2021年10月2日(土)第343回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2021年10月2日(土)10:30~12:30
場所:ガレリア3階 会議室
ゲストスピーカー:玉野井麻利子さん:アメリカUCLA人類学部名誉教授・(立命館大学院非常勤講師)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:7名

 今回のタイトル:「人類学とは何か」を気軽に考えてみよう

「人類学とは何か?」と聞くと、そんなのどこから初めたらいいの?そういう声が聞こえてきそうです。

実は一応人類学者である私にも答えに困るのです。

そこで、昨年、アメリカのロサンゼルスに住む日本人向けの無料月刊新聞に「人類学者の奮闘記」という連載を書きました。

今回はその原稿を元にお話しようと思います。

「人類学」、なんとも厳しい言葉ですよね。我々人類(ホモサピエンス)についての研究?

人類はひとつ、でも私たちは様々な方法で人類を分類しますー国籍で、肌の色で、進化の程度で、宗教で、使用する言語で。。。ヒトの「多様性」は私たちの生活に様々な恩恵を与えますが、戦争、差別もおこっています。

今日はこのような視点から、人類とは何なのか?皆さんと一緒に考えていきたいと思います。」

「What is ANTHROPOLOGY?  Isn’t it a dry, boring, hard science?  Where to begin to understand what it is?  To tell you the truth, even though I am an anthropologist, I always find it impossible to explain what it is.  Last year (2019-2020), I contributed a series of short articles, titled人類学者の奮闘記 or the struggle of an anthropologist, to the monthly newspaper circulated in Los Angeles area.  Based on these articles, I will try to demonstrate that anthropology is a fun science: it makes you to understand who you are. 」

自己紹介

亀田さん(コーディネーター):自己紹介をお願いします。

M・Sさん:多文化共生センターのスタッフで、週に2回ほどセンターに来て相談にのっています。その他に「ふるさと亀岡ガイドの会」のガイドで月に1回か、2回城下町亀岡をめぐっています。また、ガレリア3階の「みんなのネットワーク」の理事や国際交流協会の理事もしています。このGlobal Sessionは、最初のころからずっと参加しています。

R・Sさん:教員をリタイヤしたあと、ひまわり教室で、外国につながる子どもさんた保護支援をしたり、「みんなのネットワーク」の仕事もしています。通常は、コロナのために、ここ2年間ほどはいろいろな活動がなくなり、それをもう一度やるというのは、多分ものすごいエネルギーが必要になると思うのですが、このGSのような機会が常にあると、ひととつながれると思います。

F・Mさん:2020年の12月にオーストリアから日本に来てオーストリア出身の夫と亀岡に住んでいます。途中で私だけ、また帰国していましたがこの6月に再入国して日本にいます。今は逆文化ショックを感じています。長い間、日本に住み続けたことがなかったので、日本の人の物の考え方が変わったと感じたり、腹がたっても誰に聞いたらいいのかわからないこともあり、とまどうことがたくさんありました。オーストリアでは、日本語教師をしていました。

M・Sさん:奥さんがしばらかくいなくても、夫さんはひとりで生活されていましたね。

F・Mさん:夫はその時々の状況判断がうまいのだと思います。

S・Oさん:高校3年で立命館宇治に通学しています。児嶋きよみさんの孫で、自分とちがう世代の人の話を聞きたいなとこのGSに参加しました。その中でぼくなりの視点があるかもと思っています。

児嶋:このGlobalSessionは、1999年から毎月1回続けていて、今回は、343回目になります。でも、この8月・9月は開催していなかったと今気づき、びっくりしています。そのため、今年は10月が2回、11月が2回開催予定です。どうぞ参加していくださいね。

亀田さん:大津市から来て参加しています。このGlobalSessionへの参加も長く続けています。玉野井さんをゲストにお迎えしたのも3回目になりますね。前回は2019年で、アメリカの大学の教育についてであったと思います。仕事はツアーガイドをしています。ここ1年半くらいは、外国へ行くことも外国から来る人々の日本国内でのガイドの仕事がありません。2020年3月から日本は入国を禁止し、中国からもビザを出していないので、大勢来ていた観光客がいっさい来ていませんね。でも、ペキンにユニバーサルスタジオができたので、上海だけでなくて、日本に来なくてもいいようですね。来年も多分まだだめではないかと思っています。

児嶋:以前の中国からの観光客を、関空で見た時、土産として買っているのは、炊飯器がたくさんあったと覚えていますが。

亀田さん:そのほかに、水洗トイレの上の部分も多かったですね。それが第1位で2番が炊飯器で、日本の米も買って帰る人が多かったです。そのほかに、目薬とか化粧品もありました。最近では中国の高所得者向けに「人間ドッグ」も人気でした。それとか、韓国向けには「ぷち整形」とかも。これからは、中国政府がみやげに税金をかけるらしくてあまり買って帰ることはできないかもしれませんね。

亀田さん:玉野井さんも簡単に自己紹介からお願いします。

玉野井さん:私は、大阪生まれの関西育ちで、大学に入ってから東京に行きました。1978年にアメリカからフルブライト奨学金をいただき、5年間留学しました。この奨学金の規則ではその後は必ず、日本に帰国することが条件だったのですが、私はアメリカで結婚したこともあり、そのままアメリカに滞在し、人類学を学び、博士号を取得しました。その後2019年までアメリカの大学で教えておりました。アメリカの大学では、退職制度はありません。みなさん、自分でいつ退職するかを決めます。私の場合は2019年に引退をして日本に帰国ました。

京都に住み始めて気が付いたのは、京都は方言が生きている地域だなあということです。私の母は京都出身で、父は大阪で、ずっと関西に住んでいたわけですが、海外では会う日本人はさまざまな地域から来ているので、ほとんどが標準語を使用していました。F・Mさんが言われたように私も、「文化的逆ショック」を受けています。特に最近のことばで、「トリセツ」とか、「バズル」とか、「めっちゃ」とか。楽しむこともありますが、腹がたつこともありますね。現在は、立命館大学大学院で児嶋さんも在籍していらした先端総合学術研究科で非常勤講師をしています。さて、ここで本題にはいります。

アメリカの大学では、大学生が卒業する前に、学生の保護者と会い、話をする機会があります。そのような時に、「人類学をやっていて就職口はあるのか?」とか、聞かれます。そのために、「人類学を学んでいる学生の父母への人類学講座」が必要になります。

まず、皆さんにおききします。人類学とはどのような研究だと思いますか?

S・Oさん: 最近『サピエンス全史』という本を読み、歴史として、人はどういう営みをしてきたのかを考えています。人類学では、証拠をつなぎ合わせて歴史というのを作っているのでしょうか?

M・Sさん:人類誕生の歴史からの研究でしょうか?進化も含めて。

R・Sさん: 幅広い分野を含んで居る感じですね。生物の進化をしながら、作り上げていくのが文化かと思いますが。

玉野井さん:人類学というのはとても幅が広い学問だと思います。今の日常生活でだれもが思う、「なぜ戦争は終わらないのか?」とか、「女性は今もなぜ差別されるのか?」などこのような疑問も人類学と関連があります。ギリシャ語のanthropol(s)は、人間とか、ホモサピエンスという意味です。Anthropomorphismは、擬人化というような意味があります。

人類学という学問ができたのは、19世紀でかなり最近です。米・英・仏で生まれてきました。この時代の人類学者のなかにはBoasとMalinowski(マリノフスキー)がいます。Boas (1858~1942)は、ドイツ生まれのユダヤ人でアメリカに渡りました。マリノフスキーはポーランド生まれで英国に渡り、英国の植民地であったパプアニューギニアで最初のフィールドワークをしました。Boas はアメリカで初めて人類学部を創設しました。彼はエスキモー(Inuit)の研究をしたことで知られています。

当時グリーンランドに行くことは不可能だったので、Boasは、とある探検家のひとりにエスキモーの家族 (7人)をグリーンランドから連れてきてもらい、ニューヨークにあるMuseum of Natural Historyの地下に住まわせ、実験材料として研究をしたようです。彼らの体型、言語、習慣などを観察していたのですが、インフルエンザにかかって7人家族の内1番小さな子どもを残してみな死んでしまいました。生き残った子どもは英語を学び、アメリカの生活に馴染んだかに見えましたが、つれてきた探検家が彼をグリーンランドに戻してしまう。ところが本来はそうであるはずだった自分の文化にも馴染めず、またアメリカに連れてきてもらいます。が、今度はほったらかし。結局インフルエンザにかかり、なくなってしまうのです。

私は、アメリカで人類学の入門クラスを教えるとき、かならずこのエピソードから始めます。つまり、人類学とは西欧(Boasの、あるいはこの探検家の)のおごりから始まったと。上から下を見下ろしていると言えます。

アメリカの人類学はその後、Native American Indiansの研究が中心となります。でも皆さん、当時(19世紀後半)は、ニューヨークの動物園でアフリカにいる民族のひとつ、ホッテントットの子どもを檻に入れ、見世物にしていました。そんな時代に、「人はだれであろうと、文明人でも未開民族でもが文化を持っている」ということを証明しました。そうして、アメリカでは文明人は社会学が、未開民族は人類学が、という分業が発展したのです。

アメリカの人類学部は、1.生物人類学、2.考古学、3.言語人類学、4.文化(社会)人類学の4つに分かれ、私は第4の文化社会人類学を専攻しました。1は主に進化論を、2は歴史を、3は言語を、4はヒトの多様性を軸として展開しています。すべてに共通するのは「文化」という考えの追求です。

ところで、日本では包括的な人類学部をもつ大学はほとんどありません。今のところの学、東京大学、東京都立大学、埼玉大学ぐらいでしょうか。これらの大学も、たとえば東大の場合生物人類学は医学部とか、理学部におかれているようです。

私がどうして人類学に興味を持つようになったかというと、日本の大学生の1年だったころ、メキシコに留学する機会に恵まれたときです。当時のメキシコ大統領は息子を慶応大学に留学させていました。そのお礼にと、日本全国からメキシコへの留学の応募者をつのったのです。その結果、1年間メキシコに留学しました。ホームステイをし、家族とともに住んでいたのですが、なんと大金持ちの家族で、メイドさんがいて、下着まで洗濯してアイロンをかけて返してくれるのです。しかしこういう人々はわずか、貧困が蔓延しています。メキシコはすばらしいアステカやインカ文明があった国ですが、征服されてほろんでしまいました。そこで見た貧困の格差と、その歴史が今の私を作ったような気がします。《知らない国へ行くのはおもしろい」と思ったのが人類学に進むきっかけだったのかもしれません。

F・Mさん:文明人と未開民族はどこで線を引くのでしょう?

玉野井さん:文字を持つかどうかでしょうか?

F・Mさん :文字がなくても絵で伝えられる民族もあったのではないでしょうか?

玉野井さん:もちろんです。絵や寓話や、記憶を送り続けることによって。でも文字を持たないということが、フィールドワークという方法を作ったと思います。今は未開民族はいません。それと同時に人類学はいわゆる文明国でもフィールドワークをするようになりました。文字をもっていても、かかれなかった歴史はたくさんあるわけですがら。たとえば女性史がはじまったのは20世紀になってからですね。 

M・Sさん:フィールドワークというのは、具体的にどのようにするのですか?

玉野井さん:ある地域に住んで、そこにいる人たちと毎日くらし、聞き書きをしたり、また私の場合は文書を読むこともあります。フィルドワークでは大体女性に聞く方が、生き生きした話が聞けるようにおもいますが、これはフィルドワークの難しさでもあります。

M・Sさん:F・Mさんは、旦那さんとどこで知り合ったのですか?

F・Mさん:11才でCISVという子どもの国際夏休み村にアメリカで参加し、そこで会いました。そこでは「戦争が始まったら、どこへ行くの?」などという視点で話合いがありました。

R・Sさん:今でも北海道でアイヌの人の骨を掘り起こすとか、沖縄の人の骨が散らばっているところを、港にするために掘り起こしているとか、矛盾がたくさんありますね。中国でも天安門事件で「君たちの意見はよくわかる」と言った趙紫陽さんは、家の中に閉じ込められたまま亡くなりました。全体主義の監視下では、つながっていくはずの学問がつながらないという側面もありますね。」2021/10/12一部修正

玉野井さん:日本も中国を占領地にした時代に、中国人にたいして人体実験したことがありました。

玉野井さん:何か他に質問はありますか?

S・Oさん:誰もが文化を持つと僕は思います。僕は絵や、音楽で表現をすることで何かをつくり上げる仕事をしたいと思っていますが、曲を作るのも周りの影響を強く受けていると思います。高1の時にカナダにホームステイしながら留学していましたが、自分と同世代のみんなと関わりながら、自分が日本の文化にどのように影響を受けてきたかをいろいろ感じていました。毎日ちがいがどうしてこんなにあるのだろうと考えていました。人生はほとんど同じ長さのはずなのに、どうしてこんなにちがいが生まれるのかと不思議でした。どういう経験がこのようにちがいを生むのかとも考えていました。

玉野井さん:人類学で扱う「文化」はある意味で人間の行動、考えそのものです。日本ではよく文化(芸術など)と政治をわけますが、政治の成り立ち、そのなかでのたとえば議員の行動、もまた文化です。ただ私は、やはりひとりひとりの個人、その人に特有の価値観も大事にしたいと思っています。

時間になりました。また、来年度の別の機会に玉野井さんに再度GSのゲストをお願いします。

次回のGlobalSession

期日:2021年10月23日(土)10:30~12:00
場所:ガレリア3階 会議室
ゲスト:フェルナー真理子さん
コーディネーター:募集中
タイトル:異文化の中で育つということはどんなことか?(ゲームで体験してみよう)

2021年7月25日(土)第342回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2021年7月25日(土)10:30~12:45
場所:ガレリア3階 会議室&オンライン
ゲストスピーカー:濱田雅子さん(元武庫川女子大学教授、アメリカ服飾社会史研究会 会長)
コーディネーター:児嶋きよみ
参加者:12名(うちオンラインでの参加4名)
共催:亀岡国際交流協会

 今回のタイトル:「20世紀アメリカの女性デザイナーの知られざる真実― ティナ・リーサの作品に見るフェアトレードと持続可能性―」

時間が来ると、オンラインで濱田雅子さんが話を始められました。今回は「濱田雅子の服飾講座」の20回目のGlobal Sessionです。今回は、濱田さん以外にもオンラインでの参加者が3名いらっしゃいます。さあ、どのようなセッションになっていくでしょうか?

自己紹介

R・Yさん:せせらぎ出版社長(濱田さんの研究書『アメリカ植民地時代の服飾』『アメリカ史にみる職業着』などの発行をになう:(濱田さんより)

K・Yさん:大学でフランス語を教えています。濱田さんのファンで、ほとんどの研究書を読んでいます。

K・Iさん:大学でメディアコミュニケーションを教えています。

M・Fさん:グループを作り、子どもたちに映画の製作などを教えています。(京都や滋賀で) 亀岡市在住

E・Tさん:今日、33才になりました。京北町在住

M・Tさん:カリフォルニア大学で人類学を教えていました。今年からは、拠点を京都に移しています。

K・Kさん:宇治市在住・小学校で非常勤講師をしています。毎回、ここに参加すると、学ぶことが多いです。今日も楽しく勉強していきたいと思っています。

K・Kさん:南大阪の泉大津市から来ました。80才になります。(造園デザイナーで工房カワサキを主宰:なんばウオークの「くじらパーク」の制作者)

E・Lさん:インドネシア出身でインドネシア語講師(関西のさまざまな大学で) 京都市在住

Kさん:亀岡国際交流協会 職員

児嶋きよみ:1999年にGlobal Sessionを、亀岡市交流活動センター(亀岡市宮前町)で開始し、2011年より、児嶋の主宰となり、毎月一回のペースで継続し、今回は342回目になります。知らない間に20年以上になっています。濱田講座はGSの中で20回目になります。

今回の講座について濱田さんより説明

濱田さん:1時間20分ほどの内容で録画をしてあります。この中には、著作権の問題などもあり、本の中では説明できなかった写真なども入っています。この中では、職人とのフェアトレードの取り組み方や持続可能性についても触れています。

概要について

★ティナ・リーサは、1950 年代に芸術家として育ったアメリカのファッション・デザイナ ーです。世界中を旅行しており、フェアトレード、持続可能性、デザインと生産における グローバルな展望を優先しました。

★ティナ・リーサは、アメリカでも知られていないということです。

★本講演では、ティナ・リーサの生い立ち、ファッション・デザイナーとしてのハワイ、 ニューヨーク、インド他を舞台とした活躍ぶりをアメリカの服飾研究者の近年の研究に基 づいて、紹介させていただき、こんな凄い活躍をしたファッション・デザイナーが、なぜ、 知られていないのだろう? その真実に迫ります。

★第41回研究会で話題になったフェアトレードと持続可能性の問題をティナ・リーサの活躍ぶりと作品の数々を通して考察し、皆さんとともに考えてみる機会になればと思います。

全体構成

1. 濱田雅子著『20世紀アメリカの女性デザイナーの知られざる真実—アメリカ服飾社会史 続編ー』の内容紹介

2. ティナ・リーサの生い立ち

3. ハワイ・ニューヨーク、インド他での活躍

4. 世界旅行で培ったグローバル・ビジョン

5. ティナ・リーサのファッション哲学―ウィリアム・モリスの影響

6. ティナ・リーサの作品に見るフェアトレードと持続可能性

7. Tina Leser’s Sustainable Fashion 映像・解説(3~6 でも作品紹介)

8. まとめ

参考文献 濱田雅子著『『20 世紀アメリカの女性デザイナーの知られざる真実ーアメリカ服飾社会史 続編』(POD 出版) 電子書籍 アマゾン kindle 版 ペーパーバック(Next Publishing Authors Press, 2021年4月7日発行

テーマ『20世紀アメリカの女性デザイナーの知られざる真実 ―ティナ・リーサの作品に見るフェアトレードと持続可能性―』

ティナ・リーサのあゆみ

1910 年12月12日 クリスティン・バフィントン(Christine Buffington)は、フィラデルフィアアリー・エディス・コックス(Mary Edith Cox, 1886.3.12-1954.1.7)とチャールズ・バフィントン(Charles Buffington)のもとに生まれた。母親の裕福な従兄弟であるジョージーヌ・ウェザリル・シラード・スミス(Georgine Wetherill Shillard₋Smith, 1873.3.2-1955.10.12)と彼女の夫チャールズ・シラード・スミス(Charles Shillard-Smith, 1864.9.10-1946.11.25)によって養子として迎えられた。ロサンゼルスのウエストレイク・スクール・フォー・ガールズ(Westlake School for Girls)、 ラホーヤのビショップ・スクール(Bishop’s School)、アグネス・アーウィン・スクール (The Agnes Irwin School)、ザ・シップリー・スクール(The Shipley School)、フィラ デルフィアのカーティス音楽研究所(The Curtis Institute of Music)、そしてパリのソ ルボンヌ(the Sorbonne)で教育を受けた。

1931 年 カーティン・リーサ(Cartin Leser)と結婚。

1935 年 ロイヤル・ハワイアン・ホテルの向かいのホノルル専門店をオープン。彼女の ブティックは、私たちと同じようにハイエンドの既製服を扱っていた。

1936-1938 年 カーティン・リーサと離婚。

1940 年 リーサは本土に事業を拡大する。ボンウィット・テーラー(Bonwit Teller)とサ ックス・フィフス・アベニュー(Saks Fifth Avenue)は、彼女のデザインを販売した最初の小売業者であった。 リーサは 1943 年まで自分のブランドで設計、製造していた。

1943-1953 年 アメリカの第二次世界大戦への参入とともにニューヨークに移住。メーカー Edwin H. Foreman Sportswear Company と提携し、Tina Leser というレーベルの下でエドウィン・フォアマン(Edwin H. Foreman, 1915-1992)のためにデザインした。

1944 年 「ベアブラウン・ルック」(Bare Brown Look)

1945 年 コティー・アメリカン・ファッション批評家賞(Coty, Inc.American Fashion Critics Award)および、ニーマン・マーカス賞(Neiman Marcus Award)を受賞。 ロング・アイランドのサンズ・ポイントにあるリーサの夏の家として使用される納屋の改修が完了する。水着メーカー、ガーバー(Gabar)とライセンス提携。「オリンパスの影」ギリシアコレクション。

1946 年 パーク・アベニューのブロードウェイ・ステージ制作用の衣装をデザインし、アンパリッシュの小説「すべてひざまずく」の映画化のための衣装をデザインするために 一時的にハリウッドに移転した。

1947 年 ニューヨーク・ドレス・インスティテュートからプリンセス・エリザベスに送られたトルソーの一部として選ばれたリーサのデザイン。ニューヨーク・ドレス・インスティテュートのクチュール・グループが最初に招待したメンバーになる。 チェイニーのメンズネクタイをデザイン。 リーサの作品は、メトロポリタン美術館のコスチューム・インスティテュートに、フランスの中世のタペストリーを基にしたファッション展の一環として登場した。「ゴディーズ・レディーズ・ブック」コレクション

1948 年 「カリプソ」コレクション。11月 ジェームズ・ハウリー(James Howley,1920ー2012)と結婚し、ハワイ、日本、 中国、トルコ、インド、タイ、ヨーロッパを訪問するグローバル・ハネムーン・ツアーに参加した。

1949 年 日本のファッション・デザイナーを対象とした年次コンテストを開催。モリニューはロンドンとパリの彼のブティックでリーサのデザインを販売した。メーカー・シグネットのメンズネクタイ・ラインをデザイン。「世界一周」コレクション。

1950 年代初期 養母のジョージアを助け、フロリダ州クリアウォーターにベルエア・アー トセンターを設立。

1950 年 「スペイン風」コレクション。

資料 濱田雅子著 『20世紀アメリカの女性デザイナーの知られざる真実―アメリカ服飾社 会史 続編―』(Next Publishing Authors Press、2021年4月7日) pp.71-76

グローバルセッション開始

E・Lさん:アメリカのデザイナーに興味を持ちました。実際のデザインの元はあまり知らなかったので写真にあるデザインを見て驚きました。インドネシアでは小さい頃、母が作った服を着ていました。1970年代のインドネシアにもアメリカのデザインの影響はあったのかもしれません。写真の25, 42, 51に興味があります。日本でもファッション画のルックスはアメリカンだったのでしょうか。戦争前に禁止の条項が多いのを尻目にシースルーなどをアイディアにしたのはおもしろいですね。

M・Tさん:いろいろ学びました。大きな疑問としては、なぜ、彼女が知られていないのかというのがあります。1950年代からフェアトレードを実行してきたわけで、今でこそ、ユニクロなどが問題視されていますが、ティナ・リーサは最初に言い出したデザイナーなので、もっと知られてもいいのにと思います。次にファッションのデザインですが、ヨーロッパから着た服のデザインでは、普通の人は着られなかったと思います。50年間アメリカにいましたが、服については何でもいいから着るというような生活をしていました。でもこのティナさんの服は着られそうと思います。でも、このような事があまり知られていない原因と言えるのでしょうか?

