2022年4月23日(土)第350回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2022年4月23日(土)10:30~12:00
場所:ガレリア3階会議室
ゲストスピーカー:フェルナー真理子さん
コーディネーター:亀田博さん
参加者:名

 今回のタイトル:「異文化体験をしてみませんか?かめおかで」

セッション開始

亀田さん(コーディネーター):それでは自己紹介から始めましょう

Y・Hさん:ドイツ語を学ぶ者としてマックスさんと真理子さんと知り合いになりました。マックスさんの行動力に驚いています。刺激があります。

M・Fさん:Global Sessionの始まった最初から参加していると思います。1ヶ月に1回の この機会を楽しみにしています。仕事は映画関係を60年ほどやっています。定年退職後も子どもたちへの映画つくりなどをやっていて20年間ほどになります。真理子さんには、子どもさんを紹介していただいたりしましたね。最近の子はあまりはずかしがらないので驚きます。

E・Tさん:このGlobal Sessionに参加し始めて8年目になります。この間、真理子さんがテレビの「ヨーイドン」に出ておられてびっくりしました。今の仕事は島津製作所でエンジニアのような仕事をしています。

チャンさん:中国出身で、2007年に来日して今になっています。現在は亀岡の千代川小学校と亀岡 小学校で外国につながる子どもたちのサポーターをしています。2021年には、千代川小学校で英語の発表会があり、真理子さんにもお会いしました。その時、何十年も使わなかった英語を話さなければならず大変でした。でも、いっしょに仕事ができて、とても楽しかったです。その後、真理子さんの家にも行きました。このGlobal Sessionは、初めての参加です。

児嶋さん:このGlobal Sessionは、1999年から、以前の仕事場の亀岡交流活動センター時代から仙台の友人の横瀬さんから聞いて始めました。退職後はオフィス・コン・ジュントの主宰として続けていて、今回は350回目になります。最初はオクラホマ州立大学京都校が1990年に開設され、1996年に本校に移転しましたが、そこには、20年間ほど通ったことになります。

亀田さん:大津市在住で、ガイドの仕事をしていますが、コロナ禍のなか、1ヶ月に1回のGlobal Sessionに参加するのが楽しみで来ています。現在は、ヨーロッパでのロシアとの戦争中ですが、この間、真理子さんは、オーストリアに帰国され、そして「つい最近日本に戻ってこられたと聞き、驚いています。持って来た資料は、オーストリアの国歌のエーデルワイスとウイーン少年合唱団が歌う「ドラエモンの歌」です。コロナ禍でこの2年間は来ていませんが、彼らの歌を聞いてほしいので、あとで、お聞かせします。それとハプスブルグ家の600年間の王家の系統を書いてあります。現在のロシアとちがい、戦争に力を入れるのではなく、「結婚」でいろいろな国とつながりを持って来ました。マクシミリアン一世は、ダイアモンドの結婚指輪をはじめてベルギーのルクセンブルグ出身の結婚相手に送ったことで有名です。

真理子さん:ハプスブルグ家とは関わりはありませんが、勉強はしました。オーストリアに初めて行ってから42年になります。日本人でありながら、日本人でないような性格でわからないことがあるとすぐ口に出してしまいます。この国のやり方として、「自分で決めて自分でやっていく」方法は、自分に合っていたような気がします。夫のマックスは、日本に来て「日本の野菜を作りたい」と言ってやっていますが、なかなか育てるのは難しいようです。夫は今も勝手にいろいろやっているので、私は通訳をしているくらいです。千代川駅に近い所に家があり、いろいろな人が来ていいですよ。オーストリアでは家に招くことが多いです。招いても、「ビールがあるから勝手に取って」とか言ってあまりお世話をしているわけではないですが。亀岡とつながりを持ったのは、姉妹都市のクニッテフェルト市に代表団が来られた時に、私が通訳をしたことに始まりました。

 今日は、「異文化」を体験してもらおうと思っています。毎日ウクライナの話を聞いていますが、どれくらいの大きさの国か知っていますか?日本の1.6倍です。人口は日本の三分の一です。小麦粉の産地で今は小麦粉不足になり、パンの値段もあがっていますね。ウクライナ・ロシア・ベラルーシの3国にルーツをもつ人が95%で、あとは、その他です。日本ではニュースで聴くまで知らなかった人も多いと思いますが、つながっているヨーロッパの人は危機感があります。難民も20万人以上になり、オーストリアにも2万人以上が入っていると思います。駅の構内にベッドを置いたり、体育館のステージなどにもあります。赤十字が管理し、常にボランティアを募っています。個人の家でも宿泊を求めています。この間オーストリアに帰国したとき、自分の子どもたちも「部屋を貸そうよ」と言っていたのですが、言葉もわからないし、病院へいく時にもどうしていいかわからない状況なので、貸すのはやめて、赤十字を手伝い、食料の補給などをしようということに決めました。朝から夕方までだれも居ない家に預かる事よりはいいだろうと。

 日本には20人引き受けたとかいうニュースがありましたね。その後は日本語ができれば引き受けるとか。そんな人は大学生くらいで。それは、難民ではないですね。日本は島国で他の国のことをとらえにくいのでしょうか?画像でも事実かどうかわからないし。実際に外国に行ってみることが必要ですね。学習としても「遺跡から何かが出て来た」という仮定で、何がでたかを絵に描くという課題がありました。「表現力はそれぞれがちがう」ことを学ぶのが目的です。

 以前お話しした。メラビアンの法則では、ことばだけで得られる印象は少ない。35%だけであると。それ以外には、音を聞く。目で視る。経験をしていないから想像する。

ちょっと実験をしてほしいのですが、

*疲れて帰ってきました。その時、みなさんは、どのような声をかけますか?

「おかえりなさい」「おつかれさん」などいろいろありますね。声の調子はちがっても、国を越えたことばはあるはずですね。

*「いただきます」 日本

「お食べください」ドイツ・オーストリア

このように、①文化を超えることばがあることを認識する必要がある。

      ②ことばの使い方がちがっても、伝わることもある。

じゃんけんゲームをしてみましょう。

リーダーの掛け声でじゃんけんを繰り返す。

訪問者が入ってからは、掛け声以外はしゃべってはいけない。

*ただし、ことば以外の方法ならば、訪問者にルールを教えてもいい。訪問者は、このグループがどのようなルールで、じゃんけんをしていたか、当てる。

α(アルファ)国

グー:手を口にあてる

チョキ:手を鼻にあてる

パー:手を頭にあてる

うれしい時:「ぽー」と言う(じゃんけんで勝ったとき)

ざんねんな時:「ピー」と言う(じぇんけんで負けたとき)

β(ベータ)国

グー:足をとじる

チョキ:片方の足を前に出す

パー:足を開く

うれしい時:「ピー」と言う

残念な時:「ぽー」と言う

ゲームのやり方

  • グループ内でじゃんけんをやってみる。グーチョキパーを何度もやって覚える。声は「じゃんけんぽん」と「ぽー」か、「プー」だけ。
  • グループの一人が、別のグループを訪問する。見ながら、約束ごとを「こうかな」と想像する。参加して見る。訪問したグループの約束ごとを学ぶ。
  •  元のグループに戻った訪問者は、他のグループの約束ごとを自分のグループに報告する。

終了後からのセッション再開

E・Tさん:頭を使いました。観察力が必要ですね。どっちが勝ったかさえ、最初は、わからなかったです。

M・Fさん:ぼけ防止にいいですね。

チャンさん:おもしろかったです。表情をみながらやっているのですが、心の中はわからないとか。自分が正しいと思ったことが逆であったり。

児嶋さん:自分のグループのやり方さえ、覚えられないですね。なかなか。

亀田さん:だれにも先入観があり、むずかしいですね。

真理子さん:「他の国の文化にも価値観を持つ」というのが、このゲームの目的ですが、「じゃんけん」という簡単なゲームでもわかりにくいですね。手の動作での「グー」「チョキ」「パー」を見ているからわかるのですね。

 「じゃんけん」をしている人を見ていても、最初は、それが何を意味するのかさえ、わからない。入り口だけで、奥に何があるのかがわからない。

 他の文化の人を受け入れるには、受け入れ側も頭を切り替えなければ難しいようですね。外から来た人(外国人だけではない)を受け入れるには、お互いを知ろうとし、どうやったらコミュニケーションがとれるかを考える必要があると思います。

 この1ヶ月、オーストリアで過ごしていました。今はZOOMでの対話も多いですが、対面になると、ストレスも多くなり、それに耐えるにはエネルギーが必要ですね。

 現在のように、国を出て人が動く場合には、難しさは変わっていないと思います。その力が弱っているならばその部分を強化していかなければいけないですね。気持ちの柔軟性が必要なので。

M・Fさん:昔、オーストリアに行った時にCaféに行くと、入り口で傘やコートをあずかってくれました。女性はハンドバッグだけ持ってはいるのです。気持ちが良かったことを覚えています。日本とちがっていますね。

真理子さん:外国に行くと、日本人の夫が妻にうしろからコートを着せるのですが、日本に着いたら、夫は自分だけさっさと着て出て行くとか。ヨーロッパでは、レディーファーストが徹底していますね。

M・Fさん:外国の女性は強いのですか?

児嶋さん:強い女性をなぜ守るのかと疑問がわきますが。

真理子さん:アジアの女性は、実際には強いですね。オーストリアでは、シングルマザーも補助が出るので、くらしやすいです。

M・Fさん:ウクライナの現在は、若い女性も志願して兵隊になっているようですね。

真理子さん:スウェーデンでは、男の子も編み物を習い、靴下の穴もつぎはぎしますし、女生徒も工作の時間が平等にあります。これは、できる人はやればいいし、見ている人は、労働に対してねぎらうという形をとっています。

児嶋さん:以前は、日本は女子は家庭科で、男子は技術科とか別れていましたね。現在はどうかな。

真理子さん:私は3人の子どもは皆男の子です。一人暮らしになると自分でしなければならないと思い、料理も裁縫もして、必要な力をつけるようにしてきました。日本の場合は、世代によってちがいがあると思います。テレビを見ていたら、「こんな仕事をしたいが・・」と子どもが言ったら、お母さんが反対していました。このようなことは意味がわからないです。子どもであっても、20才を過ぎていたら、自分の人生に責任を持つというのがあって、ちょっと理解に苦しみました。

E・Tさん:大学生の時に、バイトするのは当たり前だったのに、自分の母親は、「してはいけない」というのです。その理由は、「バイトしてると単位を落とすから」と。こんなことを言われた覚えがあります。

チャンさん:中国では歴史的に、男性が大切という考え方があり、男の子は何もしなくていいと言われてきました。家庭を持つと、男性が給料を家に入れるので、家の仕事をさせてはいけないと言われてきました。そして、夫妻の両方の親が買い物や、子育てを手伝うというのが普通でした。現在は、女性も仕事をしに外にでるので、30才台や40才台の夫婦は変わってきていると聞いていますが。

真理子さん:40才台までは仕事を優先してきたと思いますが、コロナ禍で考え方が多少変わり、最近は家庭が大切と思うひとが増えて来たようです。50才以上が初めて、仕事が大切という答えが多くありました。

M・Fさん:外国に行ったときに地下鉄で切符を買っていたら、男性が近づいてきて、「どこまで行くの?」と聞かれ、代わりに買ってくれました。でもその釣りも持って行ってしまいました。その後に女性が来て、切符を買っているのを見ていたら、他の人がこないように友人が番をしているのです。これは常習犯がいるのかと驚きました。

亀田さん:オーストリアの国歌のエーデルワイスを英語ですが歌って見ましょう。携帯から音楽を出します。日本ではこの歌はよく知られていますが、国歌だと知っていましたか?その後、ハプスブルグ家の家系図を見てください。1273年から650年にわたって中欧ヨーロッパを支配してきました。マクシミリアン1世の「戦いは他のものにさせるがよい。汝、幸あるオーストリアよ、結婚せよ」ということば通り、戦争ではなく、結婚政策によって判図を広げていったと書いてあります。参考に。 

2022年3月27日(日)第349回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2022年3月27日(土)10:30~13:20
場所:ガレリア3階 会議室&オンライン
ゲストスピーカー:濱田雅子さん(元武庫川女子大学教授、アメリカ服飾社会史研究会 会長)
コーディネーター:児嶋きよみ
参加者:12名(うちオンラインでの参加4名)
共催:アメリカ服飾社会史研究会、亀岡国際交流協会

 今回のタイトル:服飾から見た生活文化シリーズ22回目「写真が語るアメリカ民衆の装い(その2)―1850~60年代の民衆の生活文化を垣間見るー」

講座開始前

濱田さん:今日の話の内容は、パワーポイントに録画をしてありますので、そちらをオンラインで送信させていただきます。その上で説明が不足している場合は、セッションの場で考えを述べたいと思います。PODと電子版で出版予定の本があります。版下・装丁、表紙のデザインは、自分でいたしました。『写真が語る近代アメリカの民衆の装い―Guidebook of Joan Severa: Dressed for the Photographer, Ordinary Americans and Fashion, 1840-1900」(ネクパブ・オーサーズプレス2022年4月中旬刊)という本です。写真が多いので大変でした。詳しい書誌情報は下記のホームページに掲載しています。

https://www.american-mode.com

さて、現在は、ロシアとウクライナの戦争という人道的に許しがたい戦争が起こっていますが、やがていつかは平和になると確信を持ちながら、私たちの文化活動を続けてゆきたいと心から願っています。今日は濱田講座の22回目で、Global Sessionは、349回目になります。

【濱田さんの講演内容】

今回は、前回に引き続き、「近代アメリカの写真が語る民衆の装い(その2)―1850—1860年代の生活文化を垣間見る―」というテーマでオンライン講座を開催させていただきます。よろしくお願いいたします。

【本講座の研究文献の紹介】

Joan Severa, Dressed for the Photographer, Ordinary Americans and Fashion (1840-1900), Kent State University, Ohio, Kent, 1995. p.592.

本書はJ・セヴラ女史(Joan Severa,1925-2014)が30年と言う歳月をかけて取り組まれた大作で、アメリカの服飾研究者から高く評価されています。彼女はウィスコンシン・ミュージアム歴史協会の学芸員を30年にわたって歴任する傍ら、アメリカ服飾学会の理事や多くの博物館のコンサルタントとして活躍してこられました。

本書は、ミドルクラスや下層階級のアメリカ人たちが、ダゲレオタイプの銀板写真技術が導入された1840年から1900年の60年間に、記念写真や日常生活の写真に、どのような装いでおさめられたのか、かれらのバックグランドや服装のディテールの分析も含めて、マテリアル・カルチャー(物質文化)の視点から書かれた大作です。掲載された写真は何と277枚。服飾の専門家の視点で写真のなかの服装が的確に分析されています。ヨーロッパやアメリカの上流階級の装いを扱った書物は、沢山、ありますが、アメリカの庶民、すなわち、アメリカの民衆の装いを扱った書物は、J・セヴラ女史の上記の著作以外には、一冊もありません。

二部構成です。

第一部では、クリミア戦争という歴史的背景、写真技術の発展の歴史を踏まえて、最初に、1850年代の写真が語る民衆の装いをコルセットの変化のあり方に焦点を当てて語らせて頂きます。前回はコルセットが女性の身体に及ぼす影響という視点から、議論が白熱し、レポートでも「このような目まぐるしく、仕事に追われる日々を送っていると貴族の女性のようにコルセットを付けてお洒落をした自分の姿を見てみたい」というご意見もいただきました。

次に、前回、男性の服装について、もっと知りたいとのリクエストがありました。今回は、この方のご要望にお応えして、1850年代の男性服をご紹介しましょう。

  

【第一部】

1.ヨーロッパの背景―第二帝政時代・クリミア戦争

☆1848年 2月革命⇒ルイ・フィリップの治世は終止符⇒王はイギリスへと亡命⇒ ブルジョア共和制の成立⇒ブルジョアジーとプロレタリアートの対立激化

☆1852年12月2日 ナポレオン3世 (ルイ・ボナパルト、ナポレオン1世の甥)が第二帝政を宣言

☆クリミア戦争

1854年~56年のクリミア戦争は、トルコ・フランス・ロシア間の聖地(イエルサレム)管理権問題にその端を発します。ロシア、トルコ両国が開戦。349日間にわたる攻囲戦でセバストポリが陥落しロシアは敗北しました。

戦争はヨーロッパとの貿易に大きな影響を及ぼし、アメリカでは商品が不足し、失業者が続出し、多くの企業が倒産しました。しかし、婦人用の記事から判断すると、貿易の崩壊は単に毛皮製品の不足から立証されたにすぎないと人々は信じることができたとのことです。

クリミア戦争は、この時期の歴史にいくつかの影響を与えた。国際政治の面でロシアの南下政策を一頓挫させたということも、むろんそのひとつでありました。

2.写真技術の発展の歴史

さて、次に1850年代の服飾に関わる時代背景として、アンブロタイプとティンタイプの写真技術の発達について述べましょう。

 ダゲレオタイプの写真技術は、庶民が気軽に写真撮影を出来るようなものではなく、非常に高価なものでした。銀板の準備は複雑で面倒なものであるため、より簡便で、安価で使いやすい感光材の開発が行われました。その結果、1851年に、イギリス人のフレデリック・スコット・アーチャーによって、銀板の代わりにガラス板を使う「コロジオン湿板写真」が開発されました。

(1)ダゲレオタイプDaguerreotype

ダゲレオタイプ(Daguerreotype)とは、ルイ・ダゲール(Louis Jacque Mande Daguerre,1787-1851)により発明され、1839年8月19日にフランス学士院で発表された世界最初の実用的写真技法であり、湿板写真が確立するまでの間、最も普及しました。銀板上に直接左右反転した白黒画像を得るダイレクトプロセスです。

(2)アンブロタイプとティンタイプ(フェロタイプ)

ダゲレオタイプの写真技術は、庶民が気軽に写真撮影を出来るようなものではなく、非常に高価なものでした 湿板写真を利用したティンタイプ、アンブロタイプ写真は、高価なダゲレオタイプ(銀板写真)に代わり直接ポジ画像を見ることができる写真として1850年代以降広く普及しました。

次に、カルト・ド・ヴィジット、グラス・プレイト・ネガティヴ、キャビット・フォトグラフ、スタジオ・ポートレート、およびステレオスコープ・ヴューの写真技術が1850年代以降に普及します。これらの写真技術について解説させていただきます。

(3)カルト・ド・ヴィジット

カルト・ド・ヴィジットは名刺の代用で、フランス人発明家のアンドレ・アドルフ・ウジェーヌ・ディデリ(André-Adolf-Eugè ne Disdéri(1819-1889)が、1859年に発明しました。最盛期は1863-1876年、衰退期は1877-1880年である。素材はアルビュメン・プリントです。

(4)ガラス・プレート・ネガティヴ

ガラス・プレート・ネガティヴは、アンブロタイプのすぐあとに登場したガラス乾板のことです。昔使用していた、35枚撮りのフィルムの前身は一点ずつのガラス板でした。アンブロタイプは薬品をガラスに塗布し、それが乾かないうちに撮影したため、湿板と呼ばれたのですが、ガラス乾板は、薬品がその名の通り、乾いた状態でガラス板についています。ネガポジ法です。この利点は、まず、どこでも写せたと同時に、現像処理をその場で施す必要がなくなったことにあります。また、複数枚数を制作することも可能としました。ガラスネガティブになってあらゆる意味で写真のフィールドが拡大したことになります。

(5)キャビネット・フォトグラフ

キャビネット・フォトグラフはキャビネットに飾られたことに由来する名前をもっています。このカードは、全くの第三者の目にプライベートなポートレイトがさらされるようになった時代の始まりでもあります。

(6)ステレオスコープ・ヴュー

ステレオスコープ・ヴューは、ステレオスコープを使って覗く3-D写真です。同じ写真を左右に一枚のボードに貼り付け、ステレオスコープを用いて、両眼で覗くと、3-Dに見えるのです。

1860年代の写真の大半は、ガラス・プレート・ネガティヴ、キャビネット・カード、ステレオ・カードの技術が開発されたため、1840年代、1850年代のスタジオでダゲレオタイプの写真に収められた写真とはかなり趣が異なっています。

3. コルセットの変化―写真に見る身体に優しいコルセットをつけた女性たち

「今もエリザベートのダイエットをするための木の機械が保存されていると聞いています。」

 このようなご意見もいただきました。ご意見を下さったご本人にもお尋ねし、ネットで調べてみたら、木製の器械の写真が出てきました。左の梯子を登って、木製の鉄棒のような器械にぶら下がったのでしょうか?

https://make-happylife.com/2020/09/21/sisi-sweets/ 参照して下さい。

 さて、1850年代のアメリカではコルセット装用の実態はどうだったのでしょうか。写真を通じて見て参りましょう。

ちなみに、ジョーン・セヴラさんは、次のように述べられています。

「1840年代後半の前身頃が長くて、胸部をおしつぶすコルセットは、1850年代には、妊婦や授乳中の女性や少し太り気味の女性に、実際問題として、どのように受け止められていたのであろうか。「このスタイルは、中年になった女性たちが流行の丈長で窮屈なコルセットを使うのをやめ、快適さを選んだことをあらわしていると推察される。」(Joan Severa,p.8)

4.男性服

 1840年代の細い袖とズボンは、1850年代になってもよく着られていた。 1850年代後半には、流行遅れになったスタイルの服が仕事着に格下げされたことが、写真から見てとれる。 男性は、時には平気で「普段のままの」格好でカメラの前に座ったように見える―つまり、職場からそのままスタジオにやって来たような格好をしていて、女性と比べてわりあい着慣れてしわが寄った、いくらか古く見える服を着ていることがよくあるのである。 特に袖はより幅が広くなり、アームホールが1840年代より高い位置にあった。

 ベストは1850年代にはダブルの打ち合わせが主流になる傾向が見られ、ノッチドカラー[刻み衿]が付くことが多かったが、写真にはショールカラー(shawl collar)のものも写っている。 手の込んだ模様織りのシルクは正装用のベストに用いられ、そのなかには燃えるような色のものもあったが、昼間用ベストは黒のウール地で、コートとお揃いであった。 夏には白または淡褐色のコットンのベストが着用され、一部は涼しさを考慮して打ち合わせがシングルだった。 チェック柄のベストは1850年代終わり頃の特徴的な品で、チェック柄のズボンと一緒に着用されたが、ベストとズボンのチェック柄のサイズは同じではなかった。

1850年代初めのファッション・プレートにはまだ細いスタイルのズボンも見られたが、当時の典型的なズボンは、足を入れる部分が比較的幅広の筒状で、折り目がなく、つま先の上で「しわがよる」よう長めに作られていた。1850年代中頃には格子縞やチェック柄や明るめの色のズボンが「あかぬけた」服装をする男性たちに人気があったが、それでも写真では黒が主流である。ウールは年間を通して使用され、リンネルは夏に着用された。

