2023年11月19日(日)第369回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2023年11月19日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:大野友アンドレイアさん(ブラジル出身・箕面国際交流協会職員)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:11名(内2名はオンライン参加)

 今回のタイトル:
「①ブラジルに子どもたちと一時帰国して」
「②外国につながりを持つ子どもたちが、自分のルーツにふれて」

自己紹介

亀田(コーディネーター):ボンジーア。今日のGlobal Sessionは、369回目です。

 大津市在住です。アンドレイアさんのGSのゲスト参加は2回目ですね。2022年に研修会の講師でも来ていただいたので、全部で3回目ですね。箕面から山越えで来られましたね。

 では、それぞれ、自己紹介をしてください。

E・Tさん:京北町に住んでいます。Global Sessionにはよく来ています。

M・Aさん:1年前までブラジルに居ました。現在は大本さんで、奉仕中です。    (亀岡市のブラジルの姉妹都市ジャンジーラから代表団が来られた時のポルトガル語通訳でした。)

S・Nさん:京都の左京区から来ました。在住外国人の相談ごとを聞くことをしています。今日は、そのメンバーがオンラインでの参加がある予定です。

M・Mさん:「やさしい日本語をひろめる会」の会長をしています。在住の外国人とコミュニケーションをとることを考える会です。現在は、薬局や薬剤師の方々との外国につながる人たちが話が通じるようにといろいろ聞いて調べています。いろいろな課題があります。

M・Fさん:映画関係の仕事をしています。秋のイベントが終わったところです。子どもの映画制作やカルチャーウオークなどもやりました。

R・Sさん:ひまわり教室で外国につながる子どもたちの学習支援をしています。アンドレイアさんの講座などは全回参加しています。今日は、子どもさんとブラジルに行かれた話というので、お聞きしたいと参加しました。

児嶋:1999年に開始しましたが、当時は、亀岡交際交流協会の職員でした。それ以後、停年退職後は、主宰するオフィス・コン・ジュントの企画で継続しています。今回は369回目ですが、20年以上過ぎたと驚いています。

亀田さん:コーディネーターをしています。先ほどはポルトガル語でお話ししましたが、仕事はツアーガイドです。ここ3、4年はコロナでしていませんが、日本人をいろいろな国に案内してきました。南米は遠いので行っていませんが、ヨーロッパや中国やいろいろな国に行きました。チベットやウイグル、モンゴルも何度も行きました。現在は、中国はまだ開放とはいきませんが、ヨーロッパからの旅行者が多く来られていますね。スペイン、フランス、ブラジル、ペルーなどからも多いですね。「日本は天国」などと言われていますが、その理由は、1は円安で、2は、実際の物価が安いことが挙げられるようです。どこへまずいくかといくと、100円ショップなどです。中国などにも安売りの店がありますが、「200円ショップ」とかで、お気に入りのようです。京都駅などを見ても、ほとんど外国人かとか思うほど多いですね。

 アンドレイアさんの自己紹介から始め、今日のGSをよろしくお願いします。

グローバルセッション開始

アンドレイアさん:大野友アンドレイアと言います。箕面国際交流協会で仕事をしていますが、今日は、その職員として来たのではありません。(笑)

 箕面市には住んでいる外国人も多いです。近くに大阪大学もあり、留学生も多いし、就労者も多いです。今までと同じ話の内容にならないように気を付けますが、よろしくお願いします。

 私は、本当に10年ぶりに、今回は子ども3人といっしょにブラジルに行ってきました。「子どもが母親の文化に触れる」ことと「いろんな人と出会う」ことを目当てに行ってきました。

 私自身は、ブラジルの小さい町で育ったので、「ブラジル人はこうだ」とか、「日系人」という感覚が無かったと思います。今回はサンパウロへ行き、日系の人たちにいっぱい会いました。

 私は、サンパウロ生まれですが、すぐガラパリという小さな町に移転し、学校では台湾人の家族一軒以外にはアジア系の人はいなくて、アジア人とも、日本人とも、日系人とも思う事がなく、過ごしていました。

 祖父は戦前満州に行き、ソ連が参戦後、ようやく家族で日本の山口県に帰国することができました。でも、その時は、いろいろな中国人が助けてくれてやっと家族一緒に帰れたそうです。でもそのような話は祖父はあまりしなくて幼児であった叔母もあまりその話はしませんでした。満州では、瓦職人だったそうです。当時日本に帰国してもどうしようもなく、当時ブラジルは、奴隷制度が廃止され、入植地を用意して移民を促進していたので、家族でアマゾンに移民することになりました。でも、土地はあっても自分で家を建てなければならず、母は5才でブラジル人の政治家の家に6人目の養子として住み込み、学校に行かせてもらうことになったようです。その後、1985年にはブラジルも軍事政権が終わり、母の養子先の政治家は夜逃げし、ベレンで母だけ残されたそうです。その後、叔母に連絡が取れ、助かったそうです。

 その後、サンパウロで駐在員だった父と出会い、結婚しました。そして、私(アンドレイア)が生まれ、父は日本の会社をやめ、日本に出稼ぎに行っていた従兄のやっていた八百屋を継ぐことになりました。「仕事ない?」とたくさんの人が出入りしていたことを覚えています。また、父は、八百屋で売っていた野菜がホテルでは高額で売っていることを知り、今度はホテル経営に乗り出しました。父はポルトガル語は話せても書いたりするのは十分でなく、苦労したようです。

 当時ブラジルでは、私立学校と公立学校に大きな差があったのですが、私は、私立学校に行きました。その間、ポルトガル語はうまくなり、日本語は家でだけ話す状況でした。だんだん弟達とはポルトガル語だけの生活になりました。

 そのためもあってか、14才で突然、日本にやって来た時は困りました。吹田市の学校に入ったのですが、今のような学校での支援はあまりなかったし、近くにブラジル人もあまりいませんでした。父は昔いた会社で仕事をすることができたのです。

 学校での支援はなかったのですが、家に支援者が来てくれることもありました。でも、学校では内容が難しいと感じ、自分だけができないと思っていました。中学校から高校へは、入試がありますが、通常のテストでは、100点満点の内、5点か10点しか取れないのです。ある先生が調べてくれて、高知県の明徳義塾高校に国際コースができるらしいし、入学することができました。2年生の時にブラジル人の監督と選手がやってきました。この高校の国際コースは、3年間の内に自費で留学が義務付けられています。そのお金をどうしようと思っていたのですが、当時、ブラジル人たちのために翻訳を頼まれていて、その翻訳料でカナダに10ヶ月間留学することができました。ポルトガル語ができると、日本語より早く身に付けることができました。英語の方が日本語よりもよく読める状態になりました。

箕面市での在住外国人支援

 箕面市では、ブラジル人は少ないですが、外国につながる16才未満の子どもは少なくないです。

①子どもの支援、 ②相談を上げていますが、英語、ポルトガル語、スペイン語、フランス語などで相談を受けています。対応言語が多いので多様な人たちに出会うことができます。

外国人が日本に住む時の壁は大きく分けて3つあります。

1.ことば 2.制度 3こころ

 この中で、制度の問題も大きいです。在留資格を更新しなければいけないことを知らない人が多いです。日本生まれで、日本で育ち、ブラジルに行ったことがない子どもでも在留資格は大きな問題です。ひとつの家族で、祖母は日系二世で、日本語だけ、母はポルトガル語、子どもは日本語だけを話す家族もいます。最近のニュースでは、日本で生まれた外国ルーツの子に永住権を与えるというものがあります。在留資格によって、仕事も安定しないので、さまざまな滞納も出てきます。日本で生まれ、どこにも行った事のない子どもたちにとっては、なぜ日本に住む権利がないのか、不公平に思うのです。

「多言語での育成はプラスかマイナスか」

 1960年代半ばまでは、マイナスと思われていました。それは、学校での学業不振・精神不安・情緒不安定などの理由が挙げられました。

 その後は、多言語での育成はプラスだろうと変化しています。

「母語支援について」

*保護者が母語に力があるか、ないかで差ができる

 学校では母語支援のスキルがないので、その子の学力を知る手立てが必要。

 DLA(母語と日本語と両方でアセスメントする)方法で測る方法(大阪大学等)

普通のクラスではなく支援学級に入れてゆっくり学習する方が子どもによいと考えがちだが、問題はある。(レッテルがはられるようで、子どもが自分で自己肯定観を持つのが難しい) 

箕面市では、母語クラブ(スペイン語とポルトガル語で チャチャチャ)を7年前から、毎月ミーティングをイベントとして開催している。

 関西ブラジル人コミュニティのイベントを、4月18日にブラジル移民した祖先の気持ちを考える体験として神戸港で移民船に乗る体験を毎年しています。

外国にルーツを持つ子どもの現状を説明する時は、ことばの課題として学習機会があるか。日本語力が不足・母語の発達として支援が不足・母語喪失などがあげられます。

 うちの長男は、生まれてからアメリカにいたために、外では英語、家の中では日本語とい生活でした。ポルトガル語は全くしりません。8年後に生まれた下の子達は、まったくポルトガル語は消えています。

子供たち3人とブラジルへ一時帰国

 今回のブラジル行きは、16才、8才、6才の3人の子といっしょでした。なかなかチケットも取れないので、16才の長男は別便で行き、ブラジルで会うというような行き方でした。

私の弟は、いっしょに日本に帰国したときは7才でしたが、成長してブラジルに帰国していました。ポルトガル語も忘れてしまっているのに。

 最初はサンパウロのリベルダージで倉庫の整理などのバイトで仕事を始めました。そのうちにトップに立ち、営業職になりました。当時ブラジルに拠点を持とうとしていたダイソーの社長の手伝いをし、その後、ポルトガル語も日本語もできるようになったので、代表になり、その後独立をしました。今はうどんやとラーメン屋をしています。その子どもたちはブラジルの学校に通っていますが、時間の空く日には、日本語学校にも通っています。(ブラジルの学校は、半日ごとに学習する子どもが交替します)このため、両方の言語ができるようになっています。

 ブラジルでは、クレジットカードがどこでも使えます。

 また、今回行って、自分の日本に対する雰囲気が変わったと思います。それは、アフロ博物館というところを訪ね、日系の母親の絵が飾ってありました。そこでは、「日系のひとがどれだけブラジル根付いているか」を問うような感じがありました。

 私は、現在の分断が広がる世界の中で、憎しみではなく、安心を得ることができ、国籍や立場ではなく、個人が尊重され、互いの対話をあきらめず、関係をつむぎ続けられる場所が大切だと思います。

 移民博物館では、「移民の旅はいつ終わるのか」「移動って当たり前」というメッセージが書かれていました。

 ブラジルにはいろいろな顔があり、サンパウロの町では自分と似ている人も見ました。日本の各県から来ている地図もありました。日本語を教えている私立学校もあります。自由な雰囲気ですが、月謝は高いので、貧富の差が大きいですね。

アンドレイアさんへ質問

亀田(コーディネーター):質問はどうですか?

M・Fさん:14才で日本に来られた時の日本の状況はどうでしたか?ブラジルとのちがいをどう感じられましたか?

アンドレイアさん:ブラジルでは、自分が日系とあまり思わなかったのですが、日本に来たら顔がみんな同じだと思いました。帰る時には、ガラパリから、サンパウロに行き、日本に来たのですが、その時に日系コミュニティに寄り、「日本ではいじめに気をつけて」と言われました。日本では、「海外に興味がある」という子達もいましたが、少し集まる所に遅れると、「ブラジル人だから」とも言われました。現在は、国際交流協会から小学校の国際交流クラブなどを訪問することがありますが、「海外いや」とか、「日本は安全やし」とか言う子が多いです。

M・Fさん:物理的なちがいはどうでしたか?家の大きさとか。

アンドレイアさん:最初日本に来たときには、父が元いた会社に就職したこともあり、社長さんの家に住んでいましたので、とても大きかったのです。でも、他の家は小さいと思いました。

S・Nさん:神戸にある海外移住者協議会に行くと、移住した2世が多くいて、70代や80代がいます。最初にブラジルに行ったブラジル丸の展示がしてあるビルにも行ったことがあります。県人会なども各県にあるようです。パラグアイからの人が多いですが、当時、ブラジルに行きたい人が多く、それに入れなかった人は、パラグアイに行ったようです。今日は、ポルトガル出身の学生が来たかったのですが、風邪で来られませんでした。

児嶋:ブラジル生まれで、現在日本に仕事で来られているM・Aさんの感想が聞きたいです。

M・Aさん:歴史的によくしらべてプレゼンをされていると思います。私も同じ移民のルーツでブラジル生まれです。母はパラオ出身で、父は広島出身です。ブラジルで二人は出逢い、パラグアイとブラジルとの国境の町で生活していました。学校は、ブラジル人学校に通い、ポルトガル語、スペイン語、そして日本語も学びました。ブラジルは、1500年に、ポルトガル人が発見し、そこをインドと思い込み、現地の人をインディオと呼び始めました。アマゾンの先住民は日本人と似ていると思います。シャーマンや薬草の紹介などもしています。元はアジア系と言われています。現在は、金の採掘で水銀を使用し、それを川に流すので、水銀中毒が大きな問題になていますね。

S・Nさん:アンドレイアさんは、ブラジル生まれで日本に来ていますが、国籍はブラジル人ですか?

アンドレイアさん:よく(  )人という箱に入れる人がいますが、地球人と思っています。最近は、日本にルーツをもつブラジル人と言っています。私は、14才で日本に来たのですが、母語がないなと思います。中学生でもかけ算の九九は知らなかったです。時々何かができないと「やっぱりブラジル人」とよく言われました。

Emikoさん(オンライン):アメリカに住んでいます。自分のアイデンティティを自覚することはありますか?私の義父は日系二世ですが、バイリンガルです。計算するのはたいてい母語であるのではないでしょうか?また、日本国籍を持たないと国民扱いされず、住民票がないと病気の時にこまりますね。

Yukikoさん(オンライン):今、不便なことはありますか?

アンドレイアさん:日本語は「~とみなされる」とか、わかりにくいことばが多く、かさなると混乱してしまいます。

児嶋:ひまわり教室で外国につながる子どもたちの学習を見ていると、「かけ算」がネックかなと思う事がたくさんありました。S先生はどうですか?

