕事をしていました。仕事をしているときには、英語が話せたので、アメリカのテーマパークなどでどのようなイベントが人気があるかなど調査にも行きました。アメリカでバスに乗ると「荷物をおいて行ってはだめ」とか、チップ社会であるとか、いろいろなちがう文化があると言うことに気づきました。このGlobal Sessionは、もっと語学をやりたいと思い、最初から参加しています。

    KA:私は八幡市から来ています。日本語ボランティアをしていて、八幡市には学習者が100名ほどいて、指導者は、40名ほどいます。5つの教室がありますが、今はコロナ禍で、開放時間が半分くらいになっていて、7月には日本語能力試験があるので、大丈夫かなと心配です。宣言が解除になれば、6月にできれば何とか間に合うかなとも思っていますが。GSには、ガレリアで有った時に一度参加したことがあります。児嶋さんとは、川柳と短歌の友達です。(朝日新聞京都版の投稿友達)

    HK :私は大津から来ています。Global Sessionは、最近は毎月参加しています。仕事は、ツアーガイドをしています。外国へ連れていったり、ニュージーランドやアメリカからの高校生の旅行の受け入れなどもしています。日米の高校生を見ていると、考え方や習慣のちがいに気づきます。アメリカの高校生は、自主・独立性があり、はっきりしています。また、大統領が替わると自分達の生活も変わると知っているようです。日本の学生はあまり、政治に関心がないように見えます。

    YI:亀岡のアミティとマツモト中央店の間にあるカフェタイムというコーヒー豆店をしています。仕事でコーヒー生産国に行くこともよくあります。京都にいるとあまり近くの人とつながりがなくてもやっていける感じですが、亀岡にいると、内輪のつながりを持たなくてはいけないような雰囲気がありますね。中米などは、銃規制もゆるい国もあり、なかなか危ないこともありますが、私は、どこの人も根本は同じと思っています。日本の女性評論家が最近、「日本人がそんなひどいことをするわけありません」などと言っていましたが、どうしてそんなことを言えるのかと不思議に思います。

    グローバルセッション開始

    北神:GSは、二回目です。「アラビアのローレンス」という映画を見たことはありますか?第一次世界大戦で英米がトルコに入り込んで、ローレンスも知恵の7柱というのを述べ、「2つの文化、2つの言語を通して生きる人間は気が狂ってしまう」と言っています。そのような2つの文化を見てみると、日本で当たり前と思うことが、アメリカでは、失礼なことと思われたり、全く反対な事になることもあります。糸井さんが言われたように、文化をはぎとれば、共通することも多いと思いますが。でも普通は過去からの文化の蓄積が身についていて、全くちがう文化に入ると自分の軸というものを持たなければ根無し草になると思います。

    京都にいても、松尾地域と樫原地域は仲が悪いとか、せまく考えるとそうなってしまいます。自分の軸を持ちながら、排他的にならずに心の広さを合わせて持たなければ外国には住めないと思います。

    父親は、私が9ヶ月の時にアメリカで事業を立ち上げました。昭和42年頃ですから、まだ第2次大戦後の人種差別も経験していたと思います。螺子やボルト、ナットなどを日本から輸入し、問屋に売るというような仕事をしていました。これは、ユダヤ人の業界があり、拳銃を向けられたこともあるようです。その父からは、「おまえは日本人やで。移民ではないし、いづれ、日本に帰る」と言われて育ちました。

    アメリカに住む家族にもいろいろな家族があり、家でも英語を話すよう言っている人たちも、もちろんいました。アメリカになじんでほしいと うちの家では、家での言語は日本語を話すようスパルタで指導され、英語を話すとげんこつが飛んで来るくらいでした。でも、兄弟とは、英語で話していました。もし、朝日学園の補習校に行っていなかったら、日本の大学には行けなかったと思います。クリスマスよりも正月が重視され、母は他の家族のようにクリスマスをやりたいと言っていましたが、できず、簡単なプレゼントの交換だけがクリスマスの行事でした。アメリカではクリスマスが、家族中心の大きな行事でしたが。うちでは、その代わりに正月が重視され、母におせち料理作を父は強制していました。アメリカでは、当時日系人も4世くらいがいましたが、文化的には、日本でもアメリカでもない中途半端に見えることもありました。妹は、ひとりで高校生から日本に帰国し、ICUに行きました。

    アメリカ人にとっては半分異邦人

    自分は、9ヶ月からアメリカにいるので、アメリカ人と思っていました。最初はメキシカン街に住み、次は、日系人や中国系の多いモントレーパークに移り、最後は白人が多い、ブエナパークに住んでいました。 学校時代は友達とのつながりが中心の生活でした。学校では、アメリカ国旗に忠誠心を誓い、教科書の中でも、アメリカはすばらしい、自由の国と教わっていました。遊びに来たアメリカ人の友人達は、「日本人なのに、冷蔵庫がある」などと驚いたりしていました。基本的に他の国には、無知識で、アメリカは巨大な島かという感じでした。正月には、正座して今年の抱負を言えと言われる家に育った私には、何かが奇異に見え、小さいころから葛藤がありました。

    アメリカの高校生は政治意識が高く、当時はレーガン大統領の時代で、青年部(レーガンユース)などが出来てきた時代でした。そのため、自分はアメリカ魂か日本魂かと常につきつけられているようで、自分自身のアイデンティが確立しにくい感じがしていて、「おれはアメリカ人か?」と悩んでいました。

    差別意識ももちろんあり、親しくしていた友人が、「日本人のせいで、俺の親父が仕事を無くした」と言うのです。それは、日本がコピーしてクライスラーの製品が売れなくなり、会社から人員整理をされた」と私に向けて言うのです。

    家族の基盤が大切と思い始めたのはそのころで、ようやく高校生になって日本人学校が楽しくなって来ました。母国に戻って生活してみたいと思うようになったのもその頃です。軸がないと、アメリカ人にも、日本人にもなれないと思い始めました。

    いろいろな人種と付き合っていくと、「宗教は?」とか、いろいろ問われます。日本の文化の「おもてなし」などは、アメリカ人には、「めんどうくさい」とか、「放っておいてくれ」とか思う人も多く、ちがいがあります。

    日本語の勉強

    週に1回の補習校通いでは、まだまだ十分ではなく、1年間浪人生活もしました。その間、父からは、「おまえの力は、中学校程度だ」とも言われ、どのように勉強するかいろいろ考えて、1冊の本を徹底的に読み込み、それを書き写すということをやりました。

    その中のひとつの語彙がわからなければ、辞書で調べ、一日10時間から、12時間ほど集中して勉強をしました。漢和辞典の「てへん」は、辞書の394ページというくらい、覚え込んでやっていました。読み書きはだんだんできるようになったのですが、自分の話し方が固く、話しているのに、いろいろな難しい語彙も出て来て、「文語的だ」とさえ、言われました。政治家の前原誠司さんは、「君は当時、自分のことを拙者はなんて言っていたよ。」などと冗談で言うくらいです。

    日本語の難しさは語彙が多いからとよく言われますが、実は英語も語彙はとても多いのです。私は、日本語の難しさは、以心伝心に頼る話し方をするからだと思います。もともと日本語は、同じ境遇に生まれ、育った人間の集まりというのが基本なのですが、アメリカは、ちがうのが当たり前で、まず、基本を出さなければ理解されないというのが基本の考え方です。以上が今回の私の意見です。

    全体セッション開始

    藤田(コーディネーター):剣道も3段とお聞きしかしたが、アメリカにいたときからやっていたのですか?

    北神:いいえ、日本に来てから4年間で取りました。アメリカでは身体が大きいこともあり、アメフトに誘われ、やっていました。 日本語の学習を集中してやったおかげで、「努力とかこういうことか」と理解しました。 何かを身につける努力の仕方を学んだと思います。

    藤田:野田内閣の時に、野田さんは、国会議員の数を減らすなら衆議院を解散しても良いといい、解散しましたが、当時北神さんも仕事をされていましたね。

    北神:当時私は、首相補佐官をしていました。

    藤田:野田さんは人がいいのか、解散しても、安倍首相は約束を守りませんでしたね。

    YI:アメリカ人は、差別についてまじめに取り組んでいる人もいますね。差別的なことばを最近は言い換えています。黒人をblackとは、言わずに「アフリカンアメリカン」と言ったり、メーリークリスマスと言わずに、ユダヤ人も多いのでキリスト教のクリスマスとは言わずに、「Happy Holiday」と言い換えたり。「チェアマン」を「チェアパーソン」になど。

    日本の政治家は、今でも顔や身体の形に言及したり平気で言っていますが。でも、政治的に正しくてもいきすぎると話しずらくもなりますが。トランプ大統領になって、差別的な言動を連発し、それによって反動的な人々は乗っていくのがストレス解消しているようにも見えます。

    北神:黒人は奴隷でアメリカ大陸に連れてこられたと言う歴史があり、そうでなかったアジア系の人々を黒人は憎いと思っているような。

    YI:コーヒーの買い付けでアフリカに行くと、荷物係でもアジア系に対してえらそうな態度を取ることがあります。もともと、外国から来る人に厳しい政策をとっていた歴史があるからでしょうか。

    KA:トランプになびくように、独裁政権が増えて来ました。バイデンさんが勝ってブレーキがかかるかと思いますが、シリアとイスラエルのように闘いがひどくなってきたりもしています。世界の流れはどうなるのでしょうか?