M・Fさん:質問ですが、デザイナーさんの写真の著作権は、どうだったのでしょうか?

濱田:デザインには、制作の面では著作権があります。それで、今回も写真掲載の許可が得られませんでしたので、私の本には、ティナ・リーサさんの作品の写真は、パブリック・ドメインの写真以外は掲載していません。この問題には私も、本当に苦しみました。裁判になる怖さもあります。出版社のせせらぎ出版の山崎さんにも相談しました。著作権は、著者が亡くなってから、70年間あります。

M・Fさん :苦労されたのがよくわかりました。

濱田さん:映像化することがデザインの著作権問題としてクリアされれば、アメリカだけでなく、他の国にも紹介できるのですが。

K・Kさん:私の仕事は石工なので、ファッションの世界には疎いのですが、素材をアートに変えていくという点では同じかなと思い、見ながら、自分の来た道を振り返っていました。私の場合は、石材やセメントが重要な素材です。イサム・ノグチは石材を使って世界的なアートを制作されました。かつては遊牧民と自称し、『ぼくの生まれた時代』(1941年)を出版し、生きた時代を重ね合わされていますね。

濱田さん:K・Kさんも泉大津市に住みながら、石材を使っておられるわけですが、職人を大切にされていたと思います。これに対して、ユニクロなどの生産国での低賃金が今は問題になってきました。(新疆ウイグル自治区などで)

K・Kさん:楽しかったです。来てよかった。ティナ・リーサさんは、経歴を聞くと、世界をいろいろ回っていらっしゃいますね。それぞれの地域で交流があり、人生を楽しんでいたという印象があります。戦争末期の制限の中で、シースルーの衣服を取り入れたり、共感できます。でも、アメリカで取り上げられずにいたということは、先を走り過ぎたのかと残念です。アメリカ人は、実質的な物の価値を取り上げるはずなのに、受け入れられなかったのは、周りの理解が無かったためかなどとも思いました。持続可能な点については、人類の滅亡の危機があるのは、産業の中の廃液の処理なども含まれます。表に出ている商品だけでなく、それの後ろ側やまわり、先なども考えていかなければと思います。そうでなければサスティナブルな産業はなくなると思います。何が大切なのかをみんなで考えていくことが大切と考えます。

濱田さん:以前はアメリカン・ルックについて書かれた服飾社会史はありませんでした。『アメリカ服飾社会史』(東京堂出版、2009年)を出版した時には、シリーズで書くという気はなかったのですが、POD出版の時代になり、出版しやすくなり、出版いたしました。アメリカのスタイルについては、Eniさんも質問されていましたが、その誕生と発展について、2019年と2020年に、ペーパーバックと電子書籍を出版していますので、また、読んでください。『パリ・モードからアメリカン・ルックへ―アメリカ服飾社会史近現代篇―』(株式会社R&D POD出版サービス, 2019年)、『アメリカ服飾社会史の未来像―アメリカ服飾社会史の視点から―』(株式会社R&D POD出版サービス, 2020年)の2冊です。

K・Yさん:今日はありがとうございました。苦労された著作権に対してもアーカイブでの資料があり、説得力がありますね。サスティナブルの視点では、パタゴニアについての事項を思い起こしていました。ティナ・リーサさんはその時代の先取りを実践しましたね。そこでは、かわいらしいとか、はなやかというコンセプトだけを表にだそうとしていたわけではないですね。モリスの案を実践に持って行ったことは、とても良いと思います。アメリカのファッションは、フランスに比べると目立たないですね。

濱田:今度の本を最初に読んで下さったのは、吉川さんです。本を読まれたのと、今日のビジュアルな講座を見て、いかがでしたか?

吉川:本も説得力があり、いろいろなことを考えることができました。でも、映像は華やかさがありますね。ティナ・リーサさんに華を感じました。映像では材料にオーガンジーを使用したり、細部にかわいらしさも出ていました。質問ですが、今回のビデオで流されているBGMは、内容と関係があるのでしょうか?

濱田:全く関係がありません。自分の好きなパターンをマイクロソフトから取りました。吉川さんは、「本は本でいい」と言われましたが、著作権に関わる映像では、文字、情報がカバーできるのですが、著作権が著者死後、70年間、保護されるというのは、現代史を扱う著作者にはかなり苦しいと思います。

K・Iさん:服飾の研究が専門ではないのですが、感想としては、ファッション界の評価としては、オリジナリティが評価の対象となるはずです。ティナ・リーサさんは、ヨーロッパに触発されて自由に作り上げたと思います。私たちは見たことのない物が好きで、固定観念のある社会としては、「オリジナリティはない」とされたのも知られていない理由のひとつなのではないでしょうか?

濱田さん:濱田としては、ティナ・リーサさん他のアメリカの女性デザイナーが認知されなかった理由について、5つの見解を提出していますが、まず、パリモードとしては、ディオールの映画を見て「パリモードはすごい」と思いました。オリジナリティはもちろんすばらしいのですが、モリスもいうように、農家の中から生まれたデザインもすばらしいと思います。ファッション社会の中では、パリはすばらしいという固定観念があります。アメリカは実用性を重んじる社会ですが、評価は低いですね。

K・Iさん :ギルド制もありましたね。

濱田さん:川崎さんの作品の本もせせらぎ出版さんから電子書籍という方法もありますね。

R・Yさん:(せせらぎ出版):詳しくこちらのことを話してもらってありがとうございます。濱田さんの『アメリカ植民地時代の服飾』と『アメリカ史に見る職業着』も出版してきました。

濱田さん:阪神大震災の時に私の研究資料が無くなるのではないかと心配でした。指導教員の先生に「資料が健在なうちに本を出版したい」むね相談しました。その結果、せせらぎ出版さんを父の知人から紹介してもらって、修士論文を『アメリカ植民地時代の服飾』というタイトルで出版していただきました。その後、職業着の翻訳書も出しました。

R・Yさん :ウイリアム・モリスの翻訳書をせせらぎ出版で作りましたね。出版すると大きな資金が必要という敷居を下げました。

  • POD(プリント オブ デマンド)で出版できる。
  • 出版部数も選べる。(ウイリアム・モリスの本も初版は400部作成し、100部ずつ印刷を重ねる。2ヶ月に一度このように出版し、800部売却しました。
  • 紙の本を少量ずつ印刷しているので、費用は安い。

従来は3000部以上というのが普通で出版のハードルは高い。

  • サスティナブルという面でも売れる数を印刷するので、廃棄は無い。

従来の印刷方法から脱却する。

濱田さん:せせらぎ出版さんの方法は先見の明があると思います。本の出版が夢だった人々にも実際にできるようになりました。せせらぎ出版は、インターネットで見られます。

E・Tさん:ファッションは好きです。今日は歴史を楽しく学びました。今は訳あって職探し中です。だれかの役にたっているという仕事がしたいと思っています。

児嶋:夏のおわりになると、ファストファッションの店では、びっくりするような値段で売りさばこうとしています。1000円以下でもいっぱいあります。質も悪くないのに。これはいいと買い求める人も多いと思いますが、そのたびに、最近は、産出国で、どれだけ安い賃金で造らされているのかと思ってしまいます。

濱田:今日の講座で服飾に関して20回目になります。パワーポイントで20回分の映像が残っています。ナレーションを聴き直してみると気恥ずかしいです。このたびは、本当に皆さんのご感想やご意見に励まされました。ありがとうございます。みなさま、コロナと猛暑に気をつけて、お過ごし下さいますように。

感想集

K・Yさん

「今回は初めて会に参加させていただき、ありがとうございました。このような会を運営しておられる児嶋さんはじめ関係者にお礼を申し上げます。

さて濱田雅子氏の最新の著作は6人のアメリカの女性デザイナーを紹介しながら、なぜその活躍にもかかわらず、今日、彼女たちの認知度が低いのかを解き明かす内容です。最新の研究をふまえ、大変明快に論じられています。

彼女たちの認知度の低さは、第二次世界大戦後のパリ・モードの動静が大きく関わっていますが、理由は複合的で、彼女たちの業績等のアーカイブの未整理も影響しています。

著者が導き出した結論は、パリとアメリカを視野に収めたダイナミックなものであり、研究者のみならず多くの読者に資するものだと思います。

濱田氏のご発表はパワーポイントを使ったわかりやすいものでした。画面は整理がきいていると同時にレイアウトが工夫されていて、楽しく見ることができました。サスティナブル・ファッションなど最近のSDGsの動きを視野に収めた刺激的な内容で、たいへん勉強になりました。ティナ・リーサがこのようなファッション界の動きを早くから感知していたことにあらためて驚かされました。

普段、ヨーロッパに目を向けがちな私にとって、20世紀アメリカの服飾事情は、比較の視点からしてもおおいに注目されるところです。」

K・Kさん

 本来私は繊維の世界についてほとんど専門的知識は持ち合わせておりません。初めて講座を受けた時でした。その時講座を聞いていた時突然思い出した事をお話しさせて頂きました。

それは、白人がアメリカに入植した頃の大統領がだれだったのか?40年位まえに読んだ本が思い出せなかった。今も変わらずその事が頭から離れません。

 繊維について興味と関心を持ったきっかけは白人社会がインデアンを山奥に追い出した時インデアンの酋長が当時の大統領に1通の手紙を送った。その中身はこうでした。

「大統領様、貴方たちは一方的にインデアンを追い出して白人優先社会を作ろうとしている。私達が着ている繊維は縦糸と横糸を絡ませて繊維は出来上がっている。私達を山奥に追いやる事は、縦糸か横糸を一本抜けば繊維は必ず綻びてくる。

 私達先住民族を追い出して白人だけの社会を作るならアメリカ社会は必ず滅びらだろう。

 この手紙を大統領に送ったインデアン酋長の先見性と勇敢さが今日のアメリカ社会を作ったと言っても過言ではない事を思うと、どの大統領に手紙を送ったのか興味があります。今でも本の名前も記憶無く、思い出す度にネットで調べてもわからない。アメリカ社会のファッションを聴く瞬間思い出されます。

 濱田先生の話といささか外れますが、私は繊維やファッション界は素人もはなはだしい。皆さんの意見を聞きながらゆっくりのんびり勉強しています。」

(濱田さんから、K・Kさんへ)

「インディアンの手紙」

K・Kさんの探されているのは次の手紙ではありませんか?次のサイトで見つけました。https://note.com/mannaonnote/n/n988e4d2a40ae

E・Tさん

私はファッションは好きなのですが、その歴史はほとんど知らないのが現状です。講座を聞いていて疑問に思ったのは、ティナ・リーサさんの名前があまり知られていないことです。世界中を回り、ファッション業界に大きく貢献された方の一人のはずなのに、どうしてかなと思いました。おそらく、リーサさん自身、名声より人々のファッションの未來の方を気にされたと推測しますが、、、、

 あと、興味のある写真は、図22,19,24,26,32,35,37,51です。

本日はありがとうございました。

2021年6月12日(土)第341回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2021年6月12日(土)10:30~12:30
場所:ガレリアかめおか 3階 会議室
ゲストスピーカー:村田英克さん(JT生命誌研究館 スタッフ)
コーディネーター:亀田博さん
参加者:12名

今回のタイトル:曲『胡蝶』と生命誌研究館の「食草園」企画展

コーディネーターの亀田さんの自己紹介から始まりました。

サム:国際交流員のジード サムです。コロナで現在、交際交流の事業もないのでこれから、やれたらいいなと思っています。カナダ出身です。

T・M:東つつじに東つつじにいましたが、現在は保津町に住んでいます。設計を仕事にしていますが、現在、レンタルスペースとして「保津浜TERRACE」を運営し、最近、ガラス工房の個展をしていた時に児嶋さんが来られ、ここに来ることになりました。その時に安詳小学校からつつじが丘小学校に校区変更をしたときに、いっしょに安詳小からつつじ小に移動に児嶋さんもいっしょに、教員として異動されたという事実も見つかりましたね。

N・K:小学校教員をしていて、退職後ひまわり教室に関わるようになり、村田さんの前回のGSで話しに出ていた『セロ弾きのゴーシュ』を帰ってから見させてもらいました。今回もおもしろそうと思って参加しています。

K・Y:ひまわり教室で読み聞かせを担当しています。今回のちらしを見て、いいなと思って参加しました。

R・S:私もひまわりの指導者であり、前回の村田さんのGSにも参加しました。その時の、「ウイルスは生命体ではない」というのに驚き、今日も楽しみにしています。

E・K:以前、市役所で女性相談員(カウンセラー)をしていました。今は美山町に住んでいてひとりぐらしをしています。ひまわりにも時々関わっています。自分の居るところには、虫・葉っぱ・木などがあり、地面の中にいる生きものもいますが、このごろは何かが変化しているなという感じがします。

H・I:この間までガレリアで仕事をしていました。今は農業をしながら、次にすることを模索中です。田んぼも獣害(鹿や猪など)が大きいです。新しいウイルスが生まれても不思議ではないと思っています。村田さんのおられるJT生命誌館を訪問し、ウイルスの変化はあるのかなど聞いてみたいと思っています。

S・O:前回も参加しました。JT生命誌館の前館長の中村桂子さんに会いたいなあと思っています。村田さんの小鼓の演奏も楽しみです。私も、昨日からですが、能を始めました。京都観世会館の林さんが指導者です。

M・F:Global Sessionには最初から参加しています。(1999年より) 前回にもありましたが、38億年前に人類が誕生したと聞きましたが、そのころ、ウイルスはいたのかなど興味があります。また、最近古代エジプト展に行ってきましたが、「生きものは海から生まれた」という言葉もあり、村田さんの言われていることと同じだなと思いました。明日はワクチンの接種をします。

児嶋:今回のGSは、1999年に開始して今回は341回目になります。最初は月に一度ではなく、もっとやっていたのですが、大体は月に一度のペースですでにもう、20年以上過ぎました。

亀田(コーディネーター):大津市から参加しています。毎回亀岡に来ていますが、ここには四季があるなあと思います。ツアーガイドが仕事ですが、今は直接の、海外交流ができなくて、メールなどのみにあり残念です。最近、BSテレビでは、いろいろな国の歴史などの特集がありますが、生命体などについても大きな昔の特集も放映されていますね。アマゾンの生命体はまたちがうとか、今はコロナで大変だったけれども、以前にもウイルスはあり、その細菌がどんどん強くなってきているとか。

児嶋:ちょっと付け加えますが、亀岡市には1990年から96年までアメリカ大学日本校のシステム野中の、オクラホマ州立大学京都校(OSU-K)があり、OSU―Kの第1期卒業生が、井尻さんたちです。6期生ほどまでがいます。その後、OSU-Kの校舎は、亀岡国際センターに、そして交流活動センターに変わり、卒業した井尻さんと私は、それ以来ずっと停年までそこで仕事をしていました。2012年にそのセンターの業務はガレリアに吸収され、現在は交流会館として、いろいろな事業が展開されています。その後、OSUの造園建築学科の海外研修プログラムとして亀岡を拠点に毎年アメリカのOSUの学生と先生が来られ、そのガイドやOSUがあり姉妹都市であるオクラホマ州のStillwater市への訪問団体のツアーガイドなどを亀田さんにお願いして来たのです。そのようなつながりがあり、訪問団のひとりとして、藤田宗次さんなども行かれましたね。

村田:(ようやく登場です。)このGSはどんどん話に入ってと言われていますのでどうぞ、入ってくださいね。今日で3回目のお話です。そもそもガレリアのジュニアワールドフェスタという催しで、確か日程の都合で中村桂子前館長の代役を務めたのがご縁の始まりで、その時も私は、子どもとの交流や異文化というテーマに関心があったので喜んで参りました。来てみると、児嶋さんから「JTってたばこをつくる会社でしょう? どうして生命のこととつながるの?」と聞かれ、改めて生命誌の活動をお伝えしたところ関心を持っていただき、胸を撫で下ろしました。フェスタの時は、ヒッポファミリークラブの方もいらして、亀岡の活動に更に関心が深まりました。私は子どもの頃、そのヒッポの前身となったラボパーティという、多言語でいろんな歌や遊びや劇などを楽しむ交流サークルに参加していて、いずれも多言語活動を提唱した榊原陽さんの創設ですね。その頃に体得した、言語とは頭で理解するものでなく、身体ぜんぶで出したり入れたりするものという感覚は、私の中でずっと生きていて、今の仕事にも重なる気がしています。

80年代から90年代にかけて、エデュテイメントという言葉がありました。純粋な娯楽でなくどこかで学習につながるようなコンテンツの市場というものが成立してきたのですが、私はそうした多ジャンルの映像やPCソフト(今のようにNetは普及していませんでした)、更には教材テキストを編集、制作する仕事をしており、1993年に創立した生命誌研究館の展示映像の仕事を受注したことが、今につながりました。中村桂子館長が提唱する生命誌研究館という構想に驚き、関心をもって仕事をしているうちに館のメンバーとなる機会があり、今は「表現を通して生きものを考えるセクター」のチーフとして、若いスタッフと一緒に、生きもの研究の面白さをみなさんに伝える展示や映像やネット、催しなどに携わっています。

今日のタイトルは、「謡曲『胡蝶』と生命誌研究館の食草園企画展」です。研究館の屋上に、チョウが花の蜜を吸い、その幼虫が食べる葉を茂らす花壇があり、これを食草園と呼んでいます。チョウのためのレストラン、英語では” nursery for butterfly”です。チョウは種によって幼虫の食べる植物が決まっています。利用する植物を棲み分けているのです。どのような進化過程を経てこのような昆虫と植物の関係が生まれてきたのかを探る館内の研究を紹介する庭ですが、この食草園を糸口にさまざまな昆虫と植物の関わりを考える企画展示を現在準備中で、今日はそのエピソードを通して、最近の研究館の表現についてお話しさせていただきます。「胡蝶」はちょうど今、私が能の小鼓でお稽古している課題曲です。研究館の課題と能の課題とが、偶然にも重なって私の中では一体化しているので、今日はそんなお話しです。

研究館の表現では、生きもの研究(科学)を伝えることになりますが、基本は、「言葉」だとつくづく思います。国によって異なる人間の言葉も、生きものの多様化のように、それぞれの気候や風土に培われたものですね。言葉には書き言葉(written)と話し言葉(spoken)とありますが、私はオーラル(oral)な言葉に強く惹かれます。

<声>、<自ら発する言葉>には力があります。<声>というものが<文化>の原点かと思います。「古事記」の成立過程がそうですね。稗田阿礼が誦習した口承の歴史物語を太安万侶が筆録し、それが後の世に伝えられた。今、家では10歳、5歳、2歳の男児がわいわいやっていますが、この子たちの発達を見ていても、自分から言う(能動的な主体として声や言葉を発する)ということが、自ら周囲を(大げさに言えば世界を)変えていくとわかってやっていますね。そういう発露によって前のめりに言葉を獲得していく、毎日、見ていて面白いです。

「百蝶図」円山応挙

これから企画展「食草園が誘う昆虫と植物のかけひきの妙」のお話に入りますが、話の枕に一枚の絵を、これは江戸時代の円山応挙の「百蝶図」です。以前、生命誌の本でも紹介したものですが、応挙は「写生」、「生き写す」ということを追求した絵師で、本当に自然をよく観察していることがわかります。ここに描かれた蝶はもちろん、植物も、蝶と縁の深い食草がたくさん描かれています。

「応挙は亀岡の人ですよ」と声がかかりました。「ええっ?」「知らなかったのですか?ええっ?」

※続いて、謡曲「胡蝶」の紹介とその一部の謡と小鼓の実演。

※「胡蝶」は、旅僧の前に現れた蝶の霊魂が梅の花に縁のないことを嘆き、歌い舞う曲。

※「胡蝶」演奏に続き、食草園の植物と、蝶の動画を見ながら、蝶と食草の縁の話し。

食草園の吸蜜植物はランタナやアザミが蝶に人気です。食草は、どれも皆さんよくご存知の植物です。ススキはセセリチョウ、萩やネムノキはキチョウ、シロツメクサやレンゲはモンキチョウ、スミレ、ギシギシ、カタバミ、カラムシ他にも、皆、蝶にとっては大事な食草です。

季刊「生命誌」105号の表紙は、食草園で卵を産むジャコウアゲハ、葉はウマノスズクサです。106号の表紙は、チョウと食草のネットワーク図。インターネットで公開しています。チョウと食草の関係を調べることができますよ。チョウと食草という関係の他にも、昆虫は様々な形で植物を利用します。そして植物も黙って利用されているわけでなく、色や匂いで昆虫を誘い利用しています。企画展「食草園が誘う昆虫と植物のかけひきの妙」は、館の研究と最近の季刊誌で取材した昆虫と植物の関わりを探る研究を集めて、両者の果てしないせめぎ合いの世界を描きます。今日のお話しの色々なトピックスは、HPでも読める以下の季刊誌に詳細があります。話を思い出しながら、更に深く記事を楽しんでいただけましたら幸いです。そして研究館にも、是非是非ご来館ください。7月から日曜日も開館しています。

※当日ご紹介した資料です(HPでご覧になれます)。

●季刊生命誌105号:https://www.brh.co.jp/publication/journal/105/

・「自然と人工の調和する場」大倉源次郎(能楽囃子方大倉流16世宗家)×中村桂子

・「昼と夜を分けた鱗翅目昆虫の進化」河原章人(フロリダ大学)

・「植物の遺伝子を巧みに操る虫こぶ形成のしくみ」平野朋子(京都府立大学)

●季刊生命誌106号:https://www.brh.co.jp/publication/journal/106/

・「風土に染まる蟲と言葉」奥本大三郎(ファーブル昆虫館)×永田和宏

・「ナミアゲハの生活を支える視覚情報」木下充代(総合研究大学院大学)

・「植物の匂いが結ぶ植食者と寄生バチの関係」塩尻かおり(龍谷大学農学部)

●企画展「食草園が誘う昆虫と植物のかけひきの妙」7/3 〜 11/28

グローバルセッション開始

児嶋:最近、テレビの番組で、鳥たちがそれぞれの鳴き方をしながら、緊急事態の場合は、相互に理解できるようで、四十雀が「はげたかが飛んで来るぞ。あぶない」と叫ぶと、鳩も理解して逃げるとか。それは、互いの鳥の中の多言語を理解できるということを実験で証明したという内容でした。

村田:鳥のコミュニケーションもすごいですね。同種族の個体間で伝達し合うサインを、横から見ている異種にとってもメリットがあればうまく利用する。生きていくためには何でも使っちゃうわけですね。鳥の脳を調べると、私たち哺乳類の脳のような層構造とは違う形で高度な機能分担がされているという研究もありました。

亀田:鳥は、人間を覚えてしまうようで、よく襲われる人は、そのカラスに覚えられてしまっているようです。そして雨の降る日にカラスが電線に並んでいるが、感電はしないようです。マンションの桜の木にカラスが巣を作ったので、市の人に取ってくださいとお願いしたけれど、自然状態の場合は取れないと返答がありました。

M・F:揚羽蝶の生態から、世界をどう見ているのかと興味があります。植物のにおいの意味は?