R・Sさん:かけ算や100マス計算なども振り返って学習すると力が出てきますね。宿題をみながら、気が付くことが多いです。

M・Aさん:外国に生まれて、日本に移住してきた人と、元からいる日本人とは、何か大きな穴があるような気がします。

S・Nさん:サンフランシスコでは刑務所が満杯で、999ドルまでは万引きしてもOKだと聞いたことがあります。それに比べると、日本は犯罪が少ないです。

M・Aさん:ブラジルにはお金がない人を無料でめんどうを見るという法律があります。

S・Nさん:以前、アメリカの破産状態の時に、医療保険を作ろうという動きがありました。日本では、最低限の医療は拒否できないと思います。

M・Mさん:現在薬局などへの外国につながる人たちへの支援について調査しています。保険制度は、スペインは無料、日本は1ヶ月に一度行かなければ、また保険料の支払いが必要です。韓国は、日本よりも良い点もあるようです。中国は保険制度が機能していないところが多いようです。

亀田さん:アメリカでは、事故に合っても支払い能力があるかどうかがチェックされ、それがないと医者は手術を受けつけないです。そのため、渡航時には必ず医療保険をかけるように旅行でもしています。

児嶋:以前アメリカ大学京都校(OSU―K)を開設していたときも、全員にまず、医療保険をかけて出発するよう厳しく指導しました。そのため、いろいろな事故もありましたが、お金が無くて、医療ができなかったことはありません。

亀田さん:日本の医療保険は、その点では優れていると思います。コロナ禍の保険も今はあります。ツアーで行っても家族で行っても、保険は大事です。さて、12:50分になりましたので、まだ質問などある方はあとで、独自にお願いします。ありがとうございました。

2023年10月9日(月・祝)第368回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2023年10月9日(日)10:00~13:00
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:Rachel Clark(レイチェル・クラーク)さん(日系米国人・国連等で通訳・日本訪問中)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:13名

 今回のタイトル:「アーミッシュってどんな人たち?」

レイチェルさんからの事前配布資料より

「 2020年の春、パンデミックの波がNY界隈にも押し寄せ、ハドソン川を見下ろす私の窓からは、マンハッタンに停泊する救急船が見えました。

NY中で医療に従事する人々に敬意を表する為のブルーエンジェルスの編隊飛行も行われました。

その頃から世界19ヵ国、約60人の仲間が毎週ズームで会議を開き、あの不思議な世界の空気に立ち向かう声明を発表しました。私もその中に加わり、素晴らしい希望を感じながらも、末世的な演出効果の漂うメディア報道にうんざりしていました。

あの年の1月の4週間、私はグアテマラでスペイン語を学び、次の1週間をコスタリカで、その次の1週間をパナマでバックパッキングをして一人旅を経験しました。

3月にはなつかしい友人に会いにカナダのモントリオールまで7時間かけて運転し、帰宅した次の日から国境が封鎖されました。

日々伝えられる深刻なニュースと同時に、それを真っ向から否定するニュースにも触れる機会を得る事ができたのは、それまでに培った国際的な人脈のネットワークがあればこそ、でした。

国際航路客船の洋上通訳として、世界の50ヵ国以上を巡り、さまざまな文化や考え方に触れた事や、国連の会議を沢山傍聴した経験も、判断の役に立ちました。

私の下した結論は、「あの人たちのルール」に沿って生きる事をしない、と言う事です。

同年4月半ばから毎週末片道7〜8時間運転して、NY州北部の「ノースカントリー」と呼ばれる地域に引っ越し先を探しに行きました。9回目のドライブで見つけたのが現在の住処です。

自然に恵まれた美しい環境に一目惚れして、四季それぞれの豊かな恵みを与えてくれるアーミッシュの農家さんたちとの素敵な交流が始まり、彼/彼女らから「持続可能な」暮らしを学んでいます。

なぜ国連はこの人たちから学ばないのか? と疑問に思う事がよくあります。

アーミッシュってどんな人たちなのでしょうか? どうして世界はこの人たちから持続可能な暮らしを学ぼうとしないのでしょうか?アーミッシュに今更なろうとは思いませんが、取り入れられるコンセプトは沢山あると思います。そんなこんな思いを、エッセイのように参加者の皆さんと共有できたら、と思います。」

参加者自己紹介

亀田さん(コーディネーター):1999年からこのGlobal Sessionは始まっています。ゲストは毎回ちがう人で、最初は、英語でセッションという形でやっていました。

この頃は、日本語が上手なゲストが増え、ほとんど日本語でやっています。私は、大体最初に近い時期から、このGSに参加していると思います。今日はゲストがアメリカからなので、英語でもどうぞ。では、参加者のそれぞれの自己紹介から始めていきましょう。

E・Tさん:京都の北の京北町に住んでいます。仕事は島津製作所で、真空ポンプなどを作っています。

R・Sさん:児嶋さんたちとひまわり教室で外国につながる子ども達の学習支援活動をしています。

S・Nさん :京都市左京区に住んでいます。外国人女性の困った事などの相談活動をしています。高齢化した方達も増え、医療ネットワークとの関係が必要になってきています。

S・Fさん:在日外国人のための日本語のサポートを1年くらいしています。その中で「ものとことのちがい」や、「~だらけ」などの日本語に対する興味がわいてきて、楽しくやっています。

M・Oさん:(英語で)グローバルコーポレーションの仕事をしています。東京の大学を卒業後、ニューヨークで学んだことがあります。主な仕事としては、グラフィックデザイナーです。

 (後半に実際の英文と日本語の本人訳あり)  

M・Sさん:(英語で)亀岡市民で1999年に始まったGSのメンバーだったと思います。今回は、レイチェルさんの言われる「アーミッシュ」に興味があって、参加しました。楽しみです。最近はあまり来る機会がなかったのですが。ひまわり教室の指導もしています。

M・Fさん:私も1999年のGSの最初から参加しています。今日まで続いているGSには魅力があります。40数年間、映画人として映画作りに関わり、今も携わっています。

レイチェルさん:どんな映画ですか?

M・Fさん:東映の時代劇ですよ。今は、NPO法人として子どもたちの映画制作に関わっています。

Y・Hさん:(ドイツ語で)ドイツ語を勉強して話したいなと思っています。今は、ウクライナなど、世界に問題がありますが、国連とのつながりも見ていきたいと思っています。

Z・Y(ちょうえい)さん:中国出身で、現在は、亀岡市の学校教育課の小・中学校の教育支援員をしています。ひまわり教室にも参加し、中国語での母語支援をしています。レイチェルさんとは友人で、今回、日本に来られるということで、このGlobal Sessionのゲストをお願いしました。

H・Mさん:Z・Yさんといっしょに、ひまわり教室やGlobal Sessionには何回か参加しました。今回は、半年ぶりの参加です。アーミッシュの映画をハリソン・フォードの映画として見た事があります。それで話がしたいなと思って参加しました。

児嶋:先ほど亀田さんに紹介していただきましたが、Global Sessionを私が交流活動センターで仕事をしているころから始めて、退職後は、私のOffice Com Juntoの主宰として継続しています。最近は、参加者が「高齢で・・」とか言われるのですが、「高齢」って何歳から?とか思ってしまいます。多分私も高齢なので。

亀田さん:ヒロと呼んでくださいね。大津市からいつも来ています。亀岡は、緑が多く、冬は寒くて夏は暑いのですが、自然がいっぱいでとてもいい街です。水もおいしいし、亀岡牛もありますね。ツアーコンダクターですが、コロナ禍で、2、3年は人が来ない日が続き、今も円安で、日本人はあまり外国に出ません。個人的にはヨーロッパより東南アジアが好きで、チベットや、ウイグル、タクラマカン砂漠やモンゴル、中国では雲南省などに行きました。タイやミャンマーでは小数民族の村も行き、カンボジアでは、子どもたちの学校訪問もしました。

国内では、個人的な英語でのガイドもしています。10数年間、アメリカ、シアトルのハイスクールの生徒達が日本旅行をする手配をして来ました。ホームステイや北海道への旅もしました。今は、日本からアメリカに行くのはOKですが、来年くらいは、日本が外国の学校からの旅行の受け入れを出してくれないかなと思っていますが。

グローバル・セッション開始

では、レイチェルさんお願いします。

レイチェルさん:自己紹介から始めます。日本は今3連休ですが、ゆっくりしたいでしょうに、このGSに参加していただき、ありがとうございます。

レイチェル・クラークは、米国籍ですが、実は日本生まれで、新潟県出身です。

アテネ、フランスで、フランス語を学んでいたのですが、結婚後アメリカに行きました。通勤はニュージャージー州から始発のバスに乗って行くのですが、あの頃はまだアジア系は少なくて終点のマンハッタンまではせいぜい、3、4人でした。その少ないアジア系の人がとなりに座ると「中国人?」「韓国人?」と聞いてきて「日本人」と答えると、笑顔が消えるのです。

このようなことが続き、「日本の戦後の歴史を知らなかったこと」に気付きました。小・中・高校では、歴史を学びますが、戦後については、「時間がないから自分でやってね」などと言われ、ほとんど学んで来なかったと思います。今思えば、「 学ぶことをさせない」ためではなかったかと思うのです。

日本の学校では毎日英語を教えますが、あの、ちっとも身につかない英語教育は、きっと歴史を学ばせないためにあるのでしょう。父の弟は陸軍中野学校の出身で、4カ国語が話せました。ですから、少なくとも戦中までは、海外体験の無い日本人でも数ヶ月で外国語をマスターできるような教授方があったはずなんです。なのに戦後にその教育方が全く活用されていないのです。でも、その「役に立たない英語教育」のおかげで日本の優秀な人材が海外に流出せず、国内発展に寄与したことも否めません。

アメリカの大学で受講した日本の歴史はおもしろかったです。日本の古代から現代までの概要を最初のクラスで30分で教えてもらいました。日本では触れることのなかった第二次世界大戦以降の歴史も学び、これではお隣の国々に好かれる理由が無いと、思いました。

アメリカでは主婦をしていて、元夫が東京に3年間転勤になり、私はアメリカ人として祖国に行き、悪名高い入国管理局にも行きました。そこでは、私たちの前にフィリピン人と思しき女性が二人質問を受けていましたが、非常に上から目線で、後ろで聞いていてとても気持ち悪かったです。私たちの番になり、白人の元夫に接する係官の人の手のひら返しの態度に、さらに気持ち悪くなりました。

子どもは1990年から3年間くらい、日本の幼稚園に行きました。ハーフの娘がいると、「お母さん、日本語上手ですね」とか、言われて。当時は核家族で、幼稚園児のママになると、母親同士の人間関係が難しかったです。

自分の子供時代は、テレビも勧善懲悪ばかりで、水戸黄門やウルトラマンのような最後の3分で必ず勝つ・巨人の星も男の子が主人公でした。女の子の番組は、いつもライバル同士の歪み合いのような作品が殆どでした。アタックナンバーワンとか、サインはブイとか。(だから、バブル時代に若い女性もサラリーマンとして職場に切望されていた頃に、「セーラームーン」のような女の子がヒーローになる作品が出てきたのは、時代と呼応しているのかな、と言いたかったのですが、ここまで言及しなかったような。。。)

子どもの手がかからなくなると仕事を始めました。2010年の国連の核不拡散条約再検討会議に、生協のメンバーを含む被爆者団体総勢150名の訪米団のために、急にボランティア通訳が沢山必要となり、3日間会社を休んで初めて通訳をしました。

一番最初のお仕事は、ニュージーランドの国連大使と被爆者代表の間での通訳でした。できはどうだったかわかりませんが、単にAさんの言うことをBさんに伝えるだけでなく、社会的意義のある類の通訳のお仕事に強く興味を惹かれました。

2011年3月11日に東北で大地震があり、福島原発事故が起きました。当時、自衛隊の仕事ぶりが高く評価され、入隊者が激増しました。米国の9.11直後に米軍志願者が殺到したのと全く同じシナリオでした。その後の展開も、まるで教科書のように、9.11の後と同じでした。復興支援と言いながら、企業を助けるような政策が多く導入され、被災者・被曝者は今も冷遇されています。

その後、ニューヨークでは核についての学習会が盛んになりましたが、NGOの多くは予算がないので、ボランティアの通訳を探していて、私はしょっちゅう駆り出されて、それがトレーニングになりました。

2012年には、会社をやめて通訳になりました。同年2月末から3月にかけて国連の婦人会議(UNCSW)があり、私のクライアントのひとりが福島出身でした。昼は国連で通訳し、夜は東北大震災の1周忌・追悼イベントに行くというような毎日でした。 国や大企業がスポンサーのイベントでは、私のクライアントはスピーチをさせてもらえず、環境保護団体や、反核団体のイベントでは大歓迎されました。彼女の原稿には、「国の責任」や「東電の責任」を問う部分があったからです。

そんなイベントで、必ずと言っていいほど、ピースボートの米国支部のディレクターとよく顔を合わせ、親しくなるうちに、ピースボートのボランティアスタッフになりました。この団体は、国連の諮問資格のあるNGOで、国連会議に数多く出席しました。

実際に初めてピースボートに洋上通訳として乗船した時に、Z・Yさんとお会いして、ご一緒に北半球を一周をしたのです。その後南回りにも乗りました。北回りは搾取する側、南半球の旅は搾取される側の国々への訪問です。

全部で6回のピースボートと、他の海外客船でのお仕事で、55~60カ国ほど回るなかで、大学(国際学専攻)で学んだことと現実とのギャップがあることを知りました。

2020年のパンデミック騒ぎの直前までに、やりたかったことをやりきった満足感を得ることができました。スペイン語学習のために、グアテマラやコスタリカ、パナマなどを訪ねて、世界中のバックパッカーたちとお友達になりました。中米には、危険だと言われる国々がありますが、若いヨーロッパの女性たちが平気で中米を旅していました。米国人には見せたくない歴史の汚点があるからのようです。ここでもしっかりと歴史を学ぶ必要があると思いました。

帰国後3月には駆け足でモントリオールに行って友人と合流し、翌日米国側に戻った直後に、カナダとアメリカの国境がパンデミックのために封鎖されました。暗い日々が始まった頃、ワシントンDCにあるアメリカン大学のデイビッド・バイン教授を中心に、グローバルアピールを書こうと19カ国の代表者が集まり、私も招待されて約60人の仲間とズーム会議に何度も参加しました。

コロナ禍前は対面式会議が中心でしたが、この頃からオンラインでどこに居てもできるということを学びました。 元々ハイキングや山歩きが大好きだったので、ネットにアクセスできる「ど田舎」に住もうと決心し、4月の中頃から毎週のように片道7〜8時間かけてカナダの国境近くのNY州北部に棲家を求めてロードトリップをしました。9回目の旅で見つけたのが現在住んでいるアディロンダック国立公園の北の端にある山小屋です。

この辺りにはアーミッシュの人たちが沢山住んでいます。「バギー」と呼ばれる馬車で移動する彼らは、ゴムのついたタイヤは使いません。農作業が主な仕事ですが、他に大工、左官、水道工事、電気技師、キャビネット作り、雑貨屋など、様々な職業を営んでいます。(電気も水道も使わないのに仕事はできるんです!)普段着も正装も全て(足踏みミシンの)手製です。家の改装は、アーミッシュの大工さんにお願いしたので、馬車で通勤してました。この辺りのアーミッシュの人は写真や身分証明のようなものを持たず、クレジットカードも持ちませんので、常に現金を使います。

この北国では、春、夏、秋は2ヶ月ずつで丸っと半年冬です。長い冬の間に夏に売るものを作ります。店には、パン屋さんや、クラフトショップがあり、バスケットや鍋敷きなども売っています。樹液を24時間煮詰めて作るメープルシロップなどもあります。
 

(写真を見て)「これは何でしょう?」18インチの厚さの発砲スチロールの壁でできた部屋で、氷を入れて使う冷蔵庫です。この中に大きな氷をいっぱい入れて、空いたスペースに食べ物を置きます。夏まで氷があるそうです。停電しても全く影響ありませんね。

父親が成人する息子(21才)に送る物としては、ライティングビューローがあり、女の子には、ドレッサーやたんすがあるようです。大人になり独立できるというの は、自分の責任でクリスチャンになることだそうです。

アーミッシュというのは、非暴力のキリスト教徒で、プロテスタントですが、歴史的に平和教会と分類される宗派の一つです。

ここでちょっとプロテスタントが生まれた歴史をお話しますね。十字軍の遠征が地中海貿易の繁栄とカトリック(ローマ帝国)の拡大をもたらした結果、ローマの腐敗が始まりました。

メディチ家出身の教皇レオ10世は、大聖堂のフレスコ画を完成させるため、レオナルド・ダ・ビンチを雇い、多額の借金をしました。その返済のために、托鉢の坊さんティッツェルをドイツ語を話す地域に免罪符を売りに行かせます。元々免罪符というものは、十字軍に持たせたものです。軍人として人を殺すことは、聖書の教えに叛くことになりますが、それを許すためのものでした。 ティッツェルは、「いくら払うとこの罪が消え、もっと払うとこんな罪も消える」と言って免罪符を売り歩き、ローマの腐敗ぶりにうんざりしていたマーチン・ルーサー(マルティン・ルター)の怒りを買います。

16世紀のヨーロッパには、中国から印刷技術が伝わっており、彼は聖書をドイツ語に翻訳し、ローマの腐敗を訴える「95ヶ条の論題」は各国後に翻訳されて、ヨーロッパ中に広まりました。

彼がローマに呼ばれても行かなかったのは、80年ほど遡って、チェコのジョン・ハスという神学者が、ローマの腐敗を問い、ローマに呼ばれ、素直に従ったために破門された上火炙りの刑に処せられた前例があったからです。破門されたルーサーは、自分でプロテスタントを始めました。

カトリックにおいては、神父が神と信徒の間で権威を持ちますが、プロテスタントでは、神との直接の関係を重視するため、全ての信徒が聖書を読めるように読み書きを学びます。ですから、16世紀から識字率が上がり、女流文学が登場するのもこの頃です。プロテスタントの一派、歴史的平和教会派は、聖書を尊重し、決して戦に加わりません。その中で、アナバプティストと呼ばれる一派は、生後直ぐの洗礼を行わず、21歳になって成人してから、自分の意志で神との直接の繋がりを尊重するクリスチャンになるために洗礼をうける人たちです。

アナバプティストからメノナイトが分離し、メノナイトからアーミッシュが分派しました。

1632年のドルトレヒト信仰告白で成文化された信仰に同意し、16世紀に書かれたアカプラ讃美歌を歌うこの人たちは、バギーで移動し、ドイツ語起源のある種の方言を話し、神学教育を受けない一般人が教会の責任者です。「教会」という建物はなく、グループの人の家を順番に使って、隔週の日曜日にミサを行います。各コミュニティは、同一 の服装、ヘアスタイルです。

S・Fさん:学校は?

