2021年3月27日(土)第338回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2021年3月27日(土)13:30~15:30
場所:ガレリア2階大広間
ゲストスピーカー:崎 ミチ アンさん(同志社女子大学表象文化学部 英語英文学科 教員・カナダ出身)
コーディネーター:四方美智子さん
参加者:13名

 今回のタイトル:「多文化共生社会時代の子育てとは」

This global session will be interactive in that all session attendees will share their thoughts, experiences and opinions about the topic of raising children in a multicultural Japan.

Topics and questions for discussion:

What does “multicultural co-existence” mean in the Japanese social context?

Multicultural co-existence in Japan: the past and present

Trends and Challenges of raising children multiculturally and multilingually in Japan (issues at home, at daycare/school, medical facilities, public facilities, etc.)

How can we try to better co-exist multiculturally in Japan?

(日本語訳:﨑 ミチ アンさん)

このグローバルセッションでは、多文化な日本における子育てについて、参加者同士がそれぞれの考え方や経験、そして意見を出し合い、共有する場です。

話し合いのためのトピックスおよび質問事項

日本の社会的状況における「多文化共生」の意味とは何か?

日本における多文化共生について:過去そして現在の状況は?

日本における多文化にまた多言語で子どもを育てるという傾向と課題とは?

(家庭で・学校や保育所で・医療施設で・公共施設などで)

日本における多文化共生社会をより良くするために、どのようなことに挑戦すればいいのか?

参加者自己紹介

四方(C)さん:最初にこのGlobal Sessionを亀岡市交流活動センター(宮前町)で立ち上げられた時からのオリジナルメンバーです。いつもトピックスがタイムリーで、よく刺激を受けています。楽しみながら、多文化共生や国際理解をこのGlobal Sessionに参加していきたいと思います。

サムさん:カナダ出身で、カナダのゲストと話したいです。国際交流員です。

M・Fさん:話すと長いのですが。亀岡とオーストリアのクニッテルフェルトと姉妹都市盟約をされ、その一団がオーストリアにいらした時にお手伝いをし始めてからのお付きあいになります。今は日本に来ていますが、オーストリアには40年以上暮らし、日本語教師をしてきました。複文化・複言語に興味を持って、その勉強会に参加しています。夫(オーストリア人)と共に亀岡市内に暮らしています。夫は農業に興味があり、いろいろな方にお世話になっています。

H・Iさん:前の職場であった亀岡交流活動センターで始まったGlobal Sessionに1999年から関わっています。この20年間1ヶ月に1回の開催でしたが、いろいろなテーマが取り上げられて来たと思います。

Mu・Fさん:私も最初から参加しています。以前の交流活動センターの環境はすばらしかったです。いつも新しいテーマを取り上げ、刺激を受けてきました。私自身はNPO法人として映画会社に勤務後、京都映画クラブを立ち上げ、子ども達に映画作りを教えています。京都では時代劇を、草津市では、名所を尋ねる内容で作成しています。

K・Yさん:20年ほど前に、交流活動センターで仕事をしたときからのお付き合いです。
(児嶋:Yさんは、読み聞かせの専門家で、本の音声入力ボランティアもされています。ひまわり教室では、毎回絵本や、かみしばいを読んでもらっています。)

R・Sさん:ひまわり教室で学習支援をしています。外国につながる子どもたちのことばの獲得と学力とのつながりは大きいと感じていて、その方法が課題です。
(四方:教員だった私の上司で校長先生でした)
(児嶋:ひまわり教室を開校することになった子どもたちとお母さんがいた学校の校長先生でした。それに、私の次女の小1の担任の先生でした。大昔からの知り合いです。)

S・Yさん:今は能勢町に住んでいますが、亀岡市に住みたいと家を探しています。多文化共生センターが亀岡市に開設され、知り合いになりました。子どもは二人いますが、今は、ここの託児所に預けてきました。夫とは、カナダで出会ったのですが、もとは、アルメニア出身で、カナダに移住していました。夫は英語、日本語、ロシア語、アルメニア語を話しますが、今は、コロナでまだ、日本に来れなくて、9ヶ月直接は会っていません。

四方:アルメニアは、トルコやロシア、アゼルバイジャンと闘争中ですね。

H・Uさん:はじめての参加で四歳半の子ども(やまだはるよ)がいます。東南アジア研究をしていて別の所に長く住んでいたのですが、世界人権問題研究センターの研究員となり、京都に移住しました。フィリピン研究者として、学校にも入って行っていました。
(児嶋:ひさしぶりに亀岡でUさんの社会教育の講座があり、お会いしました。)

M・Kさん:現職の教員で、以前は、ネパールに2年間研修に行っていました。ネパールは多文化共生の社会であり、それが当たり前でもあったので、この点を柱にしたいと考えています。日本もそのような社会になりつつあるのに、まだその感覚ができていないと感じています。学校でもこれから取り組んで行きたいと思っています。

グローバルセッション開始

四方(C)さん:Global Sessionの約束ですが、1.当てない 2.どこからセッションに入って  きても良い。これをまもるために私は、当てません。

ミチさん:今年は桜が早くて、駅についたら、人が多くてびっくり。明日は雨かもしれませんね。

 今日は、花見に最適かもしれませんが、このように天気がいいときに来ていただいてありがとうございます。自己紹介を少ししますと、私は、崎 ミチ アンと言います。カナダのブリティッシュコロンビア州の出身です。在日25年になります。日本には最初にJETプログラムの英語指導助手として仕事を始め、2年が5年になり、あっという間に10年が過ぎました。結婚し、子どもができて今も日本に住んでいます。

 カナダは、多文化、多言語地域でカナダに生まれるとカナダ人となり、人々はいろいろな国から来ています。そのため、カナダの言葉とその国の言葉を話すのは当たり前の環境でした。日本で子どもを出産したとき、病院で、看護士さんが、「外人の子はかわいいね」と言うのを聞いてびっくりし、不安にもなりました。自分は「外のひと」なんだと。もちろん、悪い意味で言われたのではないことはわかっていましたが、なぜか大きな不安を覚えたのです。子どもが4才になったとき、夫と子どもの言葉はどうしたほうがいいのかと話合いをしました。それまでは、母親である私とは、英語と日本語と両方で話し、父親である夫とは、日本語で話していました。「日本にいるのだから、日本語の方がいいのではないか?」誰に相談したらいいのかよくわからなかったので、義母に聞くと、もちろん「日本語でしょう」と言いました。

 でも、自分の母語は英語なのに、なぜ、日本にいるからと行って母語ではない日本語で話さなければならないのか?日本語では自分の気持ちは全部を話すことはできない。何を言われてもいいので、英語で話したいとその時に思いました。ただ、子どもが外でどう思われるのかは気になりましたが。日本の教育について思うのは、母語の大切さにあまり関心がないなとも感じています。実際には、自分の子どもは1年生には通常の日本の学校に入学しました。その間も、インタナショナルスクールの方がいいのではないかと悩みました。子どもから、「私は何人?」「カナダ人?日本人?」と聞かれたことがあります。子ども自身もアイデンティティと言葉の間で悩んでいるようでした。夫にはあまりこの気持ちは理解されなかったようです。友人にも相談できる人はいませんでした。彼女は今はインタナショナルスクールに2年生から移り、今はあまり悩んでいないようです。どの言語を主にするかは、今決めなくてもいいからとも言っていますし、楽しく学校に行っています。父とは日本語で話し、母とは日本語と英語で話すのは変わっていません。自分は日本の大学で英語を教えていますが、自分の日本語もあやういと思う時があります。「反抗期」のことを「抗反期」と言って指摘されたり。

M・Fさん:私はオーストリアで3人の子を育ててきました。日本語教師として、オーストリアで、40年以上教えていました。最初の40年以上前は、オーストリアは、閉鎖的で義父母からは、子どもに日本語を教えようとすると、「たくさんの人が話している言葉を話さないのにどうして?」などとも言われました。でも、自分の思いを話す時に母語で話さないなんてと強く思いました。

自分の子どもは現在は、自分のアイデンティティを持っているようで、他人の言葉に対してもオープンです。国際人としての身体を持ち、でもハートはそれぞれでいいのではないかと思います。

 自分の親は、「英語は世界中で話されているので、英語は大事」と言っていました。でも、どこの国の言葉も大切です。「できる」ことと、 「わかる」ことはちがうはずですね。ひとつの言語をしっかりやる必要があると思います。マルチリンガルというのは、難しいと思います。それと、「must」ではなく、「楽しいからやろう」と思う方がいいと思います。今の方が、昔に比べれば、ネットやスカイプや会議もZOOMでなどいろいろな方法を自分で選ぶことができていいなあと思います。

 40年間いたオーストリアを離れ、2020年12月に日本に住みはじめました。子どもさんは親といっしょに来ても知らないところは、はじめは大変でしょう。頭と身体とわけて日本をキャッチしていくような気がします。そのため、子どもさんには「いっしょにはなそう」とできるだけ声をかける必要があるでしょうね。大人になれば、マルチカルチャーの中ならどこでも同じだと思います。

四方(C)さん:ひまわり教室の子どもさんがみなさんの話を聞いているといろいろ多い浮かび、目からうろこです。日本ではマルチカルチャー社会でなく、まだまだでしょう。カナダは国際的のようですが、私は日本人学校の教員として、20年ほど前に3年間過ごしていました。その時に聞いたスリランカのおばちゃんの話を思い出していました。「自分には4人の息子がいるが、その嫁の言葉はみな違う。」それを聞いた私は、カルチャーショックを受けました。シンガポールも国際社会そのものです。子どもを何語で育てるかは、大きな課題で、友人の夫さんは、シンガポール人で、日本人の友人との間の子どもさんは、英語で育ったそうです。子どもの時には自分のことばに揺れていても、そのうち自分で消化していったそうです。

M・Fさん:家族の方針として考えればいいと思います。でもひとつの言語を母語として持っていることは大切なことと思います。日本では「外人」と言われますが、ポジティブな意味でとらえればいいし、ひとりで6カ国語くらい学ぶのが普通の国もあります。社会にでるとやはり強くなるのではないでしょうか?

ミチさん:子どもを見て「外人」と言われたことがあります。

H・Uさん:言う人に悪意がなくても、どういう場面で言われるかにもよりますが、「我々とは違う人」という意味はありますね。

M・Fさん:日本ではあまり教えていないようですが、ヨーロッパでは「アジア人」というのは、「中国人」のイメージがあります。自分の中の差別感を考えて見る必要があるでしょう。

H・Uさん:露骨な人種差別ではなく、「外人」と簡単に言われていますね。日本で「ハーフ」がどう扱われたかというローレンスの分析があります。「日本に住むなら日本語がいい」という考え方も認識がうすいからだと思います。複合言語で育つ大切さもありますね。

四方:ひまわり教室でも姑さんに「日本で育てるのだから日本語以外で子どもに話しかけたらいけない」と言われたという話がありましたね。韓国から来た子どもさんのお母さん(日本人)が韓国人の夫さんのお母さんから、「韓国では日本語は使わないで」と言われ、全く母である自分は、子どもに日本語で話しかけなかったのを、日本に事情があり連れて来て、日本の小学校に入れた」という話を聞いたことがあります。

H・Uさん:日本でも、学校内に日本語教師がいるような学校(外国につながる子どもがいる)では、教師が外国につながる保護者を複合言語を使うよう励ますこともありますが。

四方:外国人で日本語を学んできたフィリピン出身の母親から聞かれたのですが、「にほんのこんだて」の「にほん」を「2本」と取り、「あと1本は?」と聞かれたことがあります。にほんを「2本」と取ったのですが、実は「日本」の意味だったことも。親にも子どもにも日本語での教育をする場合には支援体制が必要だと思います。

児嶋:私は、外国につながる保護者の方々を見ていて最近感じるのは、大人になって外国語として日本語を学んで来た自分たち(親)は、母語が確立しないまま日本の学校にポーンと入れられた子どもさんたちの体験は、実は親御さんは、誰もしていないという現実に気がついていないのではないかという点です。学習言語をしっかり学び、力をつけるには、5年から7年かかるという研究結果が広く行き渡ってきましたが、保護者は子どもが流暢に日本語を話し始めると「もう大丈夫」と思いがちですが、実はそれはちがうという点です。テストでも教科書でも3年・4年になると普通の会話では使用しない言語が多く使われてきます。その内容をちょっとわかりやすく説明して手助けするのと、しないのでは、自分の頭の中に残るものがちがって来て、将来に大きく差ができるはずです。ひまわり教室では、「宿題を見る」と言っていますが、宿題を見ながら、この子は、どこらへんが理解できていないかが見えてくるので、少し前に戻って九九を教えてみようとかやることがあります。問題の意味が分からないために正解ができなかったと思えることもたびたびありました。せっかくひまわりがあるのに、話せるからもういいやと思い、子どもが「行くのがいや。時間がない」などというと、それに打ち勝つことができない保護者が多いのです。

R・Sさん:学校が休みの時や、ひまわり教室を規制が出て開校できなかった時も子どもさんと連絡を取りながら、指導して来ました。今担当している中2の子どもさんもまじめで休まず来ていました。でも、なぜか伸びていかない、もうちょっと上に届かないという現実があります。本人は、自分に自信が無いようです。お母さん(中国出身)は、子どもには自分の母語である中国語は使って来ませんでした。外国出身の母としての立ち位置をはっきりさせた方がいいのですが。でも真面目まので、時間は掛かるけれども多分必要な学習言語や学習内容は、彼は、獲得するだろうとは思っています。

S・Yさん:「自信がない」のは、外国につながる子どもでなくても日本人の子どもでもない子はいると思います。なぜなのかと考えますが。

M・Fさん:認められた時には、外からの刺激があれば作り出すはずです。

ミチさん:子どもが大きくなり始めたとき、2、3才で保育園に入れようか、インタナショナルの幼稚園に入れようか迷いました。また、小学校へ入れるときも。結局小1の1年間は日本の普通の学校に行きましたが、2年生からは、インタナショナルの小学校に行きました。

S・Yさん:小1の子どもがいます。日本に来た時には日本語をいやがっていたのですが、今は日本の学校に行っていて、日本語だけを話しています。「なんでいちいち英語で話す必要があるのか?」と。

カナダでは、日本人の両親を持つ子どもさんでも、普通の学校に行っていて、日本語が話せない子どもさんも多くいました。

ミチさん:私自身は日系4世で、家でも英語でみんなが話していました。親戚付き合いもあまりなく。私は、母語は英語でした。大学に入ると、日本人のペンパルがいて、日本語が好きになりました。

 今は、TABUNKO(たぶんこ)を造り、活動を始めています。ここに来る子どもは日・英のバイリンガルが多く、親も「日本の幼稚園について」など悩みをだれに相談したらいいのかがわからない人が多かったので自分たちでグループを作ったのです。

 ミックスルーツの家族の居場所つくりを目指しています。活動のひとつとして、多文化ストーリータイムがあり、母語と日本語とでの読み聞かせを目指しています。

四方さん:40年ほど前の事ですが、ブラジルから仕事に来ている人の子どもさんが転入し、教室には担任がひとりだけで右往左往していました。今は、学校現場も大きな変化があり、サポートシステムも整って来ています。支援者も入っている所もありますね。昔はゲストとして、外国人の来てもらうという感じでしたが今は、ちがいますね。学校と家庭とひまわり教室のような地域の支援グループとの連携が必要ですね。 亀岡市は多文化共生センターも作り、見通しは明るいと思います。

H・Uさん:TABUNKOは、お父さんも入れますか?母語が日本語ではない父親もいますね。

児嶋さん:S・Yさんはどこにおすまいですか?