1850年代の男性用シャツでは、中ぐらいのサイズで首回りがあまり高く立ち上がらない衿を、ネクタイの上に折り返していた。この種のゆるいシャツは裾をズボンの中に入れて着用し、時には上にベストを着たが、スモックのように他の服の上に重ねて着用するものではなかった。当時の写真に見られるスモックは、膝が隠れるくらい長く、時にはシャツとネクタイをその下に着ていることが見てとれる(Joan Severa, p.105を要約)

帽子やネックウェアーやヘアー・スタイルや髭の写真も紹介させていただきました。

第二部】

 第二部では、1860年代の写真が語る民衆の装いを歴史的背景を踏まえて、考察させていただきました。歴史的背景は南北戦争(1861-65年)と戦後の再建期(1865-1877)です。1865年には合衆国憲法修正第15条で、奴隷制の廃止が規定されました。戦後の南部の再建はアメリカ合衆国に課せられた大きな課題でした。中でも解放奴隷の土地や仕事や衣食住の保障は、重大な課題でした。

1.南北戦争の背景と経過

   ☆南部地域における黒人奴隷を労働力とする大農園(プランテーション)の普及

☆奴隷制をめぐる南部と北部の対立

☆南部:イギリス産業革命以降、綿花の需要が増大。イギリスへの綿花の供給と工業

  製品の購入という相互依存関係。自由貿易制度を主張し、奴隷制度の存続望む。

☆北部:40年代以降、産業革命が本格的に進行。イギリスと競合関係。奴隷制に反対。

☆1861-65年―合衆国(United States of America)と脱退した南部11州が結成したアメ

 リカ連合国(南部連合 Confederate States of America)との間で戦われた戦争。奴隷

解放の戦い。

2.年表

 1820年 ミズーリ協定

1850年 カリフォルニアが自由州として連邦加入

1854年 カンザス・ネブラスカ法の成立。共和党の結成(奴隷制反対)

1860年 共和党のリンカーンが大統領に当選(南部は認めない)

1861年 アメリカ南部連合結成

1863年 奴隷解放宣言発布

1865年 南部の首都リッチモンドが陥落 

    合衆国憲法修正第15条で、奴隷制の廃止が規定。

3.写真に見る服装の解説

 本章には家庭裁縫に携わっていた人々、学校の教師、リフォーム・ドレスの運動に携わっていた人々、移民、西部入植者、農業労働者、解放奴隷、自由黒人、ネイティヴ・アメリカンなどミドルクラスや下層階級の様々なカテゴリーに属する庶民の写真が掲載されています。そこで、本講座では1840年代、および1850年代とは異なる視点から、写真の紹介、考察を行いました。階級的視点・ジェンダーの視点から見た服装、人種・民族の視点からみた服装という分類をおこないました。なぜなら、解説に掲載した一覧表に見るように、写真技術の発展に伴い、被写体の範囲が一部の金持ちの中流階級以上の人々から、中流・下層の民衆へと広がり、移民、西部入植者、農業労働者、解放奴隷、自由黒人、ネイティヴ・アメリカンなどミドルクラスや下層階級の様々なカテゴリーに属する庶民の写真が掲載されているからです。

 本講座では、なかなか目にすることのない、珍しい貴重な写真を紹介させていただきました。我が国でも、海外でもとてもマイナーな分野の研究です。

【参加者の自己紹介と感想】

オンライン参加者

K・Yさん:名古屋の大学で教えていて、フランス現代文学が専門です。濱田先生のリッチな発表ですし、書籍も手のこんでいる内容です。フランスの文化でもコルセットには言及されていますが、このように細かい説明は貴重です。この本は「写真が命」と言われましたが、写真の発展と共に出版の発展についても話されていますが、同じ写真でも、実際に服装制作を手がけてこられた濱田先生でなければ気づかないことも多いと思います。

第2部の歴史の流れを立体的文化論としていますね。貴族ではない庶民の服装に目を向けられ、奴隷解放後、自由人となった黒人の服装の写真を見て、限られた時代のその服装に目が行くという切り口は大変オリジナルだと思います。まだ写真という資料の少ない中での貴重な記録ですね。

S・Hさん:今回の講座は2回目になります。内容がとても豊富でよくまとめられていると思います。服飾界の習慣として、今までも貧困の人々の研究はあまりされて来なかったのではないかと思いました。

M・Mさん:鹿児島の大学と大学院で教えています。「観光旅行学」という学科で「観光学」は今まであまり重要視されていませんでした。この大学で4年目になりますが、2022年にゼミ生が京都大学大学院に進学し、これからの希望にもなりうれしいです。祖父は1760年から林業をやっていて、そこの土地や家を受けついでいます。Woodショックのあと、現在のSDGsの最先端を行けないかと考えています。

亀岡会場参加者

H・Kさん:Global Sessionは毎月1回開催されているので、毎回大津市から参加しています。1ヶ月ほど前に、BSテレビ東京の番組「Fashion 通信」で濱田さんがインタビューを受けられた番組がありましたが、私も見ました。その時の濱田さんの洋服は、ピンクでとてもきれいでした。

その時の放送では、日本が戦後になるまでにシルクの生産は、アメリカで使用されているシルクの60%を占めていたと聞きました。日本のシルクは以前の番組の「渋沢栄一」でもありましたが、明治初期から機械化されそこまで成長していたと知りました。

仕事はツアーガイドをしていて、この2年間はコロナ禍でフリーなので、仕事をしていませんでした。以前は、日通と企画もいっしょにしたり、日本ユースホステル協会とも企画から参加していました。2年前までは日本のツーリズムも発展していたと思いますが、コロナ禍のあとの、旅行業界の復興もかなり大変だなと思います。

濱田講座は、これから、第2次大戦後のアメリカの復興まで見られると期待しています。

M・Fさん:最初から参加していますが、今回は、170年ほど前のアメリカのコスチュームの話でした。写真もまだまだその時代のは見たことがなかったです。アメリカのコスチュームに視点を当てたことから、西洋中心の服飾業界であったのが、そのころからのアメリカの女性の服装が変わって来たことがわかります。写真を見て思ったのは、「女性もそのころから、働かなければならなくなったと思うが、パンツはなかったのか」という点です。

濱田さん:美を求めて機能的になるよう改善した服を着ていたと思います。日本の第2次大戦後の女性はモンペ姿でしたが、1850年代~60年代のアメリカ女性の服飾文化を比較するとかなりちがいがありますね。

M・Fさん:カメラマンに静止画像ではあるけれども、写真を撮ってもらった人がこんなに多かったのかと驚いてもいます。

S・Sさん:たくさんの資料を見せていただきありがとうございます。日本に来て21年になります。大学はAPUで、社会学が専攻で、エコツーリズムにも関心がありました。

今日の講座についてですが、写真がたくさんありましたが、写真から、こんなに情報が読み取れるのがすごいと思います。それと、いろいろな方面の写真もみられてすばらしいです。私の故郷のシリアもファッションは以前と比較すると大きく変化しました。歴史的な面もあり、人の大きな移動もありました。これを視ていて生まれた疑問ですが、人の移動は大きくなりましたが、今の時代のオンラインであれば、地球の反対側が今どうなのかが見えるのではないかと。これは、ファッションの研究にも使えるのではないかと思いますが。

E・Tさん:2022年になって開催のGlobal Sessionには初めての参加です。今日の講座を見ていて思ったのは、時代を経るごとにコンセプトが少しづつ変化してきているなと思いました。写真技術も改良され、苦労も苦悩もあったのではないかと。

私は、男性のファッションに興味があって、コートやベストなども昔からいろいろ持っています。どれも似たようなスタイルですが。質問ですが、Pコートとか、マラソンパーカーなど今は普通にありますが、いつごろから登場したのかなと考えていました。服を買うお金のある人は、どのように買っていたのかも知りたいです。(仕立てとか、売り場にあるのはいつごろからとか)

M・Oさん:主催者であるオフィス・コン・ジュントさんが、亀岡市の生涯学習賞の共生賞を受賞されたと聞き、おいわいに参加しています。GSは毎回、お知らせとレポートをメールで送ってもらっていて、今回は349回目ということですね。

今までも、濱田さんのGSは知っていましたが、自分には服飾でもあり、関係ないと思い込んでいましたが、今日は参加してすごくおもしろいと驚きました。よく調べておられて、日本の歴史で言えば、江戸時代の終わりころの話なのに、写真がたくさん出てきます。

実は家に銀版の写真がたくさん残っていて、捨てようかと思っていたのですが、今日の講座を聞いて、これは調べておかないといけないなと思いました。

児嶋さんは、1999年からGSを開始して今まで続けていると言われていましたが、思い起こせば、その前のアメリカ大学日本校ブームで亀岡にもオクラホマ州立大学京都校(1990年~1996年)があり、児嶋さんはそのころから仕事をされていて、今に至っているのですね。現在は、ZOOMもあり、今日のように亀岡だけでなく、いろいろな地域からこのGSに参加されていることを考えれば、大きな変化があったなあと再認識しました。

S・Sさん:さきほど自己紹介の時に、シリアを含む中東のファッションについての情報があれば知りたいと思いました。中東に何があり、また、アメリカなどのどのような背景があり、今があるかと。

濱田さん:中東の服飾については牧畜種族としての古い昔の衣裳の資料は残っていました。銅像などの写真も。狩猟生活を反映した繊細な作品であったと西洋服飾史の書籍にはあります。生活形態と密着していたと思います。初期の織物でカウナケスという動物の皮で造られたという衣服を着た銅像を見たことがあります。残念ながら、戦争で、文化的資料であった銅像なども破壊されました。また、動物から摂取したすばらしいい衣服もありました。丹野郁博士が撮影されたものです。その時、ギリシャ、ローマ、エジプト、西アジアの服飾についても私は、基礎を学びました。アメリカの服飾史はヨーロッパの影響をどのように受けたのかという内容について、濱田は研究してきました。

H・Kさんの言われたテレビの出演の時のピンクの洋服はパリからの輸入品のカシミア製のチュニックです。1920年代のボーイッシュ・スタイルです。

M・Fさんの「ズボンをはいた女性の写真はないのか」というご質問ですが、スカートの下にはいている写真がありますね。アメリカではドレス・リフォーム運動があり、濱田の「パリモードからアメリカンルックへ」という本に、詳しく書かせていただきました。

2022年3月23日に、ネクパブアワード2022のZoomでの授賞式がありました。

私の『パリ・モードからアメリカン・ルックへ アメリカ服飾社会史近現代篇』が審査員特別賞を授賞しました。  

濱田さんの書籍

【授賞式の動画】 

3/29(火)午後アワード2022のサイトに選評、受賞者コメント動画、授賞式の動画などが公開されました。

https://nextpublishing.jp/award2022/

児嶋:今日の講座の中での一番印象深かったのは、「奴隷解放後、人々は皆、失業した」という点です。黒人が解放され、すばらしいという解釈が歴史上も残っているのですが、この点には初めて気がついたような気がします。

濱田さん:アメリカのリンカーン大統領による奴隷解放後の「南北戦争後の再建」として解放民管理局が担当していましたが、奴隷の処遇がどのように行われていたかはわかりますが、服装についての研究はあまりありません。マイノリティは写真の数も少ないです。解放されても生活は抑圧されていたはずで、研究の今後の重要な課題でしょう。

K・Yさん:バックグラウンドがないため、研究もされてこなかったでしょうね。

濱田さん:アメリカの現地民族の服飾の研究に行った時に、ナホバ族の織物も習いました。黒人奴隷の服装というのもバージニア州を訪問したときに探しましたが、一着も見つかりませんでした。

S・Hさん:濱田先生は、なぜアメリカを研究しようと思われたのでしょうか?

濱田さん:私は東京に10年間住んでいたのですが、その時に丹野先生のセミナーに参加し、西洋服飾史を学びました。その時に、「西洋の上流階級の研究は多いが、その他は少ない。あなたはだれもやっていないアメリカの服飾の研究をやったらいいですよ」と丹野先生に言われたのです。これが動機になったと思います。先ほど、「貧しい人たちはどうやって衣服を入手していたのか」という話がありましたが、ゼブラさんは「アメリカの人たちは、上昇志向があった」と言われています。S・Hさんも言われていますが、貧しい人たちの写真はあまり残っていません。セブラさんも博物館の学芸員として長く研究されてきましたが、19世紀奴隷の服装などの、実態のないのをどう研究して行ったのかについては、とても難しい今後の課題です。今年は、7月と11月のこのGlobal Sessionで続きをやらせていただきます。衣服の現代化の問題などとてもおもしろいですよ。よろしくお願いします。

セッション以後の感想集

M・Fさん:「「近代アメリカにおける写真に見る風俗研究」しかも女史の風俗はと考え興味を持って拝聴いたしました。19世紀の上流社会の女性は、エレガントな衣装(コルセットによる)を身に着けて魅力的に振舞っていたのは、凄いことと感じ入りました。同時代の日本は帯刀した侍が町を闊歩する社会の中で改革の足音が静かに聞こえ始めたころです。

そんなことを考えながら、浮かんできましたのは、「GONE WITH THE WIND」の映画です。1861年に始まった南北戦争を舞台にした内容で、ヴィヴィアン.リーの着ていた衣装が素晴らしいと感じていた当時の意味が解ったようです。西部劇が好きでよく見ましたが、何時の時も主役の相手役の女性は、エレガントなドレス着用の女優で、西部開拓時代にこのようなdressyな衣装があるのかと不思議に思っていました。当時の優れた写真技術によりアメリカンハイクラス女性の発展性には感じ入りました。濱田先生有難うございました。」   

S・Hさん:「今回の講義で特に印象に残ったことや感じたことを挙げたいと思います。

前回の講義ではダゲレオタイプについて学んだが、今回はその他の19世紀の写真技術や種類について学び、その中で、安価で撮れるティンタイプよりも高価なダゲレオタイプで撮る方がステータスであったことが、まず印象に残りました。

そしてJoan Severaさんのある時代の服装習慣について論じるのであれば、服を買うお金がない人々はどのような格好をしていたかも扱うべきである。という言葉が特に印象に残りました。

19世紀に写真の技術が発展し、残された貴重な写真たちを読み解くためには、服装だけではなく写真のバックグラウンドに意識を向けることが大事だとわかりました。

その一方で、残っている写真がその時代の全ての人々の服装を表しているわけではないことにも注意したいと思います。ただ服装のみに焦点を当ててしまいがちですが、様々な角度から服飾史について学ぶことの重要性を改めて感じました。」

K・Yさん:「1850年代-1860年代のアメリカを中心にした服飾」

コルセットを中心にした発表においては、カルナバレ美術館の貴重な資料を示しながら、コルセットの種類を提示され、刺激的な内容だった。

研究の基礎となる写真資料の技術革新について、まずきちんと整理された点が、資料の精緻さを示し、発表を説得的なものにしている。

写真の読み取りに関しては、発表者が服飾に精通しておられるため、実作者の視点からの分析も功を奏している。

プランテーション時代の発表は、歴史の流れに沿ってなされたので、客観的な時代への位置づけがスムーズであった。

庶民の服装というのは経済的な制約もあり限られたものとなりがちだが、庶民の服装という切り口はとても重要なものだ。「リフォーム」がキーワードになると思うが、資料が少ないだけに研究の困難さが想像できる。

M・Mさん:濱田 雅子博士より、アメリカの服飾史の発表がオンラインで開催された。資料として写真も提示された。この資料は一般人のものであり、当時のアメリカの文化の根源となすもので、たいへん貴重な資料であった。ポイントは当時写真は高価なもので、有名人や超富裕層ではなく、一般の人々であることである。
特に奴隷解放後のアフロアメリカンの資料も多数あり、社会学的にも貴重な資料であった。この研究が服飾というものを通じて、アメリカ史の発展に寄与するものであることを、改めて認識した、非常に貴重な視座にたってのものであった。

2022年1月23日(土)第348回グローバル・セッション・レポート

コンテント

2022年1月23日(日)第348回グローバル・セッション・レポート
開催日:2022年1月23日(土)10:30~12:00
場所:ガレリア3階研修室
ゲストスピーカー:品田井サフワン(サフィ)さん(シリア出身・亀岡市在住)
コーディネーター:四方美智子さん
参加者:14名

 今回のタイトル:「僕の言論の自由」

自己紹介

四方(C)さん:前回(2021年4月)にも参加しましたが、その時に立命館アジア・太平洋大学(APU)に留学したときには、日本語をほとんど話せなかったと言われたのを覚えています。

サフィさん:そうです。日本語を何も知らないので、バスの運転手さんに手で教えてもらってやっとAPUにたどり着いたことを覚えています。

四方(C)さん:シリアの母語はアラビア語ですね。英語は話していたのですか?

サフィ:はい。その後、スペイン語も、大分弁も話せるようになりました。M・Mさんも大分弁ができるでしょう?

四方(C)さん:その時にお聞きした「チャレンジすることが大切です。」と言われ、You can do it.とも言われたのをしっかり覚えています。(自己紹介が始まる)

M・Mさん:では、私から自己紹介をさせていただきます。サフィさんは、APUの私の先輩です。私も 立命館APUに行っていました。

児嶋:今回は1999年にGlobal Sessionを前の勤務先である亀岡交流活動センターで始めて348回目になります。大体月に1回ゲストをお呼びし、セッションをするという形で続けてきました。2011年に退職してからは、Office Com Juntoとして継続し、現在に至っています。

H・Kさん:私は、大津市から毎月1回は亀岡に来て、GSに参加しています。(大体最初からの参加者ですね。児嶋) 仕事はツアーガイドですが、ここ数年は、外国にツアーで行くこともなく、外国からも来ないので、自由時間があり、充電中とも言えます。

H・Tさん:ひまわり教室の中で、サフィさんにもインタビューをして絵本を作りました。(YouTube配信で見られます:「たげんごオリジナルえほん」と入れると音声付きで見られます。)

Y・Nさん:ひまわり教室の指導をしています。以前は小学校教員で、中矢田教室で、山田先生といっしょに読み聞かせをしています。最近はコロナ禍で回数が少なくなっていますが、外国につながる子どもさんといってもいろいろな家庭があり、これからも続けていきたいと思います。

K・Yさん:児嶋さんとは、20数年前からつながりがありましたが、ひまわり教室をされるようになってからまた、いっしょにやっています。(読み聞かせのプロですよ。Tさんの絵本の読み聞かせもされ  ています。児嶋)

ヌーラさん(サフィさんの奥さん):20才で結婚してシリアから日本に来ました。今は3人の子どもがいます。

四方(C)さん:ひまわり教室の指導者と亀岡のもうひとつの組織の多文化共生センターの相談員もしています。

Y・Yさん:ひまわり教室の指導者であり、現在千代川小学校でも指導をしています。この間の1月18日には、サフィさんに千代川小学校に来てもらって、シリアの話を子どもたちにしてもらいました。今日は、子どもたちからのメッセージを持ってきています。あとでお渡ししたいです。

K・Yさん:ひまわり教室の指導者です。前は二つに分かれていて、子どもが少なかったのですが、今は合同でやり、たくさんいるので楽しいです。70才以上の私もT君から元気をもらっています。元は中学校の教員で、小さい子どものことはわからなかったのですが、子どもたちの成長を見ると元気になることがわかってきました。

Y・Zさん:2021年9月1日から、千代川小学校で(外国につながる子どもの)児童教育支援をしています。ひまわり教室については、山根先生から紹介してもらいました。中国出身の子どもたちの日本語教育の力になれればと思います。(京都市内の日本語学校の教員です。児嶋)

T君(サフィさんの息子さん):パパのむすこのタイムです。安詳小学校3年生です。弟が生まれました。

グローバル・セッション開始

サフィさん:品田井サフワンといいますが、サフィと呼ばれています。シリアのアレッポの出身です。2011年と2012年には、内戦がありました。僕の名前はサフワンですと言っても、いつもサフランと呼ばれたので、やめて、「サフィ」と呼んでもらうことにしました。

M・Mさんもいらっしゃるので、APUの話ももっとしたいのですが、今日は別の話にします。2005年に卒業し、富士通に10年間勤めました。仕事はおもしろかったのですが、コンピューターからもう少し人間に近い仕事がしたいと思うようになり、亀岡の(株)ニッシンという会社に移り、営業職で仕事をしています。今は、海外へ行く機会もありませんが、英語、アラビア語、スペイン語と日本語を使う仕事をしています。

「僕の言論の自由」について」

自分の子ども時代から振り返ってみて考えていることを話してみます。「言論の自由」と「表現の自由」は、どうちがうのか。言論の自由とは、「Freedom of Speech」 であり、校閲を受けることなく表現する自由という意味です。

表現の自由は、「Freedom of Expression」で、表現する権利を含みます。そのため、表現の自由の中に、言論の自由は含まれると思います。「自由に人に意見を言う」という言葉がありますが、自由の種類にはどのようなものが有るでしょうか? 

「表現の自由:人からのプレッシャーも受けずに言う」

「報道の自由:ニュースなどが抑制されない」

「出版の自由:本を抑制を受けず出版できる」(シリアでは、どこかの機関を通らないと無理)

「集会の自由:シリアでは、グループで集まる場合は、許可が必要。内容の説明や資料の提出も必要である。

「結社の自由:誰でも団体を結成できるとする権利です。また、団体に加入や脱退する権利、団体を解散する権利も含まれます。シリアでは、政治的組織結社は無理」

「信教の自由:特定の宗教を信じる自由または一般に宗教を信じない自由をいう。

日本では保証されていますね。

このようなシリアでの自由のちがいはありますが、幼いころは、組織として洗脳されていたので、なんとも思わなかったです。シリアで生まれて、大学まで行っても、それがいけないと誰も思っていません。外へ出て見ると、今は不思議に思えますが。

シリアでは、小学校に入ると組織の一員になると見なされています。バース党という組織が支配しています。大統領の写真も学校に飾られ、小学生用の組織が作られます。例としてあげれば、5年生になるとキャンプに行きますが、朝の集会で大統領の表現をマネをして繰り返します。

Y・Zさん:中国でもよく似たことがあります。

H・Tさん:私の母が子どもの時は、日本も戦争中で、「天皇陛下、万歳」といつも学校で叫んでいたと聞いています。

サフィさん:子ども時代の考える力がないときに教え込まれるので。今もシリアにいて、「そんなことない」と思って居る人がいます。昔の日本でもそうは思わずにしてしまっているはずで、でも他の人の考え方が置き換わっているのでしょう。

子どもが小学校に入学します。「座りなさい。」と言われ、目を閉じて、「神様に欲しいものを願って  ください。」目を開けると、何もありません。もう一回目を閉じて、「この将軍様にお願いしてみなさ  い。」その間に、先生が机の上に並べます。「目を開けて」(うわー)欲しいものが全部そろってい  ます。神様よりすごいでしょう。

これは、ある国の話で、絵に描かれた物です。

シリアの話:中学校に入ります。小学校とは別の生徒の組織に入ります。毎日ラジオで大統領の話が流れます。高校に入ると、ちょっとした自由はあります。良い大学に入るのは高い点数を取る必要があります。あと2、3点あれば入れるという場合、組織の一員だったら、賄賂か何かを使ってでも入り、高い層に行きます。もし、組織に入っていなかったら、その流れには乗れず、低い層にしか行けません。組織の敵ともみなされたりします。大学に入り、そこを卒業して、公務員になる人もいます。(一党制なので、命令に従う必要がある)

ボランティアといっても、「みんな出なさい。ボランティアに。」と言われ、出かけるが、手をしばられている絵があります。(大統領のために何でもします)と言う意味。

私もシリアでの大学生時代は、デモもでないといけないので、出ましたが、「万歳」と言って帰り元の生活に戻ります。(好きでやっているわけではないが、洗脳されているので、不思議とは思わなかったです。

仕事に行く日に、「病気でデモには行かない」と言うと、「気をつけろよ。」とか、「見られている  よ。」とか、「壁に耳があるよ。」とか、「不都合があるよ。」とか言われました。普通の人が密告することもあるようです。

「何を見るか」「何を聞くか」ですが、1+1=2ですが、政治家が1+1=5というと、「そうです。正しいです。」と言わなければなりません。 

日本に来て会社に入った時も、同じようなことを感じたことがあります。

以前ですが。会社のトップが言うと、「その通り」と言わなければならないような雰囲気がありますね。

「ストックホルムシンドローム」というのを知っていますか?