レイチェルさん:うちの近くの学校は、アーミッシュのお嬢さんが一人で8~14才まで教えます。一般の学校には行きません(が、公立校用の地方税は払います)。14才以降は独学で本を読んで勉強します。夕食後、テレビもラジオもない家庭では、読書が当たり前。子どもたちの夏休みは農業の手伝いもするので、長いです。くらしの中では、電気もなく、水道もないので、本を読むときには、ランプの光で読みます。

各グループごとに異なる細かい決まり事があります。官僚的要素はいっさいありません。

戦に行かない代わりに奉仕活動を望んだため、ヨーロッパでは、80年間に2500人が殉教しました。支配者は彼らに転々と引っ越しを強要し、荒れ地を開拓させた歴史がありました。

M・Oさん:どうしてアメリカへ?

レイチェルさん:1730年~1770年代には、信教の自由を求めて500人(第一波)が、1816年~1860年代に、1500人(第二波)がアメリカに移住しました。元々当時はまだ電気が発明されてなく、発明されて普及しても、彼らは使わない選択をしました。現在も電気もガスも水道も車も使わない生活をしています。

全米にいますが、特にペンシルバニア州、オハイオ州、ミシガン州、ミズーリ州、ケンタッキー州などが多いです。最近ニューヨーク州の北部で急増しています。

水や土地の質が良い上に、後継者不足の農家さんが安く土地を売りに出すケースが多いので、引っ越してくる人が増えてきているようです。オハイオ州やケンタッキー州からこちらに引っ越してくる人が多いです。

亀田さん:アーミッシュは、それでも共生するのですか?

レイチェルさん:ヨーロッパでとことん排斥されたので、政府や権威を嫌います。政府嫌いはDNAに染み付いてるみたいです。日本では中国やロシアが独裁だとの批判を多く耳にしますが、アメリカも民主・共和党という二つの0.5大政党が一緒になって一党独裁です。二大政党制とは、表向きだけなんです。私は決して、バイデンもトランプも支持しませんが、トランプ支持者の多いこの土地に住んでみて、都会に住んでいた頃に抱いていたトランプのステレオタイプは、メディアが作ったと言えます。金持ち優遇政策だとすり込まれていましたが、実際農家さんや商店経営者も含めた中小の事業主が彼の税制改革で減税の恩恵を受けていました。

アーミッシュの写真から:牛や馬の方が、人間より多いです。薪を焚いてくらしています。

薪ストーブ一台で、暖房・煮炊き・給湯・ごみ焼却・洗濯物の乾燥・アイロンの6役をこなしますので、それぞれの機能ごとにエネルギーを使う暮らしの方が非効率的に見えます。私は彼らの暮らしぶりを見習って人間らしさを取り戻したいと願っています。

亀田さん:質問は?

M・Sさん:アーミッシュは、血のつながりの部族と思っていました。ここで生活したい人が入り、出たい人は出るのですね。

レイチェルさん:グループによりますが、うちの周りのアーミッシュは、出たい人は出てますし、出た後も家族との交流は普通にやっています。電気や動力が発明される前は、アーミッシュもそうでない人たちも同じ暮らし方だったので、ヨーロッパからやってきたアーミッシュに加わる人もいたそうです。

死ぬまで一生予防接種もしませんし、注射というものを一切しません。コロナ禍でも普通に学校に通って、真冬の吹雪の中でも外で走り回って遊んでいました。

児嶋:ジェンダーの役割が決まっているようですが、抵抗はないのでしょうか?

レイチェルさん:ジェンダーの問題は、簡単ではないですが、あまり問題にはなっていません。

M・Oさん:国連でも、アメリカは戦勝国であり、日本は何も言えなかったはずです。

レイチェルさん:デジタル社会になり、いろいろな統計が取りやすくなりましたね。世界中でネットに載っている情報を100とした場合、それぞれの言語がどれくらい使われているかというと、英語が56%、ヨーロッパ言語がそれに続きますが、日本語は、2.4~4%くらいです。その狭い幅の中の9割以上が国内関連の記事ですよね。国際ニュースなんてほんのちょっとだけです。このような現状では簡単にコントロールされてしまいますね。知られたくないニュースは翻訳せずに、日本人にはこう思って欲しいというニュースだけ和訳すればいいのですから。

M・Oさん:日本はメディアコントロールしやすい国と言われています。

亀田さん:国連の会議でも河野太郎さんは、日本語でした。

M・Oさん:自然と共生する知恵は日本にはありますが、若者に目覚めてほしいですね。伝統も守るように。

レイチェルさん:今回のツアーで広島や長崎で資料館も見学し、歴史改ざんが進んでいることを発見しました。長崎の資料館の年表では、1945年の1月に天皇が降伏の用意があることを示し、それを連合国側が拒否したと書かれていたのを記憶していますが、今回行ったら、その部分の表記がありませんでした。アメリカ政府は、情報を武器化していると思います。

NTIAとFCC (←この部分はもっと複雑で長いので割愛してください。来年の発表で、もっと詳しくご説明させてください)

亀田さん:時間です。今日はこれで終わります。質問の在る人はあとで自分でやってくださいね。

M・Oさんの英語での自己紹介文 :Global Session self introduction

  My name is Masakazu Otsuki, based in Kyoto yet act for globe to create something new for client, self projects now my amount of effort into Global Cooperation which I’ve learned it in the graduate school in Tokyo.

an artist, a designer, creator, producer, existing label makes me express various but I’m who I am, I do create what I want to do.

 One thing I wanted to mention you NYC is the city I used to live, which inspired me, nurtured all my creativity, sensitivity, identified national differences, realized deep cultural identity in Japanese, and diverse perspective. 

The first to live alone, the first to go abroad, and the first to eat cheap Chinese food. 

That was all NYC I had experienced. 

Never forget that day made my whole life shifted in a good way. 

It was September Eleven as two airplanes attacked the World Trade Center. 

I deeply felt how people had been affected by insecure tragedy when facing true fear, awful things, and extraordinary anxiety. 

My whole life was completely transformed into how I live my life. 

So much memory I had experienced there.
 
Mankind sometimes awake or gets awareness by these catastroph include previous Corona crisis.

People often warn now the world is dystopia.
 
But we really think so?

My sincer pleasure to hear your thoughts, global mindset, and your precious experience about how we live together in this uncertain time.

 大槻正一です、京都を拠点としてますが、世界と共に何か新しいものを作り出してます。
クライアントと共に、また自身での取り組みであるプロジェクトの場合もあります。

今は特に国際協力の分野に勢力を注いでいて、東京の大学院で学びを深めてます。

アーティスト、デザイナー、クリエーター、プロデューサー、現状様々なプロフェッショナルで僕を肩書きするものはありますが、僕は僕であり、僕が好きなものを創造するだけです。

レイチェルさんに一つ強く言及したかったのは、レイチェルさんの住むNew Yorkは僕も以前住んだ街であり、創造性を、感性を沢山感化され、日本人としての国民性の違いを確固たるものとし、日本の文化の深みを再確認し、多様な価値観を学びました。

初めて一人暮らしをした街、初めて海外を訪れた街、初めてこんなにも安い中国のご飯を食べた街、それら全て経験したのが他ならないNew Yorkという街でした。そして僕の人生を良き方向へと導いてくれた、決して忘れてはならない日があります。

それが、2001年9月11日で、2機の飛行機がワールドトレードセンターにテロを仕掛けたあの日。その時、僕は感じたのでした。人々が真の恐怖や、最悪な悲劇に、尋常じゃない不安に襲われた時の影響たるその凄まじさ。

この出来事が、僕の人生そのものをどのように生きるのか?を深く考えさせたのでした。言葉で言い尽くせないほどの思い出が色こく残っています。

 人類は、度々このような『悲劇』9.11含め、例えば先のパンデミックなどもそうですが、我々を目覚めさせる、気づきをもたらす機会となることがあります。

 人々はよく『今の世の中は反理想郷、暗黒の世界だ』と言及します。果たしてそうなのでしょうか?今の複雑な現状にあって、この一つの地球上で如何にして私たち人類が共に生きるか?

 レイチェルさん、貴方の考え、グローバルに培って来られた価値観、そして貴重な経験を伺えること、この上なき光栄に思います。

2023年9月23日(日)第367回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2023年9月23日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:玉野井麻利子さん(アメリカ大学名誉教授・文化人類学)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:14名

 今回のタイトル:「アメリカ人は日本人をどう見ていたか」

自己紹介

亀田さん(コーディネーター):では、それぞれの自己紹介をどうぞ。

Y・Nさん:ひまわり教室で指導しています。小学校教員をしていました。今日のタイトルが楽しみで参加しました。

M・Yさん:ひまわり教室の指導をしています。中学校の教員でした。

N・Kさん :ひまわり教室の指導をしています。小学校教員でした。

F・Kさん:初めての参加です。滋賀県の日野町というところに住んで居て、最近京都の四条河原町付近に引っ越しをしました。児嶋さんとは、短歌での知り合いです。

S・Fさん:GSは5年ぶりの参加です。英語の小説を読む会に参加していて、「日系人の強制収容」の話を読んでいて、今回のテーマの「アメリカ人は日本人をどう見て居るのか?」に興味があり参加しました。

E・Tさん:京都の北の京北町に住んでいます。仕事は島津製作所で、真空ポンプ作りなどをやっています。

R・Sさん:ひまわり教室の指導をしています。テーマに興味があります。アメリカでのアジア系アメリカ人に対する差別があることは知っていますが、「ゆれているアメリカ」を感じているので。

M・Fさん:タイトルに興味があります。このGSは、私は多分参加者としては、一番古くからいると思います。今も子どもに映画制作を教えたりして、活動しています。

Z・Yさん:ひまわりで母語指導をしています。中国出身です。この9月から市の外国につながる子どもたちへの母語支援者をしています。玉野井さんのGSは、2回目です。

Tさん:ブラジル出身で翻訳者をしています。2022年4月に京都に来て今も住んでいます。

児嶋:1999年から亀岡市交流活動センターでGlobal Sessionを始めて今回は367回目になります。2011年に私が退職してからは、オフィス・コン・ジュントとして主宰者として開催しています。

亀田さん:大津市から毎回参加しています。ツアーガイドをしていますが、最近は外国人が多くなり、オーバーツーリズムが問題となっています。コロナの間は、旅行客がいなくて、タクシーの運転手などもちがう仕事に行ってしまったので、人員不足が深刻のようです。タクシーもバスも足りないようです。今は1ドルが148円くらいで外国より安いので、来やすいのでしょう。

では、玉野井さんから、自己紹介をしてその後、お話しをお願いします。

グローバル・セッション開始

玉野井さん:アメリカ在住50年を越えていますが、私は「日本人」です。カリフォルニア大学ロサンゼルス校の人類学部で教えております。今は引退しましたが、アメリカの大学は、引退というのが、はっきりしなくて、今も大学院生の指導のため、日米を行ったり来たりの生活をしています。

今日のお話の題名は「アメリカ人は日本人をどう見ていたか」で、過去形となっていますが、日本に対するアメリカ人の考えは常に変化しています。これは日本人のアメリカに対するイメージがどんどん変化しているのと同じです。明治の始め頃、日本は積極的に西洋の文化を取り入れようとしました。ところはそれからたった数十年ですっかり変わってしまい、鬼畜米英という言葉に現れているように、西洋に対して戦争を始めたのです。ですから今日はそういった歴史を踏まえ、アメリカが建国された18世紀後半から現在に向けてお話ししようと思います。

さて、アメリカとは、どんな国なのでしょうか?

1492年にコロンブスが中央アメリカのとある島にたどりつき、ここをインダス川の流れるインドとまちがったことから始まりました。しかしその後、新大陸についての知識はなかなか広がりませんでした。ですからヨーロッパから新大陸への移民の流れはそれからいく世紀たってから始まるわけです。ところが新大陸には先住民がおりました。いわゆるNative Amercan Indianと呼ばれる人たちです。その人口は16世紀には1000万人いた、と言われています。ヨーロッパから移民した人たちはこの先住民たちを動物のように扱いました。彼らは天然痘などの病気を持ちこみ、殺戮を繰り返し、そのため、アメリカ先住民の数は、20世紀初めには、30万人ほどになってしまいました。さらに白人の植民者たちはアメリカ先住民の子どもたちを親から離し、全寮制の学校に入れ、「アメリカ人」への同化を強制していきました。19世紀になると、Andrew Jacson大統領がAmerican Removal Actを発令、アメリカ先住民の多くはいわゆる保留地に追いやられます。つまりアメリカは西洋からの移民と、アメリカ先住民と、さらにアフリカから奴隷として連れてこられたアフリカからの移民が共存する国であり、アメリカ人とはこれら全ての人たちを指すのですが、日本人の多くは「アメリカ人」といえば白人を思い浮かべる人たちが多いのです。一つの例としてですが、アメリカの若い学生たちの中には、日本を知るために、日本で英語を教えたいとい多くの若者がいます。ところが日本の英語会話学校などでは「白人」を採用することが多く、日系人や黒人は、採用されないという差別がありました。彼らもアメリカ人なのに。。。

アメリカ人について、もう少しその歴史を見てみましょう。

今皆さんが見ている絵(スクリーン)はアメリカではManifes Destinyの絵として知られています。 中心にいる女性はコロンビアと呼ばれる、「アメリカ」の象徴です。彼女はもちろんイギリスから移民したのでしょう。そしてイギリスからどんどん西へ西へと西洋の文明を広めようとしています。彼女が持っているのは電話のライン、そして子供のための学校の教科書です。この絵の中にはアメリカ先住民もアフリカからの奴隷も見当たりません。

 東からやってきたアメリカ人(白人)が西海岸にたどり着いた頃、アジアからやってきた中国人や、のちに日系人と呼ばれる日本人も新大陸の西海岸に到着します。アメリカでは1863年に奴隷制度が廃止されため、今度は中国人や日本人が奴隷に変わって鉄道の建設や、農地を広げていくことに駆り出されたのです。日本からは、年間約3万人がアメリカに移民として到着したと言われています。しかし「黄色い肌の有色人種」に対する白人アメリカ人の差別はひどいものでした。この現象はYellow Peril(黄禍)と呼ばれ、アメリカだけではなく、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、ロシアなど、アジア人が移民した国々で起こったのです。

日本人にとってアメリカ人(白人)との結婚が許可されていないので、日本からお嫁さんを呼ばなければなりません。この現象は「写真花嫁」と呼ばれていて、まず日本にいる女性が自分の写真をアメリカに移民した男性に送り、気に入れば彼が彼女を呼び寄せたのです。それでも黄禍の波は止まらず、アメリカ政府は1924年に日系人移民を禁止、1941年には、太平洋戦争が始まり、1942年には日系移民の強制収容が始まりました。 

児嶋:1985年から88年まで住んで居たブラジルでは、ミックスが一番美しいという考え方があり、化粧品のファンデーションの色の多さにびっくりしたことがあります。

Tさん:ブラジルでは、肌の色はどんな色でもいいと言われ、ブラジル人は、白人とか、黒人とか、言われていないです。

玉野井さん:北アメリカと南アメリカ(ブラジルやアルゼンチンなど)の状況はかなり違っています。南の場合、スペイン、ポルトガルからの移民は、やはり病気を持ち込んだり、アステカ文明を破壊しますが、根底にあったのはキリスト教の布教でした。北アメリカでは宗教はそれほど問題になりませんでした。