    北神:独裁国家にも2つの種類があると思います。一つは、中国やロシアのように、自分の任期を長くしてでも独裁を保つ国家ともう一つは、トランプのように民主主義国家を自称しながら、独裁体制を選ぶような国家です。格差が広がると、ガツーンと強制的にまとめてほしいという願う人が増えて来ます。日本でも小泉さんや安倍政権のころから出て来ました。今は、コロナでますます格差が広がっています。ギリシャのアリストテレスは、「格差が広がると乱れる」と言い当てています。中国の存在も無視できません。独裁者の方がコロナを退治してくれるというような思い込みを持たせる傾向があります。経済状態も、数年でアメリカを追い抜くでしょう。こうなると、民主主義国家と言われる所でも、「独裁政権の方がいいのではないか?」と思う人が増えてきています。

    児嶋:ひまわり教室に話を戻しますと、言語の習得についての課題もたくさんありますが、保護者の方もいろいろな人がいて課題もたくさんあります。北神さんは英語社会に生きてきて、日本語を学ぶこともやって来られましたね。

    北神:外国にいて親の母国語を学ぶには、親の理解がないと難しいです。私も小学生から高校まで土曜日に補習校に通いましたが、自宅からバスに揺られて朝早くから通い、8:30から5:00までも土曜日の遊びたい盛りに行くわけで、いやでたまらなかったのですが、親がどうしても行けというので、通っていたのですが。

    TY:苦痛とかなかったのでしょうか?ひまわり教室でも、子どもが来ないというと親もその通りにして来なくなる子どもたちもいます。

    北神:子ども達にも2つのタイプがありました。一つは、ずっとアメリカにいる子どもたちと、商社勤務の親といっしょに来て、数年で日本に帰国することが明白な子どもたちといます。 私は、帰るつもりはない方だったのですが、補習校へ行くのがいやでいやで、その苦痛でストレスになり知らない間に毛をを抜いていたようです。大きな  はげのようなものができていました。でも高校に入学するまでは、日本に帰るなどとは全く思っていませんでした。日本の昭和40年代の文化をアメリカに移していたので、実際の日本とはずれていたはずです。保護者の授業参観で母親が補習校に来ると、「もうここへ来るのはやめたらどうですか?」と先生に言われていたようです。 そのようにして小学1年から高校生まで行っていました。今は、親が、子どもに「こうしなさい」などとは言わないと思いますが。

    TY:でも親の姿勢が大切ですね。3年生や4年生の子が文法につまずくと、応用問題の理解はなかなか難しいですから。家庭の中でどのように勉強に目を迎えるかも大切です。

    児嶋:ひまわり教室でも子どもが母親が通訳のようにしていて、その母親が来なければ来るのがいやと言ったら、そのまま受け入れるケースがありました。

    藤田:トランプさんは、コロナがアメリカで広まった時に、「予算として1兆円ほどつけるから薬を開発せよ」とすぐ言いました。Warp Speed(ワープスピード:急速)でという単語も言っていました。日本の安倍さんは、「薬は打ち終わるよ」と言いながら、予算化もせずに、Go to travelなどもやり、日本の政治家の判断はまちがっているのではないかと思います。学術会議などの問題もありましたし。

    北神:アメリカが1兆円と言っていた頃、100億円ほどを考えていたと思います。それに、日頃からアメリカはワクチンにお金を入れることを考えていて、バイオテクノロジーを他の国に売ろうとしていました。そのために、ワクチンも早くに承認ができたのだと思います。2001年にサーズがはやった時にコラナのような新種のウイルスが発生する可能性は実は、想定されていたと思います。

    藤田:早く政治家は認識してほしいです。

    北神:安倍さんも管さんも、そんなにコロナはたいしたことはないだろう。風邪と同じでインフルエンザは毎年もっと死んでいるなど最初に言っていましたね。それより経済を回そうとGo To イベントなどもやっていたと思います。オリンピックがあっても。

    藤田:最近はよくわからないことも多く、テレビを見ているだけで腹が立つことが多いです。

    北神:コロナ対策をしながら経済を回そうとしたスエーデンは失敗して方向転換をしましたね。コロナを撲滅したら経済は伸びるとようやく気づいて来ました。英国は訓練を受ければ注射ができる制度を入れて、ワクチン接種を進めました。危機感がちがうと思います。

    藤田:今は経済も後退していますね。ワクチン製造にもお金を出してこなかったし。

    YI:ひとりひとりの命を軽く見ていると思います。オリンピックをこの状況の日本で開催するとまだ言っていますね。

    北神:先ほどワープスピード(超高速)という言葉が出てきましたが、日本は準備不足が見えますね。注射をたくさんするにも、医師法を改正してもっと注射を打てる人を多くしなければならないのですが。ベッド数では、実は日本は世界一です。法律が危機の時を想定していないという状況があります。

    児嶋:ドイツのフランクフルトにいる友人から聞いていますが、戒厳令下といっても状況は全くちがいます。これが出されているときには、2人以上で出かけても逮捕される時期もありましたね。

    北神:「これくらいしてもたいしたことないだろう」と思うことは人災でもありますね。

    藤田:これで、12時畔近くにもなりましたので、今日はこれくらいで終わりです。ありがとうございました。

    児嶋:感想や質問があれば、送ってください。レポートを仕上げ、北神さんにもお送りしますのでよろしくお願いします。

    感想集

    TYさん:北神圭朗さんのお話を初めて聞かせて頂きました。これまで、政治的な関わりは苦手でした。でも児嶋さんからお聞きしていた通り、分かりやすく、面白く、興味深かく、まるで映像を観ているかの様でした。幅広い経験をされているので、説得力と深みを感じました。政治に対して「信頼を軸」とした政治家を、北神圭朗さんに見出せた気持ちです。貴重な時間を与えて下さり、ありがとうございました。

    TYさん:ご家族でアメリカに移住し、父親の仕事の関係で何度も引っ越しされ、18年間スゴされたとお聞きしました。アメリカでの生活はたいへんだったろうと実感しました。その体験は、現在、ひまわり教室に関わる子ども達の生活環境と同じところもあり、子ども達が軽々している差別、偏見、いじめ等を直接肌で受け止められた方のお話しが聞けてとても良かったです。特に、父親の「日本人としての誇りや考え方を持て」と言われたことが、北神さん自身を強く、たくましくさせたのでしょうね。(忍耐力と努力)

    やはり、子ども達は遅くからまた勉強に来るのがいやそうですが、いやいやでも、ひまわり教室に通うことの大切さを実感しました。北神さんのご本人の努力、考え方や日本人魂に感じられましたが。

    現在のひまわり教室の子どもたちの日本語に対する難しさは同感します。もっともっと教えて行きたいです。教室の保護者の方にも聞いてほしいです。

    また、政治、経済の話でも盛り上がっていました。米国、中国などとの日本の違いや、各国大統領の個性なども。コロナ対策に対する各国の取り組み方のちがいも出ていました。さまざまな意見交換の場なので、もっと時間がほしかったです。

    北神さんのような外国と対峙できる方が政治家としていてほしいです。活躍されることをのぞみます。本日はありがとうございました。(北神さんの忍耐力、努力、かざらないお話しに拍手!)

    藤田:国際的知識のある方、しかも政治もわかる方のSession hは最高です。本当に短い時間でしたが楽しかったです。もう少しお時間があればいいなぁと思います。感じ入ったのは、1冊の本を1日10~12時間かけて読みこみ、更には書き写した点、並大抵の努力ではできない。「努力は実を結び、愛に満ちた」社会になってほしいと祈ります。次にお会いできる日を楽しみにしております。 

    グローバルセッションイメージ

    開催日:2021年3月27日(土)10:30~12:30
    場所:ガレリア2階大広間
    ゲストスピーカー:品田井サフワンさん(サフィさん)・シリア出身・会社員
    コーディネーター:四方美智子さん
    参加者:13名

     今回のタイトル:APU(立命館アジア太平洋大学)時代からのわたし

    参加者自己紹介

    四方(コーディネーター)さん:GSの約束ごとは、「1,当てない 2.どこからでも自由にセッションに入ってよい。」です。

    サフィさん:まず、簡単な自己紹介をします。私の名前は、品田井サフワン(サフィ)で、シリア北部のアレッポの出身です。1978年7月24日生まれです。今日のタイトルに書いたAPUには、2001年4月に入学し、2005年3月に卒業しました。趣味は空手(沖縄剛柔流空手道)です。そのほかに、言語を学ぶことが好きで、アラビア語は母語ですが、英語、日本語、スペイン語(大学で)、ドイツ語とフランス語も少し。それに大分弁を話します。家族は妻と子ども2人です。

    四方(C)さん:教員を退職後も同じ仕事をしていましたが、この春ですべてをやめました。フリータイムはあちこち行きたいと思っていたのですが、今はどこにも行けないのです。

    K・Iさん:今日もお会いできて楽しいです。今回もいろいろ教えてほしいです。カラオケのコーディネーターをしていましたが、なかなかできません。実は私も立命館大卒です。

    サフィ:先輩ですね。

    H・Kさん:ヒロと呼んでください。ツアーコンダクターをしていますが、今は難しいです。琵琶湖畔の大津市に住んでいます。外国人も今は来ないので、フラストレーションが溜まっています。でも今年は多分まだ難しいと思います。オリンピックも難しいと思うし、来年の春以降は良くなるかな。

    四方(C)さん:英語を使う機会もないですしね。

    M・Fさん:亀岡在住です。映画会社に勤めていましたが、今も、NPO法人の京都映画クラブを作り、小学生の映画作りをしています。2.3人のスタッフ(カメラマン・ディレクター・レコーディングなど)と共に、短編映画を作っています。(京都市と草津市で)別のプログラムもあるので、月から金まで10時から4時までの仕事です。

