濱田さん:今日の話の内容は、パワーポイントに録画をしてありますので、そちらをオンラインで送信させていただきます。その上で説明が不足している場合は、セッションの場で考えを述べたいと思います。PODと電子版で出版予定の本があります。版下・装丁、表紙のデザインは、自分でいたしました。『写真が語る近代アメリカの民衆の装い―Guidebook of Joan Severa: Dressed for the Photographer, Ordinary Americans and Fashion, 1840-1900」(ネクパブ・オーサーズプレス2022年4月中旬刊)という本です。写真が多いので大変でした。詳しい書誌情報は下記のホームページに掲載しています。
そんなことを考えながら、浮かんできましたのは、「GONE WITH THE WIND」の映画です。1861年に始まった南北戦争を舞台にした内容で、ヴィヴィアン.リーの着ていた衣装が素晴らしいと感じていた当時の意味が解ったようです。西部劇が好きでよく見ましたが、何時の時も主役の相手役の女性は、エレガントなドレス着用の女優で、西部開拓時代にこのようなdressyな衣装があるのかと不思議に思っていました。当時の優れた写真技術によりアメリカンハイクラス女性の発展性には感じ入りました。濱田先生有難うございました。」
「お話を聞きとても感銘を受けました。サフィさんの経験からの言葉の重さと、飾らず真っ直ぐな人柄がストレートに心に響きました。サフィさんが好きな言葉だと言われた“Balance for my life“は、全ての事柄において、とても大切な事だと私も思います。縁あって日本に住み、縁あって亀岡に住んでおられる事を嬉しく思いました。そしてヌーラさんと赤ちゃんも参加してくださりサフィさんご一家の温かさを垣間見る事ができました。良いひと時を本当に有難うございました。」
「19世紀アメリカの服飾にその萌芽がありますね。『西洋服飾史』という上流階級の服飾を中心とした大学の授業は沢山あります。18世紀のヨーロッパのロココ調のファッションは、上流階級が中心で、衣裳の遺品が博物館などにもあります。でも、中産・下層階級の衣服については、全く実物がないのです。私はJohn D. Rockefeller Jr. Library(https://research.colonialwilliamsburg.org/library )に招聘されて、在外研修員として、下層階級の衣服の遺品調査に携わった経験があります。18世紀のプランテーションで発掘されて、奴隷が使っていた針や鋏などが出てきていますが、テキスタイルは一枚も残っていないので、困難な分野ですが、敢えて踏み込んでいる状態です。
H・Kさん:ドイツ語でトライして自己紹介をしてみます。ドイツ語圏と言ってもオーストリアとドイツでは、言い方にかなり違いがありますね。“Sound of Music”などでもわかりますが。大津市に住んでいます。琵琶湖の地図を見ると、オーストリアの国土の形と大きさがよく似ているそうで、「琵琶湖の日(7月1日)」にオーストリア観光局から代表が来たようです。オーストリア出身のオリンピック選手がバイクで優勝し、キーセン・ホーファーさんといいますが、その人に信楽焼のたぬきの像をプレゼントするようです。
Fellnerさん:Fellner宮良真理子と言います。日本国籍を持っていて、オーストリアでは公式ガイドをしています。40何年ほど前にオーストリアのグラーツへ来てずっと過ごしていました。一度だけ、「オーストリア・グラーツ・まりこ」という宛名で郵便が届いたことがあり、超有名人みたいでびっくりしました。うさぎ年でどのうさぎ年かは秘密ですが。小学校の6年生の時に1963年ですが、アメリカでの国際キャンプ(に参加しました。このキャンププログラムは、1951年に始まったのですが、創始者は、子どもの「戦争が始まったら、また戦争に行かなければならないの?」の質問に驚き、草の根「国際平和運動」の交流できる活動を始めたそうです。その年は、南部のミシシピー州で開催され、6カ国の11歳の子供が集まり、4週間ともに過ごすキャンプでした。普通は11~12カ国が集まりますが、南部で開かれるというので参加国が少なかったのでした。1963年というのはマーティン・ルター・キングが “I have a dream.という有名な演説をした年です。黒人解放がまだできていない年でしたそれ以来。50年以上経ちますが、今もつながりがあります。50周年目には、もう一度会う機会があり、樫の木の下で集まりました。このときにはいろいろな言葉がそれぞれ話せるようになり、昔のことが話せるようになっていました。「僕は貧しかったので、親がそんな所に行っても大丈夫か?」と心配していたとか。キャンプの参加後から、私は、「英語をやろう!」と思いました。もともと人と会うのが好きなので、日本では教育学をやりながら、ドイツ語、スウェーデン語、スペイン語など英語以外にもやりました。その後、同じ会のオーストリアで活躍していたマックスと出会い、結婚し、知らない国に住むことになりました。ドイツ語なので、最初は義父母ともあまり話せず、姑と嫁はどこの国であろうと、その関係は「サボテンのいす」だなと思いました。「とげがある」ことと、「その上には座れない」のです。その後、オーストリアで日本語を教えたいと思うようになり、市民大学などで教えたり、大学で教えたりするようになりました。その後、自分たちの子どもに母親の母語である日本語をどう伝えるかが課題となりました。現在は、継承語教育という分野での研究が盛んになって来ましたが。私は、自分の子どもに実験をして見て、どうやって日本語をこの子達に伝えるかと考えました。その方法として、