今度は太平洋戦争の間にアメリカ人の日本人に対するイメージがどのように変わっていったかをお話しします。(スクリーン)。ここに当時アメリカ政府、軍がカリフォルニアで「敵である日本人とは一体誰なのか」を示すポスターを作り、あちこちに配布したと思われます。

白人アメリカ人にとっては日本人(敵)と中国人(中国はこの戦争では友)の区別がわからないために、どのように区別するのか、教えているわけです。

中国人

  • 表情が従順、温和、平和を愛する
  • 背が高い人が多い
  • 中国人は、特にお金持ちの人は太っている。
  •  眼と眼の間が広い

日本人

  • 表情が狂信的、残忍、軍国主義
  • 押し並べてみんな背が低い背が低い
  • 太った日本人は少ない。年をとると、もっとやせる。
  • 眼と眼の間が狭い。
  • 会話がへた、間違ったところで笑ったり、大声を出したりする。

今読んでみると、日本を敵と仕上げるために作られたイメージとしか言えません。中国人を差別したことをすっかり忘れています。このようなポスターと共に、日本人を描いた漫画があります。それらは全て眼鏡をかけていて、出っ歯の大男であったり、猿だったりします。

この戦争で日本人はどんなアメリカ人のイメージを作ったでしょうか。

興味深いことに日本で作られたイメージはアメリカ人に比べ、日本人がいかに優れているかを表すイメージです。例えば日本人の女性が頭のふけを払っているのですが、それらに名前がつけてあり、

ぜいたくや利己心、拝金主義はアメリカ人の得意とするもので、日本人はそうではない、と伝えていますし、白人のような桃太郎が鬼となったアメリカ人をやっつけたり、ルーズベルト大統領、蒋介石、チャーチルをこらしめた日本の若者を、アメリカの黒人が喜んで褒めています。つまり日本人はアメリカ人のように人種差別をしない、というイメージです。

こうしたイメージによる戦争は戦後も続きました。

アメリカは日本を占領した後、日本の男性のイメージを「可愛らしい、これから民主主義を習う、お猿さん」に変えました。1980年代に日本の自動車産業がアメリカのそれを抜いた時、一人のアメリカ人の男がVincent Chenという中国人を日本人と思い、彼を射殺しました。コロナが始まると、やはりアジア人への暴力が再燃しました。

さて結論です

私はアメリカという国、アメリカ人は、どこの国の手助けも得ることなくやっていけるという自負を持っていると思います。つまり内向きというか、例えば地球上のどこにいっても英語を使える。そのため外国語取得に懸命になる人はあまりいません。アメリカにいれば、なんでも知ることができる、というような空気。日本のことだって知っているよ、と軽く言われ、日本人は「真似をすることが上手」と言われると、悲しくなります。トランプがまさにその象徴です。しかし人種間の関係は決して健康ではありません。以上です。

あとは皆さんの感想を聞かせてください。

M・Fさん:アメリカには何度か行ったことがありますが、日本人は見下げられていると感じることがありました。高級なレストランでは、入り口に座らされるのです。ホテルから予約すると、奥の良い席が用意されますが。別の時に、ノーマルな服装で行ったら、ブレザーやネクタイをしていないと入らせないということがありました。ホテルで背広を取ってきたら、入れましたが。

S・Fさん:戦争は勝った方が押しつけるので、日本は負けたので、差別もあるのでしょう。日本も関東大震災の時には、朝鮮人殺害をしていますね。

Z・Yさん:他言語や他文化を学ぼうとするひとが少ないという話がありましたが、英語は世界のことばになっていますが、アメリカが全てに一番ではないですね。日本だけではなくて、アジア人対して差別意識はありますね。中国人は、突然高い声で笑うとか、アメリカ人も大声でわらいますけれど。

児嶋:オクラホマ州立大学京都校(OSU-K)が亀岡に1990年から1996年までありましたが、私は、その時に職員をしていました。そこのアメリカ人の校長先生は、今も友人ですがその人から何度も「アメリカが原爆を落として戦争が終わった」と言われました。このことは、戦後のアメリカの教育の内容だろうと思い、悲惨さや被害が何年も継続するということを日本政府がアメリカにはっきり言わなかったために、学校でそのように教えたのだろうと思っています。

玉野井さん:アメリカは戦場にならなかったために、悲惨さがわからないのでしょうね。「はだしのゲン」を見て少しわかって来たでしょうか?戦後も配給でしか砂糖をもらえなかったとかも。

M・Fさん:以前、ハワイに行ったときに、ホテルの人から、「ひとりでパールハーバーには行かない方がいい。日本人を憎んでいるひとがいるから」と言われたことがあります。

E・Tさん:アメリカ人がみんな、見下しているわけでもないと思いますが。他の文化や言語を学ぼうとする人が少ないというのは気になりますが。学習する意欲を持って世界へ出ようと思わないのでしょうか?

玉野井さん:親日家のドナルド・キーンさんのような人もいますね。

児嶋:個人的な友人としての付き合いはもちろんありますが。

玉野井さん:アメリカで、日米学生会議に参加したことがあります。互いの文化を知り合うことが目的です。お互いの知識を交換するのが目的ですが、お互いわかり合うことは難しいなと感じました。

児嶋:先ほどのOSU―Kの卒業生は、今もアメリカ在住の人もいます。獣医師になり、アメリカ人と結婚し、大学で教えているようですが、大体は日本に帰国して仕事をしているようですね。

Y・Nさん:鬼畜米英と言っていた時代もあったのだと今さらながら知りました。考え方は時代に沿って変わってもいいと思いますね。

児嶋:今も残っている課題はありますね。

Tさん:玉野井さんは、アメリカで差別は受けましたか?

玉野井さん:1977年にまずアメリカのシカゴで暮らし、その後ボストン、ニューヨークへ、それから西海岸のロスへ行きました。個人的な差別はなかったと思いますが、差別されるようなところにはいなかった、ということだと思います。

Tさん:最初から英語を使っていましたか?普通にアメリカ人と接触されていたのですか?相手の振る舞いは?

玉野井さん:いつだったか、ひとりの友人に言われたことがあります。「玉野井さんは、日本人ではないみたい」と。これ褒め言葉ですが、どう解釈すればいいのか悩みました。

Tさん:現在もアメリカ人の若者と接触されていて、友人もいらっしゃると思いますが、日本や韓国の文化に好印象を持っている人はいますか?

玉野井さん:日本のアニメが好きな学生が多いですね。韓国の文化も人気があります。台湾に最近行ったときに、韓国語を学ぶ人が多いのにびっくりしました。日本語研究も盛んですし、中国研究はすでに多くあります。

Tさん:日本や韓国はソフトパワーが強いですね。

玉野井さん:特に若い人はそうですね。

Tさん:平和的手段で学ぶことが大切ですね。

玉野井さん:政府が入り込むと、うまくいかないのかな?

児嶋:言語の学習は大切ですね。

F・Kさん:私は、滋賀県の日野市という人口2300人ほどの町に実家があります。実家は220年ほど続いた家で、江戸時代の先祖の暮らしがわかる物が残っているので、市の学芸員の人に頼んで整理をしてもらいました。日清、日露戦争の時代の戦勝記念品のような物もありました。その中には、代々、開けてはいけないと言われていた物もあり、出金簿と書かれていました。日中戦争の献盃としてのすずのとっくりなどもありました。この日野町のような文化を理解しようと思ったら、歴史を知り合うことが大切なのだと思います。古文書をひもとくと、いろいろな歴史を知り、若い人に伝えたいと思うようになりました。今は、京都市に移転してその家は、別のひとがそのまま購入することになっています。

「アメリカが内向きになっている」と聞き、気になりました。

今も、日野町には朝鮮人街道があります。石どう寺というお寺もあり、近江八幡市には安土城もあります。

亀田さん:外国との付き合い方は、秀吉の時代から変化してきたようですね。

F・Kさん:韓国からの修学旅行の学生が京都の耳塚に来ていますね。毎年慰霊祭がありますが。

Z・Yさん:私の中国の実家は、北朝鮮との国境の町にあります。丹せん市といいます。朝鮮戦争の時に朝鮮人集落がありました。

亀田さん:さて、時間も来ましたのでこれで、終わりにしますが、感想や言いたいことがあれば、児嶋さんまでどうぞ。

今日は、玉野井さんありがとうございました。

開催後の感想から 

N・Kさん

先日はありがとうございました。global sessionに伺うと、いつも行ってよかったと思うのですが、今回も、アメリカの歴史と、国の内情や日本人への見方などのお話をお聞きして、大変興味深かったです。

アメリカの歴史のお話を聞いて、その国の人々の考え方はその国の歴史から出てくるのだなあと思いました。「アメリカといえば白人を思い浮かべる人が多いが、実は他民族国家」というお話を聞いて、改めてトランプ大統領がプアーホワイトの男性から支持を集めている理由を思いました。玉野井先生は、お若い頃にアメリカに渡られ、アメリカで職につかれて現在に至っておられる由。どれほどのご苦労があったことかと思いますが、明るく穏やかで、「差別は感じたことはない」とおっしゃる言葉から、強靭さとしなやかさを感じました。歴史からその国の人々の考え方が出てくるのなら、すぐ近くの韓国や中国、フィリピン、インドネシアなどの国々には、どんな歴史があるのでしょう。勿論、太平洋戦争の歴史があるのですが、それ以前にも長い歴史があるに違いありません。昔からの日本との関わりなども知りたいなあと思いました。また、お話を聞きたいです。ありがとうございました。学ぶことは楽しいなと思います。機会を与えていただいていることに、感謝しています。

今後ともよろしくお願い致します。

2023年8月20日(日)第366回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2023年8月20日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:村田英克さん(JT生命誌研究館:表現を通して生きものを考えるセクター・高槻市立富田小学校PTA会長・150周年実行委員長)
コーディネーター:藤田宗次さん
参加者:8名

 今回のタイトル:「一人ひとりの“もちあじ”と生きものごとの“もちあじ”」

<村田英克さんから>

前回(昨年)は、私のつくった生命誌研究館の記録映画「食草園が誘う昆虫と植物のかけひきの妙」をご覧いただき、私たちと生活圏を共にする身近なチョウや植物から「私たち人間を含む、多様な生きものの関わり、つながり」を話し合いました。私は、研究館では、生命科学の知見に基づき、38億年という長い時間が育んだ生命現象の豊かさ、その関わりの中での、生きものとしての人間を考えるための展示や映像、季刊誌などの表現に携わっていますが、その立場にあって、いつも、自分自身の「生活者」としてのありようが、問われているように思っています。 

今回は、まず私がつくった記録映画「とんだの“もちあじ”」(32分)をご覧ください。私がPTA会長をつとめる小学校の創立150周年記念の作品です。以下、記念冊子に記した作品紹介です。

「富田小の子どもたちはうらやましいなあ。」それが、わが子を通じて、常々思っていた実感。そんな学校を自分ももっと知りたい、との思いから、うっかり引き受けたPTA役員。しかし、PTA活動を通して、知れば知るほど、やっぱり富田小は素敵。背景にあるのは、富田の町に今も息づく歴史と文化。その豊かな資産を、子どもたちが成長する日々につなぐ努力をおしまない先生方、暖かい地域の方々。そして、このような肥沃な土壌を、これまでに培ってこられた歴代先生方、卒業生、地域の皆さまのご努力と連携があってこそ、の今を、とてもとても羨ましく思います。今ここにある人と人とのつながりを、これからも大切にしていきたい。創立150周年ほんとうにおめでとうございます。これからの発展を心より祈念いたします。

自己紹介

藤田さん(コーディネーター):では、みなさんの自己紹介から始めます。

Z・Qさん:中国出身で、日本に来てから2年半です。河南省から来ました。

E・Tさん:島津製作所という会社で、真空ポンプなどを作る仕事をしています。8月11日から20日まで夏季休暇で、明日から仕事です。

K・Yさん:ひまわり教室で、読み聞かせ担当をしています。今まで村田さんのGSは、2回参加しています。今日も村田さんのお話しが楽しみです。

H・Kさん:前回のGSでも、生命誌研究館のお話の中の蝶々と、お能の『胡蝶』の小鼓のイメージが強いです。涼しくなったら、生命誌研究館にも行ってみたいと思っています。今、カナダやハワイのマウイ島で大きな山火事が起こっていますが、その原因についても知りたいと考えています。滋賀県の大津市から来ていて、ほとんど来ています。

児嶋:Global Sessionは、私が亀岡市交流活動センター在職中の1999年から始めました。現在は、366回目で、20年以上続いていますね。最初はもっと英語の学習のように始め、月に何度もやっていましたが、現在は、月に一度で定着していますね。2011年4月からは、私たちのオフィス・コン・ジュントの主催で継続しています。

藤田さん:私は、最初から参加しています。先ほど言われたように、英語の学習から始まったのですが、最近は、日本語でのセッションがほとんどですね。映画会社に勤めていて、今も東映映画村を中心に、映画関係に携わっています。

 では、村田さん、お願いします。

グローバルセッション開始

村田さん: 映像を見ながら話合いをしていきたいと思います。

 私は、今年60才になり、この4月から管理職をはずれましたが、再雇用として、生命誌研究館で相変わらず表現に携わる仕事しています。2022年のセッションでは、映画「食草園…」を見て頂きながら、身近な昆虫と植物の関わりを探る研究と、生きもの研究と生活者としての私たちの日常との接点や重なりについて話し合いました。

藤田さん:映像の脚本はだれが作られるのですか?