ある銀行強盗が、中にいた人を人質にして籠もり、中の人質の分も含めさまざまな要求を出しました。食べ物や飲み物、ふとんなども。その人質にされた被害者は犯人に親しみを感じるようになり、犯人に過度の連帯感や好意的な感情を抱くようになる現象です。その中にいると、「安全」で、自分にしてくれる犯人に対して支援もするというような現象です。外の方が危険だと思うとか。うちの家の猫もそうかな?(1973年にストックホルムでおきた人質立てこもり事件で、人質が犯人に協力する行動を取ったことからついた名称)

四方(C)さん:日本の若者の中に、外国に行こうとしない人が多いようですが、それに似ていませんか?

サフィさん:日本の若者はチャレンジ精神がないだけで、恐怖感を持っているわけではないですね。ストックホルムシンドロームというのは、ハチミツの中に毒を入れてそれを気づかずに食べて悪い結果につながるという意味です。独裁政権の中にいると、居心地がいいと思う人もたくさんいます。

例えば、電機や石油が一日に4時間しか使えない状況でも、政府に文句は言わないのです。(サフィさんの説明)

The Monkeys and the bananas

Googleより:「5匹のサルの実験が行われたかどうかについては論争がありますが、ビジネスオーナーおよびCEOとして、たとえそれが類推としてのみ見られたとしても、これから学ぶことはたくさんあります。

5匹のサルの実験は、組織内の伝統の普及について多くを語っています。

伝統はすべての組織の一部であり、特に労働力の大部分がしばらくの間存在していた場合はそうです。しかし、これらの伝統は、特に新入社員が新しいアイデアを追求することを止められた場合、職場内での進歩に悪影響を与える可能性があります。いつものやり方で何かをすることに集中することで、組織は「バナナ」(彼らが求めている賞品)を手に入れることができる新しい方法を知らないことがよくあります。したがって、5匹のサルの実験では、新しい光から物事を見る、常に正しいとは限らない物事に疑問を投げかける、「私たちはいつもやってきた」という言い訳を使わないようにするために、常に挑戦する必要があることを教えてくれます。新しいことを試みたり、新しい方向に分岐したりすることを避けるために。言い換えれば、その「バナナ」が必要な場合は、創造性を発揮したり、新入社員に新しいことを試してもらう必要がある場合があります。」

サフィさん:今は世代間の紛争が起こっていると思います。親は、「こんなことをしたらあかん。何が起こるかわからないよ。」と言っても、若い世代には伝わっていません。また、私のように国の外にいても心配するとことがあります。外にいるから、言いたいことが言えると思うかもしれませんが、親や友人は国内にいます。

「こんなことを言ってはだめ」ということを言うと、「国内にいるぼくらは大丈夫ではない」のです。

有名な漫画家が政治的な要素のあることを書いて外国に逃げたのですが、その人の親が連れていかれてぼこぼこにされた事がありました。「自分さえ良ければいい」ではなく、やはりバランスを考えなくてはいけないと思います。自分はつかまえられたり、殺されたりはしないけれども、親や友人のことも考えなければならないと思います。

では、自分の中の自由とはどのようなものなのかと考えると、やはり限度があると思います。他の人に害を与えてはいけないからです。

日本もこれからは別の意味で監視社会になっていくかもしれません。

SNSでは、監視社会では、出したことは記録されるかもしれないという心配があります。SNSでの犯罪はケイタイやカメラからもおきます。

四方(C)さん:自分の身の回りには、「自由」はあるものだと思っていましたが、最近は、SNSなどを使って「無視される」など日本でも監視社会というものになって来ているのかと思うようになって来ました。

サフィさん:外国に送ろうとしてもインターネットがつながらない場合もあります。それと、ネットは見られてもいいけれども、過度に反応をしないことですね。

四方(C)さん:昨日のニュースに、アフガニスタンで、キリスト教徒が調査と言われ、連行されたと。信教 の他、女性の働く自由も、アートもない現状ですね。

サフィさん:自由の制限をする側は、その判断をするときに理由付けをします。例えば、「イスラム教でないと地獄へ落ちます。その事象からあなたを守るために、イスラム教徒になってください」とか。

また、日本でもシリアへの渡航は禁止されていて、2013年に日本人のフリーカメラマンが現地のISをテレビ取材したいとして言ったら、出発前にパスポートが没収されることがありました。その理由は、「あなたを政府が守るため」と言われたそうです。

民主主義と言っても、少数派の意見を聞かないのはおかしいと思います。私は、「日本に来てよかった」と思いますが、シリアにいたら、このような自由はないですから。

M・Mさん:サフィさんが、現在のような考え方になったのは、いつからですか?

サフィさん:2001年に立命館APUに来た時には、シリアの状況は、おかしいと思っていたけれども、政府のせいとは思っていませんでした。子ども時代から、政府主催のグループに入団していて、インターネットでも1980年代に起こったことは、話させなかったです。それは、中国で起こった天安門事件があり、政府に対して反対運動を起こし、制圧された事件ですが、ネットで調べると、シリアのハマという町が24時間以内に空爆された事件があったようですが、どこにも報道されていませんでした。このように、外国で見ていることと現実に見ていることは、全くちがっていました。

四方さん:日本に長く暮らしておられて、日本に対するご意見はありますか?

サフィさん:戦争に対する考え方ですが、第2次世界大戦で負けているからかもしれませんが、「戦争は繰り返したくない」という考え方を感じます。「みんなと友達になる」という日本の考え方はとてもいいと思います。それと、「人助け」という考え方は、昔はもっとあったはずで、となりの人を助け合うような方法を、昔に戻ってでもとる方がいいと思います。

M・Mさん:私は、フランスやアメリカのロサンジェルスなどいろいろ回って日本に帰国すると、日本の「あれっ?」と思う点がたくさん見えて来ました。権力のある人が、1+1=5というと、何も言えないような現状が日本でもそこらじゅうにあって、これからは、ちょっと変えていかなければならないというアングルがあると思います。若者も含めて、1歩、日本の外へ出れば、日本がかなり閉鎖的だと見えるのではないでしょうか?

サフィさん:「バランス」というキーワードが大切と思います。APUに居たとき、空手クラブに入っていて、アメリカ人の講師でした。その人から、「いろいろな事にバランスを考えないとくずれてしまいので、バランスが大切だよと教わりました。日本の社会では、「だれかに変な目で見られる」ことが大切なようですが、そうではなくて、自分で考える必要があると思います。家族でも、夫と妻が全く違った意見を持っていると、子育てでもバランスがくずれるはずで、少しずつでも、1歩ずつでも歩み寄らないと、と思います。

夢を持っていて失敗してもいいけれども、やらなかったら、後悔すると思いますので、これもバランスですね。

Y・Zさん:今は、中国の家族ともネットがうまくつながらない状況がありますね。

H・Kさん:2年前に上海にツアーで行った時に、中国に入ると、今までのネットはシャットアウトされました。日本のテレビも以前は映っていたのですが、今はだめなようです。オリンピックがあるので、例のテニス選手の話のころから、監視されていると思います。今は、日本と中国は、鎖国のような状態ですね。

M・Mさん:実際には、子どもなどには全く関係がないし、政治の話なのですが。政治抜きでディスカッションできないかと思います。

サフィさん:中国製のワクチンだけを中国で飲んでオリンピックをやろうとしているようですね。

H・Kさん:今中国は漢民族を増やしたいといろいろなことをやっているようですね。監視カメラを つけてチェックをしたり、異民族の住む地域で、その言葉を教えさせないなど。

四方さん:もう12:30を過ぎてしまいました。あとは、次回でお話ししていただくことにして、今日は、ここまでとしましょう。

Session後の感想集

(H・Tさん)

「現在の日本は「自由」が保証されているように見えます。でも、サフィさんのお話を聞いて、母から聞く戦争中の日本と変わらないと感じました。国が、個人の心や行動を管理できるということは、心得ておくべきだと思いました。自分の自由な発想が認められる、同時に他人の自由な発想を認める、そんな社会になればいいなと思います。子ども達に、いろんな国・いろんな社会・いろんな考え方があることを知ってもらいたいです。」

(Y・Nさん)

「1月グローバルセッション(22.01.23.)品田井サフワンさんに「僕の言論の自由」というタイトルでお話していただきました。『自由』の種類を提示されました。自分の成長期から組織化された社会に洗脳され、正しいことが言えなくて、表現・思想の自由はなかったということでした。自分にとっての『自由』は自分の中にあり、線を超えないでバランスよくほどほどに生きてきることが親から引き継いだことだったということでした。これからの心配は、言いたいことが言えない監視社会になっていく中で、【夢を持つ】生き方がしたい。ということでした。自分自身の考えを表現していく言論の自由を奪うことは、日本が歴史的に歩んできた暗い道であり、いま世界中で起こっている様々なことが戦争前夜であると思いました。言論の自由・表現の自由を守ることで「命を守ること」そして、それがみんなが夢を持って、よりよく生きようとする力のなることをお話を聞いて思いました。サフワンさん、ありがとうございました。」

(K・Yさん)

「お話を聞きとても感銘を受けました。サフィさんの経験からの言葉の重さと、飾らず真っ直ぐな人柄がストレートに心に響きました。サフィさんが好きな言葉だと言われた“Balance for my life“は、全ての事柄において、とても大切な事だと私も思います。縁あって日本に住み、縁あって亀岡に住んでおられる事を嬉しく思いました。そしてヌーラさんと赤ちゃんも参加してくださりサフィさんご一家の温かさを垣間見る事ができました。良いひと時を本当に有難うございました。」

2021年12月19日(日)第347回グローバル・セッション&クリスマス会レポート

コンテント

開催日:2021年12月19日(土)10:00~12:00
場所:ガレリア1階 工作室
ゲストスピーカー:タデウス・オジュグ・アダムさん(ポーランド出身・大学講師)
コーディネーター:亀田博さん(ツアーコンダクター)
参加者:子ども4名 おとな18名 合計22名
共催:亀岡国際交流協会

 今回のタイトル:「 ポーランドのクリスマスについて

今回は、ポーランド出身のオジュグさんをお招きしてポーランドのクリスマスのお話を伺いました。

ひまわり教室の子どもたちや保護者の方がたもたくさん参加していただきました。

ひまわり教室とは、外国につながる子どもさんや保護者の学習支援を主な目的にした学校外の教室です。亀岡で2014年から開講しています。現在は、10名くらいの指導者の方々と、月に2回開催しています。 

オジュグさんのお話

「ポーランドでは、クリスマスの伝統を大事にしていますので、たくさんの方に楽しんでいきたいです。クリスマスプレゼントもおとなになったら、減るかもしれませんが、子どもの時には、サンタさんがもっと持ってきてくれたら、楽しくなるのにと思っていました。クリスマスのこの時にしか食べられないごちそうがあり、1年中、この日の食べ物を食べたいと心待ちにしていました。

ピエルニキというクリスマスのお菓子を昨年みなさんと作りましたが、これは、ポーランドとドイツが発祥のようで、その後、イギリスやアメリカに伝わったようです。ジンジャープレートと思われているようですが、ポーランドでは、もともとジンジャーは入っていなくて、ライ麦とハチミツが主原料で、最初は胡椒だけが入っていて、後はクローブやナツメグやシナモンなども入れるようになりました。

最近はコロナでオンラインでの話が多いですが、クリスマスというお祝いの体験はやはり直接会い、情報だけではなく、五感と通して、クリスマスの音、味や香りも楽しむことが大切と思います。クリスマス前のピエルニキを焼く匂いが家中にこもり、もうすぐクリスマスと心待ちにしていました。もうひとつのクリスマスの匂いは樅の木の香りです。

今は、クリスマスツリーも買いますが、昔は24日の朝に樅の木を切ってきて部屋に立てていました。その樅の木の香りがクリスマスのもうひとつの大事な匂いなのです。ポーランドのクリスマスは24日に始まり、それから1ヶ月続くのです。

この日の前夜祭ディナーは普通は肉を食べないアドベント断食期間になります。酢キャベツをメインにしたビゴスという料理は少し肉が入りますのでクリスマスの2日目に食べる家が多いです。ビゴスに入れるザワークラフトは、今は缶詰もありますが、昔は冷蔵庫もなかったので、自分でキャベツを細かく切って塩に漬けました。酢は入っていなくて自然な味です。ビゴスはそれぞれの家庭の味があるのですが、トマトと肉とサワークラフトが材料で、それぞれの家で好きな味を楽しんでいます。

Bigosの作り方

材料:サワークラフト缶または瓶 500グラムくらい

   豚もも肉 60g・ウインナーソーセージ 8本・タマネギ 小1個

   干ししいたけ 4~5枚・赤ワイン 大さじ2杯(オプション)・

   トマトピューレ 50g・ケチャップ 少少・月桂樹の葉 3~^4枚

   コンソメ 3~4個・塩 こしょう 少少・水 400cc

1.サワークラフトを洗ってから鍋に移し、水とコンソメを加え、30分煮込む。

2.豚肉とソーセージを切ってフライパンで炒める。炒めた肉とソーセージを鍋に入れる。

3.タマネギを切って炒めて鍋に入れる。

4.もどしておいた干ししいたけは、1cmの幅に切って、鍋に入れる。

5.ピューレとケチャップを加え、サワークラフトが柔らかくなるまで煮込む。赤ワインと塩とこしょうで

味付けする。

クリスマスについて

ポーランド語では、クリスマスは、Boże Narodzenieといいます。Bożeのzの上には点がつきますが、これは、中国語のピンイン(発音記号)の「r」の音に似ているので中国語を話す方は正確に発音できます。他の言語にはあまりありません。

イブのディナーの品数は家庭や時代によって異なり、3品、7品、9品、15品などになりましたが、最近は12品(12ヶ月・12人のキリストの弟子)が一番多いです。ビゴスやピエルニキの他には甘いスイーツとしてけしの実のケーキがあります。薄力粉を使い、けしの実、はちみつ、アーモンド油などを使います。それ以外に麦、けしの実やはちみつを使ったクティアという一品がありますがこれは、リトアニアが発祥と言われています。じゃが芋をすりおろし、パンケーキのように油で焼くプラツキ・ジェムニャチャネという料理を食べる人もいます。

クラクフという町にはおもしろい習慣があります。イエスが生まれる時に人形をかざる習慣があります。お城のような建物を作り広場に飾るコンクールがあります。

また、クリスマス期間中にイエスが生まれる場面を形作り、保育園や幼稚園で親の前で演技するイベントがあります。「舞台に立ってみたい」という願望を表現することができます。

クリスマスイブには、「きよしこのよる」を歌い、ディナーを食べて教会の夜中のミサ(12:00)に行き、クリスマスのスタートです。

参考:ポーランドのクリスマス(wikipedia)

参加者のレポートです。

E・Nさん

「久しぶりに亀岡でみなさんに会えてうれしく思いました。特に中学3年生になったWくんがすっかりお兄さんというか、若者?に成長していて、驚きました。またひまわり教室に来るようになって、うれしいですね。みんなで声掛けすることが大切じゃないかと思います。

 夏休み明けに編入したCくんがまずまず日本語を伸ばしている(あるいは思い出している)という様子も伺いました。みなさんの努力の成果ですね。

 Tさんと私はHSさんと話したいと思っていました。サムくんの誕生をテーマに新作絵本を考えています。生後2か月で6キロ越えたそうですが、Tくんが生まれたときはもっと大きかったそうです。Tくんはお兄ちゃんになって、危なっかしいくらいサムくんのお世話(ちょっかい?)をしてくれるそうです。Lさん(姉:小5)は妹が欲しいと強く思っていただけに、相変わらずビミョーな(冷淡な?)反応をしているそうです。でも、サムくんが、Lちゃん以外の人があやしたり、何かの音にきゃっきゃっと笑って反応したりするのを見て、関心を示すなど、変化もあったそうです。Tくんが生まれたときLさんは2歳半くらいだったそうですが、盛んにお世話したそうです。でも今回は思春期に達していることもあって、かなり違う反応を示しているようです。これも成長でしょう。

 ポーランドのお話はとても楽しく拝聴しました。寒い地方のお料理は今の季節にぴったりですね。機会があったら訪ねてみたいと思いました。1時間半以上子どもたちはとても大人しく聴いていたと思います。子どもたちも楽しめるように、ちょっと子ども向けのクイズとかを、他の人も手伝って準備しておいたらよかったんじゃないかと思いました。」

H・Tさん

「久しぶりにひまわり教室の先生方や参加者の皆さんにお会いできて、嬉しい時間を過ごさせていただきました。ポーランド、こんな機会が無ければほとんど何も知らない国のままでした。

少し話を聞くと、急に身近に感じ、もっと知りたくなります。コロナ禍が終ったら、行きたい国がまた一つ増えました。ステキな時間をご準備いただいた皆様に感謝いたします。」

R・Sさん

「Global Session&ひまわり教室クリスマス会、ありがとうございました。

T君はお休みだったので、他の子たちの様子を見ながらゆっくりさせてもらいました。K・Yさんの用意されたカタカナや漢字学習の教材がよくできていて、感心しました。何度でも繰り返し使える優れモノで、子どもたちは遊びながら楽しく学んでいました。

W君はいい表情で参加していて、K・Iさんと楽しそうに勉強していました。

オジュグさんのお話は、とても興味深かったです。

その日だけでなく、その日までにするお料理や飾りつけなどを含めてのクリスマスなんですね。

日本のお正月もそういうところがありますが、それこそが文化だと思いました。いつかポーランドのクリスマスを見てみたいと思いました。(苦難の歴史を歩んでこられたことも胸に留めつつ。)

T・Yさんの用意して下さった子どもたちへのプレゼント(クリスマスのオーナメント?)がすてきでした。」

K・Yさん

「とても楽しい時間でした。オジュグさんのポーランド愛を強く感じました。‘’ピェルニキ‘’ ‘’ビゴス‘’の作り方を楽しそうに話され、作ってみたくなりましたが、材料の種類の多さにとまどってしまいました。 2015年の12月にポーランドを訪れました。でもツアーですので、ワルシャワで2泊した中の1日だけだったのが残念でしたが、オジュグさんのお話を聞きながら、ワルシャワの静かな街のクリスマスツリーを思い出していました。広場をカラフルな上着を着て並んで歩く幼い子供達!!   ショパン博物館でのワルシャワ大学の先生のピアノコンサート!!  が忘れられない素敵な思い出です。」

K・Iさん

「ひまわり教室は前半30分で、あと12時まではグローバルセッションでオジュクさんの「ポーランドのクリスマス」でした。W君は、席に着くや否や「先生これ教えて」。見ると京都の府立高校の入試過去問題集の数学2ページ八問!ワオー!早速取り掛かりますが本人は涼しい顔!(おーい 誰の勉強なんよー) けど「解からんかったから教えて?」そのとーり あんたは正しい。おかげで私は四苦八苦。そのうちにGSの自己紹介とクリスマスのお話が始まりました。こちらは入試問題と格闘中なのに「今年も僕、サンタの服着るの?」「知るかーい 今年は勉強だ」 けれど彼はさっさと一番前の席で小学生の生徒とポーランドのクリスマスやごちそうの話を楽しそうに聞いてます。まあいいか!

