2021/10/27
2021年10月23日(土)第344回グローバル・セッション・レポート
開催後のレポート開催日:2021年10月23日(土)10:30~12:00
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:Fellner 真理子 宮良さん
コーディネーター:四方美智子さん
参加者:10名
今回のタイトル:「異文化の中で育つということはどんなことか?(ゲームで体験してみよう)」
四方美智子さん(コーディネーター)の司会で10:30ぴったりに始まりました。
四方(C)さん:小学校教員をして退職後は、ひまわり教室の指導者をしたり、Global Sessionも多分最初から参加しています。Fellner真理子さんとは、昨年ひょんなことで出会い、K・TさんやR・Sさんともお世話になっています。K・Tさんの息子さんは、現在もアメリカで有名なシンガーとして活躍されています。
E・Tさん:33才です。京北町出身。今は島津製作所で仕事をしています。ターボ分子ポンプ制作の仕事ですが。転職して今があります。
Fさん:転職できるってすごいですね。このコロナの時代に。
E・Tさん:最初の仕事は、自衛隊にいましたが。
M・Fさん:Global Sessionは、最初から参加していると思います。以前は英語でのセッションが多かったと思いますが、最近は日本語での会が増えていますね。私は映画会社に40年勤務し、退職後は、NPO京都映画クラブというところで子どもたちに映画の作り方を教える仕事をしています。かなりの年齢ですが、辞職もできないので困っています。でも、家内は、私が出て居る方が喜んでいるようですが。
F:よくわかります。
M・Fさん:土曜塾という子どものための映画塾をやっているのですが、11月27日に子どもイベントを計画しています。京都市内への案内が間に合わなかったので、まだ募集中です。小学校の4、5、6年の子どもたちで実際に映画を作るのですが、その内容は、スタッフ、カメラマン、俳優などいろいろな役割を分担します。京都市のものづくり構想のひとつです。
児嶋:京都新聞の亀岡版などに案内を出してもらったらどうですか?
K・Tさん:GSには、ひさしぶりに参加しました。息子はアメリカでミュージシャンをしていますが、四方さんの親戚もアメリカでミュージシャンをされていて、Keishi Shikataというグラミー賞を狙うような方です。私は、現在はフリーランスでガーデナーをして、しいたけ作りをしたり、クルージングをしたり、Fellnerさんの旦那さんのマックスさんに野菜作りを教えたりしています。
H・Kさん:ドイツ語でトライして自己紹介をしてみます。ドイツ語圏と言ってもオーストリアとドイツでは、言い方にかなり違いがありますね。“Sound of Music”などでもわかりますが。大津市に住んでいます。琵琶湖の地図を見ると、オーストリアの国土の形と大きさがよく似ているそうで、「琵琶湖の日(7月1日)」にオーストリア観光局から代表が来たようです。オーストリア出身のオリンピック選手がバイクで優勝し、キーセン・ホーファーさんといいますが、その人に信楽焼のたぬきの像をプレゼントするようです。
児嶋:今回のGlobal Sessionは344回目になります。開始は1999年に私が亀岡交流活動センターで仕事をしていたときから始まっていて、もう20年を超えています。毎月一回の開催を続けてきました。
K・Yさん:今日は、10時からとまちがって早くから来ていました。“Good Morning”と四方さんに言われ、「あれ、英語だったか」とちょっとびっくりしました。私は丹波弁しか話さないので。四方さんや、R・Sさん、児嶋さんたちといっしょにひまわり教室で活動しています。私はただの主婦ですが。
児嶋:絵本の読み聞かせや音読サークルで活動されているプロですよ。
R・Sさん:小学校教員をしていました。その後はひまわり教室で指導をしたりしています。退職して5年か6年になります。Global Sessionにも参加していて、視野が広がる気がします。K・Tさんにも、何十年ぶりにお会いしました。