村田さん:映像作りをされている藤田さんならでは、の突っ込みですね。

 劇映画であれば、まず構成や脚本から制作が始まると思いますが、記録映画の入り口は、実際に面白い出来事が起こっている現場の魅力をいかに伝えるか? というところになるので、「撮りながら考える」ことが大事だと思っています。もちろん、まず撮ってみて、次には、撮れたものをいかに生かすかという風に、種から育てるように、構成を、映像のつながりや展開を考えて、育てていく、というイメージで映画をつくっています。

 で、前作で、「実際に面白い出来事が起こっている現場」は生命誌研究館でしたが、今回、私は、ちょうど150周年を迎える富田小学校(とんだしょうがっこう)を「とっても面白い現場だ」と思ったわけです。

 富田小学校は、高槻市内の市街地にありながら1学年1学級で、全校で児童数150人ほど。これは、集団として、お互いに一人一人の顔、個性が見えるよい人数です。町の歴史も古く、室町時代から続く寺内町で、地蔵盆などの伝統も生きています。江戸時代から続く酒造家もあり、そうした地域の文化に触れる授業も組まれています。一人一人の個性や特徴、そして町の歴史や文化を、“もちあじ”という言葉で表現することで、小学校6年間を通して、お互いの価値を認め合い、協力し合って、生活していくことを考える。そんなカリキュラムを学校と地域が手を取り合い育んできた土壌があります。

 今回の記録映画「とんだの“もちあじ”」の中でも、「わたしの“もちあじ”ってなんだろう?」と一人一人が考える1年生の宿題のシーンから始まります。

 実は、私は、昨年PTA会長を引き受けた後で、今年が小学校創立150周年だと知らされました。私自身、たまたま今ここで家族と暮らしていますが、元々この土地の縁者でもないのに、そんな大役は…と思いましたが、逆に、外から目線だからこそ見える富田小の魅力を記録映画にまとめて未来へおくるということであれば、私にできるなと腹をくくって、150年目の児童の様子を記録映画にすることにしました。およそ半年間、仕事の合間に時間をつくって、学校へ通って撮影を始めると、私自身も直接は知らなかった、子どもたちがどのような毎日をおくっているか、元気な授業や休み時間はもちろん、自分たちで給食を配膳したりする様子や、そして先生たちの思いを、撮影し、編集しながら、全校児童の保護者の皆さんに、ぜひこれを見て欲しいなと思えるような作品として、去る7月の150周年記念式典に体育館で上映することができました。     

 映画の後半は、児童の歌声によるオリジナル・ソングにあわせて学校生活の映像をつないだメドレーのようなつくりになっています。これは、校歌とはまた別に、歴代の先生方が児童とともに作詞・作曲した「いまとみらい」「わがまちソング」など、素敵なオリジナル・ソングがたくさんあるので、そんな歴代の努力の蓄積が、受け継がれ、今も生きて学校生活を豊かにしているんだという状況を表現したかったのです。富田小学校は、地域の小中学校と連携する小中一貫教育のモデル校として、これまでに学校と地域が連携して、いわゆる総合的な学習の時間を発展させて、“もちあじ学習”などを行う「いまとみらい科」というカリキュラムを開発してきました。数々のオリジナル・ソングや、商店街のゆるキャラ「とんちゃん」、さらに「ひとりぼっちのいないまち」を目指して「子ども食堂」などを展開する地域の福祉法人の活動の場づくりにも子どもたちが参画するという好循環が根づき、育っています。

 映画の中で「S・R・P・D・C・A」サイクルという円盤状に描かれた図が出てきます。「P・D・C・A」サイクルというのは、Plan(計画)、Do(実行)、Check(評価)、Action(改善)という循環によりマネジメントを向上させようという、業務管理の手法で、以前よく言われました。いまでは古いと言われているようです。ところで「S・R・P・D・C・A」サイクルというのは、頭にStanding と Research という2ステップがついているのが味噌で、この図は学校内、各クラスに、いつも張り出してあって、子どもたちも先生もいつもこれを心がけているようです。私も最初はピンと来なかったのですが、今では、とても納得しています。つまり、子どもたち一人一人が、自分のものとして問題意識、目標を持って、これから課題に取り組む、そのスタート地点で、自分の「立ち位置」を確認することはとても大事です。途中で目標を見失わないためには、そもそも自分がなぜその課題に取り組むかを、内発として、自分自身の「問い」としなくてはなりません。そのために自分のStaiding pointを明確化することは大事です。そして、朧げに見えた自分なりの目標を、より明確にするために、周辺の状況を自分でリサーチする。目標を実現するための手がかりを、自分で調べて自分の思いと課題を整理できた段階で、はじめて計画のステップに入る。自分から周囲に働きかけて、お互いを尊重し、仲間と協力し合って、社会に働きかけていく。そういう人に育って欲しいという思いがこの円盤には込められているようです。

 さて今日は、富田小学校のお話でしたが、今日お話ししながらも、またこの映画を作りながらも、私としては、富田小学校で大事にしていることは、生命誌研究館で表現に取り組んでいる「生きもののつながりの中の人間」という考えに重なるように思っています。そして、最後のS・R・P・D・C・Aのお話は、いつも研究館で永田和宏館長が語っている「自分なりに「問い」を持つということの大切さ」に重なるものと思っています。

 映画は、2023年4月に、新1年生を迎えた「第150回入学式」で終わります。

 「いまもみらいも どこまでも つづくみちで いまを たいせつに ともにあるいていこう あたらしいなにかに かがやかしい みらいに つづいてる このみちを いまもみらいも どこまでも つづくみちで じぶんらしく かがやく ひかりをみつけよう そのひとつひとつで きれいな にじをつくり いきさきをてらしてくれる ゆめをえがこう かがやく いまとみらいへ ゆめをえがこう」

 これはオリジナル・ソング「いまとみらい」の歌詞です。

 昨年の映画「食草園」をつくっている間は、作品のエンディングで流している謡曲「胡蝶」が、いつも私の頭の中で流れていました。そして今回、映画「とんだの “もちあじ”」をつくっている間は、頭の中では、この「いまとみらい」がいつも流れていました。

児嶋:「生命誌」の本をもらって読んでいると、前館長の中村桂子さんが、ものすごい数の人たちとインタビューをしてその記録があります。これも村田さんの編集だと思います。その多くの中から、永田和宏さんが、現在の館長に選ばれたことが驚きでした。永田さんは、私が所属する短歌の会の塔の方ですが、科学者でもありますね。

村田さん:中村先生は、現在は名誉館長という立場から積極的に生命誌の発信をなさっています。その本は『生命誌の思い 100の対話』という文庫本で、創刊以来、季刊誌に掲載した対談を、ちょうど100号の時に、それぞれの対談のポイントだけ抽出して、格言集みたいに編集した本です。ホームページでは、いまも全文が読めるんですが、膨大すぎてなかなか読んでもらえないのでその入り口として、コンパクト版を編集しました。研究館は、科学と表現(芸術)と両面性があるので、双方の顔をもつ一流の方って、ちょっと永田館長の他には…。

藤田さん:17年間小・中学生の映画作りを指導してきました。今年のテーマは「あおばな」です。朝顔と同じく、朝早く咲きます。染料に使う花です。花をしぼった汁をぬったり、塗料として塗るときには、水にひたして使います。これを映画の物語として表現するという目標です。

 草津「あおばな」として有名で、京都市と草津市が主催しています。化粧品などにも使われています。この映画作りには、小学生が19人参加しました。2024年1月24日に試写会が草津市であります。俳優も、監督も、カメラマンなどの担当も子どもたちがそれぞれ担当します。東映の撮影所の指導ですが。前回の試写会には、300名の会場がいっぱいになったようです。家族をはじめ、親戚の人たちも集まって。子どもたちがそれぞれ作るしんどさと喜びを感じていたようです。後にDVDを作成し、図書館で貸し出しもしています。

 このような活動を続けていると、子どもは、だんだんはずれて来るものです。俳優はもちろん、だれもはずれてはだめなんですが、繰り返しはずれてくると、子ども自身が、「自分がやらないと先にすすまない」という現実に気が付きます。それからまた、やる気を出してやるというようなくり返しがありました。ナレーションには、保護者も参加し、年に2回この映画作りを開催しています。

 話は変わりますが、生きものの話ですが、近所にコウモリが住み着いている家があり、大変なようです。夜の7時ころ飛び立ち、朝からいます。天敵はいないのか、スプレーでも死なないで糞をまき散らします。以前、鳩が住み着いたけれども、おもちゃのへびを置いたら、来なくなったことがありましたが。

K・Yさん:近所にコウモリが住み着いた家がやはりありました。屋根と壁の間のすき間をかじり、大変だったようです。

H・Kさん:琵琶湖疎水にもコウモリがもともと住み着いているようです。ミャンマーへ仕事の旅行で行ったとき、コウモリの糞のにおいは、ほうじ茶の香りでしたが。

E・Tさん:島津製作所に勤務していますが、職場のみなさんんといっしょに考えるグループがあり、そのリーダーになっていますが、なかなか大変で、目上の人もいますし。

 学校での映画作りで、協力してもらっている方はいますか?

村田さん:この映画制作では、PTA役員の仲間には、地域の人への取材依頼や、実際に映画に出てくる催しの運営など協力してもらい一緒につくったと思っています。ただベースにある映画に写っている魅力的な学校生活や、富田の町まちづくりとつながった地域と学校の活動は、すでにこれまでの皆さんの努力で行われていたもので、私は、それを外から目線で記録係りとして記録してまわったという。今のイキイキした学校の様子を150周年の節目にぜひ映像で記録し、未来へ送りたいという気持ちがありました。

E・Tさん:リーダーになりましたが、まだ仕事をし始めて2年くらいなので、自分の知識のなさに困っています。

村田さん:メンバー一人一人の前向きな力を合わせるには、それぞれの人のモチベーションを考えながら、やって行く必要がありますね。グループには目上の人もいらっしゃると言われましたね。私自身は60才でシニア社員となって、今も現場にいますが、あまり年寄りは余計なことは言わないようにしていると、若い次世代が、私は思わなかったような方法で新しく仕事をして行ってくれているように思っています。固定観念にとらわれないようにね。

E・Tさん:目上の人は、当たり前ですが、経験も実績もあるので、自分の立場からリーダーとして接する難しさを感じています。

児嶋:私は、アメリカ大学日本校に6年間いて、その後、亀岡交流活動センターと名前を変えた同じ場所に20年間仕事をしていました。その間、市役所から代わる代わる、課長とか、センター長とかで上司として若い人が来ていましたが、仕事を仕上げていくには、ほとんど気になりませんでした。何をするかを共に考え、目標を決めたら、どうやるかをそれぞれが必死で考え仕上げていくのです。資金もそこそこあり、そのことは考えなくてもいいので、とても楽でした。市民のために共に仕事を作り、発表していくのは、楽しくていやとか、どのように付き合おうとかあまり考えていませんでした。

 でも、最初の3年間が終わって、担当課長が市の部署に帰るときに、「この3年間ほどおもしろくて楽しかったことはなかったです。」と言われて、「良かった」と思いました。今もその方達とは付き合いがありますよ。

村田さん:生命誌研究館に「研究」と「表現」の部門がありますが、それぞれ仕事内容も、空気というか、現場での価値観も、違いますから。でも、思ったことを気軽に口にできるような、日常の空気感に気をつけていけば、良い方向に行くのではないかと思います。それぞれの“もちあじ”を互いに生かし合う気持ちを大切にというのは、大人になっても大事なことだと思います。

Z・Yさん:2013年4月に夫がまだ元気だったころ、船で世界一周旅行に行きました。3ヶ月間かけて回るので、その間たくさんの写真を撮りました。それで、ビデオを制作しようという話しになり、友人たちと話をしていたのですが、そこに使用するテーマ曲の話で、最初は一致しませんでした。一人の友人は、「タイタニック号の曲がいい」と言いました。私は「イタリアのこの曲がいい」と提案しました。その友人は、「黙って!」などと言って聞こうとしませんでした。

 そこで、私は「みんなの意見を聞きましょう」と提案し、聞いた所、私の方法が採用されました。みんなの意見を聞くのもいいかと思います。

E・Tさん:自分は自信がないので、みなさんがうらやましいです。みんなの意見を聞いてどうまとめるかも。

Z・Yさん:さっきの話ですが、5人でビデオを作ろうといいはじめましたが、その「黙って」と言った人は、気が強く、プライドも高かったのだと思います。

藤田さん:さて、時間ですがあと10分で話したい事が在る人はどうぞ。

Z・Qさん:外国人として見ると、日本の小学生は豊な日常があるなと思います。教科書だけではなく、自然や社会との関わりもつながりを持とうとしていますね。中国の小学生は、自然とのつながりは少ないです。

村田さん:この学校は子どもの家庭数も150人ほどですから、PTAとしての活動もまだ意思疎通できていますが、児童数、家庭数が多い学校は、大変だろうと思います。富田の場合、申し上げたように、ボトムアップによるこれまでの人々の積み重ねがあります。本当は、それぞれの地域で、それぞれの文化を土壌に小さな協働のしくみが根付いていくといいと思うのですが。

児嶋:これが日本の普通の小学校の取り組みではないと思います。同じように150名の1学年1クラスの学校でも、しっかりとした目標をみんなで持っていなければできないと思います。これで、日本と中国の対比はしない方がいいと思いますよ。 

2023年7月17日(月・祝)第365回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2023年7月17日(月・祝)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室&オンライン
ゲストスピーカー:濱田雅子さん(元武庫川女子大学教授、アメリカ服飾社会史研究会 会長)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:8名(うちオンラインでの参加2名)
共催:アメリカ服飾社会史研究会

 今回のタイトル:服飾から見た生活文化シリーズ25回目:「写真が語るアメリカ民衆の装い(その5)-1890年代の民衆の生活文化を   垣間見るー」

セッション終了後のレポート

2023年6月2日(日)第364回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2023年5月28日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 第2会議室
ゲストスピーカー:範雲飛さん(中国出身・専門学校生)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:5名

 今回のタイトル:「人間と動物の関係:動物のことをよく思いやっているかな?」

自己紹介

亀田さん(コーディネーター:C):では、今から始めます。範雲飛さんの読み方は?

範さん:ハン・ウンヒです。

児嶋:それは、日本語の漢字読みですね。中国の読み方は?

範さん:fan yun fei (ファン ユイン フェイ)です。

亀田さん(C): 範さんという名字は、中国で多いのですか?

範さん:少ないです。

亀田さん(C): 範さんは、ゲストは今回が初めてということですが、まず、参加者の自己紹介から始めましょう。

Z・Yさん:ちょうえいと言います。京都民際日本語学校からの派遣で、大成中と千代川小学校に、外国につながる子どもたちの母語での支援に入っています。2年前から、ひまわり教室を紹介していただき、中国出身の子ども達の指導に入っています。Global Sessionもその時から、ゲストになったり、参加者になったりしながら、来ています。今日は、範さんの話を楽しみにしています。

M・Fさん:Global Sessionは、私は、長いです。最近は、最初とちょっと変化してきていますが、できるかぎり参加しています。勤め先の映画村の中島監督が最近亡くなり、その後を決めるまで大変です。

児嶋:Global Sessionは、1999年に、宮前町の亀岡交流活動センターで開始してもう20年を超えました。大体、1ヶ月に一回のペースでやり、今回は、364回目になります。M・Fさんも最初からのメンバーで、数人まだいっしょに参加されている方々がおられます。 亀田さんも少し後から参加されていますが、もうかなりですね。

亀田さん(C):コーディネーターをしている亀田です。私は、大津市に住んでいて、通っています。範さんは、今は、Z・Yさんのところにお世話になっているようですが、引っ越しはいつから?

範さん:6月末です。専門学校も、アルバイト先も近くて便利な所です。

亀田さん:毎月Global Sessionには来ていますが、コロナ禍で、ツアーガイドをしていますが、この間は大変でした。学生さんが外から来られて案内するガイドは、始まりましたが、日本人が外にガイドで行く仕事はまだまだです。昨日は、オーストラリアから、予約が入りました。今は団体客が多いですね。中国はビザの関係で、団体客の来日はまだですね。

児嶋:中国の旅行者は団体が多かったのですね。

亀田さん:日本人が中国へ行くのもまだ無理ですね。香港は入りやすいのですが、その他の地域に行くには、書類が大変なのです。キャセイ航空の場合はフライト代がサービスがあり、25,000円くらいで行けますが。香港以外は行きにくいですね。中国の規制があるので。京都は、今、外国人でいっぱいですが、ヨーロッパが多く、中国からはまだですね。ベトナムへは、6、7時間で行けるし、航空運賃も安いです。在住の中国人でも大体のツアーは、OKですが、個人旅行は、無理だと思います。範さんの自己紹介をお願いします。

範さん:2015年に初めて日本に留学し、日本語学校に入りました。20才の時です。その後、東京のミュージシャン専門学校に2年間いました。その後帰国し、2023年に4月に2回目の留学をし、介護職の専門学校に行っています。2025年3月に卒業したら、仕事をしたいと思っています。

M・Fさん:最近は、医師がやることも、介護職の人がやることもありますね。

範さん:今もアルバイトをしながら、学校に行っています。

亀田さん:海外でも介護職はできますね。

範さん:介護のバイトも日本でしています。

M・Fさん:中国では、介護職の需要は?