けれど そろそろ 集中して勉強しろよ 家で 。今でしょ ラストコーナーもう回って直線ですよ!!」 

T・Yさん

「ポーランドのクリスマスについての楽しいおはなしでした。24日のイヴのディナーなどの過ごし方がよくわかりました。肉無しの料理でキャベツをいろいろに使うとか。料理の数は12種類と決まっていて、家族で過ごす大きな行事であるが、だれが来てもいいように、皿の数を一皿ふやしておくとか。ケーキにはくるみやハチミツ、けしの実のクリームを入れるとか。

ポーランドの町並みの風景がとてもきれいでしたね。子ども達も白い衣裳を着てかわいかったですね。

 こちらでも「きよしこのよる」を歌い、亀田さんからのポーランドのチョコレートのプレゼントもいただきました。ポーランドのことばでの歌は、むずかしかったですが、ゆっくり練習しました。このような機会を持って、自分たちの五感を通して、いつかは形に残していきたいですね。」

O・Rさん

「クリスマスのお話しを聞くのは大学以来です。オジュグさんは、ポーランドのクリスマスの過ごし方について紹介していただきました。一番印象に残ったのは、クリスマスイブに家族でお食事する際に、人数分より1セット多く食器を用意するということです。お話しを聞くだけで、温かさを感じました。子どもたちにとっては。ちょっとお話しが長かったかと思います。ピエルニキ作り体験を楽しみにしています。」

K・Yさん

「『サンタさんからクリスマスプレゼント(ほしいもの)がもらえる日』となってしまっている日本の商業クリスマス。オジュグさんのお話を聞いて、クリスマスの宗教的な意味を知ることができました。ピェルニキの香、もみの木の香がするポーランドに行って、キリストが生まれたところを再現したクリスマスの飾りを見てみたいです。日本では、もうすぐお正月です。お正月は本来、家を綺麗にして、ご馳走を作って年神さんを迎える宗教的な行事ですね。文化、伝統を大切にするためにも、お節料理をがんばって作ります!ピェルニキも作ってみたいです。オジュグさんの次回のglobal sessionを楽しみにしています。」

M・Sさん

「オジュグさんにお会いできて嬉しかったです。ポーランドの落ち着いたクリスマス飾り、家庭の味のクリスマスのお菓子や料理。国によっての違いを感じることができました。食卓に誰が来てもいいように常に1人分は余分に準備している、って素敵ですね。その席が埋まったら、また次に一人分の席を用意する。迎える人々の暖かさを感じます。クリスマスはみんながhappyで過ごせるように、というポーランドの人達のおもてなしなんでしょうね。

こういうポーランドのクリスマスは大切に受け継がれてきて、伝統となっているけど、伝統だから守っていかなくてはいけない、と考える必要はない。というオジュグさんの言葉が印象的でした。楽しいから楽しむ、国や家族の伝統のよさを大切にしたいから守る、そういう考え方なんですね。伝統は守り継いでいかなければならない、廃れさせてはいけない、と思うと義務や責任にとらわれてしまう。そうなると楽しくないし、しんどくなる。確かに、その通りだと思いました。私の身の回りにある日常的な伝統や文化に、この考え方で接してみようかな、と思いました。」

Y・Cさん

「2021年12月17日、グローバルセッションに参加させて、ポーランドのクリスマスについてのお話を聞かせて頂き、ポーランド文化に触れることができました。

料理が大好きな私は、材料を用意して、作って、写真も載せようと思っていましたが、残念ながら、仕事でバタバタして、できませんでした。お正月休みに作る予定です。楽しみにしています。

本当に素敵な時間を過ごさせて頂きました。感謝しております。また、参加できることを楽しみにしています。」

2021年11月28日(日)第346回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2021年11月28日(土)10:30~13:20
場所:ガレリア3階 会議室&オンライン
ゲストスピーカー:濱田雅子さん(元武庫川女子大学教授、アメリカ服飾社会史研究会 会長)
コーディネーター:児嶋きよみ
参加者:13名(うちオンラインでの参加7名)
共催:亀岡国際交流協会

 今回のタイトル:「写真に見るアメリカの民衆の装い(その1)-1840年代の生活文化を階間見る」

自己紹介

濱田さん:今日は、学生さんでホームページを見て参加した方もいらっしゃいます。Joan Severaさんという方の紹介と分析を通じて近代アメリカにおける写真に見る風俗研究を論じていきたいと思います。率直なご意見をいただき、自分の再出発の機会にしたいと思います。

R.Y.さん:せせらぎ出版から濱田さんのご本を2冊出版しています。

M.M.さん:鹿児島の大学で指導していますが、大阪に住んでいます。飛行機で通っています。

A.N.さん:武庫川女子大で教育社会学が専門です。ジェンダーの研究をしていて、今も濱田先生にお世話になっています。

R.O.さん:神戸大の1年生です。ホームページから興味があり、応募して入っています。

S.H.さん:法政大の通信教育で史学科に属しています。服飾史に興味があります。

H.K.さん:大津市から来ていて、琵琶湖の近くに住んでいます。コロナ禍では、休みが多いですが、ツアーガイドをしています。Global Sessionははじめのころから参加しています。

K.O.さん:宇治市で小学校の非常勤講師をして7年目です。それ以前は、正規の教員をしていました。

S.T.(S.K.)さん:立命館守山高校の教員です。国際理解教育の分野でブラジル人学校なども訪問し、先日は漢字の勉強をしました。

R.S.さん:濱田さんのGlobal Sessionも何度目かです。ファッションの歴史ですが、いろいろな要素を含んでいて楽しみです。ひまわり教室(外国につながる子どもや保護者の学習支援教室)で指導をしています。

E.T.さん:以前、濱田さんの講座の時にはちょうど、仕事を代わったころでしたが、8月からは島津製作所で仕事をしています。

鶴山さんには、亀岡国際交流協会との共催で、オンライン講座も含む準備をしていただいています。

講座開始

濱田雅子の服飾講座「服飾からみた生活文化」シリーズ21

「アメリカの写真が語る民衆の装い(その1)ー1840年代の民衆の生活文化を垣間見るー」

概要 Joan Severa, Dressed for the Photographer, Ordinary Americans and Fashion (1840-1900), Kent State University, Ohio, Kent, 1995. p.592. 本書はJ・セヴラ女史(Joan Severa,1925-2014)が30年と言う歳月をかけて取り組まれた 大作で、アメリカの服飾研究者から高く評価されています。彼女はウィスコンシン・ミュ ージアム歴史協会の学芸員を30年にわたって歴任する傍ら、アメリカ服飾学会の理事や多 くの博物館のコンサルタントとして活躍してこられました。 本書は、ミドルクラスや下層階級のアメリカ人たちが、ダゲレオタイプの銀板写真技術 が導入された1840年から1900年の60年間に、記念写真や日常生活の写真に、どのような装いでおさめられたのか、かれらのバックグランドや服装のディテールの分析も含めて、マテリアル・カルチャー(物質文化)の視点から書かれた大作です。掲載された写真は何と 277枚。服飾の専門家の視点で写真のなかの服装が的確に分析されています。ヨーロッパや アメリカの上流階級の装いを扱った書物は、沢山、ありますが、アメリカの庶民、すなわ ち、アメリカの民衆の装いを扱った書物は、J・セヴラ女史の上記の著作以外には、一冊も ありません。 ダゲレオタイプ(Daguerreotype)とは、ルイ・ダゲール(Louis Jacque Mande Daguerre,1787-1851)により発明され、1839年8月19日にフランス学士院で発表された世界最初の実用的写真技法であり、湿板写真が確立するまでの間、最も普及した写真技法です。 銀メッキをした銅板などを感光材料として使うため、日本語では銀板写真と呼ばれていま す。銀板上に直接左右反転した白黒画像を得るダイレクトプロセスです。 この技術のアメリカへの導入と普及について、セヴラ女史はこう述べています。「1839 年の晩秋、ルイ・ダゲール(Louis Jacque Mande Daguerre, 1787-1851)が開発した独自の手法による写真撮影[ダゲレオタイプ]の権利と装置を販売する公認代理人が、ブリティッ シュ・クイーン号でニューヨークに到着した。ダゲールの業績はすでにアメリカでとても よく知られており、多くの者がその権利の購入を申し込んだ。文字通り数週間のうちに、 あらゆる都市や町で何百人もの駆け出し写真屋が店開きした。それは絶対確実な成功への 道であった(1)」ということです。 また、銀板写真の普及は、西漸運動に伴い、急速に進みました。 「実際、西漸運動によって肖像写真を撮ってもらう人は何千人も増えた。というのも、 西へ向かう人びとは自分の写真を後に残し、家族や友人が写った貴重な写真をたずさえて 行ったからである。アメリカでは1850年代までに、毎年およそ300万枚のダゲレオタイプが 作られ(Taft 76)、それとともに価格は下がっていった(2)」ということです。セヴラ女史は、現存する銀板写真を全米から収集し、こう述べています。「これらの古くなった写真はほんのわずかしか残っていない。とはいえ、これらの残存している映像は広範な社会 的な基礎を包括しており、当時のマテリアルカルチャーの写真が非常に確かなまとまった 情報を残してくれている(3)」 本講演では本書において、10年単位で扱われている60年間(1840年~1900年)のうち、 1840年代の10年間にわたる写真に見るミドルクラスや下層階級のアメリカ人、すなわち、 アメリカの民衆の装いの紹介・分析を試みたいと思います。分析の視点は、アメリカ人がいかにヨーロッピアン・フレンチ・ファッションに憧れていたか、ヨーロッピアン・フレ ンチ・ファッションとアメリカンファッションの類似点と違いは何であるか、という点に 据えられます。1850年代から1900年についても本講演と同じ手法で5回に分けて、講演させていただく予定です。19世紀アメリカの民衆の生活文化を、装いを通して、ビジュアルに 学ぶ、またとない機会です。知らないことを知る「知の楽しみを」エンジョイなさって下 さい。

 全体構成

  1. ジョーン・セヴラ女史の写真資料を用いた研究方法
  2. 写真技術史の概要
  3. 19世紀ヨーロッパの服飾
  4. 1840年代アメリカの歴史的背景
  5. 1840年年代アメリカの写真が語る民衆の装い
  6. 19世紀アメリカの庶民服の実物調査からの報告―ミネソタ大学Goldstein Museum of Designのコレクションから―
  7. まとめ

【注】
(1) Joan Severa, Dressed for the Photographer, Ordinary Americans and Fashion (1840-1900), Kent State University, Ohio, Kent, 1995, p.1.

(2)  Ibid., p.1, cited from Robert Taft, Photography and the American Scene,  New York: McMillan Co., 1938, p.76.

(3)  Ibid., p.1.

Joan Severaさんの著作に掲載された写真解説は下記からアクセスしてください。

A Look at Old Photoraph by Joan Severa  https://www.american-mode.com

代表のプロフィールの動画ギヤラリーから見て下さい。

または、下記から直接、Youtubeへ “A Look at Old Photographs” by Joan Severa – YouTube

当日の感想発表から

(S.Tさん)

「すごく興味深く見せていただきました。『風と共に去りぬ』や『大草原の小さな家』などを思い出しました。服装の自由は、人が初めて出会う「自由」というものかとも思いました。もっと知りたいなと思います。」

(M.M.さん)

「アメリカは、東から西のカリフォルニアを目指していた時代で、アメリカの激動の時代とも言えますね。1840年代というのは、南北戦争の前で、落ち着いた時代ではないです。」

(濱田さん)

「アメリカ特有の人種構造の時代であり、次回は1850年から60年代の写真が語るアメリカ民衆の衣生活を階級・ジェンダー・人種・民族の視点から見ていきます。丸山先生は世界を股にかけて来られたお立場から、グローバルな視点で、いつもおっしゃられているように、日本語の文献だけでは狭い範囲にしか情報が届きません。そこで、濱田は、グローバルな普及を目指して、『19世紀アメリカの庶民服』に関する本の日本語版だけではなく、英語版も出版する予定です。」

(A.N.さん)

「興味深い内容でした。1点質問があるのですが、ジェンダー研究をしていますが、フランスのレヴィストロースは、18世紀のヨーロッパの服装に触れ、女性の服装で細いウエストをコルセットで締め上げてもっと細くしたいとやっていたら、肋骨が折れて死亡したという記述がありますが、アメリカではどうですか?」

(濱田さん)

「以前に書いた私の著書『パリ・モードからアメリカン・ルックへーアメリカ服飾社会史 近現代編―』に詳しく書いてありますので、ご一読いただければ幸いです。」

(A.N.さん)

「ウエストが細いのが魅力だったのでしょうか?」

(濱田さん)

「誰が言ったかはわからなくて謎です。鋼鉄製のコルセットもあり、最初は浮気ができないようにするためにとか言われていたようですが、なぜ、細胴・太腰が美しいとされたのかについては、根拠は、いまのところ、服飾史上には見当たりません。」

(R.O.さん)

「西洋のファッションに目を向けていましたが、アメリカの服飾史もおもしろいですね。最初は、フランスや、イギリスの影響を受けていたはずですが、アメリカらしいファッションを生み出す拠点となる時代だったのでしょうか?

(濱田さん)

「19世紀アメリカの服飾にその萌芽がありますね。『西洋服飾史』という上流階級の服飾を中心とした大学の授業は沢山あります。18世紀のヨーロッパのロココ調のファッションは、上流階級が中心で、衣裳の遺品が博物館などにもあります。でも、中産・下層階級の衣服については、全く実物がないのです。私はJohn D. Rockefeller Jr. Library(https://research.colonialwilliamsburg.org/library
)に招聘されて、在外研修員として、下層階級の衣服の遺品調査に携わった経験があります。18世紀のプランテーションで発掘されて、奴隷が使っていた針や鋏などが出てきていますが、テキスタイルは一枚も残っていないので、困難な分野ですが、敢えて踏み込んでいる状態です。

 19世紀は、ゼヴラさんの本があり、埋めていくことができる穴場とも言えます。歴史学と服飾史をドッキングさせてみてください。美術から服飾研究に入るとか、若いみなさんも継承してください。

それと、濱田は、実際に服を作る人が研究することも薦めたいと思います。絵やイラストだけでなく、実際に縫っている人が研究すると、また、ちがうと思います。服作りという実学を軽視し、ファッション文化・表象文化を言説研究の方法で研究・教育されている大学の先生もおられますが、私は理論と実践は、車の両輪であると確信しています。両者の分離は、日本における学問研究のあり方の弱点であると確信しています。また、私が長年、師事させていただいてきた丹野郁先生から、海外に行って、三脚を立てて、写真を撮っていると人が集まってきたというお話を伺ったことがあります。衣服の実物はさることがら、写真は実証資料として、とても大切ですね。」

(K.O.さん)

「アメリカのファッションは元はヨーロッパであったと思いますが、変わるのですね。アメリカの生活、風土、自然に寄り添いながらアメリカ風になっていくのがおもしろいですね。

「キャラコ」という言葉を久しぶりに聞きました。どのように残しながら、自分たち用に変えて行ったのかを知るのもおもしろいですね。ネイティブアメリカンの方の写真もあり、シルクを着ていましたね。

(濱田さん)

「今日お見せした写真は、どれも似てはいるけれどヨーロッパとはちがいます。よく見ると美しいのですが、レースも高価なので、リネンの襟もあります。手に入る物でそれなりにおしゃれをしているのですね。Native Americanの方がシルクのドレスを着ていますが、写真家がそれらしく見せるために装飾品を付けさせたようです。事実関係をよく調べてみます。」

(S.H.さん)

「初めてジョン・セヴラさんを知って、また本を読んでみたくなりました。1840年代に服飾の雑誌が出ていることも知りました。上流階級と民衆の服装のちがいなど服飾史を学んでいきたいと思います。」

(濱田さん)

「 Godey’s Lady’s Book。この雑誌を大学でもっているところがありますが、あまり厚くて、写真を綺麗にとれません。海外から雑誌を購読して、お金を払ってファッションプレートのデータをダウンロードできます。」

(H.K.さん)

「ありがとうございました。ヨーロッパの服飾は以前から興味がありました。晴れやかだったのが、カジュアルに変わってきましたが。

先ほど西尾さんから質問がありましたが、ウエストをしぼり、コルセットを着けるのは、究極の美と言われていましたね。オーストリアのハプスブルグ家のエリザベートは、腰の周りが50cmなかったと言われています。ダイエット器具を使い、かくれた努力もしていたようです。そして、何よりもウエストが細いというプライドを持っていたようです。

食事を何回かに分けて食べたりして。アメリカでは、コルセットは質素で鯨の骨とかだんだんカジュアルになっていったのでしょうね。階級のちがいもありでしょうが。」

(濱田さん)

「エリザベートは究極の食事制限をしていたようですね。武庫川女子大の卒業生で宝塚に入り、演劇のエリザベートの服を作ったひともいます。」

(H.K.さん)

「今もダイエットをするための木の機械が保存されていると聞いています。」

(濱田さん)

「その情報をお聞かせ下さい。1850年代になるとアメリカでは身体にやさしいコルセットに変わっていきます。隠れてコルセットをしない女性も出て来たし、授乳中の女性は締め付けられないですね。このようにコルセットから女性が解放されて行くようです。」

(H.K.さん)

「日本の明治維新後の鹿鳴館の絵がありますね。コルセットを着けて。」

(E.T.さん)

「写真を見るだけでも楽しかったです。いろいろ知ることができてよかったです。一見華やかな服装に見えていても身体を締め付けて痛めていたというのを知り、衝撃でした。これからも服装について見ていきたいと思います。男性のファッションの歴史も見てみたいですね。」

(濱田さん)

「今回は、時間の関係で男性の服装は扱いませんでしたが、次回、ご紹介しましょう。一見、きれいだけれど拷問であった女性の服は、今後も服飾が女性に及ぼす影響という点で、目が離せないと思います。」

後日に送られてきた感想集

(R.O.さん)

「今日は研究会を開いていただきありがとうございました。今まで私の中で服飾と言えば日本や西洋の王族・貴族、上流階級の人々が着る服を思い浮かべておりましたので、とても新鮮でした。

 今、アメリカはNYファッションウィークが開かれるなど、ファッションの中心地のひとつでもありますが、最初の方は(というと言い過ぎかもしれませんが)フランスの影響を強く受けていたことが、中国の影響を強く受けていた日本と少し重なる部分があったように感じ、興味深かったです。

 また、たくさんの写真を使いまさに美術史的・様式論的な方法で服飾の変遷を分析していくのも、勉強になりました。本日は本当にありがとうございました。

(M.M.さん)

先日は誠にありがとうございました。
私はアメリカにおける写真資料という観点からKodakの栄枯衰退も大きな影響があったと思います。
大きな乾式写真というイノベーションを起こし、デジタルカメラの発明をしたのに倒産した、まれにみる社史です。クリステンセンのまさにイノベーションジレンマです。
世界ではAgfa、フジフィルム、コニカミノルタでしたがフジフィルムは医療分野で大きく羽ばたいています。コニカミノルタは写真分野は撤退するものの規模は保っています。
https://www.youtube.com/watch?v=ZUQXLPNV-kU
https://www.youtube.com/watch?v=6uPY-EiFYgE
Youtubeでは研究者用ではありませんが、ご紹介させていただきます。

(S.H.さん) 
大学では服飾史を学ぶ機会がなく、この度はアメリカの服飾史について学ぶことができ、貴重な時間となりました。ありがとうございました。今回の講演によって、Joan Severaさんという方を初めて知り、今回紹介されていたYoutubeをもう一度拝見しようと思います。

20世紀のアメリカの服装に比べて、19世紀のアメリカの服装についてはあまり知識やイメージがなく、今回1840年代のダゲレオタイプの写真を見ながら、当時の服装を知ることはとても印象的でした。また、1840年代にすでに雑誌が発行されていることも印象に残りました。今回のテーマであった写真が語る19世紀のアメリカの生活文化を、雑誌のファッションプレートと実際のダゲレオタイプの写真を比較して、当時の上流階級と民衆の服装の差や実態を考察することも、当時の生活文化、服装を理解するために重要だと分かりました。そして、階級別に焦点を当てることの重要性も知ることができました。

(R.Y.さん)

○濱田先生が、たくさんの写真を使って説明していただいたので、とてもわかりやすく、興味深かったです。

○濱田先生の立ち位置が、上流階級・特権階級ではなく、働く人々、庶民にしっかり目を向けられていることに、いつも共感し、他の研究者には例をみないと感心しています。

○写真技術の発展史にも触れられていて、個人的には興味深かったし、とても勉強になりました

(A.N.さん)

本報告では、まずアメリカ人の衣生活について西洋近代服から初期近代服へのシルエッ トの変遷について概略が示され、次いで、アメリカ服飾史研究において大きな功績を残したJ.セヴラ女史によるアメリカのミドルクラスおよび下層階級の女性服(ドレス)について、袖、胴部など部位別の特徴が考察された。

個人的に大変興味深かったのは、シュミーズ・ローブといわれる非常にシンプルで、スカートの広がりも少なく、動きやすかったと思われる女性服が主流であった 1790 年代~1810 年代から、ロマンティック・スタイルといわれる、シュミーズ・ローブとはまるで対照的な袖もふんわりと幅広く、スカートもクリノリンを着用することによって膨らませた、どう見ても動きづらそうな女性服に一気に変わったことである。「王政復古調」ともいわれるこのロマンティック・スタイルには、優雅な女性とそれをまとう女性への回帰が感じられる。

同時に、クリノリンの他、細い腰を作るためのコルセット、ハイヒールなど、ミドルクラスの女性が自らを美しく見せるための工夫を惜しまなかった精神的、時間的余裕をうらや ましく思う反面、それらをまとうことによって自らを「正統な女性」として見せることが当たり前とされていたその時代に生きづらさを感じる。おそらくその時代の多くの女性はそ のように装うことが当たり前すぎて、他の選択肢があることをほとんど想像しなかっただ ろうが。そして、その感覚は、中国で纏足をしていた女性に通じるものがある。さらに、今日の日本でいえば、ハイヒールとパンティストッキングを履いて働く、今では数少ない(?) 女性にも共通する。

以上は、本報告の内容をジェンダーの観点から考察した典型的な意見であり、そう捉える自分もいる。うそではない。一方で、正直なところ、「人生で一度くらい、あんなに優雅な女性服をまとってみたい」というアンビバレントな感覚もある。その場合、その衣装をまとった自分を見てみたいという気持ちもなくはない。しかし、それよりはむしろ装うことに時間をかけるその贅沢さを楽しみたい、装ってみることで気分をアップさせたいという気持ちの方が強い。時間的にも精神的にも余裕がなく、日々の仕事に追われているだけの私だからこそ、本報告で扱われた時代とその時代を生きた女性に憧れを抱くのだろう。

【写真解説】

写真15 この美しいポートレートは、ノーサンプトンで婦人帽製造業を営んでいたR・B・ディッキンソン夫人(Mrs. R. B. Dickinson)のものである。

『ノーサンプトン・クーリエ』紙(Northampton Courier)に載せた1858年の広告の中で、ディッキンソン夫人は『ボンネットが欲しいすべての女性は、ぜひ私のボンネットルームにいらっしゃい』と述べている。ボンネットルームは、ノーサンプトンのメイン通りとキング通りの交差点の角にある建物の2階にあった。……ボンネットは、1840年代初めには鍔が顔の横に接近した形だった。1846年頃になると鍔の開きがいくぶん広がってこの写真のような形になり、鍔の内側に左右非対称の飾りを付けられる空間が生まれた。真のボンネットはかなり顔から離れており、シルクの花や草の繊細な装飾を付けるだけのゆとりがある。(Joan Severa p.49から引用)

写真24 セヴラ女史に拠ると、この写真の時代考証はアフリカン・アメリカンの歴史上、非常に貴重である。少々、長くなるが、他の服飾史の文献には、決して見られない解説であるので、全文紹介させていただく。

「この珍しい写真は、貴重な1840 年代のダゲレオタイプを1870年代に撮ったもので、ジョージア州サバンナのふたりの奴隷女性が写っている。年長の女性はジュディ・テルフェア・ジャクソン(Judy Telfair Jackson)で、テルフェア家で料理をしていた。若い女性はジュディの孫娘のラビニア(Lavinia)で、南北戦争後、テルフェア家に住み込んでメアリー・テルフェア(Mary Telfair)のメイドをしていた。ふたりの女性は、服こそシンプルだが、とてもきちんと身だしなみを整えている(当時の家内奴隷や使用人は一般的にそうであった)。」右側の年配奴隷の女性は、ターバンによって頭をくるんでいる。左側の若い女性の髪は下に引かれ、顔にぴったりとつけ、後ろで冠のように上げ、ファッショナブルなパフを耳の上につけている。当時流行のヘアースタイルに近い。」(Joan Severa p.60から引用)

写真22 この写真に写った身なりのよいノーサンプトンの3人の紳士(氏名は不詳)は、みな同じように、1840年代の窮屈なフィットのコートを着用している。彼らの服で最も目立つ特徴は、高いアームホールと細い筒状の袖によるぴったりしたフィットで、それが細身の黒っぽいシルエトを生み出している。(Joan Severa p.57から引用)