    H・Tさん:絵本を作っています。ひまわり教室で滑川さんといっしょに絵本作りをしていて、サフィさんにも小さいころのお話しを聞き、絵本を作っています。息子も立命館を卒業し。今は大分で竹の専門の学校に行っています。別府にいます。

    N・Kさん:小学校教員を長くしたあと、ひまわり教室にお世話になり、行けないこともありましたが、これからも続けたいです。生け花も好きですし、外国のことも日本のことももっと知りたいと思っています。

    K・Yさん:ひまわり教室で読み聞かせを担当して5年目になります。かみしばいや絵本をたくさん読んで来て、新しい本が入るとうれしいです。その他に視覚障害を持つ人のための音訳の仕事もしています。それと、英語も勉強したくなり、始めました。

    E・Nさん:京都市内に住んでいます。中矢田教室のみなさんと絵本作りをしていますが、昨年は忙しくなりました。京都女子大で教えています。

    Y・Nさん:亀岡で生まれ育ちました。でも亀岡についてでも知らないことも多いなあと思っています。先ほどの方の京都女子大が母校ですが、当時は外国との関わりのある活動もしていました。小学校の教員を35年して退職しましたが、その後もひまわり教室や障害者施設などでボランティアをしています。趣味は、ピアノ、お茶、生け花などいろいろありますが、今一番はまっているのは、パッチワークです。

    M・Yさん:ちょっと緊張しています。60才まで中学校の教員をしていました。水墨画やスポーツが趣味です。ひまわり教室では、サフィさんの息子さんの大夢(たいむ)君が担当です。別名ちょろ君です。頭がいい子で新しいことにも挑戦して元気をもらっています。お父さんのサフィさんの話は2回目ですが、今日はちょろ君に会えず、残念です。

    児嶋:このGlobal Sessionは、私が勤務していた亀岡市交流活動センターで1999年に開始し、毎月1回の開催をして来ました。今回は339回目になり、20年を超えて続いていることをあらためて思います。

    R・さん(サフィさんの娘さん):安詳小学校の5年生です。絵をかくことが好きです。今やっていることは、バスケと習字です。

    グローバルセッション開始

    セッション開始: サフィさんの話から

    「Being Global」

     私がAPUに来る前と後を比較すると、まず、国際的になったと言えます。今日はこれから思いつきで話すので、いつでも質問などで入ってきてください。立命館大学のAPU(Asia Pacific University)と言う立命館アジア太平洋大学とはどんな大学か?

    Why APU?

     九州の大分県の別府にあり、2000年の創立で、私は、2001年に入学した第2期生です。 私は、シリア出身ですが、ここでいろいろな国の人と話したいと思って入りました。

    この大学の目的は、アジア・太平洋地域を発展させるための人材作りを目標とし、「自由」と「平和」を基本としています。

     私がいた当時のシリアは、外からの意見を聞ける機会があまりなく、政府がまちがった事を言ったとしても、比較して判断するという事ができない状況でした。

     APUでは、90カ国以上の国から学生が来ていて、全部英語での授業があり、意見を自由に言える場がありました。大学では、議論するスキルを作る事が目標とされ、どういうふうに説明したら、理解してもらえるか、相手の意見も認めながらですが。

    本日のゲストスピーカー サフィさん

    四方(C)さん:日本の教科書にも議論をしようとする学習単元があるのですが、日本の教育では、なかなか難しいですね。賛成意見と反対意見を聞き、聞き手に判断してもらうような感じで。

    サフィさん:日本語の授業もありましたが、思っていることを書くことや、単語がわからなくてもジェスチャーで議論をすることもありました。「まちがったらどうしよう」などと思う気持ちがだんだん少なくなり、これもAPUのおかげだろうと思っています。

    四方(C)さん:どうしてAPUに?

    サフィさん:なんでAPUに来たかですが、実はAPUを知ったのは全く偶然でした。

     高校生だった17才のころ、「留学したい」と思うようになりました。父母は反対でしたが、ひそかに思い続けていました。英語が使える大学がいいと、イギリス・アメリカ・オーストラリアなどの大学を見ていたのですが、学費が高く、無理だなと思っていました。いろんな大学に手紙を送り、案内状を集めていました。日本の大阪大学と東京大学にも送りましたが、日本語のパンフレットを送ってきただけでした。そのままシリアのアレッポ大学に入学し、その中の日本人の友人がAPUの案内状(英語ベースと日本語ベースとの2コースがある)を見せてくれました。ここに行くといろいろな国の人に会えることもわかりました。とてもこの大学は親切で、説明も何度もあり、一度は直接大学から電話ももらいました。留学生は試験というより、日本語で作文を書くことだけ要求され、JICAから来ていた日本人の友人が英会話をしながら、手伝ってくれました。将来、何をしたいかを書けと言われ、「母国と日本との架け橋になりたい」とたっぷり書いたら通りました。

    四方(C)さん:当時は日本をどんな国だと思っていたのですか?

    サフィさん:電化製品の優れた国だと思っていました。サンヨーの洗濯機とか、マツダの車とかたくさんありました。

    What is my input at APU?

    22,23才のころだったので、なんでも受け入れて新しいことに挑戦したいと思っていました。はじめての外国暮らしで家族とも離れ、アラビア語以外の暮らしも始めてでした。ある程度授業を英語で受けられるようになると、積極的にまちがいを恐れなくなりました。当時のTOEFLは600点くらいで、会話力の部分が少し低いという状況でした。(4年後の卒業時には、TOEFLは975点でした)

     実は、APUにいくことが決まってから、日本語を少し学び始めていました。飛行機で福岡空港に降り立ったとき、飛行機が遅れたためか、私を迎えるために待っていた人がいなかったのです。とにかく別府行きの拘束バスに乗り、駅に着くととにかく大学に行かなければと思ったのですが、だれも近くにいません。そこにひとりのおばちゃんがいて、バスターミナルに連れていってくれて、バスを止め、運賃も支払ってくれました。そしてようやくAPUに着いたのです。

     メディアセンターに行き、家族に連絡もしたのですが、その時もそこにいた人が英語で案内してくれました。

     APUの寮では、キッチンに行くといろいろな国の調味料の匂いがしました。なつかしい匂いもしたので近づくと前日、英語で案内してくれた人で、ヨルダン出身の人で共通言語はアラビア語だとわかりました。

     寮の中では、留学生同士で、いろいろな言語でいろいろな料理をしていました。

     その中で5人くらいのおしゃべりグループができて、毎日いっしょに座り、映画の話や議論もしました。韓国人・香港人・ハワイ(アメリカ)など。ひとつのテーマを取り上げ、いろいろな言語も使いながら話すのです。このような中でことばを頭の中でどのように覚えられるかを考えるようになりました。

     私は、今日本語で話していますが、アラビア語で考え、それを日本語に訳しているのではありません。はじめから日本語で考えています。

     APUでは、学生がやりたいことをやらせてくれました。サポートもあります。1年くらいで別の大学に留学するひともいました。私は、機械に興味があり、APUにロボット作の会の案内状が来たので、申し込むと大学が福岡までの交通費を出してくれたりもしました。サークル活動も始めましたが、最初は、日本に特化したことをやりたいと、茶道・生け花・和太鼓・空手などいろいろです。

     ホームシックにならないために一人にならないようにといろいろやり始めたのです。でも奨学金をもらっているので、成績を落とすことはまずいとサークル活動は空手だけにしぼるようになりましたが。APUでは「天空祭」や週単位のイベントがあり、ベトナムウイークとか、ラテンウイークなどもありました。私は、「空手ポンチ」を作り運営もしました。

    卒業式の写真:着物を着ています。

    卒業後:What is the Output?

    サフィさん : 独立した判断力を持てるようになった。国境で切れない競争力も。

    ネイティブに近い英語力(TOEFL975)・

    ビジネスができる日本語力+@:この+アルファの意味は、日本のテレビのバラエティ番組をみながら、堅い日本語におわらいの言葉を取り入れようとしました。最初の就職先は富士通でしたが、エレベーターにたくさん乗っていたときに知人と話したわたしの日本語が大分弁だったようで、大爆笑になり、それからいろいろな人が部署に訪ねてきて、たくさん友人ができました。

    自発的に行動するようになった:APUに来る前は、だれかに背をおしてもらわないとやらないタイプだったのに、ひとりでもやるという気力がつきました。

    全世界に広がる友達マップ:フェイスブックに「I’m in Soul」などと入れると、たちまち、「会おう」とか返ってきます。

    Words are still in my mind

     バランス:どこを一番大事にするのか?この間隔が大切と思います。空手もバランスが良くないときれいに見えません。

    児嶋:: サフィさんは、最初は富士通に就職したのですが、家族ができて家族との時間をもっと取りたいと別の仕事先を探したら、亀岡にあったので、亀岡に住むようになったのですね。

    サフィさん:そうです。機械関係の仕事をしていたので、夜中でも呼び出しがあったり、土日でも仕事に行かなければならなくなったりして、家族との時間がとても取るのが難しくなってきたのです。給料は四分の一減りましたが、今はこの方が幸せです。

     信頼は、リーダーシップの秘訣:信頼をすることで着いてきてくれるひとが多いです。

     WE CAN DO IT:これは、APUの入学式の終わりに聞いた言葉で、卒業式には卒業生がみな、これを叫びながら、ぼうしを投げるのです。みんな自信を持てて。

     国境は頭の中だけ:国境は紙の上だけの話です。自分へのメッセージでもあり、あなたはこの世界の一員であり、世界を変える力がある。その力を使うか使わないかはあなた次第であるという意味です。

    四方(C)さん:もし、若ければAPUに行きたいです。

    児嶋:行けますよ。私も停年退職後、60才で立命館の大学院に入りましたよ。

    サフィさん:ボーダーは自分で作っているのでしょうね。APUもいろいろな世代がいますよ。

    四方(C)さん:別府温泉は行きましたか?