亀田:科学番組で見ましたが、ウニは海の生きものだけれども、好物はキャベツとか。

村田:それは知りませんでした。ウニとキャベツというのは、自然界では出会わない組み合わせですが、その機会を人間が作ったらたまたま利用できた。そうした例は他にもありますね。因みにキャベツを私たちが積極的に食用とするようになったのは、日本では近代以降で、江戸時代には観賞用だったようですね。

植物の匂いということでは、今日、ご紹介した塩尻先生の研究で、葉をかじられたキャベツが、かじった芋虫の天敵のハチを呼ぶ時に、芋虫の種によってかじり方が違うんだそうで、キャベツはかじられ方の違いに応じて、発する匂い(化合物のブレンド)を変えて、芋虫の種に応じた天敵の蜂を呼ぶんだそうです。驚きですよね。

N・K: 人間にもいろいろな性格の人がいますが、鳥やちょうちょもいろいろな性格があるんどえはないでしょうか?40年間亀岡に住んでいますが、自宅には毎年、ツバメが巣を作りにきます。それを見ていると、真面目で勤勉なツバメと不真面目なのがいるのではと思えます。子どもが卵からかえると、ツバメは、年に2回子育てをするのですが、餌を親が持ってきてやらなければなりません。ここ10年くらい、ふまじめなつがいが続いて自宅に来ていて、子どもが巣から落ちたり、もう一羽が来てけんかしたり、それを見ていると、ツバメもいろいろな個体がいるのだと感じました。

大槻:科学が最近は発達しすぎていますが、生命体はこれから、どこへ進んでいくのでしょうか?

村田:例えば、ある生きものが持つ遺伝情報に人間が手を加えて、その生きものが本来持っていなかった特徴を持たせる、というようなことをやっているわけです。植物に対して、動物に対して、さらにはヒトに対しても技術的にはそれができる。遺伝情報が変化するということ自体は、自然な現象です。しかし、遺伝情報に対する人間の目的的操作がどのような影響を及ぼすのか。いずれも生態系への影響、倫理面などの十分な検討が必要だとされています。

  ウイルスは、寄生した他の生物の細胞の働きを利用して増殖します。自己複製できないので「生きもの」とは言えないとされますが、地球上で多様な生物と関係し共存している。38億年前の生命誕生からずっとウイルスも続いているわけです。ウイルスの遺伝情報は少なく、増殖も速いので、変異型もいろいろ出てきます。ウイルスは寄生する、宿主あっての寄生者なので、あんまり強くなって宿主が滅んでしまってはウイルスも困る。ここにも今日のテーマの「かけひき」があるわけです。

児嶋:朝に歩きながら、空を見上げて、「鳥はなぜとべるのだろうか」などと考えています。

セッション終了

児嶋:これでセッションがおわりというわけではなく、感想を児嶋までお送りください。レポートをもちろん書きますし、ゲストの村田さんにもお送りします。できるだけ忘れないうちに、1週間後の6月20日ころまでにお願いします。

感想集

K・Yさん:「多彩な顔を(息子さん達の父親としての様子も・・)見せて頂き、楽しく受講させて頂きました。小鼓と張りのある通る声に圧倒されました。そしてお話は面白く、あっと言う間に1時間半は過ぎてしまいました。蝶々は、家の小さな庭に良く来ていました。ヒラヒラと自由に飛び回っているだけ、と見ていた蝶々の動きの一つひとつに意味があり、今まで知らなかった豊かな世界に繋がっているのだと感動しました。また、憧れの絵師、円山応挙の「百蝶図」の説明も納得がいき、図を静かにじっくりと観たいと思っています。村田さんが、応挙が亀岡の出である事を知られた時の驚きを、嬉しい思いで見ていました。今後機会をみつけて「JT生命誌研究館」を訪れたくなり、また頂いた本「生命誌の思い」をチョイスしながら、読んでいこうと思っています。「虫こぶ」について興味がわき、もう少し知りたい思いもありましたが、とても良い勉強が出来たと嬉しく思っています。ありがとうございました。」

S・Oさん:「生命を物語るとは、壮大である。というのが正直な感想でした。ミクロ(蝶や蜂などの世界)とマクロ(脈々と受け継がれてきた、生き物それぞれ)の両方に思いをはせることだと。人間の見えている世界など高々知れていて、蝶はどう世界を見ているか、そこに意識を向けるだけでも、命そのものに対して愛らしく思えてきます。まだまだ科学で説明がつかないことが多々あるから、世界は面白いと言える。今回も沢山の示唆を頂きました。また、生命誌の思い、なる書は抜群です。面白すぎます。中田力先生、大橋力先生、そして敬愛する松岡正剛さんもあって、ドキドキしながら読んでおります。本当にありがとうございました。」

I・Hさん:「蝶の研究をされている村田さんのところで、以前に教えていただいた「蝶は前足で葉の味見をして、卵を産み付けるべき木を選んでいる」というのに驚きました。

今回は、今まで気にしていなかった「蝶と蛾の違い」に納得しました。蝶は昼間の虫で、蛾は夜の虫であることや、蛾はコウモリのように超音波が出せると言うことに驚きました。

また、虫こぶのことも知りませんでした。そのようなこぶは見たことはありましたが、単なる病気だと思っていました。ほかの生物と共生して生きる力を持つ昆虫は、なかなかしたたかですね。人間も同じように人や自然と共生をしなければうまく生きていけないのだと思いました。」

T・Mさん:「6月のGSでは、素敵な時間をありがとうございました。保津浜TERRACEの松井です。元々、命や、世界全体の関係性などに、日常の環境として興味があります。個々のテーマを、科学として掘り下げる能力は無いのですが、多くの命が集まる環境が、自分の命、人生とどのようにつながっているのか?という肌感覚の興味です。飽き性の私が、35年ほど建築を続けてこれているのも、人の日常の生活の場としての空間に、様々な時空をつなげていく力のようなものを感じるからかも知れません。自然と、関係性、多様性へと興味が向かいます。様々なことを、単純化してわかりやすくすることに違和感があり複雑な状態の中に、何かを発見することに喜びを感じたりもします。ただ、よく理解していただきにくいのが難点です。幼少の頃、亀岡の原っぱの茂みの中で、一日中、虫を追いかけていました。一見、均質で一つながりに見える場所に、様々な居場所が多様な生き物と共にあるという感覚が、肌に合います。お越しいただいた、保津浜TERRACEは、初めて自分達のために作った空間であり、そのあたりが、かなり純粋に出ているのではと思っています。

自然の多様なフィールドの中での、昆虫と植物の関係性、騙し合い。それらが織り込まれた生態系の豊饒さにつながる具体のイメージに、奥深さを感じました。また、いただいた「生命誌の想い」拝読致しました。生命とは何か? なぜ生命というものは生まれたのか? その発生に必要性はあったのか?現在の私たちが生きる世界・宇宙が、現象として、どのような状態にあるか?ということは、様々な観察や研究からなんとなくはわかる気はします。でも、なぜそのようなことになったのか?なっているのか?という根本の疑問の答えには長年、出会っていません。ひょっとしたら、この本のどこかに・・一気に読ませていただきました。一番、興味の感覚に近かったのは、佐藤勝彦先生との対話でしょうか。小さなものが一気に広がる時のゆらぎが、様々な多様な生命を生み出し続ける源。でも、それなら、それらを包み込み込む宇宙は、なぜ・・と考えてしまう自分がいます。  そこに特別な意味は無く、多くの多様な状況の中のひとつ。そこに意味を求めるのは、ナンセンスで不可能。不思議としてあるべきだ。という、いつもの場所に戻った感じでもあります。きっと、目の前の日常に起こることと対峙していくしかない。

テラスの2階から亀岡の山河をながめ、そこに村田先生の鼓の音を響かせながら・・」

2021年5月22日(土)第340回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2021年5月22日(土)10:30~12:30
場所:ゲストハウス藤原
ゲストスピーカー:北神圭朗さん
コーディネーター:藤田宗次さん
参加者:11名

今回のタイトル:「多文化共生社会時代の子育てとは」

藤田さんのコーディネートで参加者それぞれの自己紹介から始まりました。

藤田(C):ゲストの紹介を私からさせていただくと、9ヶ月でアメリカにご家族と渡り、朝日学園という日本語学校で学ばれたのですね。ロサンジェルスにもいくつかあり、サンタモニカにも。

北神:よくご存じですね。

藤田:調べました。そして、大学は京都大学を出られ、本省に入り、2002年に退官され、政治家になられたのですね。では、みなさんのご紹介をどうぞ。

ET: GSに来始めてから7年目になります。コロナであまり人と話していなかったので、今日は幸せです。

TY:ひまわり教室で指導をしています。子どもたちといっしょに活動するのが楽しみです。

KY:ひまわり馬路教室で読み聞かせを担当しています。GSは何回目かです。今日は北神さんの話はおもしろいよと児嶋さんに聞いて楽しみにして来ました。

RS:ひまわり教室の指導をしています。今はお母さんが中国人でお父さんは日本人の子どもさんの学習支援をしています。両方の文化をどう思っているのかとか、自分は何者と思っているのかなど気になります。それと、学習の伸びが心配で、北神さんのお話しは2回目になりますが、同じような体験をされたので、お話しが楽しみで来ました。

藤田:並河に住んでいます。東映映画撮影所や映画村で仕事をしていました。仕事をしているときには、英語が話せたので、アメリカのテーマパークなどでどのようなイベントが人気があるかなど調査にも行きました。アメリカでバスに乗ると「荷物をおいて行ってはだめ」とか、チップ社会であるとか、いろいろなちがう文化があると言うことに気づきました。このGlobal Sessionは、もっと語学をやりたいと思い、最初から参加しています。

KA:私は八幡市から来ています。日本語ボランティアをしていて、八幡市には学習者が100名ほどいて、指導者は、40名ほどいます。5つの教室がありますが、今はコロナ禍で、開放時間が半分くらいになっていて、7月には日本語能力試験があるので、大丈夫かなと心配です。宣言が解除になれば、6月にできれば何とか間に合うかなとも思っていますが。GSには、ガレリアで有った時に一度参加したことがあります。児嶋さんとは、川柳と短歌の友達です。(朝日新聞京都版の投稿友達)

HK :私は大津から来ています。Global Sessionは、最近は毎月参加しています。仕事は、ツアーガイドをしています。外国へ連れていったり、ニュージーランドやアメリカからの高校生の旅行の受け入れなどもしています。日米の高校生を見ていると、考え方や習慣のちがいに気づきます。アメリカの高校生は、自主・独立性があり、はっきりしています。また、大統領が替わると自分達の生活も変わると知っているようです。日本の学生はあまり、政治に関心がないように見えます。

YI:亀岡のアミティとマツモト中央店の間にあるカフェタイムというコーヒー豆店をしています。仕事でコーヒー生産国に行くこともよくあります。京都にいるとあまり近くの人とつながりがなくてもやっていける感じですが、亀岡にいると、内輪のつながりを持たなくてはいけないような雰囲気がありますね。中米などは、銃規制もゆるい国もあり、なかなか危ないこともありますが、私は、どこの人も根本は同じと思っています。日本の女性評論家が最近、「日本人がそんなひどいことをするわけありません」などと言っていましたが、どうしてそんなことを言えるのかと不思議に思います。

グローバルセッション開始

北神:GSは、二回目です。「アラビアのローレンス」という映画を見たことはありますか?第一次世界大戦で英米がトルコに入り込んで、ローレンスも知恵の7柱というのを述べ、「2つの文化、2つの言語を通して生きる人間は気が狂ってしまう」と言っています。そのような2つの文化を見てみると、日本で当たり前と思うことが、アメリカでは、失礼なことと思われたり、全く反対な事になることもあります。糸井さんが言われたように、文化をはぎとれば、共通することも多いと思いますが。でも普通は過去からの文化の蓄積が身についていて、全くちがう文化に入ると自分の軸というものを持たなければ根無し草になると思います。

京都にいても、松尾地域と樫原地域は仲が悪いとか、せまく考えるとそうなってしまいます。自分の軸を持ちながら、排他的にならずに心の広さを合わせて持たなければ外国には住めないと思います。

父親は、私が9ヶ月の時にアメリカで事業を立ち上げました。昭和42年頃ですから、まだ第2次大戦後の人種差別も経験していたと思います。螺子やボルト、ナットなどを日本から輸入し、問屋に売るというような仕事をしていました。これは、ユダヤ人の業界があり、拳銃を向けられたこともあるようです。その父からは、「おまえは日本人やで。移民ではないし、いづれ、日本に帰る」と言われて育ちました。

アメリカに住む家族にもいろいろな家族があり、家でも英語を話すよう言っている人たちも、もちろんいました。アメリカになじんでほしいと うちの家では、家での言語は日本語を話すようスパルタで指導され、英語を話すとげんこつが飛んで来るくらいでした。でも、兄弟とは、英語で話していました。もし、朝日学園の補習校に行っていなかったら、日本の大学には行けなかったと思います。クリスマスよりも正月が重視され、母は他の家族のようにクリスマスをやりたいと言っていましたが、できず、簡単なプレゼントの交換だけがクリスマスの行事でした。アメリカではクリスマスが、家族中心の大きな行事でしたが。うちでは、その代わりに正月が重視され、母におせち料理作を父は強制していました。アメリカでは、当時日系人も4世くらいがいましたが、文化的には、日本でもアメリカでもない中途半端に見えることもありました。妹は、ひとりで高校生から日本に帰国し、ICUに行きました。

アメリカ人にとっては半分異邦人

自分は、9ヶ月からアメリカにいるので、アメリカ人と思っていました。最初はメキシカン街に住み、次は、日系人や中国系の多いモントレーパークに移り、最後は白人が多い、ブエナパークに住んでいました。 学校時代は友達とのつながりが中心の生活でした。学校では、アメリカ国旗に忠誠心を誓い、教科書の中でも、アメリカはすばらしい、自由の国と教わっていました。遊びに来たアメリカ人の友人達は、「日本人なのに、冷蔵庫がある」などと驚いたりしていました。基本的に他の国には、無知識で、アメリカは巨大な島かという感じでした。正月には、正座して今年の抱負を言えと言われる家に育った私には、何かが奇異に見え、小さいころから葛藤がありました。

アメリカの高校生は政治意識が高く、当時はレーガン大統領の時代で、青年部(レーガンユース)などが出来てきた時代でした。そのため、自分はアメリカ魂か日本魂かと常につきつけられているようで、自分自身のアイデンティが確立しにくい感じがしていて、「おれはアメリカ人か?」と悩んでいました。

差別意識ももちろんあり、親しくしていた友人が、「日本人のせいで、俺の親父が仕事を無くした」と言うのです。それは、日本がコピーしてクライスラーの製品が売れなくなり、会社から人員整理をされた」と私に向けて言うのです。

家族の基盤が大切と思い始めたのはそのころで、ようやく高校生になって日本人学校が楽しくなって来ました。母国に戻って生活してみたいと思うようになったのもその頃です。軸がないと、アメリカ人にも、日本人にもなれないと思い始めました。

いろいろな人種と付き合っていくと、「宗教は?」とか、いろいろ問われます。日本の文化の「おもてなし」などは、アメリカ人には、「めんどうくさい」とか、「放っておいてくれ」とか思う人も多く、ちがいがあります。

日本語の勉強

週に1回の補習校通いでは、まだまだ十分ではなく、1年間浪人生活もしました。その間、父からは、「おまえの力は、中学校程度だ」とも言われ、どのように勉強するかいろいろ考えて、1冊の本を徹底的に読み込み、それを書き写すということをやりました。

その中のひとつの語彙がわからなければ、辞書で調べ、一日10時間から、12時間ほど集中して勉強をしました。漢和辞典の「てへん」は、辞書の394ページというくらい、覚え込んでやっていました。読み書きはだんだんできるようになったのですが、自分の話し方が固く、話しているのに、いろいろな難しい語彙も出て来て、「文語的だ」とさえ、言われました。政治家の前原誠司さんは、「君は当時、自分のことを拙者はなんて言っていたよ。」などと冗談で言うくらいです。

日本語の難しさは語彙が多いからとよく言われますが、実は英語も語彙はとても多いのです。私は、日本語の難しさは、以心伝心に頼る話し方をするからだと思います。もともと日本語は、同じ境遇に生まれ、育った人間の集まりというのが基本なのですが、アメリカは、ちがうのが当たり前で、まず、基本を出さなければ理解されないというのが基本の考え方です。以上が今回の私の意見です。

全体セッション開始

藤田(コーディネーター):剣道も3段とお聞きしかしたが、アメリカにいたときからやっていたのですか?

北神:いいえ、日本に来てから4年間で取りました。アメリカでは身体が大きいこともあり、アメフトに誘われ、やっていました。 日本語の学習を集中してやったおかげで、「努力とかこういうことか」と理解しました。 何かを身につける努力の仕方を学んだと思います。

藤田:野田内閣の時に、野田さんは、国会議員の数を減らすなら衆議院を解散しても良いといい、解散しましたが、当時北神さんも仕事をされていましたね。

北神:当時私は、首相補佐官をしていました。

藤田:野田さんは人がいいのか、解散しても、安倍首相は約束を守りませんでしたね。

YI:アメリカ人は、差別についてまじめに取り組んでいる人もいますね。差別的なことばを最近は言い換えています。黒人をblackとは、言わずに「アフリカンアメリカン」と言ったり、メーリークリスマスと言わずに、ユダヤ人も多いのでキリスト教のクリスマスとは言わずに、「Happy Holiday」と言い換えたり。「チェアマン」を「チェアパーソン」になど。

日本の政治家は、今でも顔や身体の形に言及したり平気で言っていますが。でも、政治的に正しくてもいきすぎると話しずらくもなりますが。トランプ大統領になって、差別的な言動を連発し、それによって反動的な人々は乗っていくのがストレス解消しているようにも見えます。

北神:黒人は奴隷でアメリカ大陸に連れてこられたと言う歴史があり、そうでなかったアジア系の人々を黒人は憎いと思っているような。

YI:コーヒーの買い付けでアフリカに行くと、荷物係でもアジア系に対してえらそうな態度を取ることがあります。もともと、外国から来る人に厳しい政策をとっていた歴史があるからでしょうか。

KA:トランプになびくように、独裁政権が増えて来ました。バイデンさんが勝ってブレーキがかかるかと思いますが、シリアとイスラエルのように闘いがひどくなってきたりもしています。世界の流れはどうなるのでしょうか?