2021年11月7日(土)第345回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2021年11月7日(土)13:30~15:00
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:内田晴子さん(世界人権問題研究センター研究員)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:9名

 今回のタイトル:「差別するかもしれない私」

自己紹介

亀田さん:コーディネーターの亀田です。大津市から来ています。順番にどうぞ。

E・Tさん:派遣社員で今は島津製作所で仕事をしています。外国人労働者も多く、フィリピンなどからも来られています。とてもフレンドリーで、仕事に対してもアグレッシブですね。大阪に久しぶりに行ったら、人が大勢だからか、「せまいな」と感じました。コロナが収まったら、5月には、外国に行こうと思っていて、最初は、台湾に行こうと考えています。

E・Fさん:京都新聞の「まちかど」欄を見て参加しました。72才です。障害者グループホームの世話人をしています。MRA財団法人の大阪にある「難民を救う会」の切手集めを手伝っています。(西京高校の先生が中心となっている会)

M・Sさん:前は学校教員でしたが、今は退職し、英語が好きなので、学校の英語指導員をしていました。その時に、教員だった前田優子先生にお会いしました。今はそれもやめて、多文化共生センターの相談員をしています。いろいろな中で家にいることが増えたためか、ためいきや疲れを感じます。

M・Fさん:このGlobal Sessionは、最初から参加しています。多文化について話をし、自分も発言できるし、楽しい会だと思います。東映映画撮影所で仕事をしていましたが、60才で退職してからは、NPO法人「京都映画クラブ」というところで仕事をしています。ここでは、子どもの映画作りを教えています。カメラの使い方や監督とか、いろいろです。11月27日にも計画していますが、広報がしっかりやれていないと以前のGSで話したら、ゲストであったFellner真理子さんが紹介してくださったようで、8名が集まり、実行できるようになりました。このような仕事をしていると、俳優さんと話す機会が多いのですが、普通に話していても、いざ、舞台に上がると役者の声になるということをよく経験しました。

K・Iさん:亀岡に住んでいて、ひまわり教室の指導をしています。偏見とは思ってはいないのですが、各国のひとの考え方は違うなあと体験しながら考えています。そのちがいを差別となってはいけないので、今日は、ここで、セッションしながら教えてもらおうと思って来ました。

グローバルセッションスタート

亀田さん:ツアーガイドをしています。フィリピンにつながりがあるゲストなので、ちょっとタガログ語で話してみます。1986年にフィリピンでは、マルコス政権が崩壊したのですが、その翌年に初めてフィリピンを訪問しました。

(1986年2月22日に起きた「エドゥサ革命」(二月革命、ピープル・パワー革命)で、民衆の不満が高まったためにマルコス政権は崩壊し、現在のフィリピン第四共和国体制が成立した。この革命は同年2月22日の国軍改革派将校の決起から25日のコリーアキノ政権樹立に至る4日間の出来事であった。民主化を求める市民が、マニラ首都圏の中心部でデモや集会、座り込みや兵士に花束を渡す行動を起こした。その模様をリアルタイムで、多くのテレビカメラの放列が世界中に生放送した。これらマスメディアの報道が心理的圧力となり、フィリピン共和国軍は市民に銃を発砲出来無かった。マルコスとイメルダはアメリカ合衆国のハワイ州に亡命した)

私は、セブ島が好きなのですが、ここは、長くスペインの植民地であったので、スペイン系の雰囲気があります。当時は日本人も入るためには許可が必要であり、許可を取って入国しました。来年5月には、現在の大統領が辞めて娘のサラが大統領選に立つと言われていますが。ボクシングのチャンピオンもいますね。ノーベル平和賞の受賞者の女性(マリア・レッサさん)がいますので、興味があります。

内田晴子さん:「フィリピンについていろいろ調べてきてくださってありがとうございます。私のフィリピン訪問は1991年にスタディ・ツアーで行ったのが初めてでした。1986年の政変の前、独裁体制期のフィリピンというのは、政府に批判的な活動をしていると拉致・誘拐されてそのまま行方が分からなくなったり、遺体で発見されたり、拘束・収監されて拷問を受けたり、本当に厳しい人権侵害が蔓延していました。1986年の政変後の熱狂は、コリー・アキノ政権下でだんだん失望に変わっていくのですが、それでも、スタディ・ツアーで訪問した大学生が様々な人権団体、労働組合、地方の人権活動団体などの話を聞けたこと自体、政変で「民主的な空間」ができていたから可能だったことです。首都マニラでの国際女性デー(3月8日)の大規模集会(みんなラリーと呼んでいました)は、トラックの荷台がステージになってバンド演奏もある楽しく明るく盛り上がりつつ、ヒューマンライツについて語られていました。地方に行けば、もう少しシビアな緊張感のある状況の中で、ヒューマンライツという言葉が聞かれました。具体性をもって人権について考え始めるという体験をしたと思います。その後、何度か、同様のスタディツアーでフィリピンを再訪し、また日本では、フィリピンのアーティストのコンサート企画とか、フィリピン教育演劇協会「PETA」の俳優による演劇ワークショップ企画とか、いろいろやっていた学生時代でした。フィリピンの人権問題を学び、日本人である私が、できることは何かを考える、行動するということであったと思います。 私のように、女性という属性を除いては日本社会でマジョリティとして生きてきた人間は、なかなか人権や差別を切実な自分事として学ぶ機会がなかったし、「差別するかもしれない自分」に気づくのも遅かったと思います。自分の子ども時代からのことを、ゆっくりとした気づきのプロセスを振り返ってみたいと思います。

小4の時に担任の先生から、住井すゑさんの『橋のない川』の話を聞きました。それを小6のときに友達の家で見つけ、借りて読みました。小説ですけれども、途中から(水平社宣言のあたりから)、ああこれは本当にあったことなんだな、人間はこういう風な行動をとるんだな、こういうのが差別なんだな、と子どもなりに理解しました。

20歳ぐらいの頃、フィリピンの学生が「フィリピンはclass society(階級社会)だから」と言いうのをきいても、意味がわかっていませんでした。人間にclass なんてないよ、対等じゃない?と思っていました。学問的な知識のなさもありますが、マジョリティー側にいるから構造に気づかなかったわけですね。

大学院卒業後は、在フィリピン日本大使館に3年間、政務担当の専門調査員として赴任しました。(ここで、「専門調査員とは何ですか」、と質問あり。)修士号をもつ人が、任期付きで外務省に採用されて在外の日本国大使館で働きます。在フィリピン大使館では、ほかに経済担当と文化広報担当がいました。)政治家などいろんな人に会って話を聞く仕事が多く、class societyの上の方にいる人たちと多く接してフィリピン社会の勉強になりました。またこの時期、フィリピンで外国人登録のための指紋押捺を経験しました。もちろん、かつての日本で人権侵害として問題になっていた在日コリアンの指紋押捺のことが念頭にあり、自分がどんな気持ちになるだろう、と思いながらやってみたら、特になにも感じなかった。そこで、日本で構造的に差別を受け続けている人たちがさせられた指紋押捺とは、文脈が違うな、という気づきがありました。大使館員として日頃、とくに非道な扱いも受けていない私が、「指紋押捺やってみたけど、どうってことないよ」というのは違う。

外国人として暮らすのは初めてでした。フィリピン社会を観察しながら、外国人として生きるということは、最悪のときに守ってもらえる人がいればいいのですが、弱みがあることも痛感しました。何かをきっかけに排除されることもあり、例えば恨みをかって陥れられれば、警察へ通報、最悪の場合は強制退去の可能性もあると理解しました。

30歳前後の経験としては、すごく身近なところで、父親が強い差別意識をもっていると知りました。結婚の話をしたときに、なんとなく賛同できないという理由が父親からたくさん挙がってきたのですが、電話で話しているときに、ついでのように「彼はそういう家筋の人じゃないだろうね」と聞かれて、ひきました。反対理由の本筋ではなかったのですが、その質問に答えること自体が差別してるってことだし、その質問に答える必要はない、と私が言ったので、さらに話がこじれました。説得に時間をかけましたが、絶縁を言い渡され、留学も決まっていたのでさっさと結婚してしまいました。父親は、小さい頃から「女の子だからって遠慮するな、どんどんやれ」と励まし、男女雇用機会均等法ができた時(1985年)も中学生の私にこの法律について話すような人でしたので、娘としては父親の差別意識にかなり傷つきました。

差別する自分に気づく、ということについて。「私は差別しない」とみんなが思っているでしょうが、差別にはいろんな現れ方の類型があると知ることは、役立つかもしれません。たとえば、差別行為としては「見下し」を連想するでしょうが、逆方向のものもあります。例えば、ほめているつもりで、「さすが○○人だから足が速いね」「さすが△△人だから数字に強い」などと、個人の努力を正当に評価せずに属性のステレオタイプに押し込んでしまう行為です。法律ができることは、構造的な差別の仕組みを是正することと、差別の「行為」を禁止したり罰したりすることです。日本では足りてないので必要です。個々人のもつ差別意識については、他者が変えることは難しいですが、自分自身で気づくために、このような安心して話す場をつくることが大切と思います。

児嶋:自己紹介の続きとして話します。私は、教職に10年間ほどいたあと、中国語を仕事にしようと3年間必死で学び、中国の北京に2年間続けて短期留学をしました。家庭もありましたが。その後初期の中国語の指導をしてねと言われた直後、夫のブラジルの日本人学校への転勤で3年間家族でブラジルで暮らしました。帰国後、市役所の指導主事などを頼まれたあと、アメリカ大学日本校のブームが来て、亀岡もオクラホマ州立大学京都校の設立をし始め、最初から関わり、1990年から1996年までアメリカ大学日本校が亀岡にありました。その後は学生が集まらなくなり、学生は全員本校に戻り、後は、亀岡交流活動センターとして2011年まで勤務しました。アメリカに行ったり、アメリカ人の教授などの受け入れはその当時からの仕事でした。

M・Sさん:私は、大学卒業後、民間企業に務めたのですが、男女差別が当時は当然のようにあり、「女子はやめてもいい」とよく言われました。当時海外駐在の仕事に応募したら、通ったのですが、女子の第1号と言われました。その後、その仕事をやめて教員になったら、この世界には、全く男女の差がなく、給料も全く一緒なのに驚きました。その後、日本人学校の教師として、マレーシアに赴任しました。ここでは、長く住む覚悟をしている日本人と、数年駐在するだけの日本人が「楽しい」というのは、迷惑だとも言われました。しばらく住むだけの外国人は、差別の対象にもならないのだと思います。

(これ以後は、休憩時間なども取りながら、話があちこちに行ったので、後日のそれぞれの感想がある方に感想を求めることで切り替えることにしました。)

終了後の感想集

内田晴子さん

「GS御参加の皆さま:本日はありがとうございました。

今日の皆さんとのお話で、「悪意なく、知らずに、差別する(あるいはすでにした)ことがあるかもしれないな」というところまでは共有されていると思いました。

ではどうやったら気づくか、気づけるか。気づくパターンは、大きくふたつでしょうか。

1)自分で(後から)気づく・・・その日の晩に気づくこともあれば、数日後、数年後、もっと後から気づくこともあるでしょう。差別行為の事例や類型などを学ぶことで、気づける可能性が高まるかもしれません。今日の私の話の中では、自分自身の人権教育機会の欠如、社会教育なしでは気づかないままであること(父親の例)、マジョリティが陥りがちな文脈無視(指紋押捺)、「見下し」とは逆方向で現れる差別の事例などにふれました。私自身が気づいた範囲では、私の過去の差別発言は、「ステレオタイプ・決めつけ」型が多かったです。(「ステレオタイプ・決めつけ」型には気づけた、ということかもしれません。)

2)人に指摘されて気づく・・・自分が気づく前に人が気づいて教えてくれる、これはとても助かるのですが、問題は、自分がその指摘を受け入れることができるか、納得して咀嚼して理解できるか、ということです。自分が否定されたような気持ち、恥ずかしい気持ち、やっぱり「自分が差別なんて」という気持ちが、邪魔することもあります。誰にとっても難しいことなので、指摘されたときの「適切な謝罪、態度」の事例を知っておく、何ならシミュレーションしておく、ことは有用かもしれないと思っています。反論としての「納得できない」ではなく、「本当に分からないから教えてくれ」と誰かに言えるかどうか。

 残念ながら日本で目にする多くの「コメント」は、謝罪風でありながら実はまったく謝罪しておらず、差別について学ばないままだなと感じさせるものです。ですので、よい事例があれば、意識的に記憶にとどめるようにしています。以前に亀岡での研修でご紹介したのは、芸人コンビのAマッソさんが、ライブで大坂なおみさんの肌の色をネタにしてしまった後、事務所がすぐに弁護士による研修を手配し、本人たちは学んだ上で謝罪文を出した事例です。この件ではライブ主催者の反省・声明文も正直でよかったと思いました。最近では、尾瀬ガイド協会の公式ツイッターがすごい差別ツイートを複数発信して指摘された際に、尾瀬保護財団が(いわば身内なのに)尾瀬ガイド協会への抗議文を出したこと、その後、(おそらくは弁護士の助言をうけて)尾瀬ガイド協会が出した謝罪声明がきちんとしていたことを記憶しています。英語圏でも差別発言→指摘を受けて謝罪、は頻繁にありますから、英語の勉強を兼ねて正しい謝罪ツイートから「何について謝るべきか」を学ぶのもいいかもしれません。以上です。ありがとうございました。」

E・Tさん

「今日は、グローバルセッションに行きました。

今回のテーマは、“差別するかもしれない自分に気づく”です。

私は、差別=見下すと思ってましたが、差別=出来て当然、も差別だと知り衝撃でした。例えば、ケニア人は走るのが速いとかインド人は数学が出来る等です。残念ですが、そうじゃないんですよね。

私自身、差別してるんじゃないか考えてみました。結果、差別していた事がありました。例えば、“正社員やから出来て当然”、“流石、○○さん、、、口に出したり、心で思う事が多々ありました。私は、差別してるつもりがないのですが(感謝のつもりで言ってるのですが)、差別になるんですよね。

私は今回の話を聞いて、差別=依存とも考えました。

また、相手の立場に立つと、“今回は期待に応えられたけど、次は期待に応えられるか不安”、“助けてもらえるのが当たり前って思ってるんじゃないかな?”と思うんじゃないかな?

言葉って難しいけど、助け合って生きていかないと生きづらいと考えます。

私は、助けてもらえれば、“助けてくれてありがとう”と言葉で伝えたり、心で思う事はもちろん、出来る事を増やし、他の人にも自分が出来た事(仕事でも何でも良いから)、を出来るようにしてもらいたいと思います。

最後に、あなたは差別していませんか?」

K・Iさん

「ある子供の行動に対して、思わずきつく叱ってしまいました。まずい 大いにまずい。

以来、ずーっと自省でこのGSを待ってました。いじめ、パワハラ、しかも子供への差別と自戒しながら少しでも自分の正当性を探している自分がいます。

→先生に丸投げするなよ。

→今後の国際人として頑張れよ!

今思います。みんな違う。国も、考え方も。そこでの各人が、他と比較し(見下しと見下され)にどこまで妥協するか。

方法:比較ハードルを低くし、言葉はソフトに努めます。

やっちまった時は、即言葉で「ごめんなさい」  さらに 逃げるが勝ち もあるでよ・・・」

Y・Mさん

「私は、2番目の「人に指摘されて気づく」という体験をしたことがあります。

自分がその指摘を受け入れることができるかどうか、ということについてですが、私の場合は、当時まだ若かったのと、自分が置かれている公的な立場を考えると、受け入れるべきだとすんなり思えました。そして、こんなことではいけないと 思いました。私が人権に携わる契機となる出来事になりました。

人権は、ここまで学んだら終わりではなく、また単位取得や卒業もないので、人として生きる限り、学び続けることだと思っています。自分は差別なんかしてない、とか、そのことなら知ってる、という驕った気持ちが、偏見や差別につながる 「無知」に陥ってしまうことを、いつも自分に言い聞かせているような毎日です。」

M・Sさん

「外国に行ったとき、外国人と接したとき、見下されてる、と感じることはやっぱりありました。

特に東南アジア、オセアニア諸国の場合は戦争という歴史から生まれる日本や日本人に対する嫌悪感に基づくものである場合、自分のできることが見当たらず、茫然とするばかりでした。また、欧米諸国の場合は「これって、人種差別?」と感じたことがありました。外国の人との交流の中で、たくさん学べたしたくさん楽しい経験が得られたけれど、中にはわずかながらもそうではない真逆の思いをしたことがあるなあ、と内田先生の話を聞きながら思い出していました。

このように、差別されたことははっきり覚えているものです。しかし、私も差別したかもしれない、するかもしれない、という思いで自分を振り返ったり、これからの自分の考えや行動を変えたりすることがどれだけ大切なのか、ということを今回のグローバルセッションに参加して学ぶことができました。そして、これはかなり難しいことのように思えます。 内田先生のお話は、まだまだ聞いてみたいですし、ワークショップにも参加してみたいです。」

亀田博さん

「グローバルセッション  内田さんの講義、大変興味深かったです。学ぶところが多かったです。  

テーマ  差別するかもしれない私に気づくで、私自身、普段、ステレオタイプ型であると思います。思い込みが強いところがあります。また、認知バイアスになりやすい時があります。職業柄、常に外国の人、顧客と接することが多いので、相手の気持ちや人柄を理解し、気配り、リスペクトが大事です。特に、国籍、宗教、性別、習慣、文化 、食事etc.     

言動には、常に注意しなければならない。なにげない言葉が、相手には,不快に感じる事がある。                                 

エンパワメントの必要性、最近の企業では、リッツカールトン、東京ロイヤル パーク ホテル、スターバックス、などは、評価が良いです。企業努力、能力開花しています。基本は、おもてなし、ホスピスタリテイ・神対応だと思います。個人でもおもてなしが必要です                      

  サイレントマジョリティ(silen majority):1969年アメリカ大統領  ニクソンのベトナム戦争に対する国民の支持を求めた演説で用いられた言葉「サイレントマジョリティ」をmy fellow (仲間たちよ)

   5年前にアイドル(欅坂46)  サイレントマジョリティの歌 「どこかの国の大統領が言っていた(曲解して)・声を上げない者たちは賛成していると—, 選べることが大事なんだ・人に任せるな・行動しなければノーと伝わらない・有り難うございます。」

2021年10月23日(土)第344回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2021年10月23日(土)10:30~12:00
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:Fellner 真理子 宮良さん
コーディネーター:四方美智子さん
参加者:10名

 今回のタイトル:「異文化の中で育つということはどんなことか?(ゲームで体験してみよう)」

四方美智子さん(コーディネーター)の司会で10:30ぴったりに始まりました。

四方(C)さん:小学校教員をして退職後は、ひまわり教室の指導者をしたり、Global Sessionも多分最初から参加しています。Fellner真理子さんとは、昨年ひょんなことで出会い、K・TさんやR・Sさんともお世話になっています。K・Tさんの息子さんは、現在もアメリカで有名なシンガーとして活躍されています。

E・Tさん:33才です。京北町出身。今は島津製作所で仕事をしています。ターボ分子ポンプ制作の仕事ですが。転職して今があります。

Fさん:転職できるってすごいですね。このコロナの時代に。

E・Tさん:最初の仕事は、自衛隊にいましたが。

M・Fさん:Global Sessionは、最初から参加していると思います。以前は英語でのセッションが多かったと思いますが、最近は日本語での会が増えていますね。私は映画会社に40年勤務し、退職後は、NPO京都映画クラブというところで子どもたちに映画の作り方を教える仕事をしています。かなりの年齢ですが、辞職もできないので困っています。でも、家内は、私が出て居る方が喜んでいるようですが。

F:よくわかります。

M・Fさん:土曜塾という子どものための映画塾をやっているのですが、11月27日に子どもイベントを計画しています。京都市内への案内が間に合わなかったので、まだ募集中です。小学校の4、5、6年の子どもたちで実際に映画を作るのですが、その内容は、スタッフ、カメラマン、俳優などいろいろな役割を分担します。京都市のものづくり構想のひとつです。

児嶋:京都新聞の亀岡版などに案内を出してもらったらどうですか?