グローバルセッション開始

範さん:ちょっとえらそうですが、中国はまだその点では、発展途上国と思います。今日は、人間と動物との関係をみなさんに、どう思うかを聞いてみたいと思います。私は、29才の若者ですが、みなさんに、この話題についてどう思われているか、聞いてみたいと思って取り上げました。地球、世界、宇宙の在り方についても考えています。このGSを紹介してもらったZ・Yさんに感謝しています。音楽やアニメも考えましたが、今回は、人間と動物との関係について取り上げました。動物の虐待の動画もたくさん出ていますが、なかなかえぐいかもしれません。

最初は、中国の動物園でラクダを飼育員がなぐっています。

2番目は、カナダで、政府が認可していますが、アザラシの毛皮を取るために、あかんぼうのアザラシを穫っています。

M・Fさん:昔は象も象牙などが捕られていましたね。今はインド政府が禁止しているし、日本も輸入禁止ですね。

亀田さん:アフリカでも政府は禁止していても密輸が盛んです。以前ニュースで、中国の要人が象牙のみやげをもらったというのがありました。ベトナムでは、鼈甲(亀の甲羅)が、フランスでは貝を高額のジュエリーにして売ったりしています。最近ではペットはワシントン条約で入らないはずですが、東南アジアに行けば手に入るそうです。アフリカでは、自分が生きるために動物のハンティングをしています。中国でも、奥地に行けば何でも手に入ると聞いています。動物は昔は自然に動物同士が食べて減らしていったはずですが、日本にもオオカミがいて。

日本は今は鹿が多いようですね。山から田んぼに降りて来て作物を食べるようです。

熊が町に出て来たというニュースもありますね。食べ物がなくなり降りて来て人間の食べ物を見つけるとくせになるようですね。奈良の鹿はえさをもらえますが、宮島の鹿は禁止されているので、ゴミ箱をあさり、ビニールを食べてしまうそうです。カナダではシロクマがあざらしを穫ってくらしていたのが、氷が溶け出し、死んでいるとか。人間が殺すという批判もあるのが、くじらですが、日本には捕鯨団がありましたからね。

範さん:中国では毛皮は高価でビジネスになります。あらいぐまの毛皮とか。うさぎや猫や犬も料理店が求めるし。光りもあれば蔭もあるようです。

M・Fさん:おいしい肉屋さんという評判の店で食べていたときに、ひょっこり裏に行ったら、猫の頭がいっぱいころがっていて、我々は猫の肉を食べていたのかと思ったことがあります。

範さん:かいこは絹の糸を作りますが、蜘蛛の糸も何かを目的を持って使うと聞いたことがあります。次の映像は虐待ではないでしょうか?洗濯機にペット入れていますね。

今日の話題の人間と動物の関係についてですが、地球には人間と動物がいて、どちらも哺乳類ですね。人間が頭がいいかもしれませんが、動物を虐待する理由はないと思います。昔恐竜がいて、絶滅したと言われていますが、その時は、99%の動物が絶滅したと言われています。天災か人災かですが、人間の動きをつながるものであれば、許せないし、同じ人間として、恥だと思います。動物と動物も平和的な関係もあれば、そうでない場合もありますね。人間と動物のバランスが大切かと思います。力が強いから暴力をふるっていいでしょうか?力があるからこそ、責任をとる必要があると思います。

人間は、人間同士のことを考えて、祈ることもあります。動物のために祈るひとはいるのでしょうか?

亀田さん:日本では、ペットは家族の一員という考え方がありますね。

M・Fさん:ペットのお墓もありますね。ペットのためのお寺も神社もあります。

Z・Yさん:母が猫を飼っていましたが、魚など料理をして与えていました。自分たちより猫が大事みたいに。

児嶋:猫はえさをやるひとになつきますね。

M・Fさん:昔、うちでは牛を飼っていました。牛は耕す大切な動物として扱われ、一軒家の牛用の小屋があり、玄関のひだり隣が、牛小屋でした。寝床の古草も整理してきれいにしていました。馬も車がなかったから、荷車をひくので、大切にされていました。竹の鞭もありましたが、牛も馬もへたな使い手には動かないようでした。

児嶋:今、中国は、ペットがブームと聞いた事がありますが、そうですか?

範さん:まだ動物の保護法は一般的ではないようです。法律はまだ甘いと思います。

M・Fさん:ペットにかまれたら、予防注射がしていなかったら、大変ですね。ブータンでは、犬にかまれたら、危険と言われています。

亀田さん:日本でも、あらいぐまやハクビシンは危険です。

M・Fさん:動物もペットショップで買えば、予防注射を打ち、病気になると、動物病院に見てもらいます。でも、そのために、値段も高いですね。餌代も高いし。

Z・Yさん:日本では、動物が亡くなると頼めば、寺に来てもらいますね。

M・Fさん:マレーシアかタイで象使いの車に乗ったことがあります。象にはえさとしてバナナが配られ、頭もたたいて血も出ていました。丸太を持ち上げさせたりもして、見ているとつらかったです。象牙も高価な物として売買されていますね。

Z・Yさん:象の歯も高いです。それで、作られた箸も見たことがあります。

亀田さん:タイのチェンマイで、絵をかくキャンバスに鼻で絵を画かせていたのを見たことがあります。

児嶋:馬車で人を運ぶのは、むかしからやっていたと思いますが。

範さん:動物との関係には、政府が関与しなければならないと私は思います。人間同士の法律はあっても、人間に動物のことは頭にないのかと思います。

亀田さん:ブータンは宗教的な国だと思いますが、JICAの職員さんが、政府から招聘を受けて行ったのに、受け入れ体制ができていなくて、3ヶ月で帰国してきました。映像を撮るために行ったのに、受け入れられる技術がなかったようです。「何しに来たの?」と聞かれ、人間関係がおかしくなって帰国するしかなかったと聞いています。

M・Fさん:日本に来て、自分の国と比較してちがいはありましたか?

範さん:あります。価値観がまず、ちがうと思います。中国は人口が多く、就職もなかなかできません。ストレスも多いのですが、若者は、わがままで、他のひとにこだわりがあまりありません。入社してからも、オリエンテーションのようなものはなく、「適当にやれ」とか、「自分で判断してやれ」とか言われます。そのため、中国に帰国すると、孤独感があります。

M・Fさん:日本では大学卒は、総合職と言われ、事務系の仕事が多いですね。高校卒はそれ以外で、技術系が多くあり、分かれています。総合職は会社が教育していきますね。先輩が教育することもあります。

Z・Yさん:教育の内容のちがいがありますね。日本では会社が教育し、どんな仕事も会社の責任ということになりますね。中国では、自分で見て行動させて、教えてはもらえないです。入試までは、夜まで学校で勉強しているので、大学に入るまでは経験もなく、自立できていないと思います。

M・Fさん:中国の人は商売が上手ですね。旅行すると、外国人には高く売り、中国人には安く売ることがよくありました。

Z・Yさん:私の出身の丹東市では、物に値段が書いてありません。北京では、値段がいろいろあり、一致していません。

亀田さん:イタリアも白タクが多くいて、いろいろな値段です。ベトナムでも交渉でいろいろになりました。タイでも英語をよく使うのですが、中国人が多く、日本語も使えます。シンガポールも中国人が多いですね。

M・Fさん:上海に行ったときに、道幅がとても広いのですが、車優先で、人が渡れないのに驚きました。

Z・Yさん:歩行者優先の道路で渡ろうとしたら、途中で渡れませんでした。原則と実際がちがう事もあります。

亀田さん:ベトナムもバイクが多いのですが、歩いている人はさけてくれるようです。

M・Fさん:車優先社会はどうしてでしょうね。

Z・Yさん:以前、中国で、タクシーの運転手をしていたことがあります。町で手を上げて知らせてもらうのです。

M・Fさん:道を渡るときには、文化のちがいが大きいですね。上海に行ったとき、あちこち回って、5万円も払ったことがあります。アメリカもタクシーでも160キロもだすようなタクシーがありました。高速道路は混んでいて、蘇州から上海に行ったことがありますが。スピードが速すぎてこわかったです。

範さん:日本に住んでみると、中国はまだ発展途上国だと感じます。でも、多分まだ時間がかかるはずです。どの国に暮らすかは、自分で選べるのがいいです。

M・Fさん:中国のレストランで食事をしたときに、「この食事にある酒は?」と聞いたら、60度もあるような強い酒を持って来て、火がついたくらいになりました。その酒は持って帰りましたが、今も家にあります。今も飲めるでしょうか?紹興酒がいいですね。青島ビールもいいですね。

(時間です。終了)

2023年5月28日(日)第363回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2023年5月28日(日)10:30~12:00
場所:ガレリア3階 第2会議室
ゲストスピーカー:張穎(ちょうえい)さん(中国出身・日本語教師・母語支援員・ひまわり指導者)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:10名

 今回のタイトル:「美しい水の星」

自己紹介

亀田さん(C):今日は、363回目です。これから自己紹介をお願いします。

M・Tさん:立命館大学大学院で、講座を持っています。今日は、張穎さんですが、私は1993年に始めて中国へ行きました。上海ですが、その時に学生が食事をした後、皿を洗って持って行くのを見て関心したことを覚えています。(アメリカ大学の名誉教授:児嶋記)

M・Fさん:Global Sessionの参加は長いです。桂林や広州などの中国の南部へ行ったことがあり、今日は楽しみにして参加しました。

M・Yさん:張穎さんといっしょにひまわり教室で指導をしています。子どもたちから元気をもらっています。杭州や蘇州に子どもを引率して行ったことがあります。

R・Sさん:ひまわり教室(外国につながる子どもと保護者の学習支援活動をしている)のひとりです。張穎さんと、中国から来ている双子の中学生の指導をしています。環境都市亀岡として、学校でも学習をしているようで、ちがう切り口の環境都市として進めていきたいと思っています。子ども達もラフティングや保津川下りでごみをひろうなどもしていますね。

W・Sさん:ひまわり教室で指導をしています。中国出身者で、今日は張穎さんの環境問題への思いを聞いてみたいと思います。(前回のゲスト)

N・Mさん:横浜から来ました。30数年前に京都の保険会社で仕事をしていて、児嶋さんからのGlobal Sessionの知らせやレポートはずっともらっていました。読んでいるだけですが、名前はおぼえている人が、何人もいます。(オクラホマ州立大学京都校が1990年に開校したときに、アメリカでの学生の保険をお願いした方です。それ以来、ずっと児嶋とはお付き合いがあります。)

児嶋:1999年からGlobal Sessionを始め、2011年に私が退職してからは、オフィス・コン・ジュントの主催として継続しています。今回は、363回目にあたり、20年以上になります。前回は、こちらのW・Sさんでした。

亀田さん:大津から来ています。大津は時間的には京都駅から近く、便利です。10分です。

 今日のゲストの張穎さんは、中国出身ですが、私も、2000年くらいから、日本人のガイドとして、12、3回行っています。今は、入国が制限されていますが。

 その時には、チベットへも2回、ウイグル自治区やタクラマカン砂漠などへも3回ほど行きました。四川省や桂林なども何度も行きました。良い時期に行ったと思います。今は、パスポートと政府の許可証が必要です。こちらに来ている留学生も気を付けることはたくさんあるようです。

張穎さん:私は、民際日本語学校の派遣講師をしています。フィリピンなど東南アジアでも日本語を教えたことがあります。2017年に日本人の夫が死亡し、日本に居住することにしました。2022年からは、千代川小学校に中国語の母語支援員として仕事をし始めました。そこで、千代川小学校の先生からひまわり教室のことを聞き、ボランティアとして、母語支援と日本語指導を始めました。

グローバルセッション開始

 今日のタイトルの「美しい水の星」は、なぜ水の星というのかですが、実は地球は、水が70%以上なのです。

 中国遼寧省の丹東市は、小さい町ですが、北朝鮮との国境の町です。世界の環境問題として、プラスティックのごみ問題を取り上げ、地球はどうなるのかを考えていきたいと思います。

 このように鴨緑江という大きな川をはさんで向かい側は北朝鮮です。

Dandong Bruecke

 この橋は、1909年に日本が満州国の時代に作った橋です。船が来たら開けられて通れるようになっていました。丹東市内には、銀杏並木があり、日本時代に作った公園もあります。現在の市内には、丹東テレビタワーやフリーマーケットやスキー場や天然温泉もあります。

 丹東市の花見とは、何の花を見に行くと思いますか?実は桃の花です。桃は10種類以上あります。その他の果物は、ブルーベリー、ぶどう、いちごトマトというトマトなどもあります。きのこもマッシュルームやまつたけも豊富です。おかゆに入れるこの実や松の実もくりも豊富です。丹東市だけで作られるとうもろこし製の麺もあります。海の食材も豊富で、牡蠣、ムール貝、ちりめんじゃこ、はまぐり、田んぼで養殖するカニもあります。

 亀岡から丹東市に行くには、近いです。関空から大連か瀋陽まで直便で2時間20分位で着きます。大連空港から新幹線で2時間半で丹東市に着きます。瀋陽空港からはもっと近いです。

 私は、このような自然の中で暮らしていたので、これが幸せなどと考えたことはなかったのですが、日本に来てすべてが高いので、大変びっくりしました。

 環境問題としては、人間の活動によって生じた問題であると思います。気候変動により温暖化や海面の上昇などがあります。プラスティックのごみはどのくらいと思いますか?

 2020年の統計では、3億6700万トンのも上るそうです。プラスティックの生産亮の多いのは世界でどこだと思いますか?第1位は、アメリカです。その次は、実は日本です。

児嶋:プラスティックゴミを仕分けしていますが、1週間で。中型袋のゴミが3袋でます。

M・Fさん:自動車にもプラスティックが使用されていますね。

M・Yさん:過剰包装と思います。アメリカに行ったときに、包装は少なかったと思いますが。

Y・Nさん:プラスティックの容器の生産をしている会社もあり、生活にも関係するとは思いますが。

張穎さん:プラの弁当箱もありますね。洗わずに捨てると汚いですね。

M・Fさん:わかい人も共働きが増えていますし、プラ容器に入った料理を買って帰ることもあるでしょう。コンビニで買うと、冷蔵庫がいらないという話を聞いたこともあります。

M・Yさん:回収車が集めている様子を見ると、空のペットボトルのふたをそのままとらずに捨ててあると飛びやすい様子を見たことがあります。

M・Tさん:最近アメリカに行きましたが、変化のきざしがありますね。収集は1週間に1回ですが。市によっては、売るときにりんごを裸で売るようになっている所もあります。

張穎さん:日本では、何重にも包装してある物もありますね。

M・Tさん:日本のりんごはおいしいですね。アメリカは変化のきざしはありますが、粗大ゴミの大きさがすごいです。料金はないのですが、大きなソファが捨てられているのを見たことがあります。

張穎さん:中国はゴミを入れる場所が外にあり、分別もしてなくて、毎日何でも捨てられます。でも、匂いもしてくさいです。

M・Tさん:中国にはリサイクル運動は、ありますか?

張穎さん:リサイクルはしています。でも、ペットボトルなどは、集めて今度は、売るのです。個人で。

W・Sさん:ペットボトルは、売るところと、買い取りをするところもありますね。

M・Fさん:日本では、リサイクルできる物には、「プラ」のマークがあるので、これは、プラスティックの集める日に持っていきますね。

亀田さん:海洋プラスティックも大きな問題になっていますね。マイクロプラスティックの5mm以下の場合、貝や亀などが食べて消化不全になり、死を招くようですね。日本を含む東アジア全体の最大の問題です。日本で津波が起こり、そのゴミがカナダやアメリカに流れ、16倍ものゴミが流れ着いたことがあります。

 広島県の宮島では、鹿にえさを与えてはいけないという決まりがあり、おなかがすいた鹿は、ゴミ箱をあさり、ビニールを食べてしまったということを聞いたことがあります。さけるには、ポイ捨てを意識してしないで、持ち帰る必要がありますね。

 大津市の琵琶湖では、市民が1年に1回みんなでそうじをする催しがありますが、その中の最大のゴミの種類は、プラスティックの容器が74%、かんやびんが16%という記録があります。コンビニなどでも自動販売機がありますが、捨てる場所があるところと無い所がありますね。

児嶋:フェイスブックでゴミの内容を知らせている内容を見ると、みんなで食べたバーベキューの容器まで捨ててあったというのがありました。なぜ捨てるのかといつも疑問が残ります。

亀田さん:フランスなどでは、パン屋さんは、パンを手渡しし、包装しない歴史もありますね。学校でもゴミの捨て方について教育していますね。最近は特に。

N・Mさん:日本の豊かさの代償であった時代といえるのかもしれませんね。ビニール傘なども使用しなくなったら、捨ててもいいというような。

亀田さん:最近は、1年に一回、デパートで使った物を売るというイベントがありますね。

N・Mさん:100円くらいで買ったら、捨ててもいいというような。

亀田さん:9割はリサイクルできると言われています。モラルとして、野山や路上に捨てないことが大切ですね。

M・Fさん:富士山への上り道で、土の中からキャリーバッグが出てきたという話を聞いた事があります。持って帰らずに土に埋めてあったそうですね。

 私は映画村が仕事場だったのですが、キャラクターの描かれたタオルを売り出し、積んでおいたら、全然売れなかったのに、プラスティックの箱を作って入れて売ったら、どんどん売れたという話を聞いたことがあります。

N・Mさん:りんごもはだかで売るより、包んだ物の方が売れるでしょうね。高級感があるのでしょうか?