    サフィさん:コミュニティ温泉があり、無料なんです。

    四方(C)さん:ここにも何カ国語かを話す人が何人かいます。外国語の2か国語目は楽ですね。

    サフィさん:APUでは、最初は英語だけを話していましたが、日本語を学びだしてあまり難しいと思わなかったですね。スペイン語も好きで、母音がはっきりしていて。夢の中で、みんなそれぞれの言語を話しているのに、その下に字幕がついているのを見た覚えがあります。

    四方(C)さん:ひまわり教室の先生達も聞いてみたいと思いますが、子どもさんを何語で育てるかに迷いはないのですか?

    サフィさん:迷いました。今も迷っています。日本語が普通に話せるようになってほしいのは一番ですが、では、アラビア語や英語はどのようにこの子ども達に教えていくべきか、考えています。家では、アラビア語で聞いたら、アラビア語で返事をするように指導をしています。

    四方(C)さん:娘さんや息子さんは、「学習言語」としての日本語が身についてきていたらいいですね。

    サフィさん:どの言語を話しているかをいつか自分で区別できるようになってほしいと思っています。

    Y・Nさん:質問ですが、空手を選んだ理由をお聞きしたいと思います。日本文化の中のひとつですが、それには、男尊女卑など因習もありますね。

    サフィさん:空手の先生はアメリカ人でもっている力を分け与えるという考えで教えてもらいました。

    12:30を過ぎました。あとは、各自で質問と言うことで、一応散会しました。

    感想集はこのあとに。 

     参加者の皆さんから、終了後の感想をメールで頂き来ました。

    K・Iさん

    「サフィさんのGSは、2020年6月に続いて2度目ですが、今回も実に興味津々でした。

    〇 Being Global 国際人として活きる!そのために

      ①沖縄空手道 同意です。健全な精神は、健全な身体に宿る。

      ②世界で生きられる能力を持つ。知識に裏打ちされた技術を持つ。

      ③言葉のシャワーを浴びる。   debate 

     {いいなー!}当たり前なのですが、堂々と正論をしかもゆっくり丁寧に言われると実にストレートに入ってきます。

    思いかえせば、ほぼ50年前に立命館の入学式で、末川学長が言われていました。「コギト エルゴ スン」だったかな??[我思う 故に 我あり」=カントの言

    ところが、時は高度成長の真っ只中 さしたる努力もなく職を得、伴侶もしかり。

    今になって後悔しています。しまったしまった島倉千代子 こまった困ったこまどり姉妹 なんてね!

    そこで サフィさんにお願いです。今度は、GSを小中学生対象に一度お願いいしたいのですが!ぜひよろしくお願いします。」

    H・Tさん

     興味深いお話で、時間があっという間でした。誰かに伝えたくなるようなエピソードがたくさんあり、帰って夫に話し、別府に住む息子にメールし、今週実家に行った時には母にも話そうと思っています。サフィーさんのおかげで、シリアに関する本や新聞記事やテレビ番組に興味を持って見るようになりました。ありがとうございました。

    E・Nさん

    「サフィ―さんのお子さんたちのことばの教育についての質問があったと思います。二人のお子さんにとって親から受け継ぐ言語=アラビア語についての質問でした。これまでは子どもたちのもう一つの言語と文化に関する、このような議論はあまりなかったように思います。日本語と学校での学習のことが主に話されていたと。みなさんが子どもたちと親御さんたちのことを広く深く理解する視点をもつようになったのではないかと大変うれしく思いました。」

    N・Kさん

    「お話をありがとうございました。まず、流暢な日本語に驚きました。日本語をほとんど知らない状態で来られたとのこと、言葉の習得だけでも、どれほどの頑張りがあったのだろうと思いました。

    シリアから世界を視野に情報を集めて大学を選び、奨学金を得て学びの道をつかみとるという逞しさ。大学で世界の国々の人達と知り合い、学び合うことを楽しみかつ吸収する力強さ。国境を越える活動をする自信。素晴らしいなあと思いました。ぽろりともらされた「奨学金を貰うためには頑張らないといけない」という言葉は、一見明るいことばかりに見えるお話の裏にある、人知れぬ頑張りを感じさせるようでした。

    新聞などで知るシリアは政情不安定で危険な国というイメージになりがちですが、こんなにしっかりと学び活躍しておられるサフィーさんのお話を聞いて、世界の本当の姿をもっと知りたいと思いました。そして私も、自分なりに日々学び成長する自分でいたいと思いました。

    ありがとうございました。」

    Y・Nさん

    「品田井サフワンさんに「APU時代からのわたし」をテーマに・なぜ、日本に留学されたのか・どんな大学時代を過ごされたのかをお聞きしました。   『あなたはこの世界の一番、あなたはこの世界を変える力がある。この力を使うか、使わないか あなたしだい。』この言葉通り、自力で考え、できるまで追究されてこられた生き方に感動しました。日本文化を追究されてきたことで質問させて頂きましたが、封建制度から成り立ってきた本国においては、日本文化の伝承に底深く残っている主従の考え方の理解を意味していました。私自身、生け花、茶道の世界に10歳ごろから親しんでいました。その中で日本文化の根底に残る流派等の考え方に疑問を感じていました。でも、この考え方を尊重すること・尊敬することなのですね。今でもうまく表現できないことをお許しください。

    M・Yさん

    WHY APU? 

    自国にいたときには、小さな国でまちがえた考えを持っていても、比較する手段がなかった。

     APUでは、*意見が自由に言える。*まちがっていれば直すことができる。

    *英語で考える大学を希望した。

     (ここでは、世界の人たちと話ができるのかな?)

    まとめ 

    シリア独特の社会や家庭で育てられたのでしょう。自分の考えや思いに対して自由がほしかったのではないでしょうか?この条件を満たしている大学がAPUだったのです。

     入学が決まると、新鮮な気持ちで日本語を始め、何事にも興味を持って挑戦したいという気持ちが強かったようです。APUでの青春時代は、他国の人々との出会いを大切にしながら、その中においても日本の文化の中の4つ(空手道・茶道・生け花・和太鼓)をホームシックにかからないために励みました。「この気持ちは母国を離れて生活をした者しかわからないと思います:サフィ」

     学生時代には、日常使っている言葉のみではなく、バラエティ番組に出てくることば等を研究し、卒業後のビジネスができる日本語力を高められました。このようにサフィさんは、色々バランス良く考えやいろいろ体験され、自分の将来への道を切り開いて行かれました。(まさに、生きる力ですよね。すごい!)

     そして、晴れて学位授与式には、和服姿で出席されました。そして、サフィさんは、「国境は頭の中のみで、自発的に行動すれば、大きな国境としての壁はないと思います」とも言われています。

    WE CAN DO IT:

     自分でできると信じ、確実に実現されていったのです。尊敬します。

      最後にサフィさんからのメッセージを3つ。

    • あなたは世界の一員である。
    • あなたはこの世界を変える力がある。
    • この力を使うか使わないかはあなた次第だ。

    終始、明るい表情で、着飾ることもなく、楽しくお話しをしていただきました。ありがとうございました。

    グローバルセッションイメージ

    開催日:2021年3月27日(土)13:30~15:30
    場所:ガレリア2階大広間
    ゲストスピーカー:崎 ミチ アンさん(同志社女子大学表象文化学部 英語英文学科 教員・カナダ出身)
    コーディネーター:四方美智子さん
    参加者:13名

     今回のタイトル:「多文化共生社会時代の子育てとは」

    This global session will be interactive in that all session attendees will share their thoughts, experiences and opinions about the topic of raising children in a multicultural Japan.

    Topics and questions for discussion:

    What does “multicultural co-existence” mean in the Japanese social context?

    Multicultural co-existence in Japan: the past and present

    Trends and Challenges of raising children multiculturally and multilingually in Japan (issues at home, at daycare/school, medical facilities, public facilities, etc.)

    How can we try to better co-exist multiculturally in Japan?

    (日本語訳:﨑 ミチ アンさん)

    このグローバルセッションでは、多文化な日本における子育てについて、参加者同士がそれぞれの考え方や経験、そして意見を出し合い、共有する場です。

    話し合いのためのトピックスおよび質問事項

    日本の社会的状況における「多文化共生」の意味とは何か?

    日本における多文化共生について:過去そして現在の状況は?

    日本における多文化にまた多言語で子どもを育てるという傾向と課題とは?

    (家庭で・学校や保育所で・医療施設で・公共施設などで)

    日本における多文化共生社会をより良くするために、どのようなことに挑戦すればいいのか?