北神:独裁国家にも2つの種類があると思います。一つは、中国やロシアのように、自分の任期を長くしてでも独裁を保つ国家ともう一つは、トランプのように民主主義国家を自称しながら、独裁体制を選ぶような国家です。格差が広がると、ガツーンと強制的にまとめてほしいという願う人が増えて来ます。日本でも小泉さんや安倍政権のころから出て来ました。今は、コロナでますます格差が広がっています。ギリシャのアリストテレスは、「格差が広がると乱れる」と言い当てています。中国の存在も無視できません。独裁者の方がコロナを退治してくれるというような思い込みを持たせる傾向があります。経済状態も、数年でアメリカを追い抜くでしょう。こうなると、民主主義国家と言われる所でも、「独裁政権の方がいいのではないか?」と思う人が増えてきています。

児嶋:ひまわり教室に話を戻しますと、言語の習得についての課題もたくさんありますが、保護者の方もいろいろな人がいて課題もたくさんあります。北神さんは英語社会に生きてきて、日本語を学ぶこともやって来られましたね。

北神:外国にいて親の母国語を学ぶには、親の理解がないと難しいです。私も小学生から高校まで土曜日に補習校に通いましたが、自宅からバスに揺られて朝早くから通い、8:30から5:00までも土曜日の遊びたい盛りに行くわけで、いやでたまらなかったのですが、親がどうしても行けというので、通っていたのですが。

TY:苦痛とかなかったのでしょうか?ひまわり教室でも、子どもが来ないというと親もその通りにして来なくなる子どもたちもいます。

北神:子ども達にも2つのタイプがありました。一つは、ずっとアメリカにいる子どもたちと、商社勤務の親といっしょに来て、数年で日本に帰国することが明白な子どもたちといます。 私は、帰るつもりはない方だったのですが、補習校へ行くのがいやでいやで、その苦痛でストレスになり知らない間に毛をを抜いていたようです。大きな  はげのようなものができていました。でも高校に入学するまでは、日本に帰るなどとは全く思っていませんでした。日本の昭和40年代の文化をアメリカに移していたので、実際の日本とはずれていたはずです。保護者の授業参観で母親が補習校に来ると、「もうここへ来るのはやめたらどうですか?」と先生に言われていたようです。 そのようにして小学1年から高校生まで行っていました。今は、親が、子どもに「こうしなさい」などとは言わないと思いますが。

TY:でも親の姿勢が大切ですね。3年生や4年生の子が文法につまずくと、応用問題の理解はなかなか難しいですから。家庭の中でどのように勉強に目を迎えるかも大切です。

児嶋:ひまわり教室でも子どもが母親が通訳のようにしていて、その母親が来なければ来るのがいやと言ったら、そのまま受け入れるケースがありました。

藤田:トランプさんは、コロナがアメリカで広まった時に、「予算として1兆円ほどつけるから薬を開発せよ」とすぐ言いました。Warp Speed(ワープスピード:急速)でという単語も言っていました。日本の安倍さんは、「薬は打ち終わるよ」と言いながら、予算化もせずに、Go to travelなどもやり、日本の政治家の判断はまちがっているのではないかと思います。学術会議などの問題もありましたし。

北神:アメリカが1兆円と言っていた頃、100億円ほどを考えていたと思います。それに、日頃からアメリカはワクチンにお金を入れることを考えていて、バイオテクノロジーを他の国に売ろうとしていました。そのために、ワクチンも早くに承認ができたのだと思います。2001年にサーズがはやった時にコラナのような新種のウイルスが発生する可能性は実は、想定されていたと思います。

藤田:早く政治家は認識してほしいです。

北神:安倍さんも管さんも、そんなにコロナはたいしたことはないだろう。風邪と同じでインフルエンザは毎年もっと死んでいるなど最初に言っていましたね。それより経済を回そうとGo To イベントなどもやっていたと思います。オリンピックがあっても。

藤田:最近はよくわからないことも多く、テレビを見ているだけで腹が立つことが多いです。

北神:コロナ対策をしながら経済を回そうとしたスエーデンは失敗して方向転換をしましたね。コロナを撲滅したら経済は伸びるとようやく気づいて来ました。英国は訓練を受ければ注射ができる制度を入れて、ワクチン接種を進めました。危機感がちがうと思います。

藤田:今は経済も後退していますね。ワクチン製造にもお金を出してこなかったし。

YI:ひとりひとりの命を軽く見ていると思います。オリンピックをこの状況の日本で開催するとまだ言っていますね。

北神:先ほどワープスピード(超高速)という言葉が出てきましたが、日本は準備不足が見えますね。注射をたくさんするにも、医師法を改正してもっと注射を打てる人を多くしなければならないのですが。ベッド数では、実は日本は世界一です。法律が危機の時を想定していないという状況があります。

児嶋:ドイツのフランクフルトにいる友人から聞いていますが、戒厳令下といっても状況は全くちがいます。これが出されているときには、2人以上で出かけても逮捕される時期もありましたね。

北神:「これくらいしてもたいしたことないだろう」と思うことは人災でもありますね。

藤田:これで、12時畔近くにもなりましたので、今日はこれくらいで終わりです。ありがとうございました。

児嶋:感想や質問があれば、送ってください。レポートを仕上げ、北神さんにもお送りしますのでよろしくお願いします。

感想集

TYさん:北神圭朗さんのお話を初めて聞かせて頂きました。これまで、政治的な関わりは苦手でした。でも児嶋さんからお聞きしていた通り、分かりやすく、面白く、興味深かく、まるで映像を観ているかの様でした。幅広い経験をされているので、説得力と深みを感じました。政治に対して「信頼を軸」とした政治家を、北神圭朗さんに見出せた気持ちです。貴重な時間を与えて下さり、ありがとうございました。

TYさん:ご家族でアメリカに移住し、父親の仕事の関係で何度も引っ越しされ、18年間スゴされたとお聞きしました。アメリカでの生活はたいへんだったろうと実感しました。その体験は、現在、ひまわり教室に関わる子ども達の生活環境と同じところもあり、子ども達が軽々している差別、偏見、いじめ等を直接肌で受け止められた方のお話しが聞けてとても良かったです。特に、父親の「日本人としての誇りや考え方を持て」と言われたことが、北神さん自身を強く、たくましくさせたのでしょうね。(忍耐力と努力)

やはり、子ども達は遅くからまた勉強に来るのがいやそうですが、いやいやでも、ひまわり教室に通うことの大切さを実感しました。北神さんのご本人の努力、考え方や日本人魂に感じられましたが。

現在のひまわり教室の子どもたちの日本語に対する難しさは同感します。もっともっと教えて行きたいです。教室の保護者の方にも聞いてほしいです。

また、政治、経済の話でも盛り上がっていました。米国、中国などとの日本の違いや、各国大統領の個性なども。コロナ対策に対する各国の取り組み方のちがいも出ていました。さまざまな意見交換の場なので、もっと時間がほしかったです。

北神さんのような外国と対峙できる方が政治家としていてほしいです。活躍されることをのぞみます。本日はありがとうございました。(北神さんの忍耐力、努力、かざらないお話しに拍手!)

藤田:国際的知識のある方、しかも政治もわかる方のSession hは最高です。本当に短い時間でしたが楽しかったです。もう少しお時間があればいいなぁと思います。感じ入ったのは、1冊の本を1日10~12時間かけて読みこみ、更には書き写した点、並大抵の努力ではできない。「努力は実を結び、愛に満ちた」社会になってほしいと祈ります。次にお会いできる日を楽しみにしております。 

2021年4月18日(土)第339回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2021年3月27日(土)10:30~12:30
場所:ガレリア2階大広間
ゲストスピーカー:品田井サフワンさん(サフィさん)・シリア出身・会社員
コーディネーター:四方美智子さん
参加者:13名

 今回のタイトル:APU(立命館アジア太平洋大学)時代からのわたし

参加者自己紹介

四方(コーディネーター)さん:GSの約束ごとは、「1,当てない 2.どこからでも自由にセッションに入ってよい。」です。

サフィさん:まず、簡単な自己紹介をします。私の名前は、品田井サフワン(サフィ)で、シリア北部のアレッポの出身です。1978年7月24日生まれです。今日のタイトルに書いたAPUには、2001年4月に入学し、2005年3月に卒業しました。趣味は空手(沖縄剛柔流空手道)です。そのほかに、言語を学ぶことが好きで、アラビア語は母語ですが、英語、日本語、スペイン語(大学で)、ドイツ語とフランス語も少し。それに大分弁を話します。家族は妻と子ども2人です。

四方(C)さん:教員を退職後も同じ仕事をしていましたが、この春ですべてをやめました。フリータイムはあちこち行きたいと思っていたのですが、今はどこにも行けないのです。

K・Iさん:今日もお会いできて楽しいです。今回もいろいろ教えてほしいです。カラオケのコーディネーターをしていましたが、なかなかできません。実は私も立命館大卒です。

サフィ:先輩ですね。

H・Kさん:ヒロと呼んでください。ツアーコンダクターをしていますが、今は難しいです。琵琶湖畔の大津市に住んでいます。外国人も今は来ないので、フラストレーションが溜まっています。でも今年は多分まだ難しいと思います。オリンピックも難しいと思うし、来年の春以降は良くなるかな。

四方(C)さん:英語を使う機会もないですしね。

M・Fさん:亀岡在住です。映画会社に勤めていましたが、今も、NPO法人の京都映画クラブを作り、小学生の映画作りをしています。2.3人のスタッフ(カメラマン・ディレクター・レコーディングなど)と共に、短編映画を作っています。(京都市と草津市で)別のプログラムもあるので、月から金まで10時から4時までの仕事です。

H・Tさん:絵本を作っています。ひまわり教室で滑川さんといっしょに絵本作りをしていて、サフィさんにも小さいころのお話しを聞き、絵本を作っています。息子も立命館を卒業し。今は大分で竹の専門の学校に行っています。別府にいます。

N・Kさん:小学校教員を長くしたあと、ひまわり教室にお世話になり、行けないこともありましたが、これからも続けたいです。生け花も好きですし、外国のことも日本のことももっと知りたいと思っています。

K・Yさん:ひまわり教室で読み聞かせを担当して5年目になります。かみしばいや絵本をたくさん読んで来て、新しい本が入るとうれしいです。その他に視覚障害を持つ人のための音訳の仕事もしています。それと、英語も勉強したくなり、始めました。

E・Nさん:京都市内に住んでいます。中矢田教室のみなさんと絵本作りをしていますが、昨年は忙しくなりました。京都女子大で教えています。

Y・Nさん:亀岡で生まれ育ちました。でも亀岡についてでも知らないことも多いなあと思っています。先ほどの方の京都女子大が母校ですが、当時は外国との関わりのある活動もしていました。小学校の教員を35年して退職しましたが、その後もひまわり教室や障害者施設などでボランティアをしています。趣味は、ピアノ、お茶、生け花などいろいろありますが、今一番はまっているのは、パッチワークです。

M・Yさん:ちょっと緊張しています。60才まで中学校の教員をしていました。水墨画やスポーツが趣味です。ひまわり教室では、サフィさんの息子さんの大夢(たいむ)君が担当です。別名ちょろ君です。頭がいい子で新しいことにも挑戦して元気をもらっています。お父さんのサフィさんの話は2回目ですが、今日はちょろ君に会えず、残念です。

児嶋:このGlobal Sessionは、私が勤務していた亀岡市交流活動センターで1999年に開始し、毎月1回の開催をして来ました。今回は339回目になり、20年を超えて続いていることをあらためて思います。

R・さん(サフィさんの娘さん):安詳小学校の5年生です。絵をかくことが好きです。今やっていることは、バスケと習字です。

グローバルセッション開始

セッション開始: サフィさんの話から

「Being Global」

 私がAPUに来る前と後を比較すると、まず、国際的になったと言えます。今日はこれから思いつきで話すので、いつでも質問などで入ってきてください。立命館大学のAPU(Asia Pacific University)と言う立命館アジア太平洋大学とはどんな大学か?

Why APU?

 九州の大分県の別府にあり、2000年の創立で、私は、2001年に入学した第2期生です。 私は、シリア出身ですが、ここでいろいろな国の人と話したいと思って入りました。

この大学の目的は、アジア・太平洋地域を発展させるための人材作りを目標とし、「自由」と「平和」を基本としています。

 私がいた当時のシリアは、外からの意見を聞ける機会があまりなく、政府がまちがった事を言ったとしても、比較して判断するという事ができない状況でした。

 APUでは、90カ国以上の国から学生が来ていて、全部英語での授業があり、意見を自由に言える場がありました。大学では、議論するスキルを作る事が目標とされ、どういうふうに説明したら、理解してもらえるか、相手の意見も認めながらですが。

本日のゲストスピーカー サフィさん

四方(C)さん:日本の教科書にも議論をしようとする学習単元があるのですが、日本の教育では、なかなか難しいですね。賛成意見と反対意見を聞き、聞き手に判断してもらうような感じで。

サフィさん:日本語の授業もありましたが、思っていることを書くことや、単語がわからなくてもジェスチャーで議論をすることもありました。「まちがったらどうしよう」などと思う気持ちがだんだん少なくなり、これもAPUのおかげだろうと思っています。

四方(C)さん:どうしてAPUに?

サフィさん:なんでAPUに来たかですが、実はAPUを知ったのは全く偶然でした。

 高校生だった17才のころ、「留学したい」と思うようになりました。父母は反対でしたが、ひそかに思い続けていました。英語が使える大学がいいと、イギリス・アメリカ・オーストラリアなどの大学を見ていたのですが、学費が高く、無理だなと思っていました。いろんな大学に手紙を送り、案内状を集めていました。日本の大阪大学と東京大学にも送りましたが、日本語のパンフレットを送ってきただけでした。そのままシリアのアレッポ大学に入学し、その中の日本人の友人がAPUの案内状(英語ベースと日本語ベースとの2コースがある)を見せてくれました。ここに行くといろいろな国の人に会えることもわかりました。とてもこの大学は親切で、説明も何度もあり、一度は直接大学から電話ももらいました。留学生は試験というより、日本語で作文を書くことだけ要求され、JICAから来ていた日本人の友人が英会話をしながら、手伝ってくれました。将来、何をしたいかを書けと言われ、「母国と日本との架け橋になりたい」とたっぷり書いたら通りました。

四方(C)さん:当時は日本をどんな国だと思っていたのですか?

サフィさん:電化製品の優れた国だと思っていました。サンヨーの洗濯機とか、マツダの車とかたくさんありました。

What is my input at APU?

22,23才のころだったので、なんでも受け入れて新しいことに挑戦したいと思っていました。はじめての外国暮らしで家族とも離れ、アラビア語以外の暮らしも始めてでした。ある程度授業を英語で受けられるようになると、積極的にまちがいを恐れなくなりました。当時のTOEFLは600点くらいで、会話力の部分が少し低いという状況でした。(4年後の卒業時には、TOEFLは975点でした)

 実は、APUにいくことが決まってから、日本語を少し学び始めていました。飛行機で福岡空港に降り立ったとき、飛行機が遅れたためか、私を迎えるために待っていた人がいなかったのです。とにかく別府行きの拘束バスに乗り、駅に着くととにかく大学に行かなければと思ったのですが、だれも近くにいません。そこにひとりのおばちゃんがいて、バスターミナルに連れていってくれて、バスを止め、運賃も支払ってくれました。そしてようやくAPUに着いたのです。

 メディアセンターに行き、家族に連絡もしたのですが、その時もそこにいた人が英語で案内してくれました。

 APUの寮では、キッチンに行くといろいろな国の調味料の匂いがしました。なつかしい匂いもしたので近づくと前日、英語で案内してくれた人で、ヨルダン出身の人で共通言語はアラビア語だとわかりました。

 寮の中では、留学生同士で、いろいろな言語でいろいろな料理をしていました。

 その中で5人くらいのおしゃべりグループができて、毎日いっしょに座り、映画の話や議論もしました。韓国人・香港人・ハワイ(アメリカ)など。ひとつのテーマを取り上げ、いろいろな言語も使いながら話すのです。このような中でことばを頭の中でどのように覚えられるかを考えるようになりました。

 私は、今日本語で話していますが、アラビア語で考え、それを日本語に訳しているのではありません。はじめから日本語で考えています。

 APUでは、学生がやりたいことをやらせてくれました。サポートもあります。1年くらいで別の大学に留学するひともいました。私は、機械に興味があり、APUにロボット作の会の案内状が来たので、申し込むと大学が福岡までの交通費を出してくれたりもしました。サークル活動も始めましたが、最初は、日本に特化したことをやりたいと、茶道・生け花・和太鼓・空手などいろいろです。

 ホームシックにならないために一人にならないようにといろいろやり始めたのです。でも奨学金をもらっているので、成績を落とすことはまずいとサークル活動は空手だけにしぼるようになりましたが。APUでは「天空祭」や週単位のイベントがあり、ベトナムウイークとか、ラテンウイークなどもありました。私は、「空手ポンチ」を作り運営もしました。

卒業式の写真:着物を着ています。

卒業後:What is the Output?

サフィさん : 独立した判断力を持てるようになった。国境で切れない競争力も。

ネイティブに近い英語力(TOEFL975)・

ビジネスができる日本語力+@:この+アルファの意味は、日本のテレビのバラエティ番組をみながら、堅い日本語におわらいの言葉を取り入れようとしました。最初の就職先は富士通でしたが、エレベーターにたくさん乗っていたときに知人と話したわたしの日本語が大分弁だったようで、大爆笑になり、それからいろいろな人が部署に訪ねてきて、たくさん友人ができました。

自発的に行動するようになった:APUに来る前は、だれかに背をおしてもらわないとやらないタイプだったのに、ひとりでもやるという気力がつきました。

全世界に広がる友達マップ:フェイスブックに「I’m in Soul」などと入れると、たちまち、「会おう」とか返ってきます。

Words are still in my mind

 バランス:どこを一番大事にするのか?この間隔が大切と思います。空手もバランスが良くないときれいに見えません。

児嶋:: サフィさんは、最初は富士通に就職したのですが、家族ができて家族との時間をもっと取りたいと別の仕事先を探したら、亀岡にあったので、亀岡に住むようになったのですね。

サフィさん:そうです。機械関係の仕事をしていたので、夜中でも呼び出しがあったり、土日でも仕事に行かなければならなくなったりして、家族との時間がとても取るのが難しくなってきたのです。給料は四分の一減りましたが、今はこの方が幸せです。

 信頼は、リーダーシップの秘訣:信頼をすることで着いてきてくれるひとが多いです。

 WE CAN DO IT:これは、APUの入学式の終わりに聞いた言葉で、卒業式には卒業生がみな、これを叫びながら、ぼうしを投げるのです。みんな自信を持てて。

 国境は頭の中だけ:国境は紙の上だけの話です。自分へのメッセージでもあり、あなたはこの世界の一員であり、世界を変える力がある。その力を使うか使わないかはあなた次第であるという意味です。

四方(C)さん:もし、若ければAPUに行きたいです。

児嶋:行けますよ。私も停年退職後、60才で立命館の大学院に入りましたよ。

サフィさん:ボーダーは自分で作っているのでしょうね。APUもいろいろな世代がいますよ。

四方(C)さん:別府温泉は行きましたか?

サフィさん:コミュニティ温泉があり、無料なんです。

四方(C)さん:ここにも何カ国語かを話す人が何人かいます。外国語の2か国語目は楽ですね。

サフィさん:APUでは、最初は英語だけを話していましたが、日本語を学びだしてあまり難しいと思わなかったですね。スペイン語も好きで、母音がはっきりしていて。夢の中で、みんなそれぞれの言語を話しているのに、その下に字幕がついているのを見た覚えがあります。

四方(C)さん:ひまわり教室の先生達も聞いてみたいと思いますが、子どもさんを何語で育てるかに迷いはないのですか?

サフィさん:迷いました。今も迷っています。日本語が普通に話せるようになってほしいのは一番ですが、では、アラビア語や英語はどのようにこの子ども達に教えていくべきか、考えています。家では、アラビア語で聞いたら、アラビア語で返事をするように指導をしています。

四方(C)さん:娘さんや息子さんは、「学習言語」としての日本語が身についてきていたらいいですね。

サフィさん:どの言語を話しているかをいつか自分で区別できるようになってほしいと思っています。

Y・Nさん:質問ですが、空手を選んだ理由をお聞きしたいと思います。日本文化の中のひとつですが、それには、男尊女卑など因習もありますね。

サフィさん:空手の先生はアメリカ人でもっている力を分け与えるという考えで教えてもらいました。

12:30を過ぎました。あとは、各自で質問と言うことで、一応散会しました。

感想集はこのあとに。 

 参加者の皆さんから、終了後の感想をメールで頂き来ました。

K・Iさん

「サフィさんのGSは、2020年6月に続いて2度目ですが、今回も実に興味津々でした。

〇 Being Global 国際人として活きる!そのために

  ①沖縄空手道 同意です。健全な精神は、健全な身体に宿る。

  ②世界で生きられる能力を持つ。知識に裏打ちされた技術を持つ。

  ③言葉のシャワーを浴びる。   debate 

 {いいなー!}当たり前なのですが、堂々と正論をしかもゆっくり丁寧に言われると実にストレートに入ってきます。

思いかえせば、ほぼ50年前に立命館の入学式で、末川学長が言われていました。「コギト エルゴ スン」だったかな??[我思う 故に 我あり」=カントの言

ところが、時は高度成長の真っ只中 さしたる努力もなく職を得、伴侶もしかり。

今になって後悔しています。しまったしまった島倉千代子 こまった困ったこまどり姉妹 なんてね!

そこで サフィさんにお願いです。今度は、GSを小中学生対象に一度お願いいしたいのですが!ぜひよろしくお願いします。」

H・Tさん

 興味深いお話で、時間があっという間でした。誰かに伝えたくなるようなエピソードがたくさんあり、帰って夫に話し、別府に住む息子にメールし、今週実家に行った時には母にも話そうと思っています。サフィーさんのおかげで、シリアに関する本や新聞記事やテレビ番組に興味を持って見るようになりました。ありがとうございました。

E・Nさん

「サフィ―さんのお子さんたちのことばの教育についての質問があったと思います。二人のお子さんにとって親から受け継ぐ言語=アラビア語についての質問でした。これまでは子どもたちのもう一つの言語と文化に関する、このような議論はあまりなかったように思います。日本語と学校での学習のことが主に話されていたと。みなさんが子どもたちと親御さんたちのことを広く深く理解する視点をもつようになったのではないかと大変うれしく思いました。」

N・Kさん

「お話をありがとうございました。まず、流暢な日本語に驚きました。日本語をほとんど知らない状態で来られたとのこと、言葉の習得だけでも、どれほどの頑張りがあったのだろうと思いました。

シリアから世界を視野に情報を集めて大学を選び、奨学金を得て学びの道をつかみとるという逞しさ。大学で世界の国々の人達と知り合い、学び合うことを楽しみかつ吸収する力強さ。国境を越える活動をする自信。素晴らしいなあと思いました。ぽろりともらされた「奨学金を貰うためには頑張らないといけない」という言葉は、一見明るいことばかりに見えるお話の裏にある、人知れぬ頑張りを感じさせるようでした。

新聞などで知るシリアは政情不安定で危険な国というイメージになりがちですが、こんなにしっかりと学び活躍しておられるサフィーさんのお話を聞いて、世界の本当の姿をもっと知りたいと思いました。そして私も、自分なりに日々学び成長する自分でいたいと思いました。

ありがとうございました。」

Y・Nさん

「品田井サフワンさんに「APU時代からのわたし」をテーマに・なぜ、日本に留学されたのか・どんな大学時代を過ごされたのかをお聞きしました。   『あなたはこの世界の一番、あなたはこの世界を変える力がある。この力を使うか、使わないか あなたしだい。』この言葉通り、自力で考え、できるまで追究されてこられた生き方に感動しました。日本文化を追究されてきたことで質問させて頂きましたが、封建制度から成り立ってきた本国においては、日本文化の伝承に底深く残っている主従の考え方の理解を意味していました。私自身、生け花、茶道の世界に10歳ごろから親しんでいました。その中で日本文化の根底に残る流派等の考え方に疑問を感じていました。でも、この考え方を尊重すること・尊敬することなのですね。今でもうまく表現できないことをお許しください。

M・Yさん

WHY APU? 

自国にいたときには、小さな国でまちがえた考えを持っていても、比較する手段がなかった。

 APUでは、*意見が自由に言える。*まちがっていれば直すことができる。

*英語で考える大学を希望した。

 (ここでは、世界の人たちと話ができるのかな?)