K・Tさん:GSには、ひさしぶりに参加しました。息子はアメリカでミュージシャンをしていますが、四方さんの親戚もアメリカでミュージシャンをされていて、Keishi Shikataというグラミー賞を狙うような方です。私は、現在はフリーランスでガーデナーをして、しいたけ作りをしたり、クルージングをしたり、Fellnerさんの旦那さんのマックスさんに野菜作りを教えたりしています。

H・Kさん:ドイツ語でトライして自己紹介をしてみます。ドイツ語圏と言ってもオーストリアとドイツでは、言い方にかなり違いがありますね。“Sound of Music”などでもわかりますが。大津市に住んでいます。琵琶湖の地図を見ると、オーストリアの国土の形と大きさがよく似ているそうで、「琵琶湖の日(7月1日)」にオーストリア観光局から代表が来たようです。オーストリア出身のオリンピック選手がバイクで優勝し、キーセン・ホーファーさんといいますが、その人に信楽焼のたぬきの像をプレゼントするようです。

児嶋:今回のGlobal Sessionは344回目になります。開始は1999年に私が亀岡交流活動センターで仕事をしていたときから始まっていて、もう20年を超えています。毎月一回の開催を続けてきました。

K・Yさん:今日は、10時からとまちがって早くから来ていました。“Good Morning”と四方さんに言われ、「あれ、英語だったか」とちょっとびっくりしました。私は丹波弁しか話さないので。四方さんや、R・Sさん、児嶋さんたちといっしょにひまわり教室で活動しています。私はただの主婦ですが。

児嶋:絵本の読み聞かせや音読サークルで活動されているプロですよ。

R・Sさん:小学校教員をしていました。その後はひまわり教室で指導をしたりしています。退職して5年か6年になります。Global Sessionにも参加していて、視野が広がる気がします。K・Tさんにも、何十年ぶりにお会いしました。

Y・Hさん:週末に孫が帰って来たりして忙しかったです。以前にみなさんといっしょにツアーでオクラホマ州立大学(OSU)本校に行ったこともあります。最近はドイツ語講座に通っていてGSに来られない日がありました。Fellnerさんご夫妻は、現在千代川に住んでいらっしゃるので、もっとドイツ語もやりたいなと思っています。夫のマックスさんもとても意欲的で、畑などもやっておられると思います。

Fellnerさん:Fellner宮良真理子と言います。日本国籍を持っていて、オーストリアでは公式ガイドをしています。40何年ほど前にオーストリアのグラーツへ来てずっと過ごしていました。一度だけ、「オーストリア・グラーツ・まりこ」という宛名で郵便が届いたことがあり、超有名人みたいでびっくりしました。うさぎ年でどのうさぎ年かは秘密ですが。小学校の6年生の時に1963年ですが、アメリカでの国際キャンプ(に参加しました。このキャンププログラムは、1951年に始まったのですが、創始者は、子どもの「戦争が始まったら、また戦争に行かなければならないの?」の質問に驚き、草の根「国際平和運動」の交流できる活動を始めたそうです。その年は、南部のミシシピー州で開催され、6カ国の11歳の子供が集まり、4週間ともに過ごすキャンプでした。普通は11~12カ国が集まりますが、南部で開かれるというので参加国が少なかったのでした。1963年というのはマーティン・ルター・キングが “I have a dream.という有名な演説をした年です。黒人解放がまだできていない年でしたそれ以来。50年以上経ちますが、今もつながりがあります。50周年目には、もう一度会う機会があり、樫の木の下で集まりました。このときにはいろいろな言葉がそれぞれ話せるようになり、昔のことが話せるようになっていました。「僕は貧しかったので、親がそんな所に行っても大丈夫か?」と心配していたとか。キャンプの参加後から、私は、「英語をやろう!」と思いました。もともと人と会うのが好きなので、日本では教育学をやりながら、ドイツ語、スウェーデン語、スペイン語など英語以外にもやりました。その後、同じ会のオーストリアで活躍していたマックスと出会い、結婚し、知らない国に住むことになりました。ドイツ語なので、最初は義父母ともあまり話せず、姑と嫁はどこの国であろうと、その関係は「サボテンのいす」だなと思いました。「とげがある」ことと、「その上には座れない」のです。その後、オーストリアで日本語を教えたいと思うようになり、市民大学などで教えたり、大学で教えたりするようになりました。その後、自分たちの子どもに母親の母語である日本語をどう伝えるかが課題となりました。現在は、継承語教育という分野での研究が盛んになって来ましたが。私は、自分の子どもに実験をして見て、どうやって日本語をこの子達に伝えるかと考えました。その方法として、

  1. 母親である私は子どもと日本語だけで話す。
  2. 夏休みに日本の小学校に送り、体験学習をさせる。

このようにして現在は、大人になった私の子どもたちは、日本人を見ると日本語で話 し、違う顔を見るとその言語が出てくるようです。現在三男は、新横浜で仕事をしています。長男と次男は、ウイーンで仕事をしています。私が子どもたちに日本語で話そうと思ったのは、こまかい心の奥の気持ちを日本語以外で告げることは、難しいと思ったからです。現在子どもたちは継承語である日本語とドイツ語をどちらも話しています。Fellnerさん:みなさんにお聞きしますが、どんなときに異文化を感じるか?外国に行って最初に何を感じたか?このようなことをお話しください。

四方さん:シンガポールの日本人学校で仕事を3年間したことがありますが、最初に思ったのは、「世界にはいろいろなことばがあるんだなあ」とか、「みんな肌の色もまちまちなんだなあ」ということでした。

Fさん:コートを着て居る人もいれば、半袖の人もいますよね。

四方さん:シンガポールでは、自由でしたいことは何でもできるんだなあと思いました。ものすごく多文化社会だったので。逆に日本に帰って来たら、みんな同じ格好のようで窮屈に感じました。

Fさん:私も29才で日本を出て、現在久しぶりに日本で生活を始めているので、大変です。

E・Tさん:僕は逆に日本を出たことがないので、みなさんの話がとてもおもしろいです。仕事場にはフィリピン出身の人もいます。いろいろな事情があって日本で仕事をしているのだと思います。時々僕も彼らと話し、給料や、仕事の内容なども聞いています。

Fさん:家族の事とか、趣味の話とかは?

E・Tさん:あまり趣味の話はないですね。僕は外国に行きたいと思っているので、いっしょに飲み会とか行きたいなと思っています。

Fさん:私は基本的に隣の人も異文化と思っています。

M・Fさん:アメリカ統制時代の沖縄に行ったことがあります。1週間行くのにも当時はビザが必要でした。那覇に行った時、近いので台湾にも行ってみました。フリーな時間があったので。ビザがなかったら、実際は入れないのですが、パスポートを預かるから、この時間までに帰って来るなら、町へ入ってもいいと入れてもらったことがあります。当時は安保騒動の時代で、沖縄も道を隔てて白人街と黒人街に分かれていました。タクシーもドル立てで、バスガイドさんが同行の3人を案内してくれていました。当時バスガイドはトップの職業で、「何の仕事をしているのか?」と聞かれたことを覚えています。

Fさん:宮良という姓名は、沖縄の名前で祖父が沖縄出身です。当時沖縄では、女性が大学に行くのは大変で、行っても短大程度だったと思います。

K・Yさん:ツアーで何度か外国に行きましたが、行ったところはどこも好きです。特にフィンランドが好きで、友達3人と自由時間に町を歩いていて迷子になり、出会う人たちに聞きましたが、みんなとても親切でした。それぞれの国というより、個人の「ひと」の付き合いのような気がします。

H・Kさん:国によって色々でしょうが、スカンジナビア半島の国々は、幸福度がどこも高いようです。教育費は無料だし、しかもつめこみではなく、それぞれを伸ばす工夫をした教育がなされている点もあるでしょう。また、イタリアの人は人なつっこいですが、でも主権は母親にありますね。F:最初に外国に行かれたころは?

H・Kさん:最初は、アメリカでもいろいろな種痘を打っていかなければならず、大変でした。マラリアなども。現在は、中国などは現金が使えず、ATMが止まったり、スマホが動かなくなったりしたら、特に年寄りは大変だと思います。アナログの方法も必要ではないかと思います。日本は比較すると、ワクチンを打つだけでもまだ紙に書くことが多すぎて、アメリカはマイナンバーだけでOKのようですが。

Fさん:日本は個人の関わり方が違って、違和感があります。

K・Tさん:マックスさんと息子さんのしんぺいさんが、亀岡で井戸の掃除をし始めて、息子さんはきたない仕事なのに、いやがらずにやるのにびっくりしました。ムカデを叩こうとしたら、しんぺい君が止めたのにも驚きましたが。    日本は美への意識が高いと思っていましたが、最近は、電線や看板などもぐちゃぐちゃで何だかおかしくなっているという感覚があります。今の日本はきたない物でも平気なのでしょうか?亀岡にコスモス園がありますが、あそこの看板も大きすぎると思います。

R・Sさん:夫がスリランカの研究をしていて、私も2回ほど行ったことがあります。30年前と3年ほど前の2回です。最初に行った時には、空港の周りに何をするでもなく、大勢の人が集まっていました。3年前には、空港はきれいになっていて、人もそれほどいないし、服装が替わってサリーを着ている人がいませんでした。街中でも30年前はサリーを着た女性が多く、お茶も有名でした。ところが、最近は、スリランカの南橋に行くと、中国が借款を返せなくなって取り上げたらしく、中国語の看板や病院やホテルもたくさんできていました。全体の生活レベルは上がったように見えました。その変化を、その国らしさが失われたように感じて残念がったりもしますが、それは身勝手なことだと思います。どの国も、経済的な成長を求めて課題はあるにしても努力している。自分たちが便利な生活を送りながら、訪れた国について昔の方がよかったなどとは言えないものと思います。

Y・Hさん:初めて外国に行ったのはハンガリーでした。どこかに見学に行った時、みんなが出かけている間に、運転手さんはドイツ語の勉強をしていました。必要な外国語を学ぶ姿を覚えています。また、ラオスかベトナムの北部に行った時には、昔の文化が残っていて、人々は裸足で棚田の開墾をしていました。貧しいくらしのようでしたが、空港は外国資本に飲み込まれているようでした。

Fさん:この文を聞いてどう思いますか。

「ある村に入ると、私が最初にショックを受けたのは、家族が食事をしていて、女性は床に座り、男性は椅子に座り、女性はその男性に食べ物を口に運んでいるのです。」

皆さんはどう思いますか?これは男尊女卑と思いますよね。でもこれは、実は、女性は聖なる者と言われていて、地についているために床に座り、男性に食事を口に運んでいるのは、毒味をさせていたのです。実は、我々はこのように自分の文化をもとにあれこれ判断してしまう傾向があるということです。

「行きませんか?」と日本語で尋ねられたら、どう答えますか?「「行きません」と答えるか、「そうですねえ。その時になってみないとわかりませんねえ」と答えるかもしれませんねえ。英語では「Don’t you go?」と聞かれたら、行かない場合は「No,I don’t」と答えますね。そのため、外国の人は日本語を使う時に迷うのです。どう答えたらいいのかと。

メラビアンの法則というのがあります。

(参考:メラビアンの法則とは、人と人がコミュニケーションを図る際、実は「言語情報7%」「聴覚情報38%」「視覚情報55%」という割合で影響を与えていることを示した心理学上の法則です。アメリカの心理学者であるアルバート・メラビアンによって提唱され、別名「3Vの法則」や「7-38-55ルール」などとも呼ばれています。メラビアンは、聴覚から得られる情報と視覚から得られる情報、そして言葉そのものが持つ情報のうち、どれがどの程度影響を与えるかを実験しました。たとえば、「Maybe(おそらく)」という言葉をさまざまな口調で録音し、実験の参加者に聞かせて反応をチェックするといった具合です。すると、柔らかい口調の「Maybe」を聞いた人より、強い口調の録音を聞いた参加者のほうが、より強く説得力を感じたことがわかりました。言葉そのものが持つ意味よりも、聴覚から得た情報で判断が左右されたことになります。さらに、「好意」「嫌悪」「中立」を示す表情の写真を用意し、それぞれの表情と矛盾するイメージの言葉と組み合わせて参加者に見せ、反応を確認しました。たとえば、「ありがとう」という言葉を、「怒りの表情」の写真や「不機嫌な口調」の録音と組み合わせ、参加者に聞かせたのです。このとき、参加者が本来の言葉の意味通り「好意」を感じ取れば言葉そのものの影響力が強く、逆に「嫌悪」を感じれば視覚や聴覚から得た情報が優先されたことになります。)

Fさん:外国に行ってわからないことがあれば、この人は大丈夫かなと思って訊ねるのが普通ですが、日本にいると、どうやって話していいかと空気を読まなければならないし、住んでいたら、そこに合わせていかなければならないと言われます。

児嶋:ひまわり教室のように最近は日本に住む外国出身の方とどう付き合っていくかが課題となってきています。先日もインドネシアから来たお母さんが、「子どもが学校に行きだして小学校の先生に親しみをこめてあいさつのつもりでハグしたり、手にキスをしたりしたら、「これはしないで」と言われ、ショックを受けたのだけれど、どのように先生にインドネシアの文化だと伝えたらいいのでしょう」とそのグループで訊ねていました。これに対して、日本語の堪能なインドネシア人のメンバーといっしょに学校へ行き、なるべく早く先生に説明をすることと、同時に近いうちにそのメンバーかだれかが、子どもたちを前に、インドネシアの文化について、お話し会を持つという提案を   する方がいいということになりました。自分の文化ではないことを頭から否定するのではなく、違いもあるはずという理解をまず、持ってほしいと思いますね。

Fさん:外国人が多く住む地域では、60%が外国につながる子どもである学校もありますね。そこでは先生がどう付き合うかが課題のはずですね。

児嶋:先日、横浜市の鶴見区の中学校の先生をオンラインでお呼びし、国際教室が小学校の場合340校の中で147校(43%)あり、中学校は145校の内39校(27%)という話を聞きました。この地域では大学の教職課程で、国際教室の指導の仕方を学ぶと聞きました。つまりどの先生もそこに行き担当になる可能性があるからです。

四方さん:亀岡でもだんだん増えてきましたが、まだ国際教室というのは持っていないため、子ども個人の努力に任せている様なところがあり、ひまわり教室などでサポートしながら待つという傾向があります。Cくん(小学1年:中国の春節に帰国し、コロナ禍のため1年半ほどお父さんの待つ日本に帰国できなかったのがようやくこの7月に入国し、2学期から転入した)も給食がつらいらしいのです。今までの食事と変わり、おいしいと思わないらしいのです。

Fさん:姪は日本人ですがアレルギーがあり、その時は弁当にしていますが。

児嶋:イスラム教徒で食べられない物があれば弁当にもできるはずですが。

四方さん:お母さんに聞くと宗教上でもなく、食べ付けないからなので、早く慣れてほしいですということでした。1年未満でなんとかなじんでほしいですね。

Fさん:オーストリアでは、他所から来たひとが、すぐにその場所に馴染むとは思っていません、時間がかかりますし、無理強いはしない。多文化ではなく、複文化主義ですね。言語も親の都合で動くことを強制された子どもはいろいろな言語とつながっているはずで、他の文化を離すことはできない。どれも持っているという全体主義の考え方です。そうであれば、こちらが向こうに近づくという姿勢が必要であり、子どもも含めてこちら側に受け入れてくれることが大切です。新しく来た子も「学校へ行く」ことが楽しいと思える環境作りが大切と思います。

Fさん:若い人たちは、昔のように仕事があるからどこかに行くというより、休暇で行ったスウェーデンが気に入ったから、スウェーデンに住みたいのでスウェーデン語を勉強するというのにびっくりしました。時代が変わってきたのだと思いました。

児嶋:フィンランドでも大変だった歴史があります。西はスウェーデンに攻められ、次はロシアにも長く占領されていましたね。ハンガリーに行った時もガイドさんは、「祖父はセルビア出身で祖母はギリシャで・・」などと言い、ミックスの文化や言語が身近であるならば、どこで国境と言うのか、国籍がどこかだけの話ではないかと思います。

E・Tさん:自分は、今は一番初めに台湾に行ってみたいです。 

R・Sさん:日本もシンガポールを占領していましたね。このような歴史をどう思いますか?

四方さん:自分では日本の歴史をわかったつもりでいても、それに対する考え方はいろいろですね。シンガポールに住んでいたときにその日がシンガポールの独立記念日で、タクシーの運転手さんは、「いつもならいいけど、今日だけは日本人を乗せたくない」と乗車拒否をされたことがあります。

Fさん:今の天皇が英国に留学されたのは、オックスフォード大学でした。その裏にはケンブリッジは昔も今も日本への嫌悪感があるからだと聞いたことがあります。

児嶋:台湾には50年間、朝鮮半島は30年間、日本語で学ぶことも強制してきた日本の歴史を知っているでしょうか?

Fさん:知った上で台湾なども訪ねる方がいいですね。

E・Tさん:外国に行かないまま死にたくないとも思います。

Fさん:今日は、じゃんけんゲームなどをして異文化ゲーム(アメリカ発祥)などをしたかったのですが、次回にしましょうか?

児嶋:次回につづきをやってください。

四方:私は小学校時代に、山梨県から鳥取県、そして京都の綾部に移りました。外国ではなくても言葉が違うので、異文化に入ったと言う感覚でした。このことも異文化理解の必要性を強く思うし、受け入れ方も考えていきたいと思う理由のひとつだと思います。

セッションは終わりましたが、Fellnerさんには、2022年4月にもう一度ゲストとしてお越し頂きます。みなさま。ご期待ください。

2021年10月2日(土)第343回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2021年10月2日(土)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:玉野井麻利子さん:アメリカUCLA人類学部名誉教授・(立命館大学院非常勤講師)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:7名

 今回のタイトル:「人類学とは何か」を気軽に考えてみよう

「人類学とは何か?」と聞くと、そんなのどこから初めたらいいの?そういう声が聞こえてきそうです。

実は一応人類学者である私にも答えに困るのです。

そこで、昨年、アメリカのロサンゼルスに住む日本人向けの無料月刊新聞に「人類学者の奮闘記」という連載を書きました。

今回はその原稿を元にお話しようと思います。

「人類学」、なんとも厳しい言葉ですよね。我々人類(ホモサピエンス)についての研究?

人類はひとつ、でも私たちは様々な方法で人類を分類しますー国籍で、肌の色で、進化の程度で、宗教で、使用する言語で。。。ヒトの「多様性」は私たちの生活に様々な恩恵を与えますが、戦争、差別もおこっています。

今日はこのような視点から、人類とは何なのか?皆さんと一緒に考えていきたいと思います。」

「What is ANTHROPOLOGY?  Isn’t it a dry, boring, hard science?  Where to begin to understand what it is?  To tell you the truth, even though I am an anthropologist, I always find it impossible to explain what it is.  Last year (2019-2020), I contributed a series of short articles, titled人類学者の奮闘記 or the struggle of an anthropologist, to the monthly newspaper circulated in Los Angeles area.  Based on these articles, I will try to demonstrate that anthropology is a fun science: it makes you to understand who you are. 」

自己紹介

亀田さん(コーディネーター):自己紹介をお願いします。

M・Sさん:多文化共生センターのスタッフで、週に2回ほどセンターに来て相談にのっています。その他に「ふるさと亀岡ガイドの会」のガイドで月に1回か、2回城下町亀岡をめぐっています。また、ガレリア3階の「みんなのネットワーク」の理事や国際交流協会の理事もしています。このGlobal Sessionは、最初のころからずっと参加しています。

R・Sさん:教員をリタイヤしたあと、ひまわり教室で、外国につながる子どもさんた保護支援をしたり、「みんなのネットワーク」の仕事もしています。通常は、コロナのために、ここ2年間ほどはいろいろな活動がなくなり、それをもう一度やるというのは、多分ものすごいエネルギーが必要になると思うのですが、このGSのような機会が常にあると、ひととつながれると思います。

F・Mさん:2020年の12月にオーストリアから日本に来てオーストリア出身の夫と亀岡に住んでいます。途中で私だけ、また帰国していましたがこの6月に再入国して日本にいます。今は逆文化ショックを感じています。長い間、日本に住み続けたことがなかったので、日本の人の物の考え方が変わったと感じたり、腹がたっても誰に聞いたらいいのかわからないこともあり、とまどうことがたくさんありました。オーストリアでは、日本語教師をしていました。

M・Sさん:奥さんがしばらかくいなくても、夫さんはひとりで生活されていましたね。

F・Mさん:夫はその時々の状況判断がうまいのだと思います。

S・Oさん:高校3年で立命館宇治に通学しています。児嶋きよみさんの孫で、自分とちがう世代の人の話を聞きたいなとこのGSに参加しました。その中でぼくなりの視点があるかもと思っています。

児嶋:このGlobalSessionは、1999年から毎月1回続けていて、今回は、343回目になります。でも、この8月・9月は開催していなかったと今気づき、びっくりしています。そのため、今年は10月が2回、11月が2回開催予定です。どうぞ参加していくださいね。

亀田さん:大津市から来て参加しています。このGlobalSessionへの参加も長く続けています。玉野井さんをゲストにお迎えしたのも3回目になりますね。前回は2019年で、アメリカの大学の教育についてであったと思います。仕事はツアーガイドをしています。ここ1年半くらいは、外国へ行くことも外国から来る人々の日本国内でのガイドの仕事がありません。2020年3月から日本は入国を禁止し、中国からもビザを出していないので、大勢来ていた観光客がいっさい来ていませんね。でも、ペキンにユニバーサルスタジオができたので、上海だけでなくて、日本に来なくてもいいようですね。来年も多分まだだめではないかと思っています。

児嶋:以前の中国からの観光客を、関空で見た時、土産として買っているのは、炊飯器がたくさんあったと覚えていますが。

亀田さん:そのほかに、水洗トイレの上の部分も多かったですね。それが第1位で2番が炊飯器で、日本の米も買って帰る人が多かったです。そのほかに、目薬とか化粧品もありました。最近では中国の高所得者向けに「人間ドッグ」も人気でした。それとか、韓国向けには「ぷち整形」とかも。これからは、中国政府がみやげに税金をかけるらしくてあまり買って帰ることはできないかもしれませんね。

亀田さん:玉野井さんも簡単に自己紹介からお願いします。

玉野井さん:私は、大阪生まれの関西育ちで、大学に入ってから東京に行きました。1978年にアメリカからフルブライト奨学金をいただき、5年間留学しました。この奨学金の規則ではその後は必ず、日本に帰国することが条件だったのですが、私はアメリカで結婚したこともあり、そのままアメリカに滞在し、人類学を学び、博士号を取得しました。その後2019年までアメリカの大学で教えておりました。アメリカの大学では、退職制度はありません。みなさん、自分でいつ退職するかを決めます。私の場合は2019年に引退をして日本に帰国ました。

京都に住み始めて気が付いたのは、京都は方言が生きている地域だなあということです。私の母は京都出身で、父は大阪で、ずっと関西に住んでいたわけですが、海外では会う日本人はさまざまな地域から来ているので、ほとんどが標準語を使用していました。F・Mさんが言われたように私も、「文化的逆ショック」を受けています。特に最近のことばで、「トリセツ」とか、「バズル」とか、「めっちゃ」とか。楽しむこともありますが、腹がたつこともありますね。現在は、立命館大学大学院で児嶋さんも在籍していらした先端総合学術研究科で非常勤講師をしています。さて、ここで本題にはいります。

アメリカの大学では、大学生が卒業する前に、学生の保護者と会い、話をする機会があります。そのような時に、「人類学をやっていて就職口はあるのか?」とか、聞かれます。そのために、「人類学を学んでいる学生の父母への人類学講座」が必要になります。

まず、皆さんにおききします。人類学とはどのような研究だと思いますか?

S・Oさん: 最近『サピエンス全史』という本を読み、歴史として、人はどういう営みをしてきたのかを考えています。人類学では、証拠をつなぎ合わせて歴史というのを作っているのでしょうか?