    参加者自己紹介

    四方(C)さん:最初にこのGlobal Sessionを亀岡市交流活動センター(宮前町)で立ち上げられた時からのオリジナルメンバーです。いつもトピックスがタイムリーで、よく刺激を受けています。楽しみながら、多文化共生や国際理解をこのGlobal Sessionに参加していきたいと思います。

    サムさん:カナダ出身で、カナダのゲストと話したいです。国際交流員です。

    M・Fさん:話すと長いのですが。亀岡とオーストリアのクニッテルフェルトと姉妹都市盟約をされ、その一団がオーストリアにいらした時にお手伝いをし始めてからのお付きあいになります。今は日本に来ていますが、オーストリアには40年以上暮らし、日本語教師をしてきました。複文化・複言語に興味を持って、その勉強会に参加しています。夫(オーストリア人)と共に亀岡市内に暮らしています。夫は農業に興味があり、いろいろな方にお世話になっています。

    H・Iさん:前の職場であった亀岡交流活動センターで始まったGlobal Sessionに1999年から関わっています。この20年間1ヶ月に1回の開催でしたが、いろいろなテーマが取り上げられて来たと思います。

    Mu・Fさん:私も最初から参加しています。以前の交流活動センターの環境はすばらしかったです。いつも新しいテーマを取り上げ、刺激を受けてきました。私自身はNPO法人として映画会社に勤務後、京都映画クラブを立ち上げ、子ども達に映画作りを教えています。京都では時代劇を、草津市では、名所を尋ねる内容で作成しています。

    K・Yさん:20年ほど前に、交流活動センターで仕事をしたときからのお付き合いです。
    (児嶋:Yさんは、読み聞かせの専門家で、本の音声入力ボランティアもされています。ひまわり教室では、毎回絵本や、かみしばいを読んでもらっています。)

    R・Sさん:ひまわり教室で学習支援をしています。外国につながる子どもたちのことばの獲得と学力とのつながりは大きいと感じていて、その方法が課題です。
    (四方:教員だった私の上司で校長先生でした)
    (児嶋:ひまわり教室を開校することになった子どもたちとお母さんがいた学校の校長先生でした。それに、私の次女の小1の担任の先生でした。大昔からの知り合いです。)

    S・Yさん:今は能勢町に住んでいますが、亀岡市に住みたいと家を探しています。多文化共生センターが亀岡市に開設され、知り合いになりました。子どもは二人いますが、今は、ここの託児所に預けてきました。夫とは、カナダで出会ったのですが、もとは、アルメニア出身で、カナダに移住していました。夫は英語、日本語、ロシア語、アルメニア語を話しますが、今は、コロナでまだ、日本に来れなくて、9ヶ月直接は会っていません。

    四方:アルメニアは、トルコやロシア、アゼルバイジャンと闘争中ですね。

    H・Uさん:はじめての参加で四歳半の子ども(やまだはるよ)がいます。東南アジア研究をしていて別の所に長く住んでいたのですが、世界人権問題研究センターの研究員となり、京都に移住しました。フィリピン研究者として、学校にも入って行っていました。
    (児嶋:ひさしぶりに亀岡でUさんの社会教育の講座があり、お会いしました。)

    M・Kさん:現職の教員で、以前は、ネパールに2年間研修に行っていました。ネパールは多文化共生の社会であり、それが当たり前でもあったので、この点を柱にしたいと考えています。日本もそのような社会になりつつあるのに、まだその感覚ができていないと感じています。学校でもこれから取り組んで行きたいと思っています。

    グローバルセッション開始

    四方(C)さん:Global Sessionの約束ですが、1.当てない 2.どこからセッションに入って  きても良い。これをまもるために私は、当てません。

    ミチさん:今年は桜が早くて、駅についたら、人が多くてびっくり。明日は雨かもしれませんね。

     今日は、花見に最適かもしれませんが、このように天気がいいときに来ていただいてありがとうございます。自己紹介を少ししますと、私は、崎 ミチ アンと言います。カナダのブリティッシュコロンビア州の出身です。在日25年になります。日本には最初にJETプログラムの英語指導助手として仕事を始め、2年が5年になり、あっという間に10年が過ぎました。結婚し、子どもができて今も日本に住んでいます。

     カナダは、多文化、多言語地域でカナダに生まれるとカナダ人となり、人々はいろいろな国から来ています。そのため、カナダの言葉とその国の言葉を話すのは当たり前の環境でした。日本で子どもを出産したとき、病院で、看護士さんが、「外人の子はかわいいね」と言うのを聞いてびっくりし、不安にもなりました。自分は「外のひと」なんだと。もちろん、悪い意味で言われたのではないことはわかっていましたが、なぜか大きな不安を覚えたのです。子どもが4才になったとき、夫と子どもの言葉はどうしたほうがいいのかと話合いをしました。それまでは、母親である私とは、英語と日本語と両方で話し、父親である夫とは、日本語で話していました。「日本にいるのだから、日本語の方がいいのではないか?」誰に相談したらいいのかよくわからなかったので、義母に聞くと、もちろん「日本語でしょう」と言いました。

     でも、自分の母語は英語なのに、なぜ、日本にいるからと行って母語ではない日本語で話さなければならないのか?日本語では自分の気持ちは全部を話すことはできない。何を言われてもいいので、英語で話したいとその時に思いました。ただ、子どもが外でどう思われるのかは気になりましたが。日本の教育について思うのは、母語の大切さにあまり関心がないなとも感じています。実際には、自分の子どもは1年生には通常の日本の学校に入学しました。その間も、インタナショナルスクールの方がいいのではないかと悩みました。子どもから、「私は何人?」「カナダ人?日本人?」と聞かれたことがあります。子ども自身もアイデンティティと言葉の間で悩んでいるようでした。夫にはあまりこの気持ちは理解されなかったようです。友人にも相談できる人はいませんでした。彼女は今はインタナショナルスクールに2年生から移り、今はあまり悩んでいないようです。どの言語を主にするかは、今決めなくてもいいからとも言っていますし、楽しく学校に行っています。父とは日本語で話し、母とは日本語と英語で話すのは変わっていません。自分は日本の大学で英語を教えていますが、自分の日本語もあやういと思う時があります。「反抗期」のことを「抗反期」と言って指摘されたり。

    M・Fさん:私はオーストリアで3人の子を育ててきました。日本語教師として、オーストリアで、40年以上教えていました。最初の40年以上前は、オーストリアは、閉鎖的で義父母からは、子どもに日本語を教えようとすると、「たくさんの人が話している言葉を話さないのにどうして?」などとも言われました。でも、自分の思いを話す時に母語で話さないなんてと強く思いました。

    自分の子どもは現在は、自分のアイデンティティを持っているようで、他人の言葉に対してもオープンです。国際人としての身体を持ち、でもハートはそれぞれでいいのではないかと思います。

     自分の親は、「英語は世界中で話されているので、英語は大事」と言っていました。でも、どこの国の言葉も大切です。「できる」ことと、 「わかる」ことはちがうはずですね。ひとつの言語をしっかりやる必要があると思います。マルチリンガルというのは、難しいと思います。それと、「must」ではなく、「楽しいからやろう」と思う方がいいと思います。今の方が、昔に比べれば、ネットやスカイプや会議もZOOMでなどいろいろな方法を自分で選ぶことができていいなあと思います。

     40年間いたオーストリアを離れ、2020年12月に日本に住みはじめました。子どもさんは親といっしょに来ても知らないところは、はじめは大変でしょう。頭と身体とわけて日本をキャッチしていくような気がします。そのため、子どもさんには「いっしょにはなそう」とできるだけ声をかける必要があるでしょうね。大人になれば、マルチカルチャーの中ならどこでも同じだと思います。

    四方(C)さん:ひまわり教室の子どもさんがみなさんの話を聞いているといろいろ多い浮かび、目からうろこです。日本ではマルチカルチャー社会でなく、まだまだでしょう。カナダは国際的のようですが、私は日本人学校の教員として、20年ほど前に3年間過ごしていました。その時に聞いたスリランカのおばちゃんの話を思い出していました。「自分には4人の息子がいるが、その嫁の言葉はみな違う。」それを聞いた私は、カルチャーショックを受けました。シンガポールも国際社会そのものです。子どもを何語で育てるかは、大きな課題で、友人の夫さんは、シンガポール人で、日本人の友人との間の子どもさんは、英語で育ったそうです。子どもの時には自分のことばに揺れていても、そのうち自分で消化していったそうです。

    M・Fさん:家族の方針として考えればいいと思います。でもひとつの言語を母語として持っていることは大切なことと思います。日本では「外人」と言われますが、ポジティブな意味でとらえればいいし、ひとりで6カ国語くらい学ぶのが普通の国もあります。社会にでるとやはり強くなるのではないでしょうか?

    ミチさん:子どもを見て「外人」と言われたことがあります。

    H・Uさん:言う人に悪意がなくても、どういう場面で言われるかにもよりますが、「我々とは違う人」という意味はありますね。

    M・Fさん:日本ではあまり教えていないようですが、ヨーロッパでは「アジア人」というのは、「中国人」のイメージがあります。自分の中の差別感を考えて見る必要があるでしょう。

    H・Uさん:露骨な人種差別ではなく、「外人」と簡単に言われていますね。日本で「ハーフ」がどう扱われたかというローレンスの分析があります。「日本に住むなら日本語がいい」という考え方も認識がうすいからだと思います。複合言語で育つ大切さもありますね。

    四方:ひまわり教室でも姑さんに「日本で育てるのだから日本語以外で子どもに話しかけたらいけない」と言われたという話がありましたね。韓国から来た子どもさんのお母さん(日本人)が韓国人の夫さんのお母さんから、「韓国では日本語は使わないで」と言われ、全く母である自分は、子どもに日本語で話しかけなかったのを、日本に事情があり連れて来て、日本の小学校に入れた」という話を聞いたことがあります。

    H・Uさん:日本でも、学校内に日本語教師がいるような学校(外国につながる子どもがいる)では、教師が外国につながる保護者を複合言語を使うよう励ますこともありますが。

    四方:外国人で日本語を学んできたフィリピン出身の母親から聞かれたのですが、「にほんのこんだて」の「にほん」を「2本」と取り、「あと1本は?」と聞かれたことがあります。にほんを「2本」と取ったのですが、実は「日本」の意味だったことも。親にも子どもにも日本語での教育をする場合には支援体制が必要だと思います。