まとめ 

シリア独特の社会や家庭で育てられたのでしょう。自分の考えや思いに対して自由がほしかったのではないでしょうか?この条件を満たしている大学がAPUだったのです。

 入学が決まると、新鮮な気持ちで日本語を始め、何事にも興味を持って挑戦したいという気持ちが強かったようです。APUでの青春時代は、他国の人々との出会いを大切にしながら、その中においても日本の文化の中の4つ(空手道・茶道・生け花・和太鼓)をホームシックにかからないために励みました。「この気持ちは母国を離れて生活をした者しかわからないと思います:サフィ」

 学生時代には、日常使っている言葉のみではなく、バラエティ番組に出てくることば等を研究し、卒業後のビジネスができる日本語力を高められました。このようにサフィさんは、色々バランス良く考えやいろいろ体験され、自分の将来への道を切り開いて行かれました。(まさに、生きる力ですよね。すごい!)

 そして、晴れて学位授与式には、和服姿で出席されました。そして、サフィさんは、「国境は頭の中のみで、自発的に行動すれば、大きな国境としての壁はないと思います」とも言われています。

WE CAN DO IT:

 自分でできると信じ、確実に実現されていったのです。尊敬します。

  最後にサフィさんからのメッセージを3つ。

  • あなたは世界の一員である。
  • あなたはこの世界を変える力がある。
  • この力を使うか使わないかはあなた次第だ。

終始、明るい表情で、着飾ることもなく、楽しくお話しをしていただきました。ありがとうございました。

2021年3月27日(土)第338回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2021年3月27日(土)13:30~15:30
場所:ガレリア2階大広間
ゲストスピーカー:崎 ミチ アンさん(同志社女子大学表象文化学部 英語英文学科 教員・カナダ出身)
コーディネーター:四方美智子さん
参加者:13名

 今回のタイトル:「多文化共生社会時代の子育てとは」

This global session will be interactive in that all session attendees will share their thoughts, experiences and opinions about the topic of raising children in a multicultural Japan.

Topics and questions for discussion:

What does “multicultural co-existence” mean in the Japanese social context?

Multicultural co-existence in Japan: the past and present

Trends and Challenges of raising children multiculturally and multilingually in Japan (issues at home, at daycare/school, medical facilities, public facilities, etc.)

How can we try to better co-exist multiculturally in Japan?

(日本語訳:﨑 ミチ アンさん)

このグローバルセッションでは、多文化な日本における子育てについて、参加者同士がそれぞれの考え方や経験、そして意見を出し合い、共有する場です。

話し合いのためのトピックスおよび質問事項

日本の社会的状況における「多文化共生」の意味とは何か?

日本における多文化共生について:過去そして現在の状況は?

日本における多文化にまた多言語で子どもを育てるという傾向と課題とは?

(家庭で・学校や保育所で・医療施設で・公共施設などで)

日本における多文化共生社会をより良くするために、どのようなことに挑戦すればいいのか?

参加者自己紹介

四方(C)さん:最初にこのGlobal Sessionを亀岡市交流活動センター(宮前町)で立ち上げられた時からのオリジナルメンバーです。いつもトピックスがタイムリーで、よく刺激を受けています。楽しみながら、多文化共生や国際理解をこのGlobal Sessionに参加していきたいと思います。

サムさん:カナダ出身で、カナダのゲストと話したいです。国際交流員です。

M・Fさん:話すと長いのですが。亀岡とオーストリアのクニッテルフェルトと姉妹都市盟約をされ、その一団がオーストリアにいらした時にお手伝いをし始めてからのお付きあいになります。今は日本に来ていますが、オーストリアには40年以上暮らし、日本語教師をしてきました。複文化・複言語に興味を持って、その勉強会に参加しています。夫(オーストリア人)と共に亀岡市内に暮らしています。夫は農業に興味があり、いろいろな方にお世話になっています。

H・Iさん:前の職場であった亀岡交流活動センターで始まったGlobal Sessionに1999年から関わっています。この20年間1ヶ月に1回の開催でしたが、いろいろなテーマが取り上げられて来たと思います。

Mu・Fさん:私も最初から参加しています。以前の交流活動センターの環境はすばらしかったです。いつも新しいテーマを取り上げ、刺激を受けてきました。私自身はNPO法人として映画会社に勤務後、京都映画クラブを立ち上げ、子ども達に映画作りを教えています。京都では時代劇を、草津市では、名所を尋ねる内容で作成しています。

K・Yさん:20年ほど前に、交流活動センターで仕事をしたときからのお付き合いです。
(児嶋:Yさんは、読み聞かせの専門家で、本の音声入力ボランティアもされています。ひまわり教室では、毎回絵本や、かみしばいを読んでもらっています。)

R・Sさん:ひまわり教室で学習支援をしています。外国につながる子どもたちのことばの獲得と学力とのつながりは大きいと感じていて、その方法が課題です。
(四方:教員だった私の上司で校長先生でした)
(児嶋:ひまわり教室を開校することになった子どもたちとお母さんがいた学校の校長先生でした。それに、私の次女の小1の担任の先生でした。大昔からの知り合いです。)

S・Yさん:今は能勢町に住んでいますが、亀岡市に住みたいと家を探しています。多文化共生センターが亀岡市に開設され、知り合いになりました。子どもは二人いますが、今は、ここの託児所に預けてきました。夫とは、カナダで出会ったのですが、もとは、アルメニア出身で、カナダに移住していました。夫は英語、日本語、ロシア語、アルメニア語を話しますが、今は、コロナでまだ、日本に来れなくて、9ヶ月直接は会っていません。

四方:アルメニアは、トルコやロシア、アゼルバイジャンと闘争中ですね。

H・Uさん:はじめての参加で四歳半の子ども(やまだはるよ)がいます。東南アジア研究をしていて別の所に長く住んでいたのですが、世界人権問題研究センターの研究員となり、京都に移住しました。フィリピン研究者として、学校にも入って行っていました。
(児嶋:ひさしぶりに亀岡でUさんの社会教育の講座があり、お会いしました。)

M・Kさん:現職の教員で、以前は、ネパールに2年間研修に行っていました。ネパールは多文化共生の社会であり、それが当たり前でもあったので、この点を柱にしたいと考えています。日本もそのような社会になりつつあるのに、まだその感覚ができていないと感じています。学校でもこれから取り組んで行きたいと思っています。

グローバルセッション開始

四方(C)さん:Global Sessionの約束ですが、1.当てない 2.どこからセッションに入って  きても良い。これをまもるために私は、当てません。

ミチさん:今年は桜が早くて、駅についたら、人が多くてびっくり。明日は雨かもしれませんね。

 今日は、花見に最適かもしれませんが、このように天気がいいときに来ていただいてありがとうございます。自己紹介を少ししますと、私は、崎 ミチ アンと言います。カナダのブリティッシュコロンビア州の出身です。在日25年になります。日本には最初にJETプログラムの英語指導助手として仕事を始め、2年が5年になり、あっという間に10年が過ぎました。結婚し、子どもができて今も日本に住んでいます。

 カナダは、多文化、多言語地域でカナダに生まれるとカナダ人となり、人々はいろいろな国から来ています。そのため、カナダの言葉とその国の言葉を話すのは当たり前の環境でした。日本で子どもを出産したとき、病院で、看護士さんが、「外人の子はかわいいね」と言うのを聞いてびっくりし、不安にもなりました。自分は「外のひと」なんだと。もちろん、悪い意味で言われたのではないことはわかっていましたが、なぜか大きな不安を覚えたのです。子どもが4才になったとき、夫と子どもの言葉はどうしたほうがいいのかと話合いをしました。それまでは、母親である私とは、英語と日本語と両方で話し、父親である夫とは、日本語で話していました。「日本にいるのだから、日本語の方がいいのではないか?」誰に相談したらいいのかよくわからなかったので、義母に聞くと、もちろん「日本語でしょう」と言いました。

 でも、自分の母語は英語なのに、なぜ、日本にいるからと行って母語ではない日本語で話さなければならないのか?日本語では自分の気持ちは全部を話すことはできない。何を言われてもいいので、英語で話したいとその時に思いました。ただ、子どもが外でどう思われるのかは気になりましたが。日本の教育について思うのは、母語の大切さにあまり関心がないなとも感じています。実際には、自分の子どもは1年生には通常の日本の学校に入学しました。その間も、インタナショナルスクールの方がいいのではないかと悩みました。子どもから、「私は何人?」「カナダ人?日本人?」と聞かれたことがあります。子ども自身もアイデンティティと言葉の間で悩んでいるようでした。夫にはあまりこの気持ちは理解されなかったようです。友人にも相談できる人はいませんでした。彼女は今はインタナショナルスクールに2年生から移り、今はあまり悩んでいないようです。どの言語を主にするかは、今決めなくてもいいからとも言っていますし、楽しく学校に行っています。父とは日本語で話し、母とは日本語と英語で話すのは変わっていません。自分は日本の大学で英語を教えていますが、自分の日本語もあやういと思う時があります。「反抗期」のことを「抗反期」と言って指摘されたり。

M・Fさん:私はオーストリアで3人の子を育ててきました。日本語教師として、オーストリアで、40年以上教えていました。最初の40年以上前は、オーストリアは、閉鎖的で義父母からは、子どもに日本語を教えようとすると、「たくさんの人が話している言葉を話さないのにどうして?」などとも言われました。でも、自分の思いを話す時に母語で話さないなんてと強く思いました。

自分の子どもは現在は、自分のアイデンティティを持っているようで、他人の言葉に対してもオープンです。国際人としての身体を持ち、でもハートはそれぞれでいいのではないかと思います。

 自分の親は、「英語は世界中で話されているので、英語は大事」と言っていました。でも、どこの国の言葉も大切です。「できる」ことと、 「わかる」ことはちがうはずですね。ひとつの言語をしっかりやる必要があると思います。マルチリンガルというのは、難しいと思います。それと、「must」ではなく、「楽しいからやろう」と思う方がいいと思います。今の方が、昔に比べれば、ネットやスカイプや会議もZOOMでなどいろいろな方法を自分で選ぶことができていいなあと思います。

 40年間いたオーストリアを離れ、2020年12月に日本に住みはじめました。子どもさんは親といっしょに来ても知らないところは、はじめは大変でしょう。頭と身体とわけて日本をキャッチしていくような気がします。そのため、子どもさんには「いっしょにはなそう」とできるだけ声をかける必要があるでしょうね。大人になれば、マルチカルチャーの中ならどこでも同じだと思います。

四方(C)さん:ひまわり教室の子どもさんがみなさんの話を聞いているといろいろ多い浮かび、目からうろこです。日本ではマルチカルチャー社会でなく、まだまだでしょう。カナダは国際的のようですが、私は日本人学校の教員として、20年ほど前に3年間過ごしていました。その時に聞いたスリランカのおばちゃんの話を思い出していました。「自分には4人の息子がいるが、その嫁の言葉はみな違う。」それを聞いた私は、カルチャーショックを受けました。シンガポールも国際社会そのものです。子どもを何語で育てるかは、大きな課題で、友人の夫さんは、シンガポール人で、日本人の友人との間の子どもさんは、英語で育ったそうです。子どもの時には自分のことばに揺れていても、そのうち自分で消化していったそうです。

M・Fさん:家族の方針として考えればいいと思います。でもひとつの言語を母語として持っていることは大切なことと思います。日本では「外人」と言われますが、ポジティブな意味でとらえればいいし、ひとりで6カ国語くらい学ぶのが普通の国もあります。社会にでるとやはり強くなるのではないでしょうか?

ミチさん:子どもを見て「外人」と言われたことがあります。

H・Uさん:言う人に悪意がなくても、どういう場面で言われるかにもよりますが、「我々とは違う人」という意味はありますね。

M・Fさん:日本ではあまり教えていないようですが、ヨーロッパでは「アジア人」というのは、「中国人」のイメージがあります。自分の中の差別感を考えて見る必要があるでしょう。

H・Uさん:露骨な人種差別ではなく、「外人」と簡単に言われていますね。日本で「ハーフ」がどう扱われたかというローレンスの分析があります。「日本に住むなら日本語がいい」という考え方も認識がうすいからだと思います。複合言語で育つ大切さもありますね。

四方:ひまわり教室でも姑さんに「日本で育てるのだから日本語以外で子どもに話しかけたらいけない」と言われたという話がありましたね。韓国から来た子どもさんのお母さん(日本人)が韓国人の夫さんのお母さんから、「韓国では日本語は使わないで」と言われ、全く母である自分は、子どもに日本語で話しかけなかったのを、日本に事情があり連れて来て、日本の小学校に入れた」という話を聞いたことがあります。

H・Uさん:日本でも、学校内に日本語教師がいるような学校(外国につながる子どもがいる)では、教師が外国につながる保護者を複合言語を使うよう励ますこともありますが。

四方:外国人で日本語を学んできたフィリピン出身の母親から聞かれたのですが、「にほんのこんだて」の「にほん」を「2本」と取り、「あと1本は?」と聞かれたことがあります。にほんを「2本」と取ったのですが、実は「日本」の意味だったことも。親にも子どもにも日本語での教育をする場合には支援体制が必要だと思います。

児嶋:私は、外国につながる保護者の方々を見ていて最近感じるのは、大人になって外国語として日本語を学んで来た自分たち(親)は、母語が確立しないまま日本の学校にポーンと入れられた子どもさんたちの体験は、実は親御さんは、誰もしていないという現実に気がついていないのではないかという点です。学習言語をしっかり学び、力をつけるには、5年から7年かかるという研究結果が広く行き渡ってきましたが、保護者は子どもが流暢に日本語を話し始めると「もう大丈夫」と思いがちですが、実はそれはちがうという点です。テストでも教科書でも3年・4年になると普通の会話では使用しない言語が多く使われてきます。その内容をちょっとわかりやすく説明して手助けするのと、しないのでは、自分の頭の中に残るものがちがって来て、将来に大きく差ができるはずです。ひまわり教室では、「宿題を見る」と言っていますが、宿題を見ながら、この子は、どこらへんが理解できていないかが見えてくるので、少し前に戻って九九を教えてみようとかやることがあります。問題の意味が分からないために正解ができなかったと思えることもたびたびありました。せっかくひまわりがあるのに、話せるからもういいやと思い、子どもが「行くのがいや。時間がない」などというと、それに打ち勝つことができない保護者が多いのです。

R・Sさん:学校が休みの時や、ひまわり教室を規制が出て開校できなかった時も子どもさんと連絡を取りながら、指導して来ました。今担当している中2の子どもさんもまじめで休まず来ていました。でも、なぜか伸びていかない、もうちょっと上に届かないという現実があります。本人は、自分に自信が無いようです。お母さん(中国出身)は、子どもには自分の母語である中国語は使って来ませんでした。外国出身の母としての立ち位置をはっきりさせた方がいいのですが。でも真面目まので、時間は掛かるけれども多分必要な学習言語や学習内容は、彼は、獲得するだろうとは思っています。

S・Yさん:「自信がない」のは、外国につながる子どもでなくても日本人の子どもでもない子はいると思います。なぜなのかと考えますが。

M・Fさん:認められた時には、外からの刺激があれば作り出すはずです。

ミチさん:子どもが大きくなり始めたとき、2、3才で保育園に入れようか、インタナショナルの幼稚園に入れようか迷いました。また、小学校へ入れるときも。結局小1の1年間は日本の普通の学校に行きましたが、2年生からは、インタナショナルの小学校に行きました。

S・Yさん:小1の子どもがいます。日本に来た時には日本語をいやがっていたのですが、今は日本の学校に行っていて、日本語だけを話しています。「なんでいちいち英語で話す必要があるのか?」と。

カナダでは、日本人の両親を持つ子どもさんでも、普通の学校に行っていて、日本語が話せない子どもさんも多くいました。

ミチさん:私自身は日系4世で、家でも英語でみんなが話していました。親戚付き合いもあまりなく。私は、母語は英語でした。大学に入ると、日本人のペンパルがいて、日本語が好きになりました。

 今は、TABUNKO(たぶんこ)を造り、活動を始めています。ここに来る子どもは日・英のバイリンガルが多く、親も「日本の幼稚園について」など悩みをだれに相談したらいいのかがわからない人が多かったので自分たちでグループを作ったのです。

 ミックスルーツの家族の居場所つくりを目指しています。活動のひとつとして、多文化ストーリータイムがあり、母語と日本語とでの読み聞かせを目指しています。

四方さん:40年ほど前の事ですが、ブラジルから仕事に来ている人の子どもさんが転入し、教室には担任がひとりだけで右往左往していました。今は、学校現場も大きな変化があり、サポートシステムも整って来ています。支援者も入っている所もありますね。昔はゲストとして、外国人の来てもらうという感じでしたが今は、ちがいますね。学校と家庭とひまわり教室のような地域の支援グループとの連携が必要ですね。 亀岡市は多文化共生センターも作り、見通しは明るいと思います。

H・Uさん:TABUNKOは、お父さんも入れますか?母語が日本語ではない父親もいますね。

児嶋さん:S・Yさんはどこにおすまいですか?

S・Yさん:能勢町です。でも亀岡に住みたくて家を探しています。

四方さん:マルチリンガルを継承することはむずかしいですね。

サムさん:カナダでは、中国人のコミュニティでは、中国語を話すのが普通ですが、日本人の2世の人たちはコミュ二ティもあまり作らず、帰化する人も多いし、その国の言葉を話 したいという願いが強いようですね。

ミチさん:父母は、日本語でも話していたと思いますが、母は、「カナダ人なのに何で日本語を話さなあかんの?」と言っていました。日系の交流会には参加していましたが。コミュニティがあれば、ルーツが日本語ならば、日本語でやろうとしているところが多いです。

四方:継承語というのは、子どもにとっての親の言葉であり、母語はMother tongueの英語であり、小さい時から生活に使用してきた言語という意味ですね。

M・Fさん:書けなくても話せる言葉もありますね。

M・Kさん:日本には、マルチリンガルが育つ場があまりないですね。いろいろな言葉を話すと楽しいよという気分が伝わらない様な気がします。「外人」とか言われれば子どもは、いやな思いをしたと感じるはずですね。いろいろな言葉ができれば楽しいと感じられる環境を作ることが必要で、そのためには、大変でも乗り越えたいですね。

S・Yさん:もっと英語を勉強したいとカナダへ行ったのですが、教え方がちがうと感じました。生きた英語というか。日本の学校の英語のレベルはまだ低いと思います。

M・Fさん:ある付属小学校の英語授業を見学したことがありますが、教え方があまり適切でない気がしました。子どもはカタカナで書くような発音で話していました。

四方さん:2020年度からは、小学校でも週に2回英語の授業があり、大分充実して来ました。6年生の最後には、各自が自分の夢を英語で語ることも課題でした。

M・Kさん:日本の子どもは日本語しかない環境に住んでいる子が多いですが、外国ではイマージ ョン教育も多く、聞く力がつきます。日本では授業はあっても、わからないままで卒業し、苦手意識のある子どもが多いですね。大人も話せないですし。

S・Yさん:日本の学校では、先生だけがしゃべっていることが多く、自分の気持ちを伝える手段を持つ教育が必要ですね。

四方さん:今年は子どもたちに英語を教えていましたが、課題も多かったです。聞くだけでも力はつかないので。

児嶋さん:Tabunnkoのようにいろいろな人がいるとおもしろくなるでしょうね。

Mu・Fさん:先ほど子どもの映画作りをしていると言いましたが、子どもの数は20名ほどにしぼっています。友人2人を誘って対応していますが、子どもたちにまず、シナリオを渡すと、覚えるのがとても早いです。でも最初に自己紹介をさせると、声が小さいのです。多分、はずかしいのでしょう。発声練習として、「おかあさん」と呼んでごらんというと、だんだん打ち解けてきて大きな声が出てきます。「みんなに聞こえるように声を出してね。」とも言います。これが終わると、子どもたち自身を2つに分け、スタッフ担当と俳優担当にします。スタッフ担当は、監督も任せます。監督には、「あの読み方でいいのか?」などと声をかけ、監督から指示をするようになります。俳優役の子どもには、監督やスタッフが台詞を読むように指示を出します。子どもの中にはフィリピン出身の子もいましたが、監督が「日本語の発音がおかしい」と言うと、「日本人ではないので、発音を教えて」と答えだんだん良くなることをみんなで見て来ました。一人では映画はできないと気づいて来るとみんなが真剣に取り組むようになって来ました。最後に「映画作りというのは、できるまでやるのですね」と言った子どもさんもいました。

ここで終了です。

長くなり、1:30~3:00が3:30を過ぎてもまだ話が続きそうだったので、あとは、個人でそれぞれにお任せして解散になりました。

課題は多くありますが、日本で外国につながる人たちが多くなることは目に見えていますので、いろいろな言語で話していいし、理解もしたいし、楽しいという環境を作っていきたいという雰囲気になりました。

次回が楽しみです。

2021年2月13日(土)第337回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2021年2月13日(土)10:30~12:45
場所:ガレリア3階 会議室&オンライン
ゲストスピーカー:濱田雅子さん(元武庫川女子大学教授、アメリカ服飾社会史研究会会長)&大槻正一さん(グラフィック・デザイナー)
コーディネーター:亀田博さん(ツアーガイド:大津市在住)
参加者:11名(うちオンラインでの参加3名)

 今回のタイトル:「コットンをめぐる不都合な真実」濱田雅子の服飾講座 服飾から見た生活文化シリーズ19回目共催:第41回アメリカ服飾社会史研究会

参加者の皆さんの感想

Y・Iさん

今日はありがとうございました。

モンサントのことは食品業界のことだと思っていましたが、アパレルでもとんでもないことをしているのだと驚きました。倫理とか優しさとかそういう言葉が通じない企業がいまだにのさばっているという現実を知りました。参加してよかったです。便利と危険はうらはら。進歩とリスクはうらおもて。企業は利益を追求するのは当たり前なのですが、もうお金だけの世界というのは違うかなともいます。

パタゴニアはブランド名を知っているだけでした。その取り組み、考え方、企業理念などもう少し調べてみたいです。

アッという間の2時間でした。また参加します。

K・Kさん

今回も映画を挟んで環境汚染とアパレル企業。モンサントの遺伝子組み換えbt綿など、問題が昨年に続いてテーマだった。繊維と言えば我が街も繊維産業で栄えた町で少し私も他人事では無いと思い毎回参加している。濱田雅子様にも神戸まで出向いてお聞きした事もある。