張穎さん:中国では、ほとんど裸で売っていると思います。10年前に夫と二人でピースボートで世界一周の旅に出たことがあります。スウェーデンでは、日本料理も出ましたが、全部小さな皿に入れられていて、大きな皿にまとめたらいいのにと思ったたことがあります。

 中国では、野菜を売るとき、入れ物が無かったら、よくひもで吊っていることもありますね。

M・Fさん:いろいろな人が手でさわってもどすのがいやなのかもしれません。

W・Sさん:コロナ禍の時にはなかったのですが、引っ越し前にはガレージセールなどもしましたね。四川省にはパンダがいますが、環境問題でパンダが狂ったというような話もありました。

M・Fさん:地震のあとの原発の廃棄物の処理の問題もありますね。

R・Sさん:韓国から原発の海洋への処理の問題で調査団が来ましたね。

N・Mさん:福島県の果物なども、横浜でも風評被害もありました。

R・Sさん:検査はしていると思いますが、自然の放射能もありますし。消費者も学ぶ必要があると思います。

M・Fさん:日本政府の問題でもありますね。国を信用できないという。

児嶋:福嶋だけでなく、亀岡だって高浜にあるたくさんの原発の事故があれば、盆地なので30キロ圏外でも、溜まる可能性は大だろうなと思っています。

M・Fさん:その他にも電磁波などの問題もありますね。

M・Yさん:医療の中にもこわいことがありますよ。

亀田さん:12時になりました。たくさんのご意見をありがとうございました。

2023年4月23日(日)第362回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2023年4月23日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 第2会議室
ゲストスピーカー:王森平さん(中国出身・キャリアカウンセラー・亀岡市在住)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:11名

 今回のタイトル:「ムボウパンダ少年、来日12年目の暮らし」

自己紹介

亀田さん(コーディネーター:C):では、今から始めます。王森平さんは、中国の四川省の出身なので、観光地についてもお話ししてもらうことができますね。パンダたちも少し前に中国に帰ったところですが。まだ少しはいますね。

自己紹介から始めます。

K・Yさん:ひまわり教室で毎回読み聞かせをしています。読み聞かせ時間は最後なので、いつもちょっと遅れて行くのですが、最近は若い青年の先生がおられてびっくりしました。それが、王森平さんでした。

M・Yさん:ひまわり教室で子どもに教えています。以前は、中学校の教師をしていました。(GS初回参加)

F・Yさん:中国出身で専門学校の1年生です。遼寧省から来ました。日本語学校の後、専門学校へ入りました。(福祉関係)

Z・Yさん:1年半ほど前からひまわり教室で指導しています。今年は、千代川小学校と大成中学校で母語(中国語)で支援をしています。Global Sessionもよく参加しています。

E・Tさん:GSの参加は9年目になります。王さんも学園大学の出身ですね。同窓会もやっていましたが、先月仕事がいそがしくてやめました。

A・Oさん:息子と親子でこのGlobal Sessionに参加しています。今も、世の中のことをもっと知りたいと思い参加し、交流もしたいと思っています。今日も楽しみです。

Y・Nさん:ひまわり教室で教えています。保育園や幼稚園の教師をし、小学校も長く教師をして今は優雅に暮らしています。ひまわりでは、生で子どもたちの話しを聞くのが楽しみです。

M・Fさん:このGSは、多分私は一番古くから来ていると思います。これからも続けていきたいと考えています。

児嶋:1999年から亀岡市交流活動センターでGlobal Sessionを開始しました。最初は、英語の講座の一つとして、毎週開催していたこともありますが、この頃は日本語での開催が多いですね。今回は、362回目になります。2011年に私が退職後は、GSは、オフィス・コン・ジュントの主宰となっています。

亀田さん:大津市から参加しています。ゲストはいろいろな国から来ておられる方が多いですね。私も長くGSのために亀岡市通っています。その時々の話題が持たれ、政治的課題も含めて開催されていますね。私は、ツアーガイドですが、コロナで3年間ほどは、中国に行けなかったです。今も、チベットなどは難しいですが。四川省の成都は、パンダだけではなくて、自然がすばらしいところです。中国の古い文化がある地域でもあります。楽しめる所ですね。

グローバル・セッション開始

王さん:四川省は、日本の気候と似ていて、母に電話すると、今雨が降り出したと聞くとこの辺も降  り出すとか。

自己紹介から、始めますが一人で語ることは得意ではないのですが。名前は王森平(ワンセンピン)と言います。四人家族でした。(父母妹と私) 32才です。現在は妻と犬2匹と亀岡の曽我部町に住んでいます。犬の「名前は、ハチとシモです。中国は、土地の広さは日本の25倍あり、人口は14倍です。小数民族も多く56部族あります。その中の漢民族が一番多いです。中国は北方と南方でかなりちがいがあります。衣裳や食事や習慣でもあります。
北方:小麦が多く穫れ、餃子がおいしい。建物の色は赤が多い。身長が高い。美人も多い。
南方:米が多く、わんたんや団子がおいしい。建物色は白や青が多い。身長は低い。

M・Yさん:なぜ、このようにちがいがあるのですか?

王さん:北は小麦が穫れるので、肉(牛や馬)が合います。そのため、身長が高いのかもしれません。南は米が多く、魚が合います。気候は、北は寒い時は-20度から-30度になり、寒い時用の服が必要です。南は薄い服だけでもいいです。平均20度です。合計すると、50度ものちがいがありますね。買い物の習慣も、南は、暑いから少しずつ買い、北は一度に大量で買います。性格も、南は繊細で、北は豪快です。

四川省の紹介に移ります。

中国の四川省と成都の地図

成都への関空から直行便があり、4時間です。成都の雰囲気は、大阪と京都を合せたような都市です。ユニクロやイトーヨーカ堂などもあります。食べ物は、盆地なので、湿気が多く、辛いものが人気があります。山椒や唐辛子、豆板醤などもたくさんの種類があります。

M・Yさん:豆板醤のあとに、ウスターソースを入れて食べますよ。

王さん:二食鍋(おしどりなべ)も有名です。

世界遺産もたくさんあります。

九寨溝

峨眉山

峨眉山の頂上

楽山大仏

都江堰

道教儒教も生まれています。

私の小学校時代は、1クラスに50人から60人いました。朝8:00から始まり途中に昼寝の時間がありますが、これも強制です。終わるのは午後6:30です。先生は大変だったと思います。

M・Fさん:学校の評価はどのような形式だったのですか?

王さん: 点数制で順位が付きます。私は、10番までにはいらないと親におこられました。

E・Tさん:部活はありましたか?

王さん:ないです。体育の授業も週に一回で楽しみでした。今は変化していて、バスケットやバレーボールもあるようです。今は、土日には、親が子どもに「何をしたい?」などと聞くようですが。昔は土曜日も学校でした。高校時代は、大学に行くために高校で勉強するのが当たり前で、朝6:00に起床し、7:30から夜の9:00まで週5日の授業がありました。土曜日も友達と勉強をしに学校へ行き、日曜日は、数学の塾へ行き、午後だけ自分の時間がありました。

E・Tさん:モチベーションはどうやって持ち続けたのですか?

王さん:点数で評価されるので、もう競争でした。

M・Fさん:学校で順位なども公表されるのですか?

王さん:もちろんです。

E・Tさん:うそやごまかしが効きませんね。

児嶋:大学の数が、学生の数に比べて少ないので競争が激しいと聞きましたが。

王さん:大学もA.B.C.Dとランク付けされ成績の良い順に受けられます。母親は子どものめんどうを見る事が仕事で、やることは勉強をさせることと自覚していました。

亀田さん:賄賂などはありますか?

王さん:あるようです。お金を使って良い高校に行き、大学も上のランクの大学に行けば、仕事も良いのが手に入ると言われています。

M・Fさん:徴兵制はないのですか?

王さん:ありません。成績が悪いと軍隊へ行かされると言われていました。ヤクザもその中にいるとか。不登校の仲間は学校が退学とか。中国では昔は、子どものためには何でもするという考えがあり、人脈を使って何とかするというような。軍隊もその中に入っていると思います。日本に来て、学校は3:30に終わると知り、部活もありますが、希望の一番多いのは、帰宅部というアンケート結果があり驚きました。

大学受験も大変で、学校に長く残り、教科書や問題集の山の中で眠っている写真があります。寮生活が多いのですが、学校の近くのアパートを借り、母親とふたりでそこに暮らし、親がしっかり面倒を見るというケースもたくさんありました。

亀田さん:塾はありましたか?

王さん:あります。学校の先生も塾の先生もして良いので、両方やっている先生もいました。

E・Tさん:アルバイトなどは?

王さん:勉強だけでした。わからない事は歴史なら、年上の人に聞くなどのつながりはありましたが。

E・Tさん:中国にいたときにバイトはしたことがありますか?

王さん:ありません。日本に来て日本語学校に入り、バイトでもしようかと始めました。大学入試は大変な事で、終わった時のうれしさは、「五月の吹雪」と言われているくらい、合格してうれしさで持っていた用紙をちぎり、上からみんながぱらぱら撒くので紙吹雪になるのです。

M・Fさん:恋愛は?

王さん:当時は本が彼女でした。

M・Fさん:なぜ日本へ来ようと思ったのですか?

王さん:大学に入ったら、自由な時間がうれしくて、遊んでばかりいました。大学2年になり、単位は取ったけれども、このまま行ったら、仕事もないかもしれないと思い、海外へ行ってみたいと思いました。大学を途中で休学し、日本へ短期の留学で来ました。来て見るとこれはいいと思い、中国の大学を休学し、日本の大学に正式に入学しました。

日本の大学在学中は、京都市国際交流会館(kokoka)での交流会や、大学課外イベントなどに積極的に参加しました。でも解放されて楽しみもありました。日本での中国人同窓会も作り、タイからの留学生と交流会をしたりしていました。英国にも短期留学をしたり、タイにも企業留学したりしながら、京都府名誉友好大使に任命(2015年)され、いろいろな交流イベントに要望されて参加しました。

例えば育親中学校や、同志社高校、宇治田原小学校などに行きました。また、京都クッキングワールドカップでは、京野菜を使って自国の料理を作るとかにも参加しました。

国際交流イベントでは、中国茶体験もしました。亀岡市は中国の蘇州市との姉妹都市なので、手伝いもしました。地元にも何か手伝いをしたいとほづ藍で藍染め体験やファッションショーなどにも参加し、消防団にも入りました。

ここで生活していくためにはみんなで助け合っていきたいと思います。

M・Fさん:中国ではそのような消防団みたいな集まりはないのですか?

王さん:田舎ではみんなに助けられました。こちらの消防団も朝の6:00から活動が始まり、寒い冬も大変です。

M・Fさん:消防団には1年に1度はコンペティションがあるでしょう?

王さん:それは出ていません。でも大切なことと思っていますし、かっこいいですね。

今は、地域再開発プログラムで、古民家再生の会や登り窯の仲間もいます。現在32才ですが、37才くらいになったらどうしているかとか、老後はどうなるかなど考えています。この地域のプログラムとして移住促進プロジェクトや空き家対策学習会などにも参加して考えています。

ひまわり教室でも「外国につながる子どもたちの学習」が大切と思い参加しています。

Y・Nさん:いろいろな活動をされていますが、一番は何ですか?

王さん:プリントにも書いておきましたが、①観光 ②空き家対策や移住課題 ③農業などが大切でIT系や亀岡に来てもらうプロジェクトもやっていきたいと思います。

M・Fさん:お聞きしていろいろ質問が浮んできたのですが、

  • 台湾は56民族の中に入っているのか
  • 中国では水不足問題はないのか
  • 農業では日本は、化学肥料をたくさん使っていて、すでに土に沁みこんでいます。自分の国の農作物はどう思うか。
  • 中国人の方がたくさん日本のマンションを買い始めているが、日本の土地を買うのは政策なのか?中国では、その土地の使用期間が90年と限定されていると聞いています。日本はそれはないので、日本での購入の方を選ぶのか。値段もその地域の値段の1.5倍で買うというとか。日本将来台湾のように取られるのだろうかと心配になります。

王さん:投資家は、日本だけでなく、東南アジアでも買っているが、日本がいいので買うのでしょう。

M・Fさん:平民は両国で仲良くしたいのに、政治家はぶつかりそうになっています。でも、その争いで被害を被るのは平民ですね。

王さん:政治については、話しても何も変わらないという印象があります。個人から組織になり、国へと意見は行くべきですが。中国で聞いたニュースは実際とちがうこともあります。人と人同士のつながりを大切にしていきたいと私は、考えています。 

M・Fさん:日本と中国は政治的にがちゃがちゃしても、人と人とのつながりは大切にしていきましょうね。

王さん:家庭の状況も昔と今はかなりちがっています。昔は大家族で、父親の発言が一番でしたが、今はかなり変わって来ていますね。

児嶋:王さんはいろいろやって地域にも貢献していますが、ご自身の生活は大丈夫ですか? 

王さん:自分に合う生活ができればと思っていますが。キャリアカウンセラーとしては、外国人で日本に住んでいる人のいろいろなサポートをしています。日本の人口減少は当然で外国人と共に生活しなければ人出不足でやっていけませんね。実習生を3年でなく、5年にするとか、移住が安心してできるようにするとか変化が必要ですが、かれらにもサポートが必要です。

児嶋:日本語能力試験で王さんは、L1を取りましたね。1級ですね。サムさんと二人とも。

王さん:証明書にはなりますが、能力をそのままというわけでもないですが。私は、企業の就職関係者と話し合ったり、日本の経済を良くするためにと考えています。

M・Fさん:昔は就職のインタビューで、まず、親の職業を聞き、兄姉の職業を聞き、住所を聞くようなことをしましたが、今は禁止です。あなたはこの会社で何をしたいのかと聞くそうです。AIも使うでしょうが、本人が書いた物か知る必要もありますが。

王さん:採用は変化してきて、中途採用が増えて来ていますし、終身雇用も減って来ていますね。即戦力が求められているというような。

Y・Nさん:ひまわり教室などで保護者と話す機会が多いのですが、王さんのような方と就職について聞くこともいいのでしょうか?

王さん:月に一回のオンラインでの場をつくろうかと考えています。

児嶋:王さんはひまわりでも教えてもらっていますね。ひまわり教室の日に聞くこともできますね。

王さん:ひとりで悩まずに聞く方がいいですね。

児嶋:亀岡市は多文化共生センターができて、とても相談が増えています。

M・Fさん:奥様は日本人ですか?