    児嶋:私は、外国につながる保護者の方々を見ていて最近感じるのは、大人になって外国語として日本語を学んで来た自分たち(親)は、母語が確立しないまま日本の学校にポーンと入れられた子どもさんたちの体験は、実は親御さんは、誰もしていないという現実に気がついていないのではないかという点です。学習言語をしっかり学び、力をつけるには、5年から7年かかるという研究結果が広く行き渡ってきましたが、保護者は子どもが流暢に日本語を話し始めると「もう大丈夫」と思いがちですが、実はそれはちがうという点です。テストでも教科書でも3年・4年になると普通の会話では使用しない言語が多く使われてきます。その内容をちょっとわかりやすく説明して手助けするのと、しないのでは、自分の頭の中に残るものがちがって来て、将来に大きく差ができるはずです。ひまわり教室では、「宿題を見る」と言っていますが、宿題を見ながら、この子は、どこらへんが理解できていないかが見えてくるので、少し前に戻って九九を教えてみようとかやることがあります。問題の意味が分からないために正解ができなかったと思えることもたびたびありました。せっかくひまわりがあるのに、話せるからもういいやと思い、子どもが「行くのがいや。時間がない」などというと、それに打ち勝つことができない保護者が多いのです。

    R・Sさん:学校が休みの時や、ひまわり教室を規制が出て開校できなかった時も子どもさんと連絡を取りながら、指導して来ました。今担当している中2の子どもさんもまじめで休まず来ていました。でも、なぜか伸びていかない、もうちょっと上に届かないという現実があります。本人は、自分に自信が無いようです。お母さん(中国出身)は、子どもには自分の母語である中国語は使って来ませんでした。外国出身の母としての立ち位置をはっきりさせた方がいいのですが。でも真面目まので、時間は掛かるけれども多分必要な学習言語や学習内容は、彼は、獲得するだろうとは思っています。

    S・Yさん:「自信がない」のは、外国につながる子どもでなくても日本人の子どもでもない子はいると思います。なぜなのかと考えますが。

    M・Fさん:認められた時には、外からの刺激があれば作り出すはずです。

    ミチさん:子どもが大きくなり始めたとき、2、3才で保育園に入れようか、インタナショナルの幼稚園に入れようか迷いました。また、小学校へ入れるときも。結局小1の1年間は日本の普通の学校に行きましたが、2年生からは、インタナショナルの小学校に行きました。

    S・Yさん:小1の子どもがいます。日本に来た時には日本語をいやがっていたのですが、今は日本の学校に行っていて、日本語だけを話しています。「なんでいちいち英語で話す必要があるのか?」と。

    カナダでは、日本人の両親を持つ子どもさんでも、普通の学校に行っていて、日本語が話せない子どもさんも多くいました。

    ミチさん:私自身は日系4世で、家でも英語でみんなが話していました。親戚付き合いもあまりなく。私は、母語は英語でした。大学に入ると、日本人のペンパルがいて、日本語が好きになりました。

     今は、TABUNKO(たぶんこ)を造り、活動を始めています。ここに来る子どもは日・英のバイリンガルが多く、親も「日本の幼稚園について」など悩みをだれに相談したらいいのかがわからない人が多かったので自分たちでグループを作ったのです。

     ミックスルーツの家族の居場所つくりを目指しています。活動のひとつとして、多文化ストーリータイムがあり、母語と日本語とでの読み聞かせを目指しています。

    四方さん:40年ほど前の事ですが、ブラジルから仕事に来ている人の子どもさんが転入し、教室には担任がひとりだけで右往左往していました。今は、学校現場も大きな変化があり、サポートシステムも整って来ています。支援者も入っている所もありますね。昔はゲストとして、外国人の来てもらうという感じでしたが今は、ちがいますね。学校と家庭とひまわり教室のような地域の支援グループとの連携が必要ですね。 亀岡市は多文化共生センターも作り、見通しは明るいと思います。

    H・Uさん:TABUNKOは、お父さんも入れますか?母語が日本語ではない父親もいますね。

    児嶋さん:S・Yさんはどこにおすまいですか?

    S・Yさん:能勢町です。でも亀岡に住みたくて家を探しています。

    四方さん:マルチリンガルを継承することはむずかしいですね。

    サムさん:カナダでは、中国人のコミュニティでは、中国語を話すのが普通ですが、日本人の2世の人たちはコミュ二ティもあまり作らず、帰化する人も多いし、その国の言葉を話 したいという願いが強いようですね。

    ミチさん:父母は、日本語でも話していたと思いますが、母は、「カナダ人なのに何で日本語を話さなあかんの?」と言っていました。日系の交流会には参加していましたが。コミュニティがあれば、ルーツが日本語ならば、日本語でやろうとしているところが多いです。

    四方:継承語というのは、子どもにとっての親の言葉であり、母語はMother tongueの英語であり、小さい時から生活に使用してきた言語という意味ですね。

    M・Fさん:書けなくても話せる言葉もありますね。

    M・Kさん:日本には、マルチリンガルが育つ場があまりないですね。いろいろな言葉を話すと楽しいよという気分が伝わらない様な気がします。「外人」とか言われれば子どもは、いやな思いをしたと感じるはずですね。いろいろな言葉ができれば楽しいと感じられる環境を作ることが必要で、そのためには、大変でも乗り越えたいですね。

    S・Yさん:もっと英語を勉強したいとカナダへ行ったのですが、教え方がちがうと感じました。生きた英語というか。日本の学校の英語のレベルはまだ低いと思います。

    M・Fさん:ある付属小学校の英語授業を見学したことがありますが、教え方があまり適切でない気がしました。子どもはカタカナで書くような発音で話していました。

    四方さん:2020年度からは、小学校でも週に2回英語の授業があり、大分充実して来ました。6年生の最後には、各自が自分の夢を英語で語ることも課題でした。

    M・Kさん:日本の子どもは日本語しかない環境に住んでいる子が多いですが、外国ではイマージ ョン教育も多く、聞く力がつきます。日本では授業はあっても、わからないままで卒業し、苦手意識のある子どもが多いですね。大人も話せないですし。

    S・Yさん:日本の学校では、先生だけがしゃべっていることが多く、自分の気持ちを伝える手段を持つ教育が必要ですね。

    四方さん:今年は子どもたちに英語を教えていましたが、課題も多かったです。聞くだけでも力はつかないので。

    児嶋さん:Tabunnkoのようにいろいろな人がいるとおもしろくなるでしょうね。

    Mu・Fさん:先ほど子どもの映画作りをしていると言いましたが、子どもの数は20名ほどにしぼっています。友人2人を誘って対応していますが、子どもたちにまず、シナリオを渡すと、覚えるのがとても早いです。でも最初に自己紹介をさせると、声が小さいのです。多分、はずかしいのでしょう。発声練習として、「おかあさん」と呼んでごらんというと、だんだん打ち解けてきて大きな声が出てきます。「みんなに聞こえるように声を出してね。」とも言います。これが終わると、子どもたち自身を2つに分け、スタッフ担当と俳優担当にします。スタッフ担当は、監督も任せます。監督には、「あの読み方でいいのか?」などと声をかけ、監督から指示をするようになります。俳優役の子どもには、監督やスタッフが台詞を読むように指示を出します。子どもの中にはフィリピン出身の子もいましたが、監督が「日本語の発音がおかしい」と言うと、「日本人ではないので、発音を教えて」と答えだんだん良くなることをみんなで見て来ました。一人では映画はできないと気づいて来るとみんなが真剣に取り組むようになって来ました。最後に「映画作りというのは、できるまでやるのですね」と言った子どもさんもいました。

    ここで終了です。

    長くなり、1:30~3:00が3:30を過ぎてもまだ話が続きそうだったので、あとは、個人でそれぞれにお任せして解散になりました。

    課題は多くありますが、日本で外国につながる人たちが多くなることは目に見えていますので、いろいろな言語で話していいし、理解もしたいし、楽しいという環境を作っていきたいという雰囲気になりました。

    次回が楽しみです。

    グローバルセッションイメージ

    開催日:2021年2月13日(土)10:30~12:45
    場所:ガレリア3階 会議室&オンライン
    ゲストスピーカー:濱田雅子さん(元武庫川女子大学教授、アメリカ服飾社会史研究会会長)&大槻正一さん(グラフィック・デザイナー)
    コーディネーター:亀田博さん(ツアーガイド:大津市在住)
    参加者:11名(うちオンラインでの参加3名)

     今回のタイトル:「コットンをめぐる不都合な真実」濱田雅子の服飾講座 服飾から見た生活文化シリーズ19回目共催:第41回アメリカ服飾社会史研究会

    参加者の皆さんの感想

    Y・Iさん

    今日はありがとうございました。

    モンサントのことは食品業界のことだと思っていましたが、アパレルでもとんでもないことをしているのだと驚きました。倫理とか優しさとかそういう言葉が通じない企業がいまだにのさばっているという現実を知りました。参加してよかったです。便利と危険はうらはら。進歩とリスクはうらおもて。企業は利益を追求するのは当たり前なのですが、もうお金だけの世界というのは違うかなともいます。

    パタゴニアはブランド名を知っているだけでした。その取り組み、考え方、企業理念などもう少し調べてみたいです。

    アッという間の2時間でした。また参加します。

    K・Kさん

    今回も映画を挟んで環境汚染とアパレル企業。モンサントの遺伝子組み換えbt綿など、問題が昨年に続いてテーマだった。繊維と言えば我が街も繊維産業で栄えた町で少し私も他人事では無いと思い毎回参加している。濱田雅子様にも神戸まで出向いてお聞きした事もある。