 今日は2月上旬と言えない暖かさで池田市から423号線を亀岡市に向かって山越えした。山間の静かな景色は長々と続いていた。

 青空に一点の曇も無く、早朝の強い陽射しを受け、田んぼから湯気が煙のように登っていた。国道に添うように流れる余野川をせせらぐ水も白く泡立ちながら光っていた。

大槻正一さん

ファッションをファッションの市場や分野だけで見る、解決を見出す時代は遠に終わったのではないでしょうか。我々の世界は、あらゆるものがつくられる、サービスが生み出されるその結晶化しか見ていませんが、手にはとっていませんが、そこに膨大の時間と、細分化された、グローバルの波が存在しているのです。ですから、物事の側面の上面だけを見るのではなく、あらゆる角度から多角的に見ていかなければ、正体が見えてこない。それだけ、複合的に包括的に世界の市場はグローバリズムは、お金のマネーゲームは絡んだ紐たちがもうほどけないところまで来ている。それらが、気候危機にまで及んでいる。考えることは山積みですが、命があり、時間もあります、それぞれ一個人がマインドセットを変化させてゆく時代が来ているのだと感じます。

R・Sさん

昨日は、ありがとうございました。濱田先生と大槻さんのお話、大変興味深く聞かせていただきました。拝聴して、私たちに責任ある消費行動が求められていることを強く感じました。そのためにも、表には見えない(隠されている?)生産現場の実情を知ることが大切だと思います。現状を知り、環境と働く人々を犠牲にしない選択を広げていくことが求められていると考えます。そうすることによって、利益の追求ために環境や働く人々を犠牲にする企業は受け入れられない。そのような企業は経営的にも成り立たないということが、世界中に広がってほしいです。

最後の「意見・感想」のところで、ある中学校の総合的な学習の時間や生徒会の取り組みを紹介させていただきました。「困っている国や地域の人々を助けたい。」「環境を守りたい。」という意図は大事なことだと思います。だからこそ、広く深く現実を知ることが必要だと、お二人のお話を伺って感じた次第です。意図しているところと実際の取り組みの結果が食い違うことのないように、確かに学んでほしいと思います。私自身も引き続き学びながら、そうした学校での取り組みに何か手助けができればと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。」

H・Iさん

こちらこそ、勉強させていただきありがとうございました。Zoomのホストも少しずつなれてきましたが、やはり相手さんの通信状況は課題だと思いました。それから、講師さんがなにを共有して見せようとされているのか、ワードなのか、エクセルなのか、パワーポイントなのか、または動画なのか、事前の調整は重要です。

講座の内容では、農薬についてもっとよく知らないといけないと思いました。まさか自社の農薬に合わせて、作物の方も作っているとは誰も思いつきません。僕はそこまで考えていませんでした。そうまでしてお金儲けをしなければならないのかと疑問に思います。消費者がしっかりと知識を持ち、法の力でガッチリと規制をかけていかないといけないと思います。

大槻さんの部分では、何が本当のサステイナブルなのかという投げかけがありましたが、これはひとえに、消費者と企業の両方が、自然に逆らわないように、ある程度我慢しなければかなわないのだと思いました。多少不便であったり高かったりしても、地元の店からよくて長持ちする物を買うとか、多少利益が落ちても従業員や原材料の生産者を手厚く扱うなどの努力が必要だと思います。」

K・Iさん

先日の会は、参加させていただきありがとうございました。まず、濱田先生に提起していただいた服地にまつわる環境問題については、問題性を知っているだけでは、そこにビジネスが絡んでいる限り、改善しようがないことを強く意識させていただく内容だったと思います。

大槻さんのご発言は、それに応じて、利益優先ではないビジネスも可能だという提起でした。環境に悪いからだめ、という言葉だけでは解決できそうにない難しい問題であることから、私たちは考えなければならない。その会社を買い取ることで問題を取り除く事は有効なのか?消費者として態度を変えることは有効なのか?と考えました。値崩れは単に「安く買えてよかった」ではなく、人が働いた価値を低くしてしまう恐れがある。参加者の中からは、子どもたちにどう教えたら良いか、という提起が出されましたが、それもとても重要な視点だと思いました。子どもたちにどう教えているのか、未来に何を残すのか、と私たちが問われた時、やはり、人として間違った事は教えられない、と感じて自らの振る舞いを正そうとするのではないかと思います。そこに、私たちが取るべきヒントがあると思いました。買いすぎない、買ったものは大切にする、正当な金額で購入することで、映画『True Cost』からの問いかけに応えたいと思いました。

そして、映画『モンサントの不自然な食べもの』からの問いかけについては、まず、国内産の農産物及び、農産物由来のものを利用するように意識する。安売りに飛びつかず通常の値段で買う、無農薬、有機栽培などに取り組んでいる農産物を利用することが私たちの命だけでなく、生産者の”命”を大事することになると思いました。

何事も、買いすぎない、適量を使うという行為によって、無駄がなくなり、必要量が流通する経済に転換して行けたら良いと思います。その観点からは、服のオーダーメイドは今では贅沢のように映りますが、自分に合った服を身につけ、長く着用する事は、実はエコでもあることに深く気づかされました。」

亀田博さん

コットンをめぐるふつごうな真実。 モンサントの遺伝子組換えbt綿とラウンドアップについて、   インドのBt綿栽培農家では、大量の農薬が撒かれている。世界のコットン出荷量世界第2位のインドでは、そのほとんどはモンサント社が開発したGM(遺伝子組み換え) 綿である。インドの種苗会社マヒコは1999年にモンサント社に回収され、細菌由来の殺虫性毒素が組み込まれた(Bt綿)は、綿花の天敵である蛾の幼虫が近寄らないように開発されたものだったが、その実、他の新たな害虫や立ち枯れ病が発生して、結果、大量の農薬を撒かなけれならない。モンサント社が販売する除草剤(ラウンドアッブ)を飲んで、畑で自殺する人が急増している。

モンサントは、かって存在した、アメリカの多国籍のバイオ科学メーカー。2018年6月、バイエルによる買収、吸収が完了し、モンサントの企業名は消滅した。   7兆円を越える大型買収、100年以上続いた(モンサント)の名を消すバイエルの思惑だと思います。モンサントの名前が消えることは、バイエルの戦略の一部のようだ。同社は、モンサントおよび遺伝子組み換え作物(GMO)へのネガティブなイメージと距離を取ろうとしている。バイエルの買修の2カ月後、農薬大手モンサント(Monsant)の除草剤のせいてがんになったとして、同社を相手取り訴えた裁判で、原告の米国人男性が予想外の勝利を収めたことから、今後、同様の訴えが多く起きる可能性が出てきたと思います。

裁判では、ラウンドアップの発ガン性についての警告を怠ったモンサントに落ち度があるとの陪審評決が出された。バイエルに取っては、高い代償で、不運な結果だと思います。                                        

パタゴニアについては、大槻さんからプレゼンを頂きました。ヨセミテをベイスに世界的なクライマーが、トレーニングで訪れます。自然が素晴らしいです。パタゴニアについては、登山用品が、有名で、品質や安全性が知られています。最近は、オーガニック、コットンに力をいれています。日本の消費者には、登山用品は、知られているが、コットン用品は、特に知名度が低いように思います。一般には、パタゴニアと言うと、南米のパタゴニア氷河が有名です。又、パタゴニア商品は、日本の店舗は、外国と比べると価格が高いのと、オーガニックコットンのピーアルが低いように感じます。もっと宣伝すべきです。 聖地ヨセミテの妖精のポストカード 素敵です!             

濱田先生  2月のGlobal  Session 有り難うございました。 

A・Sさん

濱田雅子先生と大槻正一様のアパレル産業に関するご講義を伺って

「もともとフェアトレードに関心を持っていたこともあり、この度のご講義に参加させていただきました。フェアトレードに関心を持ちましたきっかけは、10年ほど前に観たあるドキュメント番組で、そこには、コロンビアで農薬まみれになり、自らやお腹の子どもの健康をリスクにさらしながら懸命に花を摘む妊婦たちの姿が描かれていました。その花が、まさに私が大学院生の頃、ロンドンで購入していたものに見え、衝撃を受けたのです。学生だったこともあり、お金はありませんでしたが、忘れたころに2ポンドほどの小さな花束を買っては、癒されていました。それだけに、「あの花束がもしかするとこうやって栽培されていたのか」と思うと愕然としました。

本日の濱田先生と大槻さんのご講義を聴き、アパレル産業の問題と私が経験したブーケの問題の根底には共通点があると思いました。多くの人々を幸せにしているはずの花束や洋服が、人々に多大な健康被害をもたらすだけでなく、空気、土壌、水質の汚染など、地球規模の問題を引き起こしているということです。あまりに悲しい現実ですが、現実を知らなければ、手の打ちようがありませんし、これはこれで必要だったのだと思います。そのような意味で、濱田先生のように、アパレル産業をマクロな視点から研究されることも、大槻さんのように、アパレル産業をパタゴニアのような事例を取り上げつつ、ミクロな視点から報告されることも、どちらも大変意義深い活動だと思いました。

一方で、話題に挙がっておりましたオーガニックコットンやパタゴニアの製品は、どうしても高価であるため、経済力があり、かつ環境問題にも関心がある、ほんの一部の人しか手に入れることができない対象となっています。購買層が限られる分、それらを取り扱う店舗やサイトは、ファストファッションのものに比べると圧倒的少数で、生産量も極端に少ないのが現状です。そのようなこともあり、たとえアパレル産業が環境にもたらす問題の解決に関心のある消費者であっても、自らの購買行動が環境問題の解決にほとんど役に立たないのではないかと自問する人も少なくないでしょう。今のところ、私は間違いなくそのうちのひとりです。オーガニックコットンやパタゴニアの製品には関心があるものの、いざ実物を目にした時には、コスパを考えたり、「自分一人が買ってもなぁ」と揺れたりすることは容易に想像がつきます。一方で、できるだけ人と地球に優しい商品を購入し、大事に着ようという思いは、この度のご講義を通じて確実に強まっています。自らの購買行動が世界の人々の健康や環境問題に直結していることを、強烈に実感したからだと思います。

この度のご講義は私の購買行動に大きな変容をもたらす機会となりました。本当にありがとうございました。」

E・Tさん

「今回は、前回よりもショックな内容でした。理由は、低賃金を苦に自殺をする人がいるのは覚えていましたが、化学薬品等が海に流れて魚に影響を及ぼし、その魚を食べて身体に悪影響が出て結果的に亡くなってしまうのがショックでした。ただでさえ、苦しい生活なのに、その上、自分の身体を良くするはずの食べ物食べて死んでしまうなんて悲しいです。それから、服がなかなか売れず、廃棄される話がありました。廃棄されるにも、時間やお金がかかります。だから、よくセールをして少しでも廃棄される数を減らすのにも納得がいきました。最後の方で、廃棄する筈の商品を買い取り売る店が紹介されていましたが、ああいうお店がこれからも増えていけばよいと思いました。これは答えになっていないかもしれませんが、私自身、せっかく買った服を、弟や親戚にあげたり、服を買い取ってくれるお店に行き、私なりに誰かに“貢献”したいと思います。これからもよろしくお願いします。」

児嶋きよみ

「いろいろ勉強をさせていただきました。服は安ければ多く買い、すぐに気に入らなくなると捨て、その捨てるのも「外国に寄付する」所へ持ち込むというような流れが根付いています。「その先はどうなるのか?」をほとんどの日本在住のみなさんは、考えていないのが通常の状態ではないでしょうか?アフリカで捨てられた服も売買され、そして捨てられ、山ができているところもあります。また、自国の生産も買わないので廃れ、でも

綿をつくる産業には低賃金ではたらかなければならないとうような事情が見えてきます。「いらない服を集めたら、どこかの国に寄付する」というプログラムを学校で始めたら、その先を考えるプログラムを是非作って考えてほしいですね。

 また、日本の米作りも、農協が関わらない方法は、なかなか無理があります。しっかりやってもらっているので、続いている部分もかなり多いですね。これも勉強が必要です。一つの方法ですべてが解決するのではないということを更に自覚したGlobal Sesionでした。ありがとうございます。」

オンライン講座「コットンをめぐる不都合な真実」を終えて

濱田雅子さん

  • 皆さんへのお礼

 オンライン講座を終えて一週間余りが経ちましたが、何と全員の参加者の皆様から、熱意に満ちたレポートをお届けいただき、感動いたしております。本当にありがとうございます。

皆様から、それぞれに、奥深い問題が指摘されています。以下の濱田のレポートで、皆様が提起されている問題について、少しでもお役に立つことをお書きできればと存じます。今後、引き続き、ご一緒に取り組んでゆければ幸いです。よろしくお願いします。

Ⅰ モンサント社の7つの功罪

  亀田さんから、モンサント社のバイエルンによる買収についてのレポートをいただきました。「モンサントは、かつて存在した、アメリカの多国籍のバイオ化学メーカー。2018年6月、バイエルによる買収、吸収が完了し、モンサントの企業名は消滅した。 7兆円を越える大型買収、100年以上続いた(モンサント)の名を消すバイエルの思惑だと思います。」

 決して、見過ごすわけには行かない歴史的事実です。

 ここに、モンサントの7つの功罪を列挙します。

1.PCB

 「カネミ油症事件」の原因物質。毒性を知りつつ製造を続け、地球全体にこの発ガン性物質を蔓延させた。

2.枯葉剤(オレンジ剤)

ベトナム戦争でゲリラ対策に散布され、400マン人がダイオキシンに曝露。多数の奇形児が生まれた。

3.牛成長ホルモン《ポジラック》

肉や牛乳に残存し、アレルギーやホルモン異常、ガンを引き起こすと指摘されている。2008年に製造撤退。

4.除草剤《ラウンドアップ》

世界で最も売れた除草剤。発ガン性・流産等の可能性があり、「安全」をうたった広告は虚偽と判決が出た。

5.GMO大豆(ラウンドアップ・レディ)

南米各国に、政治工作や謀略によって普及。パラグアイでは、反対する農民が政府に逮捕・殺害された。

6.GMOトウモロコシ

メキシコで、紀元前5000年からの伝統種の遺伝子を汚染。生物多様性が破壊され、奇形種が発生。

7.GMO綿花(ボルガ―ド)

インドで大キャンペーンを張って販売。しかし、宣伝ほど収量は増えず、結果、数多くの農民が自殺。

典拠:  マリー・モニク・ロバン著、村澤真保呂他訳『モンサント—世界の農業を支配する遺伝子組み換え企業—』(作品社、2015)

Ⅱ ラウンドアップの日本のホームセンターなどでの販売    

下記のURLを参照なさって下さい。ぜひ、最後までお読みください。

「このようにラウンドアップの危険性への認識は世界的に拡散されており、店頭でラウンドアップが簡単に手に入るのは先進国では日本ぐらいになっている。」

「世界中からはじき出され行き場を失ったラウンドアップが日本市場に一気になだれ込んできており、除草剤では売上トップの座を占めている。日本では日産化学工業が2002年5月にモンサントの日本での農薬除草剤事業を買収し、ラウンドアップの日本での販売権を引き継ぎ、「優れた効力と環境に優しい除草剤」などと宣伝してきた。」 

「ラウンドアップは日本の店頭では「もっとも安全な除草剤」とか「驚異の除草力」とかいった宣伝文句で販売されている。農協の販売ルートにも乗っており、ホームセンターやドラッグストア、100均などでも大大的に扱っている。またテレビCMや新聞広告もされ、危険性についての説明は一切なく、警戒心なしに購入し使用しているのが現状だ。」典拠:https://www.chosyu-journal.jp/shakai/11791

Ⅲ 環境意識革命の実現に向かって

大量生産 ⇒大量消費 ⇒ 大量廃棄 ⇒ 在庫衣類買い取り業者(大阪のショウイチに代表されるバッタ屋)の台頭

                   ⇓

持続可能   カスタム・メイド   ダイバシティ―  環境意識革命の実現

《カスタム・メイドとは》

持続可能性は、大槻さんが提起されたように、今後の課題です。私もこの問題には大きな関心を抱いてきました。今後も「歴史に見る持続可能性」の問題について、服飾史研究者の立場からアプローチして行きたいと思っています。私はこれまで、拙著においてカスタム・メイドに着目して取り組んできました。

「新田中千代服飾事典の解説がアメリカのcustom-madeを分かりやすく説明している。「(注文服)(おあつらえの)という意味で、おあつらえ、おあつらえ品という米語である。既製品万能のアメリカでも、ニューヨークには特定のお得意様に対してのみデザイン、裁断、仮縫いをするカスタム・メイドの衣装店がある。・・・・・カスタム・メイドのデザイナーは、デザイナー自身が創作した新しいデザインを用意し、スケッチから実物をつくって1枚ずつの実物のサンプルを用意して、得意客が訪れると、サンプルの中から似合うものの注文を受けたり、デザインを多少かえたりして、寸法にあわせて作り、注文に応じるのである。」典拠:濱田雅子著『アメリカ服飾社会史の未来像―衣服産業史の視点からー』本書の第二章で考察したアーノルド・スカージはアメリカのカスタム・メイドのデザイナーです。

本書の総括において、「カスタム・メイド、つまり、在庫ゼロの受注生産は、実に未来につながるアパレル生産の手法」であると述べています。私はアパレル業界で服作りの仕事に携わっていた立場からこのような提案をしています。アパレル産業で働く技術者の労働の価値について考えたとき、バッタ屋「ショウイチ」が日本のみならず、海外にも市場を広げていっているのは、実に悲惨な悲しむべき実状だと思います。

 環境意識革命の実現が行われなければなりません。画一的な大量生産社会からダイバシティ(多様性)を尊重する少量生産、少量消費の社会への環境革命への道とは何かが、今、問われています。

Ⅳ 学校の教員と研究者の連携の必要性

末永さんがおっしゃっていた学校の教員と研究者が連携し、未来を担っている子どもたちに、未来を見据えた正しい教育をしてゆかなければならないと確信しています。

Ⅴ 透明性をもって、新しいビジネス・モデルの構築を!

科学者とさまざまな衣服産業に携わっている企業家や環境に関わる諸団体が一体となって、サプライチェーン同士の透明性を保ちつつ、人間と環境の健全性を向上させる衣服産業のビジネスモデルを構築して行かなければならないのではないでしょうか。

濱田雅子著
『アメリカ服飾社会史の未来像ー衣服産業史の視点からー』
ペーパーバック POD出版 2020年4月10日発売 2,970円
Kindle 版 2020年4月1日 1,000円
販売 アマゾン(キーワード 本 濱田雅子)
DTP/装丁 表紙デザイン 濱田雅子作
amazon

2020年12月26日(土)第336回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2020年12月26日(土)10:30~12:30
場所:ガレリア1階調理室
ゲストスピーカー:オジュグさん(ポーランド出身:大学教員:大津市在住)
コーディネーター:亀田博さん(ツアーガイド:大津市在住)
参加者:10名

 今回のタイトル:クリスマスのお菓子とポーランドのクリスマス

オジュグさんのポーランドのクリスマスについてのお話

オジュグさん:私の名字はオジュグですが、ミドルネームはアダムです。出身はポーランドですが、日本ではポーランドは馴染みの薄い国のようで、できるだけ知ってほしいと、30年間がんばって来たつもりです。

この亀岡でのGlobal Sessionは、5回目か6回目になりますが、「ポーランド通といったら、亀岡へ」というくらいです。住んでいる大津市でもあまり知られていません。

日本全体にいるポーランド人も多くはないです。

ヨーロッパの中のポーランドというのもあまり目立つ国ではなかったからでしょうか。

スラブ系民族というと、ロシアを思い浮かべるでしょうが、西ヨーロッパの民族ともちがいます。

実際には、中欧、東欧の周辺からスラブ民族が起こり、後に、ポーランドとロシアとの間に主導権の争いもありました。宗教もロシア正教でもなく、ヨーロッパ寄りのローマカソリック教です。

習慣もロシアとも、ヨーロッパともちがうものも多いですが。

ポーランドのクリスマスもアメリカなどのクリスマスとも雰囲気がちがいます。

ヨーロッパのクリスマスはもっと家庭的で、宗教的、教会でクリスマスの雰囲気は味わえます。クリスマスの歌も「きよしこの夜」だけではなく、ドイツやポーランドは庶民の文化としての歌が発達してきました。

歌を聞く「LulajzeJezuniu」とう歌の楽譜を配布

※参考動画

この歌っている歌手は日本人です。まず、この歌でクリスマスの雰囲気を味わってほしいと思います。またあとでちがう歌手の同じ歌を聞いてみます。4回くらい聞くと耳に入り残ると思います。

話は変わりますが、祭りはだんだんどこでも衰退してきていると思います。

日本でも正月とかより、ハロウイーンなどがはでになったりして。でも、私は、伝統がなくなっていくのは寂しいと思っています。それは、人々がその良い伝統を楽しむことが出来なくなるという意味で。楽しむためには、工夫が大切と思います。例えば、若い人たちが正月を楽しむためには、工夫とか努力が必要というような。

この日本での30年間を振り返ると、日本人は祭りなどの習慣が消えていくということに気づかないことが多いと思います。

例えばおせち料理を家で食べるより、外に出る方を好むとか。

ポーランドのクリスマスは、家族ですごすということがメインで「家族でひとつの楽しいことをやる」という目標があります。

でもそのためには、何かのきっかけが必要です。

ポーランドでは、24日の午前中は仕事をし、クリスマスは夜から始まります。イヴはクリスマスのための前夜祭であり、25日と26日は祝日になります。24日の昼からクリスマスツリーを飾り、家族はそれぞれ役割があります。お父さんと子どもは樅の木を持って帰り、飾ります。お母さんは、クリスマスの料理を作ります。

このクリスマスツリーはドイツが発祥地と言われています。昔は、家が天井が低かったので、シャンデリアのような形をした色紙で飾りを天井に吊るしていたが、クリスマスツリーの習慣が広まると貴族から庶民にも広まってきました。

クリスマスのお菓子もピエルニキなどがありますが、昔はいつでも甘いお菓子があったわけではなく、クリスマスだけのお菓子でした。クッキーを焼くと甘い香りがしてきますが、香りを五感で感じる喜びがあります。スパイスも欠かせません。樅の木の香りもありますね。

ドイツもポーランドもクリスマスから逆に数えて4週間をアドベントと言います。

昔はその期間中、肉も甘いものもあまり食べませんでした。クリスマス期間が始まり、クリスマスツリーに飾られたお菓子は少しずつ食べていき、消えていくことで、「これから楽しいことがあるぞ」と気分が盛り上がってくるのです。このように「何かを準備する楽しさ」は、お金で買うだけの楽しみとはちがうはずですね。