Y・Hさん:週末に孫が帰って来たりして忙しかったです。以前にみなさんといっしょにツアーでオクラホマ州立大学(OSU)本校に行ったこともあります。最近はドイツ語講座に通っていてGSに来られない日がありました。Fellnerさんご夫妻は、現在千代川に住んでいらっしゃるので、もっとドイツ語もやりたいなと思っています。夫のマックスさんもとても意欲的で、畑などもやっておられると思います。
Fellnerさん:Fellner宮良真理子と言います。日本国籍を持っていて、オーストリアでは公式ガイドをしています。40何年ほど前にオーストリアのグラーツへ来てずっと過ごしていました。一度だけ、「オーストリア・グラーツ・まりこ」という宛名で郵便が届いたことがあり、超有名人みたいでびっくりしました。うさぎ年でどのうさぎ年かは秘密ですが。小学校の6年生の時に1963年ですが、アメリカでの国際キャンプ(に参加しました。このキャンププログラムは、1951年に始まったのですが、創始者は、子どもの「戦争が始まったら、また戦争に行かなければならないの?」の質問に驚き、草の根「国際平和運動」の交流できる活動を始めたそうです。その年は、南部のミシシピー州で開催され、6カ国の11歳の子供が集まり、4週間ともに過ごすキャンプでした。普通は11~12カ国が集まりますが、南部で開かれるというので参加国が少なかったのでした。1963年というのはマーティン・ルター・キングが “I have a dream.という有名な演説をした年です。黒人解放がまだできていない年でしたそれ以来。50年以上経ちますが、今もつながりがあります。50周年目には、もう一度会う機会があり、樫の木の下で集まりました。このときにはいろいろな言葉がそれぞれ話せるようになり、昔のことが話せるようになっていました。「僕は貧しかったので、親がそんな所に行っても大丈夫か?」と心配していたとか。キャンプの参加後から、私は、「英語をやろう!」と思いました。もともと人と会うのが好きなので、日本では教育学をやりながら、ドイツ語、スウェーデン語、スペイン語など英語以外にもやりました。その後、同じ会のオーストリアで活躍していたマックスと出会い、結婚し、知らない国に住むことになりました。ドイツ語なので、最初は義父母ともあまり話せず、姑と嫁はどこの国であろうと、その関係は「サボテンのいす」だなと思いました。「とげがある」ことと、「その上には座れない」のです。その後、オーストリアで日本語を教えたいと思うようになり、市民大学などで教えたり、大学で教えたりするようになりました。その後、自分たちの子どもに母親の母語である日本語をどう伝えるかが課題となりました。現在は、継承語教育という分野での研究が盛んになって来ましたが。私は、自分の子どもに実験をして見て、どうやって日本語をこの子達に伝えるかと考えました。その方法として、
- 母親である私は子どもと日本語だけで話す。
- 夏休みに日本の小学校に送り、体験学習をさせる。
このようにして現在は、大人になった私の子どもたちは、日本人を見ると日本語で話 し、違う顔を見るとその言語が出てくるようです。現在三男は、新横浜で仕事をしています。長男と次男は、ウイーンで仕事をしています。私が子どもたちに日本語で話そうと思ったのは、こまかい心の奥の気持ちを日本語以外で告げることは、難しいと思ったからです。現在子どもたちは継承語である日本語とドイツ語をどちらも話しています。Fellnerさん:みなさんにお聞きしますが、どんなときに異文化を感じるか?外国に行って最初に何を感じたか?このようなことをお話しください。
四方さん:シンガポールの日本人学校で仕事を3年間したことがありますが、最初に思ったのは、「世界にはいろいろなことばがあるんだなあ」とか、「みんな肌の色もまちまちなんだなあ」ということでした。
Fさん:コートを着て居る人もいれば、半袖の人もいますよね。
四方さん:シンガポールでは、自由でしたいことは何でもできるんだなあと思いました。ものすごく多文化社会だったので。逆に日本に帰って来たら、みんな同じ格好のようで窮屈に感じました。
Fさん:私も29才で日本を出て、現在久しぶりに日本で生活を始めているので、大変です。
E・Tさん:僕は逆に日本を出たことがないので、みなさんの話がとてもおもしろいです。仕事場にはフィリピン出身の人もいます。いろいろな事情があって日本で仕事をしているのだと思います。時々僕も彼らと話し、給料や、仕事の内容なども聞いています。
Fさん:家族の事とか、趣味の話とかは?