M・Sさん:人類誕生の歴史からの研究でしょうか?進化も含めて。

R・Sさん: 幅広い分野を含んで居る感じですね。生物の進化をしながら、作り上げていくのが文化かと思いますが。

玉野井さん:人類学というのはとても幅が広い学問だと思います。今の日常生活でだれもが思う、「なぜ戦争は終わらないのか?」とか、「女性は今もなぜ差別されるのか?」などこのような疑問も人類学と関連があります。ギリシャ語のanthropol(s)は、人間とか、ホモサピエンスという意味です。Anthropomorphismは、擬人化というような意味があります。

人類学という学問ができたのは、19世紀でかなり最近です。米・英・仏で生まれてきました。この時代の人類学者のなかにはBoasとMalinowski(マリノフスキー)がいます。Boas (1858~1942)は、ドイツ生まれのユダヤ人でアメリカに渡りました。マリノフスキーはポーランド生まれで英国に渡り、英国の植民地であったパプアニューギニアで最初のフィールドワークをしました。Boas はアメリカで初めて人類学部を創設しました。彼はエスキモー(Inuit)の研究をしたことで知られています。

当時グリーンランドに行くことは不可能だったので、Boasは、とある探検家のひとりにエスキモーの家族 (7人)をグリーンランドから連れてきてもらい、ニューヨークにあるMuseum of Natural Historyの地下に住まわせ、実験材料として研究をしたようです。彼らの体型、言語、習慣などを観察していたのですが、インフルエンザにかかって7人家族の内1番小さな子どもを残してみな死んでしまいました。生き残った子どもは英語を学び、アメリカの生活に馴染んだかに見えましたが、つれてきた探検家が彼をグリーンランドに戻してしまう。ところが本来はそうであるはずだった自分の文化にも馴染めず、またアメリカに連れてきてもらいます。が、今度はほったらかし。結局インフルエンザにかかり、なくなってしまうのです。

私は、アメリカで人類学の入門クラスを教えるとき、かならずこのエピソードから始めます。つまり、人類学とは西欧(Boasの、あるいはこの探検家の)のおごりから始まったと。上から下を見下ろしていると言えます。

アメリカの人類学はその後、Native American Indiansの研究が中心となります。でも皆さん、当時(19世紀後半)は、ニューヨークの動物園でアフリカにいる民族のひとつ、ホッテントットの子どもを檻に入れ、見世物にしていました。そんな時代に、「人はだれであろうと、文明人でも未開民族でもが文化を持っている」ということを証明しました。そうして、アメリカでは文明人は社会学が、未開民族は人類学が、という分業が発展したのです。

アメリカの人類学部は、1.生物人類学、2.考古学、3.言語人類学、4.文化(社会)人類学の4つに分かれ、私は第4の文化社会人類学を専攻しました。1は主に進化論を、2は歴史を、3は言語を、4はヒトの多様性を軸として展開しています。すべてに共通するのは「文化」という考えの追求です。

ところで、日本では包括的な人類学部をもつ大学はほとんどありません。今のところの学、東京大学、東京都立大学、埼玉大学ぐらいでしょうか。これらの大学も、たとえば東大の場合生物人類学は医学部とか、理学部におかれているようです。

私がどうして人類学に興味を持つようになったかというと、日本の大学生の1年だったころ、メキシコに留学する機会に恵まれたときです。当時のメキシコ大統領は息子を慶応大学に留学させていました。そのお礼にと、日本全国からメキシコへの留学の応募者をつのったのです。その結果、1年間メキシコに留学しました。ホームステイをし、家族とともに住んでいたのですが、なんと大金持ちの家族で、メイドさんがいて、下着まで洗濯してアイロンをかけて返してくれるのです。しかしこういう人々はわずか、貧困が蔓延しています。メキシコはすばらしいアステカやインカ文明があった国ですが、征服されてほろんでしまいました。そこで見た貧困の格差と、その歴史が今の私を作ったような気がします。《知らない国へ行くのはおもしろい」と思ったのが人類学に進むきっかけだったのかもしれません。

F・Mさん:文明人と未開民族はどこで線を引くのでしょう?

玉野井さん:文字を持つかどうかでしょうか?

F・Mさん :文字がなくても絵で伝えられる民族もあったのではないでしょうか?

玉野井さん:もちろんです。絵や寓話や、記憶を送り続けることによって。でも文字を持たないということが、フィールドワークという方法を作ったと思います。今は未開民族はいません。それと同時に人類学はいわゆる文明国でもフィールドワークをするようになりました。文字をもっていても、かかれなかった歴史はたくさんあるわけですがら。たとえば女性史がはじまったのは20世紀になってからですね。 

M・Sさん:フィールドワークというのは、具体的にどのようにするのですか?

玉野井さん:ある地域に住んで、そこにいる人たちと毎日くらし、聞き書きをしたり、また私の場合は文書を読むこともあります。フィルドワークでは大体女性に聞く方が、生き生きした話が聞けるようにおもいますが、これはフィルドワークの難しさでもあります。

M・Sさん:F・Mさんは、旦那さんとどこで知り合ったのですか?

F・Mさん:11才でCISVという子どもの国際夏休み村にアメリカで参加し、そこで会いました。そこでは「戦争が始まったら、どこへ行くの?」などという視点で話合いがありました。

R・Sさん:今でも北海道でアイヌの人の骨を掘り起こすとか、沖縄の人の骨が散らばっているところを、港にするために掘り起こしているとか、矛盾がたくさんありますね。中国でも天安門事件で「君たちの意見はよくわかる」と言った趙紫陽さんは、家の中に閉じ込められたまま亡くなりました。全体主義の監視下では、つながっていくはずの学問がつながらないという側面もありますね。」2021/10/12一部修正

玉野井さん:日本も中国を占領地にした時代に、中国人にたいして人体実験したことがありました。

玉野井さん:何か他に質問はありますか?

S・Oさん:誰もが文化を持つと僕は思います。僕は絵や、音楽で表現をすることで何かをつくり上げる仕事をしたいと思っていますが、曲を作るのも周りの影響を強く受けていると思います。高1の時にカナダにホームステイしながら留学していましたが、自分と同世代のみんなと関わりながら、自分が日本の文化にどのように影響を受けてきたかをいろいろ感じていました。毎日ちがいがどうしてこんなにあるのだろうと考えていました。人生はほとんど同じ長さのはずなのに、どうしてこんなにちがいが生まれるのかと不思議でした。どういう経験がこのようにちがいを生むのかとも考えていました。

玉野井さん:人類学で扱う「文化」はある意味で人間の行動、考えそのものです。日本ではよく文化(芸術など)と政治をわけますが、政治の成り立ち、そのなかでのたとえば議員の行動、もまた文化です。ただ私は、やはりひとりひとりの個人、その人に特有の価値観も大事にしたいと思っています。

時間になりました。また、来年度の別の機会に玉野井さんに再度GSのゲストをお願いします。

次回のGlobalSession

期日:2021年10月23日(土)10:30~12:00
場所:ガレリア3階 会議室
ゲスト:フェルナー真理子さん
コーディネーター:募集中
タイトル:異文化の中で育つということはどんなことか?(ゲームで体験してみよう)

2021年7月25日(土)第342回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2021年7月25日(土)10:30~12:45
場所:ガレリア3階 会議室&オンライン
ゲストスピーカー:濱田雅子さん(元武庫川女子大学教授、アメリカ服飾社会史研究会 会長)
コーディネーター:児嶋きよみ
参加者:12名(うちオンラインでの参加4名)
共催:亀岡国際交流協会

 今回のタイトル:「20世紀アメリカの女性デザイナーの知られざる真実― ティナ・リーサの作品に見るフェアトレードと持続可能性―」

時間が来ると、オンラインで濱田雅子さんが話を始められました。今回は「濱田雅子の服飾講座」の20回目のGlobal Sessionです。今回は、濱田さん以外にもオンラインでの参加者が3名いらっしゃいます。さあ、どのようなセッションになっていくでしょうか?

自己紹介

R・Yさん:せせらぎ出版社長(濱田さんの研究書『アメリカ植民地時代の服飾』『アメリカ史にみる職業着』などの発行をになう:(濱田さんより)

K・Yさん:大学でフランス語を教えています。濱田さんのファンで、ほとんどの研究書を読んでいます。

K・Iさん:大学でメディアコミュニケーションを教えています。

M・Fさん:グループを作り、子どもたちに映画の製作などを教えています。(京都や滋賀で) 亀岡市在住

E・Tさん:今日、33才になりました。京北町在住

M・Tさん:カリフォルニア大学で人類学を教えていました。今年からは、拠点を京都に移しています。

K・Kさん:宇治市在住・小学校で非常勤講師をしています。毎回、ここに参加すると、学ぶことが多いです。今日も楽しく勉強していきたいと思っています。

K・Kさん:南大阪の泉大津市から来ました。80才になります。(造園デザイナーで工房カワサキを主宰:なんばウオークの「くじらパーク」の制作者)

E・Lさん:インドネシア出身でインドネシア語講師(関西のさまざまな大学で) 京都市在住

Kさん:亀岡国際交流協会 職員

児嶋きよみ:1999年にGlobal Sessionを、亀岡市交流活動センター(亀岡市宮前町)で開始し、2011年より、児嶋の主宰となり、毎月一回のペースで継続し、今回は342回目になります。知らない間に20年以上になっています。濱田講座はGSの中で20回目になります。

今回の講座について濱田さんより説明

濱田さん:1時間20分ほどの内容で録画をしてあります。この中には、著作権の問題などもあり、本の中では説明できなかった写真なども入っています。この中では、職人とのフェアトレードの取り組み方や持続可能性についても触れています。

概要について

★ティナ・リーサは、1950 年代に芸術家として育ったアメリカのファッション・デザイナ ーです。世界中を旅行しており、フェアトレード、持続可能性、デザインと生産における グローバルな展望を優先しました。

★ティナ・リーサは、アメリカでも知られていないということです。

★本講演では、ティナ・リーサの生い立ち、ファッション・デザイナーとしてのハワイ、 ニューヨーク、インド他を舞台とした活躍ぶりをアメリカの服飾研究者の近年の研究に基 づいて、紹介させていただき、こんな凄い活躍をしたファッション・デザイナーが、なぜ、 知られていないのだろう? その真実に迫ります。

★第41回研究会で話題になったフェアトレードと持続可能性の問題をティナ・リーサの活躍ぶりと作品の数々を通して考察し、皆さんとともに考えてみる機会になればと思います。

全体構成

1. 濱田雅子著『20世紀アメリカの女性デザイナーの知られざる真実—アメリカ服飾社会史 続編ー』の内容紹介

2. ティナ・リーサの生い立ち

3. ハワイ・ニューヨーク、インド他での活躍

4. 世界旅行で培ったグローバル・ビジョン

5. ティナ・リーサのファッション哲学―ウィリアム・モリスの影響

6. ティナ・リーサの作品に見るフェアトレードと持続可能性

7. Tina Leser’s Sustainable Fashion 映像・解説(3~6 でも作品紹介)

8. まとめ

参考文献 濱田雅子著『『20 世紀アメリカの女性デザイナーの知られざる真実ーアメリカ服飾社会史 続編』(POD 出版) 電子書籍 アマゾン kindle 版 ペーパーバック(Next Publishing Authors Press, 2021年4月7日発行

テーマ『20世紀アメリカの女性デザイナーの知られざる真実 ―ティナ・リーサの作品に見るフェアトレードと持続可能性―』

ティナ・リーサのあゆみ

1910 年12月12日 クリスティン・バフィントン(Christine Buffington)は、フィラデルフィアアリー・エディス・コックス(Mary Edith Cox, 1886.3.12-1954.1.7)とチャールズ・バフィントン(Charles Buffington)のもとに生まれた。母親の裕福な従兄弟であるジョージーヌ・ウェザリル・シラード・スミス(Georgine Wetherill Shillard₋Smith, 1873.3.2-1955.10.12)と彼女の夫チャールズ・シラード・スミス(Charles Shillard-Smith, 1864.9.10-1946.11.25)によって養子として迎えられた。ロサンゼルスのウエストレイク・スクール・フォー・ガールズ(Westlake School for Girls)、 ラホーヤのビショップ・スクール(Bishop’s School)、アグネス・アーウィン・スクール (The Agnes Irwin School)、ザ・シップリー・スクール(The Shipley School)、フィラ デルフィアのカーティス音楽研究所(The Curtis Institute of Music)、そしてパリのソ ルボンヌ(the Sorbonne)で教育を受けた。

1931 年 カーティン・リーサ(Cartin Leser)と結婚。

1935 年 ロイヤル・ハワイアン・ホテルの向かいのホノルル専門店をオープン。彼女の ブティックは、私たちと同じようにハイエンドの既製服を扱っていた。

1936-1938 年 カーティン・リーサと離婚。

1940 年 リーサは本土に事業を拡大する。ボンウィット・テーラー(Bonwit Teller)とサ ックス・フィフス・アベニュー(Saks Fifth Avenue)は、彼女のデザインを販売した最初の小売業者であった。 リーサは 1943 年まで自分のブランドで設計、製造していた。

1943-1953 年 アメリカの第二次世界大戦への参入とともにニューヨークに移住。メーカー Edwin H. Foreman Sportswear Company と提携し、Tina Leser というレーベルの下でエドウィン・フォアマン(Edwin H. Foreman, 1915-1992)のためにデザインした。

1944 年 「ベアブラウン・ルック」(Bare Brown Look)

1945 年 コティー・アメリカン・ファッション批評家賞(Coty, Inc.American Fashion Critics Award)および、ニーマン・マーカス賞(Neiman Marcus Award)を受賞。 ロング・アイランドのサンズ・ポイントにあるリーサの夏の家として使用される納屋の改修が完了する。水着メーカー、ガーバー(Gabar)とライセンス提携。「オリンパスの影」ギリシアコレクション。

1946 年 パーク・アベニューのブロードウェイ・ステージ制作用の衣装をデザインし、アンパリッシュの小説「すべてひざまずく」の映画化のための衣装をデザインするために 一時的にハリウッドに移転した。

1947 年 ニューヨーク・ドレス・インスティテュートからプリンセス・エリザベスに送られたトルソーの一部として選ばれたリーサのデザイン。ニューヨーク・ドレス・インスティテュートのクチュール・グループが最初に招待したメンバーになる。 チェイニーのメンズネクタイをデザイン。 リーサの作品は、メトロポリタン美術館のコスチューム・インスティテュートに、フランスの中世のタペストリーを基にしたファッション展の一環として登場した。「ゴディーズ・レディーズ・ブック」コレクション

1948 年 「カリプソ」コレクション。11月 ジェームズ・ハウリー(James Howley,1920ー2012)と結婚し、ハワイ、日本、 中国、トルコ、インド、タイ、ヨーロッパを訪問するグローバル・ハネムーン・ツアーに参加した。

1949 年 日本のファッション・デザイナーを対象とした年次コンテストを開催。モリニューはロンドンとパリの彼のブティックでリーサのデザインを販売した。メーカー・シグネットのメンズネクタイ・ラインをデザイン。「世界一周」コレクション。

1950 年代初期 養母のジョージアを助け、フロリダ州クリアウォーターにベルエア・アー トセンターを設立。

1950 年 「スペイン風」コレクション。

資料 濱田雅子著 『20世紀アメリカの女性デザイナーの知られざる真実―アメリカ服飾社 会史 続編―』(Next Publishing Authors Press、2021年4月7日) pp.71-76

グローバルセッション開始

E・Lさん:アメリカのデザイナーに興味を持ちました。実際のデザインの元はあまり知らなかったので写真にあるデザインを見て驚きました。インドネシアでは小さい頃、母が作った服を着ていました。1970年代のインドネシアにもアメリカのデザインの影響はあったのかもしれません。写真の25, 42, 51に興味があります。日本でもファッション画のルックスはアメリカンだったのでしょうか。戦争前に禁止の条項が多いのを尻目にシースルーなどをアイディアにしたのはおもしろいですね。

M・Tさん:いろいろ学びました。大きな疑問としては、なぜ、彼女が知られていないのかというのがあります。1950年代からフェアトレードを実行してきたわけで、今でこそ、ユニクロなどが問題視されていますが、ティナ・リーサは最初に言い出したデザイナーなので、もっと知られてもいいのにと思います。次にファッションのデザインですが、ヨーロッパから着た服のデザインでは、普通の人は着られなかったと思います。50年間アメリカにいましたが、服については何でもいいから着るというような生活をしていました。でもこのティナさんの服は着られそうと思います。でも、このような事があまり知られていない原因と言えるのでしょうか?

M・Fさん:質問ですが、デザイナーさんの写真の著作権は、どうだったのでしょうか?

濱田:デザインには、制作の面では著作権があります。それで、今回も写真掲載の許可が得られませんでしたので、私の本には、ティナ・リーサさんの作品の写真は、パブリック・ドメインの写真以外は掲載していません。この問題には私も、本当に苦しみました。裁判になる怖さもあります。出版社のせせらぎ出版の山崎さんにも相談しました。著作権は、著者が亡くなってから、70年間あります。

M・Fさん :苦労されたのがよくわかりました。

濱田さん:映像化することがデザインの著作権問題としてクリアされれば、アメリカだけでなく、他の国にも紹介できるのですが。

K・Kさん:私の仕事は石工なので、ファッションの世界には疎いのですが、素材をアートに変えていくという点では同じかなと思い、見ながら、自分の来た道を振り返っていました。私の場合は、石材やセメントが重要な素材です。イサム・ノグチは石材を使って世界的なアートを制作されました。かつては遊牧民と自称し、『ぼくの生まれた時代』(1941年)を出版し、生きた時代を重ね合わされていますね。

濱田さん:K・Kさんも泉大津市に住みながら、石材を使っておられるわけですが、職人を大切にされていたと思います。これに対して、ユニクロなどの生産国での低賃金が今は問題になってきました。(新疆ウイグル自治区などで)

K・Kさん:楽しかったです。来てよかった。ティナ・リーサさんは、経歴を聞くと、世界をいろいろ回っていらっしゃいますね。それぞれの地域で交流があり、人生を楽しんでいたという印象があります。戦争末期の制限の中で、シースルーの衣服を取り入れたり、共感できます。でも、アメリカで取り上げられずにいたということは、先を走り過ぎたのかと残念です。アメリカ人は、実質的な物の価値を取り上げるはずなのに、受け入れられなかったのは、周りの理解が無かったためかなどとも思いました。持続可能な点については、人類の滅亡の危機があるのは、産業の中の廃液の処理なども含まれます。表に出ている商品だけでなく、それの後ろ側やまわり、先なども考えていかなければと思います。そうでなければサスティナブルな産業はなくなると思います。何が大切なのかをみんなで考えていくことが大切と考えます。

濱田さん:以前はアメリカン・ルックについて書かれた服飾社会史はありませんでした。『アメリカ服飾社会史』(東京堂出版、2009年)を出版した時には、シリーズで書くという気はなかったのですが、POD出版の時代になり、出版しやすくなり、出版いたしました。アメリカのスタイルについては、Eniさんも質問されていましたが、その誕生と発展について、2019年と2020年に、ペーパーバックと電子書籍を出版していますので、また、読んでください。『パリ・モードからアメリカン・ルックへ―アメリカ服飾社会史近現代篇―』(株式会社R&D POD出版サービス, 2019年)、『アメリカ服飾社会史の未来像―アメリカ服飾社会史の視点から―』(株式会社R&D POD出版サービス, 2020年)の2冊です。

K・Yさん:今日はありがとうございました。苦労された著作権に対してもアーカイブでの資料があり、説得力がありますね。サスティナブルの視点では、パタゴニアについての事項を思い起こしていました。ティナ・リーサさんはその時代の先取りを実践しましたね。そこでは、かわいらしいとか、はなやかというコンセプトだけを表にだそうとしていたわけではないですね。モリスの案を実践に持って行ったことは、とても良いと思います。アメリカのファッションは、フランスに比べると目立たないですね。

濱田:今度の本を最初に読んで下さったのは、吉川さんです。本を読まれたのと、今日のビジュアルな講座を見て、いかがでしたか?

吉川:本も説得力があり、いろいろなことを考えることができました。でも、映像は華やかさがありますね。ティナ・リーサさんに華を感じました。映像では材料にオーガンジーを使用したり、細部にかわいらしさも出ていました。質問ですが、今回のビデオで流されているBGMは、内容と関係があるのでしょうか?

濱田:全く関係がありません。自分の好きなパターンをマイクロソフトから取りました。吉川さんは、「本は本でいい」と言われましたが、著作権に関わる映像では、文字、情報がカバーできるのですが、著作権が著者死後、70年間、保護されるというのは、現代史を扱う著作者にはかなり苦しいと思います。

K・Iさん:服飾の研究が専門ではないのですが、感想としては、ファッション界の評価としては、オリジナリティが評価の対象となるはずです。ティナ・リーサさんは、ヨーロッパに触発されて自由に作り上げたと思います。私たちは見たことのない物が好きで、固定観念のある社会としては、「オリジナリティはない」とされたのも知られていない理由のひとつなのではないでしょうか?