亀田:クリスマスの時期にチェコに行ったことがあるのですが、よく似ていました。

オジュグ:ヨーロッパの中でも似たようなお菓子がありますが、それぞれに特徴があり、アメリカでも、ジンジャーブレードのクリスマス菓子が多いですね。

スパイスはアジアからヨーロッパに入ってきました。スペイン、ポルトガルがアジアから持ち帰ってきたスパイスをドイツやポーランドにも伝わり、ライ麦やハチミツを利用したお菓子が多いのですが、ドイツのニュールベルグやポーランドでは、北部のトルニという街が有名です。トル二は、コペルニクスの生家があるので、有名です。昔は冷蔵庫がなかったので、ハチミツやスパイスを入れると長持ちするように作られました。今日のピエルニキのようにですね。昔は女の子が生まれるとケーキを焼くための生地をスパイスやハチミツなどでしみこませて長持ちさせるように作られました。そして、結婚式の時に焼いて食べるというようなところもあった。

今日は、2日間発行させたケーキを作って持って来ました。10種類のスパイスが入っています。国によって混ぜるスパイスや割合が違います。実験しながらやってみるといいですね。

オジュグさんの作って持ってきたケーキ

オジュグ:今日は、2日前に作り、10種類のスパイスの入ったケーキを持って来ました。スパイスは国によって割合がちがいます。いろいろな割合を実験しながらやってみて自分に合うのを見つけたらいいと思います。

スライドを見る。(クリスマスの食事)

クリスマスイブは、ヴィギリアという特別な食事を母親が作ってくれて、その日でしか食べない料理もあります。

ポーランドのクリスマスでは、魚を食べます。魚とは、主に鯉です。生きている鯉を手に入れると家の風呂場に入れておきます。クリスマスイブには肉を食べないのですが、クリスマス前の4週間前からアドベント期になり、その頃から肉も食べないです(今はこの習慣もなくなりつつあります)。クリスマス料理は12種類が並び、サラダもあります。ピェロギという水餃子のようなものもあります。ベジタリアンの食事のようですね。

クリスマスの食事を始めるタイミングは、一番星が出る頃です。家族で過ごすことがメインですが、余分にひとつ席を作っておきます。それは、死者のためではなく、だれか来たら入れてあげることを目標にしています。

クリスマスプレゼントは、まず、12月6日にサンタの日(聖ニコラスの日)が来て小さなプレゼントをします。24日には、食事が終わったら、プレゼントをもらいます。サンタが来る家庭もありますが、子どものイエスが持ってくる場合もあります。ドイツでは天使が持ってくるとも言われるところもあります。

食事が終わり、夜の12:00になったらみんなで教会のミサに行きます。ここからクリスマス期間が始まるのです。

亀田:わらと十字架を飾る国もありますね。

オジュグ:ポーランドでは、部屋の隅に麦の塊を飾り、収穫を願う人もあります。

クリスマスイブの食事では、パンを分かち合う(家族で楽しみを分かち合う)という意味で、オブラートを少し割り、おいわいのことばをかわします。(楽しいクリスマスをと)。

もう一度。「クリスマスの歌」を聞く。

オジュグ:クリスマスツリーの飾りは、今は99%がプラスティックですが、ポーランドでは、硝子技術の進化があり、硝子の特殊な飾りが発達しました。最初はとても価格が高かったようです。厚さは、1ミリもなく、口ふきの硝子で、透明な色をまず、塗ります。つぎにシルバーコーティングをして、いろいろな色を塗ります。変色もしないので、長く持ち、毎年買い足していきます。ツリーにつける金具も固定せず、離れるようになっています。

「硝子作り」の映像を見る。伝統芸術です。

自己紹介

Iさん:今日の映像を見ていたら、賛美歌でしょうが、口をあまり開けないと思いました。歌はとても好きです。オペラ風に口を大きく開けて歌うのかと思っていましたが、音はとてもよく響きます。先にいただいたこのクリスマス菓子のピエルニキのレシピから娘がお菓子を作ってくれました。明日のひまわり合同教室に持って行きます。このように何かを作ってくれると、家族のつながりを感じます。

H・Iさん:オジュグさんには、何年か前からGlobal Sessionに来てもらっているので、知っていますが、今回も来ていただき、ありがとうございます。「祭りも行事も衰退してきているのは、子ども達も楽しめていないのでは」というお話しが印象的でした。実際、自分の子どもの時には、正月などの習慣が楽しかったと思います。

M・Hさん:今日はとても楽しかったです。子ども時代を思いおこすと、終戦後の食糧難で、正月になると、ようやく良い服を着せてもらい、料理も用意してもらい、日本のこのような習慣は、満足度100%を越えていたと思います。22才か23才のころには、教会へ行き、賛美歌を歌っていました。ポーランドの聖歌のメロディも同じでしょうか?

M・Sさん:オジュグさんのファンです。お話しを聞くのが大好きで、哲学の専門と聞き、その話も聞いたことがあります。その影響か、昨年(2019年)の7月から8月にかけてポーランドへ行ってきました。クラクフも。ポーランド語もいいですね。今日も刺激をもらってうれしいし、感謝しています。長くこれからもお世話になります。

J・Nさん:Sさんと同じマンションに住んで居て、ポーランド旅行の話も聞いていて、その時からオジュグさんのことも聞いていました。ポーランドというと、ショパンの国くらいしか知らなかったのですが、今日、ポーランドの話を聞けて良かったです。私は、日本の正月などもあまりけじめをつけずに過ごしてきたのですが、今日のお話から、生きている私たちが大切にしなければと思いました。

Y・Hさん:(ドイツ後であいさつ)

私は、ドイツ・チェコは行ったことがありますが、ポーランドにもこれから行けるようになったら、行きたいと思いました。

C・Tさん:南つつじに住んでいます。主人と二人で住んでいますが、この先、短いのだからお互いの思いやりが必要と今になって気づきました。外国語である英語を学んでいますが、オジュグさんは、「やる気があれば伸びる」と言われましたが。日本語ばかりの中に住んでいて、外国語を学ぶのは、とても大変だと思います。気がついたのは、ちがう見方を味わうと気持ちが豊かになるということです。

オジュグさん:「外国語は大変」というのは、ふたつの意味があると思います。一つ目は「すごい」という意味であり、もうひとつは、「苦しい」で、「おもしろくない」「つまらない」という意味がありますね。楽しく学ぶことが大切ですが、努力も必要です。

C・Tさん:言われていることはわかるのですが、自分は力不足かなと。

オジュグさん:力と言いますが、身体はだれも同じで、やる気のちがいかもしれません。「おぼえられないわけはない」と自分を信じることが大切だと思います。

「人間にできる」ことは自分にもできるという自信を持つことです。ぼくの中国語学習もあまり進みませんが、本気を出していないのでしょう。

児嶋:今回のGlobal Sessionは、336回目になります。1999年から始め、大体月に1回のセッションを継続してきました。毎回お知らせとレポートを出していますが、楽しく続けていきたいと思っています。

S・Oくん:高校2年生です。横にいる児嶋さんの孫です。学校の外で勉強することも好きでよくやっています。電車の中でも本を読んだりしています。また、昨年、カナダに留学してその体験をしました。

亀田さん(コーディネーター):大津市に住んでいます。大津の西教寺は、明智光秀の菩提寺です。ツアーガイドをしていますが、コロナで楽しみが減ったのですが、ヨーロッパでも1年で一番楽しみにしていたクリスマスを家族で祝うことも満足にできなくて大変でしょう。昔から、クリスマスでは、ごちそうを食べて力をつけるという意味もあったようです。次の世代にも続けていくことが大切だと思っています。でも、オンラインでは、身近に感じることが少ないですね。

20年前にローマのクリスマスにガイドで行きましたが、バチカンでのローマ法王は、ポーランド出身の方でしたが、良いお声のスピーチがとても心に残っています。

クリスマスの訪問し、歓迎される用意ができているということが今日もとても心に残りました。

児嶋の作品(本物のピエルニキより大分小型です)

卵 1個・ 砂糖 60g・ 薄力粉 150g・  ココア 大さじ二分の1・ バター(食塩不使用)5g

ハチミツ 大さじ1杯・ タンサン 小さじ二分の1・ 水 小さじ 1杯

スパイス: クローブ 大さじ 二分の1・ ナツメグ  大さじ 二分の1・ シナモン 小さじ二分の1

作り方:

  • ボウルに卵と砂糖を入れ、よくすりまぜる。
  • ふるった薄力粉とココアを一度にざっくり混ぜる。

混ぜたら、他の材料も加える。

  • 均一な生地になれば台の上に取り出す。めん棒でのばす。
  • クッキー型でぬく。いろいろな形がある。
  • オーブンシートを敷いたオーブン皿の上に、並べて、焼く。オーブン調理 170度前後・ 約10分

2020年11月14日(土)第335回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2020年11月14日(土)10:30~12:30
場所:ガレリア3階会議室
ゲストスピーカー:村田克英さん(JT生命誌研究館 表現を通して生きものを考えるセクターチーフ)
コーディネーター:藤田宗次さん
参加者:10名

 今回のタイトル:How corona affects our daily life
(コロナ禍がいかに日常生活に影響を及ぼしているか)

藤田宗次さん(コーディネーター):この世界情勢を考えると、今日はじっくり文化について学べる機会となりそうでうれしいです。JTというのは、たばこ産業かと思っていたのですが、最近は、薬や食料品、飲み物など幅広く事業展開していますね。また、利益も産んでいますね。株価もあがり。高槻駅から10分くらいで行けますが、昔に行ったことがあります。でも、最近ではないので、大きく変化し、すばらしい仕事をされていると思います。では、それぞれに自己紹介をしていただきましょう。


自己紹介

藤田さん:私は、京都の東映に務めていて退社後、「京都映画クラブ」を立ち上げ、子ども達に映画の作り方を実践で教える会をもっています。また、亀岡の交流活動センターで始まったGlobal Session(1999年~現在も)に最初から参加し、今も参加しています。もともと英語で話すゲストとともにセッションをしながら、英語の学習もしようと始まったと思いますが、20年以上続いていますね。

H・Kさん:大津市に住んでいて、Global Sessionは何度も来ていて、今年はほとんどに参加しています。いろいろな国のゲストを呼び、日本の文化との比較をするのが楽しみです。仕事は、ツアーガイドをしていて、今年はあまり外国には行けないですが、日本に来られる人を国内に案内するのも仕事です。

M・Eさん:亀岡に住んで、漫画家をしています。絵本も出しています。

S・Oさん:デザイナーをしています。クリエーターとして、世界の人々とつながっていきたいと思っています。我々は、どこに生まれ、どこに向かって行くのかを共に考えたいと思います。(多文化共生センターのちらしのデザイナー&ひまわり教室ちらしのデザイナー)

N・Kさん:元小学校教員で、ひまわり教室の指導にも関わっています。このガレリアの推進センターの理事のひとりでもあります。JT生命誌研究館の村田さんの前回のお話から「セロ弾きのゴーシュ」の劇も拝見し、音楽にも圧倒されました。

R・SSさん:ひまわり教室の指導に関わっています。生命誌研究館の前館長の中村桂子さんのお話が中学校の教科書に載っていますし、以前美山中学校にゲストとして参加されていて、「ロマンと科学」という内容でお話を伺ったことがあります。それで、村田さんの前回のGSにも参加したかったのですが、できなくて、今回はうれしいです。

R・Eさん:娘が小3の時に、交流活動センターで開催された子ども用の「グローバルパスポート」という事業に参加して以来のお付き合いです。

E・Tさん:Global Sessionに参加して6年目です。最近仕事を変り、仕事場が京都の八幡なので、住居も実家のある京北町からくずはに変りました。今日は、そこから来ています。

村田英克さん:では、私も自己紹介からはじめます。昨年2019年にジュニアワールドフェスタの講師として呼ばれ、その後、Global Sessionにも誘われて以来のお付き合いです。生命誌研究館では、「表現を通して生きものを考える」セクターに属しています。この部署では、生命科学、生きもの研究の成果を、「生きているってどういうこと?」という誰もが抱く問いに重ねて捉え、日常の「生きもの感覚」に重ねる表現として、展示、映像、Web、季刊誌など様々な方法で発信しています。研究館は小さな組織でメンバーも全体で30名くらい。

「なんでJTがやっているの?」という質問は児嶋さんにも最初に聞かれました。

そもそも30年ほど前、「生命誌」というコンセプトを提唱し、それを実践する生命誌研究館という機関を構想したのは、分子生物学者の中村桂子名誉館長で、そのプランをJTが100%支援する形で実現し、現在はグループの社会貢献事業の一つとして活動しています。今年の4月から生命誌提唱者の中村桂子先生は名誉館長となり館長として細胞生物学者であり歌人である永田和宏先生を迎えました。

研究と表現と常に両面あるのが研究館の特徴です。1993年の研究館設立の時に、ここで何を研究し、何を発信したいのか? 研究館のVisionを表現した最初の作品が「生命誌絵巻」です。

この絵は、地球上の生きものはすべて、38億年という時間をかけた多様な表れとして、今ここに生きていることを表しています。この中で、人間も決して特別な生きものではなく、多様な生きものの一つとして、他と同じ資格で存在していることを示しています。絵に描かれた扇の縁(画面上)は現在、扇の要(画面下)は38億年前です。

「ひとのときを想う」というのがJTのキャッチフレーズです。JTグループの生命誌研究館の立場から、私はこの言葉を「生命誌絵巻」に引き寄せて、「(生きもののつながりの中の」ひとの(38億年の)ときを想う」という風に言っています。「絵巻」って時間の流れに沿って展開する表現形式です。普通の絵巻、あるいは年表は、左から右へ、または右から左へと線的に展開しますね。でも生きものが持っている時間は、進むに従い多様に展開する、つまり扇型に広がっていくのです。だから「生命誌絵巻」は扇形になります。金子みすずの「私と小鳥と鈴と」じゃないけれど「みんなちがってみんないい」のが生きものの世界なのです。生きものって本質的に「多様化する」システムなのです。

「生命誌絵巻」の要にいるのは地球上で最初に生まれた生命体、細胞です。今生きている生きものはすべてこのご先祖様から多様化した仲間だと考えられています。「生きている」基本単位は細胞です。細胞にはゲノムDNAが入っており、ここに遺伝情報が記されています。遺伝情報って言いますけれど、それは何かと言えば、生きるレシピのようなもので、その生きものがどのように生きるかに必要な固有の情報です。具体的には、長い紐状の分子であるDNAの塩基(はしごの段のような一つ一つ)の部分に4種類(A:アデニン, T:チミン, G:グアニン, C:シトシン)あり、それがどんな順番で並んでいるかが固有の情報になっているわけです。AGATAGATACAT とGATCAGTTA とでは違いますでしょ。でも驚くべきは、すべての生きもの、ヒトもキャベツも大腸菌もこの並びが違うだけ、つまりA,T,G,C という4種類のアルファベットは共通言語なわけです。基本は親から子へというように世代をつないで縦方向に遺伝情報は伝わり、それが変化することが進化にもつながりますが、長い進化の中では、ある生きものから別の生きものへ、同時代で横方向へ遺伝情報が伝わることもある。縦糸、横糸で織り上げられるように。あとで話題に出ますがウイルスは生きものではありません。細胞を基本とせず細胞よりさらに小さな存在です。ウイルスは膜や殻の中に遺伝情報をもち、他の生きものの細胞に寄生して、宿主細胞のしくみを乗っ取って、自分を増やすのです。さらに、お世話になった細胞を壊して出て行ってしまう困り者です。長い進化を振り返ると、このウイルスが生きもの間で遺伝情報の運び手になったという事実もあったようです。多くの陸上動物は、次の世代の個体を卵という形で産み落とします。「生命誌絵巻」で水色の背景の部分に描かれたように、生きものは誕生から33億年の間も海の中で、水環境を離れず生きてきました。生きものが陸上へ進出する際に獲得したしくみのひとつが、乾燥に耐える卵です。さらに私たち哺乳類は、お腹の中に海を抱え込むようにして次世代を育みます。胎盤を形成できますね。この胎盤の形成にはたらく遺伝子の一つはホ乳類の祖先がウイルス経由で獲得したと考えられています。(季刊「生命誌」81号(2014年)Research「胎盤の多様化と古代ウイルスーエンベロープタンパク質が結ぶ母と子の絆ー」宮沢孝幸(京都大学)https://www.brh.co.jp/publication/journal/081/research_1.html)。

細胞の中にあるゲノムDNAには、その生きもの固有の生きるレシピのようなものが詰まっていると申しましたが、それは、生きものごとの、38億年の代々の継承の過程で生じた紆余曲折の変遷を記してもいます。つまり歴史が記されていると言ってもよいわけです。実際に、例えば「ヒトとチンパンジーは、今からおよそ700万年前に種が分れた。」という理解は、両種のゲノムDNAを比較して、塩基の並びにどれだけ違いがあるかから推定しているわけです。

グローバルセッション開始

児嶋:このGlobal Sessionに初めての方もいらっしゃるので、約束ごとだけ言っておきますね。ひとつは、「当てない」、次は、「黙っていてもよい」最後に、「どこから会話に入ってきてもよい」この3つです。これは、1999年にこのGSを始めた時に、仙台の横瀬和治さんに指導していただいた時からの約束ごとです。どうぞ、ご自由に話してくださいね。

藤田さん:虫の中でも嫌われ者もいますね。ゴキブリは退治しますね。以前テレビでゴキブリを食べているのを見たこともありますが。

村田さん:ヒトもゴキブリも生きものは多様ですが、「好き、嫌い」など人間の価値観も多様ですね。私も、ゴキブリを見ると確かにギョッとします。本能でしょうか?すばしっこく動く小さな黒いものに反応します。ゴキブリもネズミも栄養を摂取するために、人間が不潔だとするような場をも住処にし、実際に人間にとっては有害なものを運んで来ることもあるので、私たちの日常ではあまり好ましくない存在とされますが、ゴキブリという生きもの自体は不潔ではありませんね。「私は家でゴキブリが出たら手でつまんで外に逃がす」という人もいます。

藤田さん:ゴキブリは狙われていることに気づく能力があるようです。

村田さん:そうでなければ、今、生き残っていないでしょうね。

R・Eさん:NHKで見たのですが、目の光りもウイルスに関係するのでしょうか?

村田さん:すみません。私はその番組を見ていませんし、ウイルスと、目で光を受容するしくみとの関係で今、思い当たることはないのですが、今の話題から一つ思うのは、遺伝子の働きって、皆さん目的的に解釈したいわけですが、生きものがもつ柔軟性って目的的解釈や因果に縛られていないということです。遺伝子って、ある場面ではある機能を発揮するけれど、同じ遺伝子が別の状況に置かれるとまったく異なる機能を発揮するのです。その例が目で光を受容する際に必要な透明なレンズをつくっているクリスタリンというタンパク質の遺伝子です。これは結晶化すると透明になるという特徴がたまたまあって、もともとは酵素反応するタンパク質として体の中で働いていたものが、進化のある時期、光受容という新しい機能を実現するに際して、「君、こっちで役に立ちそうね」ということでレンズにリクルートされた。生きている全体のしくみとしてうまくまわっていれば、とりあえず手元にある材料でなんとかこと足りればそれでいい。一つのものをいろいろな用途にうまいこと使い回す「ブリコラージュ」が上手なわけです。そうでなければ38億年続かない。目的的な機械とは違う。生きものって、やわらかい、ある意味で「いい加減な」システムなわけです。

E・Rさん:突然変異とかも?