E・Tさん:あまり趣味の話はないですね。僕は外国に行きたいと思っているので、いっしょに飲み会とか行きたいなと思っています。
Fさん:私は基本的に隣の人も異文化と思っています。
M・Fさん:アメリカ統制時代の沖縄に行ったことがあります。1週間行くのにも当時はビザが必要でした。那覇に行った時、近いので台湾にも行ってみました。フリーな時間があったので。ビザがなかったら、実際は入れないのですが、パスポートを預かるから、この時間までに帰って来るなら、町へ入ってもいいと入れてもらったことがあります。当時は安保騒動の時代で、沖縄も道を隔てて白人街と黒人街に分かれていました。タクシーもドル立てで、バスガイドさんが同行の3人を案内してくれていました。当時バスガイドはトップの職業で、「何の仕事をしているのか?」と聞かれたことを覚えています。
Fさん:宮良という姓名は、沖縄の名前で祖父が沖縄出身です。当時沖縄では、女性が大学に行くのは大変で、行っても短大程度だったと思います。
K・Yさん:ツアーで何度か外国に行きましたが、行ったところはどこも好きです。特にフィンランドが好きで、友達3人と自由時間に町を歩いていて迷子になり、出会う人たちに聞きましたが、みんなとても親切でした。それぞれの国というより、個人の「ひと」の付き合いのような気がします。
H・Kさん:国によって色々でしょうが、スカンジナビア半島の国々は、幸福度がどこも高いようです。教育費は無料だし、しかもつめこみではなく、それぞれを伸ばす工夫をした教育がなされている点もあるでしょう。また、イタリアの人は人なつっこいですが、でも主権は母親にありますね。F:最初に外国に行かれたころは?
H・Kさん:最初は、アメリカでもいろいろな種痘を打っていかなければならず、大変でした。マラリアなども。現在は、中国などは現金が使えず、ATMが止まったり、スマホが動かなくなったりしたら、特に年寄りは大変だと思います。アナログの方法も必要ではないかと思います。日本は比較すると、ワクチンを打つだけでもまだ紙に書くことが多すぎて、アメリカはマイナンバーだけでOKのようですが。
Fさん:日本は個人の関わり方が違って、違和感があります。
K・Tさん:マックスさんと息子さんのしんぺいさんが、亀岡で井戸の掃除をし始めて、息子さんはきたない仕事なのに、いやがらずにやるのにびっくりしました。ムカデを叩こうとしたら、しんぺい君が止めたのにも驚きましたが。 日本は美への意識が高いと思っていましたが、最近は、電線や看板などもぐちゃぐちゃで何だかおかしくなっているという感覚があります。今の日本はきたない物でも平気なのでしょうか?亀岡にコスモス園がありますが、あそこの看板も大きすぎると思います。
R・Sさん:夫がスリランカの研究をしていて、私も2回ほど行ったことがあります。30年前と3年ほど前の2回です。最初に行った時には、空港の周りに何をするでもなく、大勢の人が集まっていました。3年前には、空港はきれいになっていて、人もそれほどいないし、服装が替わってサリーを着ている人がいませんでした。街中でも30年前はサリーを着た女性が多く、お茶も有名でした。ところが、最近は、スリランカの南橋に行くと、中国が借款を返せなくなって取り上げたらしく、中国語の看板や病院やホテルもたくさんできていました。全体の生活レベルは上がったように見えました。その変化を、その国らしさが失われたように感じて残念がったりもしますが、それは身勝手なことだと思います。どの国も、経済的な成長を求めて課題はあるにしても努力している。自分たちが便利な生活を送りながら、訪れた国について昔の方がよかったなどとは言えないものと思います。
Y・Hさん:初めて外国に行ったのはハンガリーでした。どこかに見学に行った時、みんなが出かけている間に、運転手さんはドイツ語の勉強をしていました。必要な外国語を学ぶ姿を覚えています。また、ラオスかベトナムの北部に行った時には、昔の文化が残っていて、人々は裸足で棚田の開墾をしていました。貧しいくらしのようでしたが、空港は外国資本に飲み込まれているようでした。