濱田さん:濱田としては、ティナ・リーサさん他のアメリカの女性デザイナーが認知されなかった理由について、5つの見解を提出していますが、まず、パリモードとしては、ディオールの映画を見て「パリモードはすごい」と思いました。オリジナリティはもちろんすばらしいのですが、モリスもいうように、農家の中から生まれたデザインもすばらしいと思います。ファッション社会の中では、パリはすばらしいという固定観念があります。アメリカは実用性を重んじる社会ですが、評価は低いですね。

K・Iさん :ギルド制もありましたね。

濱田さん:川崎さんの作品の本もせせらぎ出版さんから電子書籍という方法もありますね。

R・Yさん:(せせらぎ出版):詳しくこちらのことを話してもらってありがとうございます。濱田さんの『アメリカ植民地時代の服飾』と『アメリカ史に見る職業着』も出版してきました。

濱田さん:阪神大震災の時に私の研究資料が無くなるのではないかと心配でした。指導教員の先生に「資料が健在なうちに本を出版したい」むね相談しました。その結果、せせらぎ出版さんを父の知人から紹介してもらって、修士論文を『アメリカ植民地時代の服飾』というタイトルで出版していただきました。その後、職業着の翻訳書も出しました。

R・Yさん :ウイリアム・モリスの翻訳書をせせらぎ出版で作りましたね。出版すると大きな資金が必要という敷居を下げました。

  • POD(プリント オブ デマンド)で出版できる。
  • 出版部数も選べる。(ウイリアム・モリスの本も初版は400部作成し、100部ずつ印刷を重ねる。2ヶ月に一度このように出版し、800部売却しました。
  • 紙の本を少量ずつ印刷しているので、費用は安い。

従来は3000部以上というのが普通で出版のハードルは高い。

  • サスティナブルという面でも売れる数を印刷するので、廃棄は無い。

従来の印刷方法から脱却する。

濱田さん:せせらぎ出版さんの方法は先見の明があると思います。本の出版が夢だった人々にも実際にできるようになりました。せせらぎ出版は、インターネットで見られます。

E・Tさん:ファッションは好きです。今日は歴史を楽しく学びました。今は訳あって職探し中です。だれかの役にたっているという仕事がしたいと思っています。

児嶋:夏のおわりになると、ファストファッションの店では、びっくりするような値段で売りさばこうとしています。1000円以下でもいっぱいあります。質も悪くないのに。これはいいと買い求める人も多いと思いますが、そのたびに、最近は、産出国で、どれだけ安い賃金で造らされているのかと思ってしまいます。

濱田:今日の講座で服飾に関して20回目になります。パワーポイントで20回分の映像が残っています。ナレーションを聴き直してみると気恥ずかしいです。このたびは、本当に皆さんのご感想やご意見に励まされました。ありがとうございます。みなさま、コロナと猛暑に気をつけて、お過ごし下さいますように。

感想集

K・Yさん

「今回は初めて会に参加させていただき、ありがとうございました。このような会を運営しておられる児嶋さんはじめ関係者にお礼を申し上げます。

さて濱田雅子氏の最新の著作は6人のアメリカの女性デザイナーを紹介しながら、なぜその活躍にもかかわらず、今日、彼女たちの認知度が低いのかを解き明かす内容です。最新の研究をふまえ、大変明快に論じられています。

彼女たちの認知度の低さは、第二次世界大戦後のパリ・モードの動静が大きく関わっていますが、理由は複合的で、彼女たちの業績等のアーカイブの未整理も影響しています。

著者が導き出した結論は、パリとアメリカを視野に収めたダイナミックなものであり、研究者のみならず多くの読者に資するものだと思います。

濱田氏のご発表はパワーポイントを使ったわかりやすいものでした。画面は整理がきいていると同時にレイアウトが工夫されていて、楽しく見ることができました。サスティナブル・ファッションなど最近のSDGsの動きを視野に収めた刺激的な内容で、たいへん勉強になりました。ティナ・リーサがこのようなファッション界の動きを早くから感知していたことにあらためて驚かされました。

普段、ヨーロッパに目を向けがちな私にとって、20世紀アメリカの服飾事情は、比較の視点からしてもおおいに注目されるところです。」

K・Kさん

 本来私は繊維の世界についてほとんど専門的知識は持ち合わせておりません。初めて講座を受けた時でした。その時講座を聞いていた時突然思い出した事をお話しさせて頂きました。

それは、白人がアメリカに入植した頃の大統領がだれだったのか?40年位まえに読んだ本が思い出せなかった。今も変わらずその事が頭から離れません。

 繊維について興味と関心を持ったきっかけは白人社会がインデアンを山奥に追い出した時インデアンの酋長が当時の大統領に1通の手紙を送った。その中身はこうでした。

「大統領様、貴方たちは一方的にインデアンを追い出して白人優先社会を作ろうとしている。私達が着ている繊維は縦糸と横糸を絡ませて繊維は出来上がっている。私達を山奥に追いやる事は、縦糸か横糸を一本抜けば繊維は必ず綻びてくる。

 私達先住民族を追い出して白人だけの社会を作るならアメリカ社会は必ず滅びらだろう。

 この手紙を大統領に送ったインデアン酋長の先見性と勇敢さが今日のアメリカ社会を作ったと言っても過言ではない事を思うと、どの大統領に手紙を送ったのか興味があります。今でも本の名前も記憶無く、思い出す度にネットで調べてもわからない。アメリカ社会のファッションを聴く瞬間思い出されます。

 濱田先生の話といささか外れますが、私は繊維やファッション界は素人もはなはだしい。皆さんの意見を聞きながらゆっくりのんびり勉強しています。」

(濱田さんから、K・Kさんへ)

「インディアンの手紙」

K・Kさんの探されているのは次の手紙ではありませんか?次のサイトで見つけました。https://note.com/mannaonnote/n/n988e4d2a40ae

E・Tさん

私はファッションは好きなのですが、その歴史はほとんど知らないのが現状です。講座を聞いていて疑問に思ったのは、ティナ・リーサさんの名前があまり知られていないことです。世界中を回り、ファッション業界に大きく貢献された方の一人のはずなのに、どうしてかなと思いました。おそらく、リーサさん自身、名声より人々のファッションの未來の方を気にされたと推測しますが、、、、

 あと、興味のある写真は、図22,19,24,26,32,35,37,51です。

本日はありがとうございました。

2021年6月12日(土)第341回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2021年6月12日(土)10:30~12:30
場所:ガレリアかめおか 3階 会議室
ゲストスピーカー:村田英克さん(JT生命誌研究館 スタッフ)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:12名

今回のタイトル:曲『胡蝶』と生命誌研究館の「食草園」企画展

コーディネーターの亀田さんの自己紹介から始まりました。

サム:国際交流員のジード サムです。コロナで現在、交際交流の事業もないのでこれから、やれたらいいなと思っています。カナダ出身です。

T・M:東つつじに東つつじにいましたが、現在は保津町に住んでいます。設計を仕事にしていますが、現在、レンタルスペースとして「保津浜TERRACE」を運営し、最近、ガラス工房の個展をしていた時に児嶋さんが来られ、ここに来ることになりました。その時に安詳小学校からつつじが丘小学校に校区変更をしたときに、いっしょに安詳小からつつじ小に移動に児嶋さんもいっしょに、教員として異動されたという事実も見つかりましたね。

N・K:小学校教員をしていて、退職後ひまわり教室に関わるようになり、村田さんの前回のGSで話しに出ていた『セロ弾きのゴーシュ』を帰ってから見させてもらいました。今回もおもしろそうと思って参加しています。

K・Y:ひまわり教室で読み聞かせを担当しています。今回のちらしを見て、いいなと思って参加しました。

R・S:私もひまわりの指導者であり、前回の村田さんのGSにも参加しました。その時の、「ウイルスは生命体ではない」というのに驚き、今日も楽しみにしています。

E・K:以前、市役所で女性相談員(カウンセラー)をしていました。今は美山町に住んでいてひとりぐらしをしています。ひまわりにも時々関わっています。自分の居るところには、虫・葉っぱ・木などがあり、地面の中にいる生きものもいますが、このごろは何かが変化しているなという感じがします。

H・I:この間までガレリアで仕事をしていました。今は農業をしながら、次にすることを模索中です。田んぼも獣害(鹿や猪など)が大きいです。新しいウイルスが生まれても不思議ではないと思っています。村田さんのおられるJT生命誌館を訪問し、ウイルスの変化はあるのかなど聞いてみたいと思っています。

S・O:前回も参加しました。JT生命誌館の前館長の中村桂子さんに会いたいなあと思っています。村田さんの小鼓の演奏も楽しみです。私も、昨日からですが、能を始めました。京都観世会館の林さんが指導者です。

M・F:Global Sessionには最初から参加しています。(1999年より) 前回にもありましたが、38億年前に人類が誕生したと聞きましたが、そのころ、ウイルスはいたのかなど興味があります。また、最近古代エジプト展に行ってきましたが、「生きものは海から生まれた」という言葉もあり、村田さんの言われていることと同じだなと思いました。明日はワクチンの接種をします。

児嶋:今回のGSは、1999年に開始して今回は341回目になります。最初は月に一度ではなく、もっとやっていたのですが、大体は月に一度のペースですでにもう、20年以上過ぎました。

亀田(コーディネーター):大津市から参加しています。毎回亀岡に来ていますが、ここには四季があるなあと思います。ツアーガイドが仕事ですが、今は直接の、海外交流ができなくて、メールなどのみにあり残念です。最近、BSテレビでは、いろいろな国の歴史などの特集がありますが、生命体などについても大きな昔の特集も放映されていますね。アマゾンの生命体はまたちがうとか、今はコロナで大変だったけれども、以前にもウイルスはあり、その細菌がどんどん強くなってきているとか。

児嶋:ちょっと付け加えますが、亀岡市には1990年から96年までアメリカ大学日本校のシステム野中の、オクラホマ州立大学京都校(OSU-K)があり、OSU―Kの第1期卒業生が、井尻さんたちです。6期生ほどまでがいます。その後、OSU-Kの校舎は、亀岡国際センターに、そして交流活動センターに変わり、卒業した井尻さんと私は、それ以来ずっと停年までそこで仕事をしていました。2012年にそのセンターの業務はガレリアに吸収され、現在は交流会館として、いろいろな事業が展開されています。その後、OSUの造園建築学科の海外研修プログラムとして亀岡を拠点に毎年アメリカのOSUの学生と先生が来られ、そのガイドやOSUがあり姉妹都市であるオクラホマ州のStillwater市への訪問団体のツアーガイドなどを亀田さんにお願いして来たのです。そのようなつながりがあり、訪問団のひとりとして、藤田宗次さんなども行かれましたね。

村田:(ようやく登場です。)このGSはどんどん話に入ってと言われていますのでどうぞ、入ってくださいね。今日で3回目のお話です。そもそもガレリアのジュニアワールドフェスタという催しで、確か日程の都合で中村桂子前館長の代役を務めたのがご縁の始まりで、その時も私は、子どもとの交流や異文化というテーマに関心があったので喜んで参りました。来てみると、児嶋さんから「JTってたばこをつくる会社でしょう? どうして生命のこととつながるの?」と聞かれ、改めて生命誌の活動をお伝えしたところ関心を持っていただき、胸を撫で下ろしました。フェスタの時は、ヒッポファミリークラブの方もいらして、亀岡の活動に更に関心が深まりました。私は子どもの頃、そのヒッポの前身となったラボパーティという、多言語でいろんな歌や遊びや劇などを楽しむ交流サークルに参加していて、いずれも多言語活動を提唱した榊原陽さんの創設ですね。その頃に体得した、言語とは頭で理解するものでなく、身体ぜんぶで出したり入れたりするものという感覚は、私の中でずっと生きていて、今の仕事にも重なる気がしています。

80年代から90年代にかけて、エデュテイメントという言葉がありました。純粋な娯楽でなくどこかで学習につながるようなコンテンツの市場というものが成立してきたのですが、私はそうした多ジャンルの映像やPCソフト(今のようにNetは普及していませんでした)、更には教材テキストを編集、制作する仕事をしており、1993年に創立した生命誌研究館の展示映像の仕事を受注したことが、今につながりました。中村桂子館長が提唱する生命誌研究館という構想に驚き、関心をもって仕事をしているうちに館のメンバーとなる機会があり、今は「表現を通して生きものを考えるセクター」のチーフとして、若いスタッフと一緒に、生きもの研究の面白さをみなさんに伝える展示や映像やネット、催しなどに携わっています。

今日のタイトルは、「謡曲『胡蝶』と生命誌研究館の食草園企画展」です。研究館の屋上に、チョウが花の蜜を吸い、その幼虫が食べる葉を茂らす花壇があり、これを食草園と呼んでいます。チョウのためのレストラン、英語では” nursery for butterfly”です。チョウは種によって幼虫の食べる植物が決まっています。利用する植物を棲み分けているのです。どのような進化過程を経てこのような昆虫と植物の関係が生まれてきたのかを探る館内の研究を紹介する庭ですが、この食草園を糸口にさまざまな昆虫と植物の関わりを考える企画展示を現在準備中で、今日はそのエピソードを通して、最近の研究館の表現についてお話しさせていただきます。「胡蝶」はちょうど今、私が能の小鼓でお稽古している課題曲です。研究館の課題と能の課題とが、偶然にも重なって私の中では一体化しているので、今日はそんなお話しです。

研究館の表現では、生きもの研究(科学)を伝えることになりますが、基本は、「言葉」だとつくづく思います。国によって異なる人間の言葉も、生きものの多様化のように、それぞれの気候や風土に培われたものですね。言葉には書き言葉(written)と話し言葉(spoken)とありますが、私はオーラル(oral)な言葉に強く惹かれます。

<声>、<自ら発する言葉>には力があります。<声>というものが<文化>の原点かと思います。「古事記」の成立過程がそうですね。稗田阿礼が誦習した口承の歴史物語を太安万侶が筆録し、それが後の世に伝えられた。今、家では10歳、5歳、2歳の男児がわいわいやっていますが、この子たちの発達を見ていても、自分から言う(能動的な主体として声や言葉を発する)ということが、自ら周囲を(大げさに言えば世界を)変えていくとわかってやっていますね。そういう発露によって前のめりに言葉を獲得していく、毎日、見ていて面白いです。

「百蝶図」円山応挙

これから企画展「食草園が誘う昆虫と植物のかけひきの妙」のお話に入りますが、話の枕に一枚の絵を、これは江戸時代の円山応挙の「百蝶図」です。以前、生命誌の本でも紹介したものですが、応挙は「写生」、「生き写す」ということを追求した絵師で、本当に自然をよく観察していることがわかります。ここに描かれた蝶はもちろん、植物も、蝶と縁の深い食草がたくさん描かれています。

「応挙は亀岡の人ですよ」と声がかかりました。「ええっ?」「知らなかったのですか?ええっ?」

※続いて、謡曲「胡蝶」の紹介とその一部の謡と小鼓の実演。

※「胡蝶」は、旅僧の前に現れた蝶の霊魂が梅の花に縁のないことを嘆き、歌い舞う曲。

※「胡蝶」演奏に続き、食草園の植物と、蝶の動画を見ながら、蝶と食草の縁の話し。

食草園の吸蜜植物はランタナやアザミが蝶に人気です。食草は、どれも皆さんよくご存知の植物です。ススキはセセリチョウ、萩やネムノキはキチョウ、シロツメクサやレンゲはモンキチョウ、スミレ、ギシギシ、カタバミ、カラムシ他にも、皆、蝶にとっては大事な食草です。

季刊「生命誌」105号の表紙は、食草園で卵を産むジャコウアゲハ、葉はウマノスズクサです。106号の表紙は、チョウと食草のネットワーク図。インターネットで公開しています。チョウと食草の関係を調べることができますよ。チョウと食草という関係の他にも、昆虫は様々な形で植物を利用します。そして植物も黙って利用されているわけでなく、色や匂いで昆虫を誘い利用しています。企画展「食草園が誘う昆虫と植物のかけひきの妙」は、館の研究と最近の季刊誌で取材した昆虫と植物の関わりを探る研究を集めて、両者の果てしないせめぎ合いの世界を描きます。今日のお話しの色々なトピックスは、HPでも読める以下の季刊誌に詳細があります。話を思い出しながら、更に深く記事を楽しんでいただけましたら幸いです。そして研究館にも、是非是非ご来館ください。7月から日曜日も開館しています。

※当日ご紹介した資料です(HPでご覧になれます)。

●季刊生命誌105号:https://www.brh.co.jp/publication/journal/105/

・「自然と人工の調和する場」大倉源次郎(能楽囃子方大倉流16世宗家)×中村桂子

・「昼と夜を分けた鱗翅目昆虫の進化」河原章人(フロリダ大学)

・「植物の遺伝子を巧みに操る虫こぶ形成のしくみ」平野朋子(京都府立大学)

●季刊生命誌106号:https://www.brh.co.jp/publication/journal/106/

・「風土に染まる蟲と言葉」奥本大三郎(ファーブル昆虫館)×永田和宏

・「ナミアゲハの生活を支える視覚情報」木下充代(総合研究大学院大学)

・「植物の匂いが結ぶ植食者と寄生バチの関係」塩尻かおり(龍谷大学農学部)

●企画展「食草園が誘う昆虫と植物のかけひきの妙」7/3 〜 11/28

グローバルセッション開始

児嶋:最近、テレビの番組で、鳥たちがそれぞれの鳴き方をしながら、緊急事態の場合は、相互に理解できるようで、四十雀が「はげたかが飛んで来るぞ。あぶない」と叫ぶと、鳩も理解して逃げるとか。それは、互いの鳥の中の多言語を理解できるということを実験で証明したという内容でした。

村田:鳥のコミュニケーションもすごいですね。同種族の個体間で伝達し合うサインを、横から見ている異種にとってもメリットがあればうまく利用する。生きていくためには何でも使っちゃうわけですね。鳥の脳を調べると、私たち哺乳類の脳のような層構造とは違う形で高度な機能分担がされているという研究もありました。

亀田:鳥は、人間を覚えてしまうようで、よく襲われる人は、そのカラスに覚えられてしまっているようです。そして雨の降る日にカラスが電線に並んでいるが、感電はしないようです。マンションの桜の木にカラスが巣を作ったので、市の人に取ってくださいとお願いしたけれど、自然状態の場合は取れないと返答がありました。

M・F:揚羽蝶の生態から、世界をどう見ているのかと興味があります。植物のにおいの意味は?

亀田:科学番組で見ましたが、ウニは海の生きものだけれども、好物はキャベツとか。

村田:それは知りませんでした。ウニとキャベツというのは、自然界では出会わない組み合わせですが、その機会を人間が作ったらたまたま利用できた。そうした例は他にもありますね。因みにキャベツを私たちが積極的に食用とするようになったのは、日本では近代以降で、江戸時代には観賞用だったようですね。

植物の匂いということでは、今日、ご紹介した塩尻先生の研究で、葉をかじられたキャベツが、かじった芋虫の天敵のハチを呼ぶ時に、芋虫の種によってかじり方が違うんだそうで、キャベツはかじられ方の違いに応じて、発する匂い(化合物のブレンド)を変えて、芋虫の種に応じた天敵の蜂を呼ぶんだそうです。驚きですよね。

N・K: 人間にもいろいろな性格の人がいますが、鳥やちょうちょもいろいろな性格があるんどえはないでしょうか?40年間亀岡に住んでいますが、自宅には毎年、ツバメが巣を作りにきます。それを見ていると、真面目で勤勉なツバメと不真面目なのがいるのではと思えます。子どもが卵からかえると、ツバメは、年に2回子育てをするのですが、餌を親が持ってきてやらなければなりません。ここ10年くらい、ふまじめなつがいが続いて自宅に来ていて、子どもが巣から落ちたり、もう一羽が来てけんかしたり、それを見ていると、ツバメもいろいろな個体がいるのだと感じました。

大槻:科学が最近は発達しすぎていますが、生命体はこれから、どこへ進んでいくのでしょうか?

村田:例えば、ある生きものが持つ遺伝情報に人間が手を加えて、その生きものが本来持っていなかった特徴を持たせる、というようなことをやっているわけです。植物に対して、動物に対して、さらにはヒトに対しても技術的にはそれができる。遺伝情報が変化するということ自体は、自然な現象です。しかし、遺伝情報に対する人間の目的的操作がどのような影響を及ぼすのか。いずれも生態系への影響、倫理面などの十分な検討が必要だとされています。

  ウイルスは、寄生した他の生物の細胞の働きを利用して増殖します。自己複製できないので「生きもの」とは言えないとされますが、地球上で多様な生物と関係し共存している。38億年前の生命誕生からずっとウイルスも続いているわけです。ウイルスの遺伝情報は少なく、増殖も速いので、変異型もいろいろ出てきます。ウイルスは寄生する、宿主あっての寄生者なので、あんまり強くなって宿主が滅んでしまってはウイルスも困る。ここにも今日のテーマの「かけひき」があるわけです。

児嶋:朝に歩きながら、空を見上げて、「鳥はなぜとべるのだろうか」などと考えています。

セッション終了

児嶋:これでセッションがおわりというわけではなく、感想を児嶋までお送りください。レポートをもちろん書きますし、ゲストの村田さんにもお送りします。できるだけ忘れないうちに、1週間後の6月20日ころまでにお願いします。

感想集

K・Yさん:「多彩な顔を(息子さん達の父親としての様子も・・)見せて頂き、楽しく受講させて頂きました。小鼓と張りのある通る声に圧倒されました。そしてお話は面白く、あっと言う間に1時間半は過ぎてしまいました。蝶々は、家の小さな庭に良く来ていました。ヒラヒラと自由に飛び回っているだけ、と見ていた蝶々の動きの一つひとつに意味があり、今まで知らなかった豊かな世界に繋がっているのだと感動しました。また、憧れの絵師、円山応挙の「百蝶図」の説明も納得がいき、図を静かにじっくりと観たいと思っています。村田さんが、応挙が亀岡の出である事を知られた時の驚きを、嬉しい思いで見ていました。今後機会をみつけて「JT生命誌研究館」を訪れたくなり、また頂いた本「生命誌の思い」をチョイスしながら、読んでいこうと思っています。「虫こぶ」について興味がわき、もう少し知りたい思いもありましたが、とても良い勉強が出来たと嬉しく思っています。ありがとうございました。」

S・Oさん:「生命を物語るとは、壮大である。というのが正直な感想でした。ミクロ(蝶や蜂などの世界)とマクロ(脈々と受け継がれてきた、生き物それぞれ)の両方に思いをはせることだと。人間の見えている世界など高々知れていて、蝶はどう世界を見ているか、そこに意識を向けるだけでも、命そのものに対して愛らしく思えてきます。まだまだ科学で説明がつかないことが多々あるから、世界は面白いと言える。今回も沢山の示唆を頂きました。また、生命誌の思い、なる書は抜群です。面白すぎます。中田力先生、大橋力先生、そして敬愛する松岡正剛さんもあって、ドキドキしながら読んでおります。本当にありがとうございました。」

I・Hさん:「蝶の研究をされている村田さんのところで、以前に教えていただいた「蝶は前足で葉の味見をして、卵を産み付けるべき木を選んでいる」というのに驚きました。

今回は、今まで気にしていなかった「蝶と蛾の違い」に納得しました。蝶は昼間の虫で、蛾は夜の虫であることや、蛾はコウモリのように超音波が出せると言うことに驚きました。

また、虫こぶのことも知りませんでした。そのようなこぶは見たことはありましたが、単なる病気だと思っていました。ほかの生物と共生して生きる力を持つ昆虫は、なかなかしたたかですね。人間も同じように人や自然と共生をしなければうまく生きていけないのだと思いました。」

T・Mさん:「6月のGSでは、素敵な時間をありがとうございました。保津浜TERRACEの松井です。元々、命や、世界全体の関係性などに、日常の環境として興味があります。個々のテーマを、科学として掘り下げる能力は無いのですが、多くの命が集まる環境が、自分の命、人生とどのようにつながっているのか?という肌感覚の興味です。飽き性の私が、35年ほど建築を続けてこれているのも、人の日常の生活の場としての空間に、様々な時空をつなげていく力のようなものを感じるからかも知れません。自然と、関係性、多様性へと興味が向かいます。様々なことを、単純化してわかりやすくすることに違和感があり複雑な状態の中に、何かを発見することに喜びを感じたりもします。ただ、よく理解していただきにくいのが難点です。幼少の頃、亀岡の原っぱの茂みの中で、一日中、虫を追いかけていました。一見、均質で一つながりに見える場所に、様々な居場所が多様な生き物と共にあるという感覚が、肌に合います。お越しいただいた、保津浜TERRACEは、初めて自分達のために作った空間であり、そのあたりが、かなり純粋に出ているのではと思っています。

自然の多様なフィールドの中での、昆虫と植物の関係性、騙し合い。それらが織り込まれた生態系の豊饒さにつながる具体のイメージに、奥深さを感じました。また、いただいた「生命誌の想い」拝読致しました。生命とは何か? なぜ生命というものは生まれたのか? その発生に必要性はあったのか?現在の私たちが生きる世界・宇宙が、現象として、どのような状態にあるか?ということは、様々な観察や研究からなんとなくはわかる気はします。でも、なぜそのようなことになったのか?なっているのか?という根本の疑問の答えには長年、出会っていません。ひょっとしたら、この本のどこかに・・一気に読ませていただきました。一番、興味の感覚に近かったのは、佐藤勝彦先生との対話でしょうか。小さなものが一気に広がる時のゆらぎが、様々な多様な生命を生み出し続ける源。でも、それなら、それらを包み込み込む宇宙は、なぜ・・と考えてしまう自分がいます。  そこに特別な意味は無く、多くの多様な状況の中のひとつ。そこに意味を求めるのは、ナンセンスで不可能。不思議としてあるべきだ。という、いつもの場所に戻った感じでもあります。きっと、目の前の日常に起こることと対峙していくしかない。

テラスの2階から亀岡の山河をながめ、そこに村田先生の鼓の音を響かせながら・・」