     今日は2月上旬と言えない暖かさで池田市から423号線を亀岡市に向かって山越えした。山間の静かな景色は長々と続いていた。

     青空に一点の曇も無く、早朝の強い陽射しを受け、田んぼから湯気が煙のように登っていた。国道に添うように流れる余野川をせせらぐ水も白く泡立ちながら光っていた。

    大槻正一さん

    ファッションをファッションの市場や分野だけで見る、解決を見出す時代は遠に終わったのではないでしょうか。我々の世界は、あらゆるものがつくられる、サービスが生み出されるその結晶化しか見ていませんが、手にはとっていませんが、そこに膨大の時間と、細分化された、グローバルの波が存在しているのです。ですから、物事の側面の上面だけを見るのではなく、あらゆる角度から多角的に見ていかなければ、正体が見えてこない。それだけ、複合的に包括的に世界の市場はグローバリズムは、お金のマネーゲームは絡んだ紐たちがもうほどけないところまで来ている。それらが、気候危機にまで及んでいる。考えることは山積みですが、命があり、時間もあります、それぞれ一個人がマインドセットを変化させてゆく時代が来ているのだと感じます。

    R・Sさん

    昨日は、ありがとうございました。濱田先生と大槻さんのお話、大変興味深く聞かせていただきました。拝聴して、私たちに責任ある消費行動が求められていることを強く感じました。そのためにも、表には見えない(隠されている?)生産現場の実情を知ることが大切だと思います。現状を知り、環境と働く人々を犠牲にしない選択を広げていくことが求められていると考えます。そうすることによって、利益の追求ために環境や働く人々を犠牲にする企業は受け入れられない。そのような企業は経営的にも成り立たないということが、世界中に広がってほしいです。

    最後の「意見・感想」のところで、ある中学校の総合的な学習の時間や生徒会の取り組みを紹介させていただきました。「困っている国や地域の人々を助けたい。」「環境を守りたい。」という意図は大事なことだと思います。だからこそ、広く深く現実を知ることが必要だと、お二人のお話を伺って感じた次第です。意図しているところと実際の取り組みの結果が食い違うことのないように、確かに学んでほしいと思います。私自身も引き続き学びながら、そうした学校での取り組みに何か手助けができればと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。」

    H・Iさん

    こちらこそ、勉強させていただきありがとうございました。Zoomのホストも少しずつなれてきましたが、やはり相手さんの通信状況は課題だと思いました。それから、講師さんがなにを共有して見せようとされているのか、ワードなのか、エクセルなのか、パワーポイントなのか、または動画なのか、事前の調整は重要です。

    講座の内容では、農薬についてもっとよく知らないといけないと思いました。まさか自社の農薬に合わせて、作物の方も作っているとは誰も思いつきません。僕はそこまで考えていませんでした。そうまでしてお金儲けをしなければならないのかと疑問に思います。消費者がしっかりと知識を持ち、法の力でガッチリと規制をかけていかないといけないと思います。

    大槻さんの部分では、何が本当のサステイナブルなのかという投げかけがありましたが、これはひとえに、消費者と企業の両方が、自然に逆らわないように、ある程度我慢しなければかなわないのだと思いました。多少不便であったり高かったりしても、地元の店からよくて長持ちする物を買うとか、多少利益が落ちても従業員や原材料の生産者を手厚く扱うなどの努力が必要だと思います。」

    K・Iさん

    先日の会は、参加させていただきありがとうございました。まず、濱田先生に提起していただいた服地にまつわる環境問題については、問題性を知っているだけでは、そこにビジネスが絡んでいる限り、改善しようがないことを強く意識させていただく内容だったと思います。

    大槻さんのご発言は、それに応じて、利益優先ではないビジネスも可能だという提起でした。環境に悪いからだめ、という言葉だけでは解決できそうにない難しい問題であることから、私たちは考えなければならない。その会社を買い取ることで問題を取り除く事は有効なのか?消費者として態度を変えることは有効なのか?と考えました。値崩れは単に「安く買えてよかった」ではなく、人が働いた価値を低くしてしまう恐れがある。参加者の中からは、子どもたちにどう教えたら良いか、という提起が出されましたが、それもとても重要な視点だと思いました。子どもたちにどう教えているのか、未来に何を残すのか、と私たちが問われた時、やはり、人として間違った事は教えられない、と感じて自らの振る舞いを正そうとするのではないかと思います。そこに、私たちが取るべきヒントがあると思いました。買いすぎない、買ったものは大切にする、正当な金額で購入することで、映画『True Cost』からの問いかけに応えたいと思いました。

    そして、映画『モンサントの不自然な食べもの』からの問いかけについては、まず、国内産の農産物及び、農産物由来のものを利用するように意識する。安売りに飛びつかず通常の値段で買う、無農薬、有機栽培などに取り組んでいる農産物を利用することが私たちの命だけでなく、生産者の”命”を大事することになると思いました。

    何事も、買いすぎない、適量を使うという行為によって、無駄がなくなり、必要量が流通する経済に転換して行けたら良いと思います。その観点からは、服のオーダーメイドは今では贅沢のように映りますが、自分に合った服を身につけ、長く着用する事は、実はエコでもあることに深く気づかされました。」

    亀田博さん

    コットンをめぐるふつごうな真実。 モンサントの遺伝子組換えbt綿とラウンドアップについて、   インドのBt綿栽培農家では、大量の農薬が撒かれている。世界のコットン出荷量世界第2位のインドでは、そのほとんどはモンサント社が開発したGM(遺伝子組み換え) 綿である。インドの種苗会社マヒコは1999年にモンサント社に回収され、細菌由来の殺虫性毒素が組み込まれた(Bt綿)は、綿花の天敵である蛾の幼虫が近寄らないように開発されたものだったが、その実、他の新たな害虫や立ち枯れ病が発生して、結果、大量の農薬を撒かなけれならない。モンサント社が販売する除草剤(ラウンドアッブ)を飲んで、畑で自殺する人が急増している。

    モンサントは、かって存在した、アメリカの多国籍のバイオ科学メーカー。2018年6月、バイエルによる買収、吸収が完了し、モンサントの企業名は消滅した。   7兆円を越える大型買収、100年以上続いた(モンサント)の名を消すバイエルの思惑だと思います。モンサントの名前が消えることは、バイエルの戦略の一部のようだ。同社は、モンサントおよび遺伝子組み換え作物(GMO)へのネガティブなイメージと距離を取ろうとしている。バイエルの買修の2カ月後、農薬大手モンサント(Monsant)の除草剤のせいてがんになったとして、同社を相手取り訴えた裁判で、原告の米国人男性が予想外の勝利を収めたことから、今後、同様の訴えが多く起きる可能性が出てきたと思います。

    裁判では、ラウンドアップの発ガン性についての警告を怠ったモンサントに落ち度があるとの陪審評決が出された。バイエルに取っては、高い代償で、不運な結果だと思います。                                        

    パタゴニアについては、大槻さんからプレゼンを頂きました。ヨセミテをベイスに世界的なクライマーが、トレーニングで訪れます。自然が素晴らしいです。パタゴニアについては、登山用品が、有名で、品質や安全性が知られています。最近は、オーガニック、コットンに力をいれています。日本の消費者には、登山用品は、知られているが、コットン用品は、特に知名度が低いように思います。一般には、パタゴニアと言うと、南米のパタゴニア氷河が有名です。又、パタゴニア商品は、日本の店舗は、外国と比べると価格が高いのと、オーガニックコットンのピーアルが低いように感じます。もっと宣伝すべきです。 聖地ヨセミテの妖精のポストカード 素敵です!             

    濱田先生  2月のGlobal  Session 有り難うございました。 

    A・Sさん

    濱田雅子先生と大槻正一様のアパレル産業に関するご講義を伺って

    「もともとフェアトレードに関心を持っていたこともあり、この度のご講義に参加させていただきました。フェアトレードに関心を持ちましたきっかけは、10年ほど前に観たあるドキュメント番組で、そこには、コロンビアで農薬まみれになり、自らやお腹の子どもの健康をリスクにさらしながら懸命に花を摘む妊婦たちの姿が描かれていました。その花が、まさに私が大学院生の頃、ロンドンで購入していたものに見え、衝撃を受けたのです。学生だったこともあり、お金はありませんでしたが、忘れたころに2ポンドほどの小さな花束を買っては、癒されていました。それだけに、「あの花束がもしかするとこうやって栽培されていたのか」と思うと愕然としました。

    本日の濱田先生と大槻さんのご講義を聴き、アパレル産業の問題と私が経験したブーケの問題の根底には共通点があると思いました。多くの人々を幸せにしているはずの花束や洋服が、人々に多大な健康被害をもたらすだけでなく、空気、土壌、水質の汚染など、地球規模の問題を引き起こしているということです。あまりに悲しい現実ですが、現実を知らなければ、手の打ちようがありませんし、これはこれで必要だったのだと思います。そのような意味で、濱田先生のように、アパレル産業をマクロな視点から研究されることも、大槻さんのように、アパレル産業をパタゴニアのような事例を取り上げつつ、ミクロな視点から報告されることも、どちらも大変意義深い活動だと思いました。