Fさん:この文を聞いてどう思いますか。
「ある村に入ると、私が最初にショックを受けたのは、家族が食事をしていて、女性は床に座り、男性は椅子に座り、女性はその男性に食べ物を口に運んでいるのです。」
皆さんはどう思いますか?これは男尊女卑と思いますよね。でもこれは、実は、女性は聖なる者と言われていて、地についているために床に座り、男性に食事を口に運んでいるのは、毒味をさせていたのです。実は、我々はこのように自分の文化をもとにあれこれ判断してしまう傾向があるということです。
「行きませんか?」と日本語で尋ねられたら、どう答えますか?「「行きません」と答えるか、「そうですねえ。その時になってみないとわかりませんねえ」と答えるかもしれませんねえ。英語では「Don’t you go?」と聞かれたら、行かない場合は「No,I don’t」と答えますね。そのため、外国の人は日本語を使う時に迷うのです。どう答えたらいいのかと。
メラビアンの法則というのがあります。
(参考:メラビアンの法則とは、人と人がコミュニケーションを図る際、実は「言語情報7%」「聴覚情報38%」「視覚情報55%」という割合で影響を与えていることを示した心理学上の法則です。アメリカの心理学者であるアルバート・メラビアンによって提唱され、別名「3Vの法則」や「7-38-55ルール」などとも呼ばれています。メラビアンは、聴覚から得られる情報と視覚から得られる情報、そして言葉そのものが持つ情報のうち、どれがどの程度影響を与えるかを実験しました。たとえば、「Maybe(おそらく)」という言葉をさまざまな口調で録音し、実験の参加者に聞かせて反応をチェックするといった具合です。すると、柔らかい口調の「Maybe」を聞いた人より、強い口調の録音を聞いた参加者のほうが、より強く説得力を感じたことがわかりました。言葉そのものが持つ意味よりも、聴覚から得た情報で判断が左右されたことになります。さらに、「好意」「嫌悪」「中立」を示す表情の写真を用意し、それぞれの表情と矛盾するイメージの言葉と組み合わせて参加者に見せ、反応を確認しました。たとえば、「ありがとう」という言葉を、「怒りの表情」の写真や「不機嫌な口調」の録音と組み合わせ、参加者に聞かせたのです。このとき、参加者が本来の言葉の意味通り「好意」を感じ取れば言葉そのものの影響力が強く、逆に「嫌悪」を感じれば視覚や聴覚から得た情報が優先されたことになります。)
Fさん:外国に行ってわからないことがあれば、この人は大丈夫かなと思って訊ねるのが普通ですが、日本にいると、どうやって話していいかと空気を読まなければならないし、住んでいたら、そこに合わせていかなければならないと言われます。
児嶋:ひまわり教室のように最近は日本に住む外国出身の方とどう付き合っていくかが課題となってきています。先日もインドネシアから来たお母さんが、「子どもが学校に行きだして小学校の先生に親しみをこめてあいさつのつもりでハグしたり、手にキスをしたりしたら、「これはしないで」と言われ、ショックを受けたのだけれど、どのように先生にインドネシアの文化だと伝えたらいいのでしょう」とそのグループで訊ねていました。これに対して、日本語の堪能なインドネシア人のメンバーといっしょに学校へ行き、なるべく早く先生に説明をすることと、同時に近いうちにそのメンバーかだれかが、子どもたちを前に、インドネシアの文化について、お話し会を持つという提案を する方がいいということになりました。自分の文化ではないことを頭から否定するのではなく、違いもあるはずという理解をまず、持ってほしいと思いますね。
Fさん:外国人が多く住む地域では、60%が外国につながる子どもである学校もありますね。そこでは先生がどう付き合うかが課題のはずですね。