王さん:中国人です。京都外大を卒業し、外大で仕事をしています。中国語とビジネス日本語を教えています。

亀田さん:中国の有名な詩人である杜甫の詩を紹介したいと持って来ました。

杜甫   「春望」   

国破山河在   城春草木深  感時花濺涙 恨別鳥驚心  烽火連三月   家書抵萬金 

白頭掻更短   渾欲不勝簪

国破れて山河在り     城春にして草木深し  ときに感じては花にも涙を灌ぎ 

別れを恨んでは鳥にも心を驚かす    烽火三月に連らなり  家書 万金に抵る 

白頭掻けば更に短く  渾べて簪に勝えざらんと欲す

国都(の長安は)は破壊されてしまったが、山や川は「昔とほ変わることなく)存在している。(荒れはてたこの)町にも(いつもと同じように)春がやってきて、草や木は深くおい茂なっている。          

由来 

中国の詩人 、杜甫の詩「春望」の冒頭。

755年、安祿山という武将の反乱によって、唐王朝の泰平の夢は破られました 。反乱軍は、翌年には都を攻め落とし、皇帝までもが逃げ出してしまいます。そんな757年のある春の日、反乱軍の制圧下にあった都にいた杜甫が作ったのが、この作品。

争いを繰り返しては死んでいく人間たちと、悠久の大自然。

その対比コンパクトに表現したこの一句は、昔から日本人にも愛されてきた杜甫の中でも、松尾芭蕉が「おくのほそ道ー平泉」で引用しているのは、有名です。                       

松尾芭蕉    「奥の細道」 平泉           

国破れて山河あり、城春にして草青みたり 夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡        

Countries  may  fall,  but their rivers and mountains remain, when spring comes to the ruined castle, the grass is green again.                                                                        

The summer grasses – Of brave solders’dreams  The aftermath                     

 (翻訳:亀田博)

2023年3月26日(日)第361回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2023年3月26日(日)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:大野友アンドレイアさん(ブラジル出身・箕面市国際交流協会職員)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:14名

 今回のタイトル:「二つの文化を行き来しながら生きる・・正解はだれのものか」

自己紹介

亀田さん(コーディネーター):仕事はツアーコンダクターですが、今は外国に行かれる人も増えていますが、これからですね。今日は箕面市におられる大野友アンドレイアさんをおまねきしています。今日は、1999年から始まったGlobal Sessionの361回目です。自己紹介をお願いします。

R・Sさん:ひまわり教室で指導しています。アンドレイアさんのお話しは3度目になります。だんだん深化して行くので今日も楽しみに来ました。

M・Sさん:2002年からGSに参加しています。10年以上になりますね。(10年ではなく、20年ですよ。:声在り) 学びに来ています。アンドレイアさんのお話しも3回目になると思います。

Iさん(市役所職員):4月9日に中東和平プロジェクトがありますので、みなさまもどうぞ。

S・Mさん:京都市で外国人支援のプログラムを実践しています。いろいろな相談があり、借金から出廷などの内容もあります。いろいろな場所で支援していますが、GS参加はこれで2回目です。いっしょに来ているAさん(リア)は、ポルトガル語を話したくて。このGSに来られています。

S・Yさん:多文化共生センターで相談員の仕事をしています。夫がカナダ人で、日本語教室に来ています。7年間カナダに住んでいましたが、向こうもコロナ禍で、日本に帰国することにしました。GSは、3回目か4回目の参加です。昔、子どものころ、箕面市に住んでいました。

E・Tさん:GSは2014年ころから来ていて9年目になります。今は島津製作所で真空ポンプ作りなどをしています。アンドレイアさんのお話しははじめてです。

Z・Yさん:中国出身で、1年半前にひまわり教室を紹介されて、今は指導もしています。アンドレイアさんのお話しは2回目です。

Z・Qさん:京都市に2年間いて学習し、今は会社で仕事をしています。

Oさん:GSは、2回目です。いろんな方と交流して勉強ができるなあと思っています。

Y・Nさん:在日スリランカ人で、大野友アンドレイアさんといっしょに仕事をしています。

児嶋:GSは以前仕事をしていた亀岡市交流活動センター(宮前町)で1999年にはじめました。その後、2011年に私が退職後、オフィス・コン・ジュントの主宰として継続しているので、もう20年以上になりますね。今回は亀田さんが言われたように361回目です。

グローバルセッション開始

亀田さん:(ポルトガル語で)「ボンジーア。トードベン?Como esta?」 大津に住んでいます。滋賀県の湖西や湖南にはブラジル人が多く住んでおられます。ペルー人もおられますが。「ムイト プラゼール(はじめまして)」地域は仕事をしている工場も多く、もうブラジルからの3世や4世の方もおられます。なぜ、ブラジルに帰国しないのかと聞くと、「親の世代はポルトガル語だけで話し、自分は、日本語だけでした。それで、今自分が帰国してもポルトガル語が話せないので、帰りません。それと、ブラジルは治安が悪いので、日本の方が生活は大変だけれど安全です。以前はブラジルから移住する人がたくさんいましたが、今は来る人が減っています。」と聞きました。

児嶋: 亀田さんはポルトガル語で話をされるとは思いませんでした。すごい。

 私も、1985年から夫の赴任でブラジルのミナス・ジェライス州のベロオリゾンテというブラジル第3の都市に3年間住んでいました。子ども達や夫は学校や仕事で忙しかったので、私はひとりでポルトガル語の学習に励みました。1年半くらいで、普通に話せるようになりましたが。

アンドレイアさん:ポルトガル語で話してもいいですか?

 資料で「わたしのルーツ」をお配りしました。私は、ブラジルからきましたが、ひとりの人間です。という意味です。ブラジル代表ではありません。参考程度に聞いていただければと思います。

 日本から、たくさんの人がブラジルに渡りました。この人たちを1世とすると、現在は、その人達の子どもや孫が、日本に来ていて、日本で生まれた2世や3世もいます。この人達の呼び方は、ブラジル系1世というのでしょうか?それとも、日系3世?

 「日系ブラジル人」と聞くとみなさんは、どんなイメージを持ちますか?私は、「日系ブラジル人」という言葉が自分を表すとは思いません。ブラジルにいると、大勢の人とは顔はちがいます。小さな町だったので、アジア系というのは、日本と台湾から来た2家族だけでした。サンパウロなどの大きな町には、このような顔は多いのですが。

 日本に来て自分を「日系ブラジル人」と呼ばれだしたのはいつだったかなと思いますが。

 日本への出稼ぎで来ているブラジル人のコミュニティにも入っていませんでした。ひまわり教室のように、多文化の中にいるとあまり意識をしないのかもしれません。

 「わたしのルーツ」を見ていただくと、祖父母は日本人だけれど、中国の満州で瓦職人をしていました。母の兄姉の伯父・叔母は、満州生まれです。戦後、満州から家族で逃げるように日本に帰国して、母は日本の山口県で生まれました。生活も大変で、政府が「ブラジル行き」を勧めていました。半年に一度、ブラジル行きの船が出ました。ブラジルに着くとアマゾンへ入植をしました。アマゾンでコロニアが作られ、耕し、家も作ったのですが、雨期になるとすべてが流されてしまうような地域でした。

 現在では、政府も「あのやりかたは、まちがいだった」と認めていますが、当時は、戦後でもあり、移民ではなく、棄民の政策であったと言われています。

 最近、静岡県にブラジルのベレンの料理を出しているひとの新聞記事が掲載されました。それを見た母が、同じ船に乗り、ブラジルのアマゾンへ行った人かもしれないと、電話をしました。その通りだったようです。静岡でブラジルの野菜を作り出しているようです。実際に会いに行きました。二人で新聞記者にもらった入植当初の資料を見ながら真剣に話し合っていました。日本が成長する前のブラジル移民でした。ブラジルで生まれた子どもたちはポルトガル語を話し、親は話せないので、親子間のコミュニケーションが難しい例がたくさんあります。

 母は、学校に通うため、家族から離れ、ブラジル政治家の養女になりましたが、その人達が、ブラジルの政変後、いなくなり、母だけが残されました。大きくなると、サンパウロに移住し、日本人農家で働き始めました。

 父は、日本企業の駐在員でした。父母は結婚すると、サンパウロからガラパリへ移住し、小さな八百屋を始め、ガレージで物を売っていました。このころ、家では日本語を話し、外ではポルトガル語という生活でした。その後、中国料理店を開き、春巻きの皮なども作っていました。

 私は、ガラパリで幼稚園に行っていました。学校へ行き出すと、日本語がだんだんなくなって行き、「あなたは日本語ができない」とも言われました。母は、日本語を教える力はなかったのです。そのころは「日本はとてもちがう」と思っていました。

 当時、ブラジルは、私立学校と公立学校の差が大きく、公立学校は、くらしに困っているひとたちが多かったようです。教科書もなく、黒人も多かったです。そのころ、黒人の男の子から「おれたちと同じだね」と言われ、なかよくなりました。

 中学2年で日本に来たのですが、当時、行きたいという気持ちと行きたくないという気持ちちが同時にありました。日本では、「いじめ」のイメージもあり、日本語の字もわかりませんでしたから。

 日本に来てから、アイデンティティについて考えることが多くなりました。「日本人でないといけない」と母は言っていましたが。ブラジル人って何と考えると、ネットもない時代で、周りから「ブラジル人だから時間を気にしない」とかいろいろありました。

 日本では、勉強がまず、苦しかったです。マンガ研究部に入っていた人たちだけが、話しかけてくれました。中3で高校受験があると知りましたが、その難しさの実感が沸いていなかったと思います。弟二人は、実際の年齢より学年を下げてはいったので、まだだいじょうぶでしたが。

 弟たちは、バレーや野球をやっていました。弟のバレーの先生に相談して、国際コースを受験することになりました。その結果、高知県の明徳高校に入ることができました。この学校は、全寮制の高校で、日本語のみの生活になりました。英語もやろうと思ったので、カナダへ高校時代に留学をしました。この学校にブラジルから、4人のサッカー選手が留学してきて、監督一家も来ました。手伝いを頼まれ、ポルトガル語も復活し、話せるようになりました。日本にいる父方の祖母は、来日当初「大学へ行けないよね。」と言っていて、悔しくて、大学に行きたい気持ちが強まりました。高校の内申書を学校でいろいろ工夫をして書いてくれたと思いますが、奇跡的に大阪外国語大学へ入りました。この学校は大阪にあるので、夜にディスコに行くとブラジル人がいっぱいいました。彼らと話すことで、たくさんのことを知る事ができました。1990年代のころです。このころは、「自分のままでいいのだ。」とようやく思うことができました。大学の友人はいなかったと思います。就職活動もしていなくて、その理由は、「ブラジルへ帰るからいいんだ」と思っていたからです。このころ、通称届で隠していた「アンドレイア」という本名も名前に戻すと、周りの対応が変わりました。大学卒業後、JICA主催の、「中南米日系人向けの研修プログラム」に3ヶ月参加しました。ブラジルの人に会いたくて、工場でアルバイトの仕事をしたとき、すぐに通訳となってしまい、ブラジル人の仲間はできず、上司側の日本人に気に入られてしまいました。そのことを知っていたのか、出稼ぎに来ていた従兄は日本語ができることは隠していました。それは、周りから特をしているように見えるからです。でも、この研修プログラムを受けて、元の国で活躍できればと思い、合格することができました。

 ディスコでブラジル人と親しくなると、犯罪がすぐに近くに感じることもありました。ルーツである日本に夢をいだいた若者は社会になじめず、現実はちがっていました。高い給料をもらっていても悪い会社に騙され、ふてくされる気持ちもあったと思います。大人になりかけの人が多く、自国の制度もよく知らないまま、日本での仕組みも分からず、保険や光熱費などの滞納の督促状が来ても分からず、相談するところもなく、犯罪に手をそめるものもいました。

 大学では、「なんかちがうな」とも思っていました。でも、JICAでの研修では、いっしょに考えて、実現することを学びました。ブラジルに帰るにしてもお金がいるので、バイトをしていました。

 会社の正社員になり(2004年)出向でアメリカに行きました。

 2005年に結婚、2006年に第1子出産

 2007年にアメリカオレゴン州へ

 ここでいろいろな人に出会い、ブラジル人でも日本人でもない自分でいられるアメリカに住む心地よさを感じていました。となりの人でも子どもの学習を見てくれるひとがいました。

 2012年に息子が日本語を話さないことに気付き、自分と同じように学習や言葉の壁に苦しむだろうと考え日本に帰ってきました。

2013年からMAFGA(箕面国際交流協会)で母語支援者として関わりはじめました。ブラジルに行ったことがないブラジル人の子どものポルトガル語の学習支援です。日本語もポルトガル語もできないような子どももいます。多様な背景を大切にできる社会を目指し、活動したいと思っています。現在は、外国にルーツをもつ子どもや外国人市民の相談事業を担当しています。みんなが背景はちがうのですが、ひとりひとりとていねいに話していきたいと考えています。

 仕事とは他に、「チャチャチャ」というスペイン語とポルトガル語の母語の教室の代表でもあり、ブラジルブックカフェで、ポルトガル語学科の大学生なども支援をしています。100人ほど登録しています。以前は遊び場がなかった子どもたちに、場を提供し、「NO」と言える力をつけるのは、自分で選択できるようにするためです。このように、母語・母文化に出逢う場をつくりつづけようと考えています。

 “Muito Prazer”とか、「オキナワサントス」とか、「ファミリア」という映画などがあり、ステレオタイプの”日系ブラジル人“がキャスティングされることも増えました。

亀田さん(コーディネーター):質問があればどうぞ。

児嶋:アンドレイアさんがどれだけ苦労されて今があるかが、多少わかったような気がします。

アンドレイアさん:年月が経つと介護での問題も出てきます。母語はわかるが、新たに学んだ言語はもう覚えていないというような。

M・Sさん:波瀾万丈の歴史ですね。いろいろな扉があって、その扉を開けて行かれたことで、今があるのですね。このような歴史を持つ方は、あまり身近では少ないですね。刺激になりました。それと、アンドレイアさんの、決してたやすくはなかったご苦労が感じられます。箕面国際交流協会では、かけはしになっておられますね。今のアンドレイアさんは、ゴールの手前まで来ておられると思いますが、このようになるには、その時の時代背景も関係していると思います。「正解はだれのもの?」と問いかけられていますが。

アンドレイアさん:ブラジル人と日本人の間に、上とか下とかはないと思います。

M・Sさん:自信は付きましたか?積み上げて来て。

アンドレイアさん:「なんとかなる」と思えるようになりました。

 今は、生きにくい時代だと思います。大切にしているものが、それぞれにちがうので、ミスすることもあると思いますが、それに対して、評価が低くなることがあります。

 協会でいろいろな問い合わせがあり、保育所へ提出する物があり、それを提出しないと言われるとか。「だいじょうぶよ」と声掛けをすると、楽になるはずですが。相談を受けているとだんだんその人達と近くなる実感があります。

S・Yさん:このお話しは日本におられるときだと思いますが、アメリカにおられた時はどうでしたか?

アンドレイアさん:もともと移民の国なので、わかってもらいやすいと思います。

児嶋:ひまわり教室の指導者は、子どもさんや保護者の質問に答えるけれども、踏み込みすぎないようにしています。

M・Sさん:私は、つい入りすぎてしまったと思うこともあります。

児嶋:私は、多分ないと思います。

アンドレイアさん:日本では記述する言葉が難しいですね。入管でも、「相談して」と言われますが、

 どう、何を相談していいのかがわからないことが多くあります。入管でも、自分の国の言葉や習慣や制度を知っている支援者がほしいと思います。

Aさん:日本でポルトガル語を話す機会はありますか?(ポルトガル語で)

アンドレイアさん:ポルトガル語を忘れてしまっていた期間は私にもあります。言葉が時代により変化しますし、何だったっけと思うこともあります。ポルトガル語を使用するイベントなどを開催すると思い出します。子ども達に自分の母語を教えたいとも思います。在日韓国・朝鮮の人の母語・母文化を継承する活動は私たちにとって先輩のような存在です。

M・Sさん:ひまわりには、中国ルーツの子ども達がたくさんいますが、宿題を教えているわけですが、中国語で互いに話せるとわかった時のうれしそうな顔がわすれられません。

アンドレイアさん:堺市で活動をしている田中ルジアさんは以前ブラジルルーツの子どもに日本語を教えていましたが、今はポルトガル語の本がおいてあり、母語を中心に活動しています。

亀田さん:そろそろ12:30になりましたので、個人的にもっとお話しをしたい方は後にどうぞ。

 今回はこれで終わります。ありがとうございました。

その後も、いろいろなお話しをしながら、しばらくして帰って行かれました。アンドレイアさんにメールでお願いして、11月にまた、来ていただくことになりました。みなさんもどうぞ。

2023年2月23日(木・祝)第360回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2023年2月23日(木・祝)10:30~12:00
場所:ガレリア3階 会議室&オンライン
ゲストスピーカー:濱田雅子さん(元武庫川女子大学教授、アメリカ服飾社会史研究会 会長)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:10名(うちオンラインでの参加2名)
共催:アメリカ服飾社会史研究会

 今回のタイトル:服飾から見た生活文化シリーズ24回目:「写真が語るアメリカ民衆の装い(その4)-1880年代の民衆の生活文化を   垣間見るー」

セッション終了後のレポート