「行きませんか?」と日本語で尋ねられたら、どう答えますか?「「行きません」と答えるか、「そうですねえ。その時になってみないとわかりませんねえ」と答えるかもしれませんねえ。英語では「Don’t you go?」と聞かれたら、行かない場合は「No,I don’t」と答えますね。そのため、外国の人は日本語を使う時に迷うのです。どう答えたらいいのかと。
「What is ANTHROPOLOGY? Isn’t it a dry, boring, hard science? Where to begin to understand what it is? To tell you the truth, even though I am an anthropologist, I always find it impossible to explain what it is. Last year (2019-2020), I contributed a series of short articles, titled人類学者の奮闘記 or the struggle of an anthropologist, to the monthly newspaper circulated in Los Angeles area. Based on these articles, I will try to demonstrate that anthropology is a fun science: it makes you to understand who you are. 」
当時グリーンランドに行くことは不可能だったので、Boasは、とある探検家のひとりにエスキモーの家族 (7人)をグリーンランドから連れてきてもらい、ニューヨークにあるMuseum of Natural Historyの地下に住まわせ、実験材料として研究をしたようです。彼らの体型、言語、習慣などを観察していたのですが、インフルエンザにかかって7人家族の内1番小さな子どもを残してみな死んでしまいました。生き残った子どもは英語を学び、アメリカの生活に馴染んだかに見えましたが、つれてきた探検家が彼をグリーンランドに戻してしまう。ところが本来はそうであるはずだった自分の文化にも馴染めず、またアメリカに連れてきてもらいます。が、今度はほったらかし。結局インフルエンザにかかり、なくなってしまうのです。
アメリカの人類学はその後、Native American Indiansの研究が中心となります。でも皆さん、当時(19世紀後半)は、ニューヨークの動物園でアフリカにいる民族のひとつ、ホッテントットの子どもを檻に入れ、見世物にしていました。そんな時代に、「人はだれであろうと、文明人でも未開民族でもが文化を持っている」ということを証明しました。そうして、アメリカでは文明人は社会学が、未開民族は人類学が、という分業が発展したのです。
1943-1953 年 アメリカの第二次世界大戦への参入とともにニューヨークに移住。メーカー Edwin H. Foreman Sportswear Company と提携し、Tina Leser というレーベルの下でエドウィン・フォアマン(Edwin H. Foreman, 1915-1992)のためにデザインした。
1944 年 「ベアブラウン・ルック」(Bare Brown Look)
1945 年 コティー・アメリカン・ファッション批評家賞(Coty, Inc.American Fashion Critics Award)および、ニーマン・マーカス賞(Neiman Marcus Award)を受賞。 ロング・アイランドのサンズ・ポイントにあるリーサの夏の家として使用される納屋の改修が完了する。水着メーカー、ガーバー(Gabar)とライセンス提携。「オリンパスの影」ギリシアコレクション。
今日のタイトルは、「謡曲『胡蝶』と生命誌研究館の食草園企画展」です。研究館の屋上に、チョウが花の蜜を吸い、その幼虫が食べる葉を茂らす花壇があり、これを食草園と呼んでいます。チョウのためのレストラン、英語では” nursery for butterfly”です。チョウは種によって幼虫の食べる植物が決まっています。利用する植物を棲み分けているのです。どのような進化過程を経てこのような昆虫と植物の関係が生まれてきたのかを探る館内の研究を紹介する庭ですが、この食草園を糸口にさまざまな昆虫と植物の関わりを考える企画展示を現在準備中で、今日はそのエピソードを通して、最近の研究館の表現についてお話しさせていただきます。「胡蝶」はちょうど今、私が能の小鼓でお稽古している課題曲です。研究館の課題と能の課題とが、偶然にも重なって私の中では一体化しているので、今日はそんなお話しです。