村田さん:「突然変異」って言葉が変な印象を与えますよね。「突然」っていう言葉がちょっと日常感覚からすると違和感あります。遺伝情報は種によって違いますし、同じ種の中でも個体によって皆、少しずつ違います。私とあなたの遺伝情報は、大きく見ると同じヒトとして括れます。チンパンジーやゴリラ、さらに現在は絶滅してしまったネアンデルタール人など人類の別種とは、違うグループ、ホモ・サピエンスと呼ばれる共通の特徴を持つ仲間なのです。その一方で個人差があります。今の地球に77億人いるとすると、ヒトゲノムの塩基配列は77億種類あって、これはある時点だけの話ですから、過去、現在、さらに未来の可能性を考えると膨大な多様性です。これまでの話にもあったように進化の長い時間で考えれば、遺伝情報は継承されながら変化していくものです。そうでなければ生きものは多様化できません。私と私の親、私の子供の遺伝情報も違います。遺伝子の変異はいろいろなレベルで起こります。例えば、環境から影響を受けやすい表皮細胞などで、紫外線を浴びることで細胞の核の中のDNAに変異が起こることがあるようです。私たち多細胞の生きものを構成する細胞の種類は、その個体の一生の中ではたらく「体細胞」と、世代を超えて伝わる「生殖細胞」の2種類があります。体細胞である皮膚細胞で起こる遺伝子の変異はその個体の中での現象ですが、生殖細胞での変異は世代を超えて種のあり方に影響します。

藤田さん:トカゲはしっぽ切って逃げますね。

村田さん:自切ですね。外敵に襲われた時などに、尻尾を切り捨てても本体は生き延びるための戦略ですね。昆虫でも自切はあります。研究館で飼育しているナナフシがそうです。これは木の枝に擬態しており人気の生態展示ですが、ナナフシも脚を自切して身を守ります。自切した脚はまた再生します。以前、再生のしくみを探る研究で注目したのがきっかけで飼育を始めました。イモリも再生力が強いですね。例えば腕から先を失った場合に、もともとあった構造をもう一回作り直すことができる。そんなこと私たちヒトにはできません。そのように発生プログラムをもう一回やり直す秘訣がイモリの場合、全身を流れる血流の中にあるそうです。これは私たちが発行する季刊「生命誌」でとりあげた研究の一つ(季刊「生命誌」99号Research「イモリの再生と赤血球の不思議」千葉親文(筑波大学)(https://www.brh.co.jp/publication/journal/099/research/2.html)で、取材してとてもワクワクしましたが、まだまだわからないことっていっぱいあるわけです。さっきから細胞、細胞って、僕、言っていますが、細胞ひとつだって、どのようなしくみかは、まだわかっていません。人間が人工的に細胞をつくることはできないわけ、わからないからです。これは生命誌研究館の表現で大切にしていることです。「わからない」ということです。一般的に、科学には「わかること」「わかったこと」が期待されます。でも世界はわからないことに満ちていますし、だからこそ科学は面白い。それは、表現、もっと言ってしまうと芸術というものの持っている魅力と同じではないかと思います。わかったことだけでなく、わからないことをふくめて、いかに継承し得るかという実践が学問にとっても、芸術にとっても、つまり人間の文化にとっての“キモ”ではないかと思います。実際に、生きものは、細胞はそれを38億年実践しています。細胞がやっていることは「生きている」という働きを継承しつづけることです。DNAなどの形で記された情報というのは、その出来事の一部でしかありません。何が書いてあったとしても、そこに書かれたことを読み取り実践する「働き」が生きていなくては、外在化されたテキストは何の意味も持たないわけです。細胞が生き続けているからこそ、働きが継承されていくのです。人間の学問、文化という営みも同じことではないでしょうか。ゲノムDNAに誌(しる)された生きものの歴史を読み解き、生きているとはどういうことかを物語る文化としての「生命誌」という風に私は自分の仕事を考えていますが、その方法を模索する中で、ひとつの可能性を感じて、私は、能楽をやっています。

もちろん玄人でなく、素人弟子の一人として、能楽囃子方大倉流小鼓方のお稽古を続けています。この芸能を、最初に「能楽」と言ったのは、江戸から明治への移行期に、欧米のオペラに拮抗する芸術として「能楽」をプロデュースした井伊直弼ですが、もともと古来の列島の文化が収斂するようにして、中世の時代に、申楽、猿楽、散楽として形成した総合芸能です。その大成者は観阿弥、世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛、正平18年/貞治2年(1363年)? – )父子。私は1963年生まれですから、世阿弥はちょうど600歳年上の大先輩です(笑)。現代まで謡曲として伝わる能の曲目は200曲以上ありますが、その主な作品はこの頃に、その時代の解釈によって、「古事記」の神話の世界、平安期の和歌の世界、源平など歴史物語、さらに時事の出来事に取材した今で言う「ドキュメンタリー」、近世の歌舞伎や文楽で「世話物」と呼ばれるような人情味溢れる時節の庶民の喜怒哀楽を表現する物語…老若男女貴賎都鄙あらゆる人びとにとっての豊かな物語を歌謡や舞いで表現する娯楽として成立し、今に伝えられているわけです。囃子方は、能舞台で、おシテ方の謡や舞を囃すのが務めです。能楽師は、シテ方、ワキ方、さらに囃子方は、笛(能管)、小鼓、大鼓、太鼓とそれぞれを専業とします。雛祭りの人形に五人囃子がありますね。能舞台では、松の描かれた鏡板の前に、あの順番で左から右へ各パートが並びます。どのパートにしても、能舞台に必要なすべてのパートが身体に入っていなければ務まりません。能楽師は、200曲以上の能の曲目に関する技芸を、生きた働きとして世代から世代へと約700年、師から弟子へ、それぞれの身体から創発する働きとして常に実現し続けているわけです。外在化された謡曲の節回しなどの謡い方や言葉書き、囃子方の譜があるにはありますが、西洋音楽が五線譜に記すような客観的な記述ではありません。外在化されたテキストから何かが生成するわけでなく、生きた能楽師から能楽師へと継承される働きが、外在化されたテキストをうまく参照しているという感じです。これは、細胞を単位とする生きものがゲノムDNA を参照するのと同じようなことなのでしょう。それでは、ここで小鼓と謡の実演させていただきます。これが楽しみでここへやって参りました(笑)。今日は「雲雀山」という曲の中之舞の前にくるサシ・クセのところです。(演奏)

藤田さん:先生とお呼びしたいですね。今後、人間の寿命は最高で120才と言われていますが、何かデータはあるのでしょうか? 現在は男性の平均寿命は84才だと思いますが。

村田さん:「人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」という謡が幸若舞の「敦盛」にあります。以前、やはり季刊「生命誌」の取材で、あるお医者さまの話を伺いました。人間を「ホモ・サピエンス」と呼びますが、これは「賢いヒト」という意味ですが、人間ってぜんぜん賢くないじゃんとおっしゃって『ホモ・ピクトル・ムジカーリス』という本を著し、絵を描き、歌い、踊るのが人間という生きものの特徴だとおっしゃる岩田誠先生です。岩田先生は実は神経内科のお医者様で、先生がおっしゃるにはヒトの身体の耐用年数は40年ということです。もともと四足動物だったものが、重力に逆らって立ち上がり二足歩行をしているわけですから、身体の構造に無理がくる場所が4つある。それを「神様の失敗」と先生は呼んでいます。そういうところに無理をかけてはいけないから、スポーツはやめたほうがいいと先生は主張します。オリンピックの競技も今はいろいろありますが、古代オリンピックでは、円盤投げ、走り高飛び、駆けっこなど、人類が猛獣と共存するために必要な身体技能だったということで、そういう生存に必要な身体技能以外で身体に無理をかけるスポーツはやめなさいと先生はおっしゃっています(笑)。現代は、iPS細胞研究などに象徴される再生医療に期待が集まっていますね。難病が克服され健康な人生が長く続けられるようになるのであれば、ありがたいことだと思います。健康に、元気に生きられるのであれば120才まで生きても、あるいは生かされても、よいのかもしれませんね。

R・SSさん:生命とは何かを考えさせられました。個体はなくなっても次に続けばいい。それが生命なのかなと思います。ウイルスも新しく作りつながっていくのでしょうか?「死ぬ」と言っていいのでしょうか?生命の定義の根拠とはどういうことなのかと考えています。

村田さん:答えは難しいですね。生命、生きものの定義は、さきほどお話ししたように「細胞」が基本です。その意味でウイルスは細胞の機能(自己と外を分ける膜、自己複製する、代謝する、進化する)を満たしていませんから生命体とは言えません。けれども、拡大解釈すれば、寄生する宿主細胞の力を借りてですが、ウイルスだって、結果的に自己複製し、進化(変化)しているわけです。ウイルスを生命だと認める立場の研究者もいるようです。細胞とは異なるウイルスのような存在様式が、生命の起源を考えるヒントになっているということもあります。

S・Oさん:「生命とは何か」は古代から先人達も考えてきたと思います。観阿弥・世阿弥も表現者であり、このストーリーは、次へつなぐ課題だと思います。

村田さん:「考える。共感し、語り継いでいく。」それには、その場限りのコミュニケーションでなく、ものづくり、作品として外在化される表現にするということが、とても大事だと思っています。

N・Kさん:今日のGSはとてもおもしろいと思いました。生命誌研究館が「科学のコンサートホール」であるというのもおもしろいですね。以前、「生命誌版セロ弾きのゴーシュ」を拝見しました。宮沢賢治の思いが音楽劇として描かれていて、ベートーベンの第6交響曲を思っていました。自分もピアノを弾きますが、やっとモーツァルトをやっているような状況です。でも、どれも300年前からつながっていて饒舌なおしゃべりのような雰囲気が変わらずあります。お能をやっていらっしゃるそうで、いろいろな組み合わせからできているのもわかります。

村田さん:ありがとうございます。私がお能をはじめたきっかけは、ご覧いただいた「生命誌版セロ弾きのゴーシュ」です。この作品で、中村先生と共に舞台で語りを勤めました。猫、カッコウ、タヌキ、ネズミの4役です。この時、自分の身体を通して、言葉を声にしてあらわすということが、表現の基本としてかなり腑に落ちたのです。人類は太古の昔から「生きているとはどういうことか」を探求する方法として、身体を通して、思いや言葉を、声や音楽に表していたに違いありません。その考えを継続的に検討する方法を模索し、能楽に出会い、これに取り組んでいます。

E・Tさん:アゲハチョウの話に興味がありました。YouTubeで「蚊が死んだらどうなるか」という番組を見たことがありますが、動物が衰退して消えたら、地球全体はどうなるのかと考えます。僕はきらいな動物もあります。蛙とゴキブリはきらいですが、これらの動物が消えたらどうなるといえるのだろうかと考えていました。

村田さん:生態系の研究でも、数理的なシミュレーションが最近よく行われます。天気予報と同じです。種間関係のバランスの中で、ある種が消えたらどうなるかというシミュレーションは可能です。でもそこから出てくる答えは絶対ではありません。シミュレーションの結果はパラメータひとつで大きく変わります。誰もそこに絶対的な値を与えることはできません。あくまで可能性を予測する方法です。人間も絶滅するかもしれませんし、ある種が絶滅しても、また新しい種が生まれるかもしれません。歴史はそのくり返しでした。

藤田さん:小さなコバチがイチジクの中で生活し、いずれ出て行くという話が面白かったです。

村田さん:「生命誌かるた」の話ですね。「イチジクは コバチと共に 生きている」。研究館で行なっている研究を読者の方が詠んでくださった句です。この「みんなでつくる『生命誌かるた』」は現在も募集中です(https://www.brh.co.jp/news/detail/597)。

いろはにほへとちりぬるを…47音ではじまる生命誌を詠んだかるたの札の言葉を募集中です。皆さんと一緒にかるたをつくる企画ですから、G.S.の皆さんも是非ご応募ください。選者は、永田和宏館長と、中村桂子名誉館長です。そして、高槻は亀岡の隣ですから、どうぞ皆さんで生命誌研究館へご来館ください。今日のお話の続きをご案内します。ではまたどうぞ、よろしくお願いします。

2020年10月24日(土)第334回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2020年10月24日(土)10:30~12:00
場所:ガレリア3階会議室
ゲストスピーカー:サムエル・シードさん(カナダ出身・亀岡市国際交流員)
コーディネーター:亀田博さん(ツアー・ガイド)
参加者:9名

 今回のタイトル:日本語能力がある外国人からの関西の社会に対する見方

参加者の自己紹介

K・Wさん:サムさんとお話ができるのがうれしいと来ました。「みんなのネットワーク」の理事をしています。(本梅町在住)

M・Oさん:薭田野町に住んで居ます。しばらく来ていませんでした。今日は参加出来てうれしいです。

K・Iさん:Native Kameokanです。銀行で仕事をしていましたが、リタイアをして今はフリーです。旅行のために英語を話したいと思い、いろいろ勉強していますが、今はいけないのが残念です。

T・Oさん:「みんなのネットワーク」でいろいろやっています。英語はわからないのですが、サムさんは日本語が流暢なので、それで、カバーできるかと参加しました。

M・Fさん:並河在住です。映画会社に40年以上勤めていましたが、今は、リタイアし、NPOで子ども達に映画の作り方を教える事業をしています。シナリオ作りとか、月~金で出席しています。長く英語を話していないので、今日は話したいなと参加しました。

児嶋:このGlobal Sessionは、私は亀岡交流活動センターで仕事をしていた1999年にはじめ、月に1度の開催で、今回は334回目になります。すでに、20年以上続けていることになります。Fさんは、その最初からのメンバーで、Kさんは、その少し後からの参加で今も続けていらっしゃいます。

サムさん:サムエル・ジードと言います。国際交流員をしていて、毎日日本語で話しているので、今日は、英語で思い切り話せてうれしいです。24歳です。(ええっ!)

大学の時に留学する前には、「日本に行ってみたい」という気持ちだけだったのですが、Bronislaw Malinowski という文化人類学者の本を読むと、「もっと冒険もあるかもしれない。もっと研究してみたい」と思えるようになりました。

この人は文化人類学者として、新しい人類学の研究の仕方を発明したと言われています。それまでは、人類学者は、外国に行って見たことや感じたことを書くものと思われていましたが、このM氏は、「文化を知りたければいっしょに暮らし、しゃべらないとその地の習慣の意味などはわからない」と言っていました。

これで、私もMichiの文化を知りたいと思うようになりました。もちろん、日本人にはなれませんが、日本人に近い文化の見方を経験したいと思ったのです。

亀田さん:このBronislaw Malinowskiという人は、ポーランド(元オーストリアーハンガリー帝国領)のクラクフで生まれ、大学を卒業後、ドイツのライプチヒ大学で人類学に興味を持ち、当時人類学研究が盛んであったイギリスに渡る。オーストラリアを旅行中、第1次世界大戦が始まり、イギリスはドイツに宣戦布告し、当時オーストリア国籍だったマリノウスキーは、イギリス領内で帰国出来ず、パプア・ニューギニアには行けたので、その後マリノウスキーは、長期にわたって現地の人々と行動を共にし、その生活の詳細な観察を行うこととなり、人類学研究に初めて参与観察と呼ばれる研究手法が導入されることとなった[3]。その後、第二次世界大戦が勃発すると、マリノフスキはアメリカ合衆国に定住し、イェール大学の客員教授となる。
1934年にマリノフスキはラドクリフ=ブラウンら若い人類学者たちとアフリカ総合研究プロジェクトを立ち上げ、アフリカの南部と東部にフィールドワークを兼ねた調査旅行に向かう。(56歳で死亡)

サムさん:日本にいて、他の地方に旅に出て、亀岡や西宮(留学中にホームステイ)に帰るとほっとし、いやされます。

M・Fさん:big cityは、またちがいますからね。

サムさん:西宮の関西学院大学には11ヶ月いました。

M・Oさん:関西学院大学は女子が多いのですか?

サムさん:そうではないですね。西宮の兜山にありますが、今だったら、留学生はマスクをしなければならないので、言葉がもっと通じなくて大変だろうと思います。

僕の時は、英語圏から来た留学生は、日本人に英語をもっと話せるようにしてやろうと思うようですが、自分はそうはしませんでした。

自分の顔を見た日本人は、「この人と英語で話さなければならないのか?」と思うようで、それに対して、自分が日本語で話かけると、その人たちの目が変わるような気がしました。人類学者が日本の文化の中に入ってきたような感じがしました。

S・Sさん(シリア出身):外国人を見た人は、こちらが日本語で話しているのに、英語で返す人もいます。知り合いの中には、日本人でも英語を話したがる人もいます。その人次第ですね。顔だけでは、その人が英語を話したいのか、日本語を話したいのかわからない時があります。

亀田さん:ことばの種類の表を作って来ました。

敬語:honorific word 丁寧語:polite word 尊敬語:respectful word
謙譲語:humble term

タメ口:informal way of speaking 「ため」は、さいころ賭博でふたつのさいの目が同じになること(年下のの物が年長者に対等の話し方をすること。)

M・Fさん:京都の祇園もことばがちがいますね。

亀田さん:関西でも京都と大阪は違います。祇園の舞妓さんは、ビジネスワードとして、「おおきに」「おこしやす」「おきばりやす」などを使います。また、京都のことばおしては、
1.いけず  2.~したはる  3.しおし  4.おはようおかえり  5.~のたいたん
6.かなわんわ  7.あかん  8.ほかす  9.さいなら  10.おおきに

S・Sさん:住んで居ても関西弁のちがいはあまりわからなかったのですが、今日の説明はわかりやすいですね。

亀田さん:大阪は関西弁が一番強いところですね。関西のおばさんの関西弁は特に。

M・Fさん:留学生は標準語の日本語を学習してくるでしょう。関西弁は全くちがうように聞こえるかもね。

M・Oさん:若い人は案外標準語を使っていませんか?西宮は関西でも上流の住宅地と言われていますね。

サムさん:映画やテレビで日本の様子を外国で見た外国人は、日本では、電車を待って居る時には、みんながきれいに並んでいるイメージを持っていると思います。また、来日すると、あまり話さない日本人に対して否定的になります。気持ちを出さないのは、日本の社会が閉鎖的であると。これは、あまり知らない人に最初は話さないという文化のちがいだけなのですが。この点は、残念です。

S・Sさん:(改めて自己紹介)
Safwan Hindawiと言います。本当はもっと長い名前ですが。私が、「S」ですというと、必ず、「サフラン」と言われるので、ニックネームは、「サフィ」です。と言っています。サフィと呼んでくださいと。シリアから日本に来たのは、今から、19年か20年前で、人生のほとんど半分になります。何かが自分の魂と結びついてここにいるのだと思います。日本も好きで、シリアの家族も好きですが。今は戦争で帰れませんが。

児嶋:サフィさんは、立命館大学のアジア・太平洋大学に留学し、卒業をされています。

亀田さん(C):サムさん、あなたのパーソナリティはどのようなものだと思いますか?

サムさん:英語では静かに話しますが、日本語では話し出すといっぱい話します。カナダでは友人達と。皮肉を話すことが多く、言っていることの反対が本当の気持ちであることが多いです。皮肉をわかり合うと友情が深くなるという考え方があり、通常、皮肉を使わない方が難しいです。でも、同じように日本語を話しながら、皮肉を言うとわかってもらえない方が多いです。

K・Iさん:関西弁の皮肉も同じですね。ストレートに言うと、「あほちゃう」と思われて。

サムさん:日本でも、言いたいことがあると、そのまま言う方が気持ちが通じると思いました。でも、ほめすぎるといやみっぽくなりますね。

M・Fさん:「ほめごろし」という言葉もあります。

サムさん:褒め殺しが多すぎて、黙って居た方がいいのかと思ったこともあります。

M・Fさん:「沈黙は金なり」ということわざもあります。

サムさん:カナダでは、そのような事が原因で退学することもあります。

K・Wさん:言い過ぎてしまうのですか?

サムさん:言い過ぎるとつきあいが難しくなりますね。

児嶋:それは日本と同じでしょう。

サムさん:日本語は自分にとっては、第2言語ですが、気持ちが出せないわけではありません。

サフィさん:母語でないと気持ちが入らないというのは、その人次第だと思います。

児嶋:私は、福井市出身で、福井のアクセントは実は特別で、一型アクセントと言われる地域で、関東アクセントと関西アクセントが混じり合い、言葉に対して、どこにアクセントを置くべきかが頭の中でわからない場合を指します。大学卒業後、京都府の宇治市で小学校の教師になったのですが、国語の本を読んでも、この地域がどちらにアクセントがあるかがわからないものですから、「まず、読んでね」と子どもに助けを求め、ひとつづつ、この辺のことばのアクセントを学んだ経験があります。日本語の中でもいろいろですから、標準語の日本語と思って来ても、関西ではまたちがったという経験があると思います。

M・Fさん:最近は、若い女の人は、もっとはっきり言ってもいい感じがします。

サムさん:カナダのトロントは人口の半分が移民であり、いろいろな顔やいろいろな言葉が飛び交うのが当たり前の世界でした。日本に来て、どちらを向いても同じような顔ばかりで。そちらの方が大きな驚きでした。
藤田さん:電車の中であまり話さないのは、特に若い人は、知らない人に対して「すましている」のだと思います。「すます」という言葉を知っていますか?
岩森さん:興味があったら、「あんた、どう思う?」と聞いたらいいですよ。

S・Sさん:日本の若い人は話かけてきますね。英語で。

M・Fさん:外国に旅行に行くと、何人などは関係なく、よく話しかけてきますね。日本で話しかけて答えないのは、かっこつけてるからでしょう。

M・Oさん:私は、以前は、外国人が前に座ると、必ず話しかけていました。

サムさん:若い人は、外国人が日本語で話しかけると雰囲気が変わると思います。バスの中で中学生のグループがいて、「白人」とか言っているのを聞きました。日本語で「ありがとうございます」と言ったらびっくりして、英語で話したそうでしたが。

M・Fさん:学校で外国人と会ったら、話をしようと言ったらいいと思いますが。京都の人は結構保守的ですが。

S・Sさん:話しかけやすい雰囲気もありますね。子どもや犬といると、誰でも話しかけてきます。大学生で別府に鋳たとき、日本語はまだ全く、ゼロだったのに、おばちゃんに「こんにちは」と言ったら、おばちゃんから日本語のシャワーが降ってきました。

K・Wさん:イギリスに住んでいましたが、イギリス人は、世界中の人が英語を話すと思い込んでいる雰囲気がありました。

亀田さん:大阪でも、おばちゃんは、関西弁で誰にでも話しかけますね。京都も今は結構話しかけますが。ちょっと前までは、京都市内の観光は中国人が多かったですが。いなかへ外国人が行くと喜ばれますね。

サムさん:嵐山では、全部英語で話しかけられました。亀岡は大分知られているので、ちがいますが。

S・Sさん:若いママなどは、自分の妻のヌーラに対しても気を使っているようですが、おばちゃんは、「やせたんやないの!」などと、ぱっと言い、バリアを感じないですね。

K・Iさん:話しかけられると、“What do I say to him?“(なんて言ったらいいの?)とどぎまぎしているのが顔に出ますね。

サムさん:こちらが何も言わないと、どう対応したらいいのかがわからないようですね。日本語ができない人だとどうしていいのかわからないという気持ちが顔にでます。それで、日本語で話すと、ほっとしているのがわかります。

K・Iさん:先ほど、サムさんがライプチヒ大学のMalinowskiさんに影響を受けたという話をされましたが、私の孫もドイツのライプチヒ大学に留学していたことがあり、何かのつながりを感じます。この人がなぜ、ニューギニアで研究をしたのでしょうか?

亀田さん:先ほどに続けていうと、英国の大学にいたM氏は、オーストラリアに旅行中に、第1次世界大戦が始まり、オーストリア・ハンガリー帝国国籍だったM氏は、その地域がドイツ領となり、英国はドイツに参戦し、M氏は当時英国に帰国できなかったようです。それで、ニューギニアには行けたので、研究対象にしたと書かれています。後にオーストラリア人の女性と結婚しました。

T・Oさん:GSに初めて最初から最後まで参加しています。西宮の兜山の話が出ましたが、西宮は関西でも文化都市で、質が高い町です。私はグンゼで働いていましたが、西宮に5年間住んで仕事をしていました。タイのグンゼにもいました。当地は、「日本の常識は非常識」と思われるほどのちがいがありました。6人の日本人がタイの人と共に仕事をしていましたが、ちがいが大きくコミュニケーションができないと会社の成果にもつながらないと思い、通訳の人数を3倍にしたりしました。すると、2年間で黒字に転換ができました。互いに理解できないと仕事もできないですね。

サムさん:私は、自分の先祖が日本人ではないかと思うほど日本が好きです。

児嶋:サムさんやS・Sさんを入れて、1.5時間をあっという間に越え、2時間近く、だれも話さない時間が10秒もありませんでした。サムさんには、また2021年度もどこかの月にGlobal Sessionにゲストとして来てもらうようお願いしました。