S・Yさん:能勢町です。でも亀岡に住みたくて家を探しています。

四方さん:マルチリンガルを継承することはむずかしいですね。

サムさん:カナダでは、中国人のコミュニティでは、中国語を話すのが普通ですが、日本人の2世の人たちはコミュ二ティもあまり作らず、帰化する人も多いし、その国の言葉を話 したいという願いが強いようですね。

ミチさん:父母は、日本語でも話していたと思いますが、母は、「カナダ人なのに何で日本語を話さなあかんの?」と言っていました。日系の交流会には参加していましたが。コミュニティがあれば、ルーツが日本語ならば、日本語でやろうとしているところが多いです。

四方:継承語というのは、子どもにとっての親の言葉であり、母語はMother tongueの英語であり、小さい時から生活に使用してきた言語という意味ですね。

M・Fさん:書けなくても話せる言葉もありますね。

M・Kさん:日本には、マルチリンガルが育つ場があまりないですね。いろいろな言葉を話すと楽しいよという気分が伝わらない様な気がします。「外人」とか言われれば子どもは、いやな思いをしたと感じるはずですね。いろいろな言葉ができれば楽しいと感じられる環境を作ることが必要で、そのためには、大変でも乗り越えたいですね。

S・Yさん:もっと英語を勉強したいとカナダへ行ったのですが、教え方がちがうと感じました。生きた英語というか。日本の学校の英語のレベルはまだ低いと思います。

M・Fさん:ある付属小学校の英語授業を見学したことがありますが、教え方があまり適切でない気がしました。子どもはカタカナで書くような発音で話していました。

四方さん:2020年度からは、小学校でも週に2回英語の授業があり、大分充実して来ました。6年生の最後には、各自が自分の夢を英語で語ることも課題でした。

M・Kさん:日本の子どもは日本語しかない環境に住んでいる子が多いですが、外国ではイマージ ョン教育も多く、聞く力がつきます。日本では授業はあっても、わからないままで卒業し、苦手意識のある子どもが多いですね。大人も話せないですし。

S・Yさん:日本の学校では、先生だけがしゃべっていることが多く、自分の気持ちを伝える手段を持つ教育が必要ですね。

四方さん:今年は子どもたちに英語を教えていましたが、課題も多かったです。聞くだけでも力はつかないので。

児嶋さん:Tabunnkoのようにいろいろな人がいるとおもしろくなるでしょうね。

Mu・Fさん:先ほど子どもの映画作りをしていると言いましたが、子どもの数は20名ほどにしぼっています。友人2人を誘って対応していますが、子どもたちにまず、シナリオを渡すと、覚えるのがとても早いです。でも最初に自己紹介をさせると、声が小さいのです。多分、はずかしいのでしょう。発声練習として、「おかあさん」と呼んでごらんというと、だんだん打ち解けてきて大きな声が出てきます。「みんなに聞こえるように声を出してね。」とも言います。これが終わると、子どもたち自身を2つに分け、スタッフ担当と俳優担当にします。スタッフ担当は、監督も任せます。監督には、「あの読み方でいいのか?」などと声をかけ、監督から指示をするようになります。俳優役の子どもには、監督やスタッフが台詞を読むように指示を出します。子どもの中にはフィリピン出身の子もいましたが、監督が「日本語の発音がおかしい」と言うと、「日本人ではないので、発音を教えて」と答えだんだん良くなることをみんなで見て来ました。一人では映画はできないと気づいて来るとみんなが真剣に取り組むようになって来ました。最後に「映画作りというのは、できるまでやるのですね」と言った子どもさんもいました。

ここで終了です。

長くなり、1:30~3:00が3:30を過ぎてもまだ話が続きそうだったので、あとは、個人でそれぞれにお任せして解散になりました。

課題は多くありますが、日本で外国につながる人たちが多くなることは目に見えていますので、いろいろな言語で話していいし、理解もしたいし、楽しいという環境を作っていきたいという雰囲気になりました。

次回が楽しみです。

2021年2月13日(土)第337回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2021年2月13日(土)10:30~12:45
場所:ガレリア3階 会議室&オンライン
ゲストスピーカー:濱田雅子さん(元武庫川女子大学教授、アメリカ服飾社会史研究会会長)&大槻正一さん(グラフィック・デザイナー)
コーディネーター:亀田博さん(ツアーガイド:大津市在住)
参加者:11名(うちオンラインでの参加3名)

 今回のタイトル:「コットンをめぐる不都合な真実」濱田雅子の服飾講座 服飾から見た生活文化シリーズ19回目共催:第41回アメリカ服飾社会史研究会

参加者の皆さんの感想

Y・Iさん

今日はありがとうございました。

モンサントのことは食品業界のことだと思っていましたが、アパレルでもとんでもないことをしているのだと驚きました。倫理とか優しさとかそういう言葉が通じない企業がいまだにのさばっているという現実を知りました。参加してよかったです。便利と危険はうらはら。進歩とリスクはうらおもて。企業は利益を追求するのは当たり前なのですが、もうお金だけの世界というのは違うかなともいます。

パタゴニアはブランド名を知っているだけでした。その取り組み、考え方、企業理念などもう少し調べてみたいです。

アッという間の2時間でした。また参加します。

K・Kさん

今回も映画を挟んで環境汚染とアパレル企業。モンサントの遺伝子組み換えbt綿など、問題が昨年に続いてテーマだった。繊維と言えば我が街も繊維産業で栄えた町で少し私も他人事では無いと思い毎回参加している。濱田雅子様にも神戸まで出向いてお聞きした事もある。

 今日は2月上旬と言えない暖かさで池田市から423号線を亀岡市に向かって山越えした。山間の静かな景色は長々と続いていた。

 青空に一点の曇も無く、早朝の強い陽射しを受け、田んぼから湯気が煙のように登っていた。国道に添うように流れる余野川をせせらぐ水も白く泡立ちながら光っていた。

大槻正一さん

ファッションをファッションの市場や分野だけで見る、解決を見出す時代は遠に終わったのではないでしょうか。我々の世界は、あらゆるものがつくられる、サービスが生み出されるその結晶化しか見ていませんが、手にはとっていませんが、そこに膨大の時間と、細分化された、グローバルの波が存在しているのです。ですから、物事の側面の上面だけを見るのではなく、あらゆる角度から多角的に見ていかなければ、正体が見えてこない。それだけ、複合的に包括的に世界の市場はグローバリズムは、お金のマネーゲームは絡んだ紐たちがもうほどけないところまで来ている。それらが、気候危機にまで及んでいる。考えることは山積みですが、命があり、時間もあります、それぞれ一個人がマインドセットを変化させてゆく時代が来ているのだと感じます。

R・Sさん

昨日は、ありがとうございました。濱田先生と大槻さんのお話、大変興味深く聞かせていただきました。拝聴して、私たちに責任ある消費行動が求められていることを強く感じました。そのためにも、表には見えない(隠されている?)生産現場の実情を知ることが大切だと思います。現状を知り、環境と働く人々を犠牲にしない選択を広げていくことが求められていると考えます。そうすることによって、利益の追求ために環境や働く人々を犠牲にする企業は受け入れられない。そのような企業は経営的にも成り立たないということが、世界中に広がってほしいです。

最後の「意見・感想」のところで、ある中学校の総合的な学習の時間や生徒会の取り組みを紹介させていただきました。「困っている国や地域の人々を助けたい。」「環境を守りたい。」という意図は大事なことだと思います。だからこそ、広く深く現実を知ることが必要だと、お二人のお話を伺って感じた次第です。意図しているところと実際の取り組みの結果が食い違うことのないように、確かに学んでほしいと思います。私自身も引き続き学びながら、そうした学校での取り組みに何か手助けができればと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。」

H・Iさん

こちらこそ、勉強させていただきありがとうございました。Zoomのホストも少しずつなれてきましたが、やはり相手さんの通信状況は課題だと思いました。それから、講師さんがなにを共有して見せようとされているのか、ワードなのか、エクセルなのか、パワーポイントなのか、または動画なのか、事前の調整は重要です。

講座の内容では、農薬についてもっとよく知らないといけないと思いました。まさか自社の農薬に合わせて、作物の方も作っているとは誰も思いつきません。僕はそこまで考えていませんでした。そうまでしてお金儲けをしなければならないのかと疑問に思います。消費者がしっかりと知識を持ち、法の力でガッチリと規制をかけていかないといけないと思います。

大槻さんの部分では、何が本当のサステイナブルなのかという投げかけがありましたが、これはひとえに、消費者と企業の両方が、自然に逆らわないように、ある程度我慢しなければかなわないのだと思いました。多少不便であったり高かったりしても、地元の店からよくて長持ちする物を買うとか、多少利益が落ちても従業員や原材料の生産者を手厚く扱うなどの努力が必要だと思います。」

K・Iさん

先日の会は、参加させていただきありがとうございました。まず、濱田先生に提起していただいた服地にまつわる環境問題については、問題性を知っているだけでは、そこにビジネスが絡んでいる限り、改善しようがないことを強く意識させていただく内容だったと思います。

大槻さんのご発言は、それに応じて、利益優先ではないビジネスも可能だという提起でした。環境に悪いからだめ、という言葉だけでは解決できそうにない難しい問題であることから、私たちは考えなければならない。その会社を買い取ることで問題を取り除く事は有効なのか?消費者として態度を変えることは有効なのか?と考えました。値崩れは単に「安く買えてよかった」ではなく、人が働いた価値を低くしてしまう恐れがある。参加者の中からは、子どもたちにどう教えたら良いか、という提起が出されましたが、それもとても重要な視点だと思いました。子どもたちにどう教えているのか、未来に何を残すのか、と私たちが問われた時、やはり、人として間違った事は教えられない、と感じて自らの振る舞いを正そうとするのではないかと思います。そこに、私たちが取るべきヒントがあると思いました。買いすぎない、買ったものは大切にする、正当な金額で購入することで、映画『True Cost』からの問いかけに応えたいと思いました。

そして、映画『モンサントの不自然な食べもの』からの問いかけについては、まず、国内産の農産物及び、農産物由来のものを利用するように意識する。安売りに飛びつかず通常の値段で買う、無農薬、有機栽培などに取り組んでいる農産物を利用することが私たちの命だけでなく、生産者の”命”を大事することになると思いました。

何事も、買いすぎない、適量を使うという行為によって、無駄がなくなり、必要量が流通する経済に転換して行けたら良いと思います。その観点からは、服のオーダーメイドは今では贅沢のように映りますが、自分に合った服を身につけ、長く着用する事は、実はエコでもあることに深く気づかされました。」

亀田博さん

コットンをめぐるふつごうな真実。 モンサントの遺伝子組換えbt綿とラウンドアップについて、   インドのBt綿栽培農家では、大量の農薬が撒かれている。世界のコットン出荷量世界第2位のインドでは、そのほとんどはモンサント社が開発したGM(遺伝子組み換え) 綿である。インドの種苗会社マヒコは1999年にモンサント社に回収され、細菌由来の殺虫性毒素が組み込まれた(Bt綿)は、綿花の天敵である蛾の幼虫が近寄らないように開発されたものだったが、その実、他の新たな害虫や立ち枯れ病が発生して、結果、大量の農薬を撒かなけれならない。モンサント社が販売する除草剤(ラウンドアッブ)を飲んで、畑で自殺する人が急増している。

モンサントは、かって存在した、アメリカの多国籍のバイオ科学メーカー。2018年6月、バイエルによる買収、吸収が完了し、モンサントの企業名は消滅した。   7兆円を越える大型買収、100年以上続いた(モンサント)の名を消すバイエルの思惑だと思います。モンサントの名前が消えることは、バイエルの戦略の一部のようだ。同社は、モンサントおよび遺伝子組み換え作物(GMO)へのネガティブなイメージと距離を取ろうとしている。バイエルの買修の2カ月後、農薬大手モンサント(Monsant)の除草剤のせいてがんになったとして、同社を相手取り訴えた裁判で、原告の米国人男性が予想外の勝利を収めたことから、今後、同様の訴えが多く起きる可能性が出てきたと思います。

裁判では、ラウンドアップの発ガン性についての警告を怠ったモンサントに落ち度があるとの陪審評決が出された。バイエルに取っては、高い代償で、不運な結果だと思います。                                        

パタゴニアについては、大槻さんからプレゼンを頂きました。ヨセミテをベイスに世界的なクライマーが、トレーニングで訪れます。自然が素晴らしいです。パタゴニアについては、登山用品が、有名で、品質や安全性が知られています。最近は、オーガニック、コットンに力をいれています。日本の消費者には、登山用品は、知られているが、コットン用品は、特に知名度が低いように思います。一般には、パタゴニアと言うと、南米のパタゴニア氷河が有名です。又、パタゴニア商品は、日本の店舗は、外国と比べると価格が高いのと、オーガニックコットンのピーアルが低いように感じます。もっと宣伝すべきです。 聖地ヨセミテの妖精のポストカード 素敵です!             

濱田先生  2月のGlobal  Session 有り難うございました。 

A・Sさん

濱田雅子先生と大槻正一様のアパレル産業に関するご講義を伺って

「もともとフェアトレードに関心を持っていたこともあり、この度のご講義に参加させていただきました。フェアトレードに関心を持ちましたきっかけは、10年ほど前に観たあるドキュメント番組で、そこには、コロンビアで農薬まみれになり、自らやお腹の子どもの健康をリスクにさらしながら懸命に花を摘む妊婦たちの姿が描かれていました。その花が、まさに私が大学院生の頃、ロンドンで購入していたものに見え、衝撃を受けたのです。学生だったこともあり、お金はありませんでしたが、忘れたころに2ポンドほどの小さな花束を買っては、癒されていました。それだけに、「あの花束がもしかするとこうやって栽培されていたのか」と思うと愕然としました。

本日の濱田先生と大槻さんのご講義を聴き、アパレル産業の問題と私が経験したブーケの問題の根底には共通点があると思いました。多くの人々を幸せにしているはずの花束や洋服が、人々に多大な健康被害をもたらすだけでなく、空気、土壌、水質の汚染など、地球規模の問題を引き起こしているということです。あまりに悲しい現実ですが、現実を知らなければ、手の打ちようがありませんし、これはこれで必要だったのだと思います。そのような意味で、濱田先生のように、アパレル産業をマクロな視点から研究されることも、大槻さんのように、アパレル産業をパタゴニアのような事例を取り上げつつ、ミクロな視点から報告されることも、どちらも大変意義深い活動だと思いました。

一方で、話題に挙がっておりましたオーガニックコットンやパタゴニアの製品は、どうしても高価であるため、経済力があり、かつ環境問題にも関心がある、ほんの一部の人しか手に入れることができない対象となっています。購買層が限られる分、それらを取り扱う店舗やサイトは、ファストファッションのものに比べると圧倒的少数で、生産量も極端に少ないのが現状です。そのようなこともあり、たとえアパレル産業が環境にもたらす問題の解決に関心のある消費者であっても、自らの購買行動が環境問題の解決にほとんど役に立たないのではないかと自問する人も少なくないでしょう。今のところ、私は間違いなくそのうちのひとりです。オーガニックコットンやパタゴニアの製品には関心があるものの、いざ実物を目にした時には、コスパを考えたり、「自分一人が買ってもなぁ」と揺れたりすることは容易に想像がつきます。一方で、できるだけ人と地球に優しい商品を購入し、大事に着ようという思いは、この度のご講義を通じて確実に強まっています。自らの購買行動が世界の人々の健康や環境問題に直結していることを、強烈に実感したからだと思います。

この度のご講義は私の購買行動に大きな変容をもたらす機会となりました。本当にありがとうございました。」

E・Tさん

「今回は、前回よりもショックな内容でした。理由は、低賃金を苦に自殺をする人がいるのは覚えていましたが、化学薬品等が海に流れて魚に影響を及ぼし、その魚を食べて身体に悪影響が出て結果的に亡くなってしまうのがショックでした。ただでさえ、苦しい生活なのに、その上、自分の身体を良くするはずの食べ物食べて死んでしまうなんて悲しいです。それから、服がなかなか売れず、廃棄される話がありました。廃棄されるにも、時間やお金がかかります。だから、よくセールをして少しでも廃棄される数を減らすのにも納得がいきました。最後の方で、廃棄する筈の商品を買い取り売る店が紹介されていましたが、ああいうお店がこれからも増えていけばよいと思いました。これは答えになっていないかもしれませんが、私自身、せっかく買った服を、弟や親戚にあげたり、服を買い取ってくれるお店に行き、私なりに誰かに“貢献”したいと思います。これからもよろしくお願いします。」

児嶋きよみ

「いろいろ勉強をさせていただきました。服は安ければ多く買い、すぐに気に入らなくなると捨て、その捨てるのも「外国に寄付する」所へ持ち込むというような流れが根付いています。「その先はどうなるのか?」をほとんどの日本在住のみなさんは、考えていないのが通常の状態ではないでしょうか?アフリカで捨てられた服も売買され、そして捨てられ、山ができているところもあります。また、自国の生産も買わないので廃れ、でも

綿をつくる産業には低賃金ではたらかなければならないとうような事情が見えてきます。「いらない服を集めたら、どこかの国に寄付する」というプログラムを学校で始めたら、その先を考えるプログラムを是非作って考えてほしいですね。

 また、日本の米作りも、農協が関わらない方法は、なかなか無理があります。しっかりやってもらっているので、続いている部分もかなり多いですね。これも勉強が必要です。一つの方法ですべてが解決するのではないということを更に自覚したGlobal Sesionでした。ありがとうございます。」

オンライン講座「コットンをめぐる不都合な真実」を終えて

濱田雅子さん

  • 皆さんへのお礼

 オンライン講座を終えて一週間余りが経ちましたが、何と全員の参加者の皆様から、熱意に満ちたレポートをお届けいただき、感動いたしております。本当にありがとうございます。

皆様から、それぞれに、奥深い問題が指摘されています。以下の濱田のレポートで、皆様が提起されている問題について、少しでもお役に立つことをお書きできればと存じます。今後、引き続き、ご一緒に取り組んでゆければ幸いです。よろしくお願いします。

Ⅰ モンサント社の7つの功罪

  亀田さんから、モンサント社のバイエルンによる買収についてのレポートをいただきました。「モンサントは、かつて存在した、アメリカの多国籍のバイオ化学メーカー。2018年6月、バイエルによる買収、吸収が完了し、モンサントの企業名は消滅した。 7兆円を越える大型買収、100年以上続いた(モンサント)の名を消すバイエルの思惑だと思います。」

 決して、見過ごすわけには行かない歴史的事実です。

 ここに、モンサントの7つの功罪を列挙します。

1.PCB

 「カネミ油症事件」の原因物質。毒性を知りつつ製造を続け、地球全体にこの発ガン性物質を蔓延させた。

2.枯葉剤(オレンジ剤)

ベトナム戦争でゲリラ対策に散布され、400マン人がダイオキシンに曝露。多数の奇形児が生まれた。

3.牛成長ホルモン《ポジラック》

肉や牛乳に残存し、アレルギーやホルモン異常、ガンを引き起こすと指摘されている。2008年に製造撤退。

4.除草剤《ラウンドアップ》

世界で最も売れた除草剤。発ガン性・流産等の可能性があり、「安全」をうたった広告は虚偽と判決が出た。

5.GMO大豆(ラウンドアップ・レディ)

南米各国に、政治工作や謀略によって普及。パラグアイでは、反対する農民が政府に逮捕・殺害された。

6.GMOトウモロコシ

メキシコで、紀元前5000年からの伝統種の遺伝子を汚染。生物多様性が破壊され、奇形種が発生。

7.GMO綿花(ボルガ―ド)

インドで大キャンペーンを張って販売。しかし、宣伝ほど収量は増えず、結果、数多くの農民が自殺。

典拠:  マリー・モニク・ロバン著、村澤真保呂他訳『モンサント—世界の農業を支配する遺伝子組み換え企業—』(作品社、2015)

Ⅱ ラウンドアップの日本のホームセンターなどでの販売    

下記のURLを参照なさって下さい。ぜひ、最後までお読みください。

「このようにラウンドアップの危険性への認識は世界的に拡散されており、店頭でラウンドアップが簡単に手に入るのは先進国では日本ぐらいになっている。」

「世界中からはじき出され行き場を失ったラウンドアップが日本市場に一気になだれ込んできており、除草剤では売上トップの座を占めている。日本では日産化学工業が2002年5月にモンサントの日本での農薬除草剤事業を買収し、ラウンドアップの日本での販売権を引き継ぎ、「優れた効力と環境に優しい除草剤」などと宣伝してきた。」 

「ラウンドアップは日本の店頭では「もっとも安全な除草剤」とか「驚異の除草力」とかいった宣伝文句で販売されている。農協の販売ルートにも乗っており、ホームセンターやドラッグストア、100均などでも大大的に扱っている。またテレビCMや新聞広告もされ、危険性についての説明は一切なく、警戒心なしに購入し使用しているのが現状だ。」典拠:https://www.chosyu-journal.jp/shakai/11791

Ⅲ 環境意識革命の実現に向かって

大量生産 ⇒大量消費 ⇒ 大量廃棄 ⇒ 在庫衣類買い取り業者(大阪のショウイチに代表されるバッタ屋)の台頭

                   ⇓

持続可能   カスタム・メイド   ダイバシティ―  環境意識革命の実現

《カスタム・メイドとは》

持続可能性は、大槻さんが提起されたように、今後の課題です。私もこの問題には大きな関心を抱いてきました。今後も「歴史に見る持続可能性」の問題について、服飾史研究者の立場からアプローチして行きたいと思っています。私はこれまで、拙著においてカスタム・メイドに着目して取り組んできました。

「新田中千代服飾事典の解説がアメリカのcustom-madeを分かりやすく説明している。「(注文服)(おあつらえの)という意味で、おあつらえ、おあつらえ品という米語である。既製品万能のアメリカでも、ニューヨークには特定のお得意様に対してのみデザイン、裁断、仮縫いをするカスタム・メイドの衣装店がある。・・・・・カスタム・メイドのデザイナーは、デザイナー自身が創作した新しいデザインを用意し、スケッチから実物をつくって1枚ずつの実物のサンプルを用意して、得意客が訪れると、サンプルの中から似合うものの注文を受けたり、デザインを多少かえたりして、寸法にあわせて作り、注文に応じるのである。」典拠:濱田雅子著『アメリカ服飾社会史の未来像―衣服産業史の視点からー』本書の第二章で考察したアーノルド・スカージはアメリカのカスタム・メイドのデザイナーです。

本書の総括において、「カスタム・メイド、つまり、在庫ゼロの受注生産は、実に未来につながるアパレル生産の手法」であると述べています。私はアパレル業界で服作りの仕事に携わっていた立場からこのような提案をしています。アパレル産業で働く技術者の労働の価値について考えたとき、バッタ屋「ショウイチ」が日本のみならず、海外にも市場を広げていっているのは、実に悲惨な悲しむべき実状だと思います。

 環境意識革命の実現が行われなければなりません。画一的な大量生産社会からダイバシティ(多様性)を尊重する少量生産、少量消費の社会への環境革命への道とは何かが、今、問われています。

Ⅳ 学校の教員と研究者の連携の必要性

末永さんがおっしゃっていた学校の教員と研究者が連携し、未来を担っている子どもたちに、未来を見据えた正しい教育をしてゆかなければならないと確信しています。

Ⅴ 透明性をもって、新しいビジネス・モデルの構築を!

科学者とさまざまな衣服産業に携わっている企業家や環境に関わる諸団体が一体となって、サプライチェーン同士の透明性を保ちつつ、人間と環境の健全性を向上させる衣服産業のビジネスモデルを構築して行かなければならないのではないでしょうか。

濱田雅子著
『アメリカ服飾社会史の未来像ー衣服産業史の視点からー』
ペーパーバック POD出版 2020年4月10日発売 2,970円
Kindle 版 2020年4月1日 1,000円
販売 アマゾン(キーワード 本 濱田雅子)
DTP/装丁 表紙デザイン 濱田雅子作
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2020年12月26日(土)第336回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2020年12月26日(土)10:30~12:30
場所:ガレリア1階調理室
ゲストスピーカー:オジュグさん(ポーランド出身:大学教員:大津市在住)
コーディネーター:亀田博さん(ツアーガイド:大津市在住)
参加者:10名

 今回のタイトル:クリスマスのお菓子とポーランドのクリスマス

オジュグさんのポーランドのクリスマスについてのお話

オジュグさん:私の名字はオジュグですが、ミドルネームはアダムです。出身はポーランドですが、日本ではポーランドは馴染みの薄い国のようで、できるだけ知ってほしいと、30年間がんばって来たつもりです。

この亀岡でのGlobal Sessionは、5回目か6回目になりますが、「ポーランド通といったら、亀岡へ」というくらいです。住んでいる大津市でもあまり知られていません。

日本全体にいるポーランド人も多くはないです。

ヨーロッパの中のポーランドというのもあまり目立つ国ではなかったからでしょうか。

スラブ系民族というと、ロシアを思い浮かべるでしょうが、西ヨーロッパの民族ともちがいます。

実際には、中欧、東欧の周辺からスラブ民族が起こり、後に、ポーランドとロシアとの間に主導権の争いもありました。宗教もロシア正教でもなく、ヨーロッパ寄りのローマカソリック教です。

習慣もロシアとも、ヨーロッパともちがうものも多いですが。

ポーランドのクリスマスもアメリカなどのクリスマスとも雰囲気がちがいます。

ヨーロッパのクリスマスはもっと家庭的で、宗教的、教会でクリスマスの雰囲気は味わえます。クリスマスの歌も「きよしこの夜」だけではなく、ドイツやポーランドは庶民の文化としての歌が発達してきました。

歌を聞く「LulajzeJezuniu」とう歌の楽譜を配布

※参考動画

この歌っている歌手は日本人です。まず、この歌でクリスマスの雰囲気を味わってほしいと思います。またあとでちがう歌手の同じ歌を聞いてみます。4回くらい聞くと耳に入り残ると思います。

話は変わりますが、祭りはだんだんどこでも衰退してきていると思います。

日本でも正月とかより、ハロウイーンなどがはでになったりして。でも、私は、伝統がなくなっていくのは寂しいと思っています。それは、人々がその良い伝統を楽しむことが出来なくなるという意味で。楽しむためには、工夫が大切と思います。例えば、若い人たちが正月を楽しむためには、工夫とか努力が必要というような。

この日本での30年間を振り返ると、日本人は祭りなどの習慣が消えていくということに気づかないことが多いと思います。

例えばおせち料理を家で食べるより、外に出る方を好むとか。

ポーランドのクリスマスは、家族ですごすということがメインで「家族でひとつの楽しいことをやる」という目標があります。

でもそのためには、何かのきっかけが必要です。

ポーランドでは、24日の午前中は仕事をし、クリスマスは夜から始まります。イヴはクリスマスのための前夜祭であり、25日と26日は祝日になります。24日の昼からクリスマスツリーを飾り、家族はそれぞれ役割があります。お父さんと子どもは樅の木を持って帰り、飾ります。お母さんは、クリスマスの料理を作ります。

このクリスマスツリーはドイツが発祥地と言われています。昔は、家が天井が低かったので、シャンデリアのような形をした色紙で飾りを天井に吊るしていたが、クリスマスツリーの習慣が広まると貴族から庶民にも広まってきました。

クリスマスのお菓子もピエルニキなどがありますが、昔はいつでも甘いお菓子があったわけではなく、クリスマスだけのお菓子でした。クッキーを焼くと甘い香りがしてきますが、香りを五感で感じる喜びがあります。スパイスも欠かせません。樅の木の香りもありますね。

ドイツもポーランドもクリスマスから逆に数えて4週間をアドベントと言います。

昔はその期間中、肉も甘いものもあまり食べませんでした。クリスマス期間が始まり、クリスマスツリーに飾られたお菓子は少しずつ食べていき、消えていくことで、「これから楽しいことがあるぞ」と気分が盛り上がってくるのです。このように「何かを準備する楽しさ」は、お金で買うだけの楽しみとはちがうはずですね。

亀田:クリスマスの時期にチェコに行ったことがあるのですが、よく似ていました。

オジュグ:ヨーロッパの中でも似たようなお菓子がありますが、それぞれに特徴があり、アメリカでも、ジンジャーブレードのクリスマス菓子が多いですね。

スパイスはアジアからヨーロッパに入ってきました。スペイン、ポルトガルがアジアから持ち帰ってきたスパイスをドイツやポーランドにも伝わり、ライ麦やハチミツを利用したお菓子が多いのですが、ドイツのニュールベルグやポーランドでは、北部のトルニという街が有名です。トル二は、コペルニクスの生家があるので、有名です。昔は冷蔵庫がなかったので、ハチミツやスパイスを入れると長持ちするように作られました。今日のピエルニキのようにですね。昔は女の子が生まれるとケーキを焼くための生地をスパイスやハチミツなどでしみこませて長持ちさせるように作られました。そして、結婚式の時に焼いて食べるというようなところもあった。

今日は、2日間発行させたケーキを作って持って来ました。10種類のスパイスが入っています。国によって混ぜるスパイスや割合が違います。実験しながらやってみるといいですね。

オジュグさんの作って持ってきたケーキ

オジュグ:今日は、2日前に作り、10種類のスパイスの入ったケーキを持って来ました。スパイスは国によって割合がちがいます。いろいろな割合を実験しながらやってみて自分に合うのを見つけたらいいと思います。

スライドを見る。(クリスマスの食事)

クリスマスイブは、ヴィギリアという特別な食事を母親が作ってくれて、その日でしか食べない料理もあります。

ポーランドのクリスマスでは、魚を食べます。魚とは、主に鯉です。生きている鯉を手に入れると家の風呂場に入れておきます。クリスマスイブには肉を食べないのですが、クリスマス前の4週間前からアドベント期になり、その頃から肉も食べないです(今はこの習慣もなくなりつつあります)。クリスマス料理は12種類が並び、サラダもあります。ピェロギという水餃子のようなものもあります。ベジタリアンの食事のようですね。

クリスマスの食事を始めるタイミングは、一番星が出る頃です。家族で過ごすことがメインですが、余分にひとつ席を作っておきます。それは、死者のためではなく、だれか来たら入れてあげることを目標にしています。

クリスマスプレゼントは、まず、12月6日にサンタの日(聖ニコラスの日)が来て小さなプレゼントをします。24日には、食事が終わったら、プレゼントをもらいます。サンタが来る家庭もありますが、子どものイエスが持ってくる場合もあります。ドイツでは天使が持ってくるとも言われるところもあります。

食事が終わり、夜の12:00になったらみんなで教会のミサに行きます。ここからクリスマス期間が始まるのです。

亀田:わらと十字架を飾る国もありますね。

オジュグ:ポーランドでは、部屋の隅に麦の塊を飾り、収穫を願う人もあります。

クリスマスイブの食事では、パンを分かち合う(家族で楽しみを分かち合う)という意味で、オブラートを少し割り、おいわいのことばをかわします。(楽しいクリスマスをと)。

もう一度。「クリスマスの歌」を聞く。

オジュグ:クリスマスツリーの飾りは、今は99%がプラスティックですが、ポーランドでは、硝子技術の進化があり、硝子の特殊な飾りが発達しました。最初はとても価格が高かったようです。厚さは、1ミリもなく、口ふきの硝子で、透明な色をまず、塗ります。つぎにシルバーコーティングをして、いろいろな色を塗ります。変色もしないので、長く持ち、毎年買い足していきます。ツリーにつける金具も固定せず、離れるようになっています。

「硝子作り」の映像を見る。伝統芸術です。

自己紹介

Iさん:今日の映像を見ていたら、賛美歌でしょうが、口をあまり開けないと思いました。歌はとても好きです。オペラ風に口を大きく開けて歌うのかと思っていましたが、音はとてもよく響きます。先にいただいたこのクリスマス菓子のピエルニキのレシピから娘がお菓子を作ってくれました。明日のひまわり合同教室に持って行きます。このように何かを作ってくれると、家族のつながりを感じます。

H・Iさん:オジュグさんには、何年か前からGlobal Sessionに来てもらっているので、知っていますが、今回も来ていただき、ありがとうございます。「祭りも行事も衰退してきているのは、子ども達も楽しめていないのでは」というお話しが印象的でした。実際、自分の子どもの時には、正月などの習慣が楽しかったと思います。

M・Hさん:今日はとても楽しかったです。子ども時代を思いおこすと、終戦後の食糧難で、正月になると、ようやく良い服を着せてもらい、料理も用意してもらい、日本のこのような習慣は、満足度100%を越えていたと思います。22才か23才のころには、教会へ行き、賛美歌を歌っていました。ポーランドの聖歌のメロディも同じでしょうか?

M・Sさん:オジュグさんのファンです。お話しを聞くのが大好きで、哲学の専門と聞き、その話も聞いたことがあります。その影響か、昨年(2019年)の7月から8月にかけてポーランドへ行ってきました。クラクフも。ポーランド語もいいですね。今日も刺激をもらってうれしいし、感謝しています。長くこれからもお世話になります。

J・Nさん:Sさんと同じマンションに住んで居て、ポーランド旅行の話も聞いていて、その時からオジュグさんのことも聞いていました。ポーランドというと、ショパンの国くらいしか知らなかったのですが、今日、ポーランドの話を聞けて良かったです。私は、日本の正月などもあまりけじめをつけずに過ごしてきたのですが、今日のお話から、生きている私たちが大切にしなければと思いました。

Y・Hさん:(ドイツ後であいさつ)

私は、ドイツ・チェコは行ったことがありますが、ポーランドにもこれから行けるようになったら、行きたいと思いました。

C・Tさん:南つつじに住んでいます。主人と二人で住んでいますが、この先、短いのだからお互いの思いやりが必要と今になって気づきました。外国語である英語を学んでいますが、オジュグさんは、「やる気があれば伸びる」と言われましたが。日本語ばかりの中に住んでいて、外国語を学ぶのは、とても大変だと思います。気がついたのは、ちがう見方を味わうと気持ちが豊かになるということです。

オジュグさん:「外国語は大変」というのは、ふたつの意味があると思います。一つ目は「すごい」という意味であり、もうひとつは、「苦しい」で、「おもしろくない」「つまらない」という意味がありますね。楽しく学ぶことが大切ですが、努力も必要です。

C・Tさん:言われていることはわかるのですが、自分は力不足かなと。

オジュグさん:力と言いますが、身体はだれも同じで、やる気のちがいかもしれません。「おぼえられないわけはない」と自分を信じることが大切だと思います。

「人間にできる」ことは自分にもできるという自信を持つことです。ぼくの中国語学習もあまり進みませんが、本気を出していないのでしょう。

児嶋:今回のGlobal Sessionは、336回目になります。1999年から始め、大体月に1回のセッションを継続してきました。毎回お知らせとレポートを出していますが、楽しく続けていきたいと思っています。

S・Oくん:高校2年生です。横にいる児嶋さんの孫です。学校の外で勉強することも好きでよくやっています。電車の中でも本を読んだりしています。また、昨年、カナダに留学してその体験をしました。

亀田さん(コーディネーター):大津市に住んでいます。大津の西教寺は、明智光秀の菩提寺です。ツアーガイドをしていますが、コロナで楽しみが減ったのですが、ヨーロッパでも1年で一番楽しみにしていたクリスマスを家族で祝うことも満足にできなくて大変でしょう。昔から、クリスマスでは、ごちそうを食べて力をつけるという意味もあったようです。次の世代にも続けていくことが大切だと思っています。でも、オンラインでは、身近に感じることが少ないですね。

20年前にローマのクリスマスにガイドで行きましたが、バチカンでのローマ法王は、ポーランド出身の方でしたが、良いお声のスピーチがとても心に残っています。

クリスマスの訪問し、歓迎される用意ができているということが今日もとても心に残りました。

児嶋の作品(本物のピエルニキより大分小型です)

卵 1個・ 砂糖 60g・ 薄力粉 150g・  ココア 大さじ二分の1・ バター(食塩不使用)5g

ハチミツ 大さじ1杯・ タンサン 小さじ二分の1・ 水 小さじ 1杯

スパイス: クローブ 大さじ 二分の1・ ナツメグ  大さじ 二分の1・ シナモン 小さじ二分の1

作り方:

  • ボウルに卵と砂糖を入れ、よくすりまぜる。
  • ふるった薄力粉とココアを一度にざっくり混ぜる。

混ぜたら、他の材料も加える。

  • 均一な生地になれば台の上に取り出す。めん棒でのばす。
  • クッキー型でぬく。いろいろな形がある。
  • オーブンシートを敷いたオーブン皿の上に、並べて、焼く。オーブン調理 170度前後・ 約10分

2020年11月14日(土)第335回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2020年11月14日(土)10:30~12:30
場所:ガレリア3階会議室
ゲストスピーカー:村田克英さん(JT生命誌研究館 表現を通して生きものを考えるセクターチーフ)
コーディネーター:藤田宗次さん
参加者:10名

 今回のタイトル:How corona affects our daily life
(コロナ禍がいかに日常生活に影響を及ぼしているか)

藤田宗次さん(コーディネーター):この世界情勢を考えると、今日はじっくり文化について学べる機会となりそうでうれしいです。JTというのは、たばこ産業かと思っていたのですが、最近は、薬や食料品、飲み物など幅広く事業展開していますね。また、利益も産んでいますね。株価もあがり。高槻駅から10分くらいで行けますが、昔に行ったことがあります。でも、最近ではないので、大きく変化し、すばらしい仕事をされていると思います。では、それぞれに自己紹介をしていただきましょう。


自己紹介

藤田さん:私は、京都の東映に務めていて退社後、「京都映画クラブ」を立ち上げ、子ども達に映画の作り方を実践で教える会をもっています。また、亀岡の交流活動センターで始まったGlobal Session(1999年~現在も)に最初から参加し、今も参加しています。もともと英語で話すゲストとともにセッションをしながら、英語の学習もしようと始まったと思いますが、20年以上続いていますね。

H・Kさん:大津市に住んでいて、Global Sessionは何度も来ていて、今年はほとんどに参加しています。いろいろな国のゲストを呼び、日本の文化との比較をするのが楽しみです。仕事は、ツアーガイドをしていて、今年はあまり外国には行けないですが、日本に来られる人を国内に案内するのも仕事です。

M・Eさん:亀岡に住んで、漫画家をしています。絵本も出しています。

S・Oさん:デザイナーをしています。クリエーターとして、世界の人々とつながっていきたいと思っています。我々は、どこに生まれ、どこに向かって行くのかを共に考えたいと思います。(多文化共生センターのちらしのデザイナー&ひまわり教室ちらしのデザイナー)

N・Kさん:元小学校教員で、ひまわり教室の指導にも関わっています。このガレリアの推進センターの理事のひとりでもあります。JT生命誌研究館の村田さんの前回のお話から「セロ弾きのゴーシュ」の劇も拝見し、音楽にも圧倒されました。

R・SSさん:ひまわり教室の指導に関わっています。生命誌研究館の前館長の中村桂子さんのお話が中学校の教科書に載っていますし、以前美山中学校にゲストとして参加されていて、「ロマンと科学」という内容でお話を伺ったことがあります。それで、村田さんの前回のGSにも参加したかったのですが、できなくて、今回はうれしいです。

R・Eさん:娘が小3の時に、交流活動センターで開催された子ども用の「グローバルパスポート」という事業に参加して以来のお付き合いです。

E・Tさん:Global Sessionに参加して6年目です。最近仕事を変り、仕事場が京都の八幡なので、住居も実家のある京北町からくずはに変りました。今日は、そこから来ています。

村田英克さん:では、私も自己紹介からはじめます。昨年2019年にジュニアワールドフェスタの講師として呼ばれ、その後、Global Sessionにも誘われて以来のお付き合いです。生命誌研究館では、「表現を通して生きものを考える」セクターに属しています。この部署では、生命科学、生きもの研究の成果を、「生きているってどういうこと?」という誰もが抱く問いに重ねて捉え、日常の「生きもの感覚」に重ねる表現として、展示、映像、Web、季刊誌など様々な方法で発信しています。研究館は小さな組織でメンバーも全体で30名くらい。

「なんでJTがやっているの?」という質問は児嶋さんにも最初に聞かれました。

そもそも30年ほど前、「生命誌」というコンセプトを提唱し、それを実践する生命誌研究館という機関を構想したのは、分子生物学者の中村桂子名誉館長で、そのプランをJTが100%支援する形で実現し、現在はグループの社会貢献事業の一つとして活動しています。今年の4月から生命誌提唱者の中村桂子先生は名誉館長となり館長として細胞生物学者であり歌人である永田和宏先生を迎えました。

研究と表現と常に両面あるのが研究館の特徴です。1993年の研究館設立の時に、ここで何を研究し、何を発信したいのか? 研究館のVisionを表現した最初の作品が「生命誌絵巻」です。

この絵は、地球上の生きものはすべて、38億年という時間をかけた多様な表れとして、今ここに生きていることを表しています。この中で、人間も決して特別な生きものではなく、多様な生きものの一つとして、他と同じ資格で存在していることを示しています。絵に描かれた扇の縁(画面上)は現在、扇の要(画面下)は38億年前です。

「ひとのときを想う」というのがJTのキャッチフレーズです。JTグループの生命誌研究館の立場から、私はこの言葉を「生命誌絵巻」に引き寄せて、「(生きもののつながりの中の」ひとの(38億年の)ときを想う」という風に言っています。「絵巻」って時間の流れに沿って展開する表現形式です。普通の絵巻、あるいは年表は、左から右へ、または右から左へと線的に展開しますね。でも生きものが持っている時間は、進むに従い多様に展開する、つまり扇型に広がっていくのです。だから「生命誌絵巻」は扇形になります。金子みすずの「私と小鳥と鈴と」じゃないけれど「みんなちがってみんないい」のが生きものの世界なのです。生きものって本質的に「多様化する」システムなのです。

「生命誌絵巻」の要にいるのは地球上で最初に生まれた生命体、細胞です。今生きている生きものはすべてこのご先祖様から多様化した仲間だと考えられています。「生きている」基本単位は細胞です。細胞にはゲノムDNAが入っており、ここに遺伝情報が記されています。遺伝情報って言いますけれど、それは何かと言えば、生きるレシピのようなもので、その生きものがどのように生きるかに必要な固有の情報です。具体的には、長い紐状の分子であるDNAの塩基(はしごの段のような一つ一つ)の部分に4種類(A:アデニン, T:チミン, G:グアニン, C:シトシン)あり、それがどんな順番で並んでいるかが固有の情報になっているわけです。AGATAGATACAT とGATCAGTTA とでは違いますでしょ。でも驚くべきは、すべての生きもの、ヒトもキャベツも大腸菌もこの並びが違うだけ、つまりA,T,G,C という4種類のアルファベットは共通言語なわけです。基本は親から子へというように世代をつないで縦方向に遺伝情報は伝わり、それが変化することが進化にもつながりますが、長い進化の中では、ある生きものから別の生きものへ、同時代で横方向へ遺伝情報が伝わることもある。縦糸、横糸で織り上げられるように。あとで話題に出ますがウイルスは生きものではありません。細胞を基本とせず細胞よりさらに小さな存在です。ウイルスは膜や殻の中に遺伝情報をもち、他の生きものの細胞に寄生して、宿主細胞のしくみを乗っ取って、自分を増やすのです。さらに、お世話になった細胞を壊して出て行ってしまう困り者です。長い進化を振り返ると、このウイルスが生きもの間で遺伝情報の運び手になったという事実もあったようです。多くの陸上動物は、次の世代の個体を卵という形で産み落とします。「生命誌絵巻」で水色の背景の部分に描かれたように、生きものは誕生から33億年の間も海の中で、水環境を離れず生きてきました。生きものが陸上へ進出する際に獲得したしくみのひとつが、乾燥に耐える卵です。さらに私たち哺乳類は、お腹の中に海を抱え込むようにして次世代を育みます。胎盤を形成できますね。この胎盤の形成にはたらく遺伝子の一つはホ乳類の祖先がウイルス経由で獲得したと考えられています。(季刊「生命誌」81号(2014年)Research「胎盤の多様化と古代ウイルスーエンベロープタンパク質が結ぶ母と子の絆ー」宮沢孝幸(京都大学)https://www.brh.co.jp/publication/journal/081/research_1.html)。

細胞の中にあるゲノムDNAには、その生きもの固有の生きるレシピのようなものが詰まっていると申しましたが、それは、生きものごとの、38億年の代々の継承の過程で生じた紆余曲折の変遷を記してもいます。つまり歴史が記されていると言ってもよいわけです。実際に、例えば「ヒトとチンパンジーは、今からおよそ700万年前に種が分れた。」という理解は、両種のゲノムDNAを比較して、塩基の並びにどれだけ違いがあるかから推定しているわけです。

グローバルセッション開始

児嶋:このGlobal Sessionに初めての方もいらっしゃるので、約束ごとだけ言っておきますね。ひとつは、「当てない」、次は、「黙っていてもよい」最後に、「どこから会話に入ってきてもよい」この3つです。これは、1999年にこのGSを始めた時に、仙台の横瀬和治さんに指導していただいた時からの約束ごとです。どうぞ、ご自由に話してくださいね。

藤田さん:虫の中でも嫌われ者もいますね。ゴキブリは退治しますね。以前テレビでゴキブリを食べているのを見たこともありますが。

村田さん:ヒトもゴキブリも生きものは多様ですが、「好き、嫌い」など人間の価値観も多様ですね。私も、ゴキブリを見ると確かにギョッとします。本能でしょうか?すばしっこく動く小さな黒いものに反応します。ゴキブリもネズミも栄養を摂取するために、人間が不潔だとするような場をも住処にし、実際に人間にとっては有害なものを運んで来ることもあるので、私たちの日常ではあまり好ましくない存在とされますが、ゴキブリという生きもの自体は不潔ではありませんね。「私は家でゴキブリが出たら手でつまんで外に逃がす」という人もいます。

藤田さん:ゴキブリは狙われていることに気づく能力があるようです。

村田さん:そうでなければ、今、生き残っていないでしょうね。

R・Eさん:NHKで見たのですが、目の光りもウイルスに関係するのでしょうか?

村田さん:すみません。私はその番組を見ていませんし、ウイルスと、目で光を受容するしくみとの関係で今、思い当たることはないのですが、今の話題から一つ思うのは、遺伝子の働きって、皆さん目的的に解釈したいわけですが、生きものがもつ柔軟性って目的的解釈や因果に縛られていないということです。遺伝子って、ある場面ではある機能を発揮するけれど、同じ遺伝子が別の状況に置かれるとまったく異なる機能を発揮するのです。その例が目で光を受容する際に必要な透明なレンズをつくっているクリスタリンというタンパク質の遺伝子です。これは結晶化すると透明になるという特徴がたまたまあって、もともとは酵素反応するタンパク質として体の中で働いていたものが、進化のある時期、光受容という新しい機能を実現するに際して、「君、こっちで役に立ちそうね」ということでレンズにリクルートされた。生きている全体のしくみとしてうまくまわっていれば、とりあえず手元にある材料でなんとかこと足りればそれでいい。一つのものをいろいろな用途にうまいこと使い回す「ブリコラージュ」が上手なわけです。そうでなければ38億年続かない。目的的な機械とは違う。生きものって、やわらかい、ある意味で「いい加減な」システムなわけです。

E・Rさん:突然変異とかも?

村田さん:「突然変異」って言葉が変な印象を与えますよね。「突然」っていう言葉がちょっと日常感覚からすると違和感あります。遺伝情報は種によって違いますし、同じ種の中でも個体によって皆、少しずつ違います。私とあなたの遺伝情報は、大きく見ると同じヒトとして括れます。チンパンジーやゴリラ、さらに現在は絶滅してしまったネアンデルタール人など人類の別種とは、違うグループ、ホモ・サピエンスと呼ばれる共通の特徴を持つ仲間なのです。その一方で個人差があります。今の地球に77億人いるとすると、ヒトゲノムの塩基配列は77億種類あって、これはある時点だけの話ですから、過去、現在、さらに未来の可能性を考えると膨大な多様性です。これまでの話にもあったように進化の長い時間で考えれば、遺伝情報は継承されながら変化していくものです。そうでなければ生きものは多様化できません。私と私の親、私の子供の遺伝情報も違います。遺伝子の変異はいろいろなレベルで起こります。例えば、環境から影響を受けやすい表皮細胞などで、紫外線を浴びることで細胞の核の中のDNAに変異が起こることがあるようです。私たち多細胞の生きものを構成する細胞の種類は、その個体の一生の中ではたらく「体細胞」と、世代を超えて伝わる「生殖細胞」の2種類があります。体細胞である皮膚細胞で起こる遺伝子の変異はその個体の中での現象ですが、生殖細胞での変異は世代を超えて種のあり方に影響します。

藤田さん:トカゲはしっぽ切って逃げますね。

村田さん:自切ですね。外敵に襲われた時などに、尻尾を切り捨てても本体は生き延びるための戦略ですね。昆虫でも自切はあります。研究館で飼育しているナナフシがそうです。これは木の枝に擬態しており人気の生態展示ですが、ナナフシも脚を自切して身を守ります。自切した脚はまた再生します。以前、再生のしくみを探る研究で注目したのがきっかけで飼育を始めました。イモリも再生力が強いですね。例えば腕から先を失った場合に、もともとあった構造をもう一回作り直すことができる。そんなこと私たちヒトにはできません。そのように発生プログラムをもう一回やり直す秘訣がイモリの場合、全身を流れる血流の中にあるそうです。これは私たちが発行する季刊「生命誌」でとりあげた研究の一つ(季刊「生命誌」99号Research「イモリの再生と赤血球の不思議」千葉親文(筑波大学)(https://www.brh.co.jp/publication/journal/099/research/2.html)で、取材してとてもワクワクしましたが、まだまだわからないことっていっぱいあるわけです。さっきから細胞、細胞って、僕、言っていますが、細胞ひとつだって、どのようなしくみかは、まだわかっていません。人間が人工的に細胞をつくることはできないわけ、わからないからです。これは生命誌研究館の表現で大切にしていることです。「わからない」ということです。一般的に、科学には「わかること」「わかったこと」が期待されます。でも世界はわからないことに満ちていますし、だからこそ科学は面白い。それは、表現、もっと言ってしまうと芸術というものの持っている魅力と同じではないかと思います。わかったことだけでなく、わからないことをふくめて、いかに継承し得るかという実践が学問にとっても、芸術にとっても、つまり人間の文化にとっての“キモ”ではないかと思います。実際に、生きものは、細胞はそれを38億年実践しています。細胞がやっていることは「生きている」という働きを継承しつづけることです。DNAなどの形で記された情報というのは、その出来事の一部でしかありません。何が書いてあったとしても、そこに書かれたことを読み取り実践する「働き」が生きていなくては、外在化されたテキストは何の意味も持たないわけです。細胞が生き続けているからこそ、働きが継承されていくのです。人間の学問、文化という営みも同じことではないでしょうか。ゲノムDNAに誌(しる)された生きものの歴史を読み解き、生きているとはどういうことかを物語る文化としての「生命誌」という風に私は自分の仕事を考えていますが、その方法を模索する中で、ひとつの可能性を感じて、私は、能楽をやっています。

もちろん玄人でなく、素人弟子の一人として、能楽囃子方大倉流小鼓方のお稽古を続けています。この芸能を、最初に「能楽」と言ったのは、江戸から明治への移行期に、欧米のオペラに拮抗する芸術として「能楽」をプロデュースした井伊直弼ですが、もともと古来の列島の文化が収斂するようにして、中世の時代に、申楽、猿楽、散楽として形成した総合芸能です。その大成者は観阿弥、世阿弥(ぜあみ、世阿彌陀佛、正平18年/貞治2年(1363年)? – )父子。私は1963年生まれですから、世阿弥はちょうど600歳年上の大先輩です(笑)。現代まで謡曲として伝わる能の曲目は200曲以上ありますが、その主な作品はこの頃に、その時代の解釈によって、「古事記」の神話の世界、平安期の和歌の世界、源平など歴史物語、さらに時事の出来事に取材した今で言う「ドキュメンタリー」、近世の歌舞伎や文楽で「世話物」と呼ばれるような人情味溢れる時節の庶民の喜怒哀楽を表現する物語…老若男女貴賎都鄙あらゆる人びとにとっての豊かな物語を歌謡や舞いで表現する娯楽として成立し、今に伝えられているわけです。囃子方は、能舞台で、おシテ方の謡や舞を囃すのが務めです。能楽師は、シテ方、ワキ方、さらに囃子方は、笛(能管)、小鼓、大鼓、太鼓とそれぞれを専業とします。雛祭りの人形に五人囃子がありますね。能舞台では、松の描かれた鏡板の前に、あの順番で左から右へ各パートが並びます。どのパートにしても、能舞台に必要なすべてのパートが身体に入っていなければ務まりません。能楽師は、200曲以上の能の曲目に関する技芸を、生きた働きとして世代から世代へと約700年、師から弟子へ、それぞれの身体から創発する働きとして常に実現し続けているわけです。外在化された謡曲の節回しなどの謡い方や言葉書き、囃子方の譜があるにはありますが、西洋音楽が五線譜に記すような客観的な記述ではありません。外在化されたテキストから何かが生成するわけでなく、生きた能楽師から能楽師へと継承される働きが、外在化されたテキストをうまく参照しているという感じです。これは、細胞を単位とする生きものがゲノムDNA を参照するのと同じようなことなのでしょう。それでは、ここで小鼓と謡の実演させていただきます。これが楽しみでここへやって参りました(笑)。今日は「雲雀山」という曲の中之舞の前にくるサシ・クセのところです。(演奏)

藤田さん:先生とお呼びしたいですね。今後、人間の寿命は最高で120才と言われていますが、何かデータはあるのでしょうか? 現在は男性の平均寿命は84才だと思いますが。

村田さん:「人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」という謡が幸若舞の「敦盛」にあります。以前、やはり季刊「生命誌」の取材で、あるお医者さまの話を伺いました。人間を「ホモ・サピエンス」と呼びますが、これは「賢いヒト」という意味ですが、人間ってぜんぜん賢くないじゃんとおっしゃって『ホモ・ピクトル・ムジカーリス』という本を著し、絵を描き、歌い、踊るのが人間という生きものの特徴だとおっしゃる岩田誠先生です。岩田先生は実は神経内科のお医者様で、先生がおっしゃるにはヒトの身体の耐用年数は40年ということです。もともと四足動物だったものが、重力に逆らって立ち上がり二足歩行をしているわけですから、身体の構造に無理がくる場所が4つある。それを「神様の失敗」と先生は呼んでいます。そういうところに無理をかけてはいけないから、スポーツはやめたほうがいいと先生は主張します。オリンピックの競技も今はいろいろありますが、古代オリンピックでは、円盤投げ、走り高飛び、駆けっこなど、人類が猛獣と共存するために必要な身体技能だったということで、そういう生存に必要な身体技能以外で身体に無理をかけるスポーツはやめなさいと先生はおっしゃっています(笑)。現代は、iPS細胞研究などに象徴される再生医療に期待が集まっていますね。難病が克服され健康な人生が長く続けられるようになるのであれば、ありがたいことだと思います。健康に、元気に生きられるのであれば120才まで生きても、あるいは生かされても、よいのかもしれませんね。

R・SSさん:生命とは何かを考えさせられました。個体はなくなっても次に続けばいい。それが生命なのかなと思います。ウイルスも新しく作りつながっていくのでしょうか?「死ぬ」と言っていいのでしょうか?生命の定義の根拠とはどういうことなのかと考えています。

村田さん:答えは難しいですね。生命、生きものの定義は、さきほどお話ししたように「細胞」が基本です。その意味でウイルスは細胞の機能(自己と外を分ける膜、自己複製する、代謝する、進化する)を満たしていませんから生命体とは言えません。けれども、拡大解釈すれば、寄生する宿主細胞の力を借りてですが、ウイルスだって、結果的に自己複製し、進化(変化)しているわけです。ウイルスを生命だと認める立場の研究者もいるようです。細胞とは異なるウイルスのような存在様式が、生命の起源を考えるヒントになっているということもあります。

S・Oさん:「生命とは何か」は古代から先人達も考えてきたと思います。観阿弥・世阿弥も表現者であり、このストーリーは、次へつなぐ課題だと思います。

村田さん:「考える。共感し、語り継いでいく。」それには、その場限りのコミュニケーションでなく、ものづくり、作品として外在化される表現にするということが、とても大事だと思っています。

N・Kさん:今日のGSはとてもおもしろいと思いました。生命誌研究館が「科学のコンサートホール」であるというのもおもしろいですね。以前、「生命誌版セロ弾きのゴーシュ」を拝見しました。宮沢賢治の思いが音楽劇として描かれていて、ベートーベンの第6交響曲を思っていました。自分もピアノを弾きますが、やっとモーツァルトをやっているような状況です。でも、どれも300年前からつながっていて饒舌なおしゃべりのような雰囲気が変わらずあります。お能をやっていらっしゃるそうで、いろいろな組み合わせからできているのもわかります。

村田さん:ありがとうございます。私がお能をはじめたきっかけは、ご覧いただいた「生命誌版セロ弾きのゴーシュ」です。この作品で、中村先生と共に舞台で語りを勤めました。猫、カッコウ、タヌキ、ネズミの4役です。この時、自分の身体を通して、言葉を声にしてあらわすということが、表現の基本としてかなり腑に落ちたのです。人類は太古の昔から「生きているとはどういうことか」を探求する方法として、身体を通して、思いや言葉を、声や音楽に表していたに違いありません。その考えを継続的に検討する方法を模索し、能楽に出会い、これに取り組んでいます。

E・Tさん:アゲハチョウの話に興味がありました。YouTubeで「蚊が死んだらどうなるか」という番組を見たことがありますが、動物が衰退して消えたら、地球全体はどうなるのかと考えます。僕はきらいな動物もあります。蛙とゴキブリはきらいですが、これらの動物が消えたらどうなるといえるのだろうかと考えていました。

村田さん:生態系の研究でも、数理的なシミュレーションが最近よく行われます。天気予報と同じです。種間関係のバランスの中で、ある種が消えたらどうなるかというシミュレーションは可能です。でもそこから出てくる答えは絶対ではありません。シミュレーションの結果はパラメータひとつで大きく変わります。誰もそこに絶対的な値を与えることはできません。あくまで可能性を予測する方法です。人間も絶滅するかもしれませんし、ある種が絶滅しても、また新しい種が生まれるかもしれません。歴史はそのくり返しでした。

藤田さん:小さなコバチがイチジクの中で生活し、いずれ出て行くという話が面白かったです。

村田さん:「生命誌かるた」の話ですね。「イチジクは コバチと共に 生きている」。研究館で行なっている研究を読者の方が詠んでくださった句です。この「みんなでつくる『生命誌かるた』」は現在も募集中です(https://www.brh.co.jp/news/detail/597)。

いろはにほへとちりぬるを…47音ではじまる生命誌を詠んだかるたの札の言葉を募集中です。皆さんと一緒にかるたをつくる企画ですから、G.S.の皆さんも是非ご応募ください。選者は、永田和宏館長と、中村桂子名誉館長です。そして、高槻は亀岡の隣ですから、どうぞ皆さんで生命誌研究館へご来館ください。今日のお話の続きをご案内します。ではまたどうぞ、よろしくお願いします。

2020年10月24日(土)第334回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2020年10月24日(土)10:30~12:00
場所:ガレリア3階会議室
ゲストスピーカー:サムエル・シードさん(カナダ出身・亀岡市国際交流員)
コーディネーター:亀田博さん(ツアー・ガイド)
参加者:9名

 今回のタイトル:日本語能力がある外国人からの関西の社会に対する見方

参加者の自己紹介

K・Wさん:サムさんとお話ができるのがうれしいと来ました。「みんなのネットワーク」の理事をしています。(本梅町在住)

M・Oさん:薭田野町に住んで居ます。しばらく来ていませんでした。今日は参加出来てうれしいです。

K・Iさん:Native Kameokanです。銀行で仕事をしていましたが、リタイアをして今はフリーです。旅行のために英語を話したいと思い、いろいろ勉強していますが、今はいけないのが残念です。

T・Oさん:「みんなのネットワーク」でいろいろやっています。英語はわからないのですが、サムさんは日本語が流暢なので、それで、カバーできるかと参加しました。

M・Fさん:並河在住です。映画会社に40年以上勤めていましたが、今は、リタイアし、NPOで子ども達に映画の作り方を教える事業をしています。シナリオ作りとか、月~金で出席しています。長く英語を話していないので、今日は話したいなと参加しました。

児嶋:このGlobal Sessionは、私は亀岡交流活動センターで仕事をしていた1999年にはじめ、月に1度の開催で、今回は334回目になります。すでに、20年以上続けていることになります。Fさんは、その最初からのメンバーで、Kさんは、その少し後からの参加で今も続けていらっしゃいます。

サムさん:サムエル・ジードと言います。国際交流員をしていて、毎日日本語で話しているので、今日は、英語で思い切り話せてうれしいです。24歳です。(ええっ!)

大学の時に留学する前には、「日本に行ってみたい」という気持ちだけだったのですが、Bronislaw Malinowski という文化人類学者の本を読むと、「もっと冒険もあるかもしれない。もっと研究してみたい」と思えるようになりました。

この人は文化人類学者として、新しい人類学の研究の仕方を発明したと言われています。それまでは、人類学者は、外国に行って見たことや感じたことを書くものと思われていましたが、このM氏は、「文化を知りたければいっしょに暮らし、しゃべらないとその地の習慣の意味などはわからない」と言っていました。

これで、私もMichiの文化を知りたいと思うようになりました。もちろん、日本人にはなれませんが、日本人に近い文化の見方を経験したいと思ったのです。

亀田さん:このBronislaw Malinowskiという人は、ポーランド(元オーストリアーハンガリー帝国領)のクラクフで生まれ、大学を卒業後、ドイツのライプチヒ大学で人類学に興味を持ち、当時人類学研究が盛んであったイギリスに渡る。オーストラリアを旅行中、第1次世界大戦が始まり、イギリスはドイツに宣戦布告し、当時オーストリア国籍だったマリノウスキーは、イギリス領内で帰国出来ず、パプア・ニューギニアには行けたので、その後マリノウスキーは、長期にわたって現地の人々と行動を共にし、その生活の詳細な観察を行うこととなり、人類学研究に初めて参与観察と呼ばれる研究手法が導入されることとなった[3]。その後、第二次世界大戦が勃発すると、マリノフスキはアメリカ合衆国に定住し、イェール大学の客員教授となる。
1934年にマリノフスキはラドクリフ=ブラウンら若い人類学者たちとアフリカ総合研究プロジェクトを立ち上げ、アフリカの南部と東部にフィールドワークを兼ねた調査旅行に向かう。(56歳で死亡)

サムさん:日本にいて、他の地方に旅に出て、亀岡や西宮(留学中にホームステイ)に帰るとほっとし、いやされます。

M・Fさん:big cityは、またちがいますからね。

サムさん:西宮の関西学院大学には11ヶ月いました。

M・Oさん:関西学院大学は女子が多いのですか?

サムさん:そうではないですね。西宮の兜山にありますが、今だったら、留学生はマスクをしなければならないので、言葉がもっと通じなくて大変だろうと思います。

僕の時は、英語圏から来た留学生は、日本人に英語をもっと話せるようにしてやろうと思うようですが、自分はそうはしませんでした。

自分の顔を見た日本人は、「この人と英語で話さなければならないのか?」と思うようで、それに対して、自分が日本語で話かけると、その人たちの目が変わるような気がしました。人類学者が日本の文化の中に入ってきたような感じがしました。

S・Sさん(シリア出身):外国人を見た人は、こちらが日本語で話しているのに、英語で返す人もいます。知り合いの中には、日本人でも英語を話したがる人もいます。その人次第ですね。顔だけでは、その人が英語を話したいのか、日本語を話したいのかわからない時があります。

亀田さん:ことばの種類の表を作って来ました。

敬語:honorific word 丁寧語:polite word 尊敬語:respectful word
謙譲語:humble term

タメ口:informal way of speaking 「ため」は、さいころ賭博でふたつのさいの目が同じになること(年下のの物が年長者に対等の話し方をすること。)

M・Fさん:京都の祇園もことばがちがいますね。

亀田さん:関西でも京都と大阪は違います。祇園の舞妓さんは、ビジネスワードとして、「おおきに」「おこしやす」「おきばりやす」などを使います。また、京都のことばおしては、
1.いけず  2.~したはる  3.しおし  4.おはようおかえり  5.~のたいたん
6.かなわんわ  7.あかん  8.ほかす  9.さいなら  10.おおきに

S・Sさん:住んで居ても関西弁のちがいはあまりわからなかったのですが、今日の説明はわかりやすいですね。

亀田さん:大阪は関西弁が一番強いところですね。関西のおばさんの関西弁は特に。

M・Fさん:留学生は標準語の日本語を学習してくるでしょう。関西弁は全くちがうように聞こえるかもね。

M・Oさん:若い人は案外標準語を使っていませんか?西宮は関西でも上流の住宅地と言われていますね。

サムさん:映画やテレビで日本の様子を外国で見た外国人は、日本では、電車を待って居る時には、みんながきれいに並んでいるイメージを持っていると思います。また、来日すると、あまり話さない日本人に対して否定的になります。気持ちを出さないのは、日本の社会が閉鎖的であると。これは、あまり知らない人に最初は話さないという文化のちがいだけなのですが。この点は、残念です。

S・Sさん:(改めて自己紹介)
Safwan Hindawiと言います。本当はもっと長い名前ですが。私が、「S」ですというと、必ず、「サフラン」と言われるので、ニックネームは、「サフィ」です。と言っています。サフィと呼んでくださいと。シリアから日本に来たのは、今から、19年か20年前で、人生のほとんど半分になります。何かが自分の魂と結びついてここにいるのだと思います。日本も好きで、シリアの家族も好きですが。今は戦争で帰れませんが。

児嶋:サフィさんは、立命館大学のアジア・太平洋大学に留学し、卒業をされています。

亀田さん(C):サムさん、あなたのパーソナリティはどのようなものだと思いますか?

サムさん:英語では静かに話しますが、日本語では話し出すといっぱい話します。カナダでは友人達と。皮肉を話すことが多く、言っていることの反対が本当の気持ちであることが多いです。皮肉をわかり合うと友情が深くなるという考え方があり、通常、皮肉を使わない方が難しいです。でも、同じように日本語を話しながら、皮肉を言うとわかってもらえない方が多いです。

K・Iさん:関西弁の皮肉も同じですね。ストレートに言うと、「あほちゃう」と思われて。

サムさん:日本でも、言いたいことがあると、そのまま言う方が気持ちが通じると思いました。でも、ほめすぎるといやみっぽくなりますね。

M・Fさん:「ほめごろし」という言葉もあります。

サムさん:褒め殺しが多すぎて、黙って居た方がいいのかと思ったこともあります。

M・Fさん:「沈黙は金なり」ということわざもあります。

サムさん:カナダでは、そのような事が原因で退学することもあります。

K・Wさん:言い過ぎてしまうのですか?

サムさん:言い過ぎるとつきあいが難しくなりますね。

児嶋:それは日本と同じでしょう。

サムさん:日本語は自分にとっては、第2言語ですが、気持ちが出せないわけではありません。

サフィさん:母語でないと気持ちが入らないというのは、その人次第だと思います。

児嶋:私は、福井市出身で、福井のアクセントは実は特別で、一型アクセントと言われる地域で、関東アクセントと関西アクセントが混じり合い、言葉に対して、どこにアクセントを置くべきかが頭の中でわからない場合を指します。大学卒業後、京都府の宇治市で小学校の教師になったのですが、国語の本を読んでも、この地域がどちらにアクセントがあるかがわからないものですから、「まず、読んでね」と子どもに助けを求め、ひとつづつ、この辺のことばのアクセントを学んだ経験があります。日本語の中でもいろいろですから、標準語の日本語と思って来ても、関西ではまたちがったという経験があると思います。

M・Fさん:最近は、若い女の人は、もっとはっきり言ってもいい感じがします。

サムさん:カナダのトロントは人口の半分が移民であり、いろいろな顔やいろいろな言葉が飛び交うのが当たり前の世界でした。日本に来て、どちらを向いても同じような顔ばかりで。そちらの方が大きな驚きでした。
藤田さん:電車の中であまり話さないのは、特に若い人は、知らない人に対して「すましている」のだと思います。「すます」という言葉を知っていますか?
岩森さん:興味があったら、「あんた、どう思う?」と聞いたらいいですよ。

S・Sさん:日本の若い人は話かけてきますね。英語で。

M・Fさん:外国に旅行に行くと、何人などは関係なく、よく話しかけてきますね。日本で話しかけて答えないのは、かっこつけてるからでしょう。

M・Oさん:私は、以前は、外国人が前に座ると、必ず話しかけていました。

サムさん:若い人は、外国人が日本語で話しかけると雰囲気が変わると思います。バスの中で中学生のグループがいて、「白人」とか言っているのを聞きました。日本語で「ありがとうございます」と言ったらびっくりして、英語で話したそうでしたが。

M・Fさん:学校で外国人と会ったら、話をしようと言ったらいいと思いますが。京都の人は結構保守的ですが。

S・Sさん:話しかけやすい雰囲気もありますね。子どもや犬といると、誰でも話しかけてきます。大学生で別府に鋳たとき、日本語はまだ全く、ゼロだったのに、おばちゃんに「こんにちは」と言ったら、おばちゃんから日本語のシャワーが降ってきました。

K・Wさん:イギリスに住んでいましたが、イギリス人は、世界中の人が英語を話すと思い込んでいる雰囲気がありました。

亀田さん:大阪でも、おばちゃんは、関西弁で誰にでも話しかけますね。京都も今は結構話しかけますが。ちょっと前までは、京都市内の観光は中国人が多かったですが。いなかへ外国人が行くと喜ばれますね。

サムさん:嵐山では、全部英語で話しかけられました。亀岡は大分知られているので、ちがいますが。

S・Sさん:若いママなどは、自分の妻のヌーラに対しても気を使っているようですが、おばちゃんは、「やせたんやないの!」などと、ぱっと言い、バリアを感じないですね。

K・Iさん:話しかけられると、“What do I say to him?“(なんて言ったらいいの?)とどぎまぎしているのが顔に出ますね。

サムさん:こちらが何も言わないと、どう対応したらいいのかがわからないようですね。日本語ができない人だとどうしていいのかわからないという気持ちが顔にでます。それで、日本語で話すと、ほっとしているのがわかります。

K・Iさん:先ほど、サムさんがライプチヒ大学のMalinowskiさんに影響を受けたという話をされましたが、私の孫もドイツのライプチヒ大学に留学していたことがあり、何かのつながりを感じます。この人がなぜ、ニューギニアで研究をしたのでしょうか?

亀田さん:先ほどに続けていうと、英国の大学にいたM氏は、オーストラリアに旅行中に、第1次世界大戦が始まり、オーストリア・ハンガリー帝国国籍だったM氏は、その地域がドイツ領となり、英国はドイツに参戦し、M氏は当時英国に帰国できなかったようです。それで、ニューギニアには行けたので、研究対象にしたと書かれています。後にオーストラリア人の女性と結婚しました。

T・Oさん:GSに初めて最初から最後まで参加しています。西宮の兜山の話が出ましたが、西宮は関西でも文化都市で、質が高い町です。私はグンゼで働いていましたが、西宮に5年間住んで仕事をしていました。タイのグンゼにもいました。当地は、「日本の常識は非常識」と思われるほどのちがいがありました。6人の日本人がタイの人と共に仕事をしていましたが、ちがいが大きくコミュニケーションができないと会社の成果にもつながらないと思い、通訳の人数を3倍にしたりしました。すると、2年間で黒字に転換ができました。互いに理解できないと仕事もできないですね。

サムさん:私は、自分の先祖が日本人ではないかと思うほど日本が好きです。

児嶋:サムさんやS・Sさんを入れて、1.5時間をあっという間に越え、2時間近く、だれも話さない時間が10秒もありませんでした。サムさんには、また2021年度もどこかの月にGlobal Sessionにゲストとして来てもらうようお願いしました。

2020年9月12日(土)第333回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2020年9月12日(土)10:30~12:30
場所:ガレリア3階会議室
ゲストスピーカー:北神圭朗さん
コーディネーター:児嶋きよみ
参加者:12名

 今回のタイトル:Experiencing  Different Cultures(異文化交流)

参加者の自己紹介

北神さん:あいさつ:坂本先生に紹介をいただき、参加しています。生後9ヶ月で父の仕事でアメリカに渡り、18年間滞在していました。帰国後、大学を卒業してから、大蔵省に入り、その間 アメリカの大学に派遣留学もしました。その後、国会議員にもなりましたが、今も、もう一度国会に行くようがんばろうと、各地にポスターが出ています。

E・Tさん:32歳です。京都府出身。今は南丹市の工場で働いています。英語を話したいと思っていますが、なかなかできないので、日本語ででも。映画を見たり、身体を動かすことが好きです。友達といっしょにのみに行くことも好きですが、今はコロナ禍であまり行けませんが。

M・Fさん:このGSの最初からのメンバーであると思います。東映の映画村にも勤務し、退職後はNPO法人京都映画クラブを建て、事務局長をしています。小学生に映画の撮影などの手ほどきをし、DVDを作成したりしています。滋賀県などで実際に撮影もしました。京都シネマフェスタなどで上映もします。

Y・Iさん:コーヒーの販売店をしていくつか持っています。政治家の北神さんなので、参加したいと思い来ています。「女性がどう生きるか」を真剣に考えていきたいと思っています。コーヒーブームが来る前から、世界各国に回出しに行き、20年ほど前から英語を学び、アメリカ大陸の高地にも出かけ、その土地の人たちと交渉してきました。スペイン語圏であっても、英語で話が通じますね。私は、太秦で生まれ、映画村も近くで映画も中学生のころからよく見ていました。買い出しに外国に出かけるときにも、機内で映画を見られますし。

N・Sさん:「みんなのネットワーク」の代表をしています。北神さんは、ダボス会議に参加されたということを知り、その英語力に驚き、このGlobal Sessionに紹介しました。

R・Sさん:いっしょにひまわり教室の指導をしています。参加している子どもたちは、コミュニケーションは取れるが、学力としての成績はあまり伸びないというその理由はなぜかという課題を考えています。北神さんは、子ども時代は家では、日本語、外では英語であったはずで、どのように学力をつけられたのか、聞いてみたいと思い、参加しています。ダボス会議に参加された方にお会いするのも、初めてです。

Y・Nさん:畑野町に住んでいます。長く中学校の英語教師をしていました。多分どこでも一番年齢が高いでしょう。英語を話す機会に最近出ていないので、ここに参加しました。84歳になります。北神さんは、国会議員時代に、畑野町に水道を引いてもらいましたが、それ以来のお付き合いです。厚生大臣であった桝添さんが「畑野町に水道を供給するために30数億円出します」と言われたのを覚えています。この北神さんをもう一度国会へと支援していきたいと考えています。英語を聞きたくてここに来ています。

H・Kさん:大津市から来ています。このGlobal Sessionは、2004年くらいから参加していると思います。仕事はツアーガイドをフリーでやっています。ヨーロッパを中心にしていますが、ニュージーランドや中国、チベット、ウイグル、モンゴルなども行きました。ダボスも言ったことがあります。また、日本へ来るツアーのホームステイなども斡旋し、連れていったりしていました。今年はほとんど無かったのですが、今は、ヨーロッパはOKになったようです。

サム・シードさん:カナダ出身の国際交流員です。去年の夏から来ていて、2年目になります。高校生の時から日本の文化に興味を持つようになりました。大学3回生の時に、関西学院大学に留学し、その後、試験を受け、再来日しました。今年はコロナで来日する外国人がいないのですが、日本人との交流が趣味で楽しんでいます。カナダはトロント出身です。

T・Oさん:大井町に住んでいます。会社を退職して15年目ですが、市民活動推進センターで勉強させてもらっています。高齢者の活性化が必要で、政治家も巻き込んで案内状を書くなど必要かと思います。北神さんは、信頼できると感じていますので、少しですが応援できればと思っています。

グローバル・セッション開始

北神さん:これは個人演説会ではないので、みなさんとお話ができればと思い、参加しています。

私は、変わった経歴を持っています。京都で生まれましたが、9ヶ月でアメリカに渡り、18歳までいました。

父はどこかに務めていたわけではなく、最初はつまようじを売るような商売をしていました。その後は、日本で生産された螺子をアメリカに売るような仕事をするようになりました。金融機関に追いかけられたり、つらい時期もあったようですが、最後には、ヒューストン、アトランタ、ダレス、ロスなど4カ所に支店を持つようになり、終わりは良しのようです。

小さいころから、「我々は移民として、アメリカに来ているのではない。日本人としての魂を忘れるな」とよく言っていました。私は、現地の学校に行っていたので、アメリカ人という意識があり、オリンピックでわれわれ(3人兄姉の長男)がアメリカを応援すると悲しそうでした。

でも、私は高校生になると、アメリカ人と日本人の価値観のちがいが見えてくるようになりました。

これは、家庭環境から来ているのかもしれませんが。例えば、クリスマスになると、父は「キリスト教徒でないし」と祝うこともせず、母は「アメリカの生活に溶け込みたい」と普通にやりたそうでした。ところが、正月はおせち料理をしっかり作らされていました。このように夫権をしっかり使う父でした。

私は、当時モータークロスで走り回っていて、倒れた友達の自転車の上に飛び乗り、自転車を壊してしまったのですが、子どもにでも賠償を請求されたのを放っておいたら、”You Japanese are exactly what my father said”(おまえら日本人は親父が言っていたとおりだ。真珠湾で戦線布告する前に攻撃した)などと、親友だと思っていた友人に言われ、そのように思われているのかと大変驚いたことがあります。

また、“”Because of you Japanese, my father was laid off”(おまえら日本人のせいで親父は首になった)と言われました。

これは、クライスラーに務めていた親父は日本人が技術を盗んで安い車を作り、アメリカに売りつけてクライスラーも売れなくなり、合理化で親父が失業したと言うのです。

このように、アメリカ生活は楽しかったと思いますが、アメリカ人としては差別あるいは、区別されていると感じることもありました。

もうひとつは、”How is the Emperor doing?”「天皇陛下のご機嫌は?」これは、ずっとやっていたバスケット部のコーチのことばです。突然、バスケの練習の準備中に、言うのです。

帰国して、電車の中で英語を話していたら、話しかけられ、アメリカに18年いたというと、「NHKのラジオ体操を知っているかと問われ、「ラジオ体操を知らなければ日本人ではない。」とも言われました。

帰国して感じたのは、日本の方が「日本」にこだわっているのではないかということです。

特に京都の文化はアメリカ文化と言われるものとは、全く反対なのではないかと思いました。

アメリカ文化では、「何でも語る方が好ましい」と思われています。

京都の文化は、「求めるといやがる」だと思います。

京都大学に通いながらも、自分がどっちつかずだなあと思っていました。親父の教育方針で土曜日には、日本語学校(日本人学校)の補習校に行かされ、土曜日の8:30から、5:00まで日本語での教育を受けていました。行くのをいやでいやで仕方がなかったのですが、土日はアメリカの友達たちは、よく遊んでいたので、自分だけが補習校に行くなんていやだいやだと思っていました。

でも、日本人学校は、エリートサラリーマンの子どもが2年くらいの範囲で父親が異動するので、同じ日本人学校クラス意外には、外国語を学んでいる暇がないという理由もあります。

でも、自分はここに週に一度でも、補習校に通学していたので、日本語を話す成長過程はここまでやれたと思っています。 

アラビアのロレンスの物語の中で「知恵の7様」という言い回しがありますが、これは、アラビアにいたロレンスがトルコに対して反乱を起こさせる話ですが、彼は、この中で、「2つの文化のベールをはずしてすかして見るとそれは、狂気だ」と言っています。

このように何か大きなちがいがあると意味でしょう。

私は、いやいや補習校に行っていたので、母親が学校から「やめたらどうですか?」などと言われていたようです。

しかし、親父は、むりやり日本人学校の補習校に行かせていました。

私は長男ですが、妹と弟がいます。彼らは二人ともアメリカ生まれのアメリカ育ちで、アメリカの方が生活しやすいと言っていますが。弟はいやいやながら、日本の会社に就職しています。

私は、高校生の時にいろいろ友人から言われたりして、自分は日本人だと思うようになりましたが。

自分の経験から感じることを申し上げれば、“What is the True meaning of prejudice? と書いていますように、「偏見」「差別」の真の意味は何か?

ここに書いていますように、「アメリカ人だから・・・」とか、「日本人だから・・」とか、いっしょくたにして判断をする。自分の感覚で判断し、個性を認めないというような体験があると、自分が良いと思うことも実は、偏見である場合があると思います。アメリカの作家でT.S.エリオットという作家がいます、彼は、後に英国に帰化しました。

アメリカには、自己主張の文学が多いのですが、イギリスの文化の元では、ビートルズなども含めて第3者のことを描いているアーティストが多く存在しています。

これも、彼の帰化の要因かもしれません。

私自身は、「異文化交流」はすべきと思っています。

でもそのためには、自分の立地する文化を持たないと難しいと思います。

「国際交流」では、国と国とが交わると言う意味ですが、他の海外の国に行ってみないと他とのちがいが見えなくて、根無し草になってしまうと思います。

私は、現在53歳ですが、アメリカから帰国した大学時代から、日本文化の能をやっています。日本の文化の基礎になる何かを持って居る方が流されずにすむと考えています。

児嶋:先ほど北神さんが言われていた日本人学校の教師として、夫が1985年ころに家族でブラジルのベロ・オリゾンテに行っていました。サンパウロ・リオに次ぐブラジル第3の都市ですが、そこには、日本企業で仕事をする親と共に赴任した家族のための文部省からの教師派遣の学校がありました。2人の娘もそこに行き、3年間過ごしています。この町にはブラジルへの移民の2世・3世も多かったのですが、ほとんどが現地の学校に通学し、授業料も高いので、土曜日の補習校はありませんでした。そこで、私はポルトガル語を真剣に学び、英語も話せるようにとついでに学んでいたので、先にやり、初級の指導者にもなっていた中国語と大体3カ国語を話せる状態になって帰国しました。その後は、ずっと亀岡市の外郭団体で定年まで仕事をし、その後は、自分の仕事を論文としてまとめたいと、立命館大学博士課程に入学し、7年間を過ごしました。退職後も2014年からひまわり教室を開始し、大学院生と兼ねながら、2020年度は7年目になります。

M・Fさん:北神さんは政治家ですが、私は、現在の政治にはいろいろな不満があります。政治家から「これをやろう」という考えが見えてこないのも原因です。国会議員の数を減らし、必要経費を減らし、地元の声を吸い上げ、現実化することが必要と思っています。でも先ほど、北神さんが国会におられた時に畑野町に水道が開設されたというお話を聞きましたが、そのような政治家はとても少ないと思います。小泉内閣の時にも印象的なことばを使うわりには、軽いという印象を持っていました。野党も立憲民主党が立ち上がりましたが、なかなか野党も固まらず、日本の若者のための未来は明るいとも言えない状況です。「ミサイル防衛」などと軽く言い出しているが、世界が日本をどう見て入るかも視野に入れなければならないのに、政治家が信用できません。

北神さん:私は現在無所属で、国会議員の定数は減らしたらいいと思います。けれども、鳥取県や島根県など人口割りで定数を決めると、出せないような府県が出てきて問題は多いです。官僚の人数も中曽根総理時代から減らしてきていて、1省で、いろいろな事をやっていて、かなりいっぱいいっぱいです。若い官僚の7割がやめたいと考えているとの調査もあります。

また、中国がガス油田に入り込み、先のことを共に考えなければならないのに、目先のことばかりに追われ、対応できていません。信念の話もありましたが、戦争の犯罪のことも一致していませんし、「阿闍梨餅を持ってきたから、やめてね」と言っているような目先の対応ですね。

現在の国会議員の8割方は、地域のことを思ってはいないと思いますが、国民が選んでいるのですが。

英国のチャーチルは、「選挙区は変えなければならない」と言ってきましたが、日本は、「つながりを重視する」という方針で、選挙区は全く変えていません。

また、最近の政治家の判断基準も変化してきています。

財政的には、日本は、ひどい状況です。

例えば、医療、年金、介護のための予算は、全体の三分の一、借金の返済に4分の1、地方への交付金は三分の一です。日本の場合は税金の低負担・中くらいの福祉です。

アメリカは、低負担、低福祉です。これからの若者が結婚しやすくするためにも家族支援をしなければならないと私は考えています。でも年寄りから文句もでるでしょう。

このようになってきたのは、戦後、「国家とは何か?」とあまり考えてきませんでした。これが原因かもしれません。

M・Fさん:給付金の話もありましたが、ネット環境が日本は遅れていますね。中国や、韓国の方が進んでいます。

Y・Nさん:アメリカでは現在“Black Lives Matters”という運動が盛んですが、テニスの大坂なおみさんも毎回マスクに名前を書いたのをつけ抗議していますね。アメリカの白人の意識は、黒人に対しては、400年間も奴隷の売買をしてきたので、差別意識も大きいですね。でも人種で政治を決めるのは危険です。”All lives matters”とトランプ現象は、白人でも苦しいのだとも言っていますね。アメリカの労働者は、トランプになってから、白人の逆差別だとも言い出していますね。

S・Zさん:白人と黒人という人種的なちがいはあるのですが、日本にいると、白人だからなどと見られることは少なくて、 カナダにいると、「白人だから、こういうことは言わない」などと黒人とのちがいを話題にすることが多いと思います。

北神さん:”How are you?と英語で聞いたとき、heとかshe とか言わないでほしいと言われることがあります。外見でLGBTを判断することはやめてと言われ、あまりにも差別を形で表すことが増えて、「白人」であり、「男性」ですみませんというような雰囲気ですね。

Y・Iさん:日本で「男でごめん」と思うのは、1%くらいでしょう。日本の政治家の女性の数は、107位で、下から30番目くらいだったと思います。日本の女性の立場を男性は理解しているのでしょうか?カナダは政治家の半分は女性ですね。アフリカのルアンダは、女性の政治家の数は、世界で7位です。「アフリカのシンガポールにしよう」と声をあげ、レジ袋も2007年に禁止し、以来、月に1回みんなで掃除をしている日を設けているようです。日本の環境もだめになって来ています。アメリカの傘の下に守ってもらって名誉白人などと思われて長く考えてこなかったからでしょう。

M・Fさん:私は、よく道を歩くのですが、女性のドライバーの方が、横断歩道で渡ろうとしてもゆずらないですね。長野県はなぜかちがうようですが。

T・Oさん:同志社大学の村田先生に聞いたのですが、「今、将来を見据えて、考えないといけない」と聞きました。企業の寿命は30年として考えておかないと。昨年ドイツへ行きましたが、小さな町でも裕福そうな印象がありました。亀岡も人口が減っても幸せを感じる町にしたらと考えています。30年先を政治家もいっしょに見てほしいと思います。将来への論葱がないですね。

N・S4さん:2021年の5月には北神さんにお願いしています。

Y・Iさん:日本の古典は大事にされていない気がします。日本の伝統を守る学校を作ってほしいですね。三味線なども作る店が廃業されたり。おしろいの製造会社もなくなったり。歌舞伎などを若者に見せて内容をしらせることもいいですね。

M・Fさん:子どもの映画作りのNPO法人を作っていますが、子どもに映画のアナログの作り方も教えています。京都府から「技術者への表彰」として30万円をいただきました。

北神さん:時代劇にも職人がいますね。アイデンティティは作る物と私は考えています。自然には手に入りません。でも日本人は苦手のようですね。アメリカンドリームというのも作り物だったと思います。女性については、働きたい女性には現状は気の毒と思います。働かざると得ない女性も多いですが、男性優位の中では大変です。非正規雇用の労働者の女性の年収は170万円で、女性の4割がその中に入っています。今は雇い止めもありますね。

Y・Iさん:行政では、決めつけが多いし、書類の作成も難しいです。補助金の申請でも。

M・Fさん:技能実習生も調整弁のようになっていますね。これは大きな問題ですね。

児嶋:亀岡市も外国籍住民は1000名を越え、技能実習生も昨年半年で100名ほど増えていて、減りはしませんね。

2020年7月25日(土)第331回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2020年7月25日(土)10:30~12:00
場所:ガレリア3階会議室
ゲストスピーカー:エニ・レスタリさん(インドネシア出身・インドネシア語講師)
コーディネーター:亀田博さん(大津市在住・ツアーガイド)
参加者:7名

 今回のタイトル:How corona affects our daily life
(コロナ禍がいかに日常生活に影響を及ぼしているか)

参加者の自己紹介

Sくん:高校2年の17歳です。児嶋きよみさんは、祖母です。

Uさん:京都新聞の記者です。取材をよろしくお願いします。

Iさん:ネイティブカメオカンです。少人数の参加者と聞いて、これは参加しなければと思って参加しました。(ひまわり教室の指導者)

Fさん:ようやくビジネスができてうれしいです。でもコロナも増えていますが。NPO京都映画クラブを主宰していて、今年は今までに3コのイベントを予定していましたが、すべてキャンセルになりました。子どもたちに映画作りを教えるカルチャー講座や、京都映画フェスティバルも、映画村体験なども春にはまったくできませんでした。

Mさん:高槻にあるJT生命誌研究館のスタッフです。春はコロナで閉館していたのが、最近は人数制限をしながら、予約したグループの参観を受け付けています。(昨年のジュニアワールドフェスタのゲストとしてガレリアでお話をされました。また、2020年2月にはGlobal Sessionでのゲストに来ていただきました。)

児嶋きよみ:このGlobal Sessionは、亀岡交流活動センターで1999年に始まり、2011年に私の退職後は、オフィス・コン・ジュントとして主宰をしています。毎月1回開催し、今回は331回目です。2020年3月・4月・5月は残念ながら開催ができなかったのですが、6月から再び開催できてとてもうれしいです。少人数の参加者でのセッションが目的で、約束ごととして、「だまって聞いているだけでもいい」「「コーディネーターがいますが、当てることはしない」「どこから対話に入ってきてもよい」があります。

グローバル・セッション開始

亀田(コーディネーター:以後Cと記す):では、エニさん、簡単に自己紹介から始めてください。

エニ:少し遅れて着いてすみません。京都市内から亀岡への道がすごく渋滞していました。インドネシア出身で、日本に住んで20年間ほどになります。1993年に(考古学)研究者として来日し、いったん帰国し、1996年に再来日して京都市民になりました。今はフリーランスのインドネシア語講師として大学などで教えています。一人息子がいて、その子が今年大学に入学しました。

亀田(C):では、少しずつ書かれたエッセーを読んでもらって進めていきましょう。

エニ:読む(児嶋訳の1)「コロナ禍の中、息子さんの大学入学後の住むところを探して毎日のように、京都・大阪間を電車やバスで行き来していた。その時、毎日マスクを購入するために近所のコンビニに朝の5時から並んだりした。その後、マスクはオンラインでの購入に切り替えた。」

エニ:毎日の生活に大きな影響を受けましたね。

亀田(C):マスクの話もありましたが、最初は高いし、少なかったですね。インターネットで購入もできるようになったのですが、「アベノマスク」も届くのが遅かったですしね。

エニ:(正面にマスクの映像が映される)ネットで購入した数は相当多く、アベノマスクは、その下にあるちょっとでまだ、開封していません。家族は夫の母も入れて4人なので、かなりの数のマスクが必要です。

エニ:読む(児嶋訳の2と3)2「stay home」と政府が言い出してからは、大学の講義がオンラインになり、大学に行かなくてよくなった。しかし、それぞれの大学により、オンラインのシステムが違うので、その方法を理解するまで1ヶ月ほど時間がかかった。学生の側もコンピューターを持たない学生は、携帯でやりとりし、文字が小さすぎるなどいろいろな問題があった。」

3.「夫も家でのテレワークになり、自宅は、オフィスであり、教室になった。息子も自宅で大学の授業をオンラインで受けはじめるようになった。」

M:私も長い間、テレワークを家でしていましたが、その周りに子ども達が飛び回り、大変でした。

F:オンラインで教えておられたと思いますが、通常とオンラインでのやり方とちがいがあると思いますが、慣れましたか?

エニ:4つの大学で教えていますが、それぞれに求める方法がちがい、オンラインの使い方もいろいろですが、例えばZOOMで自分が学生にコンタクトを求めると、無料時間は40分間だけです。それで、90分の指定の授業時間を続けるためには、40分で一回切り、再度つないでもう一回の40分間の授業をする方法をとらなければだめでした。他の方法で大学主催の講義もありますが、人数制限が9人とかで、それ以上になると、もう一回べつの時間に別の学生に対応しなければならないとか。

エニ:読む(日本語訳の4)「インドネシア出身の京都近辺に在住の方達のコロナ禍での生活が気がかりだった。やはり言葉にも不自由しているインドネシア人のコミュ二ティ住民も多く、コロナにかかった場合の医療機関への心配もおこっていた。私は、そのケースごとにちがいがあることを説明すると、皆、おちついて来たようだ。」

エニ:インドネシア領事館も積極的に関わりを持ってくれて、インドネシアの歌をインドネシアに在住の友人と時差を考えながらオンラインでいっしょに歌ったこともあります。

児嶋:シリア出身の知り合いの方がひまわり教室に子どもさんを連れてきて、子どもの勉強を見てもらっている間にシリア在住の姉と国際電話のラインのようなシステム(無料)を使い、1時間ほど電話をしていました。ちょうどシリアの午後1:00が日本時間の午後6:00なのだそうです。(ひまわり教室は、午後6:00~8:00)

エニ:インドネシアにも無料の電話システムがあります。インドネシアとの時差は2時間ですが。東京の老人ホームで仕事をしている友人がいて、少し熱があったら、PCR検査をするように言われたが、もし、陽性だったら、SNSなどで広まるのではないかとパニックになっていました。その友人には、この日本に20年間住んでいるが、その対応に差別はないと答えると安心しました。

その他にも日本に留学している学生たちも不安になっていました。留学生と言ってもいろいろあり、文科省からの奨学金をもらっている学生のいれば、日本語学校に通いながら、決まった時間以内でのアルバイトをしなければやっていけない学生もいます。コロナでそのバイトも無くなった学生もたくさんいるようなので、まず、コミュニティでは、募金活動を始めました。また、インドネシア政府も学生たちにアンケートを取り、必要な物資として、マスクや米、さとう、油などを用意し、毎日の食材も配布する事業もありました。大使館からは、まず、マスクが配布されました。

また、SNSでうわさを広めた人を割り出し、コミュニティから学生代表にその内容を除去するよう要請もしました。

児嶋:以前に、エニさんが質問をされていたと思うのですが、4月1日などの決まった日より3ヶ月前に日本に滞在していなければ、特別給付金の10万円がもらえないという誤解がありましたね。3ヶ月の観光ビザでは無く、学生ビザや就労ビザは3ヶ月以上の滞在を認めているので、全員がもらえるということを認識するまで結構時間がかかったようですね。その後、支給について、外国につながる人たちとつながりのある知人から聞いたのですが、特別給付金としてもらった10万円は、多くの留学生や就学や就労している人たちは、母国に送金し、たいへん喜ばれたとか。

エニ:このお金の支給についても、たくさんの質問がありましたが、日本政府を信じて従えばいいとコミュニティの人たちにSNSで伝えました。

F:この10万円の話もありますが、事業をしていて、このコロナ禍で事業ができなくなった場合に、事業継続の資金として請求する権利もありますね。この場合は100万円ほどもらえるはずです。

エニ:私もフリーランスの講師をしていますが、学生の息子は大阪の大学に入学し、大学に通学するために近くにアパートを借りたのに、オンラインの授業になり、京都の自宅に帰ってきました。でも、何ヶ月も家賃は支払っていますが、その保証はないのでしょうか?

F:家賃そのものの100%の補助はないと思います。ただ、親の収入にもよりますが、家賃×6か月の三分の二がもらえるかもしれません。ただ、賃貸契約書などさまざまな契約書も必要です。

亀田:私もガイドの予約が全部なくなりました。その中で、国によって支援の仕方はいろいろちがいがあるようです。英国では、消費税などを20%から5%に落とすとか。6ヶ月間限定のようですが。中国もいろいろあるようです。インドネシアはどうですか?

エニ:税金は、インドネシアも高いと思います。

児嶋:ニュージーランドに住む日本人の知人が、ずっとこちらに住むつもりだけれど、日本のような年金システムがこちらには無いので、日本の年金だけは払い続けていて、もらえる年齢になったら、日本人としてかけ続けたので、それをもらいたいと思っていると言われたのを覚えています。

F:外国籍の人も年金は支払っていますよね。

亀田:保険のシステムもありますね。

エニ:(読む)「数ヶ月間、必要な洗浄やマスクをつけ、注意をはらってすごしてきた。マスクをすることで、人にもうつさず、また、うつらないように気をつけている。今も見えない敵としてのコロナと共存しようと試みている。」
(映像でアルコール消毒液を映す)
車の中にアルコール消毒液もおいてあるのですが、このアルコールの表面には、ムスリムのハラルマークが書いてあります。イスラム教徒(ムスリム)は、アルコールを飲まないので、消毒にも使わないはずですが。ジェルタイプの消毒剤もあるのですが、息子がジェルタイプがきらいなので、このアルコールを使っています。イスラム教徒といっても、私はもとは、ジャワ島出身なので、ジャワ文化の方が強く残っているのです。ジャワ文化ではおそなえもあり、亡くなった方へお供えをし、40日に法事のようなこともしています。イスラム教ではその文化はないのですが。

それと、インドネシア人はパスポートなどにも宗教の名を申告する法律があります。

F:ムスリムの方は、一日5回のお祈りをすると言われていますね。

エニ:頭の中で時間を設定してお祈りをします。インドネシアは日本のようなはっきりとした四季がないので、あまり時間に変わりはないのですが。朝・昼・昼・夕方・夜の五回です。例えば、今は、朝の3:22・昼12:03・昼15:50・夕方19:07・夜20:39になります。夕方にお祈りの後で、ごはんを食べ、その後、夜に最後のお祈り時間になります。

児嶋:エニさんの言語はどのような順で学習しましたか?

エニ:まず、ジャワ語で、インドネシア語(共通後)、英語、そして日本語を学びました。日本語は、1995年からです。その中で一番好きなことばは、「もったいない」です。お菓子なども日本ではきれいにパッキングしてあるし、それもはずしたら捨てるのはもったいないなあと思います。他の国の人はほとんどシャワーですが日本人はお風呂に入ると思いますが、それももったいないかと。きれいになりますが。

インドネシアと日本の文化のちがいはいろいろありますが、その中でインドネシア人は「ソーシャルディスタンス」を取るのがとても苦手です。ぴったりくっつきたいのです。

さて、12:30になってしまいました。時間です。(グローバルセッション終了)

2020年6月6日(土)第330回グローバル・セッション・レポート

コンテント

開催日:2020年6月6日(土)10:30~12:00
場所:ガレリア3階会議室
ゲストスピーカー:品田井サフワンさん(シリア出身・会社員)
コーディネーター:児嶋きよみさん
参加者:21名

 今回のタイトル:私の歩み(日本語)

グローバルセッション開始

今回は、サフィさんのお話がいちおう終わってから自己紹介を始めました。

事前配布資料にに書かれた内容を段落ごとにサフィさんに読んでもらいながら始まりました。

サフィさん:今回のGlobal Sessionでの使う言語をどうしようかと考えていました。英語でも良かったのですが、みなさんとの共通言語は日本語なので、日本語がいいかと思い、日本語で書き、話をします。私は、英語、アラビア語、スペイン語、大分弁も話します。名前は、サフワン・ヒンダウイと言いますが、ニックネームはサフィです。聞きたいことがあれば、いつでも私の話を止めて、聞いてください。「自分について」と言っても今までに経験してきたことだけですが。

1978年に生まれ、2001年に日本に来ました。それまでの23年間は、シリアにいて、その後日本に来てからも20年間ほど過ぎました。Open book(かくすことなく)で、これから話していきます。

児島(コーヂネーター:C):GSの事前配布資料をみなさんに送り、読んできていただいているのですが、忘れていることもあり、いつも最初に切りながら、ゲストにコメントを読んでいただいて、お話をすることにしています。読んでいただけますか?

サフィさん:シリアでは、誕生日を申請するときに、実際とはちがう場合が多いです。私も、証明書などでは、8月25日となっていますが、実際には、7月24日らしいです。ご存じかもしれませんが、ニュースなどに出てくるアレッポという大都市の出身です。父も母も教育者で、父は校長をしたあと、教育委員会にも勤めていました。姉二人も教育者です。日本の大学のAPU(立命館アジア太平洋大学)を卒業しました。日本の大学なんて、授業料は相当高いはずと思っていたので、どこかに留学したいとは思っていましたが、絶対無理と思っていました。ところが、ある機会があり、申し込むと、学費の100%と、生活費も月に5万円も支給されることがわかり、それからは、日本への留学に向け集中するようになりました。このときの奨学金も今は母国とのかけはしになることで活かしたいと思っています。この大学では「Sustainable Tourism」という、「楽しむ観光だけでなく、現地の美しさを保ちながら」のツーリズムの方法について研究をしました。

Fさん:アレッポの大学にも進学されていたようですが、そこから日本に来たのは、個人的な理由ですか?それとも社会的な理由?

サフィさん:実はとてもつらい経験がありました。アレッポの大学では、経営学部に入学しました。経営なんていやだったのですが、卒業するまではがんばらなければとは思っていました。好きな科目は大学でひとりだけ、100点をとったりしていたのですが、きらいな政治・経済の教科は、勉強しないので、1年生の時にはずっとFでした。でも、2年生になり、これでは卒業できないので、他の教科を全部パスしてから勉強しようと思い、試験中も何も書かず、座って窓の外を見ていました。その時、職員が来て「何をしているのか?」と聞かれ、開始後30分を経過していたので、そのまま教室の外に出ました。その後、全体の試験結果の発表の時に、他の教科の中にも私の名前がないのです。理由を聞くと、あの職員が、自分の報告の中で、「カンニングをしていた」と記入したらしく、大学のオフィスで、全部の科目が零点になっていたのです。当時のシリアの大学の雰囲気は、学生の言い分が聞いてもらえる状況ではなく、他の人なら、自殺していたかもしれないような現状でした。そのことがきっかけで、留学を真剣に考えるようになったのです。

Fさん:それでも、ポジティブな考え方を持つことができたのですね。

Oさん:同じ年のOです。シリアは歴史的にも宗教的にも興味があり、探求したいと思っているのですが、メディアなどでは得られないこともあるのではないかと思います。先にサフィさんが言われた内容から、日本へとどういうふうにシフトされたのかと思っていました。

サフィさん:日本に来て19年たちますが、自分でも外から見てみるのと国内でだけみているのとでは、全然見方がちがってくると思います。政治についても、当たり前と思っていたことが、外に出たら、やはり変えるべきだと思うようにもなりました。その点で今、シリアのことを、もし、シリア国内にいたら自分にどう見えるかはわからないですね。今は、「共通点を見つけて、いっしょにがんばる」というふうに変わって来ました。日本国籍も取得しましたが、シリアを変えることができるのであれば貢献したいと思っています。

Oさん:テロリズムをじかに間近に肌で感じられていたと思いますが、どうして戦争をおこすのかなどいつも考えます。

サフィさん:今も日常的に、シリアにいる家族とやりとりしながら国の状況は聞いています。独裁体制やテロリズムも残念ながら存在しています。「自分たちが正しい」と考え、他の人の考えを聞けなくなることもあると思います。私は、考えの違う人は必ず存在するはずだが、どんな考えを持っている人たちとも共存することが大切だと考えています。「こんな考え方もあると」と言うことは続けて行きたいと思っています。きっとどこかでつながるだろうとも考えています。

Nさん:サフィさんの生き方として、外に目を向けてこられましたが、自分の生活中で「留学したい」と思うようになったわけと最初の経済学専攻から、日本で「観光学」に変わったのはなぜですか?

サフィさん:留学したいと思ったのは、アレッポの大学に入る前からです。大きな根拠はないままに、外国に行き、人の生き方をいろいろ体験したいと思っていました。何を勉強するかはわからないままに、好きな分野がコンピューター関係なので、それを使えないかなとは思っていました。でも当時、私には限られた道しかなく、シリアでやりたいことをやらずに、つらいまますごすか、留学してがんばるか、その二つのうちのひとつしかありませんでした。でも、留学は、両親も反対し、まわりの人たちも「日本に行って何をするの?だれもサポートしてくれないよ。きっと失敗して帰って来るよ」などと言っていました。でも、私は、それを無視して行くことにしました。昔の人たちの言い伝えとして、「舟で出発し、着いたらその舟を焼き尽くし、帰れない状況を作り、出発した」というのがあります。同じような状況の中で、安定した生活や問題のない日常を捨て、私に、「失敗するよ」と言った人たちを、見返してやりたいと思っていました。

Iさん:シリアの良い家庭から留学されたのだと思っていました。生きていることは、さまざまな選択の連続ですね。ひまわり教室でサフィさんのご家族といっしょにふれあいをさせてもらっています。サフィさんの子ども時代と今の子どもたちの元気度はどう違いますか?この違いのポイントを突き詰めたら、もっと世界に通じるアイディアというものがあるといえるのではないかと思っていますが。

サフィさん:昔と今の違いは、あいさつですね。挨拶を返さない子ども達が多いです。なぜなのでしょうか?まわりへの心くばりが足りなくなっているのではないでしょうか?20年前に初めて日本に来た頃は、電車の中でも中高生は、年取った人に席をぱっとゆずっていたと思いますが、今は、そのシートに座っていても、携帯を見つめていたり、寝たふりをしたりしてあまり子どもも席を立ちません。
私の子ども時代は、私は、実はとてもシャイな子どもでした。保育園の時もダンスの練習に恥ずかしくて参加出来ずに隠れていました。16歳のころも、父親が何かの申し込みにもついてきて、自分にはやらせませんでした。このような子どもでしたから、留学して最初のころは、ひとりで何もできず、つらかったです。私は、子どもたちには、何でもやらせてみて、彼らが最初は、失敗してもいいと思っています。

自己紹介

サムさん:亀岡市のCIR(国際交流員)をしていて、カナダ出身で、来日して10ヶ月になります。

Kさん:大津市在住で、ガイドの仕事をしています。外国に連れて行ったり、日本に来る人のガイドをしていますが、この4月、5月はほとんどキャンセルで、今年いっぱいは無理ではないかと思っています。コロナ禍のため、飛行機が飛ばないので。今はコロナ禍が中近東で多くなってきているので、気になります。

Yさん:ひまわり教室の指導者で、3月まで教員をしていて、今は千代川小学校で支援をしています。亀岡の日本語教室でも指導をしています。

Hさん:今まで35、6年間仕事をして来て、今は中学校で支援の手伝いをしています。その後5年間、子どもの家で手伝いをしていましたが、最近亀岡に帰ってきました。今後も楽しくやっていきたいです。

Nさん:京都市から来ました。ひまわり教室で、サフィさんの子どもさんといっしょに勉強しています。(大学教員・多言語絵本作りも)

Mさん:保津町に京都市から来て50年目になります。サンガスタジアムの向こうです。ホームステイの話が出ましたが、私たちもホストファミリーとして楽しいつながりを持っています。

Tさん:(絵本作家・ひまわり指導者)ひまわり教室でサフィさんたちと知り合い、シリアの話を聞きたいと思って参加しています。

Sさん:ひまわり教室で指導者。サフィさんたちとは、ひまわり2教室の合同イベントなどで会っています。シリアは今もつらい状況ですが、「橋渡しをしたい」というサフィさんの考えを聞いてすごいなと思っています。

上田記者(京都新聞):1年前に亀岡市の担当になり着任し、ひまわり教室にもおじゃましました。

Nさん:ひまわり教室でサフィさんの子どもさんたちと活動しています。子どもさんたちと外で調べ学習をしたりすると目を輝かせています。日本の道徳教育の中の思いやりやあいさつは大切だと思いますが、シリアでの子どもたちの心の成長はどのようにされているのかも知りたいです。(絵本などはどうですか?)

Iさん:亀岡の原住民として76年間すぎました。先ほどあいさつしても返さない子どもがいるとの話がありましたが、学校や近所では、「不審者に注意」などを呼びかえることも影響していて知らない人に答えないこともあるかもしれないと思います。この学校の長い休みで子どもたちも大きな影響を受けているはずですね。元気になるように、「こら、どあほ」とか、なんとか声掛けが必要かも。また、親がかまいすぎの場合もあります。(ひまわり指導者)

Yさん:ひまわり教室で指導をしていて、この休み中は、サフィさんの子どもさんたちを誘い、ウオーキングにも行きました。 (サフィさん:普段は、あまり歩かず、この日は10kmも歩いたようでぐっすり寝ていました) ホストファミリーの話がありましたが、私もホストをしたことがあります。

Yさん:ひまわり教室の読み聞かせを担当しています。(毎回、いろいろな本を読み、月に3回、年間36回以上、日本やいろいろな国の絵本やかみしばいを読んでもらっています。図書館からまとめて借りられるようです:児嶋)

Yさん:質問ですが、亀岡に住むことを選んだ理由は?

サフィさん:立命館アジア太平洋大学時代の友人がいて、10年以上前から、2年に一回ほど亀岡に訪問していました。卒業後は大きな会社に就職したのですが、家族ができてもっといっしょにすごせる時間が持てる会社はないかと探しているうちにその友人から亀岡の会社の話を聞いて、給料は下がりましたが、定時に帰れるし、大学のあった別府市に似て自然が豊かなので、ここにしようと決めました。語学を使った海外への出張の仕事もあり、楽しんでいます。

Fさん:映画会社で仕事をしていて、今は京都映画クラブという団体で映画の作り方を教えています。このGlobal Sessionは、330回目ですが、できたときから参加していると思います。海外へ旅行に行くとじろじろ見られるので、コミュニケーションを取ればそういうこともないだろうと英語を学び始めたことが参加の理由でした。そのころから、児島さんとも知り合いですね。

Yさん:大学生で初めての参加です。(Yさんの御孫さん)

Sさん:小学校の教員です。今は加配として外国から来た子どもさんの日本語の指導や人権教育を担当しています。ひまわり教室や多文化共生プロジェクトに参加しています。

Oさん:ガレリア3階の市民活動推進センターにいます。90ほどの活動団体のとりまとめをしています。ここには勉強のため参加しています。

Oさん:シリア出身の方と聞き、参加しました。20歳台にニューヨークに留学し、同じような経験があるのではないかと思います。今は40歳台でこれからもいっしょに勉強して行きたいと思っています。今は、グラフィックデザインを下にいろいろな活動をしていて、「地球規模で若者を育てる」ことに興味を持っています。留学したときには、自分の国の文化などを知らないことに気づき、もっと学んでいきたいと思いました。

Iさん:ガレリア職員で、日本語教室なども主宰しています。サフィさんのコメントで、「日本にいるけれども、シリアのことを大事にしたい」という考えがとても印象に残りました。

セッション再開

サフィさん:日本に留学したのは、APU(立命館アジア・太平洋大学)ですが、外国に行ったら先にFさんが言われたように、じろじろ見られると思っていたのですが、この大学はそのように見られず、みんなが多国籍人で、同じような雰囲気でした。

現在でも、「なんでこちらに?」と聞く人もいますし、じろじろ見る人もいますが、笑顔で返すと、友達になります。

私の子どもは今、亀岡の安詳小学校に通っていますが、外国出身の子どもはそんなに多くはないです。ある日、長女が落ち込んでいたので、「どうして?」と聞いたのですが、最初はなかなか答えませんでした。しばらくして、「英語しゃべって。」と言われることがよくあるそうです。彼女は、日本生まれで帰化したので、日本国籍です。母語も日本語です。 「いやだ」と言ってもまた、言われたのでしょう。「英語きらい」とも言っていました。

これを聞いて、親としてどうしたものかと考えました。ひとつは、学校へ行って説明し、なんとかしてもらう方法があります。もう一つは、他人とちがうことを自分にとって、プラスと考えるという方法があります。それを聞いて、長女の心は変化したようです。ポジティブな自己中心主義かもしれませんね。

このように、難しいことも、自分からそれに向かって近づいた方がうまく行くと思います。この後、映像で、シリア料理、シリアの世界地図や日本の世界地図などをお見せします。

どこの国も、世界の地図には、自国が一番真ん中に置かれます。シリアの世界地図では日本は、東の端っこにあります。日本の地図でもそうですね。なかなか中東は出てきません。

時間になり、セッションは終了

児嶋:また、続きをサフィさんに来ていただき、話していただこうと思っています。

2018年7月21日(土)第311回グローバル・セッション・レポート ゲストスピーカー:崎ミチさん

コンテント

開催日:2018年7月21日(土)10:30~12:00
場所:ガレリア3階会議室
ゲストスピーカー:崎ミチさん(同志社女子大教員)
コーディネーター:佐治佳代さん
参加者:6名

 今回のタイトル:京都に住む国際児の課題と研究

自己紹介

佐治佳代さん:アニーと呼んでください。京都市西京区に住んでいます。子どもたちに英語を教えています。インタナショナルスクール(幼稚園~高校)を作るのが夢です。

Nさん:GSは2回目の参加です。京都市左京区に住んでいます。関東から京都に来て4年目です。2年前に講座で清田淳子先生のあとをひきついで外国につながる子どもに関する講師をして以来、亀岡に何度も来ています。

Yさん:亀岡に住んでいて南丹市の学校の教員をしています。GSは初めての参加です。外国につながる子どもと保護者の学習支援教室のひまわり教室で指導をしています。

Tさん:宇治市に住んでいて、自衛隊員です。家は京都市右京区の京北町です。GSは何度も参加しています。学園大学の卒業生で、今もOB会などで何度も亀岡に来ています。

児嶋きよみ:今回はGlobal Sessionの311回目です。

崎ミチさん:カナダ出身の日系4代目になります。日本に来て22年目です。

Global Sessionのゲストとしては、2回目です。同志社女子大学の今出川キャンパスで、英語の教員としてIntercultural Communicationという講座を持っています。

現在は、大阪大学の大学院博士課程の2年目に在籍し、研究を続けています。今日のタイトルは、自分の現在の研究分野に関することなので、みなさまのご意見をお聞きしたいと思っています。

夫は日本人で、島根県隠岐の島の出身で、娘(小3)がひとりいて、京都インタナショナルスクールに通学しています。

崎ミチさんの研究課題

研究対象の子どもは小学生(5才~12才)である。次の3条件をあげる。

  1. 母語がちがう(外国生まれ)
  2. 日本で産まれたが両親が外国人、または、片方が外国人である。
  3. 公立の学校に通学している

*日本語で授業を受けている
*場所:京都府内
*外国籍児童(2年前の調査によれば、府内の小学校児童数128594名の内外国籍児童数は767名)しかし、日本国籍を持つ外国につながる児童生徒の数は、この数字に反映されていないことは疑問。
*成績にむすびつかない児童の内訳
a.学業に興味がうすい(理解がゆっくり)
b.怠けている
理由:理解ができなくても無視されている。孤独で友達がいない、文句を言われるなどさまざまな理由が考えられる。日本の移民政策指標は2015年の調査では、38ヶ国中27位である。

参考資料

移民総合政策指標(2015)
多文化共生の新時代 明治大学国際日本学部教授 山脇啓造
「4回目の調査結果(MIPEX 2015)が公表されました。第3回目の参加国にアイスランド、トルコ、オーストラリア、ニュージーランド、韓国そして日本が加わり、38か国となりました。具体的には、8つの政策分野(労働市場、家族呼び寄せ、教育、保健、政治参加、長期滞在、国籍取得、反差別)について、167の政策指標を設け、数値化しています。その結果、総合的な評価では、スウェーデンが1位(78点)となり、ポルトガルが2位(75点)、ニュージーランドが3位(70点)となりました。4位以下10位まで、フィンランド、ノルウェー、カナダ、ベルギー、オーストラリア、アメリカ、ドイツとなっています。ちなみに、日本はスロベニア、ギリシャと並んで27位(44点)です(最下位はトルコで25点)。(中略)
今回の日本の調査結果を政策分野別に見てみると、比較的評価の高いのが労働市場(65点、15位)、家族呼び寄せ(61点、20位)、保健(51点、16位)の3分野で、残る5分野は、教育(21点、29位)、政治参加(31点、23位)、長期滞在(59点、20位)、国籍取得(37点、23位)、反差別(22点、37位)となっています。近年、ヘイトスピーチ問題が日本でも大きく取り上げられていますが、反差別政策の評価が特に低いことが注目に値します。」

38カ国の「教育対策」の項目を比べ、移民児童生と「教育」に関する統合政策に関する「最悪のケース」のまとめ(移民総合政策指2015参照)(崎)
1. 移民の子どもに関心を教師が持たない。
2. 他の子どもと同様に扱う(特別な手当をしない)
3. 限界を決めない(ここまで以上のケースは特別に手当するなどの限界)
4. 母語に関心がない(以前は、学校でも、日本にいるのだから、外国語である母語を使わずに日本語を使うようにと言っていた)
5. 教員は今まで外国と接することがなく、不安や困った事への想像ができない
最悪のケースが起こる理由について
1. 日本の学校や社会が一斉共同体主義である
2. 出身国の文化や背景を知らない・想像できない
3. 子どもの文化のアイデンティに関心がない
4. 家庭の事情がわかりにくい・理解されないことに不満を持つ
5. 京都府内では、コミュニティがなく、散在している
6. 支援するにも資金が不足している。そのため草の根の支援に頼らざるを得ないが、その草の根団体の多くも資金不足である。
以上の事情をふまえて、自分の研究テーマは以下の3点である。
1. 京都府内の公立学校に通学する外国につながる子ども(国際児)を対象とする。
2. どのような支援が必要か
3. 京都府内の現在の学習支援の内情

方法:
1.インタビュー調査 
2.フィールドワーク
以前のリサーチ例:
1. 公立学校にリサーチした。
2. 学校での支援の内容はだれが、どこで決定するのか
3. 草の根団体の場合:支援の内容(ボランティアか・場所は・言語は・子どもの数等)
4.コミュニティがあれば、どのような支援をしているかをリサーチする
 
結果:学校と両親と両方に、何が必要なのかを問いかける必要がある。ただし、限界がある(needとsupply)。

日本の学校の先生はとても忙しく、子どものニーズにどう対応したらいいのかと悩んでいる。外国籍の子どもも日本籍がある外国につながりがある子どもも日本語の理解度が低い子どもはたくさんいる。

それぞれに学習支援が必要であるが、だれが、なぜやらなければならないかを、政府で検討し、どうするかを早急に検討する必要がある。

今までのように草の根活動に任せておくだけでは対応できない状況になっていく。

グローバル・セッション開始

児嶋:最初に1996年に日本に来たと言われていましたが、そのままずっと日本にいたわけですか?

崎:大学3回生の時に留学し、1年間いて、カナダに帰国しました。もっと日本を勉強したいと再度来日し、大学院も経て研究者になり、日本人と結婚し京都インタナショナルスクールに通う小学3年生の女の子がいます。最初は、日本の保育園に入れ、日本の公立の学校に行かせようと思っていましたが、インタナショナルスクールにも週2日行かせ、様子を見ていました。その後、小学校1年生は公立の小学校へ入れたのですが、やはりこの子にはインタナショナルの方が良いと思い、2年生で転校しました。研究の対象の子どもとしては、私はもともとフィリピンルーツの子どもを見ていました。でも、京都では、ネパール、インド、ベトナムなどが増加して来ています。

佐治(C):パラグラフ2を読んでください。内容は、どのような支援がされているか、支援は足りているのか、どのような支援を増やす必要があるのか、また、モデルとなる教室ではできて、他では何故、できないのかなどを問いかけていますね。私は、日本では、「ダイバーシティ」とか、「多文化共生」という考え方が遅れていると思います。このように求められているのだということを、広報していく必要があると思います。このような活動も保護者から求められているのかも検討して行く必要があるでしょう。また、保護者の所得も低いと子どもに関心がむけにくい環境があるのでしょう。子どもが将来何になりたいのか、親にもボトムアップして、何のために支援をやっているのか、問い続けていかなければならないと思います。先生にも。

Y:高校受験が控えて初めて勉強しなければ大変だと気がつくケースが今までにもありましたね。

佐治:そうなってから来るのですよね。幼稚園の子ども時代から、声をかける必要がありますね。真っ白なところに、勉強の楽しさを。

T:親などが情報収集しなければ、子どもだけでは難しいでしょう。

佐治:賛成ですね。

崎:親にも知らせることも必要ですね。

佐治:京都市か知らないのですが、京都人は伝統を守ることに一生懸命で新しい物を取り入れるから伝統も守れると思いますが。多言語ができる先生を用意するだけでなく、いろいろな背景を持つ子どもが増えると、今までの子どもたちも変わると思います。

児嶋:京都インタナショナルスクールにはいろいろな国の子どもたちがいるのですか?

崎:インタナショナルバカロレアを採用しているので、授業は英語で行われます。でも30ヶ国以上の子どもが来ていて、京都には、このような学校は1つだけです。関西フランス学院などもありますが、あれは、フランス政府が資金を出している学校で、授業料だけでやっているインタナショナルスクールは他にはありません。

佐治:授業料だけでやっている学校は、多分授業料も高いですね。貧乏でも行けるインタナショナルスクールを作りたいと考えています。お金がないから、塾にも行けない、行かない子どもたちがいますね。

崎:多くの親の考えは、「自分の子どもは日本語が話せるから、学習教室へ行かなくてもいい」とよく聞きますね。

佐治:外国人がいっぱいいる京都だからこそ、インタナショナルスクールが必要ですね。

T:インタナショナルスクールというと芸能人の子どもが行っているというイメージもありましたが。

崎:京都インターにも芸能人の子どもさんもいます。でも、多くは親の仕事で来ていて、3年くらいすると、帰国するケースが多いです。しかし、長期間在学する児童が増えて来ています。例えば、夫が日本人で母親が外国人で(逆なパターンもあり)、子どもは日本籍を持つ子どもも京都インターにはかなり増えてきました。

児嶋:このような子どもさんも多く公立に入っていますね。

N:崎さんの研究のテーマや課題を見ていくと、やはり崎さんの研究としての特長をつくり出す必要がありますね。中学校や高校ではなく、なぜ、小学校を対象にするのかなど。また、京都という立地条件を見て行かなければならないですね。まず、集住地域ではなく、点在していますね。これにもフォーカスするといいですね。どのような支援がされているかと、誰の立場として支援状況を見ていくかも大切でしょう。進んでいる外国との比較も大事で、多文化共生が進んでいる政策も見て行く方がいいでしょう。

崎:ドクター論文を仕上げることを目標にしているのですが、もっと、焦点を絞り、現実を取り上げる必要があると考えています。

N:京都は国際家庭が多いのですか?

崎:数字上は多いのですが。

Y:国際交流としてやっていても、南丹市は国際児までの支援はできていないと思います。核になる人がいないのも理由で、なかなか広がっていかないのです。農村部や山間部にも夫さんが高齢で奥さんが外国人で若い例がたくさんあります。車がないと町にもいけないような所に住んでいても、免許を取るにはそれなりの日本語力が必要ですしね。

児嶋:ひまわり教室に来て子どもは勉強している間に、お母さんが車の免許の勉強を指導者に見てもらいながら、取得したケースもありますよ。

崎:現在までもいろいろな研究や実践がありますが、いざ目の前にいると、「何をすればいいのか」と慌てて、絆創膏をはっていくくらいしかできないことが多いです。(対処療法のみ)
娘に京都インタナショナルスクールを選んだ理由をいくつか上げると、
1. 多様性がある(いろいろな国の、いろいろな世代の子どもも親も存在する)
2. 子ども達の持っている力の多様性を認めている。
例1:保育園に子どもが行っているときに子どもに絵を画かせた。
  公立保育園:ちょっとちがった絵を画いたら、なぜと問われた。
  京都インター:どの子の画もみんなちがう。
例2:先生との面談でも他の子とちがうことをしても問題にはされていない
 もちろん、公立でも学校によってちがいはある。京都の白川小学校には国際ルームがあり、ムスリムの子がお祈りをする場も設置されている。給食で宗教のちがいで食べられない物に対する処置も考えられている(崎)。