児嶋:先日、横浜市の鶴見区の中学校の先生をオンラインでお呼びし、国際教室が小学校の場合340校の中で147校(43%)あり、中学校は145校の内39校(27%)という話を聞きました。この地域では大学の教職課程で、国際教室の指導の仕方を学ぶと聞きました。つまりどの先生もそこに行き担当になる可能性があるからです。
四方さん:亀岡でもだんだん増えてきましたが、まだ国際教室というのは持っていないため、子ども個人の努力に任せている様なところがあり、ひまわり教室などでサポートしながら待つという傾向があります。Cくん(小学1年:中国の春節に帰国し、コロナ禍のため1年半ほどお父さんの待つ日本に帰国できなかったのがようやくこの7月に入国し、2学期から転入した)も給食がつらいらしいのです。今までの食事と変わり、おいしいと思わないらしいのです。
Fさん:姪は日本人ですがアレルギーがあり、その時は弁当にしていますが。
児嶋:イスラム教徒で食べられない物があれば弁当にもできるはずですが。
四方さん:お母さんに聞くと宗教上でもなく、食べ付けないからなので、早く慣れてほしいですということでした。1年未満でなんとかなじんでほしいですね。
Fさん:オーストリアでは、他所から来たひとが、すぐにその場所に馴染むとは思っていません、時間がかかりますし、無理強いはしない。多文化ではなく、複文化主義ですね。言語も親の都合で動くことを強制された子どもはいろいろな言語とつながっているはずで、他の文化を離すことはできない。どれも持っているという全体主義の考え方です。そうであれば、こちらが向こうに近づくという姿勢が必要であり、子どもも含めてこちら側に受け入れてくれることが大切です。新しく来た子も「学校へ行く」ことが楽しいと思える環境作りが大切と思います。
Fさん:若い人たちは、昔のように仕事があるからどこかに行くというより、休暇で行ったスウェーデンが気に入ったから、スウェーデンに住みたいのでスウェーデン語を勉強するというのにびっくりしました。時代が変わってきたのだと思いました。
児嶋:フィンランドでも大変だった歴史があります。西はスウェーデンに攻められ、次はロシアにも長く占領されていましたね。ハンガリーに行った時もガイドさんは、「祖父はセルビア出身で祖母はギリシャで・・」などと言い、ミックスの文化や言語が身近であるならば、どこで国境と言うのか、国籍がどこかだけの話ではないかと思います。
E・Tさん:自分は、今は一番初めに台湾に行ってみたいです。
R・Sさん:日本もシンガポールを占領していましたね。このような歴史をどう思いますか?
四方さん:自分では日本の歴史をわかったつもりでいても、それに対する考え方はいろいろですね。シンガポールに住んでいたときにその日がシンガポールの独立記念日で、タクシーの運転手さんは、「いつもならいいけど、今日だけは日本人を乗せたくない」と乗車拒否をされたことがあります。
Fさん:今の天皇が英国に留学されたのは、オックスフォード大学でした。その裏にはケンブリッジは昔も今も日本への嫌悪感があるからだと聞いたことがあります。
児嶋:台湾には50年間、朝鮮半島は30年間、日本語で学ぶことも強制してきた日本の歴史を知っているでしょうか?
Fさん:知った上で台湾なども訪ねる方がいいですね。
E・Tさん:外国に行かないまま死にたくないとも思います。
Fさん:今日は、じゃんけんゲームなどをして異文化ゲーム(アメリカ発祥)などをしたかったのですが、次回にしましょうか?
児嶋:次回につづきをやってください。
四方:私は小学校時代に、山梨県から鳥取県、そして京都の綾部に移りました。外国ではなくても言葉が違うので、異文化に入ったと言う感覚でした。このことも異文化理解の必要性を強く思うし、受け入れ方も考えていきたいと思う理由のひとつだと思います。
セッションは終わりましたが、Fellnerさんには、2022年4月にもう一度ゲストとしてお越し頂きます。みなさま。ご期待ください。