    一方で、話題に挙がっておりましたオーガニックコットンやパタゴニアの製品は、どうしても高価であるため、経済力があり、かつ環境問題にも関心がある、ほんの一部の人しか手に入れることができない対象となっています。購買層が限られる分、それらを取り扱う店舗やサイトは、ファストファッションのものに比べると圧倒的少数で、生産量も極端に少ないのが現状です。そのようなこともあり、たとえアパレル産業が環境にもたらす問題の解決に関心のある消費者であっても、自らの購買行動が環境問題の解決にほとんど役に立たないのではないかと自問する人も少なくないでしょう。今のところ、私は間違いなくそのうちのひとりです。オーガニックコットンやパタゴニアの製品には関心があるものの、いざ実物を目にした時には、コスパを考えたり、「自分一人が買ってもなぁ」と揺れたりすることは容易に想像がつきます。一方で、できるだけ人と地球に優しい商品を購入し、大事に着ようという思いは、この度のご講義を通じて確実に強まっています。自らの購買行動が世界の人々の健康や環境問題に直結していることを、強烈に実感したからだと思います。

    この度のご講義は私の購買行動に大きな変容をもたらす機会となりました。本当にありがとうございました。」

    E・Tさん

    「今回は、前回よりもショックな内容でした。理由は、低賃金を苦に自殺をする人がいるのは覚えていましたが、化学薬品等が海に流れて魚に影響を及ぼし、その魚を食べて身体に悪影響が出て結果的に亡くなってしまうのがショックでした。ただでさえ、苦しい生活なのに、その上、自分の身体を良くするはずの食べ物食べて死んでしまうなんて悲しいです。それから、服がなかなか売れず、廃棄される話がありました。廃棄されるにも、時間やお金がかかります。だから、よくセールをして少しでも廃棄される数を減らすのにも納得がいきました。最後の方で、廃棄する筈の商品を買い取り売る店が紹介されていましたが、ああいうお店がこれからも増えていけばよいと思いました。これは答えになっていないかもしれませんが、私自身、せっかく買った服を、弟や親戚にあげたり、服を買い取ってくれるお店に行き、私なりに誰かに“貢献”したいと思います。これからもよろしくお願いします。」

    児嶋きよみ

    「いろいろ勉強をさせていただきました。服は安ければ多く買い、すぐに気に入らなくなると捨て、その捨てるのも「外国に寄付する」所へ持ち込むというような流れが根付いています。「その先はどうなるのか?」をほとんどの日本在住のみなさんは、考えていないのが通常の状態ではないでしょうか?アフリカで捨てられた服も売買され、そして捨てられ、山ができているところもあります。また、自国の生産も買わないので廃れ、でも

    綿をつくる産業には低賃金ではたらかなければならないとうような事情が見えてきます。「いらない服を集めたら、どこかの国に寄付する」というプログラムを学校で始めたら、その先を考えるプログラムを是非作って考えてほしいですね。

     また、日本の米作りも、農協が関わらない方法は、なかなか無理があります。しっかりやってもらっているので、続いている部分もかなり多いですね。これも勉強が必要です。一つの方法ですべてが解決するのではないということを更に自覚したGlobal Sesionでした。ありがとうございます。」

    オンライン講座「コットンをめぐる不都合な真実」を終えて

    濱田雅子さん

    • 皆さんへのお礼

     オンライン講座を終えて一週間余りが経ちましたが、何と全員の参加者の皆様から、熱意に満ちたレポートをお届けいただき、感動いたしております。本当にありがとうございます。

    皆様から、それぞれに、奥深い問題が指摘されています。以下の濱田のレポートで、皆様が提起されている問題について、少しでもお役に立つことをお書きできればと存じます。今後、引き続き、ご一緒に取り組んでゆければ幸いです。よろしくお願いします。

    Ⅰ モンサント社の7つの功罪

      亀田さんから、モンサント社のバイエルンによる買収についてのレポートをいただきました。「モンサントは、かつて存在した、アメリカの多国籍のバイオ化学メーカー。2018年6月、バイエルによる買収、吸収が完了し、モンサントの企業名は消滅した。 7兆円を越える大型買収、100年以上続いた(モンサント)の名を消すバイエルの思惑だと思います。」

     決して、見過ごすわけには行かない歴史的事実です。

     ここに、モンサントの7つの功罪を列挙します。

    1.PCB

     「カネミ油症事件」の原因物質。毒性を知りつつ製造を続け、地球全体にこの発ガン性物質を蔓延させた。

    2.枯葉剤(オレンジ剤)

    ベトナム戦争でゲリラ対策に散布され、400マン人がダイオキシンに曝露。多数の奇形児が生まれた。

    3.牛成長ホルモン《ポジラック》

    肉や牛乳に残存し、アレルギーやホルモン異常、ガンを引き起こすと指摘されている。2008年に製造撤退。

    4.除草剤《ラウンドアップ》

    世界で最も売れた除草剤。発ガン性・流産等の可能性があり、「安全」をうたった広告は虚偽と判決が出た。

    5.GMO大豆(ラウンドアップ・レディ)

    南米各国に、政治工作や謀略によって普及。パラグアイでは、反対する農民が政府に逮捕・殺害された。

    6.GMOトウモロコシ

    メキシコで、紀元前5000年からの伝統種の遺伝子を汚染。生物多様性が破壊され、奇形種が発生。

    7.GMO綿花(ボルガ―ド)

    インドで大キャンペーンを張って販売。しかし、宣伝ほど収量は増えず、結果、数多くの農民が自殺。

    典拠:  マリー・モニク・ロバン著、村澤真保呂他訳『モンサント—世界の農業を支配する遺伝子組み換え企業—』(作品社、2015)

    Ⅱ ラウンドアップの日本のホームセンターなどでの販売    

    下記のURLを参照なさって下さい。ぜひ、最後までお読みください。

    「このようにラウンドアップの危険性への認識は世界的に拡散されており、店頭でラウンドアップが簡単に手に入るのは先進国では日本ぐらいになっている。」

    「世界中からはじき出され行き場を失ったラウンドアップが日本市場に一気になだれ込んできており、除草剤では売上トップの座を占めている。日本では日産化学工業が2002年5月にモンサントの日本での農薬除草剤事業を買収し、ラウンドアップの日本での販売権を引き継ぎ、「優れた効力と環境に優しい除草剤」などと宣伝してきた。」 

    「ラウンドアップは日本の店頭では「もっとも安全な除草剤」とか「驚異の除草力」とかいった宣伝文句で販売されている。農協の販売ルートにも乗っており、ホームセンターやドラッグストア、100均などでも大大的に扱っている。またテレビCMや新聞広告もされ、危険性についての説明は一切なく、警戒心なしに購入し使用しているのが現状だ。」典拠:https://www.chosyu-journal.jp/shakai/11791

    Ⅲ 環境意識革命の実現に向かって

    大量生産 ⇒大量消費 ⇒ 大量廃棄 ⇒ 在庫衣類買い取り業者(大阪のショウイチに代表されるバッタ屋)の台頭

                       ⇓

    持続可能   カスタム・メイド   ダイバシティ―  環境意識革命の実現

    《カスタム・メイドとは》

    持続可能性は、大槻さんが提起されたように、今後の課題です。私もこの問題には大きな関心を抱いてきました。今後も「歴史に見る持続可能性」の問題について、服飾史研究者の立場からアプローチして行きたいと思っています。私はこれまで、拙著においてカスタム・メイドに着目して取り組んできました。

    「新田中千代服飾事典の解説がアメリカのcustom-madeを分かりやすく説明している。「(注文服)(おあつらえの)という意味で、おあつらえ、おあつらえ品という米語である。既製品万能のアメリカでも、ニューヨークには特定のお得意様に対してのみデザイン、裁断、仮縫いをするカスタム・メイドの衣装店がある。・・・・・カスタム・メイドのデザイナーは、デザイナー自身が創作した新しいデザインを用意し、スケッチから実物をつくって1枚ずつの実物のサンプルを用意して、得意客が訪れると、サンプルの中から似合うものの注文を受けたり、デザインを多少かえたりして、寸法にあわせて作り、注文に応じるのである。」典拠:濱田雅子著『アメリカ服飾社会史の未来像―衣服産業史の視点からー』本書の第二章で考察したアーノルド・スカージはアメリカのカスタム・メイドのデザイナーです。

    本書の総括において、「カスタム・メイド、つまり、在庫ゼロの受注生産は、実に未来につながるアパレル生産の手法」であると述べています。私はアパレル業界で服作りの仕事に携わっていた立場からこのような提案をしています。アパレル産業で働く技術者の労働の価値について考えたとき、バッタ屋「ショウイチ」が日本のみならず、海外にも市場を広げていっているのは、実に悲惨な悲しむべき実状だと思います。

     環境意識革命の実現が行われなければなりません。画一的な大量生産社会からダイバシティ(多様性)を尊重する少量生産、少量消費の社会への環境革命への道とは何かが、今、問われています。

    Ⅳ 学校の教員と研究者の連携の必要性

    末永さんがおっしゃっていた学校の教員と研究者が連携し、未来を担っている子どもたちに、未来を見据えた正しい教育をしてゆかなければならないと確信しています。

    Ⅴ 透明性をもって、新しいビジネス・モデルの構築を!

    科学者とさまざまな衣服産業に携わっている企業家や環境に関わる諸団体が一体となって、サプライチェーン同士の透明性を保ちつつ、人間と環境の健全性を向上させる衣服産業のビジネスモデルを構築して行かなければならないのではないでしょうか。

    濱田雅子著
    『アメリカ服飾社会史の未来像ー衣服産業史の視点からー』
    ペーパーバック POD出版 2020年4月10日発売 2,970円
    Kindle 版 2020年4月1日 1,000円
    販売 アマゾン(キーワード 本 濱田雅子)
    DTP/装丁 表紙デザイン 濱田